※この作品はR-18です。

『うちはシスイ憑依伝』IFルート・ザ・ストーリー   作:EKAWARI

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ばんははろ、EKAWARIです。
おまたせしました、失明・晩年ルート後編です。
そして今回の話でこちらで連載させていただいていたIFルート・ザ・ストーリーは完結とさせていただきます。尚、今回の話は表連載の本家シスイ伝シリーズの「バッドエンド・ルート・ザ・ストーリー」読了後読むことをオススメしますが。
まあ、最終回なのになんでイタチが出てないんだよ、とか、生き残っていることは生き残っているけど、状況ひでえとか言いたいことはもしかしたらたくさんあるかと思いますが、少しでもお楽しみいただけたら幸いに存じます。個人的にこのルートはしーたんあんな状態ですけど、トゥルーエンドのつもりです。では、どうぞ。


失明・晩年ルート後編

 

 

 ―――――誓え。必ず、帰ってくると。でないと……行かさない。

 ―――――……誓うよ。……オレはきっと、お前の元に帰ってくる。……約束する。

 

 

 

「ハァハァハァ……」

 暗闇の中、1人の男が駆け抜ける。

「見つけたか?」

「いや、まだだ」

 そんな声が遠くに聞こえながら、男はただ息と気配を忍ばせた。

 見渡す限り、男に映るのは暗闇であるが……だからといって実際その場が暗闇かと問われれば、それは正確ではないと答えるべきだろう。

 男はその目に光を失っていた。

 それだけでない、止血はしたが酷い怪我を負い、完全に神経がイカれた左腕は使い物にならず、このまま数日放っておけば確実に壊死するだろうことは、初歩だけとはいえかつて医療忍術について学び、薬草学などについても勉強したことのある男にはわかっていた。

 それだけでなく、全身あちこち怪我と打撲と骨折だらけで、痛覚を遮断し薬で誤魔化しているとはいえ、これでまだ駆けることが出来ることが不思議なほどだった。食料は3日前に尽きたし、水も最後に口にしたのはいつだったか。

 匂いや伝わる気温などの情報から考えると、今が夜で此処が森の中ということはわかるが、それ以外の情報は何も分からない。おまけに賞金目当ての奴らに命も狙われている。

 いっそ死んで楽になってしまいたいと……追われている中そう思ったことも1度や2度ではないだろう。

 代償は大きかったとはいえ、既に目的は果たしたのだ、ここで死んだとしても構わないのではないかと、心のどこかでそう誘惑する己がいることも確かだ。

 それでも、彼には生き延びなければいけない理由があった。

 何故ならば……。

(約束した……からな)

 生きると、生きて帰るとそう妻と約束した。その約束を決して破りたくなどない。

 だから、たとえ泥水を啜ろうと、他人の生を踏みつけにし、命を奪うことになろうと、それでも帰らなければならなかった。

 帰らなければいけなかった。

 チャクラの残量は全力時の3割程度。おまけに満身創痍で、装備は煙玉2つにクナイ3本、即毒性の毒付きクナイが1本、痺れ毒クナイが2本、増血丸1つに、毒消しが3種。鎮静剤に薬草が2種、起爆札が2枚に、防毒マスクの予備が1つ、毒煙玉が2つ。痺れ針が3つ。痛みを誤魔化すための覚醒剤が2つ。包帯の替えは残り1つ。それが全ての己の手持ちだ。

 目も見えず、左腕も動かず、印も組めない。数少ない自慢だった足も、骨折しているのを添え木で固定して痛みを遮断して無理矢理動かしているだけなのだ、碌に役に立たないのは目に見えている。

 そんな中、敵の数は、現時点で音や匂いなどの情報から判断したところ5人以上8人未満。相手は忍び崩れの賞金稼ぎといったところだろうが、不幸中の幸いは上忍級と思しき気配の持ち主はいないことくらいか。

 平素なら彼ら相手に逃げきることは難しくはない。しかし今の彼の状態でこの状況は、絶望的……といっていいのだろう。生き延びれる可能性なんてまさしく万に一つだ。

 それでも、彼は諦めるわけには……彼の約束を違えるわけにはいかなかった。

 やがて、追いついてきた「居たぞ」そう仲間に声をかける追っ手を前にして、彼は毒煙玉を放ち、ガリッと丸薬タイプの毒消しをかみ砕きながら、その男の喉へと音と気配だけを頼りにクナイを突き立てた……―――――。

 

 

 * * *

 

 

 五大国と言われているうちの1つである火の国の一角、そこに火の国お抱えの忍び里であるこの葉隠れの里があった。

 里長を「火影」と代々呼び習わす習慣のあるこの里は、始めに一国一里という忍びの里システムを考案し幾つもの忍びの家系が集まり手を取り合って「忍び里」を最初に作った、全ての忍び里といわれているもののモデルになった里であったいうのもあったのだろうが、他の忍び里に比べても大きく巨大で、また初代火影・千手柱間の方針でもある「里人は皆兄弟」という思想もあり、他里に比べてみてもより豊かであり、人々の顔に笑顔は珍しくないそんな忍び里だった。

 ……とはいっても、光あるところに影ありというように、たとえ他里の忍びに比べると甘いと言われがちな木の葉の忍びだろうと、対象的な暗い影の部分はなかったかといわれれば、大いにあったのだが。

 それでも、忍び里の中では木の葉ほど豊かで恵まれ、人々との繋がりが暖かい里はそう多くはなかった。本来忍びとは感情を殺し、仲間を犠牲にしてでも任務を達成するのが至上とされている、一般人からは想像もつかぬ非情な世界を生きる者達のことを差す言葉なのだから。

 そして、その木の葉の里の一角に名門と呼ばれる「うちは」一族が暮らす通りがあった。

 数ある血継限界の中でも、三大瞳術の1つに数えられる写輪眼と呼ばれる目を発現することが可能な血を持つ彼らの多くは、里の平和と治安を担う「木の葉警務部隊」に属し、彼らは木の葉を守っているのは自分たちだという意識と共に、その目と血筋に大きな誇りを抱いていた。

 しかしだからこそ、木の葉の上層部とぶつかることも珍しくもなく、万華鏡写輪眼を始めに開眼したとされるうちはマダラによる幾たびもの木の葉襲撃の記録も合いまり、里の上層部とうちは一族は互いに互いを不信に思ってきたところもあったし、軋轢もまた20年以上前にあった九尾のよる木の葉襲撃が切欠で一時はこれ以上なく高まり、彼らの中にはクーデターを画策するものも少なくないくらいで、一族至上主義であるプライド高い彼らの多くは里に本当の意味でなじめるものは少なかった。

 けれど、それは昔の話だ。

 里や一族の垣根なく人々に慕われ、クーデターの無意味さを一族に説き続けたある1人の男の存在と、5年前に火影を継いだその男の妻である女の存在が里と一族の関わりや意識を少しずつ変えていった。

 今では、うちは一族の集落で他族の子供の姿を見かけることも珍しくはない。

 

 そのうちは一族の集落通りを1人の女が歩いていた。

 年の頃は20代後半といったところだろうか。やや釣り気味のサーモンピンクの瞳と落ち着いた雰囲気と装束、薄い化粧に、赤い髪紐で1つに結った黒髪が印象的な女だった。

 やがて、目的地である他の家に比べても立派な広く大きな邸宅の前に立つと、「ごめんください」とそう口にして数度ドアをノックした。

 それは大きい声というわけではないが、よく通る声で、その声に反応してトテトテトテと可愛らしい足音が近づいてくる。やがて、ガラリと音を立ててドアは開かれ、その中から整った顔立ちと四方に跳ねた癖毛が可愛らしい6歳ほどの女の子が姿を現した。

「あら……いらっしゃいませ。またお父様に会いにきたのですか?」

 女の子は、クリクリとした父親に似た釣り目がちの大きな黒い瞳で女性を見上げながらそう言うと、小首を1つ傾げる。口調はおませなのに仕草は実年齢相応に幼くて、そんなところが可愛らしくて、20代後半の女はクスクスと笑いながら言った。

「こんにちは、クシナちゃん。そう、お父さんに会いに来たの。今日は大丈夫かな?」

 そういうと少女はうーんと少しだけ考えるような仕草を見せて、それからコックリと頷いて言った。

「今日はお父様の体調は良さそうですので会っても大丈夫だとは思います。でも、昨日まで伏せっていましたので、あまり長い時間は駄目なのです」

「おーい、クシナー、まだ戻ってこないのかよ……と、あれ、お姉さん。久しぶり」

 そういって、ひょっこりと癖毛が印象的な少女とは対照的なストレートの髪を肩口まで伸ばした少年が現れた。歳は11か12歳ほどだろうか。彼の母親とよく似た長い睫に覆われた切れ長の目をしていたが、コロコロとよく変わる豊かな表情は彼の父親にそっくりだった。そんな少年を見て、少女が声をかける。

「兄様」

 そう、少女と少年は兄妹だった。 

 歳は離れているし、性別も異なっているが、髪質と目元さえ除けば顔立ちはそっくりであることも、彼らが兄妹であることをよく示していた。

 そんな兄妹を目を細めて見ながら、黒髪を赤い髪紐で結った女性は少年に挨拶の言葉をかける。

「こんにちは、イズナくん。久しぶりかな。また背が伸びたんじゃない? 相変わらず元気そうね」

「うん、元気だよ。お姉さんは? と、あ、父様……じゃなかった、父さんに会いに来たんだよね。ならあんまりオレが時間取りすぎるのは悪いのかな?」

 そういって、ちょっとだけ不安げに瞳を揺らしつつ、小首を傾げて頬をかく仕草とかがやっぱり彼の父親によく似ていて、顔立ちは完全に母親似なのに、遺伝って凄いなあなんてことを思いながら、サーモンピンクの瞳をした女性は言った。

「別に悪くはないわ。お姉さんは、イズナくんやクシナちゃんのことも好きだから、こうして久しぶりに話せて嬉しいわ」

 そういって髪をクシャリと撫でると、少年は照れくさそうに頬を染めながら「へへへ」と笑った。

「クシナ、オレが案内するから、お前は茶の用意な」

「ん、わかった」

 そういって、トテトテと可愛らしい足音を立てながら少女は台所に向かって消えた。

「えっと、ちょっとお邪魔している立場で言えたことじゃないんだけど、大丈夫なの?」

 まさか、6歳の妹に茶の準備を押しつけるなんてことをイズナがするとは思わなくて、吃驚して出た彼女の問いかけに対し、問われたほうはあははと照れくさそうに笑いながらこんな風に言った。

「実は、あいつ父様……父さんに美味しいお茶の淹れ方についてレクチャーされて以来茶を淹れるのに凝っててさ。オレが茶道具を使ったら「兄様、荒らした……」なんて言って怒るくらい。だからいいの。クシナに任せておいて問題ないよ」

 まあ、そういう事情なら大丈夫なのだろう。そう思って納得の表情を浮かべる彼女に対し、イズナはそのくるくる変わる豊かな表情に好奇心を浮かべて、「ねぇねぇ」と問うた。

「ところでもしかして今日来たのって例の件の報告?」

「知ってたの?」

 それに少しだけ驚きながら女性が問い返すと、フッフンと少年は得意げな顔をして言った。

「そりゃ、情報収集は忍びの基本ですから」

「でもイズナくん、座学とかは不得意と聞いたけど」

「うぐぐ……これでも実技は1位だからいいんです! そんなんじゃ妹に抜かれるとかいうなよ。まあ……正直言うと、オレそんなに忍びになること乗り気じゃないしね……他にやりたいこともあるし」

「やりたいことって?」

 そう言うと、イズナはにっこりと「今は秘密!」といって笑った。

 そんなことを言いながら歩いているうちに目的地へと着いた。

「父様、お客さん連れてきたよ!」

 そして襖が開かれる。

 そこに、いつもの通りその人はいた。

 

 癖の強い四方に跳ねた髪、大きな団子鼻、厚めの唇。釣り気味の目をしていたが下がり気味の眉や柔和な表情も相まってあまりきつい印象を抱かせない瞳。ここ数年ですっかりやせ細って厚みのなくなった体に、日焼けすることを忘れた白い肌。そして布団に隠された動かない下半身と……隻腕。

 ゆったりとした緑色の浴衣を寝間着代わりに羽織っていたが、根元から切断され、今はない腕を象徴するかのように、左側の袖がパタパタと風に揺れているのが印象的だった。そしてその黒い眼はもう誰の姿も映すことはない。

 けれど、彼は穏やかな笑みを絶やさず、ゆったりと息子や客人である女のほうへと振り向いた。その微笑みは昔と同じようでいて、しかしどこまでも違ったものだ。まだ30代であるはずなのに、それはまるで余生を細々と送る老人のような微笑みなのだ。晩年を過ごす老人のように、まるでいつお迎えがきてもいいのだと言わんばかりのそれは、けれど彼の置かれた状態を考えれば何も間違っては居ない。

 それに、もの悲しさや寂しさを覚えないと言ったら嘘になる。けれど、それでもあの時、帰ってきてくれたのだから、それだけで彼女は良しということにするのだとそう決めていた。

 だから、キュッと唇を引き結んで穏やかな笑みさえ浮かべ彼女は言った。

「お久しぶりです、シスイ先生」

「そうだな、久しぶりだ。だっていうのに悪ぃな、こんな格好で。それで、みんな元気してるのか?」

 そういって男は……かつて『瞬身のシスイ』と呼ばれた、五代目火影うちはイタチの夫であるうちはシスイは笑った。

 

 

 ―――――……うちはシスイが木の葉に帰ってきたのは、ペイン長門による木の葉襲撃事件が終結を迎えたその3ヶ月後のことだった。

 一体いつからいなくなっていたのか、などはしらない。そもそも何故彼がいなくなっていたのかも。

 ただ、それでも当時は暗部の隊長の1人であった妻のうちはイタチと、里長である三代目火影猿飛ヒルゼンはこの件についてなにかしらは知っていたらしく、彼が出て行った理由について話すことはなかったが「抜け忍になったわけではない」と、ちゃんと許可証も与えたとそれだけを説明した。

 だから、極秘任務かなにかなのだろうと周囲は考え、それ以上を尋ねることはなかった。

 そして、彼がいなくなってからもうすぐ3ヶ月を迎えようとしているその時に、たまたま任務で国外に赴いていた猿飛アスマ他3名の木の葉の忍びが、任務帰りにそれを発見したのだという。

 交流は深かった筈だが、始め、猿飛アスマはソレがうちはシスイであることには気付かなかったという。

 酷い血臭がして、彼らが近づくとそこには忍び崩れの賞金稼ぎらしき男と、幾人かの死体、そして全身血まみれで左腕がおかしな曲がり方をしていて今にも殺されかけているボロボロの男がいたという。

 本来なら任務外であるし、他里の忍び同士の争いになど介入するべきではなかったが、しかしアスマ達は、その今にも殺されかけている、誰なのかも残量チャクラ量が微量過ぎて判断が付きにくい男が木の葉の額宛をしていることに気付いた。

 それが誰なのかはわからなくとも、同じ木の葉の忍びというのならば仲間である。

 何故仲間も連れず1人こんなところで殺されかけているのかとか、何故こんなやつらに狙われているのかとかは知らないが、理由など仲間とはぐれたとか仲間が殺されたからとかいくらでも考えられるし、任務の遂行上の問題以外で仲間を見捨てるなど木の葉の流儀に反する。だからアスマ達はその誰かもわからないボロボロの男を助けることにした。

 近くで見ると想像以上にズタボロで、それは生きているのさえ奇跡のような状態だったという。

 左腕は変色して異様な色を湛えていたし、体中あちこちに打撲や打ち身、切り傷に骨折が絶えなかったし、それから医学の知識があるやつが視たところ脊椎に損傷があるように見えたという。そして木の葉に帰ってから判明したことだが、その見立ては間違っていなかった。

 とにかくその場で応急処置を施したが、一刻も早くまともな治療が必要とのことでそのまま木の葉に移送することにし、アスマが「しっかりしろ」そう語りかけたときに男が呟いた「………………ア……スマ、せ……んぱ……い?」という声で、猿飛アスマは漸く目の前の人物が、なんとなく弟のように思っていた後輩のうちはシスイであることに気付いたのだという。そしてその声を最後に彼は意識を失った。

 そして木の葉病院へと搬送されたシスイは集中治療室へと真っ先に送り込まれ、それから暫く生死の境をさまよい、目を覚ましたのはおよそ木の葉病院に担ぎ込まれた2週間後だった。

 ……医者によるとこれでも彼が目を覚ましたのは予想より大分早いくらいだったという。最悪、一生目覚めないことも視野に入れて置いた方がいいと、そう彼の妻であったイタチに宣言する姿を側で見ていたから。

 けれど、目が覚めたからといって、良いことばかりだったかというとそれは是とは言い難かった。

 まず、彼は失明していた。

 原因は定かではないが、痛みを誤魔化すために使った薬の副作用と写輪眼の使いすぎではないかとそう推測されていた。

 そして担ぎ込まれた時には既に左腕が壊死しており、このままでは他の健康な部分にも害を及ぼすからと、左腕は変色していた根元から切断された。

 また……大抵の傷や骨折については治ったが、脊椎は神経からやられていたため、彼は下半身不随を患い、腰から下の感覚がまるごと無くなっていたようだった。無事な右腕や上半身についても、まともに動くようになるまでリハビリが必要とのことだった。当然、彼の男性機能もその時失われた。そして……傷の手当てもろくにせず戦い続けていたためか、担ぎ込まれたときには感染症にかかっていた彼は、治療後も免疫力が低下したまま、ついに治ることもなく退院の日を迎えた。

 以来、かつてはあれほど健康的だったシスイは、少しの切欠があれば風邪にかかるようになったし、軽い病気が命に関わる重い病気に化けることも珍しくなくなった。そのせいか1年の半分以上は床に伏している。

 勿論こんな状態だ、忍びとしてまともにやっていけないどころか、もう副業に就くことさえ難しい。彼はそのまま忍びを引退した。

 あの体だ。きっと、おそらく先は長くないだろう。

 誰もがそう思ったし、実際にそうして些細な病が原因で生死の境を彷徨ってきたことも、彼女が知っているだけで3回はあった。

 

 実際かなり酷い状態だと思う。

 目は見えないし、左腕はないし、下半身はもう動かないし、男としての機能も失われたため夫婦の営みももう出来ない。下の世話を含め、大抵のことは家族等に世話になりっぱなしで、食事も自力で取れるようになったのはここ4年ほどのことだ。それもかなりのリハビリを必要としたし、免疫力の低下した体は些細なことで彼を死の淵へと引きずり込んだ。

 気の弱いものならきっとこの時点で絶望して自殺を図ってもおかしくないだろう。元々が異名を取るほどかつて名を馳せた強者だというのなら尚更だ。同じ立場に立たされたのが彼女だとしても、きっと途中で生きていくのに耐えきれなくなるだろう。

 

 彼が何故里を出て、何故あんな姿になって殺されかけていたのかなど誰も知らない。

 理由を問うても、彼は微笑んで首を横に振るばかりで答えることはなかった。

 それでも、そんなに生への執着が強いようには思えなかったシスイが、どうしてそんなまともに動けない、死んだ方がマシのような体になってまで生きようとしたのか尋ねると、彼はこう答えた。

「約束したから」

 イタチと、妻と必ず帰るとそう約束したから、だから何がなんでも生き延びようと思ったと、そう彼は答えた。

 そしてそんな彼を彼の家族は愛情という名の絆の元、献身的に支え続けた。

 初めの1年は首から上は動かせても、無事な右腕さえ中々動かせなかった彼だったが、そんな状態でも希望を失わずにいたのは彼らの愛情と……そして新たな家族の存在があったからなのかもしれない。

 彼が木の葉に帰ってきたとき、シスイの妻であるイタチの腹の中には新たな命が宿っていた。妊娠の時期は逆算したところ、丁度彼が木の葉から姿を消したのと同時期に出来たと見られている。そして彼が帰ってきた時から丁度7ヶ月を数える日、うちはイタチは元気な女の子を産んだ。

 名は前から決めていたらしい。うずまきナルトの母親であったという、うずまきクシナから名を取り、その子はうちはクシナと名付けられた。どうか彼女のように明るく活発的な女性になってほしいという願いをこめてそう名付けられたのだそうだ。

 そしてそんな二度目となる妻の出産を側で見守ることすら出来ず迎えた彼は、「抱くことは無理かも知れないけど、せめて撫でてやりたかった」と寂しそうな顔をしていい、それから少しでも体調の良いときはリハビリに益々打ち込むようになったという。

 おかげで今ではかつての麻痺が嘘だったように、その手と指は昔と変わらぬ器用さで動くようになったし、匂いと触感を頼りに簡単な薬草の調合なども出来るようになったという。

 

 しかし、いくら家族の支えがあるからといって、そんな生活がキツくない筈がないだろう。

 もう彼は子供達をその腕に抱いてやることは出来ないし、その目で産まれた娘の姿を見ることも、成長した息子の姿を見ることももう出来ないのだ。愛した女の顔だって2度と見ることは叶わない。

 だというのに、それでも彼は微笑む―――――。

 

 まるで晩年を謳歌する老人のようにゆったりと笑って、1日1日を噛み締めるようにして生きている。

 忍び家業を完全に引退した彼は体調の良いときにはアカデミーの子供達を招いて、色々な聞き知らぬ物語などを楽しげに話して聞かせていた。

 それは桃から産まれた少年が鬼退治に行く話や、選定の剣を抜いた少年がある国の王となる話だったり、ある狼と羊があらしの夜に出会い、互いの正体を知らず友情を育む話だったりした。それを豊かな表情とおどけた声でもって、多彩に表現しながらおもしろおかしく聞かせていた。

 そして、彼は歌を唄う。

 なんの歌かは知らない。聞き知らぬ言語の聞き知らぬ歌だが、旋律も暖かなそれをいつしか子供達も真似て歌うようになった。

 これも人柄、というものなのだろう。

 隻腕で下半身は動かず、目も見えないといったハンデを抱えていて尚彼は子供達に好かれていたようだった。いつしか彼の語る物語は評判を呼び、本にして出版してはどうか、と言われるようになったが、彼は苦笑して首を横に振るばかりだった。

 彼の語る話を知っているものなど他にいない。誰も知らない話なら残る可能性としては、彼が己で考えた話というところだろうに、何故頑なに断っていたのか、その理由を彼女を含め、周囲の誰もわからなかった。

 そうしているうちに彼が帰ってきてから7年の年月が過ぎた。

 

「息子のことなんだけどさ……」

 健康だったかつてと口調自体は変わらないのに、まるで余生僅かな老人のようなゆったりとした調子で彼は言葉を話す。

「イズナくんがどうかしたんですか?」

「あいつさ……忍びよりも絵本作家になりたいんだってさ」

 その言葉で、此処に案内してくれたときに『やりたいこともある』とイズナが言っていたことを彼女は思い出した。

「オレの語る物語を、絵本という形で描き残したんだってそう言うんだ。馬鹿だよな……オレなんかに縛られることもないのに」

 そういってシスイはまるで罪悪感にかられているかのように、少し目を細めて俯いた。

 そんなかつての担当上忍に向かって彼女は言った。

「いいじゃないですか。それだけ慕われているってことですよ。それに、先生の話す物語、あたしも好きです」

 それは本心だった。

 彼の語る物語は、数回くらいしか聞いたことがなかったが、どの話もどこか御伽めいていて面白かった。

 だが、そんな女の言葉を受けて、老人のような表情を浮かべた男はこんな彼女からすると意外な事実をポロリと語り出した。

「本当はあれ、厳密にはオレが原作じゃないんだけどな……うろ覚えだから脚色しまくってアレンジしまくってるのは確かだけど」

 それに、原作があったのか、と少し意外に思った。誰もシスイの語る話を聞いたことがないから、彼の語る話は彼の創作だと思い込んでいた。しかし、オリジナルがシスイでなかったというのなら、あれほどに出版を渋っていた理由もわかるというものだ。いくらアレンジを盛り込んでいるとはいえ、盗作のようで気が引けたということだろう。

 だがしかし、そのオリジナルを知っているものは他にいないのだ。シスイが死ねばそのまま物語は失われる。それは寂しいことなのではないのかと彼女は思った。だから、こう彼に向かって言った。

「いいじゃないですか。誰も知らないんだから、先生が作者ってことでも」

「うーん。どうなんだろ。やっぱ自分が原作じゃないのに自分の作った話みたいに言うのはどうなのかなーと思うけどなぁ」

 まあ、そうなのかもしれない。

 元々ふざけるときはふざけて振る舞う節があったが、この人の根は真面目なのだ。自分が立てた手柄じゃないものを手柄と言い張る強情さなどは元から持ち合わせていない人だった。

 けれど、もう少しくらい欲張ってもいいんじゃないかと彼女は思う。

「イズナくんも先生の語る話が好きだから、残したいと思ったから絵本にしたいと言い出したんでしょ? それが答えですよ」

「そっか……そうなのかな」

 そういって、シスイは数度、自分を納得させるように頭を上下に動かした。

「でもまあ、本当良い子達に恵まれたよ。この通り、オレはこんな体だしさ、手間かけさせるばっかりで父親らしいことなんて碌にしてやれていないのに、文句1つ言わずに慕ってくれてさ。本当、オレには勿体ないくらいの良い子達だよ」

 確かに、父親がこんな状態でありながら、彼の息子であるイズナも娘であるクシナも良い子に育ったんだろうなと思う。イズナなど、昔の元気だった頃の父親を知っていたからこそ余計に辛かっただろうに、それでも父親がもう2度とまともに動けない体になっても、以前と変わらず父親に笑って懐いていると聞く。

 元々イズナは人懐っこい子だった。その中でも両親のことは特に好きで、3ヶ月彼がいなくなった時は、「父様がいない」と泣き出すイズナを宥めるのは大変だったものだ。そこまで親しくしていたというわけでもなかったが、それでも自分も時折見に行き、時には泣きついてくるイズナをあやす手伝いをすることもあった。転機はイズナの祖父であるイタチの実の父のフガクの存在だっただろうか。

 いつもは孫に甘いフガクだったが、「忍びの子供が、親が恋しいと泣くとは何事だ」と一喝し、それから誰かが「泣いてばかりだと父親はいつまで経っても戻ってこない」と吹き込んだらしく、以来ピタリと泣くことは止めたが、泣きそうな顔で必死に我慢する様子が幼さも相まって見ていて痛々しかったのをよく覚えている。

 多分、父親が帰ってきた時も、かつて大好きだった父があんな姿になって帰ってきたのだ、幼い分だけショックも大きかっただろう。

 だというのに、彼は悲しさを見せようとはせず、父親の前では笑って明るく接しているらしかった。

 そんな風に回想をしている彼女に対し、シスイは穏やかに笑いながら少し悪戯めいた表情を浮かべ、こんなことを尋ねた。

「それで、お前はどうなんだ? アイツと結婚するって聞いたけど」

「なぁんだ、先生も知ってたの? 驚かせそうと思ったのに」

「こんな体でも、オレも一応木の葉の元上忍だぜ? 情報収集は忍びの基本、昔そう教えたろ」

 そういってシスイおどけたように笑った。

 アイツというのは、アカデミーを卒業してすぐ、自分同様にうちはシスイの担当下忍として同チームに入った医療忍者見習い(当時)だった少年のことだ。

 黄土色の髪に少しぽっちゃりした体型で、どこかおっとりした風貌をしており、しかしそのくせ医療忍術より毒草や薬草の調合などのほうが得意なまあ、薬草毒草オタクな奴で、同じく毒草や薬草について勉強をしていたシスイとはそっち方面で話があっていたらしい。

 そんな彼は今では立派に一人前の医療忍者として成長し、元気に第一線で活躍している。

 今でもかつて同班だったよしみで一緒に仕事をすることは珍しくはないくらいだ。

 ……そんな彼に初めて告白されたのは、今から10年近く昔のことだ。

 始め、彼女はそれを新手の冗談だと思った。ずっと昔から好きでしたなんて言われても、昔から仲間として戦友として男友達なんだと、安心と信頼を向けていた相手にニコニコ笑いながらそう言われても何かのジョークだとしか思えなかった。だけど、その時「本気だから、それだけは忘れないでね」と言った通り、彼は本気だった。それでも彼の付き合って欲しいという言葉に、上手く返事を返せなかったのは、余計な未練があったせいなのだろうと思う。

 でも彼は、わかっているから、いつまでも待っているから今すぐ答えなくても大丈夫だと笑って言ってくれたからそれに甘えていた部分もあるのだろう。

 別に彼のことが嫌いなわけではなかった。寧ろ好きな部類に入るだろう。一緒にいてこれほど落ち着く異性なんて稀なくらいだろうし、彼の好意も長年の友達感覚のせいで上手く享受出来なかっただけで別に嫌じゃなかったのだ。

 それでも返事を10年も伸ばしてしまったのは、初恋を引き摺っていたせいだと知っていた。でもいい加減自分ももう覚悟を決めるべきなのだ。

 だから、先月とうとう彼女は彼に返事を返した。

「うん……来月、結婚式上げるの」

「そっか……本当は式にも行きたいけど、この体だもんな。見に行けないのは少し残念だな。それにしてもアイツ……積年の想い遂げられたんだな。なんにせよ、おめでとう。幸せになれよ」

 その言葉に少し彼女は吃驚した。

「シスイ先生、あいつがあたしのこと好きなの知ってたの?」

 彼女は勿論、アイツに好きだと告白されたことも、結婚を前提に付き合って欲しいと言われたことも話したことはない。なのに、鈍感なんじゃないだろうかと思っていたシスイがアイツの自分への恋心があることに気付いていたということが意外で、そう彼女が言うと、彼は苦笑しながらこういった。

「そりゃな、こう見えてもオレはお前らの先生だぜ? 昔からなんとなくそっかなーとは思ってたよ」

 そんなに昔からアイツのあたしへの恋心ってのはわかりやすいものだったのだろうか? 昔から好きだったとは言われたけど、シスイの元で同班として組んでいた時代は全く彼の恋心に気付かなかった彼女としてはその男の言葉は意外だった。

 けれど、彼の自分への恋心には気付いていたというシスイに対し、疼く心が沸き上がり、彼女は冗談めいた口調でこう話し出した。

「じゃあさ、これは知ってた?」

 それに、何を? といわんばかりにシスイが首を傾げる。

 そんな男を見て、彼女は笑ってそれを言った。

「あたしさ、本当に本気でシスイ先生のこと好きだったんだよ」

 その言葉にシスイは告げる言葉を失った。

 そんな彼を前にして、サーモンピンクの瞳をした女は姿勢を正し、真剣な声音でもう諦めると決めていた心を感情に乗せ、それを告げた。

「あたしは……いえ、私は1人の男性として、うちはシスイのことが好きでした」

 それに幾ばくかの沈黙が場を支配する。やがて、数秒の間を置いて、彼はポツリと聞き漏らしてしまいそうな声音でそれを言った。

「…………ごめん」

 それに、ああやっぱりと彼女はボンヤリ思った。

「ずっと、一時の気の迷いだと、ただの憧れだと思ってた。たまたま1番側にいた年上の異性がオレだったから、だから思春期にありがちな勘違いだとそう思ってた」

 ……知っていた。彼にとって当時の自分などただの子供としてしか見られていなかったことくらい。

「あはは、先生酷い。あたしあんなにあの頃毎日みたいに好きだって言ってたのに」

「……ごめん」

 茶化すように明るい声で言うけど、内心ではちょっとだけ泣きたい気分だった。わかっていても、ここまで好きだった人の眼中に入っていなかったという事実を突きつけられるのは辛いものだ。シスイもわかっているのだろう。だからこそ尚更に、罪悪感に満ちた顔で、悲しそうに謝罪の言葉を告げている。

「本当に、ごめんな」

 そうだ、眼中になかったということは悲しかったけど、それでも別に謝って欲しいわけじゃなかったのだ。こんな顔をしてほしいわけではなかった。だから、彼女は落ち着いた口調でこういった。

「……別にいいよ、先生があたしのこと見ていないなんて最初っから知ってたし。叶うことのない恋だって知っててそれでも好きでいることを選んだのはあたしだもん」

 そうだ、叶うことのない恋だなんてきっと初めから知っていた。

 何故なら彼には既にその時には婚約者がいて、そしてその婚約者である彼女が彼にとっての特別だったことなんて、2人並んでいる姿を里で見かけた時からわかっていたことだ。

 自分はたとえ好きな人に本命がいても、愛人でもいいから付き合ってとか言えるような人間でもなかったし、シスイもまたそういう爛れた関係を好むような人ではなかったと思う。付き合うならば自分だけを見て欲しい。それが彼女の願望だ。もし自分もあんな風に大切にされたならと夢想したことがなかったかといえば嘘となる。

 だが同時に、あのうちはイタチから完全恋愛対象外の子供としてしか見られていなかった自分が、シスイを奪えるとも思っていなかった。

 それくらいの判断はつく。なにより、余計なことをして嫌われる可能性が怖かった。

 結局、自分は臆病だったのだろう。好きな人に愛されているだろう女から好きな男を奪うような度胸なんて結局なかった。

 だから、最初っから叶う筈のない恋だったのだ。

 それでも、楽しかった。

 たとえ返らない想いだとしても、好きでいるということ、それだけで満たされていたのだ。

 好きでいることだけは、自由だったから。

 だからたとえ報われない恋だとしても、好きでいることだけは続けさせて欲しかった。

 彼の笑顔が、自分の頭を撫でる大きな手の暖かさが好きだった。

 それでも、来月、自分は別の男の元へと嫁ぐのだ。だから、もうこの恋心に決着をつけることにする。

「シスイ先生」

 名を呼ぶ。

 目の見えない彼は焦点の定まらない目のまま、顔を上げた。そんな彼にそっと風のように近づき、そして掠めるように、その頬にキスをした。

 キス自体は一瞬のことだったが、やがて、自分が何をされたのか気付いたのだろう、シスイは驚きと戸惑いを宿した顔をしながら、右手でキスをされた右頬のあたりをなぞり、困惑したように言葉を漏らした。

「お前……」

「あはは、先生、何驚いてんの? こんなの挨拶だよ、挨拶」

 ―――――その唇はあの人のものだ。ならば、せめて頬くらいは赦して欲しい。

 そんなことを思いながら、彼女はまるで先ほどのことは冗談だと思わせようと殊更に明るい声を出した。けれど、そのどこか痛ましいような顔を見たら、シスイもまたそんな彼女の心のうちもわかっているのだろう。そう先ほどのことが冗談なんかではなかったことを。

 全く、普段は鈍いのにどうしてこんな時ばかり鋭いのだろう。だが同時にこうも思った。

(先生、あたしはそんな貴方が好きでした)

 そしてもう一度言う。

「……親愛の挨拶、だよ。そうでしょう?」

 相手は家庭ももっている二児の父で、自分もまた来月別の男と挙式を上げる身だ。元教え子と担当上忍。それ以上の関係などあってはいけなかった。

 それはシスイもわかっているのだろう。もの悲しそうな顔をしながら「そうだな……」とそう自分に言い聞かせるように呟いた。

 それから間も置かず、トコトコと可愛らしい足音と少女の声が響いた。

「失礼します。お父様達、お茶もってきましたです」

 そういって、少女は盆に載せた2人分の茶菓子とほうじ茶を横において、三つ折りでそう言葉をかけた。その様は幼いのに様になってて、でもどこか愛くるしかった。

 そんな少女に向かって、黒髪を赤い髪紐で結った女は笑って言う。

「ああ、クシナちゃんありがとうね。でもあたしの用件はもう済んだから良かったら一緒に飲もう」

 それに、少女は少しだけ考えるような仕草をしたあと言った。

「ん……お誘いは嬉しいですが、この後クシナは兄様やサスケおじさまと一緒にお出かけする予定なのです。だからまた今度お願いします」

「そっか」

 それからクシナはペコリとお辞儀をして、盆だけを持って退出した。

 また2人きりに戻った。けれど、少女が入ってくる前のことを引き摺ることもなく、シスイとかつて彼の担当下忍であった彼女は、ポツリポツリとたわいない世間話を近況報告として互いに交わした。

 そうして30分ほども経ち、頂いた茶や茶菓子も綺麗に完食し終わった彼女は言った。

「んじゃ、先生またね」

「もう帰るのか」

 その少しだけ寂しげにも聞こえる声に、苦笑しながら黒髪を結った女は言う。

「ん、あんまり長居しちゃまずいんでしょ? クシナちゃんから聞いたよ、先日まで伏せっていたって」

 それに、ばつの悪そうな顔をしてぼやくように彼は言った。

「ただの風邪なんだけどなぁ」

「先生の場合、ただの風邪が風邪じゃすまなくなるのに何言ってるの。もっと気をつけなよ」

 そういって立ち上がり、「お邪魔しましたー」という声をかけて、出ようとしたその数秒手前で、彼女はクルリと顔だけ振り向いて、見送りの姿勢に入っていたシスイに向かってこう宣言をした。

「シスイ先生、あたしさ、きっと幸せになるよ」

 それに、もう何も映さない男の黒い眼が静かな光を湛えながら揺らめいた。

「先生より、うんと……」

「……そっか。良かった」

 そのかつての教え子の宣言に、シスイは心底ほっとしたように安心した笑顔を見せた。

 ズキリと一瞬それに彼女の胸が痛む。けれど、痛む資格なんてないことはわかっていたから、だから彼女は最後に別れの言葉を告げた。

「…………バイバイ」

 彼は晩年を送る老人のような顔をして、いつまでも自分をじっとその静かな瞳で見送っていた。

 

 

 なんでもないような顔をして、笑みを取り繕いながら、かつての想い人が家族と共に暮らす家を後にする。

 それから、歩いて、走って、自分の家にまで帰ってきて、彼女は体を崩しながら、自分の部屋のドアに鍵をかけた。

 目の前には来月の式のために用意された花嫁衣装。

 それを見ながら、彼女はたまらなくなって「ふ……ぅ…………ぁああ」そう、声を小さく上げながら幼い子供のように泣いた。

 もう時が戻ることはなく、やがて自分もまた家庭を持ち暮らすだろう。子供だってそのうち授かるかもしれない。やがて今日の出来事だっていつか「そんなこともあったなぁ」と懐かしそうに笑って言える日が来るはずだ。

 きっと誰よりも幸せになる。それはきっと悪いことではない。

 けれど、今だけはかつての幼い恋心を宿したいつかの『少女』として泣きたかった。

 

 きっと、うちはシスイの先はもう永くない。

 やがて、妻や子供達に看取られ、短いながらも幸福な一生を終えることだろう。

 だからそれまでに自分もまた、彼に恋をした1人の女としてではなく、かつて彼に教示を受けたただの生徒の1人として、そうやって彼の死を見送ってやれたらいいとそう思った。

 幸福な思い出だけを抱いて、そうやって終えられたらいいと、そう思ったのだ。

 これで本当に良かったのかはわからない。

 でも、間違っているとも思わない。

 だから幼い恋にお別れを。

 そして泣き疲れて眠って起きたなら、もう全て想い出に昇華して、新しい未来に向かって足を進めよう。

 きっと自分が彼と共に家庭を築き幸せになることは、先生にとっても喜ばしいことなのだから。

 そして祈ろう。

 

 彼の短い晩年が、少しでも多くの幸福で包まれたもので在り続けますように、と。

 今はそうして祈るしか出来なかった。

 

 

 了

 

 

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