「……というのが、ソロモンと俺たちとの戦いの全てだ。わかってもらえたかな?」
「大方は理解した。だが、人理焼却や特異点とは、随分と規模の大きな話だな」
「要するに、だ……君たちは、かつての仲間をソロモン王に奪われたという絶対的な劣勢の状態から、仲間を救いつつ人理焼却を防ぐための戦いを続けている。今回はその舞台がこの世界であり、我々は君たちカルデアと協力してソロモンを倒すことが目的ということだね」
仮面の男……
「我々の目的は、大聖杯の確保とそれを狙うソロモン陣営の撃退といったところでしょう。通常の聖杯を大きく超える力を持つ大聖杯がソロモンの手に渡れば、それは人類史の滅亡を意味しています。絶対に、負ける訳にはいきません」
「僕たちを呼び寄せたのは、その大聖杯ってことかな? 敵であるソロモンが、わざわざ塩を送るような真似をする必要は無い。この特異点自体か、もしくは大聖杯がソロモンに対抗する手段として英霊を召喚したと考える方が自然だ」
「色々と、細やかに気になる点はありますが、まず我々が優先すべきはソロモン陣営よりも早くに大聖杯を見つけ出すことでしょう。しかし、この特異点でそれなりの時間を過ごしている私たちでもその気配をまるで感じられないことから考えるに、相当な隠蔽工作が行われている可能性が高いかと」
順にジャンヌ、アヴィケブロン、ケイローンの言。理性的に今後の展望と自分たちの現状を語る彼らは、主目的である大聖杯の所在地について考えているようだ。
この特異点での戦いの鍵を握るのは、間違いなくその大聖杯だろう。ソロモン側からしてみれば、それを一度でも確保してしまえば勝負は終了だ。そこで大聖杯の力を使い、人理を焼却してしまえば良いのだから。
対してカルデア陣営は、大聖杯を守りつつ、ソロモンのサーヴァントたちを倒さねばならない。まずその時点で相当の不利を背負ってはいるが、それ以上に問題なのは淫紋令呪の有無だ。
ソロモンが連れて来たサーヴァントたちには、当たり前ながら淫紋令呪が刻まれているはずだ。男性英霊の方も何かしらの強化を施されていることは間違いないだろうし、アストルフォの様子から察するに催眠や洗脳といった魔術が行使されている可能性もある。
それらによってステータスやスキルの力が上昇しているソロモン陣営のサーヴァントに対して、カルデア側のサーヴァントたちはモードレッドとジャンヌを除き、素のままの能力となっている。これもまた、戦いにおいて不利に働くことは容易に想像出来た。
唯一、この状況でカルデア側が優位を取っている部分といえば、こちらのサーヴァントたちの真名がわかっていないことだろう。元々はカルデアに召喚されていたサーヴァントであるソロモン陣営の英霊たちとは、マスターと顔を合わせればその真名やクラスは瞬時に判別出来る。逆にソロモン側は、初めて見るサーヴァントたちがどのクラスの何という英霊なのかを判断するためには、一度戦わなくてはならない。
総じて、カルデア陣営が目指したいのは短期決戦での勝利ということになる。戦いが長引けば長引くほど地力の差と基本防衛的な立ち回りを強いられていることの不利が大きくなってくるだろう。ならば、唯一のイニシアチブである英霊たちの真名=弱点や戦法を知られる前にソロモン陣営のサーヴァントたちを全て倒し、安全を確保してから大聖杯を見つけ出す方が安定策だと考えられた。
だがしかし、そのことはソロモンも十分に理解しているだろう。長期戦の方が自分たちが有利になるとわかっているのなら、そう簡単に動きを見せるとは思えない。この特異点を調査し、大聖杯の有りそうな場所を見つけ出すことを優先した方が彼らには有益なのは明らかだ。
敵を倒してから大聖杯を確保するのも、大聖杯を確保してから敵を倒すのも、結果としてはスピード勝負なのは変わりない。
まずは動き、情報を集めること。それを目標としてサーヴァントたちに指示を出そうとしたマスターであったが、それよりも早くセミラミスが口を開き、驚きの言葉を発する。
「おい、我々などと言っているが、いつ我がお前たちと協力すると言った? 勝手に仲間の1人として数えられるのは、些か不本意だなのだが」
「なっ!? おい、カメムシ女! 今はそんなことを言ってる場合じゃ――」
「はっ、下賎な雌犬が何を言うか。そのソロモンとやらに陥落せしめられ、尻尾を振って媚びを売るようになった脆弱な女どもと組む気など、毛ほども湧いて来んわ」
自分に噛み付いてきたモードレッドとその隣に座るジャンヌへと視線を向けたセミラミスは、冷たく吐き捨てるような声色でそう彼女たちに告げる。彼女の目は、到底許せないものを見るような軽蔑の色が浮かんでいた。
そんな屈辱的な台詞を投げかけられた2人は、何かを言い返したいとは思うものの事実を指摘されたが故に何も言い返せずにいた。モードレッドは顔を赤く紅潮させ、ジャンヌは心底申し訳無さそうに俯く。
マスターがセミラミスを説得すべきか、それとも2人のフォローに回るべきかと悩んでいると、彼女の言葉に賛同したかのようにまた別の英霊たちがマスターへの協力を拒否するような言葉を口にし出した。
「同感だな。余も負け犬に従うつもりにはなれん。そも、余を理性無き怪物と呼んだ貴様のことが気に食わんのでな」
「同じくだ。俺は、姐さんをあんな風にした原因である男に手を貸そうとは思えねえ。助け出す機会がありながらもそれをふいにして、より酷い状況に陥らせた奴なら尚のことだ」
「アキレウス、あなたまで……!」
「……という訳だ。情報の対価として、我が天空庭園に滞在することは認めるが……我は、お前の指示には従うつもりはない。その2人を切り捨てるというのならまた話は別だが、お前にはそのつもりはないのだろう?」
「……それは出来ない。モードレッドもジャンヌも、大切な仲間だ。それに、ソロモンに勝つにはみんなの力が必要だから、誰かを切り捨てて誰かを従わせるなんてやり方じゃあ、絶対に勝てないよ」
「ふっ、なら……お前なりの方法で、我らを従わせてみせろ。それがまず、お前のすべきことだ」
マスターを嘲るような、それでいて期待を込めているような、そんな言葉を残してセミラミスも部屋を去る。扉を開け、部屋を出る寸前、彼女はふと何かを思い出したかのように立ち止まると、ある事実を告げた。
「すまないが、この天空庭園は完全に発動している訳ではない。あくまで簡略化した顕現であり、発動時間には制限がある。これより一度降下し、もう1つの隠れ家にて宝具の再発動までの充填を行うから、そのつもりでおけ」
最後に伝えるべきことは伝えたとばかりにそう言い残すと、今度こそセミラミスも部屋から出ていった。残されたサーヴァントたちとマスターは、纏まりのない自陣営にやや不安気な思いを抱く。
「……申し訳ありません。弟子の失礼をお詫びいたします」
「いや、アキレウスは何も間違ったことは言ってないよ。悪いのは、俺の方だから……」
アキレウスの態度を謝罪するケイローンを手で制し、マスターは自分の拳を握り締める。掌に爪痕が残るほどに強く握り締められた拳を見つめながら、あのオケアノスでの出来事を思い返していた。
イリヤやクロエのために、仲間たちのために、アタランテは裏切り者としてソロモン陣営を欺き、カルデアに勝利をもたらしてくれた。彼女もまた、他の仲間たちと共にあの海での戦いを経て、カルデアに帰還させられるはずだった。
だが……自分は一手、間に合わなかった。肉の壁に飲み込まれ、体を砕かれるアタランテの姿が、あの光景が、今でも瞼の裏に焼き付いている。
あの時、取れる筈だった仲間の手を掴めなかったのは、紛れもなく自分の責任だとマスターは考えていた。そして、だからこそこの機会を逃すことだけはしたくないと思っている。
自我を奪われ、獣と化したアタランテを救える機会は、これが最後かもしれない。もう二度と、あんな悲劇を繰り返す訳にはいかない。必ず、彼女をソロモンの魔の手から救ってみせる。そのために、セミラミスをはじめとしたサーヴァントたちの信頼を勝ち取り、協力体制を築いてみせると、彼が硬く誓った時だった。
「……あのさ、忘れられてるかもしれないけど、僕はまだ残ってるよ」
そんな、やや悲し気な声にマスターが顔を上げてみれば、そこには仮面の男ことアヴィケブロンが小さく手を上げてこちらを見ているではないか。
彼は顔をマスターの方に向け、ふぅと溜息を洩らすと、はっきりとした口調で彼へとこう告げる。
「僕は、君に協力するよ。カルデアのマスター、君のサーヴァントとして力を貸そう」
「えっ!? ほ、本当に!?」
ここまで、ケイローンを除く初対面のサーヴァントたちに拒絶されたマスターにとって、その言葉はあまりにも予想外であった。驚きに眼を見開き、その言葉が冗談でないことを確かめるために質問を投げかけると、アヴィケブロンは言葉は出さずにこっくりと首を縦に振って改めて肯定の意を示す。
「あ、ありがとう、アヴィケブロン! 君が協力してくれて、本当に嬉しいよ!」
感激と感動に心を震わせるマスターは、アヴィケブロンの両手をがっしりと掴むと握手をしたままぶんぶんと上下に彼の手を振り回した。マスターにとっては、アヴィケブロンが初対面の信用ならない魔術師である自分を信頼してくれたということが何よりも嬉しく、そしてソロモンとの戦いに備えての戦力が増えたこともまた喜ぶべきことでもあった。
その感激をひとしおに堪能した彼は、アヴィケブロンの両手を取ったままジャンヌたちの方へと振り返る。たった1人とはいえ、自分たちに協力する仲間が増えたのだから、きっと彼女たちも喜んでいるに違いないと、笑顔を浮かべて仲間たちへと視線を向けたマスターであったが、そこにはまるで予想外の光景が広がっていた。
「………」
ジャンヌ、ケイローン、そしてモードレッド……常に笑みを浮かべているスパルタクスを除き、3人はとても晴れやかとは言えない表情を浮かべている。何かを警戒するような、湧き上がる嫌悪感を拭いされないような、そんな複雑な感情が、彼らの表情から読み取れた。
間違いなく、彼らからその複雑な悪感情を向けられている対象は、アヴィケブロンだ。一体、彼の何がジャンヌたちをここまで警戒させるのだろうと疑問を持ったマスターは、真正面のアヴィケブロンに肩を叩かれると共にもう一度彼の方向へと向き直る。
仮面をつけたままの、表情が読み取れないアヴィケブロンであったが、マスターの疑問を解消してくれようとしていることは雰囲気で察することが出来た。だからこそ、マスターは黙ったまま、アヴィケブロンの次の言葉を待つ。
「……この城塞が地上に着いたら、外を歩かないかい? そこで、少し話がしたいんだ」
「……うん、わかったよ」
やがて……搾り出すようにして、そう言ったアヴィケブロンに真っすぐな視線を向けつつ頷いたマスターは、彼が抱える何かを知り、分かち合うために膝を突き合わせる覚悟を決め、天空庭園の降下を待ち始めたのであった。
「裏切り者!? アヴィケブロンが?」
「ああ、その通りさ。かつての聖杯大戦で、僕は……仲間を裏切った」
それから数時間後、セミラミスの天空庭園から地上に降り、もう1つの拠点である巨大な邸宅に辿り着いたマスターは、先ほどの言葉通りにアヴィケブロンとの対話を行っていた。
白い花が舞う庭園で、静かに、淡々とした口調で語り続けるアヴィケブロンの声に、マスターはただ黙って耳を貸す。アヴィケブロンもまた、マスターの反応を気にすることもせず、かつての自分の行いを彼に告白し続けた。
「この特異点に召喚されたサーヴァントたちは、皆、朧気ながら聖杯大戦に関する記憶を有している。その中で、僕が覚えているのは、仲間を裏切り、自分の欲望を優先させたという記憶だ。そして、そのために……1人の子供を殺したことも、だね」
「え……?」
その事実を口にする時、アヴィケブロンの声が僅かに震えた。それが、どんな感情から来る心の震えだったのかは、マスターには到底理解出来ない。本人であるアヴィケブロンのみが理解することの出来る、複雑で難解な感情なのだろう。
そして、その行いを召喚と消滅を繰り返した中でも覚え続けているということが、彼自身の後悔を物語っているように思えた。
「勤勉で、純粋で、無垢な……何の罪もない、子供だった。僕はそんな子供の命を奪った、最低最悪の英霊としてあるまじき男さ。魔術師としてならばある意味当たり前の行動なのかもしれないが……どうしようもなく嫌いだったその行いを、僕は選んでしまった。この事実を知る者ならば、僕のことを唾棄すべき存在だと認識しているだろう」
アヴィケブロンの言葉は、暗に先ほどのジャンヌたちの反応を正当なものであると肯定するものであった。自分がどれほどに罪深い存在なのかを告白し、それを知る者からは軽蔑されて当然だとマスターに告げる彼は、仮面の下からでもわかるくらいに真っすぐな視線をマスターへと向けている。
その真摯な対応と眼差しを受け、話を聞き続けていたマスターも口を開く。アヴィケブロンに、この戦いに臨む理由を聞くために。
「……君の過去の過ちは理解した。でも、何で俺に力を貸すの? そんな過去がある中、自分が居心地の悪い思いをしてまで苦しい戦いに臨むのは、何故?」
「……罪滅ぼしがしたいと言ったら、君は笑うかな」
マスターの問いかけに、アヴィケブロンは静かに答える。その言葉には、欠片も嘘臭さは感じられなかった。
「マスター、僕は君の話を聞いて確信したんだ。僕が聖杯大戦を行った世界と、君の世界は別物だってね。君の世界では、聖杯大戦の中で僕が殺したあの子は生きている……君の世界を救うことは、それ即ちあの子を救うことになるんだ」
「……奪った命を救うことで、過去の罪を帳消しにしたいってこと?」
「いいや、そうじゃない。たとえどんな善行を積もうとも、僕の犯した罪は消えないんだ。でも、だからこそ……僕は、今度こそ英霊として生きたい。自分の欲に溺れた魔術師としてではなく、世界を守るために召喚された英霊として、君と君の世界を守って戦いたいんだ」
それは、ただの自己満足と言われればそれまでの理由だった。だが、その決意が自分の過ちを十分に理解し、苦しみ抜き、後悔を重ねたことで生み出されたものであることは、カルデアのマスターには痛いほどに理解出来た。
自分もそうだ。敗北を喫し、ソロモンに仲間を奪われた。助けられるはずの仲間の手を取りこぼし、そのことを何度後悔したかもわからない。
英霊たちを助け出したところで、彼女たちが味わった屈辱と苦しみは消えない。敗北したという事実も変わることはない。だが、だからこそ、もう二度と同じ過ちを繰り返したくはないのだと、今度こそ最善の道を歩みたいのだと、そう思うようになった。
そして、そのためにならばどんな困難な道ですらも歩んでやろうと、そう覚悟したのだ。
今の自分とアヴィケブロンは……どこか似ている。そう、マスターは思う。かつての失敗、過ち、後悔、それらを抱えつつ、それでも前に進むのだと、そう思って戦いに身を投じる覚悟があることに、強い親近感を覚えるのだ。
アヴィケブロンにとってこの戦いは、新たな自分をやり直すための第一歩なのだろう。罪を犯したこの土地で、同じ面子と共に、世界の存亡を賭けた戦いに臨む。この地で世界を救うために英霊として戦うことでその罪を少しでも贖えたならと、その上で、自分を変えることが出来たならと、そう考えているのだ。
その思いを理解したマスターは、改めてアヴィケブロンと向き直る。そして、彼の顔を真っすぐに見つめながら、彼と同じようにはっきりとした声で自らの思いを告げた。
「アヴィケブロン、君の過去と、抱えている罪は理解したよ。その上で改めて君にお願いしたい。俺に、力を貸してくれ」
「……君がそう望んでくれるのなら、僕には拒む理由は無い。サーヴァント、アヴィケブロン……この力、存分に役立ててくれ」
「ああ! ……一緒に救おう、世界を。そして、沢山の人たちの未来を……!」
アヴィケブロンの手を取り、硬く握手を交わす。心の底からの信頼を送り、共に目的を達成する仲間として彼を迎え入れることを迷いなく決断したマスターの笑顔をアヴィケブロンはただ黙って見つめていた。
もしかしたら、彼はかつての戦いで命を奪った子供のことを考えていたのかもしれない。その少年のことをアヴィケブロンが思い出せるかどうかと聞かれたら、おそらく否なのだろう。彼はその事実を覚えていると言ったが、正確には深い傷のように彼の心か霊基に刻まれたと言った方が正しい表現なのだ。もうきっと、顔はおろか名前すらも思い出せないのだろう。
だがしかし……彼は、どこかの世界で生きている。戦いに巻き込まれなかったただの少年として、無数に枝分かれした世界の何処かで生き続けているのだ。
それはもう贖罪にはならないのだろう。それでも、だとしても、無意味な行為ではない。例え自己満足だとしても、救いたい者を救うことに、理由は要らないのだから。
「……ありがとう、マスター」
小さく、本当に小さな声で、アヴィケブロンが感謝の言葉を述べる。風が吹いてしまえば消え行ってしまいそうなその声は、しかして確かにマスターの耳に届いた。
自分の思いを、後悔を、罪を、理解した上で受け入れる。そんな判断を下したマスターに感謝と信頼を預けるアヴィケブロンは、告解の時を終えると理知的な英霊としての面を見せつつマスターへと言う。
「さあ、そろそろ館内に戻るとしよう。厳しい戦いに臨むためには、休息が必要不可欠だ。食事も取らないと、行動に支障をきたすだろう」
「うん、そうだね。日も沈んで暗くなってきたし、霧も出てきたみたいだ」
いつの間にか、話をしている内に太陽は随分と遠くに行ってしまったようだ。既に辺りには夜の闇が広がり始め、しかも霧まで出ている。
幸いにも拠点の扉は目の鼻の先だ。すぐに屋敷内に入ってしまえば何の問題もないだろう。そう考え、アヴィケブロンと共に一歩歩んだマスターは、その瞬間にまるで凍り付いたかのように動きを止める。
「……マスター? どうかしたのかい?」
その不可思議な行動に違和感を抱いたアヴィケブロンの言葉も、今のマスターには聞こえていないようだ。いや、聞こえてはいるのだろうが、それ以上に彼は今、必死になって何かを思い出そうとしているのである。
ほんの数秒前、彼の耳はとある声を捉えた。その声にはとても聞き覚えがあるのに、どうしてもそれが誰の声なのかが思い出せない。
空耳などではない。覚え違いでもない。確かに聞いたのだ、霧の中から聞こえる、少女の笑い声を、自分は――
「~~っっ!!」
そこまで考えたマスターの背筋に、冷たい汗が流れる。同時に、全身の毛が逆立つほどの殺気を感じた彼は、警報を鳴らす防衛本能のままにその場に倒れ込むようにして伏せた。
それは、土方歳三に徹底的に叩き込まれた殺気への反応と、今日まで鍛え続けた身体能力が無ければ不可能な芸当だ。そして、そのたゆまぬ努力が彼の命を救うこととなる。
マスターの体が地面に横たわったその刹那、霧の中から飛び出した何かが先ほどまで彼の体が有った場所を切り裂く。もしも彼がそのまま立ち惚けていたならば、この急襲で全身がバラバラにされていただろう。
ゾワリと、悪寒がマスターの全身を駆け巡る。アヴィケブロンもまた異常事態に気が付いたのか、倒れ伏すマスターの体を引き起こすと連れ立って館の中へと飛び込もうとしたが――
「ダメだよ、ダメ。それは許さない」
今度ははっきりと、霧の中から少女の声が聞こえた。クスクスと笑うようなその声が響くと共に、屋敷の玄関ポーチを支える柱が一瞬にして切り刻まれ、それが支えていた屋根部分がガラガラと音を立てて崩れ落ちて来た。
咄嗟に飛び退き、屋根の崩落を躱したマスターとアヴィケブロンであったが、屋敷の扉は瓦礫の中に埋まり、開かなくなってしまっている。しかも、更に濃度を増した霧に周囲を包まれ、ほんの1m先の景色すらも見えなくなってしまった。
「マスター、僕の傍を離れるな。言うまでもないが、敵襲だ!」
「ああ! この搦め手、敵は
正面切っての戦法ではないこと。接近戦を仕掛けていること。霧の中に見事に身を隠し、正体を見せぬまま攻撃を続けていること。これらの情報から、襲撃者は暗殺者のクラスを有するサーヴァントであると判断したマスターは、その正体を探るべく自分の記憶の本棚を漁る。
ここまでの情報が開示されている以上、カルデアに在籍していたサーヴァントの中から条件に見合う英霊を見つけ出すのは簡単……な、はずだった。
「あ、れ……?」
霧の中からの奇襲。斬撃。子供。そして、聞き覚えのある声。全ての情報があるサーヴァントを指しているのに、その名前と姿が出て来ない。まるで霧がかかったような、そんなぼんやりとした輪郭しか思い出せないマスターは、命の危険を感じると共にこの不可解な現象に動揺し続けていた。
精神的重圧によるド忘れのようなものではない。本当に、純粋に……思い出せない。わからない。
全てが霧の中に隠蔽されているかのような、そんな謎の感覚に心を揺さぶられながらも懸命に対象の英霊の名を思い出そうとする彼のことを、幼い襲撃者はケタケタと愉快気に嘲笑っていた。
「ねえ、ねえ、忘れちゃったの? わたしたちのこと、覚えていないの?」
「本当に、酷い人だね……ソロモン様の言う通り、とってもとっても酷い人。あなたは心の冷たい、最低な人……そうだよね?」
嗤うような、責めるような、悲しむような、そんな少女の声が霧の中に響き渡る。幼く甘い、純粋無垢なその声は、間違いなく耳にしたことがあるのに、どうしてもその声の主を思い出せない。
自分は知っているはずなのだ。あの娘の笑顔を、涙を、拗ねた顔を。知らないはずがない。だってそうだ、彼女はいつだって、自分のことを――
「ぐっ……!!」
思考に集中し、周囲の状況への意識が散漫になっていた。そのツケは、痛みによって払わされることとなる。
ぐさりと、音を置き去りにして、大型のナイフがマスターの左肩に突き刺さった。傷口からは真っ赤な鮮血が飛び散り、周囲の草花を紅く染める。
その痛みに、呻き声が漏れた。悲鳴を上げなかったのは、純粋にその衝撃に知覚が追い付かなかっただけであり、それがこの暗殺者の俊敏さをよく表していると言えるだろう。
ゆっくりと、視線を左肩に向ける。そこに突き刺さるナイフを見る。その得物の形を見て、それでも使い手を思い出せないマスターが、痛みよりも悔しさで歯噛みをした時だった。
「あはっ……♡ おいしそうな、血……♡」
ずっ、と自身の肩に刺さっていたナイフが抜けた。傷口から溢れ出る鮮血に目を奪われたマスターであったが、自身に抱き着くようにして姿を現した少女を目にした瞬間、その視線は一心に彼女へと注がれることとなる。
まるで猫がミルクを舐めるかのように舌を伸ばし、溢れ出るマスターの血を舐め取るその少女……さらさらと靡く銀色の髪と暗闇の中でも光るグリーンの瞳を持つ彼女は、自らの武器であるナイフにこびり付いたマスターの血を舌で舐めると、天使のような屈託のない笑みを浮かべたまま残酷な言葉を吐く。
「ソロモン様のため、わたしたちのため……ここで死んでもらうね、おかあさん」
「ジャック……!!」
ほんの数cmの距離まで近づき、その顔を至近距離で視認したマスターは、ようやく彼女のことを思い出した。それと同時に、目の前のジャックは手にしたナイフを振り上げ、マスターの頭へと切っ先を向けて振り下ろす。
音もなく、気配も感じさせずにここまで接近されたことに驚愕しながらも、咄嗟に肩の痛みを押し殺しながら両手で彼女の体を突き飛ばしたマスターの目の前を銀色の閃光が走った。あと1秒でも遅ければ、彼は間違いなくあのナイフの餌食になっていただろう。
「あ~あ、失敗しちゃった。先に殺してから血を舐めればよかったかな?」
クスリ、と笑ったジャックは、下腹部の淫紋令呪を一度光らせてから再び霧の中へと消え去った。その笑い声は反響し、気配を感じさせないことも相まって、彼女が何処から飛び出してくるかわからない恐怖感を煽る。
血が噴き出す肩を抑え、突然のジャックの襲撃に動揺する精神を落ち着かせるために深呼吸を行うマスター。しかして、この状況下においてそう簡単に精神の均衡を取り戻すことは出来ず、どうしても心が乱れてしまう。
(ジャック! ジャック! ジャック! 強く念じていなければ彼女のことを忘れてしまう! でも、それじゃあ作戦を考えることだってままならない……!)
ソロモンの魔術と淫紋令呪の効果によって強化されたであろう【情報抹消】のスキルがマスターのジャックに対する記憶を蝕む。元々、耐性を有していた上に淫紋令呪を刻まれた女英霊たちとの再契約によって強化された彼の記憶をこうも簡単に消せるのだ、その力がどれほどのものかは容易に想像がつくだろう。
忘れない、忘れてはならない。一度ジャックのことを忘れたが最期、今、自分たちは誰と戦っているかも思い出せなくなるだろう。その戦法も、能力も、忘却の彼方へと消えてしまう。
だが、忘れないことを優先して彼女のことを強く思い描いたならば、それ以外の思考がままならなくなってしまう。戦いに対する策を練ることも出来ず、対策を講ずることも出来ないのだ。
安全圏への脱出も望めないこの状況をどう打破するか? 焦れば焦るほどにマスターの思考は鈍り、危機感に余裕がなくなっていく。有益な一手を思いつくことが出来ず、ただただ疲弊していくマスターであったが、そんな彼を支えたのは彼に付き従っているアヴィケブロンだった。
「……マスター、どうやらここはやるしかないみたいだ。指示を頼む」
「わかってる! だけど、作戦を考えようとするとジャックのことを忘れて――」
「大丈夫、その問題は既に解決した」
「え……っ!?」
意味深なアヴィケブロンの言葉に声を詰まらせたマスターは、自分のすぐ近くの土が盛り上がっていく光景を目の当たりにして驚きに眼を見開く。その土が徐々に先ほど見たジャックの姿を再現していく様子を目にすれば、もはや目玉が飛び出すのではないかと思うほどに驚愕の表情を浮かべてしまった。
「君の周囲1m以内に土で先ほど見た少女の偶像を作り出す命令術式を組み上げた。偶像はあの少女のスキルでじきに崩壊するだろうが、僕が組み上げた術式に関しては別だ。崩壊と同時に新たな偶像を作り続け、君に彼女の姿を認識させ続ける。これで、自分が誰と戦っているかを忘れることはなくなっただろう?」
あの一瞬の間にそこまで複雑な術式を構築していたことと、土塊でありながらもジャックの容姿を忠実に再現している偶像の出来に感嘆するマスターは、アヴィケブロンの有能さを身に染みて実感していた。
彼の策のお陰でジャックのことを常に意識出来るようになり、策を講じる余裕も生まれる。ようやっと、奇襲を受けた衝撃から立ち直り始めたマスターは、見事なサポートを見せたアヴィケブロンへと感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、アヴィケブロン。お陰で少し落ち着いて来たよ」
「いいや、そもそも彼女をここまで接近させ、君を負傷させてしまったことは僕の落ち度だ。しかし、ここからはそうはさせない。サーヴァントとして、君をこれ以上傷つけさせはしないよ」
アヴィケブロンが魔力を発すれば、即座に2人を取り囲むようにして巨大なゴーレムが構築されていった。見るからに頑健で強靭なその姿に息を飲みながら、マスターはアヴィケブロンへと視線を向ける。
「……さて、僕のすべきことは2つだ。1つ、マスターを負傷させないこと。2つ、彼女を殺さずに捕らえること。どうにも難しい内容だが、勝算がない訳じゃあない。それに何より、僕は彼女と相性が良さそうだからね。にしても……あの子への罪滅ぼしのために、子供を倒さなければならないなんて随分と因果な宿命だな」
四方を警戒するゴーレムたちの中心でマスターを護衛するアヴィケブロンは、その聡明な頭脳で戦いの青写真を描きながら、軽い自嘲の文句を口にしてみせた。しかし、その声に迷いは全く感じられず、彼が既に戦いに対する覚悟を決めていることがわかる。
唐突に始まった聖杯大戦の第一戦。相対するは霧夜の殺人鬼『ジャック・ザ・リッパー』とゴーレムを極めし魔術師『アヴィケブロン』。
異質にして異端なる戦いの火蓋は、煌々とした月の光が照らす花畑にて切って落とされたのであった。