あと十七時間
アリスは地を蹴り、来た空路を戻るように飛ぶ。
涙で視界が歪む。
鼻を啜る。
どうしてあんなことを言ってしまったのか――
何もしなければ、魔理沙には知られることはない。
その方が今まで通り魔理沙と接する事ができるのに――
「アリス」
すぐ後ろから魔理沙の声が聞こえた。
彼女の手がアリスの肩にかかる。
ぞわりとする悪寒。恐怖。
「放して」
自分でも信じられないほどの大声を上げ――
振りほどこうと大きく動かした腕が、手が――
魔理沙の頬を叩いた。
彼女のかぶっていた帽子が落ちていく。
彼女の金髪が風になびく。
「ごめん……なさい」
俯き、アリスは謝る。
「こっちこそ、ごめん。アリス……その……何があったのか……話して欲しいんだ」
彼女は非難をしなかった。
顔を上げる。
彼女はアリスを見据える。
「こっちの事情は話すからさ」
静かな声。
「私の家でも……いいか?」
アリスはこくりと頷いた。
一時間ほど前に出されたティーカップが二つ。
注がれていたのは前とは異なる紅茶だった。
湯気立つ甘い香りが、今は毒々しく感じられる。
アリスはカップを選び取った。
口を湿らせる為に一口啜る。
アリスは二日前の出来事を彼女に話した。
二人の性交。魔理沙が寝てしまった後に起きたこと。
まさぐられた体。魔理沙を弄ぶような言葉。そんな具体的な内容は避けて――
アリスの話を聞き、魔理沙の顔が暗くなる。
「こんなことにならないように一緒に居た筈なんだけどな――」
金髪を掻き毟る。
「何から話せばいいか――」
しばし目を瞑り、質問した。
「確か……アリスは自立人形を研究しているんだったよな?」
「……ええ」
「さっきの霊夢がそれなんだ。自立人形なんだよ」
「……」
「信じられないと思うけどさ……えーと、これが証拠になるのか……アリスが霊夢に初めて会った時、どんなリボンをしていたか覚えているか?」
アリスは記憶を探る。
確か赤いリボンの縁に白いフリルがあしらわれた――
そう魔理沙に伝える。
「うん。そのリボンはさ、私が霊夢にプレゼントした物なんだ。あいつの誕生日にさ。もともと入れ替わりの悪戯をされないかと思って……身につける物ってさ、あんまり人に貸したりはしないからさ」
あの巫女と魔理沙の話を思い出す。
「一番は本人と話したら分かると思うんだけどさ……まあ、アリスが良ければの話なんだが……」
言葉が小さくなり、再び続ける。
「だからさっき会った霊夢は、アリスを襲ったことは知らないんだ。そもそも、あいつが表に出てくること自体がほとんどないんだ」
「……どういう事?」
「霊夢自身があいつを召喚したのは、私の知る限り二回だけなんだ。今回を入れると三回目だな。一度目は完成したって言う報告みたいな形で紹介されたんだ。それが確か二年前で、次が一年ほど前の紅霧異変の後」
アリスは彼女に質問する。
「……霊夢はどういう理由であれを作ったの? 今の感じだと必要だったとか、」
「それは、私がア――」
魔理沙は言葉を止め、仰ぐ。
数秒そのまま固まり、アリスの方に顔を向けた。
説明しにくそうな顔。
「あー、その……霊夢と話しているときにたまたまホムンクルスの話になったんだ。その頃、そっち関係の本を読んでたからさ。それで自律人形の話もして……」
言葉が一度、途切れる。
「アリスには申し訳ないけど、霊夢は試しに、で作ってみたんだ。で、偶然にもできたんだって……遊びだったんだよ。恐らくは……」
「……別に……嫉妬なんてしないわよ……つまり、博麗霊夢は二人いる。そして私を襲ったのが本人って事ね」
魔理沙は顔を歪め、頷く。
そして腕を伸ばし、魔理沙はテーブルの上に置いていた本を開く。
「一年前の紅霧異変が起きた頃に霊夢が一週間程居なくなったんだが……」
彼女はアリスに開いたページを見せる。
一つの魔法生物を説明したページ。人の精気を糧とする生物。無数の触手を持った醜悪な生物。一人の女性を襲った挿絵が描かれている。この生物が纏う粘液は媚薬作用があると書かれている。
魔理沙が何を言おうとしているのか予想できる。
「おそらく、霊夢はこれに襲われた。私もこの間襲われたんだ……八雲紫に。いや正確にはあいつの式神になんだけどさ。私は一時間もせずに助けられたんだが、霊夢は何日も……」
魔理沙の言葉が途切れる。
「それからだよ。霊夢は体を求めるようになったのは。切ない顔してさ。でも、次第に落ち着いてきていていたのにな。少なくとも私にはそう見えたんだけどな。どうしてアリスにまで――」
彼女が横を向き、顔を上げる。見ているのは窓。
アリスも目線を追う。
そこには何も見えない。
ただ澄んだように青い空――
アリスは彼女に視線を戻し質問する。
「魔理沙……言いにくいとは思うけど。その……タイミングはどんなときなの?」
魔理沙も視線を戻す。
「……時間で言ったら、大抵は夕方から夜の間かな。私が居ないときに症状が出たら、気を鎮めるために睡眠薬を使ってもらっているんだ」
状況を振り返る。
あのときの時間帯は夕刻だった。
あの時流し込んだ丸い錠剤。
魔理沙の言葉に違和感を覚える。
症状って何?
前後の様子を聞く。
行為の前。
自身の体を抱きしめ、小さな声で、儚げな声で魔理沙を求める。
言葉は様々。時には魔理沙に謝ると言う。
行為の後。
共通しているのは魔理沙への謝罪。時には涙ぐむ――いや泣く事も――こともあったという。
違和感は強くなる。
アリスに見せた目つき、言葉。
魔理沙に見せる表情。
肌を求める霊夢と、接触を拒むかのような霊夢。
まるで二人の霊夢がいるような――
それに、決まった時間帯。
媚薬の毒がそうさせる?
中毒症状?
禁断症状?
そんなことが、一年も続くだろうか?
「……この生物の媚薬作用はそんなに強烈な物なの?」
「それは……私の時はすぐに洗い流してもらったから、それほどは……ただ霊夢は数日間……だから……おそらくは……」
「それは、魔理沙が霊夢から聞いたの?」
「……人形が、霊夢に聞いたんだ。いつもと……というより自分の性格と比較して……様子がおかしくて聞いたんだって」
「……もう一つ、記憶の有無ついて聞いたことは?」
「記憶? いや、どうしてそんなこと……」
「どうして、彼女が謝る必要があるの? 魔理沙はあの子の事が好きなんでしょう? 聞いた限りだと、あの子も魔理沙の事が好きみたいだし……」
「それは、あいつが無理矢理求めるから……」
「でも、事前に謝っているんでしょう?」
「……」
手元にあるハートの刻印のカップを見つめ、アリスは考える。
魔理沙の思考の出発点は、人形の言葉からと言うことになる。
人形の言葉は正しいのか、誤っているのか。
本人に聞ければ確実なのだが――
アリスは立ち上がり、魔理沙に告げる。
「これ以上考えても仕方ないわ……私も参加する。あの子にも話が聞きたいし」
魔理沙は迷っていたようだが、やがて出発するときに迎えに行くと言った。
その言葉を聞き、アリスは魔理沙の家を後にする。
結局、彼女が入れた紅茶はほとんど飲まなかった。
◇◆◇◆◇
玄関の扉を開け中に入ると、長身の女性が出迎えた。見た目は人間で言えば二十代前半位、少女の面影はなく、かといって大人の女性という感じでもない。霊夢の目にはそう写った。それは彼女の仕事故、なのかもしれなかったが――
腰まで届く青のメッシュが入った白銀色の髪。胸元に赤いリボンのついた紺色のワンピース。スカートの裾はふんわりと横に膨らみ、幾重にも重なり合う白のレーズがのぞいている。この家の主、上白沢慧音。
「いらっしゃい。暫く見ない間に随分大きくなったわね」
「……私を知っているの?」
「ええ。あの秘密主義の神社で、私は助産師の役割なの。だから貴女が生まれたことも知っているわ」
慧音は続ける。
「まずは上がって。先にあの子に頼まれたことを教えるわ。命名決闘法案――スペルカードルールについてを、ね」
◇◆◇◆◇
妖怪の山。幻想郷の北に位置する、妖怪や神々が住む幻想郷唯一の山。山は中腹までは木々で覆われているが、そこから上に行けば行くほど、緑が少なくなりごつごつとした岩々が覆う。
山の中腹にある一本の大きな木、そこから横に伸びる人の頭ほどの太さのある枝に一人の少女が腰を下ろしていた。幹に背中を預けて座っている鴉天狗、姫海棠はたては手持ちのカメラをぽちぽちと触っていた。
ブラウンの長髪を、パープルカラーのリボンで、ツインテールに纏めている。さらにリボンと同色の天狗帽子を被っている。服装と言えば、帽子同様の色のフリルをアクセントに加えた白い半袖のブラウス、紫と黒の市松模様のミニスカートを履いている。足元は黒のハイソックスに一本足の下駄を履いていた。胸元の黒のネクタイは、今は緩めに巻いている。
カメラを触りつつ、ため息が漏れる。
「はぁ、何かネタになりそうなキーワードはないかなぁ」
はたては、「花果子念報」と言う新聞を発行している。記事に使う写真は手持ちのカメラにキーワードを打ち込めば、それに該当する写真が一覧表示される。ライバルの射命丸文同様、被写体を撮影する事も出来るが、専らこの機能を使って記事を書いている。この為、はたては記事の為に家から出る事はほとんどなかったが、今日は気分転換で外に出ていた。
文の発行する「文々。新聞」は種々の妖怪や異変の記事など様々だった。取材場所は博麗神社、紅魔館、果ては冥界の白玉楼等々。同じように外に出てみれば、何かネタはあるかと考えたものの、成果はいつもと同じく芳しくなく――
「ネタはないけど、頼みたい事ならあるのだけれど……」
「えー、めんどーな事はしたくないのよねー」
反射的にはたては返答し、「え?」と声の方を見る。
空間の裂け目に座る、八雲紫の姿があった。
NEXT EPISODE あと十時間
魔理沙に吹聴する言葉を選べば、恐らくは――
アリスは肘掛けに肘を置き、頬杖をつく。
*
「いいえ。記憶があるのは、今から四から五年前からかな? それ以前は全くないの。代わりに巫女としての神事の事や護符の使い方は頭に入っていたけど……」