「これからどうする?」
いつまでも見ていたい衝動を感じつつ、感動に区切りをつけて隣のナリルにきく。
ナリルも同じだったのだろう。
呆然としていたが、ソエルの言葉になんとか反応し今後のことを思案する。
が、感動が抜けきれないのかいつもより歯切れが悪い。
「そ、そうですね…とりあえず様子を見ましょう。こ、子供ということは、ち、近くに親のウルフが、い、いるはずです…」
声は震えていたが、その瞳は研究者の瞳だ。
子狼の一挙手一投足を見逃さないようにナリルはじっと子狼を凝視する。
「周囲の警戒は怠らないようにしましょう。どんな生物でも親は警戒心が強く危険です。せっかくノーブルウルフに会えたのに殺されるのはまっぴらです。」
ソエルはうなずくと周囲の警戒を重点的にする。
この一か月、ナリルから様々な知識を吸収したが、自分はまだ駆け出しのひよっこだ。
研究に関してはナリルに遠く及ばない。
今の自分にできることはナリルが心置きなく観察に没頭できるようにすること。
ソエルは周囲の茂みを注視しつつ、わずかな異音も聞き漏らさぬよう集中する。
そんなソエルの警戒網に触れる異音がひとつ。
ソエルはナリルの肩に触れる。
なにか異変があったときに行うサインだ。
ナリルはさっとソエルに顔を向ける。
「子狼の左ななめ後ろ、そこから何か来る。」
もしかしたら大人のノーブルウルフかも…そういった期待があったが、その期待は大きく裏切られる。
「!!ランダットベア!なんでここに!?」
ランダットベア…体長が二メートルを超える大型の獣で人を襲うこともある殺人熊である。
本来ならばもっと北に生息しているはずだが、目の前にいることは疑いようのない事実。
しかも目の前にいる大熊は若いオスだ。
この種の若いオスは気性が荒く、繁殖期に入る季節のためその凶暴性も増す。
その危険な大熊の目の前には蝶とたわむれる子狼。
ナリルは必死に考える。
もし子狼を助ければそれは自然の掟に反することになる。
だがせっかく出会えたノーブルウルフが目の前で殺されるのを黙ってみているわけにもいかない。
そうこうしているうちに大熊が大きな唸り声をあげる。
子狼は現状を把握するがすでに遅い。
襲い掛かる大熊から逃げるために朽ちた大木の根に空いた穴に転がり込む子狼だが、大熊の大爪が容赦なく大木を抉る。
キャインキャインと悲鳴が聞こえるが子狼に逃げ場はない。
ついに大木の入り口が割かれ震える子狼が姿を現す。
極上の獲物に大熊の牙が突き刺さろうとしたその瞬間、ビュンという風切音とともに一本の矢が大熊の肩に突き刺さる。
大熊の背後には弓を引き絞り凶獣から子狼を守ろうとするソエルの姿があった。
大熊はソエルの姿をみると食事の邪魔をしたものを排除するため、大きな唸り声をあげて襲い掛かる。
ソエルは目の前の獣の迫力に気圧されたのか固まったまま動けないでいる。
ここからはなにも考えていなかった。
気が付いたら弓を引き絞り、ソエルに襲い掛かる大熊の側頭に矢を放つ。
矢はナリルの狙い通り命中したが、固い頭骨が矢をはじく。
またも邪魔者が現れ、大熊は怒りの矛先をナリルに向ける。
そこに硬直から解放されたソエルが死角から矢を放つ。
互いに動き回りながら矢を浴びせる二人。
全射ことごとく命中しているが、肉の厚い大熊には致命打にならない。
そして一本の矢が大熊の左目に命中する。
それがいけなかった。
左目に矢を受けた大熊は激痛に唸り声をあげて暴れる。
そして大爪を振り回した先に運悪くソエルがいたのだ。
突然の不規則な攻撃になんとか反応したソエルだったが、大熊の凶爪がソエルの左ももを引き裂く。
「ソエル!!」
その場にうずくまり、傷口をおさえるソエル。
しばらく悶えていた大熊だが、身動きのとれないソエルが目に入るや否や、左目の敵とばかりに突進する。
注意を引きつけようとナリルは幾本も矢を放つが、大熊の目にはソエルしかうつっていない。
とうとう、必死に這って逃げようとするソエルに大熊が追いついてしまった。
「ダメッ!ソエル、逃げて!!」
ナリルの矢はすべて大熊に命中していたが、大熊は気にもしない。
恐怖で固まるソエルに近づくと、やっと恨みを晴らせると血で濡れる大爪を振り上げた。
「やめてーーー!!!」
それは突然現れた。
雷のような轟音とともに黒毛の巨体が大熊に体当たりする。
大熊は三度目の邪魔者に苛立った奇声をあげるが、雷のような咆哮が重なる。
「ノーブルウルフ…本物だ…」
ソエルが呆然とつぶやいた。
ナリルはすぐさまソエルに駆け寄り、震える身体を抱きしめる。
大狼と大熊のにらみ合いはしばらく続いたが、全身に矢を射られた大熊は不利と判断したのか、ゆっくりともと来た道を戻って行った。
大熊が去るとそれまで木の幹に隠れていた子狼が母狼に飛びついて甘えた声をあげる。
母狼は甘える我が子の体を丁寧になめてきれいにする。
まるで愛しい我が子の体温を舌で感じ取るように。
この母子が森へ帰るまで二人はただ黙って観察していた。
だが、この観察でわかったことは「母が子に愛情を注ぐ」という生物共通の愛情表現だけだった。
「…これで大丈夫です。傷痕は残ってしまうかもしれませんが、後遺症は残らないでしょう。」
「…うん」
ナリルが傷の治療をしてくれている間、ソエルはじっと狼親子が去って行った茂みを見つめていた。
母親に遠慮なく甘える子狼、それを全身で受け止める母狼。
隠すこともせず堂々と体現した愛の形に触れたソエルは勇気を振り絞って今まで内に秘めていた感情を言葉にする。
「わたしね…ナリルがうらやましかった。」
突然のカミングアウトに固まるナリル。
村の優等生ソエル…文武両道で皆から尊敬を集めていたソエルが村の落ちこぼれである自分をうらやましいと。
「前にナリルが自分の夢を語った時があったでしょう?みんなの前でノーブルウルフの研究をしたいんだって。」
「他のみんなは笑ってましたけど…」
「わたしは笑わない。だってわたしの夢も同じだから。」
「えっ!?」
「小さいときに読んだ英雄譚。あれにノーブルウルフがでてきたでしょ?あの物語が大好きだった。そしてわたしもノーブルウルフと……友達になりたいって思ってた。」
落ちこぼれの自分とまったく同じことを優等生のソエルが考えていたとは…。
まさかの発言にナリルは言葉も出なかった。
「笑っちゃうよね。伝説の生き物と友達になりたいなんて。」
「い、いや、その……でもソエルは頭もよかったし、やろうと思えばなんでも自由に…」
「……自由?自由なんてなかったよ。はじめのうちは周りの期待が気持ちよかった。でも、自分のやることなすこと全部注目されて…次第に怖くなった。15歳になれば村を出られるって思って頑張ってたけど、今度は帝都の高等学舎に入学させられた。でも村のためだって思って必死に勉強した。村の皆が喜んでくれたらって、それだけを支えにしてた。でも…」
ソエルはしばらくうつむいていた。
ナリルは話を整理しつつ、ふと下に目を向ける。
小刻みに震えているソエルの手…こんなに感情を表に出したソエルをはじめてみた。
いつも平然として冷静沈着にしていたソエルとは別人のようだ。
ナリルは無意識に震える手を包む。
ソエルも無意識に包み込んでくれる手を握り返す。
そしてゆっくりと深呼吸してナリルの目を見つめる。
「わたしね……強姦されたんだ。高等学舎で…」
衝撃的な事実に驚愕したナリルだったが、目はそらさなかった。
「わたしは成績上位だったんだけど、それを妬んだ奴がいた。帝都の外からきた下民ってずっと言われてた。そいつらが共謀して…強姦されたんだ。何度も何度、下民って罵られながら。それで、ついに耐えきれなくなって…逃げ出したんだ…学舎から。行くあては村しかなかった。みんなが助けてくれるって思ってた……でも…誰も助けてくれなかった。みんなこぞってなんで学舎から逃げたんだって…誰もわたしの言い分を聞いてくれなかった。親でさえ……それで悟ったの。村のみんなはわたしをただの道具にしか思ってない、村を繁栄させてくれるなら誰でもいいんだって。だから村からも逃げたの。逃げて逃げて逃げ続けて、そしてあなたに出会った。同じ夢をもつあなたに。」
ふうっと息を吐いて一息つくソエル。
手汗で濡れた手は今なお力強く握りしめてくる。
「ごめんなさい。いきなりこんな話をして…困らせるだけなのに。」
「まったくです!」
ナリルの返答に顔を伏せるソエル。
「私も正直に言います。私はあなたが嫌いでした。勉強もできて、弓も扱える。ほかの武器もなんなく使いこなせる。村中の尊敬を独り占めして、いつもあなたと比較されてました。」
ナリルの言葉にどんどん暗くなるソエル。
「でも私はあなたの苦しみを知りませんでした。私は村を出てから好き勝手できましたが、あなたはずっと縛られていた。今やっと自由になれたんです。これからは今まで我慢していた分、好き勝手やってください。フォローできることはします。」
「えっ?一緒にいていいの?」
「あなたの自由です。あなたが良ければ、村の落ちこぼれ二人が行動を共にすることになります。同じ夢を持った同志ですから。」
ナリルの言葉に表情が明るくなる。
「じゃあ一つだけお願い聞いてくれる?」
「今の話でなんでそうなるんですか?まあ、そのお願いの内容によります。」
「そのです、ます口調はやめて。それとわたしのことも呼び捨てにして。」
「わかったわ、ソエル。これからよろしくね。」
――――――――――
「――ということです。あれがあったおかげでノーブルウルフの生態解明のヒントを得ました。無駄なことではなかったです。」
ナリルは
ソエルのほうは話を聞きながら酒ビンを床に傾けている。
机の下では、ココがピチャピチャ音を立てながらビンの飲み口に吸い付いていた。
少量だが酒を飲んだ子狼は、満足そうに自分の皿の前に移動する。
そして皿を咥えると、リュウの足元に持ってきて肴を催促する。
ナリルのところに行かないのは、酒をもらったことがバレるからだろう。
リュウは自分の皿から骨付き肉をとると、さりげなく床に置いてある皿にのせる。
ココはお礼をするようにリュウの手をなめると、器用に皿を咥えて所定の位置に戻って行った。
「太ってもしらないわよ、ココ。」
「じゃあそれから二人はずっと一緒にいるんだ?」
「ええ、あれからずっとフォローしっぱなし…」
「好き勝手やってまーす!」
ソエルもだいぶ酔っぱらったようだ。
「そこで出会った狼親子はどうなったの?」
「成長した子狼が親の跡を継いで、その縄張りの主になりました。そして一匹の白いイタズラ狼が生まれて、そこかしこで問題を起こしています。」
話題にあがった子狼はデザートを食べるかのように骨にかじりついている。
「でも野生の動物って怖いんだね。あたしだったらおしっこ漏らしちゃうかも…」
「ソエルは漏らしてましたよ。」
「ちょっ、ナリル!今の流れだと隠し通してくれる感じだったじゃん!」
酔って赤くなっていたソエルの顔がさらに赤くなる。
「でもノーブルウルフに襲われなくてよかったね。もしかしたら大熊が逃げた後にやられてたかもしれなかったんだし。」
「ノーブルウルフは頭がいいんです。あのときは私たちが子狼を守ったってわかったから手は出さなかったんだと思いますが…」
「育児期だと気性が荒くなってるから危険だけど、だいたいの場合はこっちから危害を与えない限り、襲いかかることはないよ。」
「でももし襲われちゃったら?お腹がすいてたとか、気にくわないことがあったとか……。それでもし死んじゃったら…」
「本望です!」
「本望よ!」
即答された。