お題は晩霞(http://www11.plala.or.jp/harutake/banka/banka_top.html)より。
梅が散り桜が満開の兆しを見せはじめた一日。自身が所用あって司書室を訪ねると返事がない。溜息を吐いて勝手に開く。いないかあるいは倒れている可能性は十二分に考えられたからだ。
森はあの若い司書の不器用さに思い至れば息を吐いた。着任して今なお力の配分の下手な司書だ。またアルケミストの力を暴走させているかあるいは倒れているか。このところは夜遅くまで私室の灯りが消えていないこともあったし(なぜそれを知っているかは野暮というものである。彼もまた「別件」で起きていたのだ)研究や報告書の進行。特に先日の坂口安吾研究の失敗については司書が最も肩を落として無頼派の2名に謝っていた。またへたに頑張りすぎていないだろうか――
「――」
扉の隙間から涼しい気が一瞬通り過ぎる。森が振り返った先にはそれは1枚のサクラの花弁になって落ちていた。
なんだ。今のは。そう思いながら拾うサクラの花弁はごく普通に見えた。……否。文字で形成されている。拙い字で書かれたそれは必死で「サクラの花弁」を形成していた。それを握りいよいよ扉を蹴飛ばし槍を取り出す。
「司書。無事か!」
雪崩れ込んだ司書室。そこには誰もいなかった。
サクラは見えるが窓も開いていない。ただ採光が悪く常に部屋の電灯を点けたままの司書室で机の電気スタンドも点けたままだった。それを薄墨の目が瞠る。
机に載った原稿用紙。分厚く重なったそれが黒く塗り潰されつつある。漏れている霧も時折散り落ちる花弁も黒く染まりつつあった。
「えっ。なにかありましたか」
それを凝視していた最中。声が聞こえたらしい。のんきに茶とリンゴの羊羹を2人分持ってきた青年が立っていた。顔色は良い。元気そうなのはよかった。それならば問おう。槍を構えたまま入り口で立ち往生の司書に尋ねる。
「司書。あの原稿用紙はどうした」
盆をどこかに置こうとしていた司書は事態に気付いたらしい。自身を掠める霧やサクラにはたと碧眼を瞠った。そして今度は青ざめて森に叫ぶ。
「――それよりもその原稿を読んでたはずの花袋先生は司書室にいらっしゃいませんか。今日の助手なんです」
森が息を飲んだのは同時だ。森が訪ねてきたのは将に彼がその理由だった。しかし花袋の姿は陰も形もなかったのだ。
東京に出ていた若い作家。彼は故郷の村を嫌っていた。故郷にはとある因習がありその記憶が彼を苦しめる。しかし作家としての仕事で彼は編集に付き添われ妹や友人と共にかつての村を訪れる。そこはサクラの季節。霧と共に人が攫われる霧隠しの村だった……
「っていうあらすじの話の書きかけだったんですよ。昔書いて放置していたのを改めて書き直していたんです」
有魂書が急速に有碍書になった事例は以前にもあった。ただの原稿が有碍書に転ずることもあるだろう。ましてや書いていたのはアルケミストとしての力が潤沢なこの司書だ。ひとまず近くにいた太宰と織田を作戦会議に引き込む。あの原稿はひとまず司書室ごと封印。館長とネコが不在の今は司書が指揮を執るしかなかった。くだんの有碍書となったらしい原稿と田山花袋の行方について。場合によってはあの有碍書となった原稿に潜書して花袋を連れ帰ることも考えなければ。そう思ってのこの会議だった。無頼派だったのはたまたまそこにいただけだが太宰はそうは思わなかったようだ。何が起きるかわからないので常に鎌を肩に掛けたまま苦笑いする。
「安吾の作品は今じゃすっかり色んな小説のオマージュになってるってな。お前の話もその口か」
「本当……坂口先生の件については……」
「太宰くん堪忍したり。あれ縁やったやん。俺らも潜ったけど見つけられんかったしお司書はん責めてもしゃーないやろ」
「オダサク先生……」
「まぁ1日寝込んでた日の分栞が足らなかったことについてはちょっとだけ怒っとるけどな」
「堪忍したってくださいー!!」
「落ち着け。今は来なかった人物より今いる人物が消えたことだ。……花袋くんは原稿を読んでいたんだな」
無頼派と漫才をしている間にも森の雰囲気は暗くなっていく。それを察して3人とも顔を上げた。直に床に腰掛け槍を肩に置く森の背負う空気はまだ明るい時間帯なのに暗い。消えた今生の双つ魂とは昨夜体温を交わしたばかりだ。夜桜が美しい晩。自身の部屋からは桜がよく見える。それを自身の白衣を羽織った花袋は指差していた。
『先生の部屋からはよく桜が見えて羨ましいです。俺の部屋は日当たりはすごくいいんだけどただ中庭しか見えなくて』
『桜が見えるのは良いが枝が近いから偶に虫も入ってくるから良かれ悪しかれだぞ。それに君の部屋は君らしく温かくて良い部屋だ。夏にはあの部屋からヒマワリが見えるらしいぞ。司書も見る目がある』
そんな睦言を交わしていた翌日にこれだ。溜息も深くなる。それでようやく太宰も織田も司書の背中を押した。お前が話を聞けというスタイルだったが。司書は内心で腹を立てながらも実際に事情を知っているのは自分だから語り出す。
「えぇ。最近手直しをしながら書き直していて結構な量になっていたんですが……さっきも書いていたら花袋先生に見つかりまして。読ませてくれといわれたのでそれならお茶にしようと席を立ったんです。そうしたらもうさっき森先生が」
「普通の原稿から急速に有魂書どころか有碍書化か。お司書はん。どんな精神状態でその原稿書いてたん」
「よっぽどアレだろ。鬱々してただろ」
「……否定はしませんね。家庭内でクソ忙しい時期に詩を書いたら高校3年間で2回受賞した作品のうちのひとつを元にしたのですからね。文学は人の苦悩を喰う生きものって本当ですよね」
「ドンマイ」
「ひとまず有碍書になる条件は揃っていた訳か……問題は有碍書も有魂書も入るときは司書の許可が必要だってことだよな。生きてる人間の司書の作品なら田山はどういう形で取り込まれたかが問題だよな……」
膝を抱えた司書の青い目が遠くなる。無頼派2人が彼の頭を撫でながら森にいう。森も肯いた。将にそれが問題だ。
漏れ出ていた霧とそれから形を成すサクラの花弁。恐らくあらすじを聴く限り物語の象徴だろう。それが徐々に黒くなっていっていたのが問題だ。ひょっとしたら完成していない。それも未熟な司書の作った作品ということで枠らしい枠もない。文豪に簡単に出入りできるのでは。森が立てた計算に頭を撫でられSAN値を回復した司書は肯いた。
「正直まだ物語の最後を決めかねていますからね。そこの隙から花袋先生が引きずり込まれたかあるいは……勝手に入り込んだか。問題なのはこのまま有碍書化して花袋先生が出て来られなくなることです。なので……」
「その前に俺たちが花袋くんを引きずり出せばいいんだな。任せろ」
「おう。俺らも安吾と遊ぶつもりの体力持て余してたからな!」
「太宰くん。またお司書はん落ち込んどるから」
「……それで司書。失礼なことだと承知の上だが」
床に失意体前屈をする司書の前に立ち上がり床に槍の石突きを置く。それに顔を上げた司書に自身はどんな表情をしていただろう。森は尋ねた。
「あの原稿用紙……有碍書の中にはどんな敵がいるか。あるいはどんな状況か。できれば弱点になりえるものなども情報が欲しいのだが」
「最大の特権ですね。作者が生きてることの」
鼻を啜る司書は織田にちり紙を差し出され座ったまま鼻をかんだ。そしていう。
「そうですね。『霧』と『桜』。これら2つがモチーフです。そして佳境の決め手として決めているのは」
いいながら司書は懐からそれを取り出す。森たちは目を瞠った。普段から散々禁煙を唱えている彼の懐から取り出されたそれはどう見ても煙草と100円ライターで。
「火です。霧も樹も強い火でどうにかできますから。これで主人公は幼い頃の自分の身代わりとしていなくなってしまった妹を霧の中に咲く満開のサクラの群れから捜し出す訳です。村民からは不敬者として追い立てられますからその手段を使う場合は逃げる用意をしてくださいね」
「……なるべくその手段は使わないように気を付ける」
「北原先生だったら発狂するような手段やなそれ」
渡された煙草と100円ライターをポケットにしまう。2人にもそれぞれ火種を与えられる。そして3人で戦闘態勢に入ると司書室の扉を開いた。既に黒い霧が部屋中を満たしており司書が「書類が」と小さく悲鳴を上げた。その横を森たちが突入していく。
「それでは行くぞ」
花袋の元へ。
霧と僅かな花弁の源へ3名は飛び込んだ。
それはまだ明確な意思が与えられていなかった。しかし青き意思と意志がそこにあった。自身を描いたものがこの周りの見えない霧の中。永劫に咲き続け散り続けるサクラの森の中で自身はたしかに悪役としてこの作品の中に宿っていた。とはいっても半端な存在だ。この作者は捻くれている。真の悪役は化けものであり神である自身ではない。人間であり集団なのだとこの霧の中に茫漠とした意志として自分を身動きさせない。古ぼけた原稿として抽斗の中に仕舞われていたはずだった。しかしこのところになって急に引っ張り出され「外」には本の気配がたくさんするところでこのところは加筆されていた。それが嬉しい。さらに作者ではない誰かが読んでくれた――そこまではよかった。
その「誰か」が入り込んでからこの世界が浸蝕されている。それが不快で不快で堪らない。体表を虫がはい回っているような。不快なのは誰かが入って来たことよりもその前後の何かが切欠で入って来た黒い淀みだ。この世界は灰色と桜色でできている。霧がサクラをサクラが霧を模っている。それに黒い斑が入っているのが気にくわない。折角きれいだといってくれた人がいたのに。
――不意に背筋に寒気が走る。熱気。これは火の熱。
「……浸蝕者……ではないな。この物語の登場人物か」
「……誰だ」
咄嗟に重力を忘れ身を浮かせて樹に登る。その白い軍服の男は湿った黒髪に松明を持っていた。太い木の枝は服を破いたように見えた。それがなんだか妙に恐ろしいのは恐らくこの物語の結末に近いアイテムだからだろう。獣のように炎を恐れ桜の中からその男を見下ろす。
この男もあの「誰か」なのだろうか。
「この世界を荒らす気か」
「違う。……浸蝕は深刻ではないようだな。この世界の作者も安心する。それより君に聞きたい」
白衣の男は溜息を吐きながら炎を立てる。自分の鎮座している桜の木はこの森で1番大きい。その松明の炎を受けて徐々に霧が晴れていく。この世界の法則だ。この村の霧もサクラも火には弱い。
「君は会わなかったか。ヒマワリのような10代後半程の少年に」
「いるよ。疲れて寝ちゃった。お迎えに来てくれたなら回収して欲しい」
自身が体を退けて奥で寝ていた少年を見せる。この世界にはない色を抱えてきた少年は爽やかに笑っていた。「情景描写がきれいだったから観に来たかった」と。散々自分とお喋りをするとそのままこの桜の上で眠ってしまったのだ。
それを聞いた途端軍服の青年はしゃがみ込んだ。松明を地面に突き刺す。頭を抱えた。大丈夫だろうか。向こうから青年の声が2人分した。仲間だろうか。その中で背後で少年がむにゃむにゃと声を上げる。丁度良いので帰らせることにした。
「えーと。たやまさん。おむかえがきたよ」
「えっまじで?! うわ司書に悪いことしたなー……って森先生だ!」
「……他にも無頼派の2人が協力してくれたからな。あとで司書と一緒に説教だ。覚悟したまえ」
地を這うような声。美声だが怒ると怖いようだ。自身がしみじみと感慨に耽っていると「その前にちょっとそこで立っててください」とヒマワリの少年はそれを抱えた。この少年が最初にこの本の世界に来たときにやらかそうとして止めて代わりにあげたものだ。どうやら贈り主は彼だったらしい。少年はそれを抱えたまま松明を避けて青年の前に飛び降りる。丁度2人の青年が走ってくるのが見えた。
サクラの花びらが青年の頭から降り注いだ。
「はい先生。枝を折ろうとしたら怒られたんで代わりにサクラの花びらを集めました! きれいですよ。先生」
「……」
化けものとして神として設定されている自分でも今の青年の気持ちは何となく察し得た。駆けつけた2人の青年の顔もおもしろいことになっていた。
ひと言でいえば。田山花袋は「桜に攫われそう」ではなく「自ら桜に攫われた」のである。脳天にたんこぶを大きくひとつ作った花袋は騒ぎを聞きつけて司書室を覗き――霧と桜で濡れそぼったそこを見て発狂した鏡花が掃除に回る中で正座をさせられる。司書は原稿を抱え森は仁王立ちしていた。
「全く。結局無事だったんじゃないか。心配もさせてくれないな君は」
「そういう割にはがっつり叱ってくれるんですね。森先生……」
1回の潜書で浄化は完全に完了。司書が若干はにかんだようににやけるのを堪えているのは花袋による「情景描写がすごくきれいだからそこをもっと活かせ」というコメントを受けてからだったが今はそれどころではない。今回の事態は想定外だった。今回の作品は高校生時代。将に「文学は人の苦悩を喰らう生きもの」として司書が家庭の苦しみにより文才を発露させていた頃だ。現在は比較的落ち着いておりまたどちらかといえば文学を研究する方に熱中しその結果現在の特務司書だがその自分自身が有碍書を発生させてしまった。これは由々しき事態だ。恐らく同じ屋根の下に有碍書が補完されているからその影響を受けてのことだろうが文豪と相似の家庭環境の司書がもし自分と同じような背景の作品を書いたならば。考えるだに恐ろしい。館長やネコが戻ってきたら報告せねば。原稿用紙を抱きしめる。もう続きを書かない方がいい。穢れが他の最近の書物にも及んでしまう――そう思いかけたところで背後から織田が原稿用紙を取り上げた。
「あっちょ」
「はーん。これが俺らが飛び込んどった原稿用紙か。まだ題も定まっとらんの」
「風景はきれいだったよな。司書ー俺ら2人で借りていいか。今は批評は褒めるのが中心なんだろ。良いところ見つけてやるから」
「ちょっと待てそれはもう封印……」
「続きは書けよ」
正座した花袋が背後からいう。織田や太宰が原稿用紙を取り合いながら肯いた。森も同様だ。目を瞠る司書に織田がいう。
「そうそ。好きなもん書けるうちに書いとった方がええって。なんやあったら俺らがしばいてどつきまわしたるから安心して書き。なんせここは今本を書くのに1番安全な場所やからな」
「有碍書になりそうになったら俺らが真っ先に突入してやるしな! そういう訳で俺らは今夜は夜桜と月見酒と洒落込むからー」
「ああっ仲良し無頼派めっ原稿汚さないでくださいよー!」
走り行く3人。鏡花はバケツを取り替えに部屋から出て行った。不意に2人きりになる森と花袋。鏡花が空気の入れ換えに開いていった窓から風が吹く。
森は溜息を吐いた。今日は疲れた。花袋がくしゃみをした。あの作品の中で霧浸りになっていたから当然だろう。腕を引っ張った。
「風呂に行くぞ」
「そうですね。俺はともかく先生まで濡れさせちゃったし。おまけに白衣を松明の素材にさせちゃったでしょ」
「……単に有効手段を利用しただけだ。あぁ。そういえば煙草とライターを返し損ねたな」
「へぇ。司書が煙草とライター持ってたんですか」
直接渡すにしても今は司書は館内で無頼派(-坂口)と追いかけっこだ。そして煙草は霧で湿っている。ライターも使い物になるだろうか。しばらく眺めて机の隅に置いておく。花袋が頭をさすりながらいった。
「あの話の中でも主人公が煙草とライター持ってるんですよ。嫌煙家なのに。タスポも持ってるんです」
「へぇ。変わっているな」
「先生に煙草を渡したってことは先生が俺を見つけるってわかってたんだろうな。司書は」
「……なに」
「狐狗狸の類に化かされたときは煙草を吸え。古今東西そんなもんらしいですよ」
大浴場に向かう足がてらつぶやく花袋。森より先んじて暖簾の向こうを潜った彼は森の袖を引っ張った。
彼の袖口から桜の花弁が落ちた。それはきっとあの司書の作品の中で花袋が笑顔で頭から降らせたあの。
いつもの太陽の笑みより少しだけ穏やかなそれは春風だった。髪を棚引かせこちらを惑わせる。
「先生に見つけて欲しかったんです。先生に虫のないサクラを見せてあげたかったから」
誰もいない脱衣場。軍服のボタンに花袋の手が伸びる。
「おや。誰もいませんか。丁度良い。今のうちに一気にやっつけてしまいましょう」
ガスマスクを装備した鏡花がひとり。新しい水を汲んだバケツを置く。雑巾を突っ込んで絞るとそこに風が吹いてきた。先程自身が開いた窓から夜風が吹き込んでいた。それに顔を上げて呟く。そろそろサクラの季節も終わりそうだ。着物も薄いものに変えねばならないだろう。姿を消した森と花袋。まだ鬼ごっこをしている無頼派と司書の騒ぎを余所に鏡花は感慨に耽った。
春風にのって
了
pixivからの転載