男は怒っている、いや、驚いているといった方がいいだろう、だが、彼女は普段と変わらず毅然とした態度で答えた。
数日前、オペラ座のパトロンのアイリーナ・アドラーがオペラ座のパトロンを辞退したいと話を自分に持ってきたのは異例であり驚きだった。
しかも、驚く事にシャニュイ家をパトロンにと言い出したのだ。
一時ではあるがシャニュイ家は事業の不振から傾きかけた、ところか、外国の投資家が持ちかけた話がまとまり、今はよい方向に向かっているのだ。
「マダム・アドラーはパリを出るそうですわ、長くなるかもしれないので屋敷は売り払うことにしたそうです、そして資金のことですが、フィリップ子爵は彼女と同じ金額の支援をすると約束しました」
「何故、直接、話をしない、私は支配人だぞ」
その言葉にジリイは呆れた、自分の代理として話を聞いておけといったのは貴方ではないですか、すると仮面の男は一瞬、黙りこんだ、思い出したのだろう。
「そんな大事な話だとは」
「ですが、エリック、こちらとしては悪い話ではありません、援助は受けられます」
金か、仮面の男は苛立つように呟いた、シャニュイ家の事業が持ち直したのは、ここ最近のことだ。
新聞や街の、貴族達の間では海外へ逃げるのではないのかと噂されていたのに、持ち直したのはどういうわけか、子爵、兄のフィリップには事業や商才に対する才能があったのか、苦境に立たされてしまうと人間は時として飛んでもない力を見せることがある。
「子爵の援助は受ける、それはいい」
「はい、それから桟敷席のことですが」
話を続ける彼女の言葉を仮面の男は頷きながら聞いていた、時折、ジリイは聞いていますかと尋ねた。
また後で文句を言われては、聞いていないなどと言われてはかなわないからだ。
どうしてと仮面の男は自分に問いかけた、アイリーナ・アドラーがパリを出る事に対して、これほど驚くとは自分でも思ってもみなかったからだ。
フランス、パリで舞台に立つ事は殆どなかった彼女なので以外ではない。
以前、招待された屋敷も立派なものだ、あれを売りに出すのだろうか、決して安くはないだろう、買い手がつくのか。
屋敷で働いていたメイドも連れていくとなれば長くなるだろう、すると。
ふと、思い出したのは彼女の妹だ、あの、髪の白い女性もパリを出て行くのだろうか。
そんな事を思った自分に仮面の男は驚いた。
数日が過ぎた。
新しい公演が始まり、パトロンとして子爵が五番の桟敷席で舞台を観るので一度、挨拶をしておいて下さいとジリイにいわれて仮面の男は溜息をついた。
この公演の為にクリスティーナにはいつもより、厳しくレッスンをつけていた、仕上がりは万全とはいいがたい、主役だけのできが良くとも、他とのバランスがとれなくては舞台の調和が崩れてしまう、正直、難しくて調整にかなり時間をかけたのだ。
そして支配人としての仕事、こちらも大変だった、二つの仕事が重なって目が回るほどの忙しさというのは、こういうことをいうのだと実感した、色々と重なって少し疲れていたのかもしれない。
だが、支配人としてと挨拶だけでもとジリイに言われては仕方がない、そうだ、顔を見せて、これからもよろしく、オペラ座の為にと声をかけるだけでいい。
そもそもクリスティーナの元婚約者とは恋敵という事もあり面識があった、だが、兄のフィリップと直接会ったことはない、オペラ座で姿を見たことがあるだけだ。
舞台が始まる前に顔だけ出しておこうと思い、そのことをジリイに伝えたまではよかったのだ。
「子爵がいらっしゃいました。
支配人室に入って来た彼女の顔が、どこか落ち着きのない事に気づいて彼は尋ねた。
「お連れの方もいらしたのでずか、初めて見ましたわ、あんな」
驚きの混じった声に男は席を立つと急いで桟敷席に向かった。
シャニュイ家のフィリップ、女からは見れば魅力のある男なのか、劇場やレストランではいつも綺麗な女優を同伴してオペラ座にも良く訪れていた、そしてたった一人の弟を溺愛して可愛がっている。
一時は破産かとまでいわれていたのに事業を成功させ、今度はオペラ座のパトロンになったというのは幸運というものが神の気まぐれで続いただけなのか。
どちらにしても弟のラウル同様、好きにはなれないと男は思った。
桟敷席の中にいたのは子爵一人ではなかった、こんな場所に普通にいえばありえないだろう、男一人というのは、この男なら女性と一緒でも不思議はない。
席を立った子爵が握手を求めてきた、それに応えるように手を伸ばしたが、仮面の奥の視線は椅子に座っている人物に向けられていた。
何故、ここにいるのか、それも同伴者として。
椅子に座っていた女は、首を傾けて、こちらを見ると軽く会釈をした、黙ったままで。
もうすぐ始まりますね、子爵の言葉に仮面の男は桟敷席を出た。
だが、その足は支配人室ではなく、別の場所へと向かっていた。
幕が上がると女は舞台だけを賢明に観ていた。
時折、子爵が話しかけるが、熱心に舞台だけを観ていた。
そして、仮面の男は向かいの桟敷席から見ていた。
舞台に立っている歌姫、愛弟子を姿を。
歌うクリスティーナの姿、ではなく別のものを見ていた。