指令室の椅子の上で提督は目を覚ました。
いつの間にか居眠りしてしまったようだ。
眼の前にある大テーブルの上に、鎮守府近海の海域図と軍艦を模した
腕時計を確認すると午後3時5分前で、艦娘たちとの会議を解散してから1時間ほど経っていた。
視界の端で、斜向かいに座っていた陸奥が顔を上げる。腿の上にノート型の端末が乗っていた。
「あら、起きちゃった?」
「ああ……皆は」
提督は周囲を見まわしながら言った。大テーブルのあちこちには置きっぱなしの書類やら筆記具やらが見えたが、艦娘たちの姿はない。
端末に視線を戻し、キーボードをなめらかに叩きだしながら陸奥が答える。
「少し暇になったから食事に行かせたわ。大淀なんて一日何も食べてなかったみたいだし。貴方ももう少し寝てなさい」
「いや……十分だ」
提督は椅子に座りなおし、背を反らして伸びをした。窮屈な姿勢で寝ていたせいか、肩から首にかけてひどい凝りを感じる。
僧帽筋を揉みほぐしながら、海域図に目をやって訊いた。
「寝ている間に、変わったことは」
「長門の艦隊から駆逐ロ級を1隻沈めたっていう報告だけ。敵の本隊からはぐれていた艦よ」
「今日の日没までに長門たちの帰投を完了させろ。水雷戦隊は、とりあえず明日の日没まで現行のローテーションで哨戒を継続。単独行動の敵潜水艦に注意するよう、周知を徹底しろ」
陸奥はキーボードを叩く手を止め、了解──と言って頷いた。
「──こっちでドンパチするのも久しぶりだったけど、ちょっと拍子抜けね。午前中で片付くとは思わなかったわ」
「北上に感謝だな。──大井は戻ったか?」
陸奥が端末から顔を上げ、提督を見た。
「ついさっき、護衛の敷波と一緒に戻ったわ。艤装がはかなりやられてて、ほとんど廃棄することになりそう」
「そっちはどうでもいい。大井自身はどうなんだ」
「かすり傷だけよ。明石の話だと、一週間ほどの入渠で妖精も戻るでしょうって」
提督は息をついた。
体を傾け、肩越しに背後の窓から外を眺める。晴れてはいるものの、風が強い。ときおり突風が吹き、指令室の窓ガラスをがたがたと揺らしている。
近海に出現した敵艦隊の編成は15隻前後といったところだったようだ。まだ潜水艦が潜んでいる可能性はあるが、とりあえず大きな危機は去ったといえるだろう。
背もたれに体を預け、天井を眺めながら言う。
「──で、前線基地とは連絡を取ってみたのか」
「会議が終わったあと、赤城と交信できたわ。敵を素通しして、本当に申し訳ないと」
「原因は」
「どうやら、敵の陽動らしいわね」
「陽動──」
提督は姿勢を戻して陸奥を見た。陸奥はわずかに肩をすくめ、赤城との交信内容の説明を始めた。
赤城によると、数日前から基地前面の海域で 深海棲艦による攻勢が激しさを増していたらしい。
前線基地は艦娘が無防備な状態であることも多く、この攻勢に対する必須の対抗措置として基地前面へ戦力の集中がおこなわれた。当然防衛ラインに穴を開けないよう配慮はされていたのだが、配置変更時のわずかな索敵網の乱れを突かれて敵艦隊の侵入を許した可能性が高い──とのことだった。
提督は腕を組み、ふたたび天井を見上げた。
「日に日に小賢しくなるな。化物の分際で」
「見方によっては、抜けてこられた先がうちの海域でよかった──とも言えるんじゃない。ほかの鎮守府の機械化船団じゃ、ここまで早く敵を排除できたとは思えないし。旗艦のル級を沿岸部に近づけてたら、街に被害が出たかもね」
「ま、感謝状は出ないな。苦情は来るかもしれんが」
提督は額を手のひらで押さえ、軽くさすった。睡眠不足のせいか、むくみのような熱っぽい腫れを感じる。
陸奥が声を落として訊いた。
「──軍令部のほうから、何か言ってくると思う?」
「うちの担当海域で防衛ラインを抜かれたのは、事実だからな。民間に被害が出てない以上、責任問題とまではならんだろうが……また呼び出されてから嫌味まじりのお小言かな」
提督が顔を向けると、陸奥は膝の上の端末を畳んでテーブルの上に置いた。神妙な表情を浮かべている。
「……昨日の長門の一件もあるし、ちょっと苦しい立場になるんじゃないの」
「べつに、どうってこともない。俺たちが戦果を上げ続けているうちは、連中には嫌がらせぐらいしかできないだろう。嫌味や小言は俺が適当に頭を下げとけばいい」
「慰安旅行の件は? 近いうちにあそこの経営者と貴方が会えるよう、セッティングする予定だったんだけど」
「……しばらく延期だな。後ろめたいところがあるわけじゃないが、あえて動いて連中を刺激することもない」
「李下に冠を正さず、ね。……長門が残念がるわ」
陸奥は黙り込んだ。
しばらく拳を唇に当ててなにかを考えている様子だったが、やがて提督の眼をじっと見つめてきた。
「なんだ?」
「──阿武隈の件でお礼を言ってなかったわ。ありがとう」
「ああ……それか」
シャワールームでの阿武隈の泣き顔が脳裏をよぎる。
提督は、胸の内に暗い影が差したような気分になった。
「どうしたの?」
「なにが」
「表情が暗いわ」
「なんでもない」
強姦めいた交わりには、言い訳のしようもなかった。阿武隈は提督を元気づけようとあれこれ必死になってくれたが、その健気さが逆に自分を
言いようのない苛立ちが湧き上がり、無意識に舌打ちを漏らしていた。その音量の意外な大きさに驚き、慌てて口をつぐむ。
提督がそっと眼をやると、陸奥の眉が悲痛なかたちに歪められていた。提督と視線が合って、陸奥はぎこちなく下を向く。
「おまえに苛ついたわけじゃない」
言っておいて、なんとも言い訳がましい言い方だと思った。
陸奥はうつむいたままだった。
がたがたと風に揺れる窓の音にまぎれて、わかってるわ──と言う声がかすかに聞こえた。
気詰まりな沈黙が降りる。
陸奥が不意に顔を上げた。
「ねえ。明日一日、休みなさいよ」
笑顔だった。口調はとってつけたように明るい。
「休むって、俺がか?」
「そうよ。ここ数日、いろいろあったから大変だったでしょ。書類仕事は私がやっておいてあげる」
「襲撃の翌日だぞ。司令官が休んでどうする」
「翌日だからこそよ。明日のお昼までには残党狩りもだいたい終わっちゃうだろうし、仕事といえば戦闘詳報の取りまとめと損害の確認でしょ。その手のことなら私が得意だから」
提督が見つめると、陸奥は笑顔で首を傾げた。
「二次三次の襲撃がないとも限らんだろうが」
「鎮守府の敷地内にいればいいじゃない。戦闘後の艦娘の様子を見てまわるのだって、提督の大事な務めでしょ?」
提督は思案した。陸奥の言うことは筋が通っているにも思えるが、ここ数年は明確な休みをほとんど取らない生活に慣れきっていたせいもあってか、この状況下で休むということに違和感を拭えない。
提督が黙っていると、陸奥はテーブルの上で両腕を組んで言った。
「この鎮守府でいちばんストレスを溜め込んでるのは、貴方よ」
「……それは、阿武隈を騙すのに使った方便だな」
「嘘にもたっぷり真実を混ぜるのが、人を騙すコツなの。──たまにはサボりなさいよ。
「──ここんとこ、毎晩毎晩頑張りすぎたからな。このペースなら腹上死間違いなしだ」
「そうなったら、いちおう殉職扱いよね。勲章を出すように軍令部に掛け合ってみるわ」
提督は苦笑気味に吹き出し、陸奥も口もとを押さえて笑った。
溜息をつき、提督は陸奥に言う。
「わかったよ。明日はサボる」
「よかった──それじゃ今夜は、吹雪と盛り上がりすぎないようにしなさいよ。おとなしく寝て、明日はそのままお昼までごろごろしてたら?」
「盛り上がらんさ。今夜は水雷戦隊の哨戒があるからな」
「ああ、そっか……なら、吹雪を哨戒から外す?」
提督は首を振った。
「あいつ、その手のことには意地でも参加するんだ。──おまえの言うとおり、今夜はおとなしく休むことにするよ」
◇
手のひらが背中をさする感触で、提督は眼を覚ました。
私室のベッドの上、顔をうずめている布地ごしにやわらかな女の胸の感触がある。
「司令官、すみません。私もう、支度しないと」
耳もとで、吹雪が小声で言った。
提督は構わず小さな躰を抱きしめ、鼻から深く息を吸い込む。寝間着の布地の間から、吹雪のあたたかい肌の匂いがした。
「サボれよ、そんなの」
胸に顔を押しつけたまま言うと、吹雪が小さく笑う気配がした。
「駄目ですってば、みんな交代でやってるんだから。子供みたいな駄々をこねないでください」
提督の腕から離れて躰を起こそうとする吹雪に、いっそう強くしがみつく。
「あと、もうちょっとだけ」
「もう……」
吹雪は呆れた声で言って、提督の頭の後ろをそっと撫でた。
「司令官。本当に、もう支度しないと」
どこか寂しげな気配ではあるが、交渉の余地のない口調だった。
提督はしぶしぶ腕を解き、吹雪から離れた。
吹雪が手早く着替え、髪を縛る様子をベッドの上でぼんやりと見つめる。
「それじゃ、行きますね」
身支度を整えた吹雪が言った。
提督が無言で頷くと吹雪は微笑み、駆け寄って唇に接吻した。
吹雪は提督の顔を見つめて小さく笑い、頬にそっと触れた。
「司令官……もう。そんな顔しないで」
「……枕が勝手に起きるから、目が冴えた」
「仕方ないじゃないですか。枕にだっていろいろ仕事があるんだから。──長門さんに来てもらいます?」
唐突に長門の名前を出され、提督はなぜだか慌てた。
動揺を内心に押し殺して言う。
「──なんで、長門が出てくるんだ」
「今夜の水雷戦隊は哨戒で忙しいですから。阿武隈さんも神通さんも」
「長門だって昼間は出撃してたんだぞ。今頃は熟睡中だろうよ」
釈然としない表情で、吹雪が首を傾げる。
提督は顔の前で手を振った。
「──ほら、もう行けよ。遅れるぞ」
「あ……すみません。それじゃ、おやすみなさい」
もう一度接吻し、吹雪は小走りで部屋を出ていった。
提督はひとり残され、いっそのこと起きてしまおうかとも思ったが、なんとなくベッドから降りる気にはなれなかった。
吹雪がやたらと接吻していったせいか、わずかな気分の昂ぶりを感じる。
ふてくされたように横になり、意地になって目を閉じた。
体は睡眠を欲していたのか、すぐに、深い眠りに沈んでいく感覚があった。
◇
「今夜からの哨戒……4隻編成で?」
提督の手渡した予定表を眺めながら、川内が言った。提督は頷いて口を開く。
「昨日の戦闘で散り散りになった深海棲艦は、今日の午前中までで全部補足して始末できた。これから数日は小規模編成の艦隊で哨戒の頻度を上げ、ほかにすり抜けた敵がいないかをチェックする」
横から紙を覗き込んだ旗艦代理の矢矧が、なるほどね──と言って予定を目で追っていた。
川内が提督に顔を向ける。
「メンバーのローテーションは、こっちで決める?」
「任せる。おまえか矢矧か吹雪のいずれかが、編成に組み込まれていればいい」
「うーん……そういうの苦手なんだよね。矢矧、ちょっと考えてみて」
川内は予定表を矢矧へ押しつけるように手渡し、振り返って背後に視線を向けた。提督もつられてそちらを見やる。
三水戦所属の駆逐艦たちが、装備の手入れをおこなっていた。
工廠の建屋の裏手にある、屋根付きの屋外作業場だった。
戦闘で使用した推進装置や砲身は、海水塩や火薬の
学生のような外見の駆逐艦たちがこうした無骨な作業をわいわいとおこなっているのは、異様ではあるが一種の微笑ましさをともなう光景であった。
「今日ってさ、提督は休みって聞いたけど」
作業中の駆逐艦たちに視線を向けたまま、川内は唐突に言った。深夜か午前の哨戒時にでも、吹雪から聞いたのだろう。
提督は頬を掻いた。
「ああ。実際、昼近くまで寝てた」
「午後から仕事してんの?」
「いいや。一日休みなんだが」
川内が提督に顔を向け、小首を傾げる。
「──執務室にいるとついつい口を出しちまって、そのたびに陸奥に睨まれるんだ。それでまあ、吹雪が気を利かせてな」
「はーん、口実つくって追い出してくれたわけだ。てっきり、司令からパシリに降格させられたかと思ったよ」
「呼び方以外で、なんか違いがあるか?」
川内は上体を折るようにして小さく笑った。首を横に向け、矢矧の様子を見る。
矢矧はふたりの会話が耳に入らない様子で、熱心に予定表に見入っていた。
体勢を戻した川内は、提督の腕を素早くとって体を寄せた。
「おい──」
「矢矧。その編成、適当に考えといて。私、提督と話があるから」
顔を上げた矢矧が、目を丸くしてふたりを見た。背後からも駆逐艦たちの視線を感じる。
「川内、おい──」
「いいからいいから──ちょっと顔、貸してよ」
小声で言って、川内が目配せする。
提督は引っ張られるようにして、建屋の角の先へと連れていかれた。
工廠の横手には、装備開発用の資材置き場となっている大型のプレハブ倉庫が複数建てられている。
倉庫と倉庫の間の狭い空間に提督を押し込み、川内はきょろきょろと周囲を見まわした。
「よし。あいつら、ついてきてないな」
「なんだってんだ、いったい……」
提督は倉庫の壁に背を押しつけながら言った。距離が近く、川内が躰を動かすたびに髪から爽やかな香りがした。微妙な緊張と、かすかな興奮に似た感覚を覚える。
川内は微笑み、自分の胸もとに手を突っ込んだ。
折りたたまれた紙片を取り出して言う。
「実はさ、阿武隈の──一水戦のサプライズ壮行会を、水雷戦隊のみんなでやってやろうと思って」
「……サプライズ壮行会?」
川内が大きく頷く。珍しく真面目な表情をしていた。
「うん。私ら今まで、そういうのやったことなかったでしょ。前線に出るのなんて、艦娘にとっては日常の一部みたいなもんだし」
「まあ、たしかにそうか──」
艦娘同士、仲が悪いわけではないのだが、普通の人間社会に比べると情緒面で妙にさばけたところがある。同型艦種や姉妹艦、『前世』での繋がり以外で集まりを開くというのは、提督の記憶の中にもほとんど思い当たらなかった。
川内ははにかみ、下を向いた。
「でもなんか最近さ……そういうの、ちょっと寂しいんじゃないかって思ってたんだ。それなりに危険な任務だし、二ヶ月半って、長いといえば長いわけだから」
「それで、壮行会か」
「うん。まずいタイミングで深海棲艦が来ちゃったし、どうしたらいいかちょっとわかんなくて。一水戦が出発する日って、少し延びたんだよね」
提督は頷き、思案する。
一水戦の出発日は本来からすれば二日後の予定だったが、深海棲艦の襲撃によって一週間延期となっていた。
「……まあ、一週間後ぐらいなら大丈夫じゃないか。近海で大きな動きがなければ、の話だが」
「ほんと?」
川内が眼を輝かせる。
「その頃には今みたいに24時間哨戒ってこともないだろうし、水雷戦隊が揃う空き時間もつくれるだろ。こっちで調整してやる」
「いいの!?」
「あくまで敵の動きしだいだぞ」
「やったぁ! ありがとう、提督! やっぱり頼りになるなぁ!」
川内は満面の笑みで提督の手を掴み、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
邪気のない喜びの表現が、なんとも愛らしかった。提督は平静を装って問う。
「──それで、それは水雷戦隊だけの参加なのか?」
「え? まあ、そのつもりだけど……あ、提督も来る?」
「俺はいいから、大型艦や天龍たちにも声をかけたらどうだ。それぞれに任務があるから、全員参加とはいかないと思うが」
川内が棒を呑んだように固まる。紙片を持った手で、口もとを押さえた。
「そ、そんな大掛かりになっちゃうの……?」
「どうせ集まるなら、呼べるだけ呼んで大勢で──っていうほうが楽しいだろう?」
「そりゃ、そうなったら、すっごい素敵だけど……! でもどうしよう、私、そんなの仕切れそうにないよ」
「陸奥に話を通しておく。あいつは幹事向きだからな」
「うん、うん。そうして。お願いします」
川内が律儀に頭を下げる。提督は小さく笑い、川内の手の中の紙片を指して訊く。
「で、その紙はなんだ」
川内が、あ──と気づいた様子で顔を上げた。
「これ、神通への手紙。哨戒でお互い忙しいから、壮行会のことまだ言ってないんだ。こういうことやりたいってのいろいろ書いてあるから、持ってってほしいんだけど。たぶん今なら出撃ドックで装備の点検してると思う」
「なんだ、本格的にパシリ扱いだな」
「ついでに、手でも握ってくれば」
「妹を飲み屋のねえちゃんみたいな扱いにするな。──手紙は引き受けた」
提督は、受け取った紙片を制服の内ポケットにしまう。
「しかしだな……それぐらいのことで、こんなところに連れ込まなくてもよかったんじゃないか」
「ふーん……?」
川内が顔を寄せ、下から覗き込むようにして見つめてくる。
「──もしかして、エッチなことしちゃうかもって期待した?」
川内の眼が、挑発的に煌めいているように見えた。
提督は溜息をついて言う。
「まあ、まったく思わなかったわけでもない」
「ふーん……」
川内は不意に提督の襟首を両手で掴み、強く引いて顔を寄せてきた。
しっとりとした唇がやわらかく吸う感触があって、すぐに離れる。
川内は頬をわずかに上気させて微笑んでいた。
人差し指で提督の胸を、とん──と突く。
「すけべ」
上機嫌な調子でそう言って身を翻し、かろやかに駆けていった。
◇
「姉さんが、手紙……ですか」
提督の隣に腰掛けた神通は、渡された手紙を見つめて少し驚いたように言った。
「そんなに珍しいか? 川内からの手紙は」
提督が訊くと、神通は頷いた。海からの風に吹かれて、前髪がかすかに揺れている。
「用があれば直接言いに来るか、携帯電話のメッセージを送ってくるぐらいで……手紙は初めてです」
「そうか……まあ、とにかく読んでみろ」
はい──と神通は頷き、生真面目な面持ちで手紙に眼を走らせはじめた。
提督はなんの気なしに、正面に植えられているクロマツの枝ぶりを見やった。
岸壁に設置された出撃ドックから、鎮守府の主要施設群とは反対方向の岬に向かって続くクロマツの並木道がある。
提督が神通を訪ねて入った出撃ドックは、屋内に海水を引き込んでいる構造のせいか底冷えがするほど寒く、薄暗かった。
哨戒前の点検作業の続きを旗艦代理の能代と副艦の陽炎に任せ、提督は神通をドックの外に誘った。
用事を済ませるのはドックの出入り口近くでもできたのだが、ぽかぽかと暖かい外の陽気につられ、提督は神通をともなって並木道へと足を向けた。
他愛もない天気の話などをしながら10分ほど歩き、並木道の緩いカーブの先にあるこの小じんまりとした
提督は、隣りに座る神通の表情を横目で見た。
端正で穏やかな横顔は相変わらず儚げで、苛烈な攻撃力を誇る二水戦の旗艦としての要素を微塵も感じさせないものだった。
ベンチに並んだ神通との間には、こぶしひとつ半ほどの間隔が空いている。その距離に慎ましい親密さが見えたような気がして、提督は神通を愛らしく思った。
「……一水戦の壮行会を、したいと」
神通が紙面に眼を落としたまま言った。提督は頷く。
「さっき、川内自身の口から聞いた。あいつは水雷戦隊だけでやるつもりだったらしいが、ほかの艦も混ぜてみようという話になってな」
提督は返事を促すように間をおいたが、神通は目を細めて手紙を眺めているだけだった。
「神通」
はっとして、神通が顔を上げる。
「あ──あの、申し訳ありません。聞き逃してしまいました」
提督は笑んで、先ほどの川内との壮行会についてのやりとりを説明した。
聞き終えた神通は驚いてか、しばらく口を半開きにしていた。
「姉さんが、そんなことを」
「あいつにしては気が利いているよな。──二水戦にも来てもらって構わないか。任務に関してはこちらで調整をつけておく」
提督が言うと、神通は慌てて我に返ったように表情を引き締めた。
「はい──もちろん。喜んで参加させていただきます」
座ったまま、折り目正しく神通は一礼した。
用事が済んでしまった。
予定では、あと30分ほどで二水戦の出撃準備の開始時刻となる。
神通を本来の任務に戻すべきだったが、なぜだかそれがひどく惜しい気がした。
初めて女性と並んでベンチに座ったのは、いつだっただろうか──提督はぼんやりと、そんなことを思った。
風が吹き、クロマツの枝がざわざわと音をたてて揺れる。
神通が、あ──と小さく声を上げた。
「海が、きれいですね」
眼の前のクロマツの枝の間に、青い海の色が散っていた。秋晴れの陽光が海面に反射され、細かい粒をちかちかと煌めかせている。
神通がかすかに息を吸い込み、優しげな眼で遠くを見た。
提督はしばらくためらったのち、思いきって神通の手を握った。
神通はわずかに躰を強張らせ、提督を見る。
どちらからともなく指を絡め、きつく握り合った。
提督は神通をまともに見ることができず、輝く海の粒に顔を向けていた。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
5分も経っていないような気もするし、とてつもなく長い時間が流れたような気もした。
つと、言葉が提督の口をついて出る。
「俺は、不実な人間だ」
この瞬間を自分は台無しにしようとしている──そう思いながら、提督は言葉を止められなかった。
「俺が、おまえや川内以外の複数の艦娘と関係を持っていることは、知っているか」
「──はい。そのように、存じております」
迷いのない声で神通が答える。
提督は小さく頷いた。
「艦娘の情愛を組織の統制に利用している。卑劣で、下衆な行為に間違いないが──」
提督は息を吸ってから言った。
「──これを続けなくちゃならない。少なくとも、当分の間は」
握った手に、思わず力が入る。神通がきつく握り返してきた。
それ以上、何を言うべきかわからなくなった。
自分で勝手に告白を始めておいて、着地点を見失っている。どんな結論を持ってきても、それは単なる言い訳であり、都合のいいまやかしでしかないように思えた。
自分は神通に甘えているのだろうか。それとも軽蔑してほしいのだろうか。
そのどちらでもあるような気がした。
「提督」
提督が顔を向けると、神通が唇を重ねてきた。
神通の唇はやわらかく熱く、控えめに差し出された舌は甘く湿っていた。
埒もない自分の考えが、どこかに吹き飛んでしまう。接吻はどんな言葉よりも雄弁で、圧倒的な説得力があった。
顔を引いた神通が、真っ赤になって下を向いた。
「──そんなふうに、ご自分を不実だなんておっしゃることはありません。貴方は……誰よりも誠実で、まっすぐで……そして、優しい人です。姉も私も、大事なものをいっぱいいただきました」
「大事なもの……」
神通が顔を四阿の石畳に向けたまま頷く。
「姉さんは、提督と……その、深く関わるようになってから、とても優しく、大人になったと思います。この手紙からも、それは明らかです」
提督は苦笑を抑えきれず、首を振った。
「俺があいつになにかをしてやれたとは思わない。俺がしたことと言えば、数日前になりゆきであいつを抱いて、そのあとベッドで快楽に溺れたことぐらいだ」
神通が提督を見た。いつもの儚げな雰囲気ではなく、妙に気の強そうな表情になっていた。
「姉にとっては、それが大きな意味のあることだったんです。貴方でなければ、姉さんは変えられない。きっと、ほかの艦娘たちにとっても──」
「大きな意味とか、艦娘を変えるとか、そんなふうに思ってるわけじゃない」
「成し遂げたことの大きさは、それを成している本人には往々にして見えないものであるのかと」
「大げさだな。あんまり俺を信じすぎないほうがいいぞ」
「信じます。私ひとりでも」
大真面目な顔をして言う神通がおかしく、提督は少しからかってやりたくなった。
「で、おまえのほうにはどうなんだ」
「──えっ?」
神通がきょとんとした。
「川内のほうはわかったが、俺はおまえに何を与えてやれた?」
「それは……私には、その……」
神通はしどろもどろになって、真っ赤な顔をうつむけた。
提督は笑いをこらえ、正面を向いた。
松の葉に散った海の光を見ながら言う。
「また、観に行こう」
視界の端で、神通が顔を上げた。提督が向きなおると、なんのことか──と言いたげな表情で首を傾げる。
「花火だ。あのときは人混みを抜けるのに精一杯で、まともに観られなかった」
神通がわずかに息を吸い、すぐに顔をほころばせる。
提督の手をしっかりと握り、はい──と言って頷いた。
◇
夕暮れどきになって指令室に出向いた提督は、今日一日の艦隊の動きや前線基地との交信について長門から報告を受けた。
前線では相変わらず深海棲艦の動きが活発になっていたが、昨日の会敵以降に防衛ラインのこちら側で発見された敵艦はない。
今夜の哨戒で新たな敵が発見されなければ警戒レベルを引き下げてもいいだろう──と、長門は報告をまとめた。
話しているうちに日は落ち、長門の背後に見える窓の外はすっかり暗くなっていた。
提督は大テーブルの椅子のひとつに腰を下ろした。
「──よし、一日ご苦労だったな。ほかの皆が戻ってきたら、俺たちも飯に行こう」
長門は海域図の乗ったテーブルに両手をついて立ったまま、静かに首を振った。
「いや、今はいい。提督は遠慮せず行ってくれ」
長門が微笑んで言ったが、その裏に微妙な
「どうした、元気ないな」
「いや……べつに。いつも通りだが」
提督は上体を乗り出し、長門の顔を覗き込んだ。
「目が赤い」
「えっ……」
驚いた様子で長門が体を引き、目もとに手をかざした。提督は重ねて言う。
「充血してるぞ。ちゃんと寝たのか」
「いや、これは」
「──昨夜帰投してから、おまえは非番にしたはずだったな」
「えっと……」
長門が額に手を当てたまま、視線を泳がせた。
「おまえ──夜の間も
「……すまない。状況が気になって、昨夜はあまり眠れなかった。夜半すぎから、ふたりと一緒にここに詰めてた」
悄然と肩を落として、長門は言った。
提督は溜息をつく。
「命令違反だろ、それは」
「……申し訳ない」
「休むときはしっかり休め。それだって務めの一部だ。ましてやおまえは、ほかの艦娘を引っ張る立場だろう」
「そのとおりだ。言葉もない」
長門は叱られた子供のようにうなだれていた。その姿が妙に可愛らしく、提督はつい笑ってしまいそうになった。
「とにかく今夜はしっかり寝ろ。それでチャラだ」
「──わかった。約束する」
大真面目に頷く長門に頷きを返し、提督は声を軽い調子に切り替えて言う。
「ところで、昼間に外でぶらぶらしてたら、ちょっと面白そうな企画が持ち上がってな」
「企画?」
「ああ、川内の発案なんだが──」
提督は壮行会の件を長門に語って聞かせた。
さぞ嬉しそうな顔をするだろうと予想していたのだが、意外にも長門は軽い驚きの表情を見せただけで、かすかな翳りがどこか色濃くなったような気配すらあった。
「──そうか。とてもいい考えだと思う。陸奥に言えば、いろいろ段取りをつけてくれるだろう」
明らかに無理をしている雰囲気が、長門の表情にはある。
提督はじっと様子を観察しながら訊いた。
「どうした?」
「どうした、とは」
ぎこちない笑みを見せて、長門は言った。
「まだ、表情が暗い」
「そう……かな。寝不足だからじゃないか」
提督は長門を見つめた。長門が気まずそうに視線をそらす。
しばらく考えてから、提督は言った。
「なにか悩みがあったから、眠れなかったのか」
長門は答えなかった。視線を海域図の上の艦船に向けたまま、口をつぐんでいる。
「──俺の留守中に、阿武隈ともめたそうだな」
長門が、はっと目を見開いて提督を見た。
「それは、違う」
「陸奥は、ただの誤解から生まれた行き違いだからほっといて構わないと言っていたが……何を言われた」
「提督、それは本当に違うんだ。阿武隈からは今朝、丁寧すぎるほどの謝罪を受けた。私たちの間で、そのことはもう解決した」
「じゃあ、本当はなんなんだ」
長門がふたたび口をつぐむ。かなりの間、唇を噛んで迷っているように見えた。
やがて、ためらいがちに口を開く。
「おとつい、軍令部に呼び出された理由──私とのことについて、だったって……」
思わず舌打ちをしそうになって、提督はなんとかそれをこらえた。
「陸奥から聞いたのか」
「昨夜、私が問い詰めて聞き出したんだ。陸奥には気にするなと言われたんだが……」
「そのとおりだ。まったく大したことじゃない」
長門は真剣な表情で、提督を見た。
「大したことないわけがない。私のせいで、提督の立場が──」
「おまえのせいじゃないし、立場が悪くなるってほどのもんでもない。痛くもない腹を一日じゅう延々と探られただけのことだ」
「腹を探られる……?」
提督は頷いた。
「正確に言えば、腹を探るふりで上の連中が圧力をかけてきた。本気で俺を疑ってるわけじゃない」
「なんの、疑いなんだ」
「機密情報の漏洩だとさ。例の宿で、俺が『何者か』に艦娘の情報を売った可能性があると。おまえはその『サンプル』として
「艦娘の情報……」
「くだらないよな。身元を明かしてテレビに出ている艦娘までいるってのに、なにが『サンプル』だ。馬鹿馬鹿しい」
提督は吐き捨てるように言って、溜息をついた。
二日前に軍令部にておこなわれた尋問めいた『調査』を思い出し、自分が熱くなっていることを意識した。少し間をとり、心を落ち着ける。
「要するに、ただの嫌がらせだ。いつものように、軍令部内の派閥争いのとばっちりだよ」
「疑いは、晴れた?」
「慰安旅行の下見ということで押し通した。軍令部の上層部にも味方がいないわけじゃないからな。そっちから手をまわしてもらって、この件は落着だ」
実際には落着というより痛み分けのような曖昧な着地をしただけなのだが、そこは表現の問題だろう──提督は無理やり自分を納得させた。
長門は眉根を寄せ、不安そうな表情を浮かべている。
「まだ、納得がいかないか」
「……今は嫌がらせで済んでいても、貴方が彼らの意のままにならないなら、私とのことが致命的な
「させないさ。連中に出し抜かれるほど、俺は阿呆じゃない」
長門は苦悩に満ちた表情で、ふたたびうつむいてしまった。
提督は椅子から立ち上がった。ゆっくりと歩いてテーブルを回る。
問うような視線で、長門が茫然と見つめてきた。
両肩を掴んで引き寄せ、口づけした。
最初は肩を強張らせていた長門から、次第に力が抜けていくのを感じた。
唇を離して、提督は長門を見つめた。
「ひとつ、おまえに詫びることがある」
瞳を揺らめかせ、長門が先に口を開く。
「慰安旅行は、中止──?」
「延期だ。近いうちとはいかないかもしれないが、いつか必ず行かせてやる。逆に燃えてくるじゃないか。意地でも皆を旅行させるぞ」
「提督……」
「旅行ごときに文句を言わせてたまるか。──俺が、おまえたちを守ってやる」
背筋を伸ばして、長門は震えた。
提督は長門の頭を抱き寄せ、自分の胸に強く押しつけた。
「今夜、部屋に来い。一緒に寝よう」
長門が息を詰める。意外にも返事はなく、頷きもしなかった。
「嫌か?」
抱く腕を緩めて提督が訊くと、長門はふるふると顔を左右に振った。
「そんなことない。でも──」
困り果てたような顔で、長門が提督を見上げる。
「でも──なんだ?」
「……貴方が、今夜はしっかり寝ろと」
提督は笑った。
腕の中の長門は少女のようで、たまらなく愛しかった。
不思議そうに見つめてくる長門の額を、人差し指で軽く弾いた。
「きゃっ……なに」
「いいか。『部屋に来い』ってことと『しっかり寝ろ』ってことには、なんの矛盾もない。俺の部屋で、ふたりしてしっかり寝るだけだ」
「あ……」
「何を期待してたかは、訊かないでおいてやる」
顔をみるみる赤く染めた長門が、恥じいったようにうつむく。
優しい気持ちになって、提督は長門の背を撫でた。
「でもまあ、少しぐらいならいいかもな。あんまり盛り上がりすぎないように気をつけて……で、そのあとお互いを枕にして朝までゆっくり眠る──こういうの、いいと思うだろ?」
耳朶まで真っ赤にした長門が、額を提督の胸にぶつけるようにうずめてきた。
うん──という小さな声が、胸のあたりから聞こえた。