※この作品はR-18です。

艦娘抱けるかな   作:狂猫病

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海と太陽

「司令官──えらいやっちゃで、きみは。ほんまに」

 

 話をひととおり聞き終えたところで、その場の沈黙を破って龍驤が言った。皮肉で言っているのかと提督は問うように見つめてみたが、龍驤は真面目くさった顔で頷きを返してきた。

 

「えらいやっちゃではなく、えらいこっちゃの間違いじゃないのか」

 

 提督が呆れ気味に言うと、龍驤は心外だというふうに眉をひそめ、顔の前で片手を振った。

 

「ちゃうちゃう、ほんまのほんま。皮肉でもなんでもなく、文字どおりの『偉い』っちゅう意味やで。正真正銘、心から誉めとるんよ──ねえ?」

 

 隣りの席の妙高に、龍驤は顔を向けて言った。先ほどからひとり考え込むようにしていた妙高は顔を上げ、提督をまっすぐに見つめて頷いた。

 

「私も、龍驤さんと同意見です。できればもっと早くに打ち明けていただきたかった──というのが本音ではございますが、すべては艦娘と鎮守府を思ってのこと。提督の無私の献身を、わたくしどもが責められようはずもございません」

 

 あまりの仰々しさに、提督はどう反応したものか困り果ててしまった。

 助けを求めて傍らを見やるが、椅子に斜めに腰掛けた陸奥はとり澄ました顔でそっぽを向いている。

 

 ──勝手にやってれば。

 

 そう言いたげな雰囲気を、全身に塗り固めたような態度だ。

 未明──司令室に呼び出した龍驤と妙高がやって来る前に、陸奥にはあらかじめ、艦娘のストレス値問題に関する告白をふたりに対してするつもりだということを告げてあった。

 

 ──貴方がそう決めたのなら、反対はしないわ。

 

 口ではそう言った陸奥だが、態度のほうはずっとこの冷淡さだ。

 仕方なく、提督はふたりに向きなおった。

 

「正直なところ、俺は自分のしたことを、無私とも献身とも思っていない」

「いやいやご謙遜。無私かはともかくとして、献身は間違いないやろ。まさに身を献げる、っちゅうの? きみがいろいろ犠牲を払っとんのは、みんな承知しとるんやで」

 

 意味深長な眼差しを龍驤が向けてくる。犠牲というのはおそらく、吹雪を前線に出征させたことを指しているのだろうと提督は察した。

 艦娘たちのストレス値の件を打ち明けるうえで、発端となった秘書艦との関係にも当然言及せざるをえなかったのだが、個人的な思い入れは極力排除して話をしたつもりだった。

 どうやらそうした表面上のとり繕いは、龍驤には通用しなかったらしい。

 

「──ま、そういう惚れた腫れたの愁嘆場は置いといてやな。うちがいちばん気になっとんのは陸奥、あんたのことなんやけど」

 

 水を向けられ、陸奥が片眉をつり上げるようにして龍驤を見た。

 

「なにかしら」

「さっきから、なんや、やけにふてくされたような顔しとるやん」

「そんなこともないけど」

「ほんまに? んなこと言うて内心では、自分が司令官とこっそり進めてきたプロジェクトを横取りされそうで、ちょっとグツグツきとるんやないの?」

 

 揶揄する口調で言った龍驤を、陸奥が感情の読み取れない瞳で見据える。

 形容しがたい緊張感が室内に満ちたが、やがて陸奥はやわらかく微笑んだ。

 

「提督の献身には及ばないけど、すべては鎮守府と艦娘のため、そう思って私も行動してきた。けっして、功名心や虚栄心のためではないわ」

「つまり、うちらがあんたの『陣営』に入ってきても、べつに気にしたりはせんと?」

「むしろ大歓迎ね。龍驤、貴女は艦娘の生活相談役で、妙高は教育方面の責任者でしょ。鎮守府の事情に詳しいふたりなのだから、提督が貴女たちを引き入れようというのも理解できるわ」

 

 陸奥が微笑みを提督に向ける。

 

「というわけで提督、今後はこのふたりにも、この件で手伝ってもらうことがあると、そういうことでいいのよね?」

「ああ。ふたりが承知すればだが」

「うちはもちろん、手伝うで」

 

 龍驤がテーブルに身を乗り出すようにして言う。

 

「もともとこれは、うちの仕事の領分や。悩み抱えた艦娘がこの鎮守府にぎょうさんいるいうんなら、今までうちのやってきたことが無意味ちゅうことになるやないか。そんなんうちのプライドが許さんわ」

「貴女のそれは、功名心とは違うのかしら?」

 

 陸奥が悪戯っぽく言うと、龍驤は鼻を鳴らして椅子にふんぞり返った。

 

「ちゃうで。これはお仕事に対する真摯なやる気っちゅうもんや。この軽空母龍驤は、半端仕事はけっしてせえへんのや」

 

 提督は龍驤にむかって小さく頭を下げた。

 

「すまないな──恩に着る」

「うんうん、たっぷり着といてや。ボーナス査定のほうでもよろしゅう頼むで」

「そっちは働き次第だが」

「なんやいな、感謝の言葉だけ大盤振る舞いかい。けちくさ!」

 

 龍驤は笑って言った。

 陸奥が小さく咳払いをする。

 

「さて──それでは妙高、貴女はどうするの」

 

 ひとり沈黙を守っていた妙高に視線が集まる。妙高は理知的な瞳で、じっと提督を見つめてきた。

 

「──艦娘はみなわが姉妹、鎮守府は私の唯一の居場所です。そのためとあらばもちろん、この妙高に否やはございません」

 

 そう静かに言って、頭を下げた。

 

 

 龍驤と妙高が退室し、提督は司令室に陸奥とともに残った。

 ストレス値問題への『対処』の合意は取りつけたものの、肝心の提督の躰が空かなければすぐに何かができるというわけでもない。前線からの帰還組の艦娘たちがある程度復帰して、海域の治安と鎮守府内の人事が落ち着くまで、具体的な方策の立案は見送りということになった。

 退室する直前、龍驤はストレス値のリストを四人で共有することを主張したが、提督はこれを却下した。無意識にでも対象への接し方に変化が表れては困る──というのを、その理由とした。

 

「ひょっとして、私に気を遣ってくれたとかじゃないわよね」

 

 艦隊指揮用の海域図の前で支度を整えながら、陸奥が尋ねてきた。

 もうしばらくすれば、早朝の哨戒に出撃する水雷戦隊からの定時連絡が入ってくる時刻になるところだ。

 

「気を遣う必要があるのか」

 

 提督は陸奥の傍ら、アクリル製の海域図と一体になったテーブルの縁に腰掛けながら問い返した。

 陸奥は提督のほうを見ようとはせず、テーブルの上でマーカー類を几帳面に整えつつ肩をすくめる。

 

「さあね。……ただ、私はあのリストの上位だから、龍驤が見たらあれこれうるさそうだと思っただけ」

「騒いだところで心配することもないだろう? おまえには理由があったわけだから」

「心配ってわけじゃないわ」

「俺もおまえに気を遣ったわけじゃない。リストをふたりに見せなかったのは、言ったとおり対象への影響を考慮しただけのことだ」

 

 陸奥は溜息をつき、椅子に深々と腰掛けた。首を曲げて、まだ薄暗い窓の外を見やる。

 

「少しハラハラさせられたぞ」

 

 提督が言うと、陸奥が顔を向けてくる。

 

「それは、龍驤とのやりとりのこと?」

「ああ」

「馬鹿ね。あんな見え見えの挑発に、私がのるわけないじゃない」

「龍驤がおまえを挑発する理由は?」

 

 提督に訊かれて、陸奥は肩をすくめる。

 

「さあね。私が妙な思惑でももってるんじゃないかって、邪推したんじゃないの」

「実際のところ、どうなんだ」

「あっても貴方には言わないわよ」

 

 陸奥は冗談めかして言うと、腕組みをして海域図を眺める。

 

「……すべては鎮守府のため、艦娘のため。その言葉に嘘はないわ。誰にどう思われようともね」

「面白いな。同じようなことを龍驤と妙高も言っていたが、それぞれの意味するところには微妙な違いがあるように聞こえる」

「艦娘だって、みんながみんな同じ思惑で動いてるわけじゃないわ。人間社会でも、他人の思惑というのは、普通はよくわからないものでしょ」

「よくわからん思惑がらみで、ひとつ相談がある」

 

 興味を惹かれたように、陸奥が横目で提督を見る。続けて言った。

 

「昨日だが、ビスマルクが妹分を秘書艦に推薦してきた」

「え──ビスマルクの妹分って、プリンツ・オイゲンのこと?」

 

 怪訝そうに、陸奥が言った。

 

「それはたしかに、意味がわからないわね。秘書艦は書類仕事がメインで、読み書きができない海外艦では使いものにならないって、いくらビスマルクでもわからないわけないでしょうに」

「これで解決だそうだ」

 

 書類鞄から、二つ折りにしていた一枚の紙を取り出して陸奥に渡した。開いて中を見た陸奥が、目を白黒させる。

 

「なに、これ」

「プリンツが書いたものだ」

「それはまあ……わかるけど」

「とうとう手本を見ずに書けるようになったんだと。どうやらプリンツ自身は、それを誰かに報告──というか自慢したくて仕方なかったようだな」

 

 紙に書かれた内容は、カタカナ五十音といくつか短い単語の書き取りをしたものだった。

 「イカ」「バナナ」「サンオイル」と、まったく脈絡の読み取れない単語の書き取りの下に、「プリンツオイゲン」と若干歪(いびつ)な文字で大書きされている。「リ」は鏡文字のように左右の長短が逆で、「ン」はほとんど「ソ」のようにも見えるが、いちおうは立派に書けていた。

 陸奥が、顔をほころばせる。

 

「そう……オイゲンがこっちの言葉を熱心に勉強しているとは聞いたことがあったけど、こんなに真剣に頑張っていたとはね。ちゃんと褒めてあげた?」

「もちろん。書いた当人じゃないやつまで、ただでさえ高い鼻をいっそう高くしていたようだが」

 

 くっくっ……と陸奥が笑いを噛み殺す。上目遣いで提督を見た。

 

「そういうとこ、あのドイツ戦艦は可愛いらしいのよね。──で、プリンツ・オイゲンを秘書艦に採用?」

「さすがにそこまではな。といってむげに断るのも酷だし、関係各所に諮(はか)ってみるということで返事を先送りしたが」

「それが賢明ね。ビスマルクにはビスマルクの思惑があるのでしょうけど、あまり彼女のわがままばかりに付き合うわけにはいかないものね。いろいろとバランスってものがあるわけだし」

 

 陸奥が、プリンツの書き取りを丁寧にたたんで提督に返してくる。

 

「秘書艦のことで相談と言うから、てっきり貴方の本命のほうかと思ったんだけど」

「本命?」

「叢雲よ。昨日一日、臨時で使ってみたんでしょ。どうだったの?」

 

 思わず呆れて、陸奥を見つめた。

 

「ずいぶん耳が早いんだな。忙しくてそれどころじゃないと思ってた」

「艦娘の間では、もう結構な噂になってるわよ。ビスマルクは知らなかったでしょうけど。──で、どうなの叢雲は?」

 

 せっつかれるように問われたが、提督は言葉に詰まった。ひとつ咳払いをし、気を取りなおして言う。

 

「あいつは要領がいい。業務にも熱心だし、しばらく継続的に使っていこうとおもっている」

 

 陸奥は机に肘をついて提督を見つめていた。そう──と、短くつぶやくように言う。

 

「叢雲の起用について、おまえの意見を聞いておきたい」

「私の意見なんて。秘書艦の選定はあなたの専権事項でしょ」

「叢雲自身が希望したんだ。とりあえずおまえの意向を確認してからにしてほしいと」

「叢雲が──なるほどね」

 

 ひとり、陸奥が納得するように頷いた。しばらく考え込むような表情で、黙っていた。

 

「──これはあくまで、個人的な見解だけど」

 

 そう前置きしてから、話し始める。

 

 

 ◇

 

 だから言ったでしょ──と言わんばかりに、叢雲がツンと顎をもち上げてみせた。きまりの悪さに、提督はしきりに頬をさする。

 

「すまないな。どう切り出したものかと迷っていて、こんな時間になってしまった」

「まったく……情けないのね。おかげで一日きっちり働かされちゃったわ。せめてちゃんと、昨日と今日の分の手当ては出るんでしょうね」

 

 叢雲はぷいと横を向き、夕陽からの橙色の光が散乱している屋外の景色を見やった。言葉とは裏腹に、その瞳には悄然とした気配がにじんでいるように提督には思えた。

 

「陸奥は──おまえのことを高く評価していた。秘書艦としての適性でいうなら、鎮守府にいる艦娘の中では最も適任かもしれないと」

「そういう陸奥さんこそ、秘書艦やらせたらいちばんデキる艦娘だってのに」

「おまえを正式な秘書艦として採用しないと決めたのは、最終的には俺の判断だ。陸奥はあくまで客観的な意見を述べただけで、それも俺から求められたからで──」

「わかってるってば」

 

 くどくどと言い訳しかけた提督の言葉は、叢雲にぴしゃりと断ち切られた。腕組みをして、意外にも穏やかな表情をしていた。

 

「不採用の理由は私の能力不足じゃなくて、私の艦型(かんけい)のせいなんでしょ。違う?」

 

 提督は、叢雲から顔をそらした。

 

「わかっていたのか」

「最初は──まあ認めるのは癪(しゃく)だけど、たしかに舞い上がってたかもね。でも、よく考えたらやっぱりマズいかなって。吹雪型──それも同じ十一駆所属の艦娘が、重要な役目を連続で務めるなんて」

「俺は、そんなことに思いが至らなかった。艦娘はみな仲良しで派閥や政治的なものとは無縁だと、そういう能天気な先入観があった」

「派閥ってほどの大げさなものでもないけど。でもまあ、気を遣ったほうがいい状況っていうのは確実にあるわよね。バランスが大事よ」

 

 バランス。

 期せずして、叢雲は陸奥と同じことを言った。

 

 ──三人集まれば派閥が生じると言うわ。艦娘の世界でも同じよ。

 

 早朝、陸奥はそうも言っていた。当然承知していたはずの原理だが、艦娘の世界にそうしたものを持ち込みたくないという勝手な願望が、眼を曇らせていた。

 

「俺は、無神経か」

「女の社会のあり方に無頓着だとは思うわ」

「自分では、わりと気遣いのできるほうだと思っていたが」

「男の世界と女の世界じゃ、気遣いの流儀が違うのね」

「そうかもしれないが──」

 

 そういった無自覚な無頓着さが、吹雪を苦しめていたのかもしれない──提督は言葉を呑み込んだ。

 しかたないわね、といった感じで、叢雲が溜息をつく。提督の拳に、そっと触れてきた。

 提督の人差し指に、叢雲の細く冷ややかな指が絡められる。

 

「あんたのそういうところ……私は、きらいじゃないけど」

 

 顔をうつむかせて、叢雲が言った。

 

「そういう、ところ?」

「そう……そういう、ちょっと抜けてるところ。なんか、いかにも男っぽくて──」

 

 叢雲が見上げてくる。視線が絡んだ。

 自然に躰を寄せ、唇を重ねていた。

 薄い服の生地の下にある叢雲の躰の柔らかさを、提督は確かに感じた。

 少しためらったが、どうせ無神経な男なのだから──と開きなおる。

 背にまわしていた片手を下げ、形よく丸みを帯びた尻に触れた。

 

「あっ……こ、ら……だめ、よ、いまは──」

 

 そう言いつつも叢雲は、躰をさらに密着させてきた。熱っぽい息が提督の首筋をくすぐる。

 提督は指先に意図を込めて、尻のふくらみの谷間に近い部分をなぞり上げた。

 

「ふ、あ──」

 

 鼻にかかる声を叢雲が発したその瞬間、執務室のドアがノックされた。

 一瞬の硬直のあと、弾かれたように叢雲が提督から飛びすさった。秘書艦の机の前まで跳ね戻り、慌てふためいた手つきでバサバサと音をたてて書類の整理を始める。

 提督は内心で苦笑しつつ襟もとを正し、執務机に備え付けのインターホンによる遠隔操作で扉を解錠した。

 顔を覗かせたのは、大淀だった。

 

「提督、よろしいでしょうか?」

 

 入室した大淀は会釈しながらそう言って、傍らの叢雲とも視線だけの挨拶を交わした。

 

「どうした」

「はい。外出中のリシュリューさんなのですが、たった今、私の携帯電話に彼女から連絡がありまして。車が故障したそうです。周囲に人もいない場所で、どうにも身動きがとれなくて困っていると」

 

 提督は、叢雲と顔を見合わせた。

 

 

 ◇

 

 海沿いの高台にある、もともとは観光用に作られていたはずの駐車場だった。

 深海棲艦が近海に跋扈するようになって以来、その立地が逆に仇(あだ)となって利用客はめっきりと減り、今では備え付けの常夜灯のいくつかが切れてしまっていても放置されているほどに寂れきっている。

 正式にはコマンダン・テストの所有である青の軽自動車が止められている場所は、たいして探すこともなくすぐに見つかった。

 

「Desolee(デゾレ)──ごめんなさい。あなたの手をわずらわせるつもりはなかったのだけど」

 

 ボンネットを開けてエンジンルームを覗き込んだ提督の傍らで、リシュリューが言う。細身のジーンズにベージュのコートを合わせた、カジュアルながらもすっきりと洗練された私服姿だ。

 提督は返事の代わりに小さく肩をすくめ、懐中電灯で手もとを照らした。

 

「直りそう?」

 

 リシュリューも提督の横からエンジンルームを覗き込んでくる。首筋あたりにつけている香水だろうか、どこかエキゾチックさを感じさせる芳香がした。

 提督は意識を香りから引き剥がし、車内構造へ集中させる。

 オイル類も含めて簡単にチェックしてみたが、特に異常というほどのものは見あたらない。提督は首を傾げた。

 

「状況からすると、やはりバッテリーが怪しいが」

「変ね。照明ならちゃんと切ってあったんだけど」

「バッテリーそのものがへたっているのかもしれないが……とりあえず繋げてみるか」

 

 スマートフォンに似た形状の機器を提督は足もとのバッグから取り出し、二本のケーブルで車のバッテリーに接続した。

 片手で作業していると、気を利かせたリシュリューが提督の手から懐中電灯を受け取った。作業する手もとを照らして興味深げに眺める。

 

「それは?」

「ジャンプスターター。バッテリーの換わりだ」

「ずいぶんと小さいのね。電話にしか見えないわ」

「便利な時代になったもんだな」

 

 スターターのランプが、赤の点滅から準備完了を示す緑に変わった。

 提督はリシュリューから車のキーを借り受け、運転席に乗り込んでエンジンを始動させてみた。

 

「Tres bien(トレ ビアン)! すごいすごい、直ったわ! さすがね!」

 

 始動したエンジンの音を聞くなり、ドアの外でリシュリューが跳ねるようにして喜んだ。

 提督は数回アクセルを踏み込んで空ぶかししたのち、すぐにキーをひねってエンジンを切った。

 リシュリューが目を丸くして提督を見る。

 

「Quoi(クヮ)? どうして止めちゃうの?」

「エンジンの回転数が上がったまま下がらない。動かし続ければ、そのうち焼きつく可能性もある。音を聞くかぎり、タコメーターの表示がおかしいわけでもなさそうだが」

「タコ?」

 

 半開きのドアから提督は片足を地面に下ろし、首を傾げているリシュリューに向きなおった。

 

「この車、整備はどうしていた」

「えっと、そうね……あの、シャケンとかいうのには出したって、テストは言っていたけれど」

「車検ではなく、日常整備の話だ。エンジンオイルやバッテリー液は確認していたか? タイヤの空気圧は?」

 

 意識せず、詰問めいた口調になってしまった。リシュリューは不服そうに眉をひそめて腕組みする。

 

「──タイヤの空気圧は、今の故障に関係あるの?」

「整備不良が故障の原因という可能性はある」

「可能性というだけで、責めないでほしいわ」

「おまえを責めているわけじゃない」

 

 溜息をつき、提督は車から出た。潮気まじりの夜の空気が、肌を刺すように冷たくなってきていた。

 鎮守府から乗ってきたセダンを眼で示す。

 

「乗れ。帰るぞ」

「リシュリューの車は?」

「故障がエンジン内部や電気系統だとすれば、この場での修理は無理だ。とりあえず駐めたままにしておいて、明日の朝にでも艦娘か海軍で回収できるよう手配する」

「……しかたないわ。テストには申し訳ないけれど」

 

 リシュリューは肩を落とすようにして言った。

 

 

 ◇

 

 ふたりの乗った車が、海岸沿いの道を進む。

 先行車も後続車も、すれ違う車すらなく、緩やかなカーブの続く暗い道路は、正常な人間社会からそれとなく疎外された空間であるかのようだった。

 助手席のリシュリューは押し黙り、夜の景色が流れていくのをサイドウインドウから眺めている。

 提督は意識的に、運転に集中しようとつとめていた。

 状況が異なれば、夜のドライブを楽しめる道であるに違いない。連続するカーブはそれほどきつくもなく、海辺の景色が変化に富んでいるので退屈することもない。深海棲艦の活動によって、海に近いあらゆる場所が忌避されるようになった以前であれば、さぞかし人気のドライブルートであったことだろう。

 提督の頭の中で、さまざまな艦娘たちの姿がとめどなく浮かんでは消えていた。

 関係の深浅にかかわらず、吹雪や、数時間前には抱き合って接吻していた叢雲でさえも、その顔貌(がんぼう)は皆、等しく滲(にじ)んでいてどこか不明瞭だった。

 鮮明に思い出せるのは、ひとりひとりの匂いや肌の手触り、唇の柔らかさ、体温、濡れた膣壁が陰茎を包み込んで温かく収縮する感覚──。

 

「あの寂れた駐車場で、何をしていたんだ──リシュリュー」

 

 きりのない思念を振り払うように、提督は言った。深く考えて発した問いではなく、ただなんとなく口をついて出ただけのものだった。

 リシュリューが提督に顔を向ける。空気が揺れ、華やいだ香りが鼻孔まで届いた。提督は、息苦しさのような微妙な緊張を覚えた。

 

「何っていうほどのことでもないわ。海が綺麗に見えそうな場所があったから、ちょうどいいかなって思って」

「ちょうどいい、とは」

「ちょうど、太陽が海に沈むところだったの」

 

 リシュリューはそこで少し言葉を切ってから、フランス語で何ごとかをつぶやいていた。

 提督はほとんど聞き取ることができなかったが、「l'eternite(レテルニテ)」と「soleil(ソレイユ)」という音だけは聞き分けられた。

 顔を前方に向けたままステアリングを操作しつつ、尋ねる。

 

「アルチュール・ランボーの詩か?」

 

 リシュリューの驚く気配が伝わった。

 

「──提督(アミラル)、あなた、フランス語はわからないって言っていたわよね」

「わからんさ。ただその詩については、軍の学校の海外文学の授業で、少しだけ原語に触れたことがあった。なんとなく印象に残る詩だったから、たまたま憶えていただけだ」

「『永遠(レテルニテ)』──この国でも有名なの?」

「俺のような無教養でも知っているぐらいだから、たぶんな」

「アミラルが学んだのは、この国の言葉に翻訳されたものね」

「ああ」

「リシュリューがいま言った一節は、どんな訳なの?」

 

 助手席から身を乗り出すようにして尋ねてくる。

 うろ憶えだが──と前置きし、提督は埋もれかけていた記憶を呼び起こした。

 

  また見つけた

  なにを?

  ──永遠を

  海と 溶け合う 太陽を

 

 そこまで言って、ちらりと横目で反応を窺う。

 リシュリューの金色の瞳が、輝いているように見えた。

 

「Interessant(アンテレッサン)……興味深いわ」

「授業ではたしか、訳によって異なる解釈が可能だということだった。今のはどうだ?」

「……なんとも言えないわ。この国の言葉の細かいnuance(ヌュアンス)までは、リシュリューにはわからないもの。──でも、興味深いわね。気に入ったわ」

 

 満足そうに言って、リシュリューはシートに背を預ける。

 車内の空気がどことなく和んだものに変わっているように、提督は感じていた。

 

「ねえアミラル。リシュリューはときどき、不思議に思うことがあるの」

 

 つぶやくように言う。

 

「どうしてわたしは、勉強したこともないこの国の言葉を、話したり聞いたりできるんだろうって。なのに読み書きはぜんぜんできなくて、文化や常識については、まったくの無知。海に沈む太陽を見て、祖国が懐かしい──なんて思うくせに、その祖国の大地に艦娘としてのリシュリューは一度も立ったことがない。それでもフランスの文化や食べ物や街については、自分でも不思議なほどによく知ってる──」

 

 ひと息でそこまで言って、言葉を切った。自嘲気味に続けて言う。

 

「もともと機械そのものだったはずなのに、艦娘として生まれ変わったリシュリューは機械が苦手。大して面白くもないironie(イロニ)よね」

 

 リシュリューは小さく笑った。

 提督も合わせて笑おうとしたが、上手くできなかった。舌で唇を湿らせてから、口を開く。

 

「祖国に関する記憶については、艦船としてのおまえに乗り込んでいた乗組員たちのものである可能性が高い」

「そうなの?」

「誰かひとりの具体的な記憶ではなく、複数人のもつ共有記憶という抽象的なものらしい。艦娘の『建造』では多くの場合、おまえたちの前世である艦船の一部を触媒として利用しているのだが、その触媒に残留している『物質記憶』が、艦娘としてのおまえたちの意識や知識のベースになる。──ということだそうだ」

「物質記憶……」

「言葉がわかることに関しては、そういう翻訳担当の妖精が艦娘の内部にいるのではないか──という仮説がある。艤装がなくても機能していたり、読み書きが翻訳されない理由については謎だが」

 

 ふうん、とリシュリューが鼻を鳴らす。

 

「──アミラルにもよくわからないことがあるのね」

「俺は『艦娘計画』の最初の発案者が残した『公式』を使っているだけだ。その原理を完全には理解していなくても、運用するだけならどうにかごまかしが利く」

「ぜんぜん、アミラルはごまかしてないじゃない。これだけちゃんと答えてくれるのなら、もっと早く訊いておけばよかったわ」

「もっと訊いておきたいことはあるか? 今が機会(チャンス)だぞ」

「幸運(シャンス)……たしかに、そうね。なら──」

 

 ふたたび躰を乗り出してくる。

 

「アミラルとリシュリューは上官と部下の関係だけれど、友人にもなれると思う?」

「友人?」

 

 ふと、瑞鶴の面影が頭に浮かんだ。河原をふたりで歩いていたあのときも、詩の話をしたことを思い出す。

 

「まあ……なれるんじゃないか。相性しだいだとは思うが」

「相性、いいかしら──わたしたち」

「どうだろうな。意外とおまえは話せるやつだと、少し思いはじめている。もう少しお高くとまった、扱いにくいやつかと思ってたんだが」

「あら偶然ね。リシュリューも、ちょうどそんなふうに思ってきてるところだったのよ」

 

 そう言うとリシュリューは、ころころと声を上げて愉快そうに笑った。

 ひとしきりそうしていたが、やがて声を低めて言う。

 

「ねえ、ちょっと寄り道してくれない?」

「──もう遅いぞ。どこに行くつもりだ」

「もっと、おたがいの相性を確かめられるところ」

 

 提督が視線を向けると、リシュリューは艶然とした微笑みを返してくる。

 

 

 

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