「要するに、浮気ってことでしょ。間違いないわ」
切って捨てるように叢雲がそう言うと、部屋の両側にある二段ベッドから、第十一駆逐隊の面々の視線が集中した。
叢雲から見て右側のベッドの下段、布団の上で膝を抱えて座っている初雪が、興味を失ったように眼をそらした。
同じベッドの上段で胡座をかいている深雪は、腕組みをして叢雲を眺めている。叢雲と視線が合うと、何か文句でもあるのか──と言いたげに口を尖らせた。
逆側のベッドの下段で、ひとりきちんと膝を揃えて座っている白雪が、沈黙を破って言った。
「仮に浮気だとして、どうするつもりなの──叢雲」
白雪の表情はいつものように落ち着いているように見えたが、叢雲を見る眼には不安さが滲んでいた。
叢雲は答えて言った。
「私は、抗議しに行こうと思ってる。明日にでも」
「抗議? それって、まさか──」
「そう、執務室に行くつもりよ。あいつに、直接抗議する」
白雪はベッドの上を仰ぎ見て、深雪と顔を見合わせる。
初雪が、横目で叢雲を見ていた。小さく溜息をついたのが、叢雲にはわかった。
「何か言いたいことでもある? 初雪」
叢雲が問うと、初雪は横目で冷ややかな視線を送ってきたが、すぐにまた眼をそらした。
「べつに……ないけど」
近頃の初雪は、叢雲が吹雪の話題を出すたびに、いつでもこんな調子だった。ただでさえ愛想がないのが、いっそう無愛想になって怒っているようにさえ見える。
ベッドの上段で、深雪が口を開いた
「でもさ、浮気って決まったもんでもないんだろ? 夜中に執務室に入っていった艦娘が、明け方に出ていったってだけじゃあなぁ」
「それじゃああんたは、ふたりっきりで何をしてたと思うのよ」
「……極秘任務の指令、とか?」
「秘書艦の吹雪をわざわざ部屋から追い出して? ふたりっきりで夜中に何時間も? よっぽど極秘の任務ね」
叢雲が皮肉混じりに言うと、深雪は腕組みをしたまま首をしきりにひねった。
「うーん……でも、証拠がないじゃんか」
「状況証拠って言葉、知ってる?」
叢雲の言葉に深雪が顔をしかめたところで、白雪が割り込んだ。
「状況証拠で人は裁けないわ、叢雲」
白雪がめずらしく、普段の優しげな細い眉をひそめていた。
両手を小さく広げ、叢雲は返して言う。
「なにも、裁こうだなんて思ってない。そうね……あくまで警告よ。これ以上吹雪の存在を軽んじないように、っていうね」
「吹雪ちゃんの、存在」
「そうよ。あいつと吹雪の関係については、証拠なんて要らないぐらいにはっきりしてる。あなただってそれは認めるでしょ」
白雪は眉をひそめたまま下を向いた。
叢雲が言い募ろうとした矢先に、深雪がベッドの手すりにもたれながら、上体をなかば乗り出して言う。
「それなんだけどさ、そっちのほうだって、べつにそこまではっきりはしてないぜ。──あのふたりって、付き合ってるって決まったもんでもないんだろ?」
「はぁ?」
叢雲は思わず間の抜けた声を上げ、深雪を見上げた。
「なに言ってんのよ。あれで付き合ってないとか、ありえないでしょ。あんた、あのふたりの何を見てるのよ」
「いや、ふたりがそれなりに深い仲──深いっていうのかな、なんかあんだろーなー……とは思ってるよ。けど、それでも付き合ってるとは断言できないじゃんか。仕事以外で、デートしてるとかそういうこともないみたいだし」
「深雪……あんた、自分で吹雪に言ってたじゃない。『彼氏がいるやつはいいよな』って。忘れたの?」
「ん……あれはまあ、冗談ていうか──口が滑っただけだっつったじゃんかよ。しつこいなあ、叢雲は」
深雪は口ごもり気味に言って、頭の後ろを片手でわしゃわしゃと掻いた。
睨みつけるようにベッドの上段を見上げていた叢雲は、白雪の小さな咳払いに視線を引き戻される。
白雪は顔を上げていた。
「ねえ叢雲、一度吹雪ちゃんに話してみるのは、どう?」
「話すって……何をよ」
白雪が小さく頷いて言う。
「私たちが今、知っていること、考えていること、そういったのを、ぜんぶ。そうしたら吹雪ちゃんも、私たちに言えなかったことを──」
「駄目よ」
白雪が言い終わるのを待たず、叢雲は首を振って否定した。
「駄目って、なぜ?」
白雪だけでなく、深雪と初雪も揃って叢雲を見ていた。
叢雲は腕組みをして言う。
「吹雪がそのことを私たちに話さないのは、あいつに口止めされてるからよ。それなのに私たちが、『こっちが話したんだからそっちも話せ』って具合に迫ったら、あの子は完全に板挟みじゃない。苦しめるだけだわ」
白雪が、無言で床に視線を落とした。深雪は宙を睨むようにして天井を見上げ、初雪は小さく溜息をついて顔をそむけた。
叢雲は自分に言い聞かせるように言う。
「どちらにしろ、私は明日の午後にでも執務室に行くつもりよ。浮気疑惑の一件も含めて、吹雪のことをきっちりするように、話をつけてくる」
十一駆の部屋から廊下に出た叢雲を、あとに続いて出てきた白雪が呼び止める。
叢雲は振り返って言った。
「なに、まだなにか用?」
「ううん、べつに用ってわけじゃないけど……今夜は、こっちで寝ないのかなって」
「まあね。たまには自分の部屋で寝ないと」
叢雲の本来の部屋は十一駆の部屋の隣り、いわゆる『十二駆の部屋』である。とはいっても艦娘として着任済みの十二駆所属は叢雲だけであり、現状では実質的なひとり部屋となっている。
半年ほど前から、執務室に隣接する秘書艦用の控室で吹雪が寝起きしだし、それに代わるように叢雲が十一駆の部屋で寝るようになった。『前世』で叢雲が十一駆に所属していた縁もあって白雪が提案し、それに当の吹雪が強く同意したという流れだった。
使うベッドは白雪の上段、吹雪が使用していたものだ。
それでも十二駆の部屋には、週に一度は戻るようにしている。使っていないと寝具に埃が溜まりそうな気がするし、自分の所属を完全に十一駆にしてしまうというのにも、どことなく気後れのようなものを感じていた。
白雪が、叢雲を上目遣いに窺いながら言う。
「……怒ってる?」
「べつに怒ってないわ。そもそも怒る理由なんてないし」
実際のところ、白雪たちの態度に若干のもどかしさを感じているのは事実だった。ただ、告げるほどのことではない。
白雪が目を伏せるようにして、ほんのわずかだけ頭を下げた。
「ごめん」
「なんで、あなたが謝るのよ」
「私たち、何もできていないから。叢雲にずっと頼りっぱなしで」
「いいのよ、べつに。──想いは一緒でしょ」
顔を上げた白雪に、叢雲は頷いてみせる。
「あなたも私も、それから深雪と初雪も、みんな吹雪のことを応援してるって、わかってる。好きな男とうまく付き合っていってほしいって、そう願ってる。──でしょ?」
叢雲の言葉に、白雪が微笑む。叢雲も微笑み返したが、白雪はすぐにまた目を伏せてしまった。どこか憂いを帯びた様子なのが、叢雲は気にかかった。
「どうかしたの──白雪?」
「うん……」
白雪は少しためらったのちに、叢雲を見て言った。
「叢雲……本当に、大丈夫? 明日、司令官に話をつけてくるって……」
「ああ──それね。大丈夫よ、ちょっとお灸を据えてやるだけだから。火遊びしたら火傷するってことを、誰かが教えてやらないと」
叢雲は少しおどけたように言ってみせたが、白雪は不安げな表情のままだった。
◇
「あんたは大馬鹿者の、浮気者よ」
叢雲が言い放つと、提督は手に持ったマグカップに口をつけたまま顔をしかめた。ひとり掛けのソファーにもたれていた躰を前傾させ、テーブルにカップを置く。カップの中のコーヒーの液面からは、ほのかな湯気が上がっていた。
「いきなり、なんだ」
「自分の胸に訊きなさい。心当たりがないとは言わせないわ」
提督は困ったように眉を寄せ、首筋を掻いた。
「心当たりとは、浮気のか」
「そうよ。どの艦娘とのことを言ってるのかわからなくて、困ってる?」
叢雲は提督を睨みつけて言う。提督は片手で抑えるような仕草をした。
「まあ待て。順を追って話をしよう」
「順を追う? いいわよ。吹雪とあんたはいつから、どういう経緯で、
提督は顔をしかめた。
「手厳しいな」
「男として最低なことをしておいて、それでもみんな優しく接してくれるとでも思ってたの? この愚か者」
叢雲は長ソファーにそっくり反るようにして言った。文句をつけるにしても、ずいぶん居丈高な態度であると自分でわかっていたが、この男と話すときにはいつも、なぜだかこうした話し方になってしまう。
どことなく馴れ合いめいた雰囲気が出てしまうのが嫌ではあるのだが、艦娘として着任して以来染みついた習慣ゆえに、簡単に変えられそうにはない。
提督は苦笑し、首を振った。
「わかった。俺が大馬鹿者であるとして、おまえの言い分を聞こう」
「浮気のほうは認めないってこと?」
「その様子だと、それなりに確信がありそうだ」
「少し、調べさせてもらったわ」
「なら、否定しても無駄だろうな」
提督は、余裕のある様子でそう言った。
いつもの馴れ合いになりかけていることを悟って、叢雲は唇を引き締める。
「茶化さないで。──つまり、浮気は認めるってことね」
「どうだろうな。複数の艦娘と関係を持ったのは事実だが」
提督はあっさりと言ってのけ、少し間を空けてから続けて言う。
「それを浮気と呼んでいいのかは、微妙なところだ」
「……なぜよ」
「俺は、特定の誰かと婚約やら結婚やらをしているわけじゃない」
叢雲は息を呑んで、提督を見つめる。悪びれた様子もなく、提督が見返してくる。
「怒ったか?」
「あんたは、わざと私を怒らせようとしてる」
「そうでもない。事実ではある」
「……吹雪は、あんたと付き合ってると思ってるかもしれない。そうやって誤解させたままなら、浮気よ」
「なら、本人に訊きに行け。今もまだ工廠にいる」
提督は、執務室の窓へと軽く顎をしゃくって言った。叢雲の位置からは見えないが、窓の先には工廠の建屋があるのだろう。
吹雪は朝から、秘書艦として建造の立ち会いで工廠にいるということだった。
新しい艦娘は現代の基本的な知識とそれなりの運動能力を持たされて建造されるのだが、建造直後は人間に近いこの姿への適応が完了していないのか、歩行すらままならないのが普通だ。新規着任の艦娘の世話をするのが、秘書艦としての吹雪の仕事のひとつである。
今現在進行中の建造は、午後になってもまだ完了していないようだが、生真面目な吹雪は朝から工廠に詰めて待ち構えているらしい。
叢雲は息をつき、ふたたび提督を睨んだ。
「誰とも付き合ってないから、誰と寝ようが自分の勝手──あんたが言いたいのはそういうこと?」
「俺とその相手の、意志の問題だ。違うか?」
「ずいぶんと、男ばかりに都合のいい理屈に聞こえるわ」
叢雲は横を向いた。腹立たしかったが、ここで怒りを露わにするのは、この男に負けたような気がする。
「おまえは俺に、何を言いに来たんだ──叢雲」
問われて、叢雲は提督に向きなおった。重ねて提督が言う。
「俺が複数の艦娘と寝ている──それが事実かどうか、ただ確認しに来ただけなのか。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい」
「……吹雪を、正式にあんたの彼女にしなさい。そしてもう、あの子の存在を軽んじるようなことはしないで」
叢雲は絞り出すように言った。提督はしばらく沈黙したのち、答えた。
「なぜ──吹雪なんだ」
「なぜ、ですって──」
叢雲は一瞬、我を忘れて大声を上げそうになった。拳を握りしめて、なんとか耐えた。深呼吸をひとつしてから、言う。
「それこそ、自分の胸に訊けばいいじゃない。……私は、好き合ってる者同士が付き合うのは、いたって自然なことだと思ってるけど」
提督は黙ってテーブルの上のマグカップを見つめていた。やがて、静かに言う。
「もし俺がその要求を断るなら、おまえはどうするつもりだ」
「軽蔑するわ、あんたを」
提督が顔を上げた。
「それだけか」
「……私の仲間たちに、あんたが本当はどういう人間なのか、知ってもらわないといけない。それから、上のほうの人たちにも」
「上のほう?」
「そうよ。軍令部や、大本営の人たちにも知らせてやる。軍の機材である艦娘を、ただの司令官にすぎないあんたが、まるで私物のように扱ってるってね。指揮官不適格よ。さぞかし、偉い人がお怒りになることでしょうね」
提督が眉間に皺を寄せ、険しい視線で叢雲を見据える。叢雲は気後れを感じて、口をつぐんだ。
提督は急に真剣味の増した口調で言う。
「ほかの艦娘に話すのは、おまえの好きにしろ。だが、軍令部や大本営はやめておけ。いいように利用されるだけだ」
「え──」
絶句した叢雲に構わず、提督が続ける。
「上の連中には、俺たちが何かヘマをやらかすのを手ぐすね引いて待ってるのもいる。セックスに関するスキャンダルなぞは、奴らの大好物だろうよ。俺の首が飛ぶのは当然として、お前たち艦娘の立場までが危うくなる」
叢雲は立ち上がっていた。拳を握りしめたまま、提督に言う。
「それはつまり、本当に断るってこと?」
「俺が誰と付き合うかは、おまえに言われて決めることじゃない。吹雪が誰と付き合うのかも、同じことだ」
「そう──それが、あんたの答えね」
提督が静かな眼で、叢雲を見上げてきた。その顔にむかって、叢雲は吐き捨てるように言った。
「あんたはきっとまだ、真面目でまともなところがある男だって思ってた。どうやら、私の見込み違いだったようね」
「ご期待に添えず、悪かったな」
「──この、大馬鹿者」
叢雲は提督に背を向け、執務室を出た。
◇
叢雲が見上げた空は、鉛色に曇っていた。
鎮守府本棟の屋上庭園には、ほかの艦娘の姿はない。晩秋のこの季節でも、晴れた日の昼食時には少なからぬ数の艦娘たちが芝生の上で手弁当を広げているものなのだが、夕刻、日没も間近なこの時間帯に、この空の下ではそのような光景はありようもない。
叢雲は、階段室の脇にある木製のベンチに腰掛けていた。屋上の出入り口や広い芝生の場所からは死角となっており、ひとりで考えごとをするのには好都合な場所だった。
空を見上げた目を閉じ、叢雲は幾度目かの溜息をつく。
──どっちが、大馬鹿者なんだか。
昨夜白雪たちに大見得を切って、執務室に乗り込んだはいいが特筆すべき収穫はなかった。せいぜいが、複数の艦娘との関係を認めさせたことぐらいだ。
叢雲の想定していた話し合いの流れでは、あの男が浮気の言い訳を何のかんのとしようとして、それを叢雲が一喝し、最終的に吹雪との交際の言質を取りつける──というものだった。
浮気の一件を徹底的に追及する気など、もとからなかった。上層部への報告の話など、ほとんどその場かぎりのでまかせである。
抗議の目的はただひとつ、吹雪との交際を認めさせることだった。
それをあの男が拒否したことで、すっかり頭に血が上ってしまったのだ。
──ほんと、呆れるくらいの大馬鹿。
叢雲は溜息をつく。その思いが向けられた先は提督なのか自分なのか、あるいは別の誰かなのか、叢雲自身にも判然としていなかった。
海からの風がひときわ強く吹き、叢雲の色素の薄い銀髪を乱す。
二の腕を抱え込むようにして、叢雲は身を縮めた。階段室しか遮蔽物のないこの場所は、同じ屋外でも地上よりずっと躰が冷える。
「上着、持ってくればよかったわ……」
執務室から自分の部屋に戻らずそのまま屋上に来た叢雲が着ているのは、薄い制服一枚きりだった。今の季節には薄着すぎるだろうかとは思ったのだが、館内は空調が効いていたせいで高をくくっていた。
実のところ、叢雲は寒いのが苦手だ。艦娘として得たこの躰でひどく不便に感じることのひとつが、気温の変化に敏感すぎるということだった。
出撃時であれば艤装の効果で、温冷感を含めた諸感覚や身体的欲求が極端に鈍麻されているのだが、生身の今はこうして寒さに身を縮めることになる。
思考は、さっぱりまとまらなくなってしまった。
──もう、戻ろうかな。
折り曲げていた上体を、叢雲は起こしかけた。
その瞬間、両肩にふわりとした布地が触れた。
振り返ると、叢雲の座るベンチのすぐ後ろに吹雪がいた。いつものようにやわらかく微笑んで、わずかに前屈みの姿勢で立っている。
叢雲の肩に掛けられたのは、グレーのカーディガンだった。
「やっと見つけた、叢雲ちゃん」
そう言うとベンチを跨ぎ越え、叢雲の隣りに腰を下ろす。
「吹雪……どうして、ここに」
「どうしてここには、こっちのセリフ。──ほら、ちゃんと袖も通して。風が強いんだから」
吹雪は言いながら叢雲の手を取り、羽織らせたカーディガンの袖に通そうとする。吹雪自身は叢雲の五分袖よりも短い半袖の制服姿である。
「ちょ、ちょっと待ってよ。これ、あんたが着てきたんでしょ。私は平気だから──」
「もう、また無理しちゃって。叢雲ちゃんが寒そうに縮こまってるの、ばっちり見てたからね」
「でも、あんたが」
「私は平気。寒いのには強いから」
吹雪は制服の袖をまくり上げ、二の腕を見せる。たしかに、鳥肌も立っていなかった。
仕方なく、叢雲はカーディガンの袖に腕を通す。先ほどまで吹雪が身に着けていたのだろう、ほんのりと暖かかった。
「──あんた、工廠で仕事だったんでしょ。そっちは終わったの?」
叢雲が訊くと、吹雪は頷いた。
「うん、いちおうね。ついさっき、ひと区切りついたから」
「ってことは、新しい艦娘が」
「そう、建造完了──狭霧ちゃんだよ。特型駆逐艦の十六番艦だから、私たちの妹」
心底から嬉しそうな笑顔で、吹雪が言った。
狭霧──と叢雲は小さくつぶやく。どこか懐かしい響きであるような気がした。おそらくは『前世』で縁があったのだろう。
上機嫌そうな吹雪の様子を見ていると、叢雲もつられて微笑みそうになる。慌ててそっぽを向き、皮肉な調子をつくって言った。
「──その大事な妹をほっぽらかして、こんなとこで油を売ってていいのかしらね。建造されたばかりじゃ、ろくに躰も動かせないんでしょ」
「うん。でも、建造が終わってからずっと天霧ちゃんが付きっきりだから。狭霧ちゃんにぴったり張りついて、暑くないか寒くないか、欲しいものはないかって、ちょっと過保護すぎかもってぐらい」
吹雪は晴れやかに笑って言った。
特型駆逐艦の十五番艦である天霧は狭霧のひとつ上の姉妹艦で、こちらも艦娘としてはつい先日着任したばかりの新参といえる。
その天霧にとって狭霧は、艦娘として初めての『妹』だった。
叢雲はふと、笑みを漏らしてしまった。
「私のときのあんただって、同じだったわ」
そう叢雲が言うと、吹雪は照れたようにうつむく。
艦娘として、叢雲は吹雪にとって最初の吹雪型の『妹』だった。
殺風景な工廠の建造部屋で目を覚ましたときの、最初に視界に入ってきた吹雪の表情を、今でも叢雲は忘れようもない。
ベンチに並んだまま、叢雲と吹雪はしばらく視線も合わさずお互いに黙ったままでいた。
やがて、叢雲から口を開いた。
「──それで、私に何の用? あいつに言われて来たのよね」
そう言って叢雲が見やると、吹雪は小さく首を傾げるようにした。
叢雲は続けて言った。
「とぼけないで。あいつから聞いてるんでしょ」
「あいつって……司令官?」
「そう。説得でも頼まれた?」
吹雪は首を横に振った。
「執務室にはさっき行ったけど、司令官からは叢雲ちゃんのこと、何も聞いてないよ。私が建造の件を報告しただけ」
「でもあんたは、私を探して来たんじゃ──」
「聞いたのは、初雪ちゃんから。そのあとで、白雪ちゃんからも」
「え……」
「初雪ちゃんが、工廠に来てね。叢雲ちゃんがいろいろ大変そうだから、ちょっと話をしてやってって、それだけなんだけど」
叢雲は言葉を失う。昨夜の初雪の無関心そうな様子からは、想像しにくい話だ。
「それで、部屋にいるかなって思って寮のほうに行ったら、白雪ちゃんがいて。やっぱり叢雲ちゃんのこと、すごく心配してた」
「そんなの……」
話があべこべじゃない──という言葉を、叢雲はうまく吐き出すことができなかった。心配されているのは自分ではなく、吹雪だ。
叢雲は目を閉じ、自分を落ち着かせて言った。
「──白雪は、あんたに話したの? 私が執務室に行ったことを」
「うん、聞いた。司令官に抗議しに行ったって」
「……何に対しての抗議か、ってことも?」
「ううん、それは聞かなかった。でも……わかってる。何に対する抗議かってこともそうだし、それを私に知られないようにしてた理由も」
膝の上で握りしめられていた叢雲の手に、そっと触れてくる感触があった。
「叢雲ちゃん、ありがとう……それに、ごめん」
「なんであんたが、謝るのよ。あんたは何も、悪くないじゃない」
「ずっと、みんなに話さなきゃいけないこと、黙ってた。みんなが優しくて、それに甘えてた」
「そんなの、
「うん……でもね、だからこそ、私はきちんと話さなきゃいけなかったと思う。私がそうしなかったから、叢雲ちゃんにつらい思いをさせた」
「私は、つらくなんか──」
「司令官のことも、誤解させた。司令官がしていることは、叢雲ちゃんが考えたような、そういうこととは違うの」
叢雲は目を開いた。
いつの間にか、日がほとんど沈みかけている。ふたりの周囲にはすでに、蒼暗い夜の色が落ちていた。
陰を濃くした吹雪の顔を、叢雲は見つめる。
叢雲の手を強く握り、吹雪は言った。
「私が頼んだことなの──みんなを、抱いてくださいって」
◇
部屋のベッドに躰を横たえた叢雲は、布団の中で幾度目かの寝返りをうつ。
照明を落とした十二駆の部屋は暗かったが、すでに目が慣れていて、枕元に置いた目覚まし時計の文字盤をはっきりと見ることができた。
もうすぐ、午後12時になろうとしている。
屋上から逃げるように部屋に戻ってきてすぐにベッドに入ったのだから、6時間近く横になっていたことになる。動揺のあまり時間感覚が狂っているのかもしれないが、それほど長時間が経っているようには思えなかった。自覚はなかったが、少し寝てしまったのかもしれない。
──12時。
その事実が、叢雲の胸の内に不安となってこびりついた。
いっそのこと熟睡してしまって、翌朝になっていればよかった──懊悩しながら、叢雲は枕に顔を押しつける。
『どうして?』
屋上で吹雪に問いかけた自分の声が、脳裏に響いた。
『どうしてなのよ──吹雪。どうしてそんなこと、頼んだの。そんなのぜったい、間違ってる』
『理由は、いろいろなんだよ。ひと言じゃ説明できないぐらい』
そう答えた吹雪は、どこか遠くを見ているようだった。
『──それに、それが間違いだなんて、私は思ってない』
『そんなの……嘘よ。ぜったい、つらいに決まってる。好きな男が自分以外の、ほかの艦娘と寝るのを認めるなんて、そんなこと……』
叢雲はベンチから立ち上がっていた。それ以上吹雪と話していると、自分が何を口走ってしまうかわからなくなっていた。
吹雪は小さく唇を噛み、眉をひそめて叢雲を見上げてきた。悲痛なものを含んだ眼だった。
『だから、わかってほしいの。叢雲ちゃんにも』
『なにが、だからなのよ……! 意味がわかんない──わかりたくもない。あんたが何を考えてんのか、私にはさっぱりわかんない』
叢雲は吹雪に背を向けた。駆け出そうとしたところで、背後から吹雪が言った。
『叢雲ちゃん、今夜、執務室に来て。今夜の──12時に。来てくれれば、きっと叢雲ちゃんにもわかる──』
時計の長針が、ぴったりと短針と重なった。叢雲の意識が、暗い室内に引き戻される。
絶対に行くものか、行ってやるものか──部屋に戻ってきてからずっと、そう考えていた。
叢雲は布団をはねのけ、ベッドの上で上体を起こす。そわそわと落ち着かない気分で、とてもこのまま寝られそうにはなかった。
──まさか、吹雪。
叢雲の脳裏に、睦み合う提督と吹雪の姿がよぎる。抱き合って笑いながら、口づけを交わしている。叢雲はきっと、それを部屋の隅で眺めているだけで──
慌てて顔を覆い、すぐさま頭を掻きむしった。胸の中が、嵐の直前の海のように不穏にざわめいていた。
立ち上がり、部屋の端にある机の前まで歩いていく。
椅子には、グレーのカーディガンが掛かっていた。屋上で吹雪に着せかけられたまま、返すのも忘れて部屋に持ち帰ってしまっていたのだ。
叢雲は大きく息を吐くと、カーディガンを取り上げて机の上に広げた。前のボタンをひとつだけ合わせ、丁寧に全体を伸ばす。
皺にならないよう注意して袖を折りながら、叢雲は思った。
ふたりはきっと、執務室の扉に鍵を掛けているだろうと。
そうであれば、自分は黙ってこの部屋に戻ってくればいい。そのときにはきっと、熟睡できるような心持ちに戻っているに違いない。
叢雲はほとんど祈りながら、ことさらにゆっくりとカーディガンを畳んだ。
◇
執務室の扉に、鍵は掛かっていなかった。
呆気なく開いた扉の内側に躰をすべり込ませるようにして、叢雲は照明の落ちた薄暗い室内に足を踏み入れた。そんなに簡単に歩を進められることが、自分でも意外だった。
「来たか」
声の方向に顔を向けると、昼間に叢雲が座っていた長ソファーに提督が腰を下ろしている。制服の上を脱いだワイシャツ姿だった。
オレンジ色の光を放つスタンドが、ローテーブルの上にあった。
提督はしばらく叢雲を眺めていたが、やがて視線を落とした。手にはなにか、数枚の書類をまとめたような冊子が握られている。
それをぼんやりと見やった叢雲は、扉を閉めた。なにげない手つきでシリンダー錠を回し、鍵を掛ける。
──どうして、鍵を掛ける必要があるのよ。
自問しても、当然答えは返ってこない。
夢の中にいるかのように、自分の行動に現実感がなかった。
両手で吹雪のカーディガンを抱いたまま、ソファーの端に立つ。
書類からふたたび顔を上げた提督に、叢雲は言った。
「まだ、仕事?」
提督は、いや──と首を振り、書類の束を置いた。いくつか似たような冊子状の束が、テーブルの上にあった。
「おまえが来るのかわからなくて暇だったから、なんとなく眺めていただけだ。仕事ってほどのもんじゃない」
「……海域報告書?」
冊子の表紙に印刷された文字を、叢雲は読んだ。
「……夜になってもまだそんなの読んでるなんて、あんたはやっぱり、要領が悪いわ」
昼間、この場所に抗議に訪れたときのことを叢雲は思い出す。提督はどことなくぎこちない手つきで書類に押印をしていて、叢雲はしばらく待たされたのだった。
提督は小さく肩をすくめた。
「俺の要領が悪いのは否定しないが、今日の仕事の遅れは秘書艦が悪い。吹雪のやつ、なんだかんだで結局ほぼ一日サボっちまった。そろそろ代役でも募集しなきゃいけない時期なんだろうな」
冗談めかして言った提督に合わせて、叢雲も少し笑う。
提督が尋ねた。
「座るか?」
叢雲は少し迷った。迷った結果、空いているひとり掛けのほうではなく、長ソファーの端に腰を下ろした。提督とはひとり分程度の空間をあけて隣り合っている。
腕の中のカーディガンを抱きしめ、言った。
「……あんたは、そのまま仕事してなさいよ。私は、すぐに帰るから」
しばらくの間を置いて、提督は、そうか──とだけ答えた。書類に手を伸ばしたが取り上げず、表紙の端を指でいじくっていた。
真横に座る提督を直視することはできなかった。テーブルの天板が、スタンドのオレンジ色の光を鈍く反射させている。
「吹雪は……いないの?」
「十一駆の部屋だ。皆に大事な話をすると言っていた」
腕に抱いたカーディガンを、叢雲は見つめた。皺にならないよう気をつけながら折ったのに、強く抱きしめすぎたせいで、
なぜだかひどく、泣き出したくなった。
「あんたは……いいの? それで」
波立つ胸の内を抑えて、叢雲は尋ねた。
「どうせ、おまえたちには知られてしまっているんだ。今さら口止めもない」
「口止めのことなんかじゃなくて!」
思わず大声で言ってしまい、叢雲はさらにうつむいた。感情を抑制できない自分が、ひどく無様である気がした。
「……そういうことじゃなくて、吹雪のことよ。あんたは、あの子が自分から離れていっても、平気なの? 自分がほかの艦娘と寝るごとに、あの子の心が離れていっても、平然としていられるの?」
言葉の終わりのほうは、声が震えるのを隠すことができなかった。鼻の奥が痺れたように疼いていて、まともに顔を上げることができない。
提督が、静かな声で答えた。
「平然とは、いかないだろうな。俺はそこまで割りきれるタイプの人間じゃない」
「じゃあ……どうしてよ。どうしてあんたは、ほかの艦娘と寝たりするのよ……!」
叢雲は顔を上げた。
提督が、叢雲を見つめている。瞳の奥に、屋上での吹雪の眼に見たのと同じ悲痛さが、揺らめいていた。
提督が手を伸ばし、叢雲の頬のあたりを親指でこするようにした。
初めて、叢雲は自分が涙をこぼしていることに気がついた。
「おまえたちに、そんなふうに泣いてほしくない」
「私は──」
泣いてない──と言おうとした瞬間に、提督が叢雲を引き寄せた。ワイシャツの胸に顔を押しつける格好で、抱きとめられる。
「悪かったな」
髪の上から叢雲の頭を撫で、提督が言った。
頷くべきか、首を振るべきか、叢雲はわからなかった。
ただ、初めて接した男の胸は暖かく、叢雲をこの上なく安心させるなにかが感じられた。
そっと、ワイシャツの生地の下の感触を確かめるように頬をこすりつける。
片手だけではなく、両腕でもっと強く抱きしめてほしかった。
だから、口走ってしまった。
「抱いてよ──」
発した言葉の意味に遅れて気づき、叢雲は狼狽する。
そういう意味じゃない──と言いかけたその瞬間に、提督の腕が叢雲の背にまわされた。ゆっくりと、強く、引き寄せられる。
「こうか」
提督が耳もとで問う。
「……うん」
頷いた叢雲は、自分がまだ吹雪のカーディガンを両手で持っていることに気がついた。
恐る恐る、手を離してみる。
ふたりの躰の隙間を滑り落ちていったカーディガンは、横座り気味になった叢雲の膝の上で、形を乱して広がった。
叢雲は、提督の胸に両手を添え、上体を預けた。
心地よさと安堵感が、ゆるゆると全身に広がっていった。
同時に、名状しがたいもどかしさをも感じていた。このままでは決して満たされない何かが、叢雲の下腹の奥で揺れている。
顔を上げ、提督を見た。
提督もまた、叢雲を見ていた。問うような眼だった。
叢雲は躊躇したが、言うことにした。今度は口走るのではなく、はっきりとした自分の意志で。
「抱いて──」