あと十時間
横に長く伸びた一階建ての洋風の家。隣接して八角形の二階建ての塔のような建物が建っている。壁は白く、屋根は紺色。建物の前者には玄関があり、生活圏。後者は研究塔といった感じで住んでいる。
アリスは家に戻り、目的の本を探す。本は塔の二階に置いている。
アンティーク調のテーブルにチェア。本棚が二つ。部屋は自身が作った人形によって綺麗に掃除されている。四段になっている扉付きの本棚は七割ほど埋まっている。
赤い表紙の本。
目当ての本を見つけ、ページをめくる。
要点だけを確認する。
多重人格障害、あるいは解離性同一性障害。
特徴、症状について。
頭痛や肉体的苦痛を訴える。自傷行為を繰り返す。女性に多い。記憶に欠落がある。複数の人格が存在する。人格間で記憶の共有は少ない――
原因について。
小児期に受けた強い肉体的・性的虐待を受けた結果、自己防衛から異なる人格を形成しストレスを低減させる――
アリスは本を閉じ、テーブルに置く。
彼女は果たして、これなのだろうか?
ため息が漏れた。
なぜ自分がこんなことをしているのかと考える。
あの女を亡きものにして、魔理沙を自分の方に振り向かせる。
魔理沙に吹聴する言葉を選べば、恐らくは――
アリスは肘掛けに肘を置き、頬杖をつく。
どう考えても、二人は両思いだ。
自分が入る余地など――
テーブルに顔を伏す。
だからといって、簡単に諦められない。
考えるのを止める。
アリスは少し眠った。
時間がきた。窓の外は暗い。幻想郷を照らすのは、おかしな月の光だけ。
ドアをノックする音と魔理沙の声が聞こえた。
アリスは一体の人形に、微香の虫除けの香をセットした魔法のランタンを持たせる。
腰に付けたブックホルスターに一冊の魔法書を入れ、外に出る。
魔理沙の後を追い、月夜の空を飛ぶ。周囲を見渡せば、大きく明るいのは人里だけ。いつもと違う月がいつもように照り光っていた。
博麗神社の境内に着いた。
魔理沙には人形と二人で話したいと伝言を頼み、アリスは賽銭箱の側に本殿へと続く木製の階段に座った。
月は背の方にあり見えず、照らされた朱塗りの鳥居が佇んでいる。
周囲は静かで、時折後ろの神社の住居区に当たる方から人の声が聞こえるくらいだった。
しばらくして、足音が聞こえた。
空中に光る札。巫女。照らされた顔は、昼間見た顔と同一のはずだが、どこか違って見える。
光のせいなのか、それとも――
「待たせたわね」
アリスが声をかける前に、相手が声をかけた。
小さく落ち着いた声。
「昼間はごめんなさい……魔理沙から事情は聞いたわ」
立ち上がり、アリスは小さくそう言った。
巫女は笑いながら、気にしてはいないとアリスの言葉を流す。
アリスは言葉を続ける。
「信じていないわけじゃないんだけど……貴女が……その……霊夢本人じゃないって、私に証明はできるの?」
「ああ……それなら……」
巫女はアリスに近づき、アリスの右手首を掴む。
広げたままの手を重ね、二つの膨らみの間に押し当てた。
うっすらと感じる肋骨の感触、肌の柔らかさと体温。しかし、心臓の鼓動はなかった。
アリスの表情の僅かな変化を認識したのか、巫女は手を放す。
遅れて、アリスは人形の胸元から手を放した。
「これで……証明になったかな?」
人形の質問に、アリスは声を出さず頷く。
微かに笑っている。
巫女の視線がアリスの人形に移っている。アリスの周りを照らしている人形。
「貴女の、このかわいい人形に意志はあるの?」
乾いた声でアリスは言う。
「いいえ。今は私の周りを照らすようにプログラムしているだけ。そう指示したことだけをするの。貴女とは違って単なる自動人形よ」
巫女は人形の方に手を伸ばそうとして、止める。
「心がないって……羨ましいわね」
皮肉にも聞こえる呟きを無視し、アリスは質問する。
「貴女から視た霊夢について聞きたいんだけど……」
巫女はくるりと体の向きを反転させ、アリスに背を向ける。アリスの質問の答えず、逆に質問をする。
「それは、貴女が昼間言っていたことと関係するの?」
「……そうね。彼女から酷い目に遭ったからね」
「そう。具体的な事を教えてもらえる? 魔理沙にあの子を頼んだのは私だから……」
「それは、霊夢の様子がおかしかったから?」
巫女はアリスの問いに、「そうよ」と肯定する。
アリスは夕刻の出来事を簡単に説明した。
それを聞き、巫女は頭を垂れ、暗く小さな声で、
「魔理沙がしたことが裏目に出たのね……」
と、呟き、さらに言葉を続けた。
しかし、アリスの耳に届くにはその声は小さい。
巫女は顔を上げ、背を向けたままアリスに話し始める。
「貴女の中で既に予想できていると思うんだけど……始まりは私があの子に犯されたの。夜中に呼び出されて……無理矢理、唇を奪われて……舌を入れられ……」
アリスは何も答えない。
「舌で肉の塊を舐めて……口に含んで……先端から出た膿を……零さないように飲み干して……」
「もういい……」
彼女の言葉は続く。
「胸もお尻も揉み嬲られ……唾液塗れの塊を……アソコに突き入れられ……何度も……体の外も中も犯されて……」
「もういいって、言ってるの。貴女のことは……」
言葉は続く。
「あの肉の塊が私の肉の穴が押し広げられて……まるで自分が絞り器にかけられているようで……疲れる度に体液と声が溢れ出て……それが自然になっていって……私の中に臭くて粘ついた熱い膿を流し込まれて……嫌なのに、それが気持ちよくなってきて……」
「だから、貴女のことは――」
「このままおかしくなって、気を失うかと思ったけど……それは怖かった。このまま消えてしまうと思ったから……だから必死に耐えて……抗って……どれだけ時間が経ったのか分からない。霊夢の体の動きが止まって……なぜだか、それが霊夢の限界なんだと思ったの。
だから私は、肉の塊を手で弄んで、吐き出した膿を霊夢に飲ましてやれって……そうしようとしたら、霊夢は急に怯えだして、泣き始めたのよ……宥めて話を聞いたら、何日も変な生物に体中を弄られて、気持ち悪さが次第におかしくなって……」
「あの子の記憶についてはどう?」
「記憶って?」
「辱めを受けていたとき、ずっと意識があったのか、そうでなかったのかって事よ」
「最初の方はあったみたい。だけどそれ以降はほとんどないみたい。大きく意識が戻ったのは介抱されていた時だって」
「介抱? 誰かに助けられたって事?」
「ええ。誰とはいなかったけど……その人に日付を聞いたそうよ」
アリスはしばし考え込み、巫女に聞く。
「……あの子は小さい頃、同じような目に遭った事はあるの?」
巫女はアリスの方を向き、答える。
彼女の光る札はなくなっていた。
「……あんまり小さい頃の記憶はないから分からないわ?」
「それは大けがをして?」
「いいえ。記憶があるのは、今から四から五年前からかな? それ以前は全くないの。代わりに巫女としての神事の事や護符の使い方は頭に入っていたけど……」
「理由は?」
「分からない。最初に見たのはお母さんの顔。それと儀式は終了したって言う言葉だけ」
「儀式? 何の?」
「この流れだと、記憶を消す事が……儀式になる?」
本の中では、小児期の出来事に起因すると書かれていた。彼女の言った出来事で多重人格障害が発症してもおかしくはなさそうだった。しかし今の有無を聞くと、それ以前に何かがあったように感じる。
「多重人格って言葉は、聞いた事ある?」
「多重、人格……いいえ……それは……」
「簡単に言えば、一つの体に複数の意識がある事。主な原因は小さい頃の肉体的精神的な苦痛で……」
「それを封じ込めるために記憶を消したって事?」
「それが、あの事で呼び起こされたって言うのが、今の私の考え……恐らくは……いえ……だけど本人に色々確認しないと、はっきりしないわ」
「でも、お母さんがそんな事するなんて……」
「別に誰って言うのも、今の所、分からないわ。他に家族がいたかもしれないし……まだ、これがどこまで正しいのかも分からないし……記憶がない以上、正しい事は分からない。貴女の母親に会えばはっきりするけど……」
「お母さんは……もういないって、八雲紫が言っていたわ」
「いつ頃からいなくなったの?」
「魔理沙と出会う前だから……二年ほど前かな?」
これ以上話しても、答えが出そうにない――
アリスは会話を終わりにする。皆の所に戻る事を告げると、巫女は月を見上げアリスに返事をした。
「私は……もう少し……ここにいる」
話し声のする方にアリスは向かう。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、その姿は、一人の人間のそれで――
アリスには彼女が泡沫人のように感じた。
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「あんたの目的は――なんでしょう?」
紫は足を止めた。首だけで振り返り、冷たい右目が人形を睨みつける。