「探偵と医者」
突然の訪問は不思議ではない、だが、数日前に音楽会に二人出掛けたときとは明らかに違っていた。
「どうしたんだ、ホームズ」
興奮している友人の姿に驚いたのも無理はない。
普段から犯罪者がロンドンの街で静かに息を潜めて何もしないことは退屈、いや、苦痛だと常日頃から平気で言い放つ変わり者だ。
そんな彼が興奮しているのだ、何か事件が起きたのかもしれない。
「ワトスン、出掛ける準備をしたまえ、少し長くなりそうだ、行き先は巴里だよ」
詳しい事は道中で説明するよと言い残して男は部屋を出て行った、随分と急いで、いや、慌てているようだ。
巴里に着くなり、ホテルの一室で話を聞かされたワトスンが不満げに責めたのは当然かもしれない。
医者である彼は友人が解決した事件の子細を書きとめ、それを世間に発表するという作家の顔も持っていたからだ。
「今、パリでは首切り男という犯罪者が街を騒がせている」
「警察に頼まれたのかい、協力してくれって」
「いや、これは僕の独断だ、信じてくれるかい、それが、どんなに突飛な荒唐無稽と思えるような話でもだよ」
「ホームズ」
こんな言い方をするなんて珍しい、いや、いつもの彼らしくない、そんな事を思いながら医者は頷いた。
「数年前にも似たような犯罪があったんだよ、パリでね、男女関係なく人を殺す殺人鬼が現れたんだ」
ああ、そのことなら噂で聞いたと医者は頷いた。
男女だけでなく年寄りと子供も殺されたはずだ。
探偵は頷いた。
「犯人を捕まえるにあたって色々なことがあって、正直にいうと僕一人の力ではない」
「どういうことだい、ホームズ」
何を言おうとしているのか、さっぱりだ、わけがわからないと医者は困惑した顔になった。
探偵の話は朝まで続いた。
すべてを聞き終わると医者には信じられない、まるでゴシック小説、映画のような、作り話ではと思ったが、友人の顔を見て、何も言えず、最後には信じるよと頷くしかなかった。
「怪人と歌姫と」
自分で決めろと突き放したことを、男は半ば後悔しつつも、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。
音楽を教える立場と、その生徒、この関係が少しずつ狂い出していく事に最初のうちこそ自制と歯止めをかけていた。
だが、幼なじみの子爵である若者の存在のせいで、この関係に狂いが生じはじめた、最初のうちこそ平静を装っていたのだ。
だが次第に嫉妬を感じ怒りを覚えると、時には彼女を殺してしまいたいと思う時もあった。
そして、自分に驚いた、だが、一度でも、そんなことを考えてしまうと駄目だった。
嫌な、悪いことばかりを頭に思い描いてしまうのだ。
世間と神が、自分に非情で残酷な事は昔からだと知っていた。
少しでも、今まで野彼の人生に、こんな恋愛の経験があれば、これほど悩み、苦しむ事はなかっただろう。
だが、恋愛、色恋という者に関して、他人に好意を抱くという事に関しては、あまりにも無知で不慣れだった。
音楽だけでは駄目だ、相手の心を掴めるのかわからなかった。
顔、顔だ、生まれたときからの、この醜さだ。
自分から何もかも 奪ってしまう、打算混じりだが、それでも縋ってしまう弱さが自分にある。
世間の当たり前の恋人のような関係を築く事ができないことを嘆いたところでどうしようもないのだ。
だが、貴族が殺されるという事件が起きた。
ここ最近の様子から、彼女が不安になっているのは明かだった。
自分の恋人も世間の他の貴族と同じではないか、いや、彼自身が何もしていなくても親族や友人、知り合いが関係していたらと考えているのかもしれない。
もし、自分が巻き込まれたりすれば、どんなことになるか。
最悪、いや、最良の場合。
クリスティーナは戻ってくるかもしれない。
いや、自分に頼ってくるかもしれない。
もしかすると結婚を考え直す事もありえる。
そのとき、自分は彼女に手を差し伸べることができるのか。
自分の半分でもいい、彼女が苦しんでいる姿を見れば受け入れてやることができるかもしれない。
残酷かもしれない。
だが、自分がこんなことを考えてしまうのは彼女自身のせいでもあるのだ。
愛か憎しみか、自分の彼女に対する感情が揺れ始めていることに、仮面の男は気づいてもいなかった。
「フロロー司祭」
自分は一時、我を忘れて夢を見ていたのだと男は思った。
神に仕える身でありながら、ほんの一時の感情に溺れて道を踏み外すところだった。
神はすべてをご存じだ、だから自分を生かしたのだ。
代わりに他の者達に罰を下した。
重い罰を。
ジプシー女は死んだ、病らしいという噂だった。
あの男以外にも大勢の男と関係を持っていたのだろう、結婚式を控え、花婿となる筈だった男も今は街中で見かける事もない。
家から一歩も出てこず伏せっているというが、実のところ末期のフランス病らしい。
女は川に身を投げた、当然だ、若い女がフランス病の末期など、ジプシーといえど世間の噂になれば白い目で見られるだけではない、仲間達からも背を向け拒絶されるだろう。
そして鐘つき男、カジモトは生きている、きっと地獄の苦しみを味わっていることだろう。
だが、これこそが正しい、。
安息の日々が戻ってきた。
心にも体にも静寂と平和が訪れた。
日曜日の礼拝は欠かす事のできないものだ。
敬虔な信者だけでなく悪名や浮き名を流す貴族達も集まってくる。
神髪はすべての者、物事に対して愛と許しを施している。
マルキド・ヴァレンティナ侯爵家の当主がバスチーユに投獄されたとき、フロローは厄介な事になったと思った。
数年前から、彼は教会だけではなく美術館や音楽堂、巴里のオペラ座などに多額の寄付をしていた、ゆうなけば大事なパトロン、後援者といってもよかった。
勿論、このノートルダム寺院にも寄付を、かなりの貢献しているのだ、それは投獄された今でもだ。
普通なら考えられないことだ。
だが、彼の愛人達が寄付をしている、メゾンの高級娼婦にだってこんなことはできない。
何故なら、彼女らは職業を持っているからだ。
悩んだ末、侯爵を自由の身にするようにという申し出をしたが、それをたやすく受理するほどバスチーユの看守は甘くなかった。
同時に、何故か、彼自身が外に出たがっていないということがわかった。
理由は病気で長くはないらしい、そして彼には敵がいた政界、貴族達に敵も味方も大勢だ。
悪行を行いながら善行をしていたのだ。
「フロロー司祭様、面会の申し出が」
それは予期せぬ出来事だった、投獄されたヴァレンティナ侯爵に会いたい人間がいるが許可かでない、口添えをして欲しいという。
今まで、彼の愛人達でさえ、こんな申し出補してきたことはない。
どういうことだと不思議に思ったのも無理はない。
だが、話を聞いて驚いた。
面会を求めたのは娘だという、納得した。
家族、親兄弟とも縁がなく天涯孤独の侯爵に娘がいるなど聞いたことがない。
愛人なら大勢いる、だが娘とは。
隠し子か、それとも秘密裏に養女を。
実の子供だとしても難しいかもしれない、教会の自分から口添えしたとしてもだ。
だが、ここで恩を売っておけば死後の寄付にも事が有利に運ぶかもしれない、正直、この浅ましい考えに、なんてことをと思ったが、娘に会って驚いた。
牢屋の看守、バスチーユの責任者が許可を出さなかったのは無理もない、娘と名乗る女は似ているところなどない、見た目からして外国人だとわかる、歳は幾つだ。
しばし、フロローは唖然とした。
娘だと名乗る女の隣には真っ赤なドレスの艶やかな美女、有名な女優、侯爵の愛人がいた。
それから半月後、男は亡くなった。
「女優と犯罪王」
侯爵が亡くなり、会う事はないだろうと思っていたのに自分を訪ねてきた女優にフロローは驚いた。
女性の美貌は、あの頃とは少しも変わらずだ、錬金術、いや、ジプシーの怪しい薬で飲んでいるのだろうか。
女優は、いきなり罰具の中から小さな箱を取り出した。
「ルーヴェル美術館の碧の紅玉を、ご存じでしょうか」
元々は侯爵家のものでしたと女優は話し始め、箱の蓋を開ける、。、中に入っていた、それを見てフロローは言葉を失った。
「寺院に寄贈したいと思います」
女優は真剣な顔で話し始めた、条件は教会の庇護だという。
だが、そんなことを言われても、すぐには答えが出せなかった。
「この宝石に金額的な価値はありません、いえ、つけられないといったほうがいいでしょう、ですが、本物を持っているということが大切なのです」
「では美術館のものは」
女優は、にっこりと笑いながら精巧なレプリカですわ、勿論、ご存じですと、そして、他の方は了承してくださいましたと小声で囁くように言った。
「他の、いったい」
「近いうちにですが、私、巴里を発たなければなりません、欲しいのは証明、いえ、市民権ですわ」
フロローは悩んでいた。
条件は市民権、巴里の住民権が欲しい、それも一週間のうちにという、しかも、外国人の永住権、正直、簡単な事ではない。
いや、希望すれば外国人でも巴里市民になることができる。
だが、その本人に五年以上の滞在期間がない、証明することができないと言われてフロローは難色を示した。
自分の立場と地位と持ってすれば不可能ではないだろう。
だが、その住民兼を欲しているのはマルキド・ヴァレンティノの娘だという、バスティーユで亡くなった男の娘だ。
最初から嫌な予感がしたのだ。
値段のつけらけれない紅玉と呼ばれる宝石を寺院に進呈したいというのも納得がいくというものだ、答えは決まっている。
だが、話を持ちかけてきた、あの様子を思い出すと腑に落ちないものがある、どこか余裕があった。
他の方はという、どこか含みを持たせた言い方が気になる。
ヴァレンティナ侯爵家の紅玉と呼ばれる宝石は一つではない、きっと他の者にも、この話を持ちかけた筈だ。
そして、条件のいいところで手を打ったかもしれない。
その日、探偵は倫敦を友人の医者にも告げず、一人で訪れた。
有名なオペラ座でカルメンの舞台鑑賞、巴里の教会や寺院を訪ね、最後にはブローニュ間の森やセーヌ川の流れを見ながら散歩となると、男の性格を知っている男なら信じられない行動だったかもしれない。
だが、彼は悠長に巴里見物を楽しんでいるワケではなかった。
その鋭い視線の先には二人の男女、一人は女優、もう一人は犯罪王と呼ばれる男の姿があった。
「首切り男を始末してくれたでしょう、お礼をしなければ」
「犯罪といえども美しくなくては、あのような下品な」
「そうね、貴方は優雅だわ、少し芝居かがっているけど」
女優は笑いを漏らした後、話を戻しましょうと小さく呟いた。
男が頷くと女は腕を絡めてきた。
「巴里に住みたいと、でも、倫敦警察が口を出してきたら」
「外国人、身元が証明できない、確かに不安でしょう」
「最初は倫敦に探偵に話を持ちかけるつもりだったけど」
男は立ち止まり、隣の女の顔をじっと見た。
「ホームズという男は確かに頭も切れる、頼りになる、だが、現実主義でロマンを介さない男だ、そして敵に回ると面倒だ」
「敵になると、おっしゃるの」
「侯爵の娘、存在を否定するでしょうな」
「では、あなたは」
男は頷きながら、かすかに目を閉じた。
獄中で亡くなった男とは面識があった、自分も悪人だが、あの男自身も悪人だったから互いに通ずるものがあったのかもしれない。
投獄されると噂を聞いたときは驚いたが助けようという気にはならなかった。
本人は望まないだろうと思ったからだ。
ところが、驚く事に男から連絡があった、そのときまで男には大勢の愛人がいたことは知っていた。
だが、娘の存在は、そのとき初めて知ったのだ。
「最初、話を聞いたときは、まさかと思いました、だが、彼女の知識や言動は、明らかに違う、ジプシーや錬金術師の噂を聞いた事がありますか、決して多くはないが、存在するんですよ」
「妖精が取り替えたと、神隠しとか、戻れたんでしょうか」
「さあ、私もそこまでは、ところでマダム、猟犬には気をつけたほうがいいですな、後ろをご気づかれないように」
バッグからコンパクトを取り出して、化粧を直しながら女はにっこりと笑った。
「まあ、珍しい」
驚いたというよりは楽しそうに女優は男を見た。
「貴方の選択は正しい、マダム、そのまま気づかれないように、私たちの後ろにいますよ、猟犬がね」
女はバッグから小さなコンパクトを取り出すと、そこに映ったものを見て静かに笑った。