紙に走らせていた万年筆を止める。司書はおもむろに顔を上げた。
彼が着任してから、「自堕落な生活をしても止めないだろう」と見越して助手にし続けている坂口がそこに立っていた。司書は問い返した。
「坂口先生。今、何て仰有いました」
「だから、司書って好きな奴がいるって本当かって。浮いた話なんてこの2年聴いたことがないのに」
万年筆を片手に、司書は溜息を吐く。腰に手を当てる坂口を見上げた。
「それで先生はどう思われたんです」
「司書のくせになまいきだ」
「あぁ……そんなこっちゃと思いましたよ」
答えながら、原稿用紙を持ち上げる。海外の学術誌のために英語で綴られたそれは、館長にでも推敲してもらうことにしよう。3徹目の脳みそは回転が鈍かった。頭を振ると前髪が落ちてくる。あとでヘアピンで留め直すことにしよう――そう思いかけた司書の顔を、大きな手が持ち上げる。その手が、どこから取り出したのか、ヘアピンを持っている。「動くなよ」と言いながら、はみ出した前髪をきれいに留めた。そうして解放された司書に、坂口は溜息を吐く。
「全く、風呂に入ってるだけマシだがそろそろ床屋なり美容院なり行けよ。髪どれだけ伸ばしっ放しなんだよ」
「うーん……夏に入る前に切って以来かなぁ……」
「4ヶ月は前じゃねーか。行け。明日にでも行け。表の方は明日は休館日だろ」
「でも予約を入れてないし」
「今すぐ俺が入れてやる。カードを寄越せ。明日の午前中だな」
「午前中は寝ていたい……」
「午前中だな」
言いながら、坂口は司書が渡した会員カードの連絡先に電話をかける。彼が使っているデバイスは彼が転生して早々に渡したものだが、どうやら転生して1年以上を経て使いこなしたらしい。流暢に指を滑らせていた。それを尻目に、万年筆のインクを補充する。ずっとぶっ通しで書き続けていたからいい加減ペン先がかすかすだ。目元も霞んでいる。そのせいか、坂口の背中も霞がかって見えた。
彼の背中も、記憶の中で霞んで見える。
坂口とは似ても似つかない人だ。坂口が彼に似るときが来るとすれば、それは坂口が女好きの女たらしになった日だろう。ろくでもない人だった。悪い人ではない、寧ろ優しい人だから質が悪かった。司書に優しかった。それは親友の妹だったからだろう。根っからの自堕落人(じだらくびと)だった自身を、一時でも真人間に変えたのは彼だった。
そんな人から自ら離れた。単純な話だ。司書は彼が好きだったが、彼にとって司書は「親友の妹」の範疇から出なかったからだ。
だから今、こうして東京の本局を離れた、他県の図書館の特務司書などを勤めている。元々この県には機関の研究所があり、そこで研究に没頭していた。興味対象が散漫としている支所は様々な研究に手をつけていたが、ある日有魂書・有碍書研究に触れたことが切欠で特務司書に任命された――現在は図書館にて、有碍書や有魂書と文豪の関係などについて研究している。図書館の環境は有難かった。自分がどれだけ自堕落な生活をしていても、それ以上に無軌道な生活をしている文豪はいたし、世話焼き気質の者はそれぞれに既に世話をする相手が塞がっている――ex,室生と萩原――。あとは精々菊池がパトロンになりたがっているぐらいで、そこに坂口が来たときは天恵だと思った。これで好きなだけ自堕落な生活を送れるぞ――と。
結果は惨敗に近い。坂口は、司書が思った以上に世話焼きだった。それが、司書には不思議でならなかった。
「ほらよ、司書。明日の11時に予約をとっといたぜ」
「有り難う御座います」
坂口が電話を切ったのは、司書が丁度インクの補充を終えたときだった。会員カードを手渡してくる坂口に、司書は、ふと、以前から気になっていたことを問いかけてみることにした。
「ねぇ先生。貴男は、偉大な落伍者とやらになりたいんでしょう」
「おう」
「なのに、こうして私の世話ばかり焼いて。詰めが甘いんじゃないでしょうか」
司書の発言は無礼の親戚ぐらいだった。坂口は一瞬だけ固まると、すぐにデバイスをポケットにしまい込んだ。そして司書の机の前に歩み寄ってくる。
ぐい、と。先程のように司書の顔が持ち上げられる。坂口の両手に挟まれた司書の顔。坂口はその顔に、ぐい、と自らの顔を引き寄せた。
唇を掠めそうな距離。司書は目を瞠ったまま、坂口のレンズ越しの、垂れ勝ちの目を見つめた。
やがて坂口は両手を放す。そして背中を向けた。そのまま扉へと向かう。
「先生」
再び問う。司書は答えをもらっていなかった。彼に、司書は問う。
頭を掻いた坂口は、やがて振り返った。そのときの表情は、なんと形容すればいいのか。今でも司書はわからない。
「『あなたに恋をしています』といったら、あんた、信じるかい」
思いもよらない返答で、司書は大きく目を瞬いた。坂口は司書の返答を聴かぬまま、扉を開けて去っていった。後ろ手に適当に閉めたらしい。扉は半端に開いていた。それを閉めずにただ呆然と見遣っていると、軽い足音がした。司書室に顔を出したのは、果たして三好だった。彼は呆然としている司書を見ると、きょとんとする。
「どうしたんスか司書さん。なんか悪いもんでも喰いましたか」
「喰ってはいないけど……」
「それにしても安吾はどこ行ったか知らないッスか。あいつ、まーた自分の部屋を片付けないでいるんスよ」
この1年と少しで何度も聞かされた台詞だ。しかし、次の言葉は予想していなかった。
「安吾の奴、いつも大切な人といる場所はきれいに保ってるからいいんだとか抜かして。たしかに司書室はきれいッスけどそれはそれッスよね――司書さん?」
「あぁ、うん。何でもない」
顔を右手で覆う。寝た方がいいだろうか。今は冷静さを保てそうになかった。
さて、異性にそういう対象で見てもらうというのははじめての体験だ。恋をしていた。それは叶わぬ恋だった。今は――果たしてまだ恋なのかは断言出来ないけど。
「司書さーん?」
恋に育つ萌芽だった。
了