船着き場で働く男たちは、手漕ぎボート程度の大きさしかないその小舟を『
──艀に乗んじゃねえぞ、坊主。流されっからよ。
いつも酒に酔ったような赤ら顔をした、年かさの漁師の口癖だった。
──板子一枚下は地獄ってな。深海棲艦なんぞ出なくたって、海は怖ぇもんよ。
そんなこと知ってる──言われるたびに胸の内で返した。誰だって知ってることだ。海は広くて深くて、怖い。
腐りかけた床材が軋む桟橋の途中で、吹雪が歩みを止めた。繋いでいる提督の手を、きつく握りしめている。
何かを問いたげな眼で、提督を見上げる。
大丈夫だ──と言うかわりに提督は頷いてみせた。手を繋いだまま、艀の上へとひとりで降りる。
喫水の浅い艀は水面に浮かぶ木の葉のように不安定で、ゆらゆらと揺れた。
上体をわずかにかがめ、揺れが収まるまで待った。頃合いを見て、手を軽く引いて促す。
繋いだ手の先の長門が、おそるおそるといった様子で桟橋から脚を伸ばす。
浴衣の裾から覗けた裸足の両足を船底に着いたところで、艀の揺れにバランスを崩してよろめく。
抱きとめた。
腕の中、長門の紅潮した顔が間近にあった。震えるまつ毛の先に、潤んだ瞳が揺らめくのを、提督は見た。
唇を寄せ、接吻する。
長門の顔のむこう──艀の隅に、陸奥が脚を組んで腰掛けていた。
満足そうな笑みを浮かべ、ふたりの接吻を見物している。
艶めかしい太腿を見せつけるように、わざとらしく脚が組みかえられた。
文句を言うつもりで、唇を離した。
不意に目眩を感じてよろめき、たたらを踏む。
艀が、水面を滑っている。
桟橋の上に、吹雪が立ちつくしていた。
不安げな眼で提督を見ている。
──吹雪。
呼びかけは、声にならなかった。
切迫した感情が腹の底に広がっていく。
手を、確かに繋いでいたはずなのに。
腕の中に、ぴったりと寄り添う長門がいた。
陸奥がにやにやと提督の顔を眺めまわしている。
提督は不安に呼吸を荒くしながら、吹雪に向けて手を伸ばした。
声が出ない。
打ち揚げられた魚のように、口を開閉した。呼吸の音だけが虚しく響く。
少しずつ遠ざかる吹雪が、悲しそうな眼で提督を見た。
精一杯に手を伸ばし、あらんかぎりの声で叫ぼうとして、肺の奥から息を絞り出した。
吐き出した呼気の気配で、提督は目を覚ました。
暗い部屋の中、提督の胸の上で、長門が静かな寝息をたてていた。
◇
「支度、できたか」
提督は、背を向けてかがみ込んでいる長門に声をかけた。コンパクトなサイズのキャリーバッグに自分の荷物を詰めていた長門は、うん──と頷いて提督の顔を見た。
「もう出られるが、退室時間は何時なんだ?」
長門はスーツのパンツにワイシャツ姿だった。ジャケットが鴨居のハンガーに掛かっている。
提督は入り口のほうを振り返って、部屋の壁時計を見た。11時を少し回ったところだった。
「いや、チェックアウトはいつでも自由だそうだ。頼めば、昼食も出してくれるらしい」
「へえ……もう一泊いかがですか、なんて言い出しそうだな」
「言ってたぞ。予定外の連泊でも対応できると」
「……ずいぶん柔軟だな」
「その手の要望には慣れてるみたいだったな。──で、どうする」
「どうするって……何を?」
荷造りを終えた長門が、立ち上がって訊いた。
「もう一泊したけりゃ、それもできる」
提督の言葉に、長門は小さく息を吸い、一瞬身を硬くした。眉をひそめて首を振る。
「仕事があるだろう、私たちには」
「……だな」
提督は座椅子に座り、座卓の上の急須に緑茶の茶葉を入れた。
「飲むか?」
長門は頷いて座卓に歩み寄ると、提督に対し角を挟む位置の座椅子に座った。
提督が湯呑みに緑茶をそそぐのを、無言で眺めていた。
「私を抱いたこと、後悔してないか」
差し出された湯呑みの中の緑茶を眺めながら、長門がつぶやいた。
「おまえは後悔しているのか? 抱かれたことを」
「──していない」
顔を伏せたまま、そう言った。
「にしては、うかない顔だ」
長門は下唇を噛むと、顔を上げた。
「私は、貴方と吹雪のことが心配なんだ」
──吹雪。
今朝の夢の中の、不安で悲しげな吹雪の表情が脳裏をよぎる。夢の内容自体は判然としなかったが、その表情だけははっきりと記憶にある。
提督が押し黙っていると、長門が続けて言った。
「躰を重ねたあとでこんなこと言うなんて、本当に身勝手だとは思う。……でも、吹雪が知ったら許してくれないだろう。私は当然として、貴方のことも」
「言っただろ。あいつは承知している」
「ただの冗談だったかもしれないじゃないか。貴方と私が、本当にこういう関係になるとは思っていなかったのかも──」
提督は片手を上げ、勢い込んで話す長門を制した。
「事情を説明してやるから、黙って聞け。最後まで聞いたら、あとは怒るなりなんなり、好きにしろ」
提督は順を追って話した。
艦娘のストレス値増大のこと。それが提督と吹雪の肉体関係に起因する可能性が高いこと。解決方法として艦娘と面談し、場合によっては性交を用いると決めたこと。ストレス値の最上位が長門であったこと。下見にかこつけて長門を鎮守府から連れ出したこと──。
提督が話し終えると、長門は片手で口もとを覆うようにしてしばらく考えこんでいた。
やがて、顔を上げて言った。
「免停の件は? それも作り話か」
「駐禁の取り締まりをくらったのは事実だが、頭の固い警官じゃなかった」
「慰安旅行は?」
「当初はただの口実で済ませるつもりだったが、嘘で終わらせるのはもったいない──って吹雪が言い出してな」
「じゃあ、旅行は本当に?」
提督は頷いた。
「そうか……それは、よかった」
長門は満足そうに微笑んだ。提督は拍子抜けした思いで訊いた。
「怒らないのか、長門」
「ん……怒ってはいない。あえて言うなら、あっさり騙されたのが悔しい」
「俺はおまえを騙して連れ出し、酔わせて抱いた」
「……それだけ聞くと、ひどい卑劣漢だ」
「事実だ」
長門はゆっくりと首を振った。
「私は、貴方に救われた。手段は率直なものではなかったかもしれないが、私が頑なだったのだから仕方ない」
膝の上の提督の手に、長門が手を重ねた。
「提督──これから、たくさんの艦娘を抱くことになるな」
「そうと決まったわけでもない」
「決まってる。きっと、そうなる」
提督は長門を見返した。
長門が提督の手を、包み込むように握って言う。
「抱いてしまうのが最善だ──私のように」
「おまえも陸奥も、俺をジゴロかなんかだと勘違いしてるんじゃないのか。セックスで部下をコントロールしようなんて、馬鹿げてる」
「どんなに馬鹿げていても、それが自分の務めなら、貴方はそうする。鎮守府と、艦娘のために」
「俺をそんな聖人だと思うな。──おまえを抱くのだって、自分の務めだからなんて思わなかった。欲望のおもむくまま、ってやつさ」
「構わない。貴方に抱かれれば、それだけで私たちは──」
「きっと俺は、愉しんで艦娘を抱くだろうな。おまえたちに溺れて、甘えて、流されていく」
長門が哀しげに表情を歪めた。唐突に顔を寄せられ、提督は唇をふさがれた。
短い接吻のあと、わずかに口を離して長門が囁く。
「愉しめばいいじゃないか。愉しむのを自分に禁じて女を抱き続けていたら、貴方はいつか壊れてしまう」
長門の声は震えていた。
眼の前の瞳が潤んで揺れている。
提督は、強引に長門の唇をふさいだ。荒々しく、お互いを求めて舌を絡め合う。
ワイシャツの上から長門の胸を手でまさぐった。
「ああ……」
長門が熱っぽく喘ぐ。
提督は欲望で焼き付きそうな頭の隅で、鎮守府に帰るのは夜遅くになりそうだ──と、ふと思った。
「長門──俺は、おまえに素っ気なくしたな」
胸の上、素肌にワイシャツを羽織っただけの姿で寄り添う長門に、提督は言った。
長門が小首を傾げた。
「報告書の提出とかで、おまえが執務室に来たときなんかだ。今回の計画を立てているときに、吹雪とそのことで揉めた」
長門は黙って聞いている。
「俺の態度が気に入らないならその場で注意しろ──そう言ったら、横で聞いていた陸奥に馬鹿だ朴念仁だとさんざん罵られた」
「……そうか」
「そのことを、考えていたんだが──」
提督は中空をぼんやりと見やった。
「吹雪は、おまえの目の前で、見せつけるように俺の女房づらをしたくはなかった──こういうことか?」
長門は少し思案してから口を開いた。
「たぶん……そうだろうな。少なくとも、陸奥の言いたいことはそうだ」
提督は小さく鼻を鳴らし、言葉を継いだ。
「それなら、おまえが退室してから俺に注意すれば済む話じゃないか? 今さら蒸し返したくはないが」
長門はしばらく黙って提督を見つめていたが、やがて不意に躰を伸ばして頬に口づけした。
提督は苦笑する。
「なんだ、そりゃ」
「貴方がちょっと、可愛く見えた」
「意味がわからん」
「それじゃあ陸奥の言うとおり、もしかしたら馬鹿で朴念仁なのかも」
含み笑いをしながら長門が言った。
「答え、教えてくれよ」
「ん……まあ、私が吹雪の立場なら、って話だけど」
長門は提督の胸の上で首を傾げ、若干の間を置いてから続けた。
「私が秘書艦で、執務室にほかの艦娘が報告書の提出にやってくる。その艦娘に貴方は冷たい態度で素っ気ない」
「失礼な司令官だな」
「ふふ……まったくだ。しかもその艦娘は、どうも司令官に惚れてるふしがある。かわいそうに。あとで、司令官に注意しなくちゃいけない」
長門は悪戯っぽく微笑んで続けた。
「艦娘は悄然として退室する。そうしたら私はもう、貴方の態度を注意するなんていうことが、すっかり頭から消え失せてしまう」
「なぜだ。直前まで思ってたことだろ」
「貴方が、さっきの艦娘への失礼な態度とは全然違う、愛情のこもった優しい眼で私を見ているから」
提督は息を呑んで固まった。
「吹雪は立派だ。あとになってからでも、ちゃんと貴方を叱ったのだから。好きな男の愛情を独占し続けられるのに、それで良しとしなかった。──本当に優しくて、強い」
長門は胸の上に顔を横たえ、そっと頬ずりした。
「提督、吹雪を離しちゃ駄目だ。彼女は、貴方にとって特別な存在だから」
提督に、言葉はなかった。
長門がつぶやくように続けた。
「帰ったら、すぐに吹雪に会って抱きしめてやって。そして、ふたりで一緒に夜を過ごすんだ。必ず、そうしてほしい……」
◇
提督が扉を開けた先の執務室には、誰もいなかった。隣接している秘書艦用の控室と、自分の私室を確認したが、吹雪の姿は見当たらない。
出張用のビジネスバッグを床に置き、執務机の椅子に深く腰掛けた。体全体に蓄積している疲労感は、帰りの道中の運転によるものだけではなく、昨晩から今朝にかけての度を越した回数の性交によるところが大きかった。早いところ熱いシャワーを浴びて、ベッドに体を投げ出してしまいたい衝動に提督は駆られた。
大きく溜息をつき、机の上の書類の山に目を向ける。報告書や作戦計画書が三つの山に分けられて置かれていた。何枚か手に取ってざっと眺めたところ、未決と、既決、重要の三種類に分類されているようだ。既決の山が、ほかの二つに比べて圧倒的に大きい。
重要と目される数枚の書類を大まかに確認したあとで、未決の書類の束を持ってぱらぱらと繰った。書類から、ほのかな香水の匂いがする。いつも陸奥がつけているものだった。
なんとなく笑みを漏らしたところで、正面の扉が勢いよく開いた。
吹雪がいた。呼吸に合わせ、わずかに肩を上下させている。
「司令官」
入り口に立ちつくした吹雪は、安心したように笑った。
「吹雪、どこにいた」
「すみません、十一駆の部屋です。車が本棟の地下に入っていくのが見えたから、慌てて戻りました」
駆逐艦たちの部屋は、執務室のある本棟とは別の建物にあった。以前は吹雪も第十一駆逐隊の部屋で寝起きしながら執務室まで通っていたのだが、隣に秘書艦用の控室が設置されてからは、もっぱらこちらで生活するようになっていた。
「業務は終わったんだろ。謝る必要はない」
「いえ、お出迎えもしないで」
「予定外に遅くなった。帰る時間くらい連絡したかったが、道も混んでたからな」
実際には二日も経っていないが、ずいぶん久しぶりに吹雪の顔を見たようなきがする。
「昨日は、十一駆の部屋で寝たのか」
「はい。久しぶりだったし、夜更かししちゃいました」
言いながら吹雪は執務机を回り、提督の横から机の上を覗き込んだ。
「もう、ご覧になりました? 昨日からの業務は、陸奥さんが全部やってくれたんです。これの山がまだ未決で、そっちのが──」
「ああ、もう見た。急ぎの用件はなさそうだな」
「はい。念のため、明日でいいから既決の書類にも目を通しておいてほしいと、陸奥さんが」
「わかった。明日片付けよう」
はい、と言って吹雪は頷き、少し口ごもってからためらいがちに訊いた。
「あの──長門さんと、どうでした?」
不安そうな上目遣いで提督を見る。
提督は目をそらし、机の上の書類の山を見つめながら答えた。
「ああ、うまくいったよ」
その一言で吹雪は了解したようだった。安堵する気配が伝わってくる。
「……長門さん、喜んでました?」
「ああ、とてもな。この旅行は一生の宝物だと」
返事はなかった。
提督が見ると、吹雪はじっとうつむいていた。
「おい……」
吹雪は小さく息を吸い込んで顔を上げる。
「……すみません。なんだか、嬉しくなっちゃって。本当に、よかったなって……」
吹雪の顔は、半べそをかいたように歪んでいた。泣くのをこらえているようにも、無理矢理に笑おうとしているようにも見える。
提督は笑んで、吹雪にむかって小さく頭を下げた。
吹雪が慌てた。
「な……なんですか……?」
「計画を立てていたとき、おまえにきつい言い方をしたな。悪かった」
「そ、そんな……私こそ本当に失礼なことを……」
「いや、おまえが正しかった。長門と話して、それがわかった」
吹雪はひどく恐縮した様子で、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見まわした。
日付も変わろうかという時刻を示す壁の時計に目を止め、取り繕うように慌てて言った。
「あっ……あの、もう夜も遅いですし、お休みになっては? お疲れでしょうから」
吹雪にそんな意図はないだろうが、『お疲れでしょう』という言葉が自分の罪を苛んでいるように聞こえた。
「……そうだな。今日は運転してきたから、疲れた」
わざとらしく伸びをした。ひどく緊張して、ぎこちない動きだと自分でもわかった。
「……おまえも、もう寝るか?」
「あ……はい。その、実は、白雪ちゃんたちが、司令官のお帰りも遅いし、また今夜も十一駆の部屋で寝ないかって……さっきも、お布団の支度をしていたところで」
提督は言葉を失いかけたが、すぐに笑顔をつくった。
「そうか、いいんじゃないか。白雪たちも、久しぶりにおまえと過ごせたのが嬉しいんだろう」
「……はい。あの、すみません」
「何を謝ってる。──ほら、白雪たちが待ってるんだろ」
吹雪は何かを言おうと口を開きかけたが、思いなおしたようにつぐむと、頭を下げた。
「はい。……おやすみなさい、司令官」
「ああ、おやすみ」
吹雪が顔を上げた。夢の中の、悲しそうな眼ではない。
──夢?
頭をよぎった言葉に、その内容を思い出そうとして、提督は記憶の断片を探った。
──吹雪が、遠ざかっていく。
眼の前の吹雪が、薄く微笑む。その意味を掴もうとして、提督はよりいっそう思考を混乱させながら、夢の記憶を探り続ける。
──
吹雪が後ろを向いた。一歩、足を踏みだし、遠ざかる。
──何を? 何を言おうとした? きっと、大事なことだった。
さらに一歩、遠ざかる。
吹雪の左手が、きつく握りしめられている。
──なぜ、そんなに強く、握りしめている。それじゃ、きっと痛い。吹雪、おまえの、手が。
手が。
──手を、掴め!
夢の中の自分の叫びが、耳の奥で聞こえた。
瞬間、立ち上がって足を踏みだし、吹雪の手を掴んでいた。
吹雪が振り向き、驚いた表情で提督を見る。
「し……司令官?」
「悪いが、吹雪──」
吹雪の手が温かかった。間違いなく、現実の感触だ。
「今夜は、一緒に寝てほしい」
なんとか、言葉を絞り出した。顔が熱くなっていくのを感じる。
「あ、あの……大丈夫ですか? ひどく、お疲れに見えます」
吹雪が窺うように、上目遣いで提督を見た。
手から、力が抜けていく。
「いや……ただ、一緒にいてほしかったんだ……嫌なら──」
離しかけた提督の手を、吹雪の手が追った。握って、指を絡める。
「嫌なんかじゃ、ないです。──その、お気遣いしてくれたのかと思って」
「気遣いなんて、できる余裕はない。もうずっと、流されっぱなしなんだ」
──俺は、艀に乗ってしまった。
自分がどこに流されていくのか、見当もつかない。流された先にあるのは、広く、深い海だ。幼いときの恐怖の対象だった、暗い海。
「流されて、ひとりぼっちになってしまいそうで、怖かった」
「大丈夫ですよ。ほら、こうして手を繋いでいるから、流されない──ね?」
吹雪が子供をあやすように言う。
提督は、吹雪の手をきつく握った。この手を離すまい、と思った。
この小さな温かい手を握るために、ここに帰ってきた。これからも、帰ってくる。
「あ」
何かに気づいたように、吹雪が声を漏らした。
「ごめんなさい、忘れてました」
不安が首をもたげ、提督は思わず吹雪の顔をまじまじと見つめた。
吹雪が提督を仰ぎ見る目を細め、破顔する。
「おかえりなさい、司令官」
とびきりの笑顔で、そう言った。