うーむ、なんだか愛が溢れまくりです。
台所で湯を沸かし、お茶の支度をする、何かしていないと気が紛れないからだ。
警察に行ってくると姉で有り保護者代わりの女優はすぐ機器に連絡がつくようにとメイドを連れて出ていった。
多分、すぐに戻ってくるとことはないだろう、通いの召使いは昼間だけなので今、館には自分と三人の男達しかいない。
庭に現れた不審者を見て自分が声をあげたことがこんな騒ぎになるとは、彼女は思ってもみなかった。
裕福な家だと思って盗み似入った泥棒だとしても、こんな時間に警察に行かなくてもと思ったが、女主人は、そうは思っていないようだった。
だから、自分がいない間、妹を頼むと慌てて出て行ったのだ。
お茶は濃い目がいいのだろうか、寒くはないが、ブランデーで香りづけ程度に入れた方がいいのだろうか。
そんな事を考えていると台所の開いた、顔を出したのは仮面の男オペラ座の支配人だった。
「今、お茶を用意しているところなんです、何か甘い物もあったほうがいいですか」
マフィンとクランペットが棚に残っていた筈だと女は棚の扉を開けた。
「いや、空腹では亡いからお茶だけで結構」
これで自分だけが食べるのはと思っていると、オペラは嫌いかかねと声をかけられた。
「いえ、嫌いではないけれど」
自分は今まで劇場に足を運んで舞台や音楽劇を見たことはないからと女は遠慮がちに呟いた。
「大道芸の舞台とか、気軽に見られるけど」
「拍手をしていた」
仮面の男の言葉に女は不思議そうな顔をした。
「外国人の一座に拍手と歓声を上げた人間がいた」
その言葉に女は、その人は外国人と呟いた。
すると、君はどこの国の人間だねと男が尋ねた。
仮面の男は純深い意味など亡かったのかもしれない。
「病気で記憶を失って何も覚えていないんです、本当ですよ」
ああ、それはと男は何か言葉を飲み込むようにして、嘘だとは言っていないと女を見た。
「髪の色も」
「最初は驚いたけど慣れたし」
この女も周りから奇異な目で見られる事が、そんな事を考えていると貴方はと言いたげな女の視線に男は気づいた。
「普段から仮面をつけて」
「ああ、怪我をしていてね、見たいかい」
普段ならそんなことを自分から口にすることはない、いや、クリスティーナにさえ。
「本人が隠していたいと思っているのに」
他人の秘密を覗くなんてと言われて仮面の男は笑った、いや、恥ずかしくなったといった方がいいかもしれない。
だが、そんな男の心情など気づいてもいないのか、女は棚の前に立ち、悩んでいる様子だった。
そのときドアが開き探偵と司祭が入ってきた。
「何かお手伝いを」
女は慌てて首を振った、司祭様にお手伝いなどと言いながら、突然何を思ったのか、何色が好きですかと尋ねた。
意味がわからず、司祭は何がと言いたげに驚いた表情をしたが、青色と答えた。
「ブルー、青、空の色」
棚から取り出した青色のカップを見ると女は嬉しそうに笑い、探偵と仮面の男にも尋ねた。
外国へ仕事に行くと自分の為に女優がカップを買ってくるのだという、外国のものというだけでも珍しく感じられる、いや、それだけではない。
「探偵さんのはインドの素焼き、飲むと地面に叩きつけて割ってしまうんです、素焼きだから土に返すんです、支配人さんのはボーンチャイナ、牛の角を粉にして焼いているから落としても割れにくいんです、それから司祭様のは大陸で偶然見つけたもので青色が綺麗で私も気に入っています」
「ああ、とても美しい」
カップをわずかに持ち上げてフロローは、うっとりとした顔つきになった。
机の上に置いたカップをフロローはじっと眺めながら、数日前の夜の事を思い出していた。
「良かったら差し上げます」
カップを眺めていた自分の表情と視線に、彼女がどうぞと言ってくれたので好意として受け取ったのだが。
それを今になって少し後悔していた、自分はどんな顔で、このカップを見ていたのだろう、そう思うと恥ずかしさを感じる。
欲が決してないわけがない、ただ綺麗だと思った、それだけなのだ、単純に、だからといって。
「あ、あの、お客様です」
部屋に入ってきた若い僧の表情が緊張していることに気づいたフロローは、こんな朝早くに誰だと思いながら迎え入れた。
部屋に入ってきたのは意外な人物、ジャベール、巴里警察の中でも腕利きと言われる男だ。
部屋に入ってきた長身の男は一礼すると、こんな時間にすみませんと声をかけた。
この男に捕まった犯罪者は不幸だと皆から言われている、まるで猟犬のように一度追いかけたら止まる事をせず犯人を追い詰めるからだ。
「実は、司祭殿は三日前の夜、ヴァレンティナ侯爵家にいらしたと聞きました、そのことでお伺いしたいことがあって参ったのです」
「夕食に招待されたのです、いえ私以外にも」
「存じております」
「不審者が庭に入りこんだと聞きました」
「そのことですか」
フロローは思い出した、あのとき、彼女は気丈に振る舞っているように見えたが、犯人に関しては何も言わなかった。
「犯人は顔を隠す為に、頭から袋を被っていたらしいのです」
では犯人を見つけるのは簡単ではないだろう、このとき、フロローは不思議に思った。
ジャベールの顔が酷く怒りに満ちているのだ。
この男は正義に対して強い信念を持って居る、そして法を犯す者に対して情け容赦ない。
今までに大勢の犯罪者を捕まえてきた、だが。
「警察は、いや、貴方は犯人に心当たりがあるのですか、ジャベール警視」
返事はなかった、だがこの時、フロローは思い出した。
もしかしてと思い、もし、そうならと、ある男の名前を口にした。
「ジャン・バルジャンでは、ありませんか」
沈黙が、こんなにも痛く感じられるとは思いもしなかった。
ジャベールはわずかに顔を伏せると、司祭様に見抜かれてしまうとはと小さく呟いた。
「マダム・アドラーに仕返しするつもりだったのでしょう。だが、彼女にはなかなか手が出せない、だから、妹さんを脅したのでしょう、いや、殺すつもりだったのかもしれません」
「まさか」
「侯爵家の近くで鞄が見つかりました、偽の旅券証書とナイフが見つかりました、よほど慌てていたのでしょう」
ただの不審者が庭に入ってきたのだと単純に思っていた、女主人も彼女も、そう思って居たのだが、違うのだろうか。
目の前の男は何か知っているのだろうか。
「仕返しというのは、どういうことです」
少し考えこむような顔をしたジャベールだったが、いずれ分かってしまうことだと思ったのかもしれない。
相手が司祭、聖職者であることに遠慮したのか、二人は親密な仲だったのですと話し始めた。
「彼女が侯爵の愛人になる前のことです」
親密と言ったのは相手が何か知っているのだろうか。
自分を捨てたことに対する恨みで、だが彼女が愛人になったのは随分と前のことだ、侯爵は亡くなっている。
ずっと、恨んでいて今になって仕返しというのも納得がいかない。
「あの男にはコゼットという娘がいました、実の子ではありませんが、その娘が自殺したことも関係しているのでしょう」
「自殺、ですか」
「侯爵の取り巻きと仲良くなったのですが、若い娘で色恋に悩んでいたのでしょう」
「自殺とは」
神に対する冒涜ですとジャベールは同情すら見せずに答えると静かに部屋を出て行った。