pixivより転載
万年筆の手を止める。振り返って、その双眸が、窓の外を見遣った。春も盛りである。窓に桜の花弁が貼り付いていた。それを見ながら、司書はぽつりと呟いた。
「桜に攫われるって、具体的にどういうものなんだろう」
「眠いのか、司書」
机を挟んで向かい。本日の助手の坂口が書類を片手に司書を見下ろす。彼らはこの麗らかな春の昼下がり、司書室に籠もっていた。原因は司書が提出を忘れていた書類のためである。昨夜から一睡もしていない、とは坂口が昨日の助手の二葉亭から訊いた話だ。仕事に真面目な男にしては珍しい失敗だった。春の陽気が油断を誘ったのだろうか。そうして集中力が切れ気味らしい司書は、冒頭のようなことを言い出したのだった。訝しげな坂口に、机に顔を戻した司書は言う。
「眠いの通り越してるから平気です。ただ、ふっと、春になるとよく訊くフレーズだなぁと思って」
「知ってるか? そういうのって修羅場脳っていうんだと」
「なんで現代の1部界隈でしか使われてない単語を知ってるんですか。それはともかく、坂口先生なら何か心当たりがありませんか」
「あー……生前俺が書いた作品が源流じゃないか? なんか知らんが俺が死んだあと評価されたんだろ? 週末の特定有碍書の最奥に位置してるぐらいだし」
「あぁ、うっかりしてました。『桜の森の満開の下』。あれが源流かも知れませんね」
万年筆を片手に拳で掌を叩く。
坂口安吾の傑作といわれる作品、「桜の森の満開の下」。物凄く端折って結末を説明すれば、桜の森を通るときに男が女を絞め殺し、その女の死体が花びらになってかき消えてしまうというものだ。それを思い出しながら司書は書類の万年筆を走らせる。
「うん、イメージ的にぴったりだ。きっと後世の作家が『桜の森の~』のイメージを元にアレンジしていったんでしょうね。成る程。納得」
「解決に貢献できたなら嬉しいよ」
「ちょーっと待った!」
「うわなんですか梶井先生」
司書室の扉をけたたましく開け放つ人間がいた。司書たちが見ると、そこには盆を片手の梶井の姿があった。あと、その向こうに呆れた顔をした太宰の顔が。梶井は扉を開け放ったままつかつかと歩み寄ってくる。そして盆を机に載せた。盆に載っていたのはコーヒーとパイだった。見たところレモンパイの切れ端のようである。梶井は微笑んだ。司書の顔には隈が滲んでいる。
「昨夜から寝てないっていうから差し入れだよ。甘いものとカフェインを摂るんだ」
「有り難う御座います。先生が作ったんですか」
「いや、俺は素材提供だけ。志賀さんが厨房に入ってたんでついでに作ってもらった。坂口くん、君も欲しかったら厨房に行けばまだ残ってると思うよ」
「あとで志賀先生にもお礼を言わないとなぁ」
「おいあんた、それだけが用か」
レモンパイを注視していた坂口が、はたと思い出したように尋ねる。司書も顔を上げた。そういえば彼はなにかに待ったをかけてきたのではないか。
盆を片手に、梶井は「ふっふっふ」と不敵に笑う。
「話は訊かせてもらったよ。桜に攫われるって、具体的にどういったものなんだろう、だって?」
「割と最初から立ち聞きしてたんだなあんた」
「桜といえば! 俺も一家言あるよ。桜に攫われる……」
ふと顎に手を添えて、梶井は考え込む。だがすぐに顔を上げた。名案だといわんばかりに。
「桜の咲く頃に人を攫ってきて木の下に死体を埋めれば『桜に攫われた』ことにならないかな!」
「物理的に攫われた上に殺されてるんですがそれは」
「桜が攫うっていう儚いイメージより血腥くなってるぞ」
「えぇーいいと思ったんだけどなぁ」
「なに安吾、人死にの話?」
「本来は違う話のはずだった」
開け放たれたままだった扉から司書室を覗いていた太宰が、恐る恐るといった様子で部屋に入り込んでくる。書類を退けてフォークでパイをつつく司書は、彼の姿を認めると「太宰先生はどうでしょう」と尋ねてくる。太宰は金色の猫目を瞬いた。
「どうって」
「『桜に攫われる』って具体的にどういうイメージなのかって話です。太宰先生のご意見はどんな感じでしょう」
「ううーん……俺幻想系作家じゃないからなぁ……難しいお題を出すなぁ」
太宰は赤い頭を掻く。しばしの沈黙。梶井が部屋を退出しようとした辺りで、太宰は絞り出すように唸った。
「……生前の俺の学生時代、城下町の学校に通ってたんだよね」
「ああ、弘前市」
「そこのお堀端の桜並木が美事でさ。毎年4月下旬になると桜が咲きそろうんだ。それで水の満ちてるお堀の上に桜の花弁が敷き詰められてて……」
太宰はぽつりという。
「お堀は結構深かったから、あの桜色の水面に沈めば、まるで桜に攫われるみたいになるんじゃないかな」
「詩的に語ってますけどそれって結局自殺ですよね」
「しかもまた溺死する気かよふざけんなよお前置いていくなよ太宰」
「あー悪かった悪かった、今生では2度としないから! マジで!」
書類を片手に顔を覆いはじめた坂口。そんな彼を宥める太宰。手持ち無沙汰の梶井。彼らを眺めながら、報告書とは別の書類を手に取った。
「司書? どうしたんだ」
「思いついたので」
顔を上げた坂口が問うと、司書は報告書のときよりも滑らかに万年筆を動かす。
そしてそれを示した。覗き込んだ梶井と太宰も同時に復唱する。
「『春特別企画 “桜に攫われる”をお題に作品を書こう』?」
「優勝者には1万帝國券以内で好きなものが与えられます」
「その予算はどこから引っ張ってくるんだ」
「これから考えます。さぁナイスアイディア! 早く準備しなくっちゃ☆」
「待て司書、報告書が終わってない」
「もう報告書嫌なんですぅぅぅぅもっと楽しいことがしたいんですぅぅぅぅ」
机から立ち上がろうとする司書を坂口が抑え付ける。それを尻目に、梶井と太宰は肩を竦め合い、司書室を辞すのだった。
結局報告書はその日のうちに仕上げられ、掲示された「春の特別企画」は館長の計らいで「賞金5万帝國券以内」に賞金額が釣り上がり、金に釣られた文豪たちが花見もせずに、外では桜が舞う中自室に引きこもり自作品を書き上げることになる。企画に参加しなかった文豪は、酒を飲みながら例年より愛でる人の少ない桜を楽しんだのだった。
春である。
了