阿武隈は落ち着かない気分で、部屋の時計をふたたび見上げた。
針は、11時30分を指している。
入室してから、すでに40分が経過していた。11時過ぎには提督が帰ってくるという話だったが、いまだに提督私室のドアが開く気配はない。
座っていた椅子から無意識に立ち上がりかけ、思いなおしてふたたび腰を落とす。
深呼吸をいくら繰り返しても、気持ちは落ち着かなかった。
阿武隈は、眼の前の大きなベッドを眺めた。シーツや枕の清潔な白さと、かすかな陽の匂いが胸の中の不安をいっそう煽る。
意識しないよう心がけるほど、これからおこなう『務め』の重さが心にのしかかってきた。
上気した顔面を両手で覆い、きつく目を閉じる。
──どうしよう……やっぱり、『できます』なんて言わなきゃよかった。
足もとから這い上がった後悔が、阿武隈の内側にゆっくりと広がっていった。
◆
執務室の中を覗き込んだ阿武隈の視界に入ってきたのは、秘書艦用の机で熱心に書類仕事をする吹雪の姿だった。集中しているせいか、開け放たれた入り口に立った阿武隈に気づく様子はない。
室内のどこにも、提督の姿は見当たらなかった。
部屋の中央にある執務机の大きな回転椅子は、入り口に背が向けられている。
阿武隈は入口の扉を軽くノックし、吹雪に声をかけた。
「吹雪ちゃん、ちょっといい?」
はっとした様子で吹雪が顔を上げる。
「あっ──すみません。気がつきませんで」
「ううん、いいの。──提督、いない?」
吹雪が答えるより先に、執務机の椅子がくるりと回転して正面を向く。
「おっ、阿武隈じゃん。なんの用?」
大きな椅子の中に収まるように川内が座っていた。
阿武隈は思わず顔をしかめる。
提督の様子を見きわめてから川内と話をつけようと考えていたので、予定が狂った。それでもこのあと、鎮守府内のあちこちを探しまわる手間が省けたのは幸運と言えなくもない。
「なんで、あんたがそこに座ってんのよ」
溜息まじりに言った阿武隈に、川内は得意そうな顔をして胸を張った。
「提督代理」
いつもの調子で軽口をたたく川内の態度が、今日は特に癇に障る。付き合ってやる気になれず、阿武隈は吹雪に向きなおった。
どこか心配そうな愛想笑いを浮かべてふたりを見ている吹雪に、できるかぎりの笑顔をつくって訊く。
「提督、いないね。ランチ中?」
「いえ、それが──」
言いかけた吹雪に、川内が勢い込んで身を乗り出し言葉を重ねてくる。
「それが聞いてよ。朝イチで、いきなり軍令部から呼び出しの電話。朝ごはんも食べずに慌てて出かけ……てったってさ。最近戦果上げてるから妬まれてんのかな?」
阿武隈は川内に顔を向けた。
「あんたに訊いてない」
「うへー……おっかないなあ」
おどけたように川内は言うと、椅子に背を預け、軽く勢いをつけてくるくると回転を始めた。
いっそう腹立たしくなって、阿武隈は言う。
「それ、あんたの椅子じゃないんだけど」
「怒りゃしないって」
回転する椅子の上で、阿武隈の苛立ちなどどこ吹く風といった感じで川内が答えた。
吹雪が、おずおずと口を挟む。
「あ、あの、それで阿武隈さん、なにかご用でしょうか……?」
「ああ──そうなの、ちょっと確認したいことがあって」
阿武隈は我に返った。言いながら、持ってきた書類を吹雪に差し出す。
「午前中に、一水戦が前線基地へ持っていく装備の最終チェックをしたの。とりあえず必要そうなものを報告書にまとめたから、提督に見てもらおうかなと思って」
「あ、わざわざすみません。どんな感じです?」
「主砲とか魚雷なんかは問題ないんだけど、艤装の細かい部品がね──」
阿武隈が報告書を吹雪に見せながら詳細を説明している間、川内は椅子に乗ったまま窓際まで移動したり、流し近くの冷蔵庫を無意味に開けたりと、落ち着きなく物音をたてていた。正直なところ鬱陶しくて仕方なかったが、阿武隈はその存在を可能なかぎり黙殺した。
ひと通りの説明を受けると、吹雪は報告書と手もとの端末画面を見比べて頷いた。
「──データ上は在庫がありますね。あとで私が工廠に行って、明石さんか夕張さんに用意してもらっておきます。明日の受け取りで大丈夫ですか?」
「構わないけど、もし吹雪ちゃん忙しかったら、あたしが直接工廠に行ってもいいよ?」
「いえ、大丈夫です。工廠にはほかにもいろいろ、連絡しておくことがあるので」
「そう──ありがとう。じゃ、お願いするね」
吹雪と笑みを交わし、背を伸ばす。
さてあとは問題の──と部屋の中央に視線を向けると、車輪の音を盛大にたてながら椅子に乗った川内が滑ってきた。机にぶつかる直前で勢いよく両手をついたせいで、置かれている書類の山や端末がぐらりと揺れる。
「仕事の話、終わった?」
川内が無邪気な瞳を阿武隈に向けた。
吹雪は苦笑するのみだったが、阿武隈は舌打ちしたい気持ちをなんとか抑えた。
「あんたねえ……手伝えとは言わないけど、せめて邪魔するのはやめなさいよ」
「しないしない、邪魔なんて。──それよりさ、今夜私の部屋でゲーム大会やろうよ。阿武隈ももうすぐ前線行きだし、
「やんない」
「なんで? 今夜なら一水戦も任務ないでしょ」
「あんたの都合であたしの予定を決めないでくれる? ──それより、あたしのほうこそあんたに大事な話があるの。ちょっと顔貸して」
阿武隈は顎で入り口を指した。
川内は椅子の上できょとんと目を丸くし、吹雪と顔を見合わせた。
鎮守府本棟の側面のドアを開けて、屋外の非常階段の踊り場に出る。
海からの強い風が吹き、阿武隈は慌てて髪を押さえた。振り返ると、川内が好奇心に眼を輝かせていた。髪飾りをつけた黒髪が風に揺れている。
「そんなに、聞かれたくないことなんだ」
髪を風に吹かれるにまかせたまま、川内は楽しげに言った。
「『ちょっと顔貸して』って、カッコいいね。私も今度、使ってみよ」
「……真面目な話だから、おちゃらけないで」
阿武隈は目を閉じて溜息をつき、頭の中を整理してから川内を見据えて言う。
「──あんたさ、おとつい『部室』で提督に会った?」
「うん」
予想外にあっさりと肯定され、阿武隈は一瞬言葉に詰まった。
「……ふたりっきりで?」
「そうだよ」
こともなげに頷いた川内は、手を後ろに組んで阿武隈を覗き込む。
「よく知ってるね。なんで?」
「夜、一水戦が哨戒から戻ったら、入り口のところのラックの下がやけに濡れてた」
不思議そうな顔で、川内が首を傾げた。阿武隈は続ける。
「ハンガーの下だったから、掛かってたのはたぶんレインコート」
「あの日って一日ずっと雨降ってたし、そんなのべつにおかしなことじゃないでしょ?」
「水雷戦隊が哨戒で着た雨具はドックで脱いで干し場に掛けるし、たいていの艦娘なら普段の移動に使うのはもっぱら傘よ」
「たんに、誰かが濡れたものを干してただけとか」
「……靴が濡れるから、あのラックは濡れもの禁止。あたし、あんたに何度も注意してるよね」
「じゃあ、私がなんか干してたのかも」
「あんたさ、一水戦が哨戒に出る前、みんなの傘を置きに来たあたしと部室で会ったの憶えてない?」
「……そうだっけ?」
「あたしが話しかけても、誰かさんはおもちゃで遊ぶのに夢中で生返事だったからね。──とにかくそのときは全然濡れてなかったんだから、あんた以外の誰かが部室に来て、『なにか』を干していったってことでしょ」
「うーん……なるほど」
「そしてその『なにか』がレインコートだとすれば──」
「そっか……提督って傘使わないもんね。たしかに、なぜかいつもレインコートだわ」
川内は阿武隈に邪気のない笑顔を向けた。
「いやいやお見事。ちょっと強引だけど、阿武隈、名探偵じゃん」
「ごまかさないで。ふたりで、なにしてたのよ」
詰め寄るように訊いた阿武隈に、川内は宙を見上げるようにして視線をそらした。
「えーと……話とか?」
「とか?」
「あとは……キューブが揃えられるようになったから、それ見せたりして」
阿武隈がじっと見つめると、川内は愛想笑いを返した。
「川内、まさかとは思うけど──提督と、
困った顔つきになって、川内は頭を掻いた。
「ごめん、言えない」
「……言えないってなによ」
「言うなって言われたんで」
「それじゃ言ってるも同然じゃない──馬鹿」
阿武隈は暗い気分になって額を押さえた。
おとついの夜からずっと、そのことばかり考えていたので、ある程度の覚悟はしていたつもりだったが、やはり胸の中にざわめくものがある。
「……なんで、そんなことになったのよ」
「うーん……なんとなく、雰囲気で?」
「悪いと思わなかったの?」
「阿武隈に?」
「吹雪ちゃんに決まってるでしょ、この馬鹿……!」
怒鳴りつけたかったが、阿武隈はなんとか押し殺した声で言った。
川内はにっこりと微笑んだ。
「吹雪なら、べつに怒ってないと思うけど」
「そんなわけ、ないじゃない。あの子のことだから、自分の気持ちを隠したまま身を引こうとしてるのよ」
「ん? 気持ち……?」
「あんた、あれだけあの子と一緒にいて、気がついてないの?」
川内がいぶかしげに眉をひそめる。阿武隈は心底から呆れて言った。
「吹雪ちゃん、きっと提督のこと好きよ。隠してても、あたしにはわかる」
「へ……」
川内はぽかんと口を開けて固まっていたが、やがて唐突に、盛大に笑い出した。
「ぷあっ──ははははは……!」
文字通り腹を抱えながら、非常階段の下まで聞こえるのではないかというほどの笑い声だ。
阿武隈は呆気にとられながらも憤然とその様子を眺めていたが、いっこうに笑いやまない川内に業を煮やして言った。
「信じてないわけね」
「い、いやいや……信じる、信じる。さすがに信じる」
ようやく笑いを収めた川内が、目尻をぬぐいながら言った。
「いやー……言われてみるとありうるね、それ。さすがは名探偵」
「真面目な話なんだけど」
「うんうん、わかってるわかってる。阿武隈は、いつでも真面目」
川内が訳知り顔で頷きながら言った。意地の悪そうな上目遣いで、阿武隈を見る。
「じゃあさ、こっちも真面目な話をするけど、阿武隈も提督に会ったほうがいいよ」
大きな黒い瞳に観察するように見つめられ、阿武隈は半歩下がった。
「なによ、それ、どういう──」
「とりあえず、ふたりきりでさ」
ふたりきり──という言葉を聞いた瞬間、自分の鼓動が乱れるのを阿武隈は感じた。
川内が阿武隈を見据えながら続ける。
「ふたりきりで会って、話をする──そうすれば、阿武隈にもわかるよ」
「わかるって……なにがよ」
喘ぐように言葉を発した阿武隈に、川内は瞳を煌めかせて薄く笑った。
「自分が、自分で思っているような生きものじゃないってことが、よ」
◇
川内から逃げるように踊り場から離れた阿武隈は、本棟の廊下をひとり早足で歩んでいた。
──馬鹿じゃないの、あいつ。ほんと、馬鹿じゃないの。
ぐるぐると、その言葉が阿武隈の頭の中を巡っている。
自分勝手な艦娘だということは前からわかっていたが、それでもそれなりに優しいところや道理がわかっているところもあると思っていた。
それが、
そもそも、吹雪は三水戦における川内の部下なのだ。立場を利用して長年の想い人を横取りしたとすれば、それは同じく水雷戦隊旗艦である阿武隈にとって、許しがたいことのように思えた。
これは告発であって告げ口ではない──そう胸の内で自分に言い聞かせ、阿武隈は目的の部屋の前に立った。
『指令室』と書かれたそのドアを二度、短い間隔でノックする。
「入れ」
室内から長門の声が聞こえ、阿武隈はドアを開けた。
執務室と大して広さの変わらない指令室の一角に、アルミのパーティションで区切られた、応接用あるいは面接用のようなスペースがある。パーティションの内側には、革張りのそれなりに高級そうなソファーが一対、テーブルを挟んで置かれていた。
指令室には慣れているつもりの阿武隈もこのソファーに座るのは初めてで、どことなく居心地の悪さを感じる。
対面に座った長門は、いつものように生真面目な雰囲気をたたえたまま、黙って阿武隈の話を聞いていた。
「えっと……あたしが調べてわかったことは、以上です」
ひと通りの事情を話し終えた阿武隈は上目遣いに様子を窺ったが、長門は顔の前で両手を組み合わせたまま、なにも言葉を発しようとしない。眉間には深い皺が刻まれ、いつにもまして険しい表情だ。
憤りや驚きといった反応を示さない長門を見ているうち、阿武隈は不安を覚えて口を開いた。
「あっ……あの、あたしとしては、川内を処罰するとか、提督の立場が悪くなるとか、そういうことにはあまり、なってほしくないっていうか──」
無言の長門に見つめられ、阿武隈は黙った。
「──この話、ほかの艦娘にはしたのか?」
「い、いえ。川内と話してからすぐにここに来たから、長門さんだけです。部室の一件も、霞や不知火たちを帰らせたあとに、居残ってたあたしが気づいたので……」
「そうか……」
長門は顔を伏せ、深く長い溜息をついた。内面の動揺を見せない長門には珍しいことだ、と阿武隈は思った。
「困ったことになったな……」
「そっ、そうなんです。ほんと、あいつにはいつも困らされてて──」
阿武隈は言葉に詰まった。そんなはずはないのに自分が責められているような気分になって、どことなく落ち着かない。
──なんだろう、長門さん……様子が変だ。
長門はふたたび溜息をつき、組んだままの両手を顔の前から膝に下ろした。
「阿武隈の気持ちは理解できるが、私からはどうすることもできない」
「なっ……」
絶句した阿武隈に眼を合わせようとはせず、長門はテーブルを見つめながら言う。
「まず前提として……提督と艦娘がそういう関係になるのを禁じた規則は、鎮守府にはない」
「そ、それはそうかもしれませんけど、でも──」
「規則にないのだから、罰するもなにもない……」
そんな──と阿武隈は身を乗り出す。
「──そんなの、許されるわけないじゃないですか。指揮される立場の艦娘が、鎮守府の責任者たる提督と、個人的に親しくなるなんて、そんな──」
まとまらない思いをなんとか言葉にしようと焦る阿武隈を、長門は見ようとはしない。
「──提督を慕ってる艦娘はたくさんいるだろうけど、みんな、ずっと一線を越えないように我慢してたじゃないですか。それが暗黙の了解だったのに、ひとりの艦娘が自分勝手に抜け駆けするなんて、ありえないです」
自分でも意外なほど攻撃的な気持ちになって、阿武隈は続ける。
「規則とかそういうことじゃなくて、あたしはひとりの艦娘として許せないんです。倫理と、責任の問題なんです。それに──」
阿武隈は拳を握りしめた。
「──吹雪ちゃんが、かわいそうですよ。ずっと……ずっと、あんなに提督のことを想ってきたのに、それがちっとも報われないで、ほかの艦娘に横取りされちゃうなんて」
長門がゆっくりと顔を上げる。苦りきった表情だが、それでいてどこか、瞳の奥には怯えのようなものが見えたような気がした。
──怯えてる? なぜ怯えてるんだろう。まるで自分が責められてるみたいな顔して。
阿武隈が見つめると、長門は気まずそうに視線を横にそらした。
──罪悪感だ。
阿武隈がそこに思い至った瞬間、長門は視線をそらせたまま、苦悩に満ちた表情で口を開いた。
「阿武隈の言っていることは……まったくそのとおりだ。ただ、私が思うに──」
「長門さん、ひとつ答えてください」
長門を遮って阿武隈は言った。
「──あなたも、提督と
長門が息を呑んで硬直した。その反応だけで、十分だった。
思わず立ち上がり、固まっている長門に吐き捨てるように言う。
「長門さんまで……いったいどうなってるのよ、これ」
「待ってくれ、事情を──」
「聞きたくありません。あなたには、失望しました」
阿武隈は踵を返し、指令室のドアへと走った。
◇
阿武隈は自室に戻ると、持ってるバッグの中ではいちばん大きなボストンバッグをクローゼットから引っ張り出した。ベッドに置いてファスナーを開き、クローゼットの中の服や小物を片っ端から詰めていく。
──出てってやる。こんなとこ、さっさと出てって、あたしはもっと……
ボストンバッグは短期旅行程度の容量しかなく、あっという間に満杯になってしまった。ファスナーを閉めようとして、化粧水や乳液といった美容用品、さらにはドライヤーや櫛も入れ忘れていることに気がついた。
舌打ちして服を抜き出していると、部屋の入り口から不意に声をかけられた。
「あらあら、お出かけかしら。ずいぶん荷物が多いようだけど」
腕組みをした陸奥が、ドア枠に寄り掛かるように立っていた。わずかに首を傾げるようにして、興味深げに阿武隈を見ている。
阿武隈は陸奥を見返して言った。
「長門さんに、聞いたんですか? なにがあったのか」
「……まあね。そんなとこかしら」
阿武隈は眉をひそめた。
指令室で長門から話を聞いて軽巡寮までやってきたにしては、タイミングが早すぎる。そもそも阿武隈がこの部屋にいるともかぎらないだろう。
あとをつけられた──という可能性が頭をよぎるが、陸奥が自分にそんなことをする理由がわからない。
陸奥が、ベッドの上のボストンバッグをしげしげと眺めている。
「前線基地への荷造り──ってわけでもなさそうね」
「……もう、我慢の限界なんです。あたしは、
睨みつけるように言うと、陸奥は軽く肩をすくめた。
「そう……行くところやお金のことで困ったら、私の携帯に連絡しなさい。内緒で助けてあげる」
「……止めないんですか」
「貴女が本気で出ていきたいのなら、喜んで応援するわ。ひとりの艦娘が外の世界で生きていくなんて、すごいことだもの。それに──」
陸奥は室内に入り、後ろ手にドアを閉めた。
「──貴女の大事な一水戦を放り出すほどの決意なんでしょ? それなら、私が止めたってどうにもならないわ」
痛いところを突かれ、阿武隈は思わず表情を歪めた。
一水戦は、唯一無二の自分の隊だ。前世からの縁もあったが、阿武隈が艦娘という姿に生まれ変わって得た最良のものが、現在の一水戦だった。
霞や不知火、第六駆逐隊の面々、そして潮──。
ふたたびめぐり逢えた仲間と、艦娘として築き上げてきたほとんどすべてを捨ててまで、なぜ自分は鎮守府を出ていこうとしているのか──阿武隈の思考は混乱した。
「許せないんです……こんなの、絶対に許せない……」
口をついて出た言葉は、阿武隈自身にも意外なものだった。
そんなに自分は、吹雪に肩入れしていたのだろうか。
それが真実だとは思えなかった。仕事熱心で、どこか抜けたところもある吹雪に好感を抱いているのは確かだが、一水戦の駆逐艦たち以上に親密だったわけではない。
──じゃあ、なんで……あたしはこんなにムキになってるの……?
泣きそうな思いで、阿武隈は自問した。
「貴女って──私に似てるわよね」
陸奥が、唐突に言った。懊悩する内心を見透かすように、黄緑色の瞳がじっと阿武隈をとらえている。
「似てるって……どこが、です」
阿武隈は動揺しながら、誘われるように訊いた。陸奥が微笑む。
「ひねくれてるところ。わがままなところ。臆病なのに格好ばかりつけて、無様な転びかたをするところ」
「……なんですか、それ」
「要するに──可愛いってこと」
陸奥は素早くウインクした。
腹立たしいような嬉しいような複雑な気持ちになって、阿武隈は口を尖らせた。
「……陸奥さんは、可愛いっていうよりキレイって感じじゃないですか。あたしとは違います」
「そうなのよ。私としては、貴女みたいな可愛い系でありたいと思ってるんだけど、性格の悪さが外面と行動に出ちゃって、そっち路線では勝負できそうにないのよね」
「……キレイ系女子のチャンピオンみたいなひとなんだから、こっちの階級に来ないでください。迷惑ですから」
「ね? そういう小生意気な返しをするところが、私と似てるっていうのよ」
陸奥が華やかに笑った。つられて阿武隈も笑う。
上手く乗せられているとは思ったが、嫌味にならないのが阿武隈には魅力に思えた。
小さく首を振り、陸奥を見上げて訊く。
「それで、なんのご用なんですか。部屋までつけてきて、ガールズトークで家出を阻止するだけってことはないですよね」
「あら、やっぱりバレてた?」
「隠すつもりもなかったくせに」
陸奥は満足そうに頷いた。ゆったりと歩いて阿武隈の側面から背後にまわる。
阿武隈の両肩を軽く両手で押さえ、耳もとで囁く。
「実は、新しい任務の話があってね」
「新しい任務……」
「そう。大事な大事な、艦娘としての務めよ」
耳朶に触れんばかりの距離に、唇の動きを感じる。
阿武隈は硬直し、背筋を伸ばして陸奥の囁きを聞いた。
「提督を、心身ともに癒やしてほしいの。ま……潔癖な貴女にはできるかどうか、わからなくなっちゃったけど」
◆
顔を覆った手の間から、阿武隈は深い溜息を漏らした。
自分がこの部屋にいるのは、艦娘として提督を助けるための『仕事』だからであって、けっして川内のような欲望にまかせた行動からではない──何度そう思っても、これからしなくてはならないことの重さは、阿武隈の中でどんどん増していく。
──陸奥さんの言ってた、
阿武隈はふと、提督のことを想った。
ほかの多くの艦娘たちがそうであるように、阿武隈もごく自然に、好意以上のものを提督に抱いていた。しかし対象が手の届かないものであるとわかっている以上、それはいつだって憧憬程度のものでしかありえなかった。
少なくとも、阿武隈自身ではそう思っていた。
──もう、手が届いちゃう。
そう考えると、阿武隈は恐慌に陥りそうになる。
陸奥から仕事の内容を聞き、夜の空いた時間を目一杯使って、自室にこもって主にネットでの『予習』に努めた。そうした行為の知識がまったくなかったわけではないし、最初は恥ずかしくて直視できなかった動画やら体験談やらにも、最後にはだいぶ慣れた。
しかしそれは、あくまで『他人事』としてに過ぎない。
阿武隈は顔を上げ、私室の分厚そうなドアを見つめた。
──今なら、まだ。
言われたとおりの時間に入室して待ったが、提督がいつまでも帰ってこなかったから、仕方なく自分の部屋に戻った──陸奥に対する言い訳が頭の中で、瞬間的に書き上がる。
撤退しよう。撤退して、日をあらためればいい。
性的ストレスなど、考えるほど荒唐無稽な話のようにも思えてくるし、明日もう一度、陸奥に詳しい話を聞いてみたほうがいいような気がした。
阿武隈は立ち上がり、急ぎ足で部屋の入り口へ向かった。
眼前で、待ちかねていたようにドアが開く。
阿武隈の長年の想い人が、そこに立っていた。