「で、感想は」
「感想って、なんの?」
「さっきの映画の」
「──ちょっと待って。それより、注文決めた? すぐ決まりそうなら、店員さん呼んじゃうけど」
「もうとっくに決まってるが」
「え、そうなの? まだメニュー見てるから、迷ってるのかと思ったじゃん」
「おまえのほうこそ、まだ決めてないのかと思った。ろくにメニュー見てないだろ」
「もう常連だから、店に入る前から決めてたの。……でも、この新作パフェも美味しそうなんだよねえ」
「よく来るのか、この店には」
「うん」
「映画のあと、ふたりで」
「まあ、だいたいは。──あ、すいませーん。注文お願いしまーす」
「クリームソーダぁ……?」
「なんだよ。悪いか」
「いや、悪かないけど……提督さんのイメージじゃないよね」
「俺のイメージって、なんだよ」
「なんだろ……エスプレッソとか? 難しい顔で飲んでそう」
「じゃあ、次に来たらそうしてみるか」
「うんうん。あ、ちなみにこの店、ケーキも美味しいからね。そんときには頼んでみれば」
「評判の店らしいな。日曜日とはいえ、この時間帯でも満席とは驚いた」
「これでも空いてるほうだよ。雑誌とかテレビでもよく紹介されてるし」
「周りが若い女性ばかりで、どうにも落ち着かん」
「店員さんたちも美人ばっかりでしょ。さっき注文取りに来た人とか」
「ああ、きれいな子だったな」
「…………」
「おい。自分で話題を振っといて、ふてくされるな」
「あはは、冗談冗談」
「──で、感想は」
「あ、映画のね。うーん……」
「駄目か」
「いや、駄目ってほどじゃないよ。途中まではけっこう面白く観れてたんだけど……ラストがね」
「気に食わんと」
「ちょっと、取ってつけたようなハッピーエンドじゃない?」
「たしかに強引さは感じたな」
「でしょ」
「でもまあ、あの手の映画にはよくあるエンディングとも言える」
「まあ、そうなんだけどね。……私としては、ハッピーエンドってあんまり好みじゃないから」
「ほう」
「なんか、不自然じゃない? 嘘っぽいっていうか」
「リアリティを感じない、ってことか」
「そうそう、リアルじゃないよ。世の中そんなに、甘くない──って思っちゃう」
「まあ、あんまり悲惨なエンドにして後味を悪くしてもまずいんだろうな。デートで観に来る客層を考えると」
「……そっか」
「おまえみたいな映画通には、そういうのは物足りないかもな」
「べつに、映画通じゃないし」
「そうか? 休みにはよく観に来てるんだろ」
「まあ、そうだね」
「ビデオはどうだ。身分証があるから、レンタルの会員にもなれるだろう?」
「提督さん、今はネット時代だよ。わざわざ街まで借りに来なくても、月額いくらで観られるから」
「ああ、なるほど」
「まあ、提督さんが私たちのクレカつくってくれたおかげなんだけどね」
「感謝しろよ」
「はいはい。サンキュ」
「返事は一回にしとけ」
「はーい」
「……ねえ」
「ん?」
「これって、デート、かな?」
「まあ、そうなんじゃないか。一般的に言えば」
「……やっぱし?」
「まあ、おまえにとっちゃ俺は代打だからな。相手には不満だろうが」
「んー……どうかな。映画観るだけなら、提督さんとのほうが趣味が合いそう」
「なんだ、姉妹艦なのに趣味が合わないのか」
「映画の趣味は、ね。──エンディングは特に」
「おまえと違って、ハッピーエンド好きか」
「好きなんてもんじゃないよ。もうそれ以外は許さないってぐらい、がちがちのハッピーエンド主義者なんだ、翔鶴姉は」
◆
机の上にあるノート型端末の画面を指で操作し、提督はそこに並んだ名前を確認した。
「──順番からすると、次は翔鶴だな」
顔を上げて陸奥に言った。
執務机の向こう側の椅子に腰掛けた陸奥は、もう一脚の椅子の上へと両脚を投げ出すように置いている。
提督から顔をそらし、妙に無関心な様子でそっぽを向いて頷いた。
「そうね。これでやっと第3位、本来の順番に戻れるわ」
提督は、端末の画面に表示されたストレス値のリストに視線を戻し、あらためて上から順に眺める。
1位の長門、2位の神通に続く艦娘は、正規空母の翔鶴である。
上位2名と肉体関係をもったあと、はるかに下位の川内、9位の阿武隈と躰を重ねることになった。阿武隈は前線基地への配属もあって予定を繰り上げたものだが、川内に関しては完全にアクシデント──いわば提督の気まぐれによるものだった。
提督は陸奥の様子をしばらく窺い、つとめて明るい調子で口を開いた。
「なにか、策があるんだろう? だいぶ間も空いたことだし、ここはひとつご高説をお聞かせ願おうじゃないか」
陸奥が提督に顔を向け、どこか冷ややかさを感じさせる眼で見つめてくる。
そのまま視線をやや上に向け、小さく溜息をついてから言った。
「貴方、映画とか観る?」
「──映画?」
陸奥が頷きの代わりに軽く目を伏せた。
提督は、指先で顎を軽くさすりながら答える。
「そうだな……べつに嫌いじゃないが」
「映画館へは?」
「もう何年も行ってないな。……兵学校に入ったばかりの頃は、寮の近所にあった映画館によく行ったもんだが」
「……そう」
陸奥は肘掛けに片肘をつき、額を軽く押さえた。
「じゃあ当然、吹雪と一緒に行ったことはないってことよね」
「まあ、そうだな」
「……吹雪と一緒に街に出かけたことは? もちろん仕事じゃなくて、プライベートで」
睨むような陸奥の視線に戸惑いつつ、提督は首を振る。
「……いや。一緒に軍令部へ出向いたことはあるが、街に出かけたことはない」
「やっぱりね。ま、それはあとでいいとして──」
陸奥は椅子の上に投げ出していた脚を下ろして座りなおし、組んだ膝の上へ上体を乗り出した。
「リストの10位」
短く言われ、提督は端末の画面を眼で追った。そこにある名前を確認する。
翔鶴型航空母艦2番艦──
「──瑞鶴、だな」
「明日の午後、彼女──瑞鶴とふたりで映画を観に行って。終わったら、カフェでお喋りでも。……それ以上のことは、そっちに任せるわ」
「なんだ、それは」
「あ、たぶんこのあと、瑞鶴のほうから貴方にお誘いがくるはずだから」
「待て、もう少しちゃんと説明しろ」
厳しい調子で言った提督に、陸奥はおどけるように肩をすくめた。
「だって知らないんだもん、私も」
「おい……おまえが考えたんじゃないのか」
「違うわよ。考えたのは翔鶴。今朝、いきなりむこうから話を持ちかけてきたの」
そう言って陸奥は提督を見やり、小さく首を振る。
「翔鶴の意図がわからないから私はあまり乗り気じゃないんだけど、ボスのゴーサインが出たから仕方ないかなって」
「ボス?」
「吹雪に決まってるでしょ。──なに考えてるのかしらね、ふたりとも」
◆
「翔鶴姉はねえ、あまり隠しごととかできるタイプじゃないよ」
ひとり分というにはいささか過剰な量のパフェを8割ほどたいらげたところで、瑞鶴は提督に答えて言った。
提督は、クリームソーダの残りをストローから静かに飲み干す。氷が溶けてしまったせいで、ひどく水っぽい味になっていた。
ストローから口を離して言う。
「それは、おまえが翔鶴の姉妹艦だからそう思うだけじゃないのか」
「いやいや。かなりわかりやすいタイプだし、翔鶴姉」
「このあいだ、陸奥ともそのことを話してたんだが──」
言いながら、提督は空のグラスをテーブルの端に寄せた。
「──例の、『随伴艦事件』があっただろ。あのイメージもあって、意外と腹黒なんじゃないかってな」
「ああ、あれ! あれは傑作だよ。もうだいぶ前のことなのに、まだ笑えるもん」
瑞鶴は手に持ったスプーンで提督を指し、いかにもおかしそうに下を向いて笑った。
笑う拍子で、着ているパーカーの紐が揺れる。今日の瑞鶴は普段の和装ではなく、丈の長いTシャツにパーカー、下はショートパンツに黒タイツを合わせたカジュアルな格好だ。
「そういえば、あのときの翔鶴の話相手はおまえだったんだよな。結局、翔鶴に他意はなかったのか」
「ないない、絶対ない。あれは、『随伴艦』の意味を『同じ艦隊の仲間』みたいなもんだと思ってただけ」
「それはまた……」
「あの記事が出たあと、翔鶴姉、加賀さんにめっちゃ謝ってたからね。それこそ土下座しそうな勢いで」
「許してもらえたか」
「いやー、加賀さんも大人だよね。『貴女が本当にそれぐらいの自負で戦ってくれてるのなら、嬉しいことだわ』って」
瑞鶴は加賀の物真似をするように目を伏せ、声のトーンを下げて言った。
「なんだ。青葉の書き方だと、現場は一触即発の雰囲気だったとか」
「あれはちょっと誇張しすぎ。あの場にいたみんなが、ぎょっとしてこっち見たのは事実だけど」
「おまえも冷や汗かいただろ」
「ほんっとだよ。なに言い出すんだ翔鶴姉! って感じだった。──でも、あのときの加賀さんのびっくりした顔……!」
瑞鶴はひとしきり、声を押し殺すようにして笑っていた。
やがて顔を上げ、まっすぐに提督を見つめて言う。
「加賀さんも赤城さんも、もうだいぶ長いこと前線だよね。まだ交代させないの?」
「……現在検討中だ」
「私も翔鶴姉も、いつでも行けるよ。順番から言えば、次に前線に出るのは私たちでしょ」
「おそらくそうなるだろうが、戦力バランスの面でいろいろある。赤城はむこうの副司令だしな」
「そっか……まあ、指揮系統のほうは難しいよね。タイミングは、提督さんにお任せするよ」
瑞鶴はグラスの中から、溶けかけのアイスクリームをすくって口に入れた。
窓の外、アスファルトに反射する昼下がりの陽射しがまぶしい街路を見やって言う。
「……もしかしたら、前線との交代前には、もう翔鶴姉とふたり揃っての休みがないかも、か」
「すまないな。翔鶴に急な仕事を入れてしまって」
「あ、ごめんごめん。そういう意味じゃないからね。陸奥さんの手伝いで翔鶴姉が必要なんでしょ? 仕方ないよ」
瑞鶴は取り繕うように言い、手もとのスプーンを見つめた。少し声を落として続ける。
「それに……こうやって提督さんと街に来て、一緒に映画観れるのも、そうそうできることじゃないでしょ。来てくれるなんて思わなかったけど……誘ってみてよかった、かも」
眼を合わさずに言った瑞鶴の様子に、提督は思わず笑みをこぼした。
気配を察した瑞鶴が顔を上げた。かすかに頬を染め、子供のような眼で提督を睨む。
「……なによ。なに笑ってんの」
「いや、すまん。なんていうか──」
「なんか、爆撃してやりたくなってきた」
「それだけは勘弁してくれ。民間人を巻き込むのはまずい」
提督はそう言って、ごまかすようにグラスの水をひと口飲んだ。
瑞鶴が無言で睨み続けていたが、表情にはどこか和んだ雰囲気が感じられ、気詰まりな沈黙ではなかった。
唐突に、なにかを思い出したように瑞鶴が口を開く。
「──そうだ。提督さん、このあとゲーセン行こうよ」
「ゲーセン? なんだ、よく行くのか」
「まあ、たまに? 川内あたりと出かけたときなんかはね。ほら、あいつなにかと勝負したがるから」
「行くのは構わんが、俺はあまりゲームとかやらんから、はっきり言って下手だと思うぞ」
「うん、大丈夫。やりたいのは、クイズゲームだから」
「クイズ?」
「そう。ネットワーク通信でほかのゲーセンにいる人とも対戦できるやつ。川内とかと組んでやっても、ぜんぜん勝てなくて」
「なるほど、そんなのもあるのか」
「艦娘って、鎮守府でテレビはよく見てるから芸能とかアニメには強いんだけどね。あとは理系学問ぐらいかな、みんなができるのは」
偏差射撃や航海技術などで必要とされることもあってか、多くの艦娘が数学や物理にはそれなりに強い。そのほかにも気象や海洋、生理学など、理系寄りの知識に偏る傾向があるのは確かだろう。
「社会とか文系学問のジャンルになると、誰とやってもてんで駄目で。──提督さんって、海軍の大学校ですごい優秀だったって聞いたよ? 首席って言うんだっけ」
「俺は首席じゃない。同期で首席だった奴は、今の軍令部でお偉いさんの片腕だ」
「どっちにしろ、インテリなんでしょ? やってみようよ、ふたりで。優勝したことないんだ、私」
「まあ、面白そうではあるな。──いいぞ。やろう」
「よし! じゃ早いとこ、これ片付けちゃうね」
瑞鶴は嬉しそうに声を上げ、パフェの残りにスプーンを突き刺した。
◆
提督の眼に、吹雪は妙にはしゃいでいるように見えた。
「──どう思います?」
その吹雪が振り返って訊く。
何の話題だったかわからず、提督はひとり掛けのソファーに座ったまま、言葉に詰まった。
「──すまん。何の話だ」
「もう……明日のデートに着ていく服ですってば。瑞鶴さん、おしゃれにはかなりこだわりありそうだから、下手なものは着てけないですよ」
見ると、クローゼットから提督の服が数着分取り出されて、ベッドのカバーの上に並べられている。
さすがに海軍の制服は見当たらないが、かなりフォーマル寄りのスーツまで置いてあるのを見て、提督は苦笑した。
「そのスーツはない」
「そう……ですか?」
「ドレスコードのあるようなレストランに行くわけじゃないんだ。もっとカジュアルなのでいい」
「あ、じゃあこっちのジャケットなら──」
「吹雪」
端に置かれた服に手を伸ばしかけた吹雪が振り返る。
「服をしまって、こっちに来い」
「あの、でも──」
「いいから」
吹雪はベッドの上の服と提督の顔を交互に見ていたが、やがて素直に服をクローゼットに収め、ソファーのすぐ横まで小走りに駆け寄ってきた。
手を掴み、引き寄せてキスする。
唇を離すと、提督は自分の膝の上を叩いて示した。
「座れよ」
「あの、司令官……」
「いいから、座れ」
吹雪が困ったように眉尻を下げる。
やがて、失礼します──と小声でつぶやき、横座りの格好で、提督の腿の上におずおずと尻を置いた。
「なあ、吹雪」
「はい」
「来週か再来週か、はっきりとは言えないが近いうち、ふたりで、街にでも行かないか」
「え……街に? ふたりって、私と──ですか?」
「そうだ。映画でも食事でも、買い物でもいい。どこでも好きなところに連れてってやる。──要するに、デートだ」
「デート……」
吹雪は目を丸くして提督を見た。
提督は頷く。
「ほかの艦娘のあとになってすまないが、ふたりで、外に行こう」
瞬間、吹雪が顔を輝かせた。
瞳の奥に喜色がたたえられるのを、提督はたしかに見た。
が、すぐに吹雪は、咲きかけた笑顔を自分の内側に抑え込んでしまうように、
提督は覗き込むようにして、吹雪の顔を窺う。
「吹雪……?」
提督の問いにも、吹雪はじっとなにかをこらえるような表情をしたままだった。
やがて目を開け、明るい、ふっ切れたような笑顔を向けてきた。
「お気遣いありがとうございます、司令官。でも私は、大丈夫です」
「……吹雪」
「秘書艦として、こうしておそばにいられるだけでも、十分すぎるくらい幸せなんです。だから、お出かけに連れて行かれるなら、ぜひほかの艦娘を──」
「吹雪」
強い調子で声を発し、吹雪の言葉を遮る。
「俺は……ほかの艦娘にしてやったことを、おまえにもしてやりたいと思ってる。おまえがそういう特別扱いを望まないことはわかってるが……俺は、せめて、そうしてやりたいと思ってるんだ」
まわりくどい言い方をしていると、自分でもわかっていた。
吹雪は顔を伏せ、ひどく長い時間、逡巡しているようだった。
居たたまれなくなって、提督が先に沈黙をやぶった。
「困らせるつもりじゃなかった。すまない」
吹雪が顔を上げ、申し訳なさそうな眼で提督を見る。
「いえ、そんな。……私こそ、ごめんなさい」
「べつに、俺と出かけるのが嫌ってことじゃないよな?」
冗談めかして提督が訊くと、吹雪は懸命に首を振った。
「とんでもない……! 誘っていただけて、すごく、すごく嬉しかったです」
「なら、どうして断るんだ。女々しいかもしれないが、理由を教えてほしい」
提督は吹雪を見つめながら言う。
──そう、理由なんだ。知りたいのは。
それを、ずっと尋ねようと思っていた。
なぜ、この状況を受け入れていられるのか。なぜ、そんなに笑顔でいられるのか。
心も躰も、なにもかも知っている艦娘だったはずなのに、いつの間にかその内面にある感情を捉えられなくなっている気がしていた。
吹雪が、穏やかな眼で提督を見つめ返す。静かに口を開いた。
「きっと……私には、責任があるからだと、思います」
「責任? 秘書艦としての──っていうことか」
焦って言った提督に、吹雪は小さく首を振った。
「姉としての、責任です」
「姉?」
「私が最初の艦娘だから、みんなの、お姉ちゃんなんです。みんなを差し置いて、姉である私ひとりが幸せになることは、できないんです」
◆
街の河川敷に設置されたジョギングロードを、提督は瑞鶴とふたり、ゆっくりと歩いていた。
日曜日の、間もなく夕暮れどきになろうかという時間の河原には、あらゆる世代の人間が点在している。
芝生の上で子供を遊ばせている母親、雑種と思しき中型犬とリードを綱引きしている中学生くらいの少女、スケッチブックを抱えて座り込み、その上でゆったりと手を動かしている老人、階段状の堤防に腰掛けて肩を寄せ合う若い男女──視界に入るそういった人たちの生活の断片を、提督はやわらかい気持ちで眺めていた。
数年前、深海棲艦の艦砲射撃によって市街地に甚大な被害をこうむった事実も、こうしたのどかな光景からは遠い昔のようにも思える。
「街の平和──って感じ?」
提督の視線を読んでか、瑞鶴が言った。
提督が顔を向けると、邪気のない笑顔を見せる。ゲームセンターを出てから、ずっと上機嫌だ。
「まあ、悪くない光景だよな」
「ほんとにね。正義の味方がここにいますよ──って言えれば、もっと気分いいかも」
「よせよせ。こないだの件で苦情を言われるのがオチだ」
「あー……そっか」
瑞鶴は不満そうに、わずかばかり頬を膨らませてみせた。
先日の深海棲艦の出現騒ぎでは、市街地に対する砲撃射程外においての敵撃破に成功していた。艦娘による防衛ラインの存在しなかった数年前とは違い、予備避難が行われたことによる経済損失を除けば、民間被害は人的、物的ともに皆無である。
しかしながら、地元マスコミの論調としては、鎮守府による沿岸警備体制の不備を責めるものが少なくない。
数年前の惨禍の記憶を呼び起こさせ、住民を不安にさせた──というのが、批判的な論調の多くが依拠するところだった。
「誰も死なせてないんだから、もうちょっと感謝してくれてもいいのに──って思ったことない?」
「ない」
「ほんとぉ?」
「感謝状をもらったこともあるにはあるが、そういったものを目当てにやって、続けられるような仕事じゃない。──おまえたちの働きは、もう少し認知されるべきだとは思ってるが」
「まーたそういう、かっこいいこと言っちゃって──あ、前から人、来るよ。ほら、こっち寄って」
瑞鶴が提督の肘のあたりに腕を絡め、引っ張って道の端に寄せた。
前方から、高校生ぐらいの年頃の少年が走ってきていた。すれ違う一瞬、ジャージ姿のその少年が、盗み見るようにさりげなく、瑞鶴に視線を向けていったのが提督にはわかった。
背後の足音が遠ざかっていっても、瑞鶴は提督の肘から腕を外そうとはしなかった。
高い位置でまとめた瑞鶴の髪の房が、提督の肩のあたりに触れている。
腕を組んだまま、瑞鶴がふたたび笑顔を向ける。
「こうしてると、カップルっぽかったりするかな?」
「少しばかり年齢差があるから、どうだろうな」
「あ、そうか。前世入れて考えたら、私のほうが全然年上だもんね」
瑞鶴が冗談めかして言った。
提督は首を傾げて笑い、違いない──と言った。
「──ねえ、提督」
「なんだ」
「私たち、いいコンビだったよね、さっきのクイズゲームで」
「まあ、優勝したのは運がよかった」
「ううん、実力だよ。私たちふたりの」
瑞鶴が空いた手で、提督の二の腕のあたりを、ぽんと軽く叩いた。
「提督がさ、瑞鶴のことしっかり見ててくれたから、すごくやりやすかったよ」
「そうか? 自分がわかる問題だけ、適当に答えてたつもりなんだが」
瑞鶴は首を振る。
「いやいや、けっこう難しいんだよ、ふたりで答えるの。川内とやったことあるけど、もうめちゃくちゃだったもん」
「ああ……わからない問題でも適当に答えそうだな、あいつ」
「ほんと、それ。たまに翔鶴姉とやると、逆に譲り合いみたいになって、これも全然駄目」
「なるほど」
「その点提督は、わかんなくてもちゃんと自分の意見を言ってくれるし、基本瑞鶴に譲ってくれてたでしょ。気が利くなって」
「職業病だな。艦娘のご機嫌をとるのが癖になってる」
提督が言うと瑞鶴はけらけらと笑い、絡めた腕の先、提督の手の甲を平手で叩いた。
夕日で、河原が茜色に染まり始めていた。
唐突にジョギングロードは途切れ、ふたりは足を止めた。
眼の前の河原には背の高い草が生い茂っていて、踏み込んでいくのはさすがにためらわれた。
「ここまでか」
「そうみたいだね。……さっきの男の子、いつもここから走り始めてたのかな」
「かもな」
瑞鶴は立ち止まったまま、薄赤色に染まった草むらをじっと見つめていた。
周囲に人の姿はなく、草むらの上を
ふと、瑞鶴が言った。
「みんな、帰る場所がある」
意外なほど寂しげな声色に、提督は瑞鶴を見た。
瑞鶴に、表情はなかった。
「さっき、河原で見た人たち。みんな、日が暮れたら、自分の家に帰る」
「ああ、そうだな」
「あの男の子も、いつか走るのをやめて、家に帰る」
「そう、かもな」
「日が暮れても、私だけは、自分がどこに帰ったらいいのかを知らない。知らないのに、知ったような顔で歩き続けて、自分のぜんぜん知らないところに、なんとなく行ってしまうんだ」
相槌をうつことができず、提督はただ、黙って瑞鶴を見ていた。
提督に向かって話しているという感じではなく、心情の無自覚な吐露のように思われた。
「意外と、詩人だな」
瑞鶴が提督を見る。
「詩人?」
「おまえがな。今のは、詩だろ」
「べつに、詩じゃないよ。ただ、思ったことを適当に言っただけ」
「そういうのを、世間では詩と言う」
「ふーん……」
瑞鶴はぼんやりと言って、ふたたび草むらに視線を向けた。
幼さと大人びた雰囲気の入り混じったその横顔を見つめながら、提督は訊いた。
「おまえ、本は読んだりするのか」
「本って、小説?」
「そうだな。小説とか、文学とか」
瑞鶴は首を振った。
「ううん。翔鶴姉はよく小説を読んでるけど、私はせいぜい漫画ぐらい」
「なにか、読んでみたらどうだ。案外ハマるんじゃないか」
瑞鶴が提督を見た。自嘲的な笑みを浮かべている。
「私が? そんな、本好きそうなタイプに見える?
「そういった典型的なのとは少し違うが、意外と文学的ななにかを感じるな」
「ほんとにぃ?」
瑞鶴が茶化すように言った。
提督は、あくまで真剣に頷く。
「まあ、なんでもいいから読んでみればいい。映画や漫画以外にも、面白い世界があるかもな」
「ふーん……本、か」
瑞鶴は釈然としないような様子ではあったが、小さく数度、頷いていた。
提督は、右手側の土手に沿って、堤防の上に出る階段があるのを見つけた。
「さて、それじゃ行くか」
「どこに?」
「さあな。夕食には、まだちょっと早いか。それでもまあ、ここにつっ立ってるわけにもいかないしな」
瑞鶴は階段を仰ぎ見るように首を向けた。
しばらくして、提督に視線を戻す。
「提督さん、あのさ」
とらえどころのない、内面を窺わせない表情で、瑞鶴が言う。
「私、ちょっと、疲れちゃったかも」
提督は思わず眉を寄せた。
「疲れた?」
「──うん。けっこう歩いたでしょ。だから、ちょっと疲れた」
河原は1時間も歩いていない。距離にしてせいぜい3キロ前後といったあたりだろう。陸上と海上の違いがあるとは言え、普段から過酷な軍事行動に慣れている艦娘からすれば、まったく問題にならない距離のはずだ。
若草色の瞳が、提督を静かに見据えていた。
組んだ腕に、瑞鶴がほんのわずかだけ躰を寄せる。
肘に触れた柔らかい感触に、提督はようやくその意味するところを了解した。
ひそかに息を吸い、平静な調子で言った。
「──なら、少し休めるところでも探すか」
瑞鶴は夕日の色に頬を染め、提督を見つめたまま小さく顎を引いて頷いた。