秘書艦用の席で、叢雲が大きく背を反らして伸びをしていた。提督の視線に気づくと、取り澄ました表情をつくって姿勢を正す。
しかしすぐに思いなおしたのか不満そうに眉をひそめ、不躾な視線に対する抗議のつもりでか、執務机のほうに向けて顎をしゃくってきた。
提督は首を振り、手もとの報告書の束に視線を戻した。書類を一枚繰りながら尋ねる。
「疲れたか」
叢雲が小さく鼻を鳴らした。強がった言葉が続くと提督は予期していたが、意外なほどの素直な調子で、そうね──と叢雲は言った。
「──なんだか気のせいか、前に手伝いでやったときよりずっと大変になってる感じ」
「それは、気のせいじゃないだろうな」
提督は応じながら、さらに一枚ページをめくった。
「ひとりとふたりとでは、勝手も仕事量も当然違う。以前より艦娘の数も増えた」
「それを差し引いてもよ。しかも、まだ午前中が終わるってところなのに」
「今日は金曜だから細かい締めの作業が多い。週末の外出届も今頃になって出すやつが多いから、押印するのもひと仕事だっただろう」
「そうね、腕が疲れたわ。やる前は余裕って思ってたけど、これじゃ吹雪も案外手際がよかったのかもって思えてきたわ」
視線を向けると、叢雲は怠そうに右の手首を回していた。
「おまえは初日みたいなものだから、仕方ないだろう。まだまだ新米だ」
提督が冗談めかして言うと、叢雲は口を尖らせて黙った。手首を胸の前で掴んだまま、探るような眼を向けてくる。
やがて、妙に慎重な口調で言った。
「それって明日以降も、私に秘書艦をやらせるつもりってこと? 今日かぎりの臨時だと思ってたんだけど」
「週末、外出するのか?」
「……ううん、べつに」
「特に大きな任務も入ってないだろう? おまえがやってくれればありがたいんだが」
「まあ代行ってだけなら、私はべつに構わないんだけど。えっと……」
叢雲が言葉を濁す。提督は、ふと思いついて言った。
「秘書艦手当てなら、週末は少し色をつけてやれるが」
「ばか、そんな心配をしてるんじゃないわよ。……じゃあ、とりあえず陸奥さんに確認してみて。それで、私で大丈夫って言ってくれるなら、明日以降もやってあげていいわ」
「──陸奥には、秘書艦の選出にまで口を出す権利はないぞ」
「いいから、ひとこと確認するだけよ。それが私のほうの条件。──ほら、あんたはそっちの報告書、とっとと確認しちゃいないさい」
しきりに促され、提督は釈然としない思いで報告書に眼を戻した。
最後の一枚の確認を終え、署名を入れる。他の報告書と一緒にまとめ、大判の封筒に収めた。
「それで終わり?」
「とりあえずの分はな。そっちで押印してもらった書類とひとまとめにして、大淀のところに持っていくだけだ」
「待って。外出届に一通だけ変なのがあったから、ちょっと見てもらいたいんだけど──」
叢雲は立ち上がって腕を伸ばし、提督の机に一枚の書類を置いた。押印されていない外出届だった。
「全部横文字で書いてあるのよ。しかもこの崩し字、筆記体っていうの? 読めないし、名前欄も空白だしで、手のつけようもなくって」
「フランス語だ。リシュリューだな」
「え、あんたわかるの?」
「いや、ほとんど読めないが、前に似たようなことがあった。日本語が話せても書けないというのは承知しているから、吹雪に伝えるか、せめて英語で書いてこいとリシュリューには言っておいたんだが」
「これ、どうするの?」
「明日の日時は書いてあるが、行き先も交通手段もわからんな。──まあ、却下しておくか」
提督が返した申請書を受け取りつつ、叢雲は眉をひそめた。
「却下だなんて、かわいそうよ。吹雪がいないから、誰に伝えていいかわからなかっただけかもしれないのに」
「そうは言っても、読めないからな」
「──なら、私が直接リシュリューさんに聞きに行くわ。この時間なら、もう食堂に来てるかも」
憤るように言った叢雲に、提督は微笑んだ。
「それなら秘書艦に任せよう。面倒な仕事で申し訳ないが」
「あんた……もしかして、私がそう言い出すのをわかってて?」
「おまえも吹雪型だってことだな。──少し早いが、食堂に行ったらそのまま休憩にしてくれ」
叢雲は書類を両手に持ったまま、きつい眼で提督を睨んできた。
「戻ってくるわよ。お弁当なの」
「弁当──そうか」
提督が応じたあとも、叢雲は立ち去らなかった。不機嫌そうに唇を尖らせたまま提督をしばらく見つめ、やがてそっぽを向いて言う。
「いちおうふたり分、あるのよ。……材料、余っちゃったから」
◇
揃った書類を大淀に提出して戻ってきた叢雲と、執務室で昼食にした。ふたり分の弁当を広げたテーブルはかなり前に金剛がお茶会用だと言って勝手に持ち込んできたもので、最近はもっぱら執務室内での食事用に使われているものだった。
白雪に教えてもらいながら作ったという玉子焼きを箸でつまみつつ、叢雲が言う。
「──買い物じゃなくてドライブなんだって。コマさんの軽で」
「コマは明日、任務が入っていたな。出かけるのはリシュリューひとりでか」
「うん。気ままに走らせたいから、どこに行くか決めてないって。──ほんとに承認でよかったの?」
「いいんじゃないか。カーナビがあるから迷子になったりもせんだろうし」
「リシュリューさんにかぎって、迷子はありえないでしょ。なんでも最初からピシッと決めてくる艦娘よ」
「案外ああいうやつのほうが、どこか肝心なところが抜けてたりするもんだ」
言いながら、提督も自分の弁当箱の中の玉子焼きに箸を伸ばした。
さりげなく見比べてみると、叢雲の弁当箱の玉子焼きのほうが、色合いにおいてもふっくら具合においても、こちらのより格段に見栄えよくできている。教えてもらいながらと言っていたわけだから、どうやら叢雲の食べているほうが、白雪の手によるものなのだろう。
提督の視線には気づかない様子で、叢雲が言う。
「それにしても、執務室の仕事ってほんとに書類だらけなのね。なんとなくわかってはいたけど、ここまでだとは思わなかったわ」
「軍隊というのも、軍政部分では役所仕事と変わらない。軍令にしても報告書や命令書は常に求められるから、いわゆる文書主義というやつだな」
叢雲は箸を止め、提督を見た。
「その、軍政とか軍令とかって、結局なんなの? ときどき聞く言葉だけど」
「どこでだ? ときどきというほどには聞かない単語だろう」
「それはまあ……いろいろよ。今だってあんたも言ってたじゃない」
「俺以外から聞くことがあるのか」
追及されて、叢雲は面倒そうに顔をしかめる。箸で弁当箱の縁をコツコツと叩いた。
「……だから、艦娘同士だってあれこれ話をすることがあるのよ。この鎮守府の状況とか、上の組織との関係とか。そういうときに少し事情のわかった艦娘がいると、そういう単語が出てくるの」
「なら、その事情通に訊いてみればいいんじゃないか」
「そういうわけにもいかないわよ。みんながなるほどって納得してるときに初歩的な質問したら、なんだかひとりだけ馬鹿みたいじゃない」
「そうか」
提督は相槌を打ちつつ、その場にいた大半の艦娘も言葉の意味がよくわからないままに納得したふりをしている場面を想像した。
「──で、軍令と軍政って?」
ふてくされた表情の叢雲が、焦れたように言った。
提督は叢雲をしばし眺めてから答えた。
「軍組織の活動のうち、直接的な軍事行動、つまり用兵や戦術に関わるものが軍令で、財務や人事、装備調達といった組織管理に関わるほうが軍政だ」
「……作戦を立てたり実際に戦ったりするのが軍令で、裏方が軍政ってこと?」
「極端に平たく言えばそんなところだが、細かい点では違う。──例えば兵站に関しては、裏方仕事でありながら軍令部門だといえる。加えて、両者の境界線には曖昧な部分も多い」
「この鎮守府で例えるなら、裏方担当の明石さんや大淀さんも、ときには戦闘訓練もしている──みたいな?」
「なかなか上手い例えだな。おまえ自身もまさに、水雷戦隊という軍令部門に属しているが、秘書艦として軍政分野の業務にも関わることになった」
秘書艦代行よ──と叢雲は短く訂正し、少し思案してから続けて言った。
「海軍の軍令部門のいちばん上が、軍令部?」
「陸海両軍の軍政と軍令を統括する大本営を別にすれば、そうなるな。個人の役職というなら軍令部総長だ」
「じゃあ軍政のほうは?」
「海軍省だな。そちらのトップは海軍大臣だ」
「ふーん……」
叢雲はうつむき、何かをじっと考え込むような表情をした。
ためらいがちに、提督を上目遣いで見る。
「それじゃあ──私たちの鎮守府は、その軍令部と海軍省と、どっちを味方にしているの?」
提督は意表を突かれた思いで、叢雲を見つめた。叢雲はばつが悪そうに視線をそらす。
「……私が知るべきことじゃないなら、べつに言わなくてもいいけど」
「いや──少し驚いただけだ。おまえたち艦娘の間で、そんなことが話題に上がっているのか」
「まあ……ね。任務や作戦の出どころだとか、私たちの将来の処遇についてとかで、そういう話をすることもあるわ。愚痴とか噂話みたいなものだけど」
「そうか」
提督は箸をいったん置き、緑茶の入った湯呑みを口に運んだ。
鎮守府をとりまく政治的状況を知る艦娘は、それほど多くはいない。世間的な知識そのものが欠落している艦娘すらいる環境下では、身内に対する事実誤認や過度な反感が広がるのは避けなければならなかった。
慎重に考えを頭の中でまとめ、口を開いた。
「まず──大前提として、軍政と軍令というのは単なる軍組織の機能的な分類であって、本来対立する組織ではない。海軍省も軍令部も、鎮守府と目的を同じくする仲間であり、同胞だ。そのことは、おまえたちには忘れてほしくないと思っている」
「うん」
「そのうえで、おまえたちが現在どういう状況にあるのか、という話だ。まず作戦や任務の遂行に関してだが、この鎮守府もその指揮下にある艦娘たちも、すべて軍令部の指揮管理下ということになっている。これは、ほかの海域を担当する鎮守府や艦艇においても、同じことが言える」
叢雲が頷いた。
海域哨戒や商船護衛といった日常的な任務の大部分は鎮守府の裁量に任されているが、その成果や得られた情報については、軍令部への報告義務が課されている。
筆不精の川内に代わって哨戒報告書の作成をおこなうこともある叢雲には、そのあたりの事情はなんとなくわかっていたのだろう。
提督は続けた。
「その一方で、政府ならびに海軍所有の機材としての艦娘の管理は、海軍省の管轄ということになっている」
「……それってつまり、私たちの本当の持ち主は海軍省ってこと?」
「いや、所有権はあくまで総体としての海軍、ひいては政府にあるというのが正式なところだ。例外として、海外艦は所有各国への戦後の技術提供も含めた借款契約ということになっているし、あきつ丸とまるゆは本来は陸軍の所有だ。いずれにしろ海軍省は、あくまで名目上、兵器としての艦娘の管理者というだけにすぎない」
「名目上の……管理者ね」
神妙な顔をして、叢雲がひとり頷く。
提督は、やや複雑な心境がしていた。話題が話題なだけに仕方がないのだが、艦娘自身の眼の前で、『機材』や『所有権』といった単語を使うことには若干の後ろめたさがある。
叢雲に不快げな表情や気配が見られないのが、救いではあった。
「──おまえたちが実績を上げだしてからは特に顕著だが、艦娘の戦闘能力についての詳しいデータを海軍省はしきりに欲している。鎮守府自体は軍令部の管理下だから、作戦行動に関わる艦娘の情報を軍政側に引き渡すというのは、軍令部の上層部があまりいい顔をしない──とりあえず海軍省にはそういう言い訳で、データの提供はずっとごまかしつづけている」
「……それって、すっごい揉めてそうな状況ってことよね。縄張り争いとか、利権争いとか」
「そういう状況をわざとつくり出している──ということでもある」
叢雲が得心のいかなそうな顔をした。提督は肩をすくめてみせる。
「海外や陸軍も含めてだが、俺たちの頭の上でいろんな連中が綱引きしてくれている状況というのが、いちばん都合がいい」
「都合って、何のための都合?」
「深海棲艦との戦いが終わったあとで、おまえたちが自由に生きられる道筋をつくるための、都合だ」
叢雲が目を見開き、つかの間提督を見つめてきた。やがて、顔をわずかにうつむけて小さく笑う。
「今だって、みんなけっこう自由にやってると思うけど」
「そうだな。深海棲艦がうっとうしいのを除けば、今の状況もそれほど悪いものじゃない」
「そうよ……悪くないわ」
叢雲は下を向いたまま言った。小さな声ではあったが、叢雲にしては珍しいほどの、素直な感情が滲んでいるような気がした。
話が一段落し、中断してしまった食事を再開したものかと提督が考えていると、叢雲が顔を上げた。
「もうひとつだけ、訊かせて。──この鎮守府の
まっすぐに見つめてくる叢雲に、提督は頷いた。
「それほど多くはないが」
「いることはいるのね。例えば?」
「軍令部の第二部という、装備関係の部署の長だな。俺が大学校にいたときの校長で、親父の古い知り合いでもあった。艦娘計画の立ち上げには当初から関わっていて、軍令部内のあれこれではなにかと世話になっている」
「ほかには?」
「そうだな……那珂を預かってもらっている芸能事務所や、地元漁協あたりは味方といえるか。もちろん利害関係込みの相手ではあるが、まったくの欲得ずくというわけでもない──と俺のほうでは思っている」
「ふーん……ちゃんと味方も、いるのね。いつかの艦娘同士の話では、この鎮守府はまったくの孤立無援だって聞いてたから、ちょっと心配だったのよ」
どこか感心したように叢雲が言い、提督は苦笑した。
「孤立無援でやっていけるほど、甘くはない」
「援護は必ず、必要なもの? 艦娘が心得として最初に習うことだわ」
「そうだ。海だろうが陸だろうが、ひとりだけで戦うことはできない」
「誰にでも、当てはまることよね」
「そうさ、誰だって──」
提督は言いさした口をつぐんだ。
叢雲が、いつになく穏やかな眼を向けてきていた。その眼が何を言おうとしているのか、提督がつかみかけた瞬間に、叢雲は微笑んで言った。
「それがわかってれば、大丈夫よね。白雪たちもみんな、あんたのことを心配してたけど、どうやら杞憂のようね」
「俺は──」
叢雲は箸を持ち直し、明るい声で言う。
「さあ、お弁当を片付けちゃわなきゃ。あんたもしっかり、残さず食べなさいよ。午後もいっぱい仕事があるんだから──でしょ?」
◇
提督が司令室に入っていくと、部屋の中央にある大テーブルの席には龍驤が座っていた。
机の上の無線機のマイクを手の中でいじくっていたようだったが、提督を認めると明るい表情を向けてきた。
「や、いらっしゃい。この時間にはめずらしいね。どしたん?」
提督は手を軽く上げて応じ、司令室内を見まわした。部屋には龍驤のみで、隣りつづきになっている給湯室の奥にも、誰かがいる気配は感じられなかった。
「陸奥は外しているのか」
「うん。──ま、とりあえず座りや。飴ちゃんとかお菓子もあるで。あ、お茶入れる? コーヒーのほうがええ?」
立ち上がった龍驤は自分の正面の席を示しつつ、菓子類の盛られた皿を脇から引き寄せた。
せわしない調子にいささか圧されながら、提督は勧められた椅子に腰を下ろした。
「陸奥に少し話があって来たんだ。すぐに戻ってくるようなら待たせてもらうが」
「なにか飲んでたら戻るんちゃう? コーヒー? お茶?」
背後の棚にあったポットと茶道具一式をテーブルに置きながら、龍驤が尋ねる。──お茶をもらおうか、と提督は答えた。
鼻歌でも出てきそうな楽しげな様子で、龍驤が急須に茶葉を入れる。
「陸奥はどこに行ったんだ」
「きみぃ、あんまり焦らんといて。美味しいお茶がよう出せんで」
いかにも煩わしそうに言われて、提督は仕方なく黙った。手持ち無沙汰に、テーブルの上の海域図とその上に置かれている艦艇を模した兵棋を眺めていた。兵棋の横には、艦隊の位置情報の更新時刻が水性のマジックペンで書き込まれている。現在のところ鎮守府近海で民間船護衛や哨戒任務に就いているのは、水雷戦隊も含めて4艦隊だった。
眼の前に、熱い湯気をたてる湯呑みが差し出された。龍驤はしきりに自分の湯呑みを吹いて冷まし、ひと口すすると、うん──と頷いた。
「まあまあやね。ま、安い茶葉やし、こんなもんやろな」
「──陸奥は、2時間もどこに行っている」
へ……と龍驤が口を開ける。提督は海域図を指し示した。
「数字の筆跡は上手いこと真似してあるが、書く位置の癖が陸奥とおまえとでは違う。陸奥は船舷中央、おまえは船尾寄りだ」
瞬きして海域図を眺めた龍驤は、呆れた表情で声を上げた。
「あらあ……きみ、そういうの細かいなあ。万が一誰か来てもバレんようにしとこ思て、頑張って工作したんやけど」
「偽装は細部が命だな。──で、陸奥は?」
問われた龍驤が、部屋の側面にあるドアのひとつを指差した。
「おねんね中、やで」
ドアの繋がっている先は、休憩室という名の仮眠室だった。
大がかりな作戦の際には提督や艦娘が司令室に数日詰めることになるのも珍しくはなく、いちいち居室に戻る手間を省くための部屋である。数人が余裕をもって寝られるほどの広さの和室で、布団や寝袋といった寝具一式が室内の押し入れに収納されている。
「──で、10分でいいから寝ときってうちが言うたときには、なんやかんや文句言うとったけど。部屋暗くして横になったら、案の定爆睡よ。で、目覚ましはこっそり止めさせてもろたわ」
龍驤は椅子にふんぞり返るようにして語っていた。その悪びれた様子のまったくないところに、提督は呆れるというよりもむしろ関心するほどだった。
「──えげつないことをする」
「せやで。生活管理はうちの職分やし、睡眠不足の艦には艦隊指揮なんてさせておけへんから、手段は選んでられんかってん。なんか間違うとるかな?」
「いや、少々強引かもしれんが、それでいい。よくやった」
提督が褒めると、龍驤は得意そうに笑った。
空母勢としては赤城や加賀、鳳翔と並んで古参艦娘といえる龍驤の鎮守府内での役割は、艦娘たちの生活相談と生活管理であった。要は生活面でのトラブルに対する窓口係ということで、書面に残すほどでもない口論の仲裁や、寮内の備品の交換といった雑用の多い仕事であるのだが、世話焼きの龍驤にとっては自他ともに認める天職ともいえる役割だった。
「で──陸奥のやつ、徹夜までして何をやってたんだ」
提督が尋ねると、龍驤は首を傾げた。
「なんか、前線と連絡をとろうとしていたみたいだけど。夜中じゅう、ずっと」
「無線でか」
「うん。でもやっぱり、深海棲艦の妨害電波が強くって、あまり繋がらなかったみたいよ。あっちもここしばらくは落ち着いてきたみたいだから、そんなに心配せんでもって感じやけどね」
提督は黙って頷き、思案した。陸奥の懸念は、自分が吹雪たちを前線に追いやってしまったという罪悪感によるものだろうか。
龍驤が、皿の上の菓子をつまみながら尋ねてくる。
「──で、きみの話っちゅうのはなんなん? 起きたらうちが陸奥に伝えといてもええけど」
「いや、仕事のことで少しあってな。そこまで急ぎではないから、起きたあとで構わない」
「あ、そう」
話は、叢雲の秘書艦代行のことに加えて、昨夜由良を抱いた件についてだった。こうした義務めいた『報告』にはあまり気乗りがしなかったのだが、ストレス問題への対処が遅れている現状では、個人的な感情に拘泥してもいられなかった。
龍驤が、ぽりぽりと音をたてて干菓子を噛んでいた。
「ところで、ちょうどうちも、きみに訊いときたいことあったんよ」
「なんだ」
「由良のことなんやけどな──」
提督は思わず目を見開いて、龍驤を見た。
心の内を見透かされたように錯覚してしまったが、当の龍驤のほうが提督の反応に驚いて固まっていた。
「な、なに……どうしたん?」
「いや──べつになんでもない」
提督は平静をよそおって言った。龍驤が不審げな視線を向けてくる。
「すごいびっくりした顔してたよ。きみのそういう反応、めずらしいで」
「考えごとをしてて急に話しかけられたから、少し驚いただけだ。由良がどうかしたのか」
「ああ、うん。まあ」
龍驤はいぶかしげに提督を見つめつつ、頷いて続けた。
「べつに大したことやないけどね。由良が出渠してきたって聞いたんで、午前中にちょっと会って話をしてきたんよ。したらずいぶん顔が紅くて、こっちの話もあまり頭に入ってないみたいやってん。出渠したばかりなのに風邪でもひいてたんかなって、ちょっと気になっとったんよ」
「──なるほど」
「きみももう会うたんやろ? どやった?」
「その件は了解してる。おそらく、大丈夫だ」
「おそらく……?」
「問題はない」
ぴしゃりとした口調で言った提督だったが、龍驤は納得のいかない表情だった。眉をひそめたまま休憩室のドアを軽く見やり、小さく首を振る。
溜息をついて、龍驤はつぶやいた。
「──ま、きみがそう言うんなら、べつにええけど。うちの領分やない、ってことやろ」
ばつの悪い思いがして、提督は龍驤から眼をそらした。そのまま椅子から立ち上がろうとすると、龍驤が言った。
「──お茶、飲んでいってよ。せっかく、うちが淹れたんやし」
「ああ……そうだな。すまない」
提督は腰を落ち着けなおし、テーブルに置かれたままだった湯呑みを手に取った。
無言でゆっくりと、ぬるくなってしまった緑茶を口に含むようにして味わう。
ふと、ある思いつきが胸の底に浮かんだ。
龍驤を見る。
椅子に斜めに腰掛け、日の沈みかけた窓の外を眺めていた。小柄で幼い容姿ではあるが、不思議な貫禄があった。
「──龍驤」
「ん、なに?」
「明日の朝、少し時間をとれるか? それから……妙高もだな」
「へ……?」
龍驤は、大きな目をしばたたかせた。
◇
執務室に戻って、提督は軍令部に上げるための報告書の作成を始めた。
叢雲は三水戦による哨戒が夕方から予定されていたため、提督が戻る前にすでに退室していた。
明日の朝のことを考えると少しだけ気は重くなるのだが、同時にどこかすっきりしたものも感じていた。解放感に近いものかもしれない。
──陸奥は怒るだろうか。
手を止めた提督が暗くなった窓の外を眺めていると、突然、バンと派手な音をたてて執務室の扉が開かれた。
驚いた提督が顔を向けると、金髪の長身の艦娘が入り口に立っていた。
「提督、水くさいじゃない。困ったことがあるなら、どうしてまず真っ先にこの私に相談しないの!?」
煌めく髪を手で払いながら、長身の艦娘──ビスマルクが言った。
靴音を鳴らしながら歩み寄り、執務机に両手をついた。呆気にとられた提督へ顔を寄せる。
「聞いたわよ、秘書艦がいないんでしょう? そういうことだったらこの私、ビスマルクが──」
不敵に笑みを浮かべて、後ろを振り返る。
「──すぐに用意してあげたのに。とても優秀な秘書艦をね」
ビスマルクが視線で示した先には、屈託のない笑みを浮かべたプリンツ・オイゲンが立っていた。
※ 本エピソード中で語られている軍組織については、旧日本海軍のものをある程度参考にしてはおりますが、鎮守府の立ち位置など多くの部分で本作独自の創作を取り入れたものとなっております。ご了承ください。