どうして、ここに彼女がいるんだ、男は自分に問いかけた、今のは見間違いではないのかと自分に問いかけた。
仕事に追われてオペラ座の支配人室で仕方なく夜を明かそうと思ったがと思ったが、今夜は、そんな気分になれなかった。
今の自分が落ち着ける場所は一つしかない、地下だ。
暗く静かな地下、かって自分が永住の住処として骨を埋めようとした場所、それはオペラ座の地下だった。
だが今は少し離れた場所だ、クリスティーナも知らない。
地下に住んでいる者達のほとんどは住むところのない宿無しや浮浪者が多いが、一部の区域は金持ちの貴族達が二重生活を営む場所として管理されていた、唯一、安全が保障された場所といってもいいだろう。
置き手紙を残しているのでジリイにはわかる筈だ、今夜はゆっくりと寝て一日、いや、少しあそこで過ごそう。
クリスティーナは心配するかもしれない、だが、彼女にも分かっているはずだ、自分の気持ちを。
もう
以前のようには戻れない、彼女の視線が、声が、まとわりついてくるようで耐えられないのだ。
ラウルと、あの幼なじみと結婚すればいいと思うが、今の彼女に、その気持ちがないのは見ていて明らかだ。
愛していたのではなかったのか、なまに今では過去の事だといわんばかりの態度だ。
そして、助けてほしいといいたげに自分を見る、その視線を拒絶できればいいのだ、だが躊躇ってしまう自分がいた。
彼女と出会ったのは偶然が何度も重なってのことだ。
放蕩三昧でバスチーユ送りになってなくなった貴族の一人娘、だが、実子でないのは明らかだ。
一体、どういう素性なのか、それに外国人の彼女が何故、貴族の娘になったのか、愛人達の態度も何もかも不思議だった。
女なら好奇心という言葉ですませることができる、だが自分は、どうだろう、知りたいと思うのだ、彼女のことを。
そして、今、こっそりと男は女の後を付けていた。
ゆっくりとした足取りなので見失う事はないし、追いつくこともできる、だが、いきなり声をかけて警戒心を抱かせてはいけないと思い用心しながら男は後をつけた。
「何故、パリ中の寺院や教会に彼女達が多額の寄付をしているのか、芸術家達に援助しているのか、その意味がわからないのか」
青年は静かな部屋中に響く声で視線を部屋にいる全員に向けた。
「オペラ座の支配人だけでなく、司祭殿まで呼んだのは、浅はかだと思わないのか」
数日前の貴族のサロンでの出来事よくわからない。
突然現れた青年は自分と司祭に謝罪をして今夜の事はなかったことにしてほしいと言ったのだ、正直、何のことなんか意味がわからなかった。
「身内の揉めごとに関係のない方を巻き込むとはも本当にお恥ずかしい限りです、ベアトリスがプリマドンナに対して大変失礼な態度をとったとか、芸術家の方々とは良い関係を、このようなことで壊れてしまうのは本意ではありません、しかし、気を悪くなされたなら、今後の付き合い、援助も含めて」
帰り際、青年がすまなそうに謝った、自分と司祭が招待された理由は今は話せない、いや、自分から詳しくは言えないと首を振られては、それ以上尋ねる事もできなかった。
「ただいま」
女がドアをあけて中に入って行く、同居人がいるのか、一人ではないのか、閉じられたドアの向こうにどんな人間がいて彼女を待っているのか、見たいという欲求、感情に男はドアに近づいた。
中をのぞき見ることは無理だとしても、声を聞くことはできるかもしれないと思ったからだ。
ジナイーダは後悔した、アイリーナ・アドラーが海外公演を成功させていることに嫉妬を覚えた自分に対してだ。
アイリーナは元々は歌手だった、だが、その実力は決して群を抜いて秀でたものではなかった。
それが突然女優に転身したのだ、小さな劇場で客が来るのかと危ぶまれたぐらいだ。
ところが、公演の噂が少しずつ広まった。
話題になったのは元、歌手が女優に転身、だがそれだけではない。
「ドンファンの受難」
という演目のせいだ。
昔からの古典ではなく、貴族が書いた小説が元になっているということで客が少しずつ増え始めた。
歌手は女優として生まれ変わった。
あんな男の口車に乗ってしまったことを後悔した。
できることなら自分にもと頼むのは悪いことだろうか、愛人だったのたから、だが、その考えが浅はかだった。
元、放蕩貴族の愛人だった両性の歌手の末路が、こんもにも惨めなものだとは。
「まあ、知りませんわ、そんなおもしろい話」
「当時、かなりの人気でしたわ、でも、正直なところ、あの人にこんな話がかけたのかって驚いたものですが、そう今、カストラート主演の舞台が噂になっているようですわ、ご存じ」
「ええ、ミスターも興味がおありのようですが」
「お金になると思っているんでしょう、上演を本国でしようと思ってらっしゃるのでは」
「どうでしょう、気むずかしい方ですし」
噂話というのは、女性ならどこでもひそひそと囁かれるものだが、寺院の中、参拝後の女性の会話にフロローが思わず耳を傾けたのは数日前の事があったからだ。
あのときは自分が何故、貴族のサロンに呼ばれたのか、理由はわからずじまいだった。
カストラート、確か自分を招待したのも、いや、同じ人間とは限らない、だが、パリの街に芸術家や芸人は多いが、あのような人間は決して多くはない。
不安を感じた、だが、あまりにも漠然としていてわからない。
彼は祭壇の前に立つと祈りはじめた。