▼駒由李(ちひろ)図書館の鴎花(https://shindanmaker.com/716352)「ベッド」「奴隷市」「友愛」
▼なんかエジプトとインドを混ぜたような 主にタッギを書きたかった気がする
▼pixivからの転載
自分たちの旅をしていたところよりもここはずっと南だ。渇く。水が貴重品なのはどこも変わらないが南西に下るほどその重要度は増すようだった。それでも友人と別れる羽目になったときは己でも信じられないほどに声を荒げ頭を殴られた。友人たちが悲鳴混じりに自分に声を上げる。
「■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
それに自身は応えた。下卑た声で嘲笑う商人たちに頭突きをかまして。
だからそれは絶対の約束だった。たとえ砂漠の女神が試練を下そうとも。
白衣を羽織り脈を取る。聴診器を当てる。患者の話を聞いて持ち歩いている薬の元を煎じる。それを渡して「あとはよく栄養を取って休むように」と告げる。
その旅医者が有名なのはそのあとの診療代においてまず求めてくるものが他と違うからだ。その家の主婦は褐色の顔に困惑を滲ませた。
「はぁ……本。ですか」
「なんでもいいのです。それと今夜の寝床をくだされば」
「それならパンとスープも差し上げましょう。本当に助かりましたから」
そういってその家の主婦は夫を寝台にかけ直させる。それに頭を下げてから主婦についていった。今夜の宿と食事の確保ができたのはありがたい。できれば書物も目新しいものが読めればいい。森は鞄を抱えながら廊下をついて歩いていく。木の枝で支えられた窓からは商店街の賑やかさが伝わってきた。砂漠の街は良い意味でも悪い意味でもどこも活気づいている。森は白衣を脱ぎワイシャツの袖を捲りなおした。
その家の外では人々が噂をしていることに彼は気付いていない。
「あの家に旅医者がきているそうだよ」
「珍しいことじゃないだろう」
「それがあの『本狂い』のモリオーガイだそうだ」
「ほう! それなら運が良いことだ。やつなら大して金は取られん。しかしなにを思って本などに興味を示すのかね」
人々が囁く男は主婦に案内され少しばかり諦念の息を漏らしたところだった。家の規模よりもその書庫は小規模だったからだ。
「これでもこの街1番の書庫ですの」
「あぁ。素晴らしい。しばらく籠もらせていただきますか。ご主人に変調があったらお呼びください」
「えぇ」
主婦は褒められたと思って微笑んだ。そして出て行ったのを見たあと森は深く溜息を吐く。医者としての仕事は難しくなかった。その分だろうか。今回は見たことのある本ばかりが目についた。それでも丹念に本棚を検分するのは未練だ。
そもそも自分が「修行」と称して家を出てきたのは偏に本を探すためだ。この国に移植してきた実家の書物ですら彼は幼いうちに読破してしまった。自分でも書きたい。しかし長男たる彼は迂闊に優秀だった。気が付けば跡継ぎとして当たり前のように据えられていた。これではいけない。自身はあの日今までにないほどの詭弁を弄した――この国の人々のことをよく知り治すためには自分が旅をして治して回らなければならない。もし帰ってこられなくてもそれは運命だからその時は次男が継いでくれ――呆れる家族を前にさっさと旅に出た。それから数年。多分我に返った森家は林太郎を捜しているだろうが一応名を改めた彼をこの砂漠の国で捜すのは容易でないだろう。
それに伝説による「タグ」が出る。丁度その伝承に纏わる本があり森はそれを手に取った。床にあぐらを掻き本を開く。それは子どもたちにひとりで遠出をしてはいけないことを戒める要素の強い書物だ。
この砂漠の国の信仰の対象の女神。彼女は荒ぶる神だ。この砂漠の国において人々に様々な試練を課す。それはこの国の自然の荒さを表現しているのだろう。しかし極端な宗教団体が存在するといわれる。それがタグ。あるいはタッギ。殺戮を好む女神に生贄を捧げるため人を殺すという。飽くまで自分たちの好むところにあらざり。女神への供物として多き者は生涯に千人を殺して捧げる。この書物では飽くまで伝承とされている。しかし実際に商隊などの大量の集団がある街から旅立ってどこの街にも着かないという現象は頻繁に起きると森は聞いていた。すくなくとも皆殺しを是とする山賊は存在するに違いない。森がその話を知ったときはできるだけ人の多い街道を通ってきた。
しかし次の街には困っている。本を閉じて顎に手を添えていると先程の主婦が茶を淹れてくれてきてくれた。早速それを相談すると主婦は「だめだめ!」と渋面を作る。
「たしかにあっちの街は治安が悪いですよ。奴隷市だって日常的に展覧されてます。でも隣の山道はタッギが出るかも知れませんよ! 見たところ先生は外つ国の人のようですけど山賊が出るかも知れないといったらぴんと来るでしょ!」
「……それもそうだな」
主婦の力は強い。恐らくこの国でも口コミなどがあるに違いない。気迫に押され思わずチャイを溢しそうになりながらも森は肯いた。
そしてその判断を後悔しているところだ。
(今からでも山道に行こうか)
「てめぇぶっ殺してやる!」
「ドロボー!!」
「あのガキどこに消えやがった!」
「旦那ぁ良い体してますね。うちの娘たちからももてそうだ。どうです一晩」
まだただひとつ命を狙ってくる殺人者集団の方が話が合いそうだ。荷物を抱え得物をちらつかせながら街を抜ける。本を読みながらなのは殺伐とした気持ちを少しでも和らげるためだ。一睨みすれば絡もうとした連中は引き攣った顔で引っ込んだ。彼らからすれば森は腰の得物を抜きそうに見えたに違いない。ただでさえ体躯の良い男だ。この国の人間の人相ではなかったから狙い目のはずだがまず近付くのも躊躇われた。ひと言でいえば怖い。
森の内心はといえばこの直前の街。出先で花売りの少女から病気の母がベッドで作ったという造花が美事な作品でそれを買い取った記憶が新しい。花の滅多に咲かない国にて幻想的な花は人の夢想を煽る。それに和んでいたかったのに着いた先があまりに殺伐としていた。おそらくあの主婦の言葉は正しい。森の見目ならばまず襲われる心配はない。だがタッギは集団で襲ってくるという。だから山道で単独で歩くよりは街道を威圧しながら歩く方が安全だ。だが心は荒れていた。溜息を飲み込んだとき。ふとさらにいやな言葉が前方から聞こえてくる。
「さぁさぁご覧じろ。新しい奴隷がやって来たよ! さぁさぁどうぞご笑覧あれ」
(……噂の奴隷市か)
この街で1番まともだという宿はこの向こうにある。嘆息してその道を通り抜けることにした。
奴隷制は国家で認められている訳ではない。見つかれば処罰の対象だ。ならなぜこういったことが昼日中から堂々と行われているか。単純に法の網が緩すぎて追いつかないからだ。そのくせ商人のサインは法律よりも重い。森が生まれる前にこの国に移植したと聞いているが彼がある程度大きくなるまでは家の外を出歩かせてもらえなかった覚えがある。――子どもは狙い目だ。
本を閉じ握りしめる。自身にはどうしようもない人々だ。精々できるとしたら今すぐあのよく肥え太った商人を人質に取り全員を解放させて散り散りに逃げさせるぐらいだ。しかしどう見てもやせこけた彼らに逃げることは不可能だろう。それに自分も逃げられる自信がない。所詮は偽善だ――本を握りしめて通り過ぎたときだ。
「『農協 月へ導かれる』……」
少年の声がした。場に不釣り合いな程にふつうで怪訝そうな声。声音事態が健全で思わず足を止めた。今の健やかな声はどこから聞こえた。
そして足元を見る。俯いて膝を抱くやせこけた男。怯えた中年女。その真ん中に胡座を掻いた少年がいた。襤褸を着て首輪を嵌められているぼさぼさの金髪の少年だ。彼は見下ろす森と彼が持っている本を交互に見ていた。左右の人間と恐らく同じ身分に堕されているのだろうに少年の目は光が強かった。
あえていおう。自身はこの街に来ていよいよ寂寥がいや増したのだ。だから旅の道連れが欲しくなったのだ。
本を仕舞う。そして鞄の中から前の町で買い求めた造花を取り出す。少年が目を瞠るほど細かい細工の赤い造花だ。少年の彩度の高い金髪にそれはよく映えた。肯いた自身は近くにいた商人に声を掛けた。
「そこの。この少年を買いたいのだが。いくらだ」
「おやおやお目が高い」
商人は下卑た笑みを見せた。既に花を飾られているのを見て懐から一覧表らしきものを見る。
「活きが良いからお客さんぐらい若い人の方が従順にできるでしょ。それじゃこれぐらいの値段で」
「高い」
「えっ」
「値下げしろ」
「えっ」
既に少年の肩を掴んでいる。しかし森の決意は固かった――安くしろ。と。
のちにぼれそうだった外国人の客が元値の何分の1にも安くして高く売れそうだった奴隷を買っていったという伝説が奴隷商人の「油断してはならない」という戒めとして奴隷の廃止まで遺ったという。
「……あんた。まず俺を風呂に入れた方がいいんじゃねーのか」
値下げしておいてよかった。まともな宿というのは「値段相応」ということだった。2人部屋を求めていけば宿屋の主人はまだボロを着ていた少年を見てしたり顔だった。明日にでも服を買い与えねば。そんなことを思いながら机の上に花瓶を見つけると少年はどこにも座りもせずにこちらを睨んでいる。折角ベッドは2人分あるというのに椅子に座る様子もなかった。そういえば一切の説明もなくここまで連れてきたことを森はようやく思い至った。のでランプの点る部屋。昼間持ち歩いていた本を見せると怪訝そうに灯りの下に寄ってくる。薄明かりの下でも首輪や腕輪の痕が痛々しく残っている。それに眉を顰めながらも森はいった。
「君。文字が読めるんだな」
「悪いか」
「それを求めて君を買ったんだ。生徒兼道連れが欲しくてな」
「は」
怪訝そうな少年はしかし卑屈さよりも勝ち気さが増す。だから買ったのだ。この国を旅する道連れに不屈の精神は求むるところだ。
本を置いて少年にいう。
「俺は旅医者だ。しかしそれは表の肩書きで実際は本医者といった方が近い。この国では本があまり重要視されないだろう」
「あぁ……俺んちでも金銭とか宝石とかそういう即物的なもので売買することが多かったな。ただ最近あんたみたいな外つ国の連中が流入してからは本は貴重なものって認識が出てきたぐらいで」
語るに落ちている。恐らく商家の子どもだろう。商隊を組んで移動中に奴隷商人にでも襲われたか――それは指摘せず森は続ける。
「俺は典型的なその外国の人間でな。本が生まれたときから好きだった。それにこの国の文献は非常に貴重な宝だ。だから旅先で治療をする代わりに本を見せてもらうことが多い。持ち歩けないから見せてもらって書き付けるか頭の中に叩き込むか。偶に金持ちを狙って治療をするがな」
「たしかにそうしないと生活できないもんな」
少年はあっさりと笑ってみせる。かわいらしいものだ。そうしてみるとやはり若々しいのがわかる。立ち上がらせると存外に背が高いのがわかったが10代後半というところだろう。見目の良いことからあの奴隷商人は高く売りつけることを期待していたようだが自分の用事は生憎とそちらではなかった。自身は少しだけ笑っていう。
「それでそろそろ助手が欲しくなってな。生徒という肩書きでもいい。ここを通ったのは山道を通ると危ないと前の町でいわれたからだが」
一瞬少年が森の言葉で固まる。青ざめた様子で頭を振ったから驚いていると彼は頭を振った。長く伸びて獅子のような髪が揺れる。はじめて見せた怯えた様子に途惑っていると小さな声で彼はいった。
「……その方が良い。こっちの街を通ってよかった。ひとりで山道は絶対に危ない。集団だって『ダメ』だったのに」
「だめ……」
それはどういう意味か。あれ程に勝ち気だった少年を一瞬で怯えさせるとは何事か。しかしそれを聞くのは今の森には躊躇われた。
どうして商家の息子と思しき彼が奴隷になってしまったのか。なにを怯えているのか。
ひとまずは明日の朝。明るくなったら髪を整えてやろう。ただの目印のつもりで挿した造花を引き抜いて頭を撫でてやると彼は顔を上げた。幼気な顔をしている。
「とりあえず。君の名前はなんだね。俺は……森鴎外と名乗っておこう」
「鴎外」
「本名は知られると少々まずいことになるんだ」
気まずさから視線を外す。普段名乗るときは別名とした名前を名乗ることに罪悪感はない。しかしこの少年に名乗らないのはなんとなく躊躇われる。明かしてから伏せておくよう頼んでおくか。言いかけたとき少年が口を開いた。
「それじゃ。先生が俺に名前をつけてください」
「……せんせい」
顔を上げた少年は既に切り替えた様子でこちらを見ていた。口調も丁寧になっている。呆ける森に少年は笑った。
「生徒なんでしょ。それに俺もまだ買われたばっかの身なんであんたのことをすぐには信用できません。ですがあんたが俺を買ってくれた事実は信用してる。だから『買った奴隷』に名前をつけてください」
「……仕方ないな」
正直な本音なのだろう。まだ自分を組み敷いてきた方が目的が露わだったに違いない。……本当の本音でいえばこの少年に欲情を覚えるかといわれれば否とはいえない。しかし奴隷として売られていた者に対して庇護欲の方が勝る。そして腕を組むと先程飾った花瓶を見てふと名を思いつく。
「『花袋』」
「かたい」
「君に目印につけた造花の花だ。ほら。繊細な細工だろう。これが今きれいだなと思った。花袋くんでいいかな」
「花袋。かたいかー。うん。気に入りました」
薄闇。月明かりの中で胸を張る少年――仮名「花袋」は生花が綻ぶように笑った。
砂の国では金髪は珍重される。その髪を朝方に切り店に売るとまずは服。髪色に合わせた浅黄色のジャケットとサルエルパンツを着せる。特に後者は本人の希望した服だ。恐らくこういった服を着る民族だったのかも知れない。その辺りの地域をいつか調べられるだろうかと心密かに決めながらふと靴屋を見つけた。旅人向けらしくこの物騒な界隈でも頑丈そうな作りのものばかりだ。まだ裸足の花袋を呼んで店屋の主人に問う。
「この少年の足に合う頑丈な靴が欲しいんだが」
「はぁ。まだこれからでっかくなりそうな。ちょっと待っててください」
「先生。なんですか」
「君は今のところ平気そうに裸足でいるが本当は靴を履いて歩いていたんだろう」
「まぁそっすね」
いって裸足でかかとの裏を掻く。奴隷になったあとは逃げにくいように裸足にさせるのが定番だ。特に靴を履く習慣のある人間ほど有効だ。長く放浪したのか花袋の足は既にかさついて頑丈そうになっていたがそれでもやはり生傷はまだ目立った。同時に靴下も買い求める。ベンチに腰掛けさせ靴下を履いているところで靴がやって来た。要望通り頑丈そうだ。
「ちょっと高い品ですが」
「構わん。問題はサイズだな。一足貸してくれ。――花袋くん。左足を貸してくれ」
「あっはい」
咄嗟にいわれ靴下を履いた足を上げる。すると彼の足は森の手に乗った。そして確かに頑丈そうな靴が花袋の足を包む。
目を瞬いた一瞬。咄嗟に「あっぴったりです」と応えた。すると彼は満足そうに店主に「それでいくらだ」と店主と交渉に至った。それを見ながらもう片脚を靴下で覆う。思考が少しばかり停止していた。
今の行動は恐らく意味のあるものではない。どちらかといえば子どもに対してのものだろう。しかし。森のような容貌の男にされると――
(散々人間の恐ろしいところや汚いところは見てきたはずなのに)
「ほら。もうひとつ。履いていいぞ」
「あっはい」
いわれて今度は自分で履く。そしてベンチから飛び降りると久々に地面と足の裏の間に距離を置けた。しばらく距離を置かせてくれ母なる大地よ。君と接し続けるには僕の足はまだひ弱すぎる。冗談めいたことを考えてからそれを与えられた。
昨日見たあの造花だ。
「それは」
「お守りにしなさい。君の方がよく似合っていた」
「似合っていたっていわれてもなぁ……」
「君を生徒にした俺が守られていて欲しいと願ったんだ。ポケットにでも入れておきなさい」
「……はーい」
既に旅支度は終えている。久し振りに少ないけれど荷物は持った。相変わらず騒がしいこの街に来て今度こそ誰かに買われるかと思っていた。実際に自分を買ったのは風変わりな旅医者だった。お守りまで与えてくれるのだから。買い与えられたジャケットの左内ポケットにそっと造花を入れた。
この人についていけば約束を果たせるかも知れない。友との約束を。
黒いなにかが飛来した。かと思えば隣にいた父の首が飛んだ。
「花袋くん。花袋くん。そろそろ起きたまえ」
「ふごっ。は……はい。すいません」
息が出来ない。目を覚ませば前髪が乱れた森の顔。自身の鼻を摘まれていた。慌てて起きれば壁に頭をぶつけた。アルコープの寝台は花袋にはやや手狭だった。森の方がもっと大柄だったから譲った結果朝から頭を抱える羽目に陥っている。申し訳なさそうに喉の奥で笑う森はしかし「そろそろチェックアウトの時間だ」と告げる。
「今日は朝から歩けば昼には次の街に着く。その間にまた文学の話でもしよう」
「……えぇ。先生。朝飯はどうします」
「この宿を出た先に干物のサバサンドが売っていた。それを食べながら歩こう」
そうして2人は宿を出た。
街道を歩くと以前よりはよほど治安は落ち着いている。
「近くに海があるらしいな」
「ですね。干物とはいえ魚が出回ってますし。奴隷としてあちこち回りましたけど精々見たのは湖ぐらいなんで見られたら嬉しいですね」
大口を開けてサバサンドにかぶりつく花袋の横顔は落ち着いたものだ。鞄も少し大きくなって得物として選んだボーガンを腰に携え靴は磨り減った。そして表情は少し和らいだ。それが森には嬉しい。互いに本当の名を教えていないもののそれでも花袋が落ち着いてくれているのは喜ばしいことだった。
文字が書けるどころではなく花袋は教養があった。当初はどちらかといえば商売に関することの方が強かった。しかしペンと紙を渡してみれば未熟だが重厚さを感じさせる文章を書くではないか。自分の作品を読ませても「ここがおかしいのではないか」と自身でも気にしていた部分を真っ直ぐに指摘し論評になったこともあった。言い方は悪いが出物だった――おまけに寂しさも紛らわせてくれる。自身が本当に寂しがっていたのだと花袋と共に旅をして気付かされた。
夜中に起きたとき。誰かがいるのは何年ぶりだっただろうか。自業自得といえど実家には帰らないつもりだったからなおそれが身に沁みた。
その騒ぎが聞こえてきたのは昼前ほどだっただろうか。どうやら次の街に着いたらしい。2人が論じるのをやめたとき人々が集まっているのに気付いた。先に身を強張らせたのは花袋だったが森はそれよりも彼らの身形の特徴を見ていた。あれは商人のものではないだろうか。困った様子で何事かを話し合っている。不穏なことがあるならば宿を取るにも一苦労だ。その辺りにいた中年の男を捕まえると彼はこの街のひとりだったらしい。彼は腕を組んでいった。
「なんでもねぇ。この街で合流して荷のやり取りをするはずだった別の街の商隊が来ないんだそうだ」
「時間遅れはよくあることではないか」
「それがこちらが50人に対して向こうは100人だよ旦那」
「――」
「……花袋くん。鯖に中ったか」
これは森にとって冗談ではなかった。実際腹と口元を押さえた花袋は青ざめており今にも吐きそうだ。しかし花袋は首を振る。
「そういうのじゃないです」
「……なにかを思い出してしまったか」
「なんでもないです」
「花袋くん」
「あるとしたら……」
蹌踉めく彼の背中をさする。頭がすぐそこにありそこそこに長い2人旅で嗅ぎ慣れた花袋のにおいがした。彼の背中が震えていた。
「その100人の商隊は全滅しているという確信です」
「それは……多分あり得るでしょうな」
そこそこの富豪の家。そこで医者を必要としていると聞いたので訪ねて診療した際にくだんの商隊の件をさり気なく口にすればそこの主人はあっさりと答えた。それにかえって困惑したのは森の方だ。主人は心の臓が悪いらしく自身が薬の材料を煎じている最中に彼はいう。
「森先生といいましたか。あなたは見たところこの国の方ではありませんね」
「両親の代から移植しました」
「子守歌のようなものですよ。そして自然にその存在を認識している。100名も到達しなかった……宿で休んでいるという助手の方はこの国の方なのでしょう。その方が具合を悪くするほどなにがあったかはわかりませんが『タッギ』の仕業と確信するのは当然のことです。こういうことが頻繁にあるから自然現象と捉えるのは寧ろ不自然ですからね。この500年以上ずっと続いている信仰だ」
「500年……!?」
タッギの話は聞いていた。そういう殺人者集団がいることも。しかしそんなに長きに渡って殺意を持ち続けられることはたしかにそれは信仰だ。信仰という狂気が絡まねば続かない。主人はソファに深く座って胸をさする。
「砂の国で生きるのは厳しい。私のように財を積んだ者でなければ本来この病を抱えた時点で淘汰されている。それを強い信仰という形に変えて生きる者達もたしかにいるんですよ。我々には理解しがたい存在ですがね。……それよりもその助手の方のことが気になりますね」
「えぇ。実は彼の過去を詳しいことは知らないんですが」
手を動かしたまま肯く。人の好さそうな主人は心配そうにいった。
「……大概は五体満足では済まないですし生涯口にできない程に怯えるものですが」
新月だ。昨夜は曇り空だったから格好の襲撃日和だっただろう。窓から見える道はまばらだが人気がある。強盗の心配はないだろう。
(先生には悪いことをしたな)
具合が悪いと先に宿に入ってしまった。一応は助手として医者の手伝いもしていた。今回もついていく予定だった。しかしまざまざと思い出させられた出来事が花袋の頭を締め付ける。
覚えている。この緊張を。血の臭気がこちらに漂ってくるようだ。あの欠片を思い返すだけで身が震える。人としてこんな屈辱はない。尊厳を塗り潰すあの容赦なき殺戮は。
いっそ忘れてしまえたらと何度も思った。けれど記憶はこびり付いて。友との約束の言葉が商人たちの下卑た笑い声と共に反響する。
立ち上がる。外套を手に取り扉に手を掛けた。
「どうしたんだ花袋くん。こんな時間に」
危うく扉にぶち当たりそうになる。蹈鞴を踏んだ。外套を引っ掴んだ先に往診が終わったらしい。2冊の本と鞄を手にした森が立っていた。顔を上げる。
「……あ」
彼の目を見ると堪らなくなる。さらに数歩下がったのは夜色の目が光を失ってしまった目を捕らえたからだ。怪訝そうにした森が後ろ手に扉を閉め鞄と本を棚に置く。慎重に花袋に歩み寄った。
「……落ち着いてくれ。俺はまだ君のことをよく知らずにいる」
「……」
「君がそうしてあの元気な目の光を失っても……その取り戻し方がわからないんだ」
花袋の背後にあったのはベッド。そこで姿勢を崩し花袋は座り込む。そのまま動かない。森はそっと彼の足元に跪いた。彼の左手がジャケットの胸元を掴んでいる。まるで離せば心臓を取り落とすことと同義だとでもいうように。彼の空いた右手に手を添える。
「花袋くん。先生として聞かせてくれないか。君が抱えていることを」
「……先生は。この国の人じゃない」
「あぁ。外国人だ。だから感覚のずれはある」
「それでも否定せずに聞いてくれますか」
「他でもない君の言葉だろう」
手を強く握った。僅かに目に光が掠めた気がした。
「あれほどに強かな君をここまで弱らせるほどのことだ。それはきっとよほどの事実だ」
「……先生らしい結論ですね」
かわいた笑みだった。それでも微笑みは微笑みだった。
黒いなにかが飛来した。かと思えば隣にいた父の首が飛んだ。
「走れ!!」
あれは誰の声だっただろう。とにかく咄嗟に動いた。動いて走って逃げて。止まってはいけない。狙い目を定められる。馬を走らせた。その馬も文字通り馬脚を斬られた。崩れていく馬体から咄嗟に飛び降りてとにかく逃げ出す。
「■■!」
名を呼ばれた。あれは友人の。幼馴染みの声。同じ方向に逃げてきている。それはいいことか悪いことかわからないがとにかく走っていた。悲鳴がする。抵抗している様子だ。しかしすぐにそれもかき消えていく。
頭を過ぎったのはおとぎ話のはずの存在。人さらいに遭わぬために子どもが勝手にひとりで出歩かないように戒めるための。ただの山賊だと思っていた。だがこれは違う。これは山賊の仕事などではない。人の首を姿なく飛ばし走っている馬を斬る。音もないそれは暗殺者だ。その辺りの山賊にできるものではない。いっそ神聖なものすら感じるのはこの国の人間ゆえか。
殺戮を求める女神。彼女のために生贄を捧げる殺人者集団。襲われるのは主に旅の商隊。ああ。将に自分たちが鴨だった!
「……遺ったのは俺たちだけか……」
気が付けば3人。山道で迷いどこを歩いていたかもわからない。あまりの事態に呆然と歩き続けていた彼らの前に今度こそ山賊めいた男たちが現れた。
「タッギに襲われたんです。俺んちの商隊は」
生々しい言葉に装飾はない。にも関わらず花袋が経験した酸鼻極まる事態が森の息を飲ませる。気が付けば手が冷えていたのはどちらだったか。語る花袋はまるで旅芸人の歌い手のように語るばかりだ。意識的にこのときのことに感情を麻痺させているのだろう。当然だ。パニックを起こすに違いない。手を握りしめる森。彼の前で花袋はただ自分が遭遇した事態に適切な言葉を探る。
「あれは……ただの山賊だったなら俺んちの商隊なら追い返せました。日常的に狩りも行ってる家でしたし武装もしてましたんで。でもなまじ腕が立ったから……俺たちはあいつらの人を殺す技術を見せつけられた。馬があんなにあっさり斬れるなんて知らなかった。俺の体も持って行かれるところだった」
「花袋くん」
「それでも逃げたんです。とにかく動かなければって。本能が叫んで。少しでも留まっていればすぐさま狙い目を定められる。……そうして生き延びたのが同じ商隊を組んでいた同じ年頃の2人でした。俺を含めて3人」
「しかし逃げ切れたなら……」
森の言葉に花袋は残念そうに頭を振る。金髪がランプで光った。
「タッギにも取りこぼしは必ずあるみたいなんです。でも女神様のお目こぼしも地の悪魔は見逃しはしない。――タッギと一定の距離を置いて人買いがそこを根城にしていたんですよ。山賊と密通して」
「……それで。奴隷に」
「友人たちとは途中で離ればなれになりました。俺たちは顔も良いでしょう。だから別目的でも売れるってことでばらばらにされました。まさか先生みたいな人が俺を買うとは思いませんでしたけど」
態とだろう。自身を卑下するようにいうのは。眉を顰めたが事実。奴隷商人は当初は相当な価格で花袋を売ろうとした。仕入れが外道であるからには容赦なく値下げをしたが。花袋は漸く左手を離すと頭を抱える。
「友人のひとりはちょっと病弱だけど俺ぐらいしぶとい奴だから大丈夫なんです。ただもうひとりがいつもふわふわしてて……俺たち2人で庇ってたんですけどある日とうとう3人ともばらばらに引き離されて。だからずっと心配だったんです。だから俺が奴隷だからと鬱屈してる場合じゃないってずっと気を張ってた。あの日交わした約束のために。絶対見つけるって」
「落ち着きたまえ」
抱きしめる。手を握りしめたまま片手で背中に手を回した。無理な体勢で苦しいが今この場にいる者でより苦しいのはこの少年に違いないとわかっていた。
背中を撫でる。なかなか長いがまだ厚くはない体。まだ成長期だろう。軽く叩いて深呼吸を促す。
「君は友人が本当に大切なんだな」
「……当たり前です。もう。故郷を知る唯一の友です。帰るにもあいつらがいないと不利だ」
「そうか。そうか。君は故郷に帰りたいんだな」
「当たり前でしょう」
「……そうだな」
自分とて帰りたくない訳ではない。しかし帰ることは即ち自由を失うことだ。そして両親を……家を憎むことになる。それだけは避けたかった。だからそれに対しての明確な返答は避けた。ただ望郷の念にだけは同意する。腕の中の少年をあやしながら自身は肯いた。
「約束したんです。『絶対また会おう。俺たちはここまで共に生き延びた友なのだから』と」
「……そうだな」
腕の中の生徒を慰めていると故郷の友を思い出した。彼は元気にしているだろうか。いつまでも帰らない幼馴染みに上品な見た目に反し意外に汚い口で罵っているだろうか。
(俺たちはお互いに淋しかったのか)
いよいよ泣き出した生徒を抱える。ベッドに転がると花袋は胸元で泣きついた。自身も少しだけ泣きたい気持ちになった。今頃あの山道には100人分の死体が転がっているのだろうと想像しながら。
「そうするとは思った」
「すいません。先生。散々お世話になっておいて」
朝方。宿の裏手から出ようとした花袋を捕まえる。どうやら師がいるのが想定していたらしく花袋は悪びれず笑う。僅かに目元が赤いがそれでも表情はずっと明るかった。憑き物が落ちたようといえば1番しっくりくる。まだ宿の人間も起きていない中で荷物を一揃え抱えた花袋に森はいう。
「やはり友人たちを捜しに行くんだね」
「当てがなければ先生みたいに本も探します。識字率が低いですからね。代筆業も結構儲かりますよ」
「君は俺より生きるのに器用そうだ……」
腕を組んだまま裏口に寄りかかる。そして思い出したように懐から財布を取り出した。そして「手を出せ」という。花袋は慌てた。
「いえいえそんなもらう訳には」
「貸すだけだ。いずれ返してもらおう」
「……また逢えますか」
勝手に花袋の手に紙幣と銭を渡す。それを慌ててポケットに突っ込む花袋はしかし切なそうに朝日に目を照らす。
このときにはじめて――愚かなことに。今はじめて!――森はある感情を抱いたがそれは利口にも丁寧に隠した。そして花袋の左の胸を示していう。
「君に渡したお守りが君を守る。それに俺は医者として世を渡れるからまず信用がある。そしてお互いにこの国を出ることはない。ならば再会しない確率はゼロではないだろう」
「無理矢理な論法っすね……」
「それにもうひとつ君は約束を破らない人間だと見込んでいる。花袋くん」
手を差し出した。それは再び握るための手だと確信していた。
「今度逢ったら君は俺に君の本当の名を教えてくれ。そのときに俺も本当の名を伝えよう。約束だ」
「強引ですね」
「こうでもしないと君はこうして勝手に去ってしまうからな。……無事で」
「先生もご健勝を」
そうして花袋は去った。自身が花袋と名付けた少年は当てもない旅に出た。否。彼なりに奴隷時代の頼りはあるだろう。だから自分は部屋に戻りまたいつものように旅医者ならぬ本医者を続ければいいのだ。
ただ。またひとりでの旅になるだけ。出るのはひとりなのに払う料金が2人分のだけ。
砂漠の花が彼の心に咲いたのに気付いただけ。
砂漠の花
外つ国からこの国に図書館なるものができたと聞いて一も二もなく駆けつけたのはいうまでもない。近くに海と山があるそこに海外風の建物がある。真新しく大きな建築物でこの国の砂に馴染まない人間たちが動いていた。あの偉丈夫とネコはなんなのだろう。彼らに挟まれひとりの年若い青年がひょこひょこと立ち歩いている。彼に声を掛けた。
「すまない。ここに帝國図書館というのができたと聞いたのだが」
「お耳が早い方が多いですね! 御用の方は中へどうぞ。まだ大した書物はありませんし盗難防止用に鎖がついていますが」
どうやらこの国の事情はよくわかった作りらしい。自身の持っている本も提供しようか。そんなことをかんがえていたとき。
声がした。
「だからさー独歩さんは花袋のそこがわかんないっていってるわけ」
「はぁ。これだから女所帯で働いてた奴は。……しっかしまじめにハルキはどこで暮らしてやがるんだ……」
「……ごめんください」
奥に職員らしい青年たちが見える。まだ荷物がとっちらかっているそこで地図を広げていた彼らは慌てた様子でこちらを見た。
金色の目が絡んだ。
了