最近、外国の芸人などがパリの街に来て道端で歌や踊りなどを披露し、日々の稼ぎを得ているらしい。
数年前、パリではジプシー達に対する風当たりが強くなったことがあった、連中が芸で歌や踊りだけでなく売春行為を行ったせいだ
そのせいでフランス病が広まったといってもいい。
厄介なことにジプシー達は自分達の調合した薬を飲めば病気にはかからないと言ったことが引き金となり、病気がおさまるまでに時間がかかったのは当然だ。
強い効き目を持つ薬草の中には、公認されている阿片や麻薬などよりも効き目の強いものがある。
風邪薬と言われて飲んだところ、命を落としたという話も少なくないのだ外国人の芸人達に対して警察、教会が不安を抱いたのも無理はなかった。
売春なら許可証がいる、これは巴里市内では合法だだ、だが芸を売るのに、それが必要だと言ったら反発する者も出てくるだろう。
ましてや相手が外国人なら尚更だ。
外国の劇団、劇場が来ているという噂を聞いて探偵は午後になると街へと出掛けたが、何故か、彼が見たいと思っているときに限って、お目にかかることができない。
ところが、今日は、ある人物に出会ってしまった。
「やあ、エリック」
振り返った男は不愉快といわんばかりの顔だった。
たとえ仮面で素顔が半分しか見えなくてもだ、だが探偵は気にする様子もなく近づいた。
仮面の男は、どうして、ここにいると怒ったように尋ねた。
芝居見物だと素っ気なく答えた探偵に、相手は帰ったのかもしれないなと答えた。
警察だけでなく、探偵まで見物に来るからなといわれても探偵は嫌みと気づかないのか、知っているのか、残念だなと呟いた、そのとき、音楽が聞こえてきた。
外国の人間、もしかしなくてもジプシーのような放浪の民だろうか。
いったい、この巴里の治安はどうなっているのだ、どちらにしても確かめる必要がある。
場合によっては他国の人間でも相応の罰を、監獄は無理だろうが厳重に注意して国外退去を申しつけることも考えなければとフロローは考えた。
今まで聞いた事のない音楽だったのか、不思議な形をした笛や楽器の音色に道行く人間が足を止めて見ている。
だが、その顔、表情は固まっていた、いや、不思議なものでも見るような感じで一定の距離を取り、遠巻きに見ているのだ、無理もない。
これが放浪の民、ジプシー達の音楽と踊りなら、もっと違った別の反応、手を叩いたり、声をかけたりするだろう、いや、そうしたかもしれない。
だが、殆どの者が異国の音楽など、初めて目にするのだ、戸惑いを感じたのかもしれない。
音楽が終わってもだ、しんと静まりかえっていた。
ところが、その静けさの中、突然、拍手の音と歓声にも似た言葉が静寂を破った。
周りの人間達は皆、だが、それ以上に演奏が終わった外国人達も、この拍手に幾分か戸惑っている様子だった。
だが、賞賛の拍手ということがわかったのだろう。
「グラッツェ、ダッヴェーロ、ありがとうございます、それから」
一人の芸人が大きな声、そして色々な国の言葉で礼を述べた。
ところが。
「警察だあっ」
「逃げろ」
「犬が来たぞおお」
突然、男女の悲鳴が響き渡った、芸人達だけでなく、これには周りの人間達も驚いたように、散り散りに逃げ出
だしたのはいうまでもない。
「なんてことだ、まったく芸術を理解しようとしない馬鹿者ばかりだな」
仮面の男は呆れたように呟いた、警察が出てくるとはと世も末というやつだと苛立ちと悪態をついていたが、突
然、目の前の男に、その苛立ちをぶつけるような視線を向けた。
何故、自分の目の前に居るんだといわんばかりに。
だが、探偵は気にする素振りも見せず全員ではないよと答えた。
「拍手を下人間がいただろう」
すると仮面の男は黙りこんだ、思い出したのだろう。
少なくともといいかけた探偵だが、その言葉が途切れ、仮面の男がどうしたと問いかけるまもなく彼は、ほんの
少し先の建物に向かって歩き出した。
「お困りですか、どうされました」
建物の間の細い通路には、頭からすっぽりとフードを被った一人の人間がいたが、その様子は明らかに身を隠している感じに見える。
そのとき笛と大勢の人間の声が聞こえてきた。
「警察だな」
仮面の男の呟きに探偵は小声で囁くように声をかけた。
「警察の手が出せない、絶対の場所があります、相手が犯罪者であっても」
特別な聖域ですからと説明しながら、探偵は歩き出した。
そして、仮面の男も何故かついてきた。
「あの連中は逃げ出したようです、今度、見つけたら警察に引き渡しましょう」
若い僧侶の言葉にフロローは落ち着きなさいと声をかけた。
確かに警察が来て逃げ出したこと良いことではない、後ろめたいこと、たとえば不法入国者でないかと疑いを持たれたとしても不思議はないだろう。
だからといって、最初から頭ごなしに決めつけて行動するのは短絡的ともいえる、その言葉に若い僧侶は恥じらうように顔を赤らめた。
思慮深い考えと行動をする年上の聖職者相手に自分の発言がどうとられたのか、そんなことを思ったのかもしれない。
寺院に戻ると参拝者の姿は殆どないことに気づいた珍しいことだか、街中で色々な見世物が始まっているので無理もないだろう。
自室に戻ろうとしたフロローだが、思わず足を止めたのは、この寺院に不似合いな者達を見つけたからだ。
ときに、罪を犯した人間が助けを求めて飛び込んでくる事もある。
決して歓迎できる事ではないが、どんな人間にも救いは必要だとフロローは考えていた。
二人の男性は見るからに普通の下町の人間には見えない、そして、もう一人。
頭からフードで全身を隠しているので男か女かさえもわからない。
椅子に座り、見られたくないといわんばかりの様子に何かを感じてフロローは声をかけた。
「どうかされましたか」
すると鷲鼻の目つきの鋭い男が答えた。
「大丈夫です、司祭様、ご心配には及びません」
「そちらの方は」
フロローはもう一人の男に声をかけた。
仮面をつけている、この時、初めて気づいたオペラ座の支配人だと気づいた。
自分が声をかけたことを快く思っていないのは、その表情から明かだった。
だが、ここでは身分や地位などは関係ない、皆が平等で、神に仕える者に対してフランス国民は敬意と尊敬を持って接している。
自分の中で覗き書けた深いな感情を押し殺すようにしてフロローは立ち去ろうとした。
「わ、わたし」
その声にフロローは振り返った、勿論傍らに立っていた二人の男も驚いたようだった。
「罪人じゃない、です」
不安と怯えが感じられる声だったが、それを証明するようにマントを取った相手に、三人の男達の目が釘付けになったのは、目の中に飛び込んできた白、白い髪があまりにも衝撃的だったからだ。
一瞬、老婆かと思ったが、その顔立ちは若い女のものだった、不安そうな黒い目が三人の男を見ながら何か言おうと口を開きかけたとき、扉の開く音がした。
近づいてくる足音、相手を見て探偵の顔が強ばったが、それはすぐに別の表情に変わった。
「まったく、彼女は分かっていない、じっとしていろというのは酷というものだ、アイリー・アドラーから頼まれたのだが、わかるかい」
白い髪の女は男の顔を不思議そうに見たが、その顔には少しずつ表情、いや、感情が見えてきた。
男は胸のポケットから一枚の封筒を取り出した。
「滞在許可証だよ、少し時間がかかったが、表に馬車が待っている」
その言葉に、椅子から立ち上がり近づいた女はゆっくりと手を伸ばし、受け取りながら相手をじっと見た。
「あなた、教授、モリアーティ教授」
男は笑い出した、これで私はしばらく巴里にいられなくなると言いながらも、それはどこか楽しそうな顔だった。
「行きなさい」
女は立ち上がると歩き出そうとしたが、振り返り、そこにいる全員を見た。
「ありがとうございます」
誰に向かったの言葉なのか、そしてモリアーティという男が楽しそうに唇を緩めて笑った。
「ホームズ、それから御友人も、しばらくはそのままで、彼女が出て行くまで、そう十分ばかりだ」
「モリアーティ、何故」
「犯罪者の私だが、ここでは善良なフランスの一般市民でありたいと願うよ、心から」
「では、彼女は」
「彼女もだよ、私と同じと思ったかい、いいや、外国人、髪の色が、それは偏見というものだ、司祭様、貴方は罪人を匿ったわけではないのだ」
男は皮の財布を取り出すと、それを司祭に手渡した。
「善良な市民からの、初めての、そして善行です、受け取って下さい、ああ、そろそろだな」
首から下げた時計を取りだして、時間を見ながら男はごきげんようと背を向けた。
そして、犯罪王は去って行った、巴里から。