※この作品はR-18です。

艦娘抱けるかな   作:狂猫病

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ダイヤモンド・ハート

 海を見ていた。

 黒くさざめく、茫漠とした海だ。

 空には月も星もなく、夜の闇が濃い。

 鎮守府から放たれる人工の灯(ひ)だけが、揺れる海面をときおり、かすかに煌めかせていた。

 その艦娘は食い入るように、漆黒の先を見つめていた。

 だが艤装を外した状態の眼では、空と海の境目を判別することすらかなわなかった。

 風が、艦娘の背後から強く吹きつけていく。

 岸壁で砕けた波の無数の飛沫が、秘めやかな音をたてて足もとのコンクリートを濡らす。

 艦娘は、少女の名前をつぶやくように呼んだ。

 呼んで、遥か遠く、南の戦場を思う。

 発した言葉はすぐに、黒い波と風の隙間に消えていった。

 行ってしまった少女の面影も、過ぎ去った戦場の風景も、いずれも脳裏で明確な像を描くことができなかった。

 眼前にはただ、無感情な暗黒の海が広がっている。

 冷たく吹きすさぶ風の中で、艦娘はひとり、立ちつくしていた。

 

 

 ◆

 

 報告書を読み終えた提督は溜息をつき、片手でこめかみを揉んだ。

 顔を上げると、秘書艦の席で書類整理をしていたらしい叢雲と視線が合った。どうやらしばらく前から、こちらを見ていた様子だった。

 叢雲は小首を傾げるようにして尋ねてくる。

 

「あたま、痛いの?」

「いや」

「とすると、悩みごとか」

「いまのが、そんなに深刻そうに見えたか」

 

 叢雲は机の上で両腕を組み、口をすぼめた。

 

「べつに。ただ、さっきからずっと溜息ばかりだから。いかにも悩んでるみたいなポーズまでするし」

 

 提督は首の後ろを掻いた。最前の一回はともかく、読んでいる途中で自分が溜息をついていたことは意識していなかった。

 机の上に置いた報告書の薄い束──『略報』を一瞥する。

 少し考えてから叢雲を手招きした。

 叢雲は眉をひそめる。

 

「なに?」

「いいからこっちに来てくれ──椅子ごとだ。ちょっと話がある」

 

 怪訝そうな表情で叢雲は立ち上がり、自分の椅子を押してくる。

 提督はすぐ横に座らせ、『略報』を手渡して言った。

 

「これが何か知っているか」

「『略報』ってやつでしょ。なんだか、演習の報告書とかいう」

「そうだ。演習報告書にはもうひとつ別に、『詳報』というものがある。ふたつの違いについては?」

「えっと……あんまり。ただ、二種類あるってことだけ」

 

 叢雲は首を傾げていた。提督は頷き、続ける。

 

「実戦演習後に二種の報告書を作成するのは、その演習における『監督役』の仕事だ。うちで『監督役』を多く務めているのが、以前は長門、今では陸奥や妙高といったあたりだが、今朝おこなわれた演習については、そのふたりが出張だったので──」

「榛名さんが初めての『監督役』だったのよね。それはさすがに知ってる。今日は朝からずっといないし、昨日も、すごくそわそわしてたから」

「緊張していたな」

「うん。書類仕事を押しつけることになってごめんなさいって、昨日の終わり際に謝られたわ。律儀よねえ──こっちの仕事より、むこうのほうがキツいでしょ?」

「自分以外の艦娘を評価し、報告する役目だ」

「うわー……ぜったいやりたくない」

 

 叢雲は顔をしかめて言い、『略報』の表紙を眺めている。

 

「『略報』の内容はその名のとおり、演習経過の概要と、結果の速報だ。これは演習終了後の数時間以内に提出される」

「つまり、これが今朝のね。あんたが司令室から持ち帰ってきた、頭痛の種」

 

 『略報』を掲げる叢雲に、提督は苦笑いで頷く。

 

「『詳報』は今、榛名が司令室に籠もって作成中だ。『略報』よりも詳細な戦闘経過や各艦の動き、戦術的な分析などをまとめたものになる」

「提出期限とか、あるの?」

「基本的には数日以内に提出してもらうことになるが、演習規模や日程次第でまちまちだな」

「今回は?」

「とりあえず明日の日没まで、としておいた」

「短くない? 榛名さん初めてなのに、かわいそうでしょ」

「実際、急いでるからな。日程が詰まっているんだ」

「そっか、『作戦艦隊』だから……」

 

 そういうことだ──と提督は頷く。

 

「まあ、榛名の報告書作成能力はなかなかのものだ。今回も問題ないだろう」

「さすが、私の榛名さん」

「おまえのだったか」

「そうよ。だって同じ、執務室勤務の仲間だもの」

 

 叢雲は本当に自慢げな表情で、鼻を高くしてみせる。

 提督が榛名との出張から帰ってきて二週間あまりが経っていたが、実際に叢雲と榛名は以前よりずっと親密であるように見える。

 妙なライバル意識などが生まれなかったことに、提督は内心で安堵していた。

 

「では、おまえの榛名が作成した報告書の中身を見てみるか──開いてみろ」

 

 叢雲は素直に、膝の上でページを開いた。提督はさりげなく覗き込み、開かれているのが演習概要の項であることを確認した。

 

「そこにもあるとおり、今回の演習における参加艦隊はビスマルク率いる『作戦艦隊』と、仮想敵艦隊の役割を担う『対抗艦隊』だ。演習の主目的は『作戦艦隊』の練度養成であり、『対抗艦隊』は普段組むことの少ない艦同士、つまり寄せ集め艦隊的になるように、あえて構成した」

「でも旗艦は瑞鶴さんだし、ほかにも戦艦や軽空母のひとたちが入ってるから、けっこう──ていうか、けっこうどころじゃなく強そうなメンバーだけど」

「連携は期待できないが、個々の戦闘能力が高い艦を揃えた。そういうのも深海棲艦にありがちな特徴を想定している」

 

 なるほどねえ──と叢雲がつぶやく。

 演習の作戦内容は簡単な説明のみにとどめ、提督は演習結果のページを開かせた。

 読んでみろ、と叢雲を促す。叢雲は膝に視線を落として読み上げはじめた。

 

「──『作戦艦隊:D敗北。中大破判定多数につき。所期の作戦目的はいずれも未達成ながら、轟沈判定を出さなかったこと、交戦海域からの撤退を完遂させた事実を評価』」

 

 叢雲が顔を上げる。

 

「つまり、ビスマルクさんたちがボロ負けってこと?」

 

 提督は頷く。

 

「『作戦艦隊』は正式な結成から二週間で演習三連敗、いまだ勝ち無しだ」

「それがあんたの、溜息の理由?」

「演習でなかなか勝てない、というだけなら新結成の艦隊にはままあることだ。ページをめくってみろ」

 

 報告書の最後のページだった。叢雲が読み上げる。

 

「『特記事項:演習終了後、作戦艦隊旗艦と構成艦数名との間で口論が発生したとの報告あり。大事には至らずとのこと。継続して詳細を調査』──これって」

 

 叢雲が提督を見る。

 

「──喧嘩? ビスマルクさんと、相手は誰だかわからないけど、複数か」

「榛名に報告したのは、おそらく龍驤あたりだろうな。大事には至らずとあるから、取っ組み合いにまでは発展しなかったということだ」

「こういうのって……どうなの?」

「どうとは?」

「なんか、処罰されるとか?」

「実際に手が出ていれば、鎮守府内の軍規違反で懲罰会議だ。命令不服従であれば、司令に対する報告義務が旗艦にはある」

「ただの口喧嘩、ってだけなら?」

「程度次第だが、基本的には当事者間の問題ということだろうな」

「この、ビスマルクさんたちの場合?」

「監督役の榛名が調査中としている。それを待ってから、だな」

 

 叢雲は目を伏せた。頬のあたりが、わずかに引き締まったようだった。

 表情を観察しながら、提督は尋ねる。

 

「心配か?」

 

 叢雲はちらりと提督を見つめ、少しふてくされたように眼をそらした。

 

「……それはまあ、そうでしょ」

「ビスマルクと、そんなに親しかったか?」

「そこまでじゃないけど……心配して当然でしょ。同じ艦娘仲間だし、ビスマルクさんは旗艦になってすごく張り切ってるのは知ってたから」

「ビスマルクのことが好きか?」

「は?」

 

 何を問うのか、と叢雲は呆れたような表情をする。

 

「──それ、関係ある?」

「関係はある。大事なことだ」

「なんで」

「おまえは秘書艦であり、しかもビスマルクとそれほど親しくないからだ」

 

 叢雲は困惑した様子で、眉を歪めるようにして提督を見ていた。だがやがて首を振り、秘書艦手伝いよ──とつぶやくように言った。

 

「──けっこう、好きだと思う。初めて会ったときはなんだかプライドがやたら高そうとか思ったけど、実際はわりと気さくで優しいし。こっちの文化にも興味もってくれて、最近なんだか妙に馴染んでる感じもあるし」

「いいやつだと思うか」

「うん」

「そうか。それならいい」

 

 満足して頷いた提督に、叢雲は不審そうに首を傾げる。

 

「そんなこと聞いて、役に立つの?」

「十分だ」

「意味わかんない」

「ま、そのうちにな。──ところで、これから少し留守番を頼めるか」

「留守番って、執務室(ここ)の? いいけど……あんた、どっか出かけるの」

「少し仕事ができた。鎮守府内にいるが、日没までには戻る」

 

 叢雲は手もとの『略報』と提督の顔を見比べるようにした。やがて、頷く。

 

「ひとつ、訊いていい?」

「なんだ」

「どうして、この報告書を私に見せる必要があるの? 演習のこととか作戦艦隊のこととか、そういった内情を私が知ってもしょうがないと思うんだけど」

「さっきも言った」

「え?」

「おまえは秘書艦だ。俺や榛名が知っている情報は、できるだけ共有しておいたほうがいい」

「──秘書艦、手伝い」

「どっちでもいいさ。これからしばらく、陸奥や妙高は鎮守府外での活動が増える。何らかの事情で俺が指揮を執れなくなった場合、鎮守府の軍政を回すのはおまえと榛名の仕事だ」

「そんなこと、ありえないでしょ」

「備えておけ」

 

 提督は立ち上がった。部屋を出て行きかけて、ふと思い出して言う。

 

「そうだ──もし榛名がここへ来たら、今日はあまり無理せず早めに上がるように行ってくれ。『詳報』は多少なら遅れても構わないと」

「そうね。今日は榛名さん、早朝からだもんね」

「それもあるが、今夜は榛名も気になっているだろうからな。早く行って様子を見ておきたいはずだ」

 

 叢雲が首を傾げた。提督は続けて言った。

 

「今夜は、金剛が出渠予定なんだ」

 

 

 ◆

 

「すっかり、マッサージがうまくなったネ」

 

 ──そうでしょうか。

 

「もう比叡より上手ヨ。力加減が、とってもグッド」

 

 ──いえ、榛名はまだまだです。

 

「でも明日には、ここを出ちゃうネ」

 

 ──出渠前検査の結果しだいですが。

 

「ダイジョーブ。榛名はもう、ベストコンディションね」

 

 ──でしょうか。

 

「ねえ、榛名」

 

 ──はい。

 

「榛名はここを出て、どんな任務をしたいデス?」

 

 ──任務、ですか?

 

「ウン」

 

 ──それはもちろん、榛名に命じられたものを、全力で。

 

「それは、榛名がしなきゃならないこと。わたしがきいてるのは、榛名がしたいこと」

 

 ──榛名が、したいこと。

 

「したいことデス」

 

 ──……では、また姉さまの指揮下の艦隊で。

 

「榛名」

 

 ──はい。

 

「榛名は──比叡や霧島もそうデスが、わたしにはもう、じゅうぶん尽くしてくれたネ。これからはもう、自由ヨ。もっと早く解放してあげたかったネ」

 

 ──いえ。榛名が姉さまとともに前線に残ったのは、榛名自身の意志でした。そのことに後悔など。

 

「榛名」

 

 ──はい。

 

「榛名は、秘書艦の仕事をしてみたくないデス?」

 

 ──秘書艦。

 

「そう。榛名は、榛名のいちばん大事なひとのいちばん近くで、尽くてみたくないデス?」

 

 ──しかし秘書艦は、吹雪さんが。

 

「そうネ。でも、きっとブッキーひとりじゃ大変デス。テートクに頼んで、ブッキーのアシスタントにさせてもらうといいネ」

 

 ──そんな。とんでもない。

 

「アシスタントじゃイヤ?」

 

 ──そうではなく。榛名は未熟者ですので、そのように重大なお役目は。

 

「榛名」

 

 ──はい。

 

「わたしやブッキーに遠慮してばっかりじゃ、ダメ。これは榛名自身の、ハートの問題だから」

 

 ──ハート……心、ですか。

 

「そう、こころ。榛名は、自分のこころをもっと大事にしてほしい。私たちはもう、鋼鉄だけでできている存在じゃ、ないのだから」

 

 ──姉さま。

 

「イエス?」

 

 ──お気持ちが大事なのであれば、金剛姉さまこそ。姉さまこそが、あの方のいちばんお近くに。

 

「榛名」

 

 ──はい。

 

「わたしがどうするのかは、わたしが決めること」

 

 ──はい。

 

「だから、榛名にも、榛名がどうするのかを自分で決めてほしい。わたしのあとをただついてきたり、誰かに遠慮ばかりしたりするのではなく」

 

 ──はい。

 

「榛名は、いいコね。すごく、いいコ。だからこそ、心配」

 

 ──……はい。

 

「もっとワガママでも、ダイジョーブ。それでなにかが壊れるほど、この鎮守府はヤワじゃないネ」

 

 ──姉さま。

 

「イエス」

 

 ──まだ自分がどうしたいのか、榛名には、はっきりとわかりません。わからないのです。

 

「そう……」

 

 ──ですが、明日ここを出たら。

 

「出たら?」

 

 ──榛名は、そのとき、その瞬間の榛名自身の心に、正直でありたいと思います。榛名にできうるかぎり、正直に。

 

「正直に」

 

 ──はい。今は、それだけをお約束します。

 

「グッド。それでいいネ」

 

 ──ありがとうございます。

 

「ねえ、榛名」

 

 ──はい。

 

「マッサージはもう、榛名がいちばんグッドね。明日から、寂しくなるデス」

 

 ──またすぐに、毎日してさしあげます。

 

「そうネ……ほんのちょっとだけの、お別れネ」

 

 

 

 ◆

 

 理解できない──という表情で、アーク・ロイヤルが提督を見つめてくる。隣りの席のウォースパイトは対照的に、澄ました顔で紅茶のカップを口に運んでいる。

 イギリス艦たちが「ラウンジ」と呼ぶ、お茶会用の談話室だった。

 正確にはもともと談話室などではなく、海外艦寮の単なる空き部屋のひとつにすぎない。 新築の海外艦寮にはまだまだ未使用の区画が多く、ほぼ固まって居住している各国ごとに、好き勝手な用途で利用される部屋が存在するようになっていた。

 「ラウンジ」も、そうした部屋のひとつだ。

 

「アドミラル──私には理解できない」

 

 アークが、提督の想像していたそのままを口にした。

 

「──いったい、更迭とはどういうことなんだ。納得のいく説明をしてほしい」

 

 問われて、提督は肩をすくめてみせる。

 

「更迭というのは、平たく言えばクビという意味だが。翻訳の妖精が不調か?」

「言葉の意味などを訊いているのではない!」

 

 語気荒く言ったアークが、拳で机を叩いた。

 卓上に置かれたアークと提督の分の紅茶が、カップの中で揺れる。カップに口をつけたままのウォースパイトがわずかに眉をひそめ、隣席の僚艦を無言で見やった。

 アークはひとつ大きく息をつき、気持ちを落ち着けるようにしてから続ける。

 

「──私が訊いているのは、ビスマルクが旗艦を更迭されるとは、いったいどのような理由があってのことだと、そういう意味だ」

 

 言葉を短く切りながら話す。そうやって冷静であろうと努めているようだった。

 

「俺は『更迭の可能性がある』、としか言っていないが。まだ確定の話じゃない」

「それにしても、だ。我々の艦隊は編成されたばかりじゃないか。一度も実戦投入されぬまま旗艦が交代など、聞いたことがない」

 

 アークは同意を求めるように隣席を見た。ウォースパイトはかすかに微笑み、眼だけで頷きのような気配を返す。提督の視点からは曖昧な態度にしか見えなかったが、アークはそれで十分な同意を得られたといった様子で視線を戻し、提督の返答を求めるように見つめてきた。

 提督は、椅子に反りかえるようにして言った。

 

「まず、結成からの期間は関係ない」

 

 アーク・ロイヤルの空色の瞳を正面から見つめ返す。

 

「──むしろ連携や戦術が固まりきっていない今のうちのほうが、更迭に踏みきりやすいということでもある。それなら実戦投入前のほうが、被害がなくて好都合なぐらいだ」

「しかし、しかし──たった3回の演習の結果で?」

「まあ、仕方のないところだ。演習で結果を出せないのなら、実戦でも勝つ見込みは薄い」

 

 提督は他人事のように言って、いかにも高級そうなカップに手を伸ばした。湯気の立つ紅茶へ口をつける一瞬前に、アークの険しい表情が眼に入った。

 気づかぬふりでカップを傾ける。

 

「……ずいぶんと冷たい言い方をするのだな、アドミラル。ビスマルクを作戦艦隊の旗艦に推したのは貴方だと、そう聞いていたのだが」

「それだ。推薦したのが俺自身だから、ビスマルクが結果を出してくれないことには上層部への受けも悪くてな。やつがここまで駄目なようなら、いっそ今のうちに──」

 

 提督はカップを置き、舌を鳴らしながら人差し指で首を切る真似をする。芝居がかっていると自分でも感じられたが、駄目押しに片目までつぶってみせた。

 

「──とまあ、そういうことでな。悪いがこっちもクビがかかってるんだ」

 

 アークの表情が露骨な不快と怒りで歪む。軽蔑の視線に素知らぬふりをしながら、もう一度カップを手に取った。ウォースパイトにむかって尋ねる。

 

「香りが深くて美味いお茶だな。やっぱり高い茶葉を使っているのか?」

 

 ウォースパイトは特に表情を変えず、わずかに小首を傾げるのみで答える。

 

「茶葉(リーヴズ)はそんなに高いものじゃないわ。ブレンドをちょっと工夫しているだけ。今日のは、ダージリンベースにアッサムを少し。オータムナルだからミルクで割るのもいいのだけど、気分でストレートに」

「言ってることはよくわからんが、コクがある」

「それがオータムナルってこと」

「秋摘みという意味か」

「そうそう」

 

 ふたりの会話をよそに、アークがフンと鼻を鳴らして横を向く。腕組みし、苦々しげに顔を歪めて言った。

 

「こんなに不快なアフターヌーン・ティーは初めてだ」

 

 その一瞬、ウォースパイトが無言で提督に微笑みを投げかけてきた。明確にアークの眼を盗んでの、共犯者の微笑だった。

 すぐに表情を消し、臍を曲げた僚艦へ顔を向ける。

 

「アーク──失礼なことを言うものじゃないわ。せっかくアドミラルに来ていただいたのに」

「べつに来てくれと頼んだわけでもない。勝手に雑(ま)ざってきただけじゃないか」

 

 アークは自分の言葉でいっそう憤懣を募らせたのか、提督にきつい眼差しを向けてくる。

 

「──私は、貴方のことをもう少しまともな……上官だと思っていた。自分の推挙した部下を護ろうともせず、保身に汲々(きゅうきゅう)とするような下劣な人間だとは見抜けなかった」

「手厳しいな。能力不足の旗艦を更迭することは、そんなに下劣なことなのか」

「おい──」

 

 アークのまなじりが、怒りの形に釣り上がる。

 挑発へアークが上手くのってきてくれたことに、提督は若干の安堵を覚えた。

 

「それはビスマルクへの侮辱か。ならば許さんぞ」

「どうしたんだ。ずいぶん熱くなってるな」

「当然だ」

「解せないな──おまえたちはもともと、仇敵同士のはずだろう」

「それは貴方たちが言う『ゼンセ』でのことだ。今は違う。艦娘としてのビスマルクは私の僚艦であり、友だ。侮辱は看過できない」

 

 アークは唇を引き結んでいる。

 きかん気の強さが好もしかったが、提督は呆れたふりで頭を掻きながら言う。

 

「結構なことだが、結果がすべてだ。実戦で仲間を沈めてしまう前に、もう少し見込みのありそうな旗艦に交代させる必要がある。──なあ?」

 

 そう言って提督は、ウォースパイトをじっと見つめた。

 ウォースパイト自身はその視線を無表情に受けとめていたが、怪訝な顔で様子を窺っていたアークが突然、狼狽を露わにした。

 その意味するところに気がついたようだ。

 

「馬鹿な……そんな、馬鹿な話があるか」

 

 震え声で言ったアークを、提督は横目でちらりと見やる。

 

「そんなに驚くような話か? 格からすれば、ウォースパイトは旗艦として十分にふさわしい。前々からおまえたちイギリス艦は、艦隊の中心としての活躍の機会を欲しがっていただろう?」

「しかし、それは──」

 

 アークはしきりに眼を泳がせ、提督とウォースパイトを交互に見る。

 提督は身を乗り出すようにして、ウォースパイトに尋ねた。

 

「どうだ、ウォースパイト。今はまだ非公式な段階だが、次の演習あたりから旗艦を務めてみる気はあるか?」

 

 ウォースパイトの作りものめいた白皙(はくせき)の顔からは、いかなる感情も読み取ることができなかった。透き通るような淡い碧眼が、提督をじっと捉えていた。

 

「──申し訳ないけれど、お断りするわ」

 

 長い沈黙のあとで、ウォースパイトは静かに言った。口もとにはかすかな笑みが浮かんでいる。

 

「なぜだ。せっかくの昇任のチャンスだぞ」

「アドミラル──アークがさっき言ったけれど、ビスマルクは私たちの友よ。私たち王国海軍(ロイヤル・ネイヴィー)はけっして、窮地の友を見捨てたりはしない。ましてや、自分の昇格(プロモーション)に利用するなど」

 

 アークが、小さく息をついた。安堵の気配があった。提督へ強気の視線を向けてくる。

 

「さて、それで──どうするつもりだ、アドミラル? 別の艦娘に旗艦の話を持っていくか?」

 

 提督は困った表情をつくり、顎の先を撫でた。

 

「いや、まさか断られるとは思っていなかったからな。まあ、艦隊内にほかの候補がいないわけでもないが」

「ハ! 誰が受けるものか。我ら作戦艦隊の結束は固い──旗艦ビスマルクのもとでな」

 

 アークは勝ち誇ったような表情で立ち上がる。

 

「私はこれで失礼する。──ウォースパイト、悪いがここの後片付けを頼む」

「それはいいけど。アーク、どこへ?」

 

 見上げて尋ねるウォースパイトにアークは答えず、去り際に提督を冷たい眼で一瞥すると足早に部屋から出て行った。

 ウォースパイトはしばらく、叩きつけるように閉じられたドアを眺めていた。やがて、提督にむかって言う。

 

「どこに行ったと思う?」

「さあな」

「わかっているのでしょう?」

「わからんが。そう言うおまえはどうなんだ」

 

 提督は、少し冷えてぬるくなった紅茶に口をつける。ウォースパイトがやわらかく笑って言った。

 

「ビスマルクのところね。今朝の演習後の口論のことを謝りに行ったんだわ。アドミラルも、そのことを知っていたでしょ」

「どうだったかな」

「もともと、そういう狙いね」

 

 答えず、提督はひと息に紅茶を飲み干した。

 ウォースパイトは構わず続ける。

 

「ねえ、ひとつ聞かせてほしいのだけど」

「なんだ」

「旗艦の話(オファー)、私が受けていたらどうするつもりだった?」

「どうせ受けやしないだろう」

「もしも(イフ)の話よ」

 

 提督は溜息をついてウォースパイトを見た。邪気のない表情だ。どうやら純粋な好奇心で尋ねているらしい。

 もう一度、大きな溜息をついてから言った。

 

「──なんのかんの理由をつけて、旗艦の話はお流れになったことにする」

「理由って?」

「なんでもいい。イギリス嫌いの上層部から難癖をつけられたとか、そんなもんだ」

「それで私は、ビスマルク指揮の作戦艦隊にそのまま?」

「いや──自分のほうがリーダーにふさわしいと一度でも思わせてしまったら、もうチームには残せない。やはり適当な理由をつけて、作戦艦隊からは外す。──騙しうちで悪いが、旗艦はまた後日、別の艦隊で、だ」

「じゃあ、さっきの話を受けてたら、私とアークのふたりとも作戦艦隊から外れることになったのね」

「いや、そのときはイギリス艦すべてだ。ネルソン、ジャーヴィス、ジェーナスを含めた全員を外す。戦力としては痛いが、結束にわずかでも罅(ひび)が入れば、そこから隊が割れる。新編成の艦隊は壊れものだ。不安要素を残すことはできない」

 

 ウォースパイトは目を見開き、提督を見つめる。感心したように二度、深く頷いた。

 

「やっぱり……貴方は外交官(ディプロマット)ね、アドミラル。なかなかのものよ」

「本場のお国柄からの、お褒めの言葉と受けとっておこう」

「演技は下手だけれど」

「よく言われる。どこで気づいた」

「艦娘と話しているときの貴方は、こんな仕草、絶対にしたりしない」

 

 控えめに指で首を切る動作をしてみせ、ウォースパイトはいかにもおかしそうに笑った。

 提督は舌打ちし、立ち上がった。

 

「邪魔したな。美味い紅茶だった」

「もう行ってしまうの?」

「あまりのんびりしていると、日が暮れる。まだ用事があるんでな」

「ネルソンはトレーニングから戻らないし、ジャーヴィスたちはお昼寝から起きてこないし、私ひとりでお茶会だわ」

「すまない。またいずれな」

 

 ウォースパイトは肩をわずかにすくめ、目を伏せる。

 

「……アークだけど、本気でアドミラルのことを嫌いになったわけじゃないわ。彼女は頭に血がのぼると、すぐに周りが何も見えなくなるから」

「俺のことなど、どうでも構わない」

「貴方の真意と誠実さには、アークもいつか気がつく。きっと、そういったものが見えるようになる日が来る」

「また、いずれな」

 

 提督はウォースパイトに背を向け、ドアへと向かった。

 

 

 ◆

 

 ──ここは。

 

「わたしの、秘密の場所」

 

 ──秘密の場所。

 

「イエス。ここって、じみーに鎮守府の建物からは見えにくくなってるデス。このカゲにこうしてると、ぜんぜん、わたしたちがここにいるってわからないネ」

 

 ──あの、すみません。

 

「イエス?」

 

 ──どうして秘密の場所を、私なんかに。

 

「それは、あなたが」

 

 ──私が。

 

「泣いてたから」

 

 ──泣いては、いません。

 

「泣いてたヨ。こころの中で。私には見えていたヨ」

 

 ──……。

 

「わたしは、こころの中で泣きそうになったとき、ここへ来るデス。誰にも、涙なんて見せられないから」

 

 ──どうして、見せられないんですか。

 

「もしわたしが泣いていたら、あなたはどう思いマス?」

 

 ──きっと、驚きます。

 

「デショ? だからヨ」

 

 ──驚かれては、いけないんですか。

 

「わたしが泣いてみんなを驚かせるのは、ダメ」

 

 ──なぜ。

 

「結束に、瑕(きず)がつくから」

 

 ──瑕。

 

「そう、瑕ヨ。それはちいさな、ちいさな瑕かもしれない。でも、ダメね」

 

 ──なぜ、ですか。

 

「みんな、わたしを頼りにしてるから。わたしの妹たちも、新しく入ってくる艦娘たちも、そしてテートクも、みんな」

 

 ──でも、それでも泣きたくなるときはあるんですね。

 

「イエス。もう、毎日」

 

 ──毎日、ですか。

 

「毎日ヨ」

 

 ──どんなことで、泣きたくなるんですか。

 

「……」

 

 ──すみません、失礼なことを。

 

「ウウン、そうじゃないノ。じつは、わたしにもよくわからなくて」

 

 ──わからない。

 

「ウン。なんで自分が、こんなにも泣きたくなるのかわからない。『前世』ではこんなこと、なかったはずヨ」

 

 ──それは、なんだか当然みたいな気もしますけど。

 

「ナゼ?」

 

 ──今の私たちには、心がありますから。鋼鉄のからだのときには、無かったものです。

 

「こころが」

 

 ──はい。心が。

 

「フム……こころがあるから、毎日、泣きたくなる。──なるほどデス」

 

 ──いえ……よく考えると、なんだか浅はかだったかもしれません。

 

「ウウン。きっとこれは、真理ヨ。──あなたは、するどい」

 

 ──そんなこと、ないです。

 

「あなたが泣く理由も、こころがあるから──デショ?」

 

 ──……私のは、もっと、単純です。

 

「単純?」

 

 ──私は、役立たずなので。

 

「そんなこと、ない」

 

 ──司令官もそう言って、あるいはただ笑って、否定してくださるんです。でも、でも……実際に、私は何の役にも立っていない。役立たずの艦娘です。

 

「そんなこと、ない。ぜったいにちがう」

 

 ──……。

 

「役に立てないことを泣くコが、ほんとうに役に立たないなんてこと、あるわけない。あなたは、あなたが思うよりもっと、ずっと強い。あなたの中には、強くて硬い、芯がある。わたしには見える」

 

 ──そんなふうには、思えないです。

 

「あなたは強い艦娘ヨ。信じなさい──ブッキー」

 

 ──ブッキー?

 

「あなたの呼び名ヨ。吹雪だから、ブッキー」

 

 ──はあ。

 

「吹雪ってブリザードね。名前も強そうネ」

 

 ──いえ、完全に名前負けです。私なんて、みぞれぐらいです。

 

「なかなか面白いジョークね」

 

 ──ほんとうにジョークなら、よかったんですけど。

 

「ブッキー」

 

 ──はい。

 

「あなたは強くなるヨ、きっと。それまでは、わたしが」

 

 ──金剛さんが。

 

「あなたを護るヨ。だれかにいじめられたり、できないことがあったら、すぐわたしを呼ぶデス。わたしがかならず、助けてあげるから」

 

 ──……金剛さん。

 

「イエス?」

 

 ──それじゃ、あべこべですね。戦艦が駆逐艦を護るなんて。

 

「フフ……いいノ。いつか強くなったブッキーが、きっとわたしを助けてくれるデス」

 

 ──そんな日が、来るでしょうか。

 

「来るヨ。わたしはずっと、待ってるから」

 

 

 ◆

 

 香水の匂いがする──と言って、叢雲が眉をひそめた。

 執務室へ戻ってきた提督が、留守中に提出されていた報告書や入った連絡などの伝達を受けている最中だった。

 傍らで見上げてくる叢雲の視線に、提督は動揺した。

 

「いや、これは──」

 

 弁明しかけたところで、叢雲が人差し指を立てて制する。しばらく思案顔をしていたが、やがて思いついたように言った。

 

「──リシュリューさんでしょ」

「あ……え」

「ちがう?」

「いや……そうだが」

「やっぱりね。この繊細なフローラル系の香り。ぜったい、私たち有象無象が使ってるような安物じゃないもの。陸奥さんは今日は外で仕事だし、作戦艦隊の中であんたと絡みがありそうな艦娘だと──って考えたら、リシュリューさんしかいないって思ったわ」

 

 叢雲は得意げに顎を上げて言った。提督は気まずい思いで、咳払いをする。

 

「なあ、べつに、話をしてきただけだ」

「話をしただけで、香水の匂いがつく?」

「それは──」

「キスは?」

「あ?」

「キスしたのかって訊いてるの」

「何を言ってるんだ」

「答えなさいよ」

「……した」

 

 言葉少なに憮然と答えた提督を見て、叢雲が吹き出す。

 提督はいっそう憮然とするほかない。

 

「──ごめん、ごめん。めずらしくあんたが狼狽(うろた)えてるから、ちょっと意地悪したくなっただけ」

「本当に、話をしてきただけだ。その場の流れでリシュリューから強引にキスされたが、それだけだ」

「もう、わかったってば。私に言い訳しなくていいから」

 

 叢雲の表情は、意外なほどにやわらかかった。上目遣いで尋ねてくる。

 

「話の仕方にもいろいろある──そういうことでしょ?」

「──まあな」

「リシュリューさんにはキスしてあげて、甘い言葉を囁くのが上手い方法ってことね」

「甘い言葉は囁いちゃいないが……情にはうったえてみた。なんだかんだで、あいつはそういうのに弱そうだからな」

「首尾は上々?」

「ビスマルク指揮下で連中が本当にまとまってくれるかは、次の演習を見てからだが、とりあえずはな。こちらの思惑についてはリシュリューも承知だろうが、ストレートに『頼む』と言われたら断れないタイプだ」

「作戦艦隊のほかの艦娘にも、その手?」

「いや、いろいろだな。なだめたりすかしたり……騙したり」

「騙す?」

「俺が敵になってしまうのが手っ取り早い、というパターンもある」

「ああ、そういう」

「それなりに恨みも買ったと思うが、憎まれ役を引き受けるのも俺の仕事のうちだからな」

「ふーん……」

 

 叢雲は口を尖らせ、鼻を鳴らした。宝石のように大きな瞳で、じっと、見つめてくる。

 

「……なんだ?」

 

 尋ねたが、叢雲は答えない。

 困惑した提督が眼をそらしかけたところで、頬へと手が伸びてきた。

 叢雲が背伸びするようにして、顔を寄せてくる。

 唇が重なっても、提督は目を閉じることができなかった。

 

「……おつかれ、さま」

 

 離れるなり、叢雲は優しげな眼差しでそう言った。

 提督は胸の奥に、ひどく息詰まるような、苦しい何かがせり上がってくるのを感じた。こらえて、唇を噛んだ。

 叢雲が、ついと眼をそらす。

 

「なによ。変な顔して」

「──いや」

「言っとくけど、レア、だからね……私のこういうの」

「ああ」

「ま、業務のうちだし。冴えない顔した司令官を、秘書艦がねぎらってあげるのも」

 

 叢雲は少し振り向いて、秘書艦の机を見やった。

 

「──私じゃ、吹雪ほどには役に立てないと思うけど」

「そんなことは、ない」

「事実よ。実際に今日、あんたがしてきたようなこと、私や榛名さんには真似できないと思うもの」

 

 言っている意味がよく掴めず、提督は叢雲を見つめた。叢雲は執務机に寄りかかり、その視線を受け流すように天井を見上げる。

 

「あんたが今日、あちこち歩きまわってやってきたのは、作戦艦隊をビスマルクさんのもとで結束させることでしょ?」

「まあ、そうだな」

「なんていうんだっけ……メンタルコントロールってやつ?」

 

 少し息を継ぎ、首を傾けて提督を見る。

 提督が黙っていると、小さく肩をすくめて続けた。

 

「そういうのって、吹雪がいるときには、あんたの代わりにやってたことなんでしょ? ちがう?」

「……あいつに、艦娘を騙させたりしたことはない」

「そりゃ、やり方は違うわよ。でも目的は同じでしょ。私たち艦娘が、心をひとつにできるように、そういうケアをするってこと。──吹雪はなにかにつけて、落ち込んでたり悩んでたりする艦娘のところへ行って話をしていたわ。そういうのって、あんたの指示だったんじゃないの?」

 

 提督はしばし言葉を失い、やがて黙って首を振った。

 秘書艦としての吹雪にさせていたことは、報告書や指令書の受け渡しであるとか、立ち会いであるとかの、特に重要というわけでもない煩雑な業務が大半だった。

 執務室外で仕事をさせた際、ときおり妙に帰りの遅いことが気になったりもしたが、仲のいい艦娘と立ち話でもしているのものだと思い込んでいた。

 叢雲は呆れたように息をつく。

 

「──ってことは、吹雪が自主的にやってたんだ。あの子、基本的に気は小さいのに意外と物怖じしないところあるのよね。相手の艦種だとか国籍だとか、わりと関係なく話すし。──前に榛名さんとも話したことがあるんだけど、吹雪のああいうところはなかなか真似できないねって」

「俺は……吹雪がそんなふうに動きまわっていることは知らなかった。今日の作戦艦隊へのケアについても、必要が生じたから動いただけのことだった」

「いなくなってわかるありがたさ、よね。相手がいるうちに、ちゃんと感謝しとかないと」

「……ああ」

「でも、吹雪の場合は難しいか。あんたにバレないように動いてたんだし。──見えないところで支えられてたってことよね」

 

 提督は立ちつくしていた。

 知悉(ちしつ)していると思い込んでいた鎮守府と、最も身近にいたはずの吹雪の行動と、その両面で、自分がまったくの無知であったことを、いま初めて知った。

 呆然としている提督の胸を、叢雲が笑って軽く叩いた。

 

「ほら、ぼんやりしてないで。あんたが留守中の報告、だいたい終わったけど、いい?」

 

 提督は、叢雲から手渡された報告書や届出書類の束をずっと持ち続けていたことに、あらためて気がついた。ああ──と、かすれた声で答えて、書類を執務机の上へと置く。

 叢雲が微笑んだ。

 

「それから最後に、榛名さんのことね。ちょっと前に、こっちの仕事が気になったみたいで顔出してくれたんだけど」

「ああ──今日はもう、仕事を上がるように言ってくれたか」

 

 陽はもう、沈みきっていた。窓の外、港湾の遠く、海へ突き出た防波堤の先端で、小さな灯台が緑色に瞬いている。

 

「うん、言ったけど、いいですって」

「いいです?」

「つまり、いつも通り9時に上がりますってこと。金剛さんは榛名さんが大役を任されていることを喜んでくれるだろうからって。出渠の付き添いなんかで仕事を放り出したりしたら、そっちのほうが叱られちゃいますって笑ってたわ」

「──そうか」

「それから……榛名さん今夜、私の部屋に泊まるから」

「なに?」

 

 提督が思わず聞きなおすと、叢雲はいっそう得意そうに微笑んだ。

 

「だから、私の部屋、十二駆の部屋のほうでお泊まり──女子会ってやつ? 榛名さんとは前から話してたのよ。ふたりでゆっくりのんびり、お喋りしたいねって。お互いそれなりに艦娘歴長いけど、秘書艦やる前はほとんど話したことなかったし。今夜はちょうどいい機会だから」

「……それは」

「そう、そういうこと。あんたと金剛さんのこと、気を遣ってくれたのよ。……べつに、プレッシャーに感じてほしくはないんだけど」

 

 提督は二の句が継げず、黙って叢雲を見つめた。透明な笑顔で、叢雲が言う。

 

「金剛さんの出渠は、ちゃんとあんたが迎えなさいよ。──その、いい匂いがついた上着は着替えてからね」

 

 

 

 ◇

 

 鎮守府港湾の外縁部から突き出た細長い防波堤を、提督は歩いていく。

 月の無い、暗い夜だった。

 海は時化(しけ)の気配を孕(はら)んで、せわしなく波音をたてはじめていた。

 風も出ている。

 ぼんやりした光を発する足元灯のおかげで、気をつけて歩いていれば、不意に海中へ転落してしまうようなことはない。

 防波堤の先端には、緑色の光を数秒おきに発する小さな白い灯台があった。

 その灯台の傍らに、長い髪をなびかせて立つ人影がおぼろげに見える。

 巫女装束に似た、見慣れたその服の袖が、ぱたぱたと音をたててはためいていた。

 

「金剛」

 

 手を伸ばせば触れるほどの距離まで来て、提督は呼んだ。

 人影が、ゆっくりと顔を振り向かせる。

 その表情は闇になかば溶けかかっているかのように朧げで、判然としなかった。

 

「テートク……」

 

 波と風の音に消え入るような、金剛の声だ。

 提督は、巫女服から素肌が剥き出しの肩を見つめた。

 

「この季節に寒々しいな、その格好は。艤装を長く着けすぎて、冬の寒さを忘れたか」

 

 コートを脱いで、裸の肩を覆うようにかけてやる。

 金剛はただ、呆然としているようだった。

 提督は照れ隠しに、訊かれてもいない説明を始める。

 

「予定時刻を過ぎても姿を見せないから、工廠の明石に連絡したんだ。そしたら、とっくにおまえは出渠してるって言うじゃないか。それで、もしかしたらここに来ているんじゃないかと思ってな」

 

 見上げる金剛の唇が、震えたように見えた。わずかに息を吸い込む気配のあとで、尋ねてくる。

 

「どうして、ここ、だと」

「以前、おまえがひとりになりたそうなとき、ここへ歩いて行くことがあったのを思い出した」

「知って、いたノ……?」

 

 久しぶりに聞く、独特の訛りが利いたアクセントに、思わず笑みが漏れた。提督は頷いて答える。

 

「いつもうるさいぐらいに目立ってばかりの金剛の姿が見えなくなれば、気になる。この突堤を歩いていくおまえの姿を、いつか執務室の窓から見かけたことがあった」

 

 金剛は、かすかに笑ったようだった。

 

「テートクは……なんでもお見通しネ」

 

 いや──と提督は首を振る。

 

「俺は何も見えていなかった──そのことは今日、あらためて思い知ったところだ」

 

 金剛が首を傾げる。

 提督はそれ以上何も言わず、金剛の隣りに並んで立った。

 冷たい風の中で眼を凝らしたが、見えるのは黒い海の、不気味なうねりだけだった。

 

「なにを、眺めていた」

 

 びゅう──と音をたてて、背後の陸地から沖合にむけて強い風が抜けていく。

 乱れた長い髪が、金剛の顔にかかった。金剛は手で払いのけようともせず、吹かれるにまかせていた。

 

「……ブッキーが、行ってしまった先。わたしがかつて、戦っていた海」

 

 提督は、乱れる髪の間に垣間見える金剛の横顔を凝視する。記憶の中にある、いつでも凜々しく明るく、太陽のような艦娘は、ひどく哀感に満ちた表情をしていた。

 吹雪の出征のことを、金剛はいつ、誰から聞いたのだろう──提督はぼんやりと、そんなことを思った。

 だが、それを尋ねることが、なぜだかひどく、億劫になっていた。

 提督が黙っていると、金剛は震える声で続けて言った。

 

「──でも、もう、わたしにはなにも見えない。戦っているときには、はっきり見えていたものが、今は見えない。なにも、見えない……!」

 

 金剛は唇を噛む。悔しげに、黒い海を見つめる。

 

「鎮守府の幸せ──みんなの幸せ──どうして、わたしは負けてしまったノ……! 勝ち続けていれば、きっと、きっと護り続けることができていたのに……テートクも、ブッキーも、みんな……」

 

 言葉をかけることが、できなかった。

 初めて見る、激情を露わにした金剛の姿だった。

 提督はきつく、拳を握りしめていた。

 憤ろしさとしか表現しようのない感情が、胸のいちばん奥で渦巻いていた。

 それを意識した瞬間に、憤ろしさは激流のように噴出し、提督の全身を震わせるほどの情動へと変化していった。

 それは明白に、怒りだった。

 金剛に対する怒りではない。

 自分自身の無知と、無力さと、この状況を招いた怠惰さへの怒りだった。

 気がつくと手を伸ばして金剛の両肩を掴み、引き寄せていた。

 ウールのコートの下に感じる金剛の肩は、不思議なほどに柔らかかった。

 強引に、唇を重ねた。

 唇に小さな痛みを感じた。強く急激に押しつけたあまりに、自分の歯で上唇を切ってしまったようだった。

 かすかに鉄臭い血の味に、金剛の柔らかな唇の表面についていた潮(しお)の味が混じる。

 金剛の口内へ、舌で割って入った。

 とろりと潤んだ唾液の、言いようのない甘い香りと味を感じた。

 唇を合わせているうちに、自分の激情が徐々に鎮まっていくのがわかった。

 離れる。

 金剛が見上げてくる。

 提督の唇へと人差し指を伸ばし、傷口にそっと触れる。

 細い指の先端に、くすんだ血が滲んでいるのを提督は見た。

 その手を掴んで、握りしめる。

 金剛の指はすっかり冷えきっていて、凍えていた。

 

「俺が──護る。俺が見せてやる」

 

 感情にまかせて、提督は言った。

 金剛が提督を見上げ、強く、手を握り返してきた。

 握り合った手を、繋がったその部分を、ふたりが見つめる。

 ふとそこに、濡れた、冷たい感触があった。

 ふたりの指の境目に、氷の欠片(かけら)が挟まっていた。

 ぽつ、ぽつ──と氷が、指や手の甲へ落ちてくる。

 氷晶だった。

 暗闇の中で、どういうことか、その六角形の結晶の形まではっきりと見えていた。

 白く透明な小さな柱が、ふたりの体温で溶け、消える。

 提督は、金剛を抱き寄せた。

 強く抱きしめて、言う。

 

「戻ろう──ここは、冷えてくる」

 

 胸の中で、やがて金剛が、小さく頷くのがわかった。

 

 

 

 

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