仮面の男は驚いた。
こんな真夜中近く、様子からして偶然出会い世間話などという雰囲気ではない。
知りたいという好奇心を止められないが、何もできない。
(雨、か)
いつもならオペラ座の支配人室に寝泊まりするのだが、今日は地下に行くつもりだった。
それが今日、今夜に限って、こんな状況を。
何を話しているのかわからない、だが、
見ているのは闇夜の中でも見える白い髪、女の姿だけだった。
泣いていた、あのとき泣いていたのだ、雨で濡れていたが。
フロローは祭壇の前に跪くと祈った、いつものように。
だが、このときの彼は敬虔な信徒ではなく、胸の中を占めていたのは別のものだった事に気づかなかった。
「帰ったというのか」
フロローは信じられないという顔になった。
「はい、バルジャンという男が、それで司祭様にお世話になった礼だと」
革袋の中には金貨が入っていた。
これを寺院に寄贈されたものだと素直に受け取る事に心苦しさを覚えた。
返そう、今までにも十分過ぎるほどの援助を受けているのだ。
ところが、支度補している間、入れ替わりに一枚の招待状が届いた。
聞いた事のない名前、だが、封書や便せんから教養の高さが窺える。
「マルキド・ヴァレンティナ侯爵もいらっしゃいます、司祭様も是非」
気になったのは、この一文だ、本人は亡くなっているのに。
それに実子であろうとなかろうと、正式に後継者がいるなら王族に連絡が行き、寺院にも知らされる筈だ。
彼の代役として愛人が来るということだろうか、以前は女優のアイリーナ・アドラーがその代役を務めていた、そして今はペアトリス・フランチェスカという銀行家と結婚した貴族の女、一度顔を見せに来た事があったが、自分がアドラーの名前を出すと不快な顔を見せた事が印象的だった。
当日、フロローは緊張しながらも屋敷を訪れた。
案内された部屋に集まっていたのは芸術家や劇場主で、何故、自分が呼ばれたのか見当もつかなかった。
「司祭様」
招待主である女はフロローの手を取ると感激したように顔を赤らめた。
「私の評判はご存じでしょうね来て下さらないかと思いましたわ」
去勢された下層階級の男性だが、結婚して今は男爵夫人と名乗っている。
芸術家、貴族、金持ちにとって性別など関係ないのだろう、周りにいる男女は彼女を女主人として認めている様子が窺える。
何故、自分がここに招かれたのか、フロローにはわからなかった。
そして驚いたことにオペラ座の支配人も来ていた。
「まだか、もしかして」
「体調がよくないとか、それにパリに来て日も浅い、顔を出すのか」
「アドラーがいないのだ、女主人が躍起になるのもわかる」
「では、噂は本当なのか」
「舞台女優が全ての権利を、だが、何故オペラ座の支配人を」
「喧嘩を売るつもりか、だとしたら無謀だぞ」
何を話しているのか、フロローにはさっぱりわけがわからなかった、だが、それは自分の隣にいるオペラ座の支配人も同様なのかもしれない。
素顔か全て隠されているなら表情は読めないが、半分だけさらけ出しているので、その険しい目つきからわかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
突然、室内がしんとなったのはメイドに案内されて客人が入ってきたからだ。
「よくいらして下さいました、さあ、こちらへおかけになって、皆さん、これで招待した方々、熬らして下さって嬉しく思いますわ」
「マダム、一体、この集まりは、どういうつちもりだい」
「亡くなった侯爵は皆さんのパトロンでした、そして、今日、彼女を、こうしてパリに、生を与えてくださったこと神に感謝しますわ、でも、それだけではありません」
ソファーにゆったりと腰を下ろし、自分の隣に座った白い髪の女に男爵夫人は腰を下ろすように勧めた。
「せっかくのお誘い、こんな格好でごめんなさい」
白いシャツに黒い着古したズボン、寒いのか、上着は室内着のガウンだ。
「いいえ、風邪が治ったばかりとか、それに、ここにいる者は誰も気にしておりませんわ、さあ、おかけになって」
全員の視線が二人に集まった。
「侯爵が亡くなり、色々とありましたが私、随分と大人しく良識のある人間として過ごして参りました、ですから、ご褒美を頂きたいのです」
「ご褒美、それは」
「今一度、舞台に立ちたい、舞台の上演権を私に譲って頂きたいのです、アドラーの温目の、おわかりですか」
「馬鹿な、彼女が承知する筈がない」
「そうだ、アドラーの十八番と言ってもいい、そもそもベアトリスが承知しない」
「彼女は関与しませんわ、必要なのは、たった一言」
「あれは父が、アドラーの為に書いた小説で」
この時、初めて白い髪の女が口を開いたが、それを否定するように男爵夫人は首を振るとにっこりと笑った。
「違います、あれを書き上げたのは」
あなただと、言わんばかりの視線が訴えかけていた。