pixivより転載
菊池寛は後悔している。天気予報を確かめずに、図書館から遠目のバーにひとりで来たことに。
支払いを終えて店のドアを開けると、本降りとまではいかずとも、走って駆け抜けるにはやや躊躇いの出る量の雨が降っていた。
(遣らずの雨か)
咄嗟にそんな言葉が浮かぶ程度には、菊池は文豪としての己を見失っていなかった。酒に我を忘れたが。なにもうまくないな……と煙草を喫おうとしたが、この雨の湿気ではすぐに消えてしまうだろう。煙草をポケットに押し込め、さてどうするかと考える。
このまま走り抜ける。次の日風邪を引くのが目に見えている。
店の中に戻る。店主に「酒は頼むから雨宿りさせてくれ」と申しだせば断る人柄でないことは今日見てわかった。しかし、閉店時間までに晴れている保証はない。
傘を借りるか。名刺を差し出しておけば必ず返すという約束になるだろう。
最後の算段を思いついたところで、大きな湿気が力いっぱい抱き締めて来た。
「きーくーち♡」
「っは!? 志賀さん!? どうしたんです」
「お前こそどうしたんだよぉ、こんな良い天気の日に外に出ずに」
「こんな天気って……志賀さん酔ってますね?」
「酔ってねぇよぉ」
けらけらと笑いながら菊池に濡れた体で纏わりつく。既に菊池の服も湿っていたが、それでも店に戻ろうとする。
「今お店から傘借りて来ますから」
「いいだろそんなの」
上気した顔で微笑んだ志賀は、菊池の手を引いた。
「こんな日は、図書館まで一気に駆け抜ける!」
「わわ」
「はは、菊池転ぶなよ!」
結局、菊池は全身びしょ濡れで図書館に帰館することになる。
そしてしっかり風邪を引いた。
医務室で森にしっかり叱られて、それから点滴を1本ずつ。
昨夜濡らした服は、今日も雨天なので乾燥機にかけられている最中だという。
仲良く並んで2つのベッドに収まっていた志賀と菊池。菊池は問う。
「志賀さん、昨夜はあまりらしくない酔い方でしたね。それこそ俺が店に傘を借りに行く時間ぐらいなら待ってくれてるでしょう」
「そうとは限らなかったんだよなぁ」
「は?」
思わせぶりに、志賀はたっぷり余韻を含ませ語る。
「あの店の名前、思い出せるか?」
「──……あれ?」
「ちなみに俺の目にも看板には言語が違うレベルで意味不明な文章の羅列があった。だから、雨でついでに禊して無理矢理連れ帰って来たってわけだ」
「……」
志賀は笑った。その笑みはこの世ならざるものだった。
「お前は俺のもんだからな。その辺の怪異に閉じ込められるよりはマシだろ?」
……自分は既にとんでもない神に見初められていた。そのことを実感した春の日の出来事。
了