※この作品はR-18です。

艦娘抱けるかな   作:狂猫病

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好きなことを

 鎮守府所有のセダンは高速道路に入り、スムーズな加速で本線に合流した。

 運転席の長門は軽くアクセルを踏み込んで車をさらに加速させ、追い越し車線へ進路を変える。しばらく走行したあとで、ペースメーカーになりそうな長距離便のトラックを見つけると、走行車線へと戻ってその後方につけた。

 気負いのない、落ち着いた運転だった。

 

「意外とおとなしい運転だな、長門」

 

 助手席に座っている提督が、声をかけた。

 

「意外と、か」

 

 長門は進行方向から目をそらさずに言った。今日は普段の和洋折衷めいた服ではなく、チャコールグレーのパンツスーツに身を包んでいる。

 

「いや、もっとがんがんスピード上げていくかと思ってた。おまえと陸奥の車が車だからな」

「車を持ちたいと言いだしたのも、あ(・)れ(・)を選んだのも陸奥だ」

「じゃあ、あいつは相当飛ばすのか」

「私よりは。やたらと周囲の車と張り合いたがるから、悪目立ちしてそうで居心地が悪い」

「あ(・)れ(・)でそれなら、そりゃ目立つだろうな」

 

 あ(・)れ(・)とは長門と陸奥が共同で所有する国産のスポーツカーだ。真紅のカラーリングが際立っており、鎮守府内の駐車場に置いてあるだけでも相当に存在感がある。

 艦娘による初めての私有車であり、姉妹艦による自動車の共同購入が当時の鎮守府内でブームになるほどの注目を集めた。おかげで提督は、ローンや保険の保証手続きに奔走する羽目になったのだが。

 

「最近あまり運転してないとか言ってたな」

 

 提督が訊くと、長門は淡々とした口調で答えた。

 

「ああ、すっかりペーパードライバーだった。実を言うと、今朝はちょっと緊張していたぐらいだ」

「にしては、全然なまってる感じがないな」

「そうか? ……まあ、運転は教習のときからそんなに苦手じゃなかったし、性に合ってるのかもな」

 

 自動車を所有する以上は当然だが、艦娘にも免許の取得が可能になっていた。最寄りの陸軍施設で教習と試験を受けたうえで、警察官の監督する適性検査をパスすれば免許証が交付される。ここまでこぎつけるのにも、軍令部や参謀本部、警察との面倒な交渉を経なくてはならなかった。

 

「運転が好きなら、たまには買い物にでも出ろよ。誘ってもつれないって、陸奥がぼやいてたぞ」

「そうか……気を悪くさせたなら、陸奥にはすまなかったな」

「──休みにも、部屋で仕事してるんだって?」

 

 長門は片眉をぴくりと上げた。

 

「海域情報や作戦計画書を眺めているだけだ。仕事ってほどじゃない」

「感心だが、休みぐらいは自分の好きなことに時間を使え」

 

 提督が言うと、前方を見つめる長門の瞳の中に剣呑な気配が揺らめいた。

 

「私が、好きでしていることだ。体も十分に休めているし、とやかく言われる筋合いはない」

 

 憤然とした雰囲気を漂わせながら言った。わずかに口を尖らせるようにして、むっつりと黙り込んでしまう。

 提督は苦笑を噛み殺し、内心で首を振った。

 ──道中は、長くなりそうだった。

 

 

 ◆

 

「──で、部屋にいるんじゃなきゃ、ジムでとり憑かれたようにサンドバッグ殴ってるのよ。ストレス値なんか見なくたって、鬱憤が溜まってるのはわかってたわ」

 

 背後で、陸奥が溜息をつくのが聞こえた。

 提督は執務室の窓際に立ち、すっかり暗くなった屋外の様子を眺めている。100メートルほど離れたところにある工廠の明かりが、つい先ほど消えるのが見えた。室内の壁時計を見ると11時を少しまわっている。明石が一日の業務をようやく終了させたのだろう。

 提督は踵を返し、窓枠に背を預けて寄りかかった。

 

「おまえと長門は、よく一緒に出かけてただろ。最近はどうだ?」

 

 今朝の話し合いで提督が座っていたソファーに、陸奥は脚を組んで座っていた。ひとり掛けのほうには吹雪がかしこまって座り、ふたりの話を黙って聞いていた。

 陸奥が肘掛けにもたれながら答える。

 

「ジムが新設されてからは、全然。あの子、もともとトレーニングが好きだったし、出かけるよりもそっちのほうが面白いのかなって最初は思ってたのよね」

「今のジムができたのは春先だから……だいたい四ヶ月前ってところか」

 

 鎮守府内に新設されたトレーニングジムは、鍛錬好きの艦娘たちから非常に好評だ。ウエイト系や有酸素系のトレーニングマシン、格闘用の練習道具等にくわえてシャワースペースも併設されており、旧来の『トレーニング室』とは名ばかりのガラクタ置き場から格段の進歩を遂げていた。

 陸奥が中空を睨むようにしながら言葉を継ぐ。

 

「貴方と吹雪の関係が始まったのは三ヶ月前よね? 長門の変化とは、同時期と言えば同時期かしら」

「俺たちのこと以外で、長門が悩みを抱えてそうな様子は?」

「ない……と思うけど、確実じゃないわ。私だって、長門の心の中まで覗けるわけじゃないし」

「長門の性格を考えれば、休みに仕事してることぐらいじゃ、それほどの驚きはないが」

「うーん……それはそうなんだけど」

 

 陸奥は肘掛けに頬杖をつき、不満げに顔をしかめた。

 

「最近のあの子、なんだか『らしくない』でしょ?」

「ああ……わかります」

 

 黙って座っていた吹雪が、頷きながら口を開いた。

 

「演習での燃料弾薬の消費とか、食費とか光熱費とか、細かいコスト面をずいぶん気にしてくれてるんです。大淀さんも、仕事がだいぶ楽になったって言ってました」

「言われてみれば、書類仕事をやらせても以前みたいに渋い顔をしなくなったな。不器用なりに、報告書も真面目に書いてるし」

 

 報告書に関しては、きっちりと書き上げられる艦娘のほうが貴重ですらある。大半の艦娘の報告書は子供の感想文のようだったり、私見や脱線だらけだったりするので、提督が『翻訳』を行わなくてはならない。

 長門の場合は、報告書の序盤は非常に克明で詳細な描写がされているのだが、終盤になるにつれ、決まって息切れして簡素な、説明不足の文章になっていく。要するに、作文慣れしていない者が気合いだけを空回りさせている文章であった。

 

「苦手なことにも取り組むようになったのは、いいことだとは思うけどねえ」

 

 陸奥がしきりに首をひねっている。立場としては陸奥は長門の『妹』のはずだが、ときに保護者的な心持ちになるようで、こうした言い方や仕草をすることが少なくない。

 

「ここ最近、なんかこう……引っかかるのよ。雰囲気が、なんというか──」

「寂しそう、です」

 

 吹雪が目の前のミニテーブルを見つめながら、小声でつぶやいた。

 

「寂しそう……」

 

 陸奥は口の中で復唱すると、吹雪に顔を向けた。

 

「どうしてそう思うの? 吹雪」

「あの──長門さん、苦手なんですよね、報告書」

 

 吹雪が提督を見て言った。

 提督は頷く。

 

「あれは、お世辞にも得意とは言えないやつの文章だな」

「苦手なのに一生懸命書いてきて、司令官のところに持ってくるじゃないですか。そのときの司令官っていつも、長門さんに冷たいと思います」

「冷たい? なぜ?」

「いつも『ああ』とか『わかった』とか『そこ置いとけ』ぐらいしか言ってませんよ。『ありがとう』なんて聞いたことがないです」

 

 吹雪が、責めるような眼で提督を見た。

 

「そうだったか……? たまたま忙しかっただけじゃないのか」

「いつも、ですよ。ろくに、長門さんの顔も見ないし」

「……まあ、報告書は艦娘としての仕事の一部だ。あえて礼を言うようなことでもない」

「執務室から出ていくとき、長門さん、いつも寂しそうな顔をしてますよ。かわいそうじゃないですか」

 

 吹雪は妙に食い下がってきた。提督は苛立ちを抑えきれずに言った。

 

「なら、なんでそのときにおまえが言わない。長門に対する俺の態度が気に入らないなら、その場で意見すれば済む話だろうが」

「それは──」

 

 吹雪が言葉に詰まった。

 

「そんなこと、長門の目の前で吹雪が言えるわけないでしょ──馬鹿」

 

 陸奥までもが、提督を糾弾するような視線だった。吹雪が驚いたような表情で陸奥を見ている。

 

「……なんで、俺が馬鹿なんだ」

「どう考えても大馬鹿じゃないの。この朴念仁」

「なぜ吹雪は、長門の目の前で俺に注意できない?」

「それがわからないなら、貴方が女って生きものを全然わかってないってことね。──それと、長門のことも」

 

 陸奥は吹雪に笑顔を向けた。

 

「ありがとう、吹雪。貴女のおかげで、長門の問題、私にはだいたい想像がついたわ。ついでに解決策もね」

「解決策……?」

 

 吹雪がなんとか自分を取り戻して訊いた。

 

「人里離れた温泉宿に、一泊旅行よ」

 

 陸奥は自信たっぷりな表情で首を反らせ、提督を見ながら言った。

 

「温泉? 長門を行かせるってことか」

 

 悪くない考えかもしれない、と提督は思った。長門のストレス値なら、強制的にでも休暇を取らせる必要があったし、命令だと言えば長門の性格なら断れないだろう。しかし一泊という期間ではあまりにも──。

 

「貴方も行くのよ」

 

 陸奥が冷たく言い放った。

 横で茫然としていた吹雪が、とたんに眼を輝かせた。

 

「陸奥さん……それ、最高です……!」

「相手が貴女じゃなくてごめんね、吹雪」

 

 吹雪は微笑を浮かべて首を振った。

 

「気にしないでください。長門さん、きっと喜びますよ」

 

 提督は咳払いをした。陸奥と吹雪が視線を寄こす。

 

「なぜ、俺まで行かなきゃならないんだ」

「貴方がすべての元凶だからよ。ふたりで仕事を忘れて、好きなように愉しんできなさい」

「温泉宿ったって、いったいどこに──」

「あてがあるわ。こんなふうに使えるとは思ってなかったけど」

 

 提督は、二の句が継げなかった。毎度のことだが、陸奥のペースに乗せられている。

 

「司令官」

 

 吹雪が膝の上で手を組み、子供を諭す母のような態度をつくった。

 

「長門さんに優しくしてくださいね。優しく──可愛がってあげてください」

 

 吹雪が言い終えると、陸奥がすっと目を細めた。

 

「──じゃあ、細かいところを詰めましょうか」

「細かいところ?」

「普通に誘ったって、長門は素直に首を縦に振らないわ。乗ってきそうな口実を考えなくちゃ」

 

 

 ◆

 

「大浴場はとても広かったぞ。あれなら十人くらいでも一度に入れる」

 

 宿の浴衣に紺の半纏姿の長門が、座卓のむこうで満足げに言った。

 車内ではずっと不機嫌そうなまま口を開かず、宿に着いた直後も硬い表情のままだったが、浴場から戻ってからは興奮気味だ。

 提督は備え付けの緑茶を急須から湯呑みに注ぎ、長門の前に置いた。

 

「熱いぞ」

「ああ、すまない。──ただ、一般客の迷惑にならないか心配だが……」

「陸奥の話だと、貸し切りにもできるそうだ。もともと部屋数の多い宿じゃないし、軍関係者の利用も多いから、そのへんには融通がきくらしい」

「値が張るんじゃないか?」

「ここの経営者──結構なお歳の女性らしいんだが、陸奥のことをいたく気に入っていてな。艦娘や鎮守府のことはまだご存知じゃないそうだが、相当の値引きを約束してくれたんだと」

「ほう」

 

 長門は湯呑みを両手で持ち、軽く吹いて冷ますと、静かにすすった。

 

「──すごいな、陸奥は。そんな知り合いまでいるとは」

 

 湯呑みを茶托に戻しながら、しみじみと言った。

 

「情報収集の一環で、あいつが勝手に人脈を広げだしたんだ。艦娘であることを隠しながら、よくやるよ。スパイになったほうがいいんじゃないかってぐらいだ」

「陸奥なら、どんな仕事をやったって一流になれる」

 

 長門はうっすらと微笑んで、そう言った。

 陸奥が秘密裡に担当している仕事が、鎮守府外での情報収集だった。いわば諜報活動である。

 提督が陸奥にこの仕事を任せた当初の理由は、要領がよくて社交的だからという単純なものに過ぎなかったが、意外にも非凡な資質の持ち主であることがすぐに判明した。

 面が割れていない軍関係の式典やパーティに何気なく潜り込み、それなりの立場にある高官や重役の家族と何気なくうち解けると、パーティ後にも連絡をとり合うような関係を構築する。そうした伝手(つて)から得られる情報は、軍内における鎮守府の立場を守るために有益で不可欠なものになった。

 そうした活動がスムーズに進むよう、陸奥には一般人としての偽の個人情報が与えられている。勤務先として名刺に記載されている船舶会社は実在のもので、社長が提督とは旧知の間柄だった。もちろん問い合わせがあった場合に備えて、口裏を合わせてある。

 この陸奥の『裏の仕事』については、鎮守府内でも提督以外には一部の艦娘しか存知していない。提督の目の前にいる長門も、そうした艦娘のひとりだった。

 

「しかし提督、本(・)番(・)まで艦娘であることを伏せたまま、というのは無理があると思う。若い女ばかりが二十人、それも海軍関係となれば誰でも勘づくだろう」

「経営者にはいずれ俺から話をつけておく。なにかと世話になるかもしれんしな」

 

 長門は、そうか──と言って、またひと口だけ茶をすすった。湯呑みを置き、湯気をたてている茶の水面を見つめながら、ぽつりとつぶやく。

 

「楽しみだな、慰安旅行」

 

 優しげな眼だった。

 提督は瞬間、呆然とその眼を見入ってしまった。武人然とした佇まいを崩すことのない、鎮守府における長門とは別の艦娘のように見えた。

 浴衣姿の長門は、わずかに膝を崩して横座り気味だ。意外とほっそりとした体つきに、女性らしい丸みが強調されている。普段の服装から感じる逞しさや艤装装着時の物々しさは、微塵も感じられなかった。

 不思議な緊張を感じ、提督はひそかに唇を舌で湿らせた。

 

「……誰が行くかは抽選だからな。艦種別のバランスはとるが、古株も新参も優遇なしだ」

「ああ、べつに私が行きたくて楽しみってわけじゃない。きっと、皆が喜ぶだろうなと思って。──特に、駆逐艦たちが」

「そりゃあ喜ぶさ。それだけに、抽選会は熾烈だぞ」

「違いない」

 

 微笑して、長門が言った。ふと、思い出したように首を傾げる。

 

「本当に、提督は行かないつもりなのか」

「俺が行くとなったら、毎回行ってやらんと不満を言うのが出てくるだろ」

「ああ──それもそうだ」

「だからおまえも、下見で俺と泊まりに来たのは黙ってろよ。バレたら駆逐連中から吊し上げを食うぞ」

 

 長門は小さく息を呑んだ。一拍置いて苦笑気味に吹き出した。

 

「そうだったな。なら、私もくじを引かないほうが──」

「それならそれで問い詰められて吊し上げだ。せいぜい嘘をつく練習でもしておけ」

「……参ったな」

 

 本当に困ったという表情で下を向き、長門は溜息をついた。

 

「なんだって、そう折り悪く免停になったんだ、提督」

「頭の固い警官だったんだよ。同じお国のための奉仕者なんだから、駐禁ぐらい見逃してくれって言ったら、それが余計に頭にきちまったらしくてな」

「まったく……今日に限って陸奥も仕事が外せないなんて」

「いいじゃないか。運転、楽しかっただろう?」

「……うん」

 

 しおらしく頷くと、長門はちらりと上目遣いで提督を見た。

 

「その、車の中で……すまなかった。腹を立てたりして」

「ああ、あれか。俺の言い方も無神経だったからな。気にするな」

「……最近、どうもつまらないことで腹を立てたり、物に当たりそうになるんだ。態度に出さないようには気をつけているんだが」

「いろいろ、疲れてるんじゃないか? 不慣れなことも頑張ってるからな、最近のおまえは」

「え……」

 

 長門が目を丸くした。

 

「書類仕事は苦手だったのに、最近はしっかりやってくるじゃないか。鎮守府全体のことも気にかけてくれているって話も聞いた。ちゃんと礼を言ったことがなかったかもしれんが、感謝している」

 

 小さく頭を下げると、長門が身じろぎした。

 

「そんな、提督に礼を言われるようなことじゃない。仕事……仕事なんだから。私の」

「それはそうだが、おまえがいてくれて本当に助かってるんだ」

「どうしたんだいったい……そんな、あらたまって」

 

 長門は意味もなく部屋を見まわし、時計を見ながら言った。

 

「ゆ、夕食はまだなのかな」

「ああ、もう少ししたら時間だな。そうだ、長門──おまえ酒は苦手だったと思ったが、少しぐらいなら飲めるだろ?」

「え……お酒?」

 

 提督は頷いた。

 

「ビールでいいから、あとで少し飲もう。食事のあとがいいな。俺は食う前と最中には飲まない主義なんだ」

「ビール、か」

「全然飲めないのか? べつに無理しなくてもいいんだが。俺もどっちかというと弱いからな」

「いや、普段は仕事もあるし、飲まないようにしてるだけだ」

「よし、飲もう。酔って、好きなことを話そう」

「……いいだろう。でも少しだけだぞ。明日も私が運転なんだから」

 

 

 ◇

 

 座卓に突っ伏してしまった長門の肩に提督は手を伸ばし、二度揺さぶった。

 

「おい、長門。寝るなら後ろに布団があるから、そこまで行けよ」

 

 長門が小さく呻く。耳を寄せると、眠たくない──とつぶやく声がかろうじて聞きとれた。ふたりでビールの大瓶一本を空けただけだというのに、長門はすっかり酩酊状態だ。

 食事用の奥の間でふたりが夕食をとっている間に、本間には中居たちによって布団が敷かれていた。ぴったりと端を重ねて敷かれた二組の布団を見て、長門は明らかな動揺を見せた。寝る前に片方を奥の間に敷きなおせばいい──という提督の言葉で、なんとか落ち着きを取り戻したが。

 本間の隅に寄せられた座卓の角を挟んで座り、冷蔵庫から取り出したビールをコップについで乾杯した。

 とりとめのない話をしながら、小一時間ばかりビールをちびちびと飲んだ。話題は、過去の作戦のことやほかの艦娘たちのことばかりで、雰囲気こそ悪くはなかったが、お互いの心情に深く踏み込むようなことは挙がらなかった。

 つい先ほどまでは機嫌よさそうに話していた長門だったが、気がついたらこの有様である。

 提督は立ち上がり、声をかけた。

 

「どう見ても、もう寝たほうがいいぞ。ほら、手を貸してやるから」

 

 長門の背後に回って、腋の下に手を差し入れた。そのまま持ち上げようとすると、長門はふにゃふにゃと体を崩れさせ、思うように立たせることができなかった。

 仕方なく、長門の片腕を体の前で折り曲げるようにして補助棒のように持ち、引きずって運ぶことにした。

 

「よっ……と」

 

 長身の長門なだけに、さすがに吹雪よりは重い。だが、引きずるぶんにはそれほど重労働でもない。二歩、三歩と後退する。

 されるがままの長門が突然呻き声を上げ、上体を左右に揺り動かした。

 

「ん……なに、してる……?」

「運んでやってるんだよ。ほら、動くな」

「え……」

 

 長門が顔を上げた。ふたたびうつむき、提督に握られている自分の前腕を確認する。

 一瞬の間を置いて、上体をよじるように暴れさせた。

 

「おい、馬鹿、暴れるな」

「……いや、ちょっと、立てる、立てるから──きゃっ」

 

 慌てて立ち上がろうとした長門が、提督の浴衣の裾を踏んだ。

 バランスが崩れ、もつれ合うかたちで後方に倒れ込む。

 提督の臀部に衝撃が走り、思わず目を閉じた。

 

「……痛ってえ」

 

 畳に尻餅をついた。痺れたような鈍痛があるが、幸いにも尾てい骨は打っていないようだ。

 腹の上に柔らかな重量感があった。

 目を開けると、長門が覆いかぶさるように乗っていた。柔らかな感触は、提督の腹のあたりに押しつけられている乳房のものだろう。

 少女のように大きく目を見開いた長門と、視線が絡んだ。

 

「あ……」

 

 長門が、口を開ける。長くつややかな黒髪が、提督の胸の上に散らばるように広がっていた。

 

「ご、ごめん……提督、大丈夫か?」

 

 紅潮した顔を心配そうに歪めて、長門が言った。なぜだか、愛おしさがこみ上げてくるのを提督は感じた。

 

「ちょっと、尻を打っただけだ。おまえは大丈夫か、長門? 怪我してないな」

「ん、うん……大丈夫、たぶん」

 

 答えながら、長門がゆっくりとうつむいた。下げていった顔の動きが、ぴたりと止まった。

 提督の浴衣が胸のあたりではだけ、地肌が覗いている。

 

「立てるか?」

 

 問いに、長門は答えなかった。じっと、みぞおちのあたりを見つめたままだ。

 

「おい──」

 

 吸い寄せられるように、長門が頭を落としていく。柔らかで温かな長門の頬が、提督の肌にしっとりと押しつけられた。

 

「立てない、かも」

 

 ぽつりと言った。

 長門の豊かな胸の感触が、変わらず下腹にある。早鐘を打つような鼓動がどちらのものなのか、提督にはわからなかった。

 

「……横に体をずらせるか?」

 

 長門は答えなかった。代わりに、提督の胸の上で軽く頭を振る。さらさらと長門の髪が揺れ動いた。

 

「じゃあ……もう少し、こうしてるか?」

「……うん」

 

 口もきかず、そのまま何分も動かないでいたような気がした。

 長門が、ふと口を開く。

 

「こんなの、よくないな……」

「──こんなのって、なんだ」

「あなたと、こうしてること」

 

 長門が言葉を発して頬を振動させるたび、みぞおちのあたりの肌がさわさわと刺激され、くすぐったかった。

 

「なぜ、よくない」

「……ただの部下、だから。私は」

 

 長門の声は、わずかに震えていた。

 

「そのままでいい──それ以上は望まないって、そう……決めたから。決めたのに」

 

 提督の顔の位置からは、長門の表情は見えなかった。まばたきと口の動きだけが、肌を通して伝わってくる。

 

「俺が吹雪を抱いていることを知ったから、そう決めたのか」

 

 長門の頬が震え、息を呑む気配が伝わった。

 

「……ぜんぶ、わたしの勝手だったから、いいんだ」

「よくはない」

 

 腹立たしかった。吹雪に責めるような眼で見つめられた理由が、今になってわかった。

 

「いいんだ、ほんとうに」

 

 長門は震える声で続けた。

 

「──勝手に好きになったんだから、好きなままでいるのも勝手だろうって、そう思った。好きだってことを隠して、ずっと一緒にいようって決めた。一緒にいられるように、頑張ろうって……」

 

 深海棲艦との戦いが終われば、おそらく鎮守府は解散する。艦娘は一般人として新たな生を歩むことになるだろう。軍人である提督とは、あまり交わることのない道だ。解散後もともにいるための方法は、それほど多くない。

 

「長門」

 

 顔を上げた長門の双眸が、濡れていた。

 そっと、口づけする。

 長門の口内は、アルコールの苦みと涙の塩辛さが混じった、複雑な味だった。

 

「提督……」

 

 唇を離すと、長門はきつく目をつぶり、眉根を寄せていた。あらゆる感情が、眉間の縦皺に刻まれている。

 すうっと、涙が目尻からこぼれていく。それを指先でぬぐって、提督は言った。

 

「よく泣く副官だ」

 

 ゆっくりと、長門の表情が泣き笑いのように変化する。

 

「おまえが望むかぎり、そばにいてくれ。おまえは俺の、最高の部下だ」

 

 長門は笑った。心からの笑顔だった。

 

「うん……ずっと、そばにいる」

 

 もう一度、軽い口づけをした。

 唇を離すと、長門は困惑顔だった。

 

「でも、やっぱりこ(・)れ(・)は、吹雪に──」

「その吹雪に言われたんだ。おまえに、もっと優しくしてやれって。優しく、可愛がってやれって」

 

 長門が目を見開く。

 

「勘違いするなよ。吹雪に言われたからってわけじゃなく、ひとりの男として抱きたいんだ。おまえは最高の部下で──最高の女だから」

 

 紅潮していた顔をさらに赤くして、長門はうつむいた。

 

「もちろん、おまえさえよければ……だが」

 

 長門は顔を上げなかった。やがて、消え入りそうな声で言った。

 

「うん……私も、抱いて、ほしい。優しく、可愛がって……」

 

 

 

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