ストライクあべこべウィッチーズ 作:8782
女がいた。
部隊の長に与えられる執務室の中、軍上層から送られてくる細々とした任務や経費などについて書かれた書類とにらめっこする女がいた。
軍だけに限ったことではないが、現場を知らずにあれこれと口出しをしてくるお上(かみ)と、実働部隊として命を賭けて砲煙弾雨の中死線を潜り抜ける下との間では否が応でもその認識に齟齬が発生してしまう。
彼女が見ているのは、その立場からすれば随分と現状を楽観視――あるいはそれも上層部からすればにっちもさっちもいかず、補給にしても人員にしても心苦しく思いながら絞っているのかもしれないが――していると言わざるをえない内容の書類の束だった。意識せずとも自然眉間に皺が寄ってしまう程度には。
どんどんと切り詰められていく補給物資の中、士気と前線を維持することは生半可なものではない。彼女自身も細心の注意を払っているが、ここはネウロイとぶつかり合う戦場の第一線、まさに地獄の釜の蓋、その寸前に位置しているのだ。いつなんどき流れ弾に当たって部下が死んでもおかしくない。監視の目を掻い潜って基地が爆撃を受け、後方支援を担当する兵が命を落とすことも有り得るかもしれない。憂いは出来る限り断つべきだ。そのためには補給や命令に関しては現場と上層部、その完全なる同調が望ましい。……無論、既に人類にそんな余裕がなくなりつつあることは、賢い彼女ならば分かりきっていることなのだが、それでもそんな考えを抱かずにはいられない。
しかし、果たして今この困窮した現状の一端は己にもあると彼女はその強い使命感から自責している。軍人なのだ、我々は。人をネウロイの魔手から守ると決心したその日から、既に弱音の虫は駆除したはずだ。自分たちが押されれば押されるほど、その災禍は後背に控える無辜の民にまで降りかかる。物資が減っているから、どうした。まだ幾らかの余裕は存在する。それもやがて淡雪のように消えていってしまう儚いものだったとしても、女は前向きに捉え、自身の心が挫けぬよう叱咤した。
大体の文章が彼女の精神をマイナスの方向に追い詰めるものだったが、その中にも一つだけ、いい知らせが混ざっていた。……いや、いい知らせと言っていいものなのか、小首を傾げたくなるところではあるのだが、ここは素直に受け取ろう。いい、知らせだった。
内容は人事に関して。どうやら此処に一人、衛生兵の増員が認められたという話。……宮藤芳佳という見習いながらも治癒魔法を持つ彼女がつい最近部隊に加わったばかりだというのに、更に衛生兵を補充する必要があるのか。そもそもこの隊はその性質上被弾率自体高くなく、他の部隊と比べて余り衛生兵という兵科を要としてるわけではないだとか、需要と供給がずれている内容なのだが、そういった大き《ちいさ》なことは脳の片隅に追いやって、とりあえずは部隊に一人、仲間が増えたことを祝おうと彼女は早速人事に関する書類を取り出した。
「一之瀬《いちのせ》……光《あきら》さん、ね。男性っぽい名前だけれど、確か美緒が言うには『アキラ』という名は扶桑では男女ともに使える中性的なもの……だったかしら。後で聞きにいかなくちゃ」
履歴書の名前欄を視線で追い、彼女はついで貼り付けられた写真を見た。……見て、しまった。
「……」
彼女は一度、履歴書を机の上に置いた。ふぅ、と一つ息を吐いて、椅子の背もたれに体重を預けてだらりと首を天井に向けた。ぎしりと椅子が抗議の音を立てる。常日頃はすることはない、少しだらしない姿を彼女は無意識の内でとっていた。
「……随分」
誰がいるわけでもない、彼女一人ぼっちの執務室に、女の言葉が空虚に響く。
「……その、男性、っぽい、顔、立ち、だった、わね」
彼女しかいないのに、言葉に詰まる理由はないのだが、そもそも独り言を喋る理由もないのだが、兎も角、彼女はこれ以上ないほど動揺していた。
女性だ。補給人員は女性のはずだ。それしか存在しないはずだ。前線に数少ない男性を差し向けるなぞ、国家的な損害である。なのでつまり、私が今見たものは、凄く男性的な顔をした女性である。証明完了。
彼女にとって非の打ち所のない完全無欠の理論武装であった。頭の中ではそうして明確にケリをつけた。まさか身近に、一切男っ気のない女所帯に、男性という名のオアシスがやってくることなど有り得ない。それは夢想であって希望にしてはいけない。人は希望が大きければ大きいほど、その反動として希望が裏切られた時により巨大な絶望がやってくるのだから。だが、頭で理解していても身体が言うことを聞かない。今一度履歴書を確認しようとする彼女の手は、自身でもびっくりするほどガタガタと震えていた。今この手でコーヒーカップを持ったら盛大に顔に引っ掛けるだろう。というか最早全身コーヒーまみれになる。間違いない。
震える右手を左手で無理矢理抑え込んで、彼女はどうにかこうにかもう一度履歴書を持つことに成功した。履歴書を手で持つ、それだけのことなのに、途方もない難業を果たしたような達成感に見舞われた。自分自身に勲一等を与えたっていい。
目を閉じる。確認すべきは性別欄だ。さっき見た時は一瞬ちらりと「男」の部分に丸がつけられていたような気がしないでもなかったが、それはやはり目の錯覚か見間違いだろう。あるいは一之瀬という「女性」が相当なうっかり屋さんだったとか。このーおっちょこちょいめー。
……実際、既にこの時点で彼女は結構キていた。テンションが明白に愉快なベクトルを指している。此処は磁気が乱れた樹海の中かと言わんばかりに彼女の方位磁針が三百六十度ぐるんぐるんと激しく動いていた。
そして、彼女は、目を、開けた。
「……」
時間にして、優に三分間、彼女は静止状態を保ったまま、「男」の部分につけられた丸を凝視していた。その間一度も瞬きをせず、ただじっと、彫像のようにその一箇所を見ていた。
次に彼女は、視線を名前の部分に戻して、「一之瀬光」という四文字を再び凝視しはじめた。此処に費やした時間は都合十分。目が、みるみるうちに充血していった。
最後に彼女は、視線を写真部分に戻した。そこには一人の男が写っていた。重要なことだからもう一度言おう。
そこには、一人の、男が、写っていた。
なんていい響きなのだろうと、彼女は静止した世界の中でその言葉を何度も何回も脳裏の中で反芻した。正しくは静止しているのは彼女であって、世界が静止しているわけではないのだが、今の彼女にとってそんなことは至極、とてつもなく、果てしなく、どうでもいいことだった。それよりもその素敵な言葉の響きである。「そこには一人の男が写っていた」。嗚呼、何処までも甘美なその言葉。オスカーワイルドだってこの文字列に敵う詩は作れないと彼女は信じた。
果たして彼女がその写真を眺めていた時間はどれほどだったろうか。三十分、一時間、一日、一週間。逆に涅槃寂静にも満たない秒数だったのかもしれない。あるいはその両方。その両方とは一体なんなのか、それは彼女にしか分からない哲学だった。
そして、彼女は履歴書をそっと、うやうやしく、まるで世界遺産に登録された聖骸布を扱うかのごとく、一切の傷と皺、染みをつけないよう細心の注意で机に戻した。それこそ、愛用する銃器の手入れよりも繊細に、だ。
椅子から音もなく立ち上がる。
窓から外を見る。陽光は暖かく、柔らかい日差しでもって彼女を包み込んでいる。外でちち、と囀っているのは雀だろうか。可愛らしい声を聞かせてくれる。
彼女は、いよいよもって自分が壊れたのだと確信した。
明日にでも、いや、出来ることなら今日にでも休みを貰おう。疲れが溜まっていたのだ。自身でも分からないところに蓄積されて、今この瞬間に堰を切ったように溢れ出してきたのだ。だからこんな幻想を視るのだと、彼女は考えた。
腐っても、いや、他人から見れば彼女の戦果はエースオブエースと言っても決して過言ではない。自らの口から言うのは謙遜の念から憚られるが、彼女――ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ――は名実ともに女傑であり、英雄であった。そんな人物が「ああ、自分は疲れている。これ以上の労苦を背負えば、きっと壊れてしまう」と思う程度に、一之瀬光という人物がもたらした衝撃は多大なものだった。
■
扶桑海軍所属、坂本美緒は上司であり友でもあるミーナから基地内放送で執務室への出頭を命ぜられ、そこに向かっていた。
「ミーナ、坂本だ。入るぞ」
扉をノックするや応答を待たずにドアを開け、ノックした意味を無くしながら彼女は執務室に入った。
「どうした。一体何の用……本当に一体どうした!?」
執務室の中央に、ありとあらゆる人生の辛酸を舐め終えたようなうらぶれた表情と、今際の際にルーベンスの絵画を見ることが出来た多幸感に溢れた表情が同居していた友人に、美緒は驚愕の声を上げた。
「ああ、美緒。よく来てくれたわね。その、一つだけ頼みがあるんだけれど、いいかしら」
「構わんが本当にどうしたんだその表情。形容しがたい顔になっているぞ」
「あのね、私、どうにも疲れが溜まっているみたいで、書類を正確に読めないのよ。絶対に間違っているはずなのに、それがどう見ても正しいの。何を言っているか分からないかもしれないけど、とりあえず見て貰えれば必ず私が言っていること理解できるから」
くるりと美緒の背中にミーナは回り、さあさあずずいっと、と言わんばかりに背中を押す。無論目的とするものは、未だ机の上に置かれているアレだった。
「全く、こんな紙きれ一枚がどうしたって……」
一之瀬光の履歴書に気安く触れて、何の変哲もない何時もの書類だろうとしていた美緒の脳が光の速さで書き換えられていく。読む。目を通す。見つめる。睨む。試しに陽に透かしてみた。内容は変わらない。不思議だ。
何度も何度もその動作を繰りかえし、都合十回ほどループを繰り返した結果、坂本美緒は快活に笑った。
「はっはっはっ! いやあ、なるほどな! ミーナ!」
「分かってくれたかしら、美緒」
「いやよく分かったとも! はっはっはっ!」
美緒はミーナと肩を組み、笑いながら組んだ手で肩をばしばしと叩いた。美緒が笑っている。ミーナも笑っていた。おかしかった。二重の意味で、彼女たちはこの空間をおかしく感じていた。
「はっはっはっ」
「うふふふふふ」
「はっはっはっ」
「うふふふふふ」
「はっはっはっ」
「うふふふふふ」
「よしミーナこれは夢だ烈風丸で私を斬れそうすれば目も覚める」
美緒は快活な笑顔を浮かべたまま腰に佩びた愛刀を友に渡し、叩っ斬られてみようと試みた。