身支度を整えた提督が私室から出ると、吹雪と陸奥が執務机の隅でノート型の端末を覗き込んでいた。
ドアの音に振り向いた吹雪が提督の姿を認め、小さく頭を下げる。陸奥に関係の露見を告げられて気まずいのか、普段と違って視線を合わせようとしなかった。
「よう、話は聞いたな」
提督は声をかけながら、執務机の椅子に座る。陸奥は吹雪の横に立ち、感情のこもらない視線で端末のディスプレイを見つめていた。
「はい。その……ごめんなさい」
力のない声で誰にともなく吹雪が言うと、陸奥が端末の画面からついと顔を上げる。
「さっきも言ったけど、謝らないで、吹雪。好きな人と結ばれることが悪いなんて、誰にも言わせないわ」
そう言って、吹雪に一笑した。
「でも……」
「そのとおりだ、吹雪。そもそも俺は当事者だから謝られても困るし、陸奥に謝ったりしたら
椅子にそっくり返るようにして提督が言うと、陸奥は大げさに顔をしかめた。
「しないわよ、そんなこと」
「シャワールームの件、もう忘れたか」
「あれは
「ふんぞり返ってものを言えるのが、ボスの数少ない特権だからな」
「軍令部から、呑気者って言われてる理由がわかるわ」
「馬鹿者じゃないだけ、頑張ってるだろう?」
「裏では言われてるわよ。──ねえ吹雪、こんな人で本当にいいの? 考えなおしたら?」
陸奥が冗談めかした口調で言うと、吹雪はただ、ぎこちない愛想笑いを返した。
提督は吹雪にさとられないように端末に向かって小さく顎をしゃくり、陸奥へと合図した。視界の端でその動きを捉えたであろう陸奥が、取り澄ました声で言う。
「さて、それじゃみんなで確認してみましょ。ちょうどさっき、ストレス値のリストを表示したところだったの」
陸奥が端末のディスプレイをひねって回し、全員が見やすい角度に向けた。艦娘の名前と様々な測定値が、一覧表として表示されている。
「いろいろ表示されてるけど、ストレス値の大きい順に並び替えてあるわ。吹雪がやってくれたのよ」
「へえ。吹雪、おまえこういうの苦手だったろ。いつの間に使えるようになった?」
「あ……あの、大淀さんに教えてもらってるんです。最近……」
吹雪がごにょごにょと小声で言った。
「休みの日とか空いた時間、よく通信室に来てるらしいのよ。貴方もそんなに得意じゃないんだから、吹雪に教えてもらえば?」
「いやいや……さすがにそこまでじゃないだろ」
提督は机に頬杖をつき、リストの上位からゆっくりと艦名を眺めていった。
ひとつの名前に、目がとまる。
「──おい陸奥、ずいぶん上位だな」
リストの上から6番目の位置に、陸奥の名前があった。
「そうね」
陸奥が無感動な調子で答えた。
見ると、両肘を体の前で抱えるように腕を組み、平然とした表情で端末の画面を見つめている。
「そうねって……おまえ、それだけか」
「まあいちおう、事情というか、私なりの理由があるにはあるんだけど」
珍しく歯切れが悪い。
「言えよ。おまえが隠しだてしてたら話にならん」
「……そうよね。じゃあ言うけど──」
陸奥が提督に向きなおり、正面から見つめて言った。
「──生理だったの。検査があった日」
「え……」
「正確には検査の前日から始まっちゃったんだけど。私っていつも二日目がいちばんつらいから、けっこうしんどくて。こういう話、わかる?」
陸奥に問われて、提督は慌てた。女ばかりの職場でありながら、こうした話題を振られる機会がほとんどなかった。
「ああ、えっと──そうだな、まあわかるっちゃわかる。いや、もちろん体感としてじゃなく、知識としてなんだが。ああ、知識といっても専門的って意味じゃなく、一般的な、ぐらいなんだが……」
早口で飛び出した言葉が、語尾近くになって喉の奥で絡んだ。陸奥が呆れ顔と苦笑の入り混じった表情で提督を見る。
「ちょっと、なに照れてんのよ。こっちまで恥ずかしいじゃない。思春期の男の子じゃないんだから」
「いや、悪い。照れたわけじゃないんだが、いささか動揺して」
「同じでしょ、それ」
たかが生理の話題でこれほど慌てている理由が、提督自身にも不可解だった。妙に顔が熱いのは、おそらく紅潮しているせいだろう。
吹雪が小さく咳き込むような音を発した。提督が見ると、慌てた様子で口をおさえ、すみません──と小声で謝った。伏せた目もとがわずかに、笑みで緩んでいた。
陸奥がわざとらしく咳ばらいをし、ふたりを注目させる。
「続けてよろしいかしら?」
「……ああ、頼む」
提督は椅子に座りなおす。予想以上に周章していて、冷や汗まで出てきそうだ。そっと深呼吸し、気持ちを落ち着けた。
「とにかく、検査の日には痛みもあったし、朝からイライラしてたのよね。いろいろ煩わしくて、問診にはけっこう雑に答えたのも覚えてるわ」
「その、生理中かどうかは検査で訊かれないものなのか?」
「問診では訊かれなかったわね。──尿検査のときに、申告しようかとも思ったけど」
「尿検査」
無意識に復唱してしまった。陸奥が格好の獲物を見つけた獣のような、妙に嬉しそうな眼をした。
「いちいち反応するの、やめてもらえる? セクハラめいたものを感じるんだけど」
「いや、そういう意味じゃない。ただ……確認しただけだ」
「確認? 何を?」
「ああ、尿検査するんだぁ……って」
意味不明である。
吹雪は下を向いて肩を震わせている。
陸奥が顎をわずかに上げ、提督を見下ろしながら口を開いた。
「ねえ、提督」
「はい」
「いま、真剣な話をしているの、わかってる?」
「はい……承知しています」
「続けさせてもらっていいかしら?」
「はい、お願いします」
陸奥は満足そうに頷き、話を続けた。
「──とにかく、そのリスト上の私のストレス値は、生理による気分障害の影響が大きいはずだから、あまり参考にしないでほしいの。……これは、ほかの艦娘でも同じことが言えるかもしれないわね」
「つまりほかにも、その……生理の艦娘がいたかもしれんってことか」
「生理じゃなくても、個人的な事情での変動が本来大きい項目なのよ。あまり個々の艦娘のデータを重要視するべきとは言えないわ」
「あの、でも──」
吹雪が遠慮がちに口を挟んだ。
「そしたら今回、ストレス値の平均が跳ね上がったのも、偶然ってことになっちゃうんじゃないですか?」
陸奥は小さく首を傾げ、短くうなった。
「ありえない──とは言えないけど、標本数の多さと平均値の上昇具合から言って、その可能性は低いと思うわ。なんらかの共通した原因があるだろうというのには、明石も同意見だったし」
「──問題は、その原因をどうつきとめて、どう解決するかだな」
「それなのよね。……何か考えはあるかしら、吹雪?」
吹雪は逆に質問されて少し驚いた表情をしたが、すぐに眉根を寄せて思案を始めた。
「ええっと、そうですね……面談するというのは?」
吹雪の答えを聞いて、陸奥はわずかに眉を上げた。
「面談?」
「はい。ストレス値の高い順に艦娘を呼び出して、話を聞くんです」
思いついたままに言ってみたという様子の吹雪に、提督が口を挟む。
「何を訊くんだよ。『あなたのストレス値が急上昇していたのですが、原因は何ですか』って質問したところで、素直に吐くとは思えんぞ」
「う……それは、そうですね」
「仮に吐いたとして、『原因は、司令官が秘書艦と寝ていることです』ってなったら、結局は──」
「待って」
声を上げた陸奥を見ると、顎に手を当て、真剣な表情で何かを考えている様子だった。
「面談は、いいアイディアかもね」
「だから、何を訊くんだって話だろ」
陸奥が顔を上げ、提督を見る。
「訊くんじゃなくて、落とせばいいのよ」
「おとす?」
「貴方が艦娘を口説いて、抱くの」
執務室に沈黙が降りる。
ややあって、提督が口を開いた。
「なんだ、それは」
声色に、苛立ちの気配が混じったのが自分でもわかった。
陸奥は気怠げに中空を見つめた。説明が面倒──というよりは、適切な説明の仕方が思い当たらないことを懸念している雰囲気がある。
「たぶん実効性はあるわ。リスク面に少し不安があるけど」
「意味がわからん。どういう理屈でそうなる」
「まず前提として、ストレス値の上昇の原因として最も有力なのは、貴方と吹雪の関係が一部の艦娘に察知されたこと──これはいい?」
「まあ、ほかに心当たりがないからな」
さりげなく提督が視線を送ると、吹雪は不安そうな表情で頷いた。
陸奥が続ける。
「その場合のストレスって、吹雪への嫉妬が原因だと思ってる?」
「そりゃ、そうなるだろ。鎮守府の男は俺だけなんだし、コミュニティ内の少数派の異性を取り合うなんて、よくある話だ」
高校時代の複数の旧友から、大学のサークルではその種のトラブルがしばしばあることを聞かされていたし、似たような事例は提督の身のまわりでもまったくないわけではなかった。
陸奥が吹雪へ顔を向ける。
「吹雪、提督と深い仲になって以降、貴女に冷たく当たったり意地悪をするようになった艦娘はいた?」
「いえ……全然。親しい艦──姉妹艦とかから、冷やかしみたいなのなら、ちょっとはありましたけど。でも意地悪っていうのじゃなくて、ぽろっと……あの……」
「『彼氏がいて、羨ましい』?」
「……はい。そんな感じです。そのあとほかのみんなに叱られたみたいで、ちょっと落ち込んでました」
陸奥は、柔らかく微笑した。
「口を滑らせちゃったのね。ほかの姉妹艦が叱ったのも、貴女がそのことを公言できないってわかってるから──優しい子たちね」
吹雪は何も言わず、顔を伏せた。
公言できなかったのは、提督が口止めをしていたからだ。仲間たちの羨望と配慮の中で、すでに露呈している関係を秘密にしなくてはならないのは、どれほど居心地の悪いことであっただろうか。
気がつくと、陸奥が提督を見ていた。その眼には、どこか非難するような気配があるような気が提督にはした。
「ストレスの根本的な原因は、おそらく嫉妬じゃないわ。……推測だけど、提督に女として認められないことへの不満、じゃないかしら」
「……俺が艦娘を抱いたら、そいつを女として認めたってことになるのか。ふざけた理屈だ」
提督は吐き捨てるように言った。
そんなことをするまでもなく、艦娘は女だった。それを最も強く認識しているのが、ほかならぬ提督自身である。
「誰もがそこまでのことを望んでいるかはわからないけど、そう願ってる艦娘もいると思うわ」
「憶測だな」
「……推測よ」
睨み合うような格好で、提督と陸奥の視線が絡んだ。陸奥が気圧されたように目を伏せ、視線を外す。
「そんなに、嫌なの?」
「嫌とかそういう問題じゃない。問題外だ」
陸奥が横を向いた。わずかに口をすぼめ、怒っているような、ふて腐れているような表情をしていた。
「──司令官。私からも、お願いします」
突然の吹雪の言葉に陸奥が振り向き、目を見開いて二度まばたきを繰り返した。
吹雪が提督を見つめていた。
「司令官は昨夜、言いましたよね。毎晩違った艦娘を抱くのは、嬉しさ半分、恐ろしさ半分だって」
「ああ……仮定の話だが」
「恐ろしいのは、みんなが司令官を巡って喧嘩して、鎮守府がバラバラになっちゃうことなんですか?」
「……平たく言えば、そうだ」
なら──と吹雪は言葉に力を込めて、ずいと一歩踏み出した。
「私が、その恐ろしいほうの半分を引き受けます。だから……司令官は、嬉しいほうだけを、お願いします」
「……引き受けるって、何をどうするんだ?」
呆気にとられた提督がなんとか言葉を絞り出して訊くと、吹雪は陸奥を見て言った。
「陸奥さん、手伝ってください」
いつになく有無を言わせない雰囲気を漂わせた吹雪の言葉に、陸奥はぽかんと口を開けた。
「手伝ってもらえませんか」
「え……ええ、ええ。喜んで手伝わせてもらうけど、具体的に何を──」
「まず面談の人選やセッティングですね。艦娘が司令官に心を開けるような状況づくりです。いざとなれば司令官がその艦娘を──抱けるような」
「……そうね。うん、できる。そういうの、私、得意だから、たぶん」
動揺を隠しきれないほどぎこちない陸奥の返答だった。頓着せず吹雪が続ける。
「それから、抱かれた艦娘が司令官を独占しないためのルールづくりも必要です。平等が原則で、私もそのルールに従います」
「……まあ、それは抱かれた艦娘をしっかりコントロールしていけば、すぐには問題にならないと思うわ。ルール作りは、提督を独占しようとする艦娘が出てきてからでもいいでしょう」
諭すように吹雪にそう言った陸奥は、なんとか自分を取り戻した様子だった。
吹雪が、茫然と座り込んだままの提督に向きなおる。
「面倒なことは私たちが全部やりますから、司令官はただ艦娘の話を聞いて、愛していただければ大丈夫です。……引き受けて、もらえませんか」
吹雪はまっすぐな眼で、提督を見つめていた。こうした眼をしているときは、頑として自分の主張を曲げない。
提督は、溜息をついた。
「わかったよ。おまえがそれで、満足するなら」
花が咲いたように、吹雪が顔を輝かせた。その鼻先に、提督は指を突きつける。
「まず面談して、その艦娘の抱えてる問題を明らかにする。抱くのは、それが最良の解決方法って場合に限るからな」
「……はい、ありがとうございます!」
なにかとんでもない世界に自分が踏み込もうとしている気がして、提督は片手で頭を抱えた。理性に反して、胸のどこかに期待感のような、解放感のようなものがあるのも腹立たしい。
「ねえ吹雪、貴女も……私と同じことを頼んだの? みんなを抱いてくれって」
陸奥が訊ねると、吹雪は笑顔のまま頷いた。
「はい、昨夜に。そのときは、却下されちゃったんですけど。馬鹿なこと言うなって」
「……まあ、それはそうよね。貴女に言われたら」
「それに、順番待ちは嫌だろって」
「順番待ち?」
「鎮守府にはたくさん艦娘がいるから、毎日抱いても私の番が来るのは半年に一回だって。だからつい私も、それはつらいかもって言っちゃったんです」
「……ふーん」
陸奥が提督を見た。唇の端をわずかに上げ、面白がっているような表情だ。
「吹雪の番が半年に一回か……なるほどねえ」
「でも、今はもう決めましたから。半年に一回でも、私、平気です。我慢します」
「ちょっと吹雪──来なさい」
吹雪を自分の傍らに引き寄せると、陸奥は吹雪の耳もとに顔を寄せ、何ごとか耳打ちを始めた。
「えっ──」
おとなしく聞いていた吹雪が突然声を上げ、驚きの眼で陸奥を見た。陸奥は笑顔で頷く。
「でも、そんな──」
「あくまで私からの意見よ。本当のところは、あとで本人に訊きなさい」
そう言って陸奥は提督を見て、素早くウインクした。
吹雪は顔を真っ赤にしてうつむくと、さっと提督に背中を向ける。
「あ、あの……朝御飯、作りますね。陸奥さんのも、一緒に」
振り返らずに、かろうじて聞き取れるような小声で言った。
「ああ、そうしてくれ」
提督が答えると吹雪は、弾かれたように執務室の隅の簡易キッチンへ駆けていった。がちゃがちゃと音をたてながら、皿やら食材やらを引っぱり出し始める。
「余計なこと、言いやがって」
提督は小声で言った。陸奥もそれに合わせるように、小声で返す。
「いいじゃない。ほんとに、素直じゃないんだから」
「うるせえ」
雑に言い捨てた提督を、陸奥が目を細めて眺める。
「そうそう、さっきの生理の話題のときの貴方のお芝居、とても良かったわね。吹雪の緊張も、あれでほぐれたし」
提督は言葉に詰まった。陸奥が身をかがめ、提督の耳もとに顔を寄せる。
「──ちょっと、可愛かったわよ」
陸奥の呼気まじりの囁きが、耳をくすぐった。
「うるせえ」
もう一度そう言って、提督はそっぽを向いた。
◇
朝食を食べ終えた提督は、執務室の一角に置かれたソファーに体を投げだしていた。すぐそばのひとり掛けのソファーでは陸奥が難しい顔をして、膝の上に置いたノート型の端末を眺めている。吹雪は流しで機嫌よさそうに洗い物をしていた。
「なあ陸奥、面談する最初の艦娘だが……」
「ええ、それなのよ」
陸奥は端末を目の前のミニテーブルに置き、画面を提督に向けた。相変わらず一覧表が表示されている。
「──吹雪の言っていたとおりに進めるなら、最上位から始めるのよね」
提督は端末の画面を一瞥し、顎を掻いた。
「まあ、それが筋だな」
「──ほかの艦娘から、身贔屓だって怒られないかしら」
「構わないさ。もし本当にこいつが精神的に不安定なら、鎮守府の危機だ」
一覧表の最上段、最も高いストレス値を示していた艦娘は陸奥の姉妹艦──長門だった。