『……雌豚……雌豚よ、私の声が聞こえているな……?』
「この、声は……ソロモン様っっ!?」
沖田たち淫乱組の犯行作戦から一夜明けた朝方。まだ空が明るくなっていない頃、沖田は牢屋の中で主の声を耳にして跳び起きた。
『雌豚よ……お前ほどの者が囚われの身になるとはな……待っていろ、すぐに助け出してやる……』
「あ、ああ……! ありがとうございます! この雌豚、ソロモン様の慈悲に感無量でございます!」
主からの恵みに心の底からの感動を覚える沖田の目の前に、黒い聖杯が出現した。なみなみと注がれた赤黒い液体に映る自分の顔を見ながら、沖田はそれを手に取る。
『……それを飲み干せ。さすればお前の力は回復し、憎きカルデアのマスターたちを打ち滅ぼすことが出来るだろう……』
「はい! ソロモン様!」
ソロモンの言葉を聞いた沖田は何の疑いも無くその液体を飲み干した。喉を通り抜ける濁った味の液体に顔をしかめる彼女だったが、これは主の施しと思い無理にすべてを飲み込む。
空になった聖杯が沖田の手から消え、牢屋の中には何の証拠も残らなかった。すぐに沖田は、自分の体が熱くなっている事に気が付く。
燃える様な熱さ、体の芯を焦がす様な熱……じりじりと温度を上げる体の中の炎を感じた沖田は一度瞳を閉じ、そして……
「ごふっ……! ……え?」
口から、先ほどの液体によく似た大量の血液を吐き出した。
「ごふっ! かはっ! ……な、なんで……!? がはっ!!!」
ソロモンの元に下ってから一度も無かった病弱スキルの発動が再発したことに驚きを隠せない沖田。しかも、今回の吐血は今までの比ではない。
自分が所持していた病弱スキルは、時と場所を選ばずにいきなり吐血すると言う物だった。確かに苦しくはあるが、別段命に直接関わる様な物では無かったはずだ。
しかし、今のこれは違う。断続的に血を吐き、延々と続く苦しみに耐え続けなければならないのだ。
既に彼女が吐いた血の量は牢屋の床を真っ赤に染め、辺りに生臭い臭いを漂わせるほどになっている。だが、それでも沖田の吐血が終わる様子はまるで無かった。
「な、なぜ……? こんな、こんなの、おかしい……」
『……何がおかしい? 裏切り者の末路には相応しいものだろう?』
「え……!?」
何故自分がこんな仕打ちを受けているのか? それがわからないでいる沖田に浴びせられたのは、ソロモンの冷たい声だった。
彼が放った裏切り者と言う言葉の意味を理解出来ない彼女が困惑していると、ソロモンの声と同様に何処か遠くから聞こえて来る感覚で二人の女性の声が響いて来た。
『ええ、そうですとも……ソロモン様を裏切り、雌犬と共にカルデアに下った愚かなる豚……それがあなたでしょう?』
『なんと罪深い畜生でありましょう。これではソロモン様がお怒りになっても仕方がありませんわね』
「雌蛇……雌牛……!? 貴様ら、何を……がはぁっ!!!」
液体を飲み干した時から感じていた熱が痛みに変わる。体の内側に何本もの針が突き刺さっている様な激痛を感じた沖田は、自分が吐いた血で染まった床に力無く倒れ伏した。
「なんで……? どうして……!? 私は、あなたを裏切ってなど……!」
『黙れ、雌豚……私の期待を最悪の形で裏切った貴様にはほとほと失望した。何とか無事に帰って来た雌蛇と雌牛のお陰で貴様の悪事は露見したが……その罪は、到底許せるものでは無い』
「ちがい、ます……! 私は、あなたに変わらぬ忠義を……!」
『……あら? と言う事は、雌豚は私たちが嘘をついていると仰りたいのかしら?』
『嘘!? この私が嘘をつくなど……! なんとも無礼な物言い! 嘘は私の最も忌むべきものだと言うのに……!』
「な、何を白々しいことを……! ソロモン様、その二人こそが真の裏切り者なのです! 私は、そいつらのせいで……」
『もう良い、雌豚。貴様の話を聞く耳は、あいにく持ち合わせていないのでな』
「は……!? お、お待ちください! ソロモン様! 私は、私はっ!!!」
『……貴様は用済みだ。もうこのソロモン王に必要のない存在……せいぜい我が行いを邪魔せぬ程度に苦しみ続けると良い』
「あ……!? ま、待って……! 待ってください! ソロモン様! ソロモン様! ソロモン、さ、ま……!?」
段々とソロモンの声が遠くなって行く。同時に聞こえる清姫と頼光の笑い声もまた遠くなって行き、それを耳にする沖田に孤独感と不安をはっきりと自覚させていく。
血を吐き、体を襲う痛みに耐えながら必死にソロモンに言葉を投げかける沖田であったが、ソロモンは無情にも最後の一言を残して彼女との会話を打ち切った。
「そ、そんな……!? がはっ! ごほっ! げほげほっ!!」
愛する主に見捨てられた事と全身を焼く様な病の痛みに心身共に追い詰められた沖田は、ただひたすらに絶望に浸って泣くことしか出来なかった。
吐血は止まらず、体の内側の痛みも終わりが見えない。延々と続く苦しみの中、唐突に沖田は気が付いてしまった。
(そっか……私、良い様に切り捨てられたんだ……! 捨て駒として、あの二人の忠誠を強める為に、切り捨てられたんだ……!)
なんとなく、淫紋令呪の効果には察しがついていた。何をされてもソロモンへの感謝の気持ちが生まれ、忠誠心が高くなるほどに新たな力が生まれる。自分のマイナススキルである病弱が発動しなくなったのも、この淫紋令呪の効果だろう。
だとするならば、ソロモンは自分を捨て駒にして全面的に清姫と頼光の言い分を信じることで彼女たちの忠誠心を高めると言う選択肢を取ったのだろう。狂化スキルがかかった彼女たちのことだ、この単純な行いで忠誠心は一層強くなっただろう。
そう、自分はソロモンのその企みのせいで彼に裏切られ、終わらぬ苦しみの中に堕とされてしまったのだ。そのことに気が付いた彼女の心により深い絶望が刻まれる。
「あ、ぁぁ……! あぁぁぁぁぁぁぁ……」
もう既に吐血の量は人がとっくに死んでもおかしくないほどにまで及んでいた。だと言うのにまだ終わりは見えず、苦しみも終わらない。
もしかしたら淫紋令呪と先ほど飲んだ液体が自分を殺さない様にしているのかもしれない。そう考えた沖田の瞳からは、完全に光が消え去った。
「……ぜ、んぶ、なくし、ちゃっ、た……」
信念も仲間も主も裏切った。その果てに得たのはこの終わらない苦しみと絶望だけ……己が迎えた皮肉な結末に自嘲気味な笑みを浮かべた沖田は、瞳から大粒の涙を零しながら泣きじゃくる。
「ごめんなさい……! 近藤さん……土方さん……ノッブ……! 皆、ごめんなさい……! マスター、ごめんな……がふっ!」
裏切りの苦しみを身をもって理解した沖田は、自分が裏切ってしまった友人や仲間たちの名をか細い声で呼びながらただ謝り続ける。最後に口にしようとした優しい主への謝罪の言葉は、苦しい吐血のせいで途切れてしまった。
「……死に、たいよぉ……!」
誰かにこの苦しみを終わりにして欲しい。そんな破滅的な願望を最後に、沖田は気を失った。
「ご安心ください、主殿! この牛若丸、そう簡単に死にたいなどとは絶対に口にしません!」
そうマスターに向けて溌溂とした笑顔を見せる牛若丸は、拘束されたままの体を隠すことなく主へと見せつけていた。別段、彼女に脅威があると判断されているわけではない。この拘束は、彼女自身が望んでいるものなのだ。
一見、この台詞は彼女が光を取り戻した様に見える。だが、実際は違った。牛若丸もまた、暗く深い苦しみの中に居る……そのことは、彼女を見つめるマスターの表情と、この後口を開いた牛若丸自身の言葉が証明していた。
「何せ私は主殿に刃を向けた不忠の狗。そう易々と楽に死んでは示しがつかぬと言う物です! しっかりと後に続く者共の見せしめになる様、残虐無比な死をお与えになって下さい!」
「っっ……!」
ハイライトの消えた瞳は暗く濁り、笑っているはずの表情からは一切の明るさを感じさせない。牛若丸は、自分の犯した罪に完全に絶望していたのだ。
彼女が望むのは愚かな自分への罰。皮を剥ぎ、爪をはがし、肉を裂き、骨を潰し……考えられる限りの苦しみを与えられ抜いた後に待つ、非情な死だけだ。
「牛若丸、俺は……」
「ああ、主殿! そんな慈悲に溢れた声で穢れた名を呼んではなりません! 私のことは、『それ』だとか、『これ』だとか、もしくは私自身が言っていた様に雌犬とでも呼べば良いのです!」
マスターの声も今の彼女には届かない。彼女自身が自分の犯した罪のせいで自分を穢れた存在だと思い込んでいる為、敬愛する彼に近づいて欲しくないと願っているからだ。
自分の姿を見れば目が腐る、名を呼べば彼の声が穢れる、触れれば己の罪が彼に移り、汚れた自分と同じ存在になってしまう。
強すぎる忠誠心を持つが故の精神状態、どうやって彼女を説得すれば良いのかわからないマスターは、ただがっくりと項垂れることしか出来ない。
「……今更、どんな顔をしてあなたのお傍に戻れば良いと言うのです? あなたの一番の傷を抉り、苦しめた私が、あなたの元に戻るなんて出来っこないんですよ……!」
ほんの少しだけ漏れた素の牛若丸の弱さ。しかし、マスターには自分がどうすれば良いのかまるでわからない。
その答えを探る事しか出来ず、はっきりとした答えも出ないまま……彼は、次の英霊の元へと足を運んだのであった。
次にマスターが足を運んだのは、ジャンヌリリィの元であった。同じ自分自身であるジャンヌとオルタに面倒を見られている彼女は、一見正常に見える。
しかし、彼女の心にもソロモンに刻まれた深い爪痕が残っている事をマスターは感じ取っていた。
「あ……! トナカイさん……!」
今、リリィは部屋に入って来たマスターの姿を見とめ、彼の名を呼んだ。普段の彼女なら、一目散に彼の元へと駆け寄って来ただろう。
しかし、今の彼女はそうしなかった。むしろ、マスターの姿を見た瞬間、体が強張って身動きが出来なくなった位だ。
心なしか自分を見つめるリリィの視線に怯えの感情が籠っている事に気が付いたマスターは彼女に近づくことを躊躇った。そんな彼の迷いを感じ取ったのか、リリィは慌てた様子で彼へと叫ぶ。
「ちっ、違うんです! トナカイさんのことを嫌いになったわけじゃないんです! むしろ大好きなんです! でも、でも……っ!」
大好きな彼を悲しませてしまったことを悔やむジャンヌリリィは瞳から涙を流した。その涙には、悲しみ以外にも恐怖の色が映っている。
「……怖いんです。男の人が……! わ、私に、痛いことを一杯した男の人が、怖くて堪らないんです! 男の人を見ると息が苦しくなって、怖くて怖くて堪らなくって、それで……!」
「よしよし……大丈夫ですからね。落ち着いて、ほら……」
涙を流し、蹲るリリィをジャンヌがあやす。妹の面倒を見る姉の様に振る舞う彼女の姿を見たマスターは、自分に視線を注ぐオルタとアイコンタクトで話し合い、部屋を後にした。
「……嫌いじゃないんです。大好きなんです……! だから、私のことを嫌いにならないで……!」
部屋を出る寸前、リリィの口から聞こえた悲し気な声に胸を締め付けられながら、マスターは屋敷の庭へと向かって歩いて行った。
「……なんでだよ? どうしてなんだよ……!? なんで、オレはぁっ!?」
辿り着いた屋敷の庭。そこにはアルトリアに見守られながら稽古をするモードレッドの姿があった。
だが、彼女は苛立った様に叫ぶばかりだ。その叫び声には、怒りよりも悲しみの色の方が色濃く表れていた。
「こんな……なんで、どうして……!?」
モードレッドはただ茫然とした声で叫びと呟きを繰り返している。その手に掴んだ
「……モードレッド、少し休もう。疲れてるんだよ、きっと……」
「う、うるせぇ! そんな気休め欲しくねえんだよ!」
そんなモードレッドの様子が見ていられなくなったマスターは、彼女に対して一度落ち着く様に勧めた。しかし、苛立つモードレッドにはその行動は逆効果で、彼女に思い切り突き飛ばされてしまう。
自分がサーヴァントであることを忘れた本気の一撃。本来なら、マスターは吹き飛んで大怪我を負っていた事だろう。
だが、彼女の拳を胸に受けたマスターは、ほんの一歩だけ後ろに下がっただけで反応を終えた。そのことにモードレッドは愕然とした表情を見せる。
「……は、はは……! 今、オレ、全力でお前のことを殴ったんだぜ? それが、ほんの少しだけ後ろに下がる程度……? ただの人間相手に、こんな程度の力しか出せないのかよ……?」
「モードレッド……」
「……本当、あいつらの言う通りだったかもな。こんなオレなんか、苗床か便所の役目をやってた方が良かったんだ……! そうすりゃあ、こんな無力さを噛み締めないで済んだってのに……ぐっ!!!」
珍しく弱音を吐いたモードレッドは、その頬をアルトリアに打たれて地べたを転がった。彼女を叩いた手を振りながら、アルトリアは静かに口を開く。
「……随分とだらしなくなったな。それでも我が円卓の騎士か? ……モードレッド、自分を蔑ろにするのはお前の自由だが、お前を助け出したマスターの努力を踏み躙る事だけは、決して許さんぞ」
「……はい、父上。申し訳ありませんでした」
しおらしく頭を下げるモードレッドの体からは、かつての彼女が発していた覇気はまるで見受けられなかった。
反逆の騎士としての汚名すらも高々と掲げていた彼女の変わり様に心を痛めながら、マスターは優しく声をかける。
「……大丈夫だよ。必ず力は元に戻るからさ……! 焦らず、落ち着いて行こうよ、ね?」
「……ああ」
肩を叩かれ、小さく返事を返したモードレッドは、自分の不甲斐なさを悔やんでいるようだった。自分が大嫌いな弱い女に成り下がってしまったことを悲しんでいるのかもしれない。
だが、今の自分にはどうすることも出来ないでいる。マスターもまたモードレッドと同様の無力感を感じながら、ただ彼女を励ますことしか出来ない自分を情けなく思った。
(……牛若丸、重度の鬱と似た症状。被虐というよりか、自分に対して無関心になっている様子が見受けられる)
(ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ、男性への恐怖症を患う。女性にもある程度の恐怖を抱いており、自分自身であるジャンヌたち以外との正常なコミュニケーションはやや困難)
(モードレッド、淫紋令呪の効果のせいか、霊基が苗床として最適な物へと変質している。そのため、サーヴァントでありながら戦闘能力は普通の人間以下、まともに剣も持ち上げられない状況。恐らくではあるが、これは淫紋令呪の主をソロモンから変えたとしても回復しない病状である)
「……くそっ!」
ナイチンゲールが作ってくれたカルテを読んだマスターは苦々し気な声を出した後で屋敷の壁を叩いた。拳を握り締め、怒りと悔しさを全身に満たしながら、彼は彼女たちをどうすべきかを必死になって考える。
救い出したい彼女たちはそれぞれ大きな問題を抱えている。それを解決するのが先か、はたまた後なのか。その判断がつかないでいることに苛立ちが募る。
ソロモンのせいで傷ついた彼女たちを本当の意味で救うには、彼女たちの心も救うしかない。ならば、この問題は避けては通れないのだ。
マスターは延々と廊下を歩きながら方策を探っていたが、ふと顔を上げると気になる物を見つけた。
「……お前か、小僧」
「土方さん……? 何してるんですか?」
とある部屋の前で立ちつくしている土方の姿を見つけたマスターは、怪訝な顔をして彼の元へと近寄った。土方は人差し指を立てて静かにするようにとマスターに伝えると、部屋の中を指し示す。
部屋の中からは小さな声が聞こえて来ていた。マスターは土方に倣ってその声に聴き耳を立て、会話を盗み聞く。
「……ほんと沖田さんってば何やってたんでしょうね? バカみたいですよね……」
「……治療を施すのは過去では無く現在です。過去を悔やむより、前を向いて行くことが大事だと私は思います」
部屋の中から聞こえて来たのは沖田とナイチンゲールの会話だった。弱々しい沖田の声を耳にしたマスターは、胸が締め付けられる様な痛みに襲われる。
今朝、血だらけの牢屋の中で倒れているところを発見された沖田は、ナイチンゲールの手厚い看病の甲斐あって安定した状態を保っている。しかし、それは投薬による一時的なものであり、薬が効かなくなれば延々と続く苦しみを味合わなくてはならないらしい。
淫紋令呪とソロモンから渡された霊薬の効果のせいか、彼女は決して死ぬことは無い。だが、それが故に死ぬこと無く病の苦しみを味わい続けなければならなくなっているのだとナイチンゲールは診断した。
薬が切れるか、効かなくなるか、そのどちらかの時を迎えれば沖田は事実上死ぬことになる。ナイチンゲールはそう断言した。このままでは肉体は滅びずとも、延々と続く地獄の苦しみを前に発狂するか、精神が死ぬかの結末を迎えるしかないとのことだ。
沖田はそんなナイチンゲールの診断を耳にした時、諦めた様な笑みを浮かべただけで何も言いはしなかった。
「……楽しかったなぁ……新選組の皆と稽古して、暴れて、ご飯食べて、騒いで……長いようで短い時間だったし、最後はみんなバラバラになっちゃいましたけど、本当に楽しい時間だったなぁ……」
生前の思い出を語る沖田の声を黙って聞きながら、マスターは隣に居る土方の顔を見た。暗闇のせいで彼の表情は伺うことは出来ないが、きっと険しい顔をしているのだろう。心なしか、土方の拳には力が籠められている様に見受けられた。
「それに負けないくらい、カルデアでの毎日も楽しかったんですよ。ノッブと遊んで、騒いで、戦って……大変なこともいっぱいあったけど、凄く楽しい時間でした……。でも……私は、それを自分で捨てちゃったんですよね」
「っっ……!」
襖の奥から聞こえる沖田の声が、涙交じりの物に変わる。すすり泣く様な声と共に聞こえて来たのは、彼女の絶望の思いそのものだった。
「楽しかった日々を、誇りを、幸せを自分で投げ捨てて、皆を裏切って……その結末がこれですよ。ほんと、笑うしかないですよね……! じ、自分が、い、嫌で嫌で……しょうがない、です……!」
「……過去は変わりません。であるならば、未来を見る事が大事でしょう。失敗を悔やむなら、それを挽回できるように努力を……」
「……違うんですよ、ナイチンゲールさん。私が一番嫌なのは、こんな扱いを受けたって言うのに、まだ何処かでソロモンのことを大切に思っているってことなんです」
「え……?」
「……自分が利用されていたことも理解出来ました。ソロモンにとって、私は都合の良い駒でしかないことも分かっている……なのに、もしも彼に甘い声で語り掛けられたら、もう一度雌豚に戻ってしまいそうな自分が嫌なんです! すべてを許して、再び彼に忠誠を誓って……また、皆を裏切ってしまいそうな自分のことが、嫌で嫌でたまらないんですよ!」
段々と大きくなっていった沖田の声は、最後には絶叫に近いものになっていた。心の奥底からの思い、絶望をぶちまける彼女の話はなおも続く。
「……死にたい……! 体も、心も苦しい……! こんな自分は嫌です。死んで、消えてなくなってしまいたい……! でも……死ねないんですよね? きっと、これが私に下された罰なんですよね? なら、受けなきゃいけないんです……よね?」
「………」
沖田の問いかけにナイチンゲールは何も言えなかった。少しだけまともに戻ったが故に苦しむ沖田の心を慰めるには、中途半端な言葉では足りないとわかっていたからだ。
それでも何かを語ろうと顔を上げたナイチンゲールだったが、自分の背後で聞こえた物音に振り向くと、そこに立っていた二人の人物の名を呼んだ。
「……マスター、土方さん、何か御用でしょうか? 出来れば、彼女には安静にして欲しいのですが……」
「……沖田、そこに直れ。俺がお前を殺してやる」
「……え?」
「今のお前があまりにも情けなくて見てられねえから、俺が引導を渡してやるって言ってんだ! さっさとしろ!」
ナイチンゲールの言葉を無視した土方の暴論に呆気に取られる一同。だが、沖田は彼がこういう人間であったことを思い出していた。
不器用で、本当は優しいのにそれを表に出せない男……そんな土方の、彼なりの心遣い。死ねなくなった自分をどうにかして殺すと言う彼の言葉に、沖田は少しだけ心をときめかせた。
「……私の目の前で患者を殺すと口にする意味が理解できていますか? それは、私への宣戦布告へと受け取って構わないでしょうか?」
「小僧……令呪でもなんでも使ってこの女を退かせろ。さもなきゃ、沖田と一緒に斬り捨てる!」
「なりません。たとえ死ねなくなったとしても、私の患者である以上、それを見捨てると言う選択肢は私にはありません。あなたを殺しても、私は彼女の命を守りましょう」
ピリピリとした緊張感が部屋の中に漂う。睨み合い、意見をぶつけ合う土方とナイチンゲールは、一触即発の雰囲気の中でお互いに退かないままだ。
そんな空気の中、一歩前に踏み出したマスターはナイチンゲールの目を見つめると、彼女へと静かにこう言った。
「……ナイチンゲール、そこを退いて」
「マスター!? あなたまで彼女を殺すつもりですか!? いけません! 救える可能性があるのに、それを投げ捨てることなど……」
「良いから退くんだ。それは君の役目じゃない……沖田さんを守るのは、マスターである俺の役目だ」
「え……?」
ナイチンゲールが、沖田が、土方が彼の一言に目を見開く。ナイチンゲールを押しのけ、沖田を庇う様に立つマスターは、土方に対して真っ直ぐな視線を向けて動こうとしなかった。
「……てめえ、何の真似だ? 斬り捨てられてぇのか?」
「ひ、土方さん! マスターは関係ありません! マスターもすぐにそこを退いて……」
「……殺させない。絶対に沖田さんは殺させない!」
土方の放つ殺気、重圧、そして狂気……普通の人間が浴びれば気を失って卒倒するであろう驚異の威圧感の中、マスターは一歩も退かずに彼を睨み返している。
鬼の副長と呼ばれた土方を相手に真っ向から向かい合う彼の度胸に3人が驚愕する中、マスターは叫ぶ様に土方に自分の思いを伝えた。
「……俺が沖田さんと一緒に過ごした時間は、あなたと比べれば全然短いんだろう……でも、俺は沖田さんのマスターだ! 沖田さんが俺を守ってくれた様に、俺にも沖田さんを守る義務がある! いや、義務が無くったって、俺は沖田さんを守る!」
「……何甘っちょろいことを言ってやがる!? 今の沖田を生かしてやって誰が喜ぶってんだ? こんな状態なら、いっそ死なせてやった方が幸せってもんだろうが! それとも何か? お前は、自分の我儘を優先して、死にたいって言ってるやつを苦しませる為に無理に生かすって言うのか!? あぁっ!?」
土方の叫びに俯いたマスターは、ただ黙って拳を握り締めた。土方は、そんな彼を押し退けて沖田の元へ向かおうとする。
しかし、顔を上げたマスターに腕を掴まれると、そのまま真っ直ぐに瞳を見つめられた状態でまたしても彼の思いをぶつけられた。
「……もしも沖田さんが本当に死にたいって言うのなら、俺は反対しないよ。でも、俺はそんなの沖田さんの本心じゃないと思う。もっと別の願いが彼女にはあるはずなんだ!」
掴んだ土方の腕を振り払い、マスターは沖田の傍に駆け寄る。彼女と視線を合わせ、手を取り、肩を掴み……涙を浮かべた瞳を向けて、彼は沖田へと問いかけた。
「ねえ、沖田さん……沖田さんは、本当に死にたいと思ってるの? それが一番の願いなの?」
「……マスター……私、は……」
「……言ってよ。君が望むなら、それを口にしてくれるなら、俺、頑張るからさ……! どんな願いだって、全力で叶えて見せるから、だから……!」
沖田の心には、裏切った自分をここまで思ってくれるマスターの言葉が突き刺さっていた。涙ながらに本心を口にすることを懇願する彼の姿を映す視界が涙で滲んで来る。
瞳から涙が溢れ、傷ついた心が僅かに生気を取り戻して行くことを感じた沖田の中には、死にたいと言う願いよりも強い願望が顔を出し始めていた。口にするのも憚れる身勝手な欲望、しかし、それこそが自分の本心であると理解した彼女は、震える声でマスターに許しを請いながらそれを口にする。
「み、身勝手だって言うのは分かってるんです……! 今更何を言うんだって、お、怒られるかも知れないって言うのも分かってます……! で、でも、でも……もし、許されると言うのなら……
一度それを自覚した途端、堰を切った様に感情が心の中から溢れて来た。考える前に思いを口にする沖田は、涙を流して号泣しながらマスターたちに自分の望みを告げる。
「戻りたい……! ノッブや皆と笑ってたあの日々に……! 戻りたい……! 仲間たちと同じ夢を追った毎日に……! 戻りたい……! 心の底から笑えてた私に……! 戻りたいです……っ!」
「……沖田……お前、は……!?」
涙を流し、生きたいと言う願いを口にする沖田の姿を見る土方の表情が驚きの色に染まる。何か、何かを彼女に口にする前に、土方はナイチンゲールに首根っこを掴まれて部屋の外に連れ出されてしまった。
「てめぇ、何しやがる!?」
「……聞いたでしょう? 彼女の心の叫びを……彼女は生きたいと願った。死ぬことを拒否した。なら、あなたのお節介は必要無いはずです」
「だがっ!」
「だがもしかしも無い! 患者が生きたいと願ったのなら、その願いを叶える為に努力するのが医師の役目! 今、彼女を救えるのは貴方でも私でも無い、彼女の本心を引き出したマスターしかいないんです! ……もしも貴方が彼の邪魔をすると言うのなら、私は貴方を殺してでも二人を守ります」
「……ちっ」
一筋縄ではいかないナイチンゲールを相手にすることを面倒に思ったのか、はたまた彼女の言葉に納得したのか、そのどちらかは分からないが、土方は一度だけ舌打ちを鳴らすとその場から背を向けて離れて行った。そんな彼の姿を見送ったナイチンゲールもまた二人の居る部屋から遠ざかって行く。
周囲に誰も居なくなった部屋の中では、泣きじゃくる沖田を抱きしめるマスターの姿があった。
「……沖田さんの願い、ちゃんと聞いたよ。俺、頑張るから! だから……」
「……はい、わかりました。こんな……こんな私で良ければ……」
二人きりの部屋の中を示し合わせた様に風が吹き、唯一の明かりであった行燈の蝋燭の炎を吹き消した。月明かりだけが支配する闇の中、お互いの存在を確かめる様に二人は唇を重ね合わせる。
「んっ……♡ んんっ……♡」
頭の中に白く靄がかかった様な感覚に襲われながら、沖田はマスターとの口付けを楽しんだ。甘い、恋人同士の様なキスをたっぷりと時間をかけて行った後、暗闇に目が慣れた二人は一度顔を離す。
自分の事を見つめる青色の優しい瞳を見つめ返した沖田は、先ほど途中で区切った言葉の続きを彼へと告げた。
「……こんな私で良ければ、どうぞ抱いて下さい……マスター……♡」
「はい……喜んで……!」
自由にならない体を彼に預け、彼の腕の中にすっぽりと体を収める。
抱きしめられ、どくどくと響くマスターの力強い命の鼓動を感じながら、沖田はゆっくりと熱く蕩けた息を吐きだして瞳を閉じたのであった。