もとより、物静かで控えめな艦娘である。
羽黒は入室して最小限の挨拶をしたきり、ほぼ口もきかずに執務机の正面にある椅子に座っていた。
以前と異なる印象であるのは、上目遣いが特徴的だったあのはにかみが見られず、ただじっと何かに耐えるように目を伏せているからだろうか。
ただでさえ色白だった肌はいっそうその白さを増して、ほとんど血の気が失せてしまっているようにすら見えた。
周囲のあらゆるものを静かに拒絶している──そんな頑なさが今の羽黒からは
「ここに呼ばれた理由は、妙高から聞いていたか?」
尋ねると、羽黒は視線をうつむけたまま首を振った。提督は手もとのファイルを開き、中に綴じられた資料を見るともなしにめくっていった。
「──ここ数ヶ月の羽黒の戦績は、実に見事だ。日常の哨戒や船団護衛の任務中に発生した、いくつかの小競り合い。近海に侵入した深海棲艦に対する迎撃戦と、その後の残党処理。それに先日の基地組の帰還作戦。それらの戦闘記録を総合的に評価すれば、羽黒は文句なしに最殊勲級の活躍──いわゆるMVPというやつだ」
視線を上げて、羽黒の様子を窺う。変わらず、うつむいていた。
まるで叱責を受けているかのようだ──提督は思いながら、言葉を続ける。
「……特に戦功が顕著だったのは、帰還作戦においての働きだ。敵の一団にほぼ単身で突っ込み、複数の敵艦を足止めして四水戦への追撃を阻止している。由良以下の四水戦が大事なく帰還できたのは、この判断によるものが大きかった。艦娘に対する勲章制度があるならば、叙勲されてしかるべきだっただろう」
いえ──と羽黒は小声で言って、わずかに首を振る。
「ご命令にはない、私の勝手な行動でした。由良さんたちがご無事だったのは、ほかの艦がそれぞれ頑張ってくれたおかげです」
「無謀な行動の側面があったのは事実だ。──が、流動的に事態が変化する現場においては、そうした行動は『命令違反』ではなく『柔軟な判断』として評価されるべきでもある。戦闘後のレビューでも、羽黒の行動には問題がなかったと結論づけられている。陸奥はこの評価書において、わざわざそれを特記事項として記したほどだ」
提督は書類の一枚を指で示してみせたが、羽黒は視線を向けようとはしなかった。小さく溜息をつき、続ける。
「──勲章を与えることはできないが、何かのかたちで
提督が様子を窺うと、またも羽黒は首を振る。
「結構です」
「そう言うとは思った。しかし戦功に対する褒賞なしでは、鎮守府全体の士気にも関わる。……どうだ、何でも望みのままとはいかないかもしれないが、いま羽黒がいちばん欲しいものを教えてくれないか」
羽黒が顔を上げ、初めて提督をまともに見た。感情の映らない眼をしていた。
だがすぐに、また床へと視線を落としてしまう。
「……近いうちに、大きな作戦があると聞きました」
「ああ……北方への進攻作戦だ。本格的な進発は春先ごろからだが」
「参加させてください」
床を見つめたまま、羽黒が言う。か細い声だが、固く強張っていた。
提督は羽黒を見つめつつ、首を振った。
「要員選抜の任に就いているのは、ビスマルクと龍驤だ。最終的な決定権こそ俺にあるが、指揮艦の頭越しに特定の艦娘をねじ込むことは、残念ながらできない」
羽黒はしばらく黙ったままだった。
「……では、ほかに海上での任務があれば、そちらに」
「褒賞がさらなる任務というのは、さすがにどうだろうか。羽黒は現状でも十分すぎるほどに仕事をこなしている。今日の午後にもたしか、任務があったはずだろう?」
「働いていたいんです──海の上で」
ふたたび顔を上げた羽黒には、やはりひどく頑ななものが滲んでいた。提督が見返しても、視線をそらそうとはしなかった。
提督は息をついた。検討する──とだけ言葉を返す。
羽黒が退出していったあとで、提督はファイルされた資料の一枚一枚に慎重に眼を通していった。
陸奥の声が、耳の奥に響く。
『呆れるほどの勇猛ぶりね。普段のあの子からは想像しにくいことだけど』
早朝、提督へファイルを手渡す際の言葉だ。
『実際にどんな戦い方をしているものか、じかに見てみたいものだわ。百聞は一見にしかず、よね』
提督は報告書を丹念に読み返す。
ひと通り読み終えたあとで、それぞれの報告書から参加艦娘の一覧を抜き出していった。机の上で重ねるように並べ、見比べる。
ひとりの艦娘の名前を、心に留めた。
◇
羽黒の話だ──と提督が告げると、それまで快活に笑っていた神風はとたんに表情を引き締めた。
「羽黒さんが──どうしたんですか」
和装の少女はちんまりと腰掛けていたパイプ椅子の上で、背筋を伸ばして言った。
駆逐寮にある、生活相談用の小部屋だ。普段は龍驤が仕事場にしていることの多い部屋だが、作戦要員の選抜試験のために今日は朝から不在だった。
龍驤の机や椅子を勝手に使うのも気が引けたので、提督も神風が座っているのと同じパイプ椅子を引っ張り出し、差し向かいに腰を下ろしている。
「どうしたというほどのことでもないが、いくつか気になる点が出てきている。──神風は、任務で羽黒と組む機会が多いな」
「ええ、今日も午後から一緒に出ますけど」
「今日のは『ポイント哨戒』だったな」
神風は神妙な表情で頷く。
『ポイント哨戒』とは、水雷戦隊による巡回哨戒とは別形式の、威力偵察に似た哨戒任務である。
巡回哨戒では、常設されている水雷戦隊が近海の巡視をおこなう。
一方のポイント哨戒においては特定海域へと小艦隊が派遣され、一定時間の周辺監視ののち、鎮守府へと帰還する。
小規模ながらも高速戦艦や重巡洋艦を主力とした海戦向けの編成で、会敵した場合には撃滅・追跡・退避といった選択が状況に応じて現場の判断でおこなわれる。空振りするケースも多いながら、それなりに戦闘が想定されている任務である。
随伴する駆逐艦の役割は主力艦の護衛であり、これには水雷戦隊に非所属の、いわゆる
神風型も、こうした護衛任務に就く機会が多い。
「普段の哨戒任務、先日の帰還作戦や迎撃戦──いずれでも神風は羽黒の間近にいたはずだ。その戦いぶりを見ていて、どう思った?」
「どうって……勇猛果敢で、抜群の戦果よ。報告書を読めばわかるでしょう?」
「報告書を読むかぎりでは、そのとおりなんだがな。どこか無謀な気配があるように思えた。見方によっては、自暴自棄とさえ。──そう感じたことはないか」
「それは……」
神風は口をつぐむ。何かを逡巡するように、床へと落とした視線を左右にさ迷わせていた。
提督は続けて言った。
「今朝呼び出して話をしてみたが、様子もおかしい。妙に頑なで、壁をつくっているような気がする」
「……悩みがあるんじゃ、ないかしら」
「そういう雰囲気ではあるが、とりつく島がない。望みを訊いてみたが、もっと多くの任務に参加したいとただそれだけだ」
「そう……」
うつむいた神風は、黙り込んでしまう。提督は待った。
外で強い風が吹き、部屋の窓をがたがたと揺らした。朝から気持ちよく晴れている一日だが、風は強い。沖合ではこれから荒れ模様になるかもしれない。
神風が顔を上げた。
「羽黒さんが悩んでいる──それは前からわかっていた。でも、そのことについて私ができることは、何もないわ」
「何もないのか」
「ないわ。ずいぶん前に、思いきって言ってみたことがあるの。『何かつらいことがあるなら、相談にのります』って」
「それで、羽黒は」
「すごく驚いて、でもすぐ笑って『ありがとう、でも大丈夫』って。その笑顔がすごく申し訳なさそうで、つらそうだったから……だから、私はもう自分からは訊かないようにしようって、そう決めたの。話せないことをしつこく訊きつづけても、羽黒さんを追い詰めるだけだと思うから」
きっぱりと言いきった神風からは小さな
提督は尋ねる。
「それは、どれぐらい前の話だ」
「はっきり憶えてないけど……半年ぐらい、かな。戦い方まで普通じゃなくなってきたのは、ここ数ヶ月のことだと思うけど」
「やはり普通じゃないか」
「普通じゃないわ。敵と見ればためらいなく突っ込んでいく。羽黒さんはもともと強いけれど、あんな戦い方って……」
神風は顔を曇らせ、唇を噛んで押し黙った。
提督は、このあとに予定されているという哨戒任務のことを思案した。神風とともに羽黒が参加することになっている。
──中止させるべきだろうか。
ポイント哨戒の対象海域は、あくまでも
敵と遭遇した際に羽黒が冷静な判断を選択することは、神風の話からするとあまり期待できそうにない。ならば羽黒を哨戒メンバーから外してしまう処置も考えるべきか。しかしそうすることで、羽黒がどのように反応するかは未知数であった。
「司令官──羽黒さんから、海を取り上げないであげて」
神風が言った。思案していた提督の表情から、その内容を察したようだった。
「今の羽黒さんにとって、海はひとつだけ残された逃げ場なのかもしれない。だから」
「艦娘の安全が最優先だ。話を聞いていたかぎりでは、敵と遭遇した場合に羽黒が冷静な対処をおこなえるとは思えない」
「それなら──私が、
神風は椅子から立ち上がって言った。両手の小さな拳が、握りしめられていた。
「──それが私と羽黒さんの、
◇
「それで出撃を許可したの? 貴方にしては大胆なことね」
小会議室の窓辺に躰を寄りかからせながら、陸奥が言った。
日没に近い時刻になって、窓の外に見える海がやはり荒れ始めてきている。雨こそ降ってはいないが、屋外では沿岸でもはっきりと体感できるほどに風が強い。
提督は椅子に腰掛けたまま、白波の目立つ海上を窓越しに眺めながら言った。
「出撃させないことにもリスクはある。旗艦として同行するリシュリューにも、羽黒の様子には注意するよう知らせておいた」
「出撃させ続けていれば、リスクは増すばかりよ」
「わかっている。戻ってきたら対処を進める」
「対処って?」
提督は片肘をついて頭を支えつつ、長テーブルの表面を指先で叩いた。
「──羽黒のストレスには、根本的な原因があるだろう」
「そうね。妙高は『恋の病』と貴方に言ったんでしょう? それが正しいなら原因は明白だと思えるけど」
陸奥は当然のような顔をして言う。
提督は溜息をついた。
「個人的な悩みを払拭しようとして仕事に打ち込むようになるというのは、外の社会でもありがちな話だが、あまり羽黒の性質に合致するようには思えない。そこが解せない部分なんだが」
ああ──と陸奥が頷く。
「それが、人間にはわかりにくい事情ってところ」
「例の『艦娘の事情』ってやつか。妙高が演習の監督から戻ったら聞こうかと思っていたんだが、いま説明してもらえれば話が早い」
「べつに難しいことじゃないわ。──私たち艦娘には艤装があるでしょ」
「ああ」
「艤装を装着することで私たちの躰に起こる変化、当然知ってるわよね?」
「──温冷感や痛覚といった諸感覚の鈍麻、冬眠状態に類似した代謝の低下、身体的欲求の極端な減少、気分の高揚……」
「つまり、それって?」
「……アルコールや麻薬の効果に似ている、ということか?」
陸奥は苦笑し、首を振った。
「すごく人間らしい発想ね、それは。……いや、当たらずといえども遠からずかしら。でも羽黒が『艤装依存症』かというと、それは少し違うと思うし」
「手短に言え」
「ごめんなさい。──つまり、艤装は私たち艦娘を、『人間とは少しだけ違う生きもの』に変えてくれる、ということよ。変えてくれるというよりは、
「戻してくれる……『前世』の姿にか」
「『前世』での在り方に、かしら。姿形が変わるわけじゃないし、感情や思考だって基本的には同じままよ。でも、なんていうのかしら……艤装をつけて海の上を疾走するあの感じ、あれはすごく……
陸奥は何かを思い出すかのようにしながら語る。
艦娘たちが鎮守府にて『建造』されたあと、初めて艤装をつけて海に出るときのことを提督は思った。彼女たちは一様に驚き、戸惑いながら、それでも結局は皆、
それが、艦娘の本来あるべき姿に戻れた喜びからくる笑顔なのだと言われれば、黙って受け容れざるをえない。陸奥の話には説得力があった。
「敵と戦うときにも、似た感覚があるわ。だから地上で悩みを抱えた羽黒が、できるだけ海の上に出ていたい、戦闘していたいと願ったとしても、少なくとも私にとっては不思議な感じはしないわね」
腕組みをした陸奥が、提督を見つめてくる。言葉を待つ姿勢だった。
提督は、絞り出すように言った。
「……羽黒の問題を解決する方法は」
「貴方なら、もうわかっているでしょう。応えてあげればいいだけよ。想いが伝わるというそれだけで、羽黒は救われるはずだわ」
「なんだかな──」
提督は息をついた。
気が進まないような態度をとっている裏で、それなりに乗り気な自分がいるのが気にくわない。その気にくわないという感情自体が、弁明のようにも感じられる。
これが自意識過剰というものだ──ということはわかっていたが、なかなか思考の堂々巡りから脱することができなかった。
陸奥が、穏やかに微笑む。
「貴方のそういうところ、可愛いとは思うけれど。──でも、貴方は変わらないといけない。多くの艦娘が提督を頼りにしているこの鎮守府で、
おそらくそれが、正論なのだろうとは思った。しかし正論ゆえに、はっきり言われると妙に腹が立つ。
憤懣を表面に出すかわりに、提督は口走っていた。
「そう言うおまえは、大人にならなくていいのか」
陸奥が目をまたたかせた。棒を呑んだように、背筋が伸びたように見えた。
提督は失言を
「いや、今のは──」
「待って、そこで退くのは
「いや──」
「イヤなの?」
からかい半分なのかと思えばそういう表情でもなく、陸奥は妙に食いついてきた。
提督は観念し、小さく首を振った。
「嫌じゃない。おまえがそれを望むなら、手伝ってやってもいい」
「──偉そうな言い方」
「手伝わせてもらう──これでいいか」
陸奥は表情を和らげ、横を向いた。口もとがかすかに緩んでいる。
「ありがと。でも、今、この時期はやめておきましょ」
横を向いたまま言う。
提督が黙っていると、陸奥は横目で睨んできた。
「なぜだ──って訊きなさい」
「──なぜだ」
陸奥は満足そうに頷く。
「私が貴方と寝てないという事実がきっと強みになると、そう思ってるの。だから私が大人になるのはもう少し先の話、ということにしておきましょ。──今は、私より羽黒のことを優先してあげて」
◇
夕食は、鎮守府内の甘味処である『間宮』で済ませた。
食事をしてくる──と告げると、執務室にいた榛名は『何かお作りいたします』と慌てたように言ってきたが、その榛名自身が秘書艦室へ私物を移す作業中でもあり、提督は丁重に断っていた。
今日は『間宮』が早じまいの曜日で、提督が来たときにはすでに大方の椅子が机の上に上げられ、店主の間宮が伊良湖とともに後片付けに取りかかろうとしているところだった。
閉店間際のはた迷惑さにもかかわらず、間宮はこころよく食事を用意してくれた。営業時間が正式に決められていなかった時分からの名残で、提督の不意の来店には間宮も伊良湖も慣れている様子だった。
大半の灯が落とされて薄暗くなった店内、カウンターの一角で、提督は物思いにふけっていた。
つい先ほどまでカウンターの向こうで間宮が洗い物をしていたのだが、いつの間にか奥の居住スペースへ下がってしまっていた。提督が何か思案する気分のときなど、間宮は以前から異様なほど察しがいい。
眼の前に置かれた湯呑みの中のお茶が、ほんのりと湯気を上げていた。
──すっかり、
提督は心中でひとりごちる。
鎮守府を設立した当初は、艦娘との適切な距離感というものに心を砕いていた。つかず離れず、度を過ぎた情を移すことは絶対にあってはならないと、己を律しているつもりだった。
それがこの、のっぴきならない現状である。
すべては、ひとりの艦娘──吹雪と一線を越えてしまったことから始まった。
自分の指揮する鎮守府を設立し艦娘計画を推し進めるための代償として、軍内でのまっとうな出世コースからは外れ、数少ない部下たちからも引き離されることになった。
家族と言えるような家族も、今はいない。
自分の手に残された唯一のものがこの鎮守府であり、艦娘たちだった。
──『貴方は変わらないといけない』。
陸奥の言葉が脳裏に響く。
なし崩しに押し流されたままでいるのは、指揮官としてあるべき姿ではない。
弁明のポーズをとりつつ、やることだけはしっかりやっているというのも、あまりにも無様だ。
すべての関係をすっぱり終わらせるということも、ひとつの可能性として存在した時期はあっただろうが、すでに選択肢ではない。
ならば──。
背後で、カラカラと戸の滑る音がした。
「──提督、こちらにいらっしゃいましたか──」
振り向くと、ひどく慌てた様子の榛名がいた。肩で息をしている。
「どうした」
「先ほど、哨戒中の部隊が、敵の中規模艦隊と、遭遇しました」
「羽黒の部隊か」
「はい……交戦後、一部の艦が損傷。現在は追撃を
「損傷したのは」
「羽黒さんのようですが、詳細は未確認です」
提督は椅子から立ち上がっていた。声を聞きつけて顔を覗かせた間宮へ手短かに食事の礼を言い、店を出る。
「──申し訳ありません、食堂にいらっしゃるかと勘違いしておりまして、お探しするのに手間取ってしまいました。こちらではないかと、陸奥さんからお聞きして」
付き従いながら、榛名が頭を下げてくる。
鎮守府の敷地内では、艤装を制御する妖精たちが忌避するために、特別な装備以外の無線機器を使用することができなかった。したがって提督は、外出時以外は電話を携帯していない。
提督は榛名に首を振った。
「行き先を告げなかった俺が悪い。次からは敷地内放送で、『迷子の呼び出し』だな」
榛名が、はっとした顔をする。
「忘れていたか」
「失念していました……申し訳ありません」
「お互い、学ぶべきことが多い」
風が止んでいた。
岸壁に寄せる波音だけが聞こえてくる。
夜の闇に包み込まれた鎮守府の敷地内は、不思議なほどの静謐さだった。
◇
羽黒が目を開けた。
焦点の合わない瞳でぼんやりと提督を見つめ、二度まばたきをする。
眼の中に意思の光輝が戻ってくると、突然慌てた様子で周囲を見まわした。
「わた、わたし──どうして──敵は」
起き上がろうとする羽黒の肩にそっと触れ、提督はなだめるように言った。
「落ち着け。敵は、もういない」
呼吸を乱した羽黒はしばらく胸を激しく上下させていたが、やがて大きく息をつき、しだいに力を抜いていった。自分がベッドに横たわっている状況を認識し、あらためて周囲を見渡すと、尋ねてくる。
「ここは──?」
「医務室だ。羽黒はたぶん知らないだろう? 本格的な
簡素なベッドが10台ほど置かれた、病院の大部屋か学校の保健室に似た雰囲気の部屋だった。明石が工廠の仕事の合間に管理しているらしく、室内は清潔に保たれていて、かすかな薬品の匂いが鼻につく。
室内灯は大部分を落としてあり、羽黒が横たわるベッドの枕元にあるスタンドだけが薄い光を発している。
提督は隣りのベッドから枕を取ってきて、羽黒が上体を起こせるように整えてやった。
自分の着ている作務衣に似た患者衣を見つめながら、羽黒はつぶやいた。
「私──どうして」
「哨戒中、敵艦隊に遭遇したことは憶えているか」
「……はい」
羽黒は震えるように、息を吐く。
「──数が多いから、早く仕掛けて倒さなきゃって思って……そこまでは」
「攻撃する前に失神させられたんだ。敵にやられたわけじゃなく、味方の──リシュリューの砲撃でだがな」
ぽかんとする羽黒に提督は微笑みかけ、経緯を説明してやった。
羽黒が電探で敵を察知する直前、同行するリシュリューも自分の偵察機で敵艦隊を捕捉していた。小規模の敵艦隊なら虚を突くことで形勢を握ることも可能だったが、敵後方に空母の気配があった。哨戒部隊の貧弱な航空戦力では、制空権を確保することは不可能だ。
前衛に足止めされたところで直上を取られてしまえば、護衛を含めて全滅する可能性すらある状況だった。
とっさの判断でリシュリューは、突撃を敢行しようとしている羽黒へと船体を寄せ、その耳もとで38センチ砲を撃ち放ったのだという。
本来であれば、艤装の砲撃などいくら間近で撃ったところで、艦娘が失神などするはずもない。だが──。
「艤装に宿る妖精は、自分たちで把握していない位置からの砲撃には、ひどく驚くようだ──」
驚きのあまりに、一時的にだが妖精たちは艤装から霧散する。状況が落ち着けばすぐに復帰するらしいが、艤装を装着中の艦娘にとってはそれほど単純な事態ではない。
艤装は艦船としての在り方を艦娘に呼び起こさせる装置である。生物としてはほぼ人間と同じ構造になってしまっている艦娘たちには、艤装との仲介者たる妖精たちの存在が、その制御と運用に不可欠だ。
艤装はいわば艦娘の拡張された躰の一部となり、妖精はそこを巡る血液と同様の役割を果たすことになる。
装備中の艤装に宿っている妖精が一時的にでも急激に減少してしまえば、それは血圧の急降下と似た現象──つまり貧血症状を艦娘にもたらすこととなる。
「──リシュリューは以前、ビスマルクに間近で主砲をぶっ放された経験があったらしく、そのときにひどく目を回したことを記憶していたそうだ。無線に応答せず敵中へ突っ込もうとしている羽黒を止めるため、やむを得ず手荒な手段を使わせてもらった──申し訳ないと」
海上で昏倒した羽黒を肩に担いだリシュリューと護衛艦隊は、撤退を開始した。
砲撃音で察知してきた敵から当然のように激しい追撃を受けたが、護衛艦隊の奮闘もあり、どうにか味方の勢力圏まで逃げ戻ることに成功した。
陸奥と加賀が配備した迎撃部隊がすでに敵の主力を撃破し、現在は逃げ散った小物の掃討に夜を徹して取りかかっている。
「いちばん厄介だったのは、撤退中に寄ってきた敵の潜水艦だったそうだ。リシュリューにむかって放たれた雷撃を受けにいって、神風が損傷した」
「神風さんが──」
「小破程度で、大した損傷でもない。念のため入渠はさせたが、『羽黒さんは絶対に沈ませない』と、胸を張って気炎を揚げていたよ。『
羽黒はきつく目を閉じ、唇を引き結んだ。苦しげに言葉を絞り出す。
「……神風さんは、いつもそう言うんです。私なんかのために」
「羽黒は、絆があるとは思わないのか」
「私にはそんな価値なんて──絆を受け取る価値なんて、ありません」
羽黒は掛けシーツの上で、手を握りしめた。朝に見た、頑ななものが滲んでいる。
「絆は、重荷か」
提督の言葉に、羽黒は応えない。ただじっと、握った拳に視線を落としていた。
「──絆という字は
羽黒が困惑げな視線を向けてきた。提督は構わず続ける。
「愛情でも友情でも──あるいは忠誠心でも、何かに
提督は息をつく。その自分勝手な行為でみずからを縛り、ひとりで想い悩んでいたりするのだから始末が悪い。
「──気がついたら、誰かに繋がれ、縛られていることに気づく。それが
ぺらぺらと話しすぎていると、提督は自嘲する。照れ羞ずかしさをごまかすために、気どった言葉を余計に重ねている自分に気がついた。
羽黒は幾度もためらうように言葉を呑み込んだあとで、尋ねてきた。
「──司令官も、縛られているんですか」
「まさにな。手も足も出ない状態になりつつある」
「軍人としての、束縛でしょうか」
「それもあるが、もう少しましな人間でありたい──という束縛もある。嘘をついてでもおまえたち艦娘を利用する立場にいるくせに、同時に誠実な顔をしていたいとも望んでいる。欲深なことだ」
「欲……」
つぶやいて、羽黒は目を伏せる。握りしめられたままシーツの上に置かれている手が寒々しい。
提督は、その手に自分の手を重ねた。
羽黒は身じろぎして提督を見たが、手を引こうとはしなかった。
冷えていた。
血の気が引いたように冷たい羽黒のその手を、両手で包み込んだ。
提督は言った。
「──いちばん始末の悪い束縛が、これだ」
唇を寄せ、重ねる。
不思議なほどに柔らかな、小さな唇だった。
純粋無垢な、羽黒らしい感触が凝縮されていると感じた。
いつまでも触れていたいと思ったが、舌先でそっとその感触を確かめるにとどめ、離れた。
「──つらい想いに気づかぬふりを続けていた。すまなかった」
羽黒が勢いよく首を振る。乱れて顔にかかる髪を、提督は静かに整えてやった。
「司令官──」
震える声で、羽黒が言う。
「──今朝のお話ですが、憶えていらっしゃいますか。私のいちばん欲しいものを、という」
「ああ」
「変更させていただいても、大丈夫でしょうか」
「もちろんだ。言ってくれ」
潤んだ瞳が、食い入るように見つめてくる。
「もう少しだけ──今夜は、一緒にいていただけませんか。このまま、私に触れていてほしいんです」
提督はベッドの
背にまわされた腕が、きつく、きつく提督を締めつけてくる。