クリスティーナ・ダーエは疲れていた、だが、それも無理はない、新しい舞台の為に練習は毎日、夜遅くまで続いていたからだ。
舞台演出だけでなく、他の役者達との連携を取るのがなかなかうまくいかないのだ。
自分では良くできたと思っても演出家は駄目だと首を振ってしまえばおしまいだ。
だが、少しずつ、舞台は完成に近づいてきた。
ただ一つ、不満があるとすれば自分の師である男の態度だ。
ラウルとの結婚は今すぐには考えられないなら少しでも、彼と以前のような信頼できる関係を取り戻しておかなけれと彼女は考えた。
ところが、新公演の日程が決まってからというもの、なかなか会うことができないのだ、一度、稽古をつけて欲しいと頼んだが、忙しいといという事を理由に個人レッスンは、しばらくないといわれたのだ。
仕方ないと思ったが、諦めきれずマダム・ジリイに頼むと同じ返事だった。
それというのも今、オペラ座のパトロン達は揉めている最中だという。
詳しい事は話せない、だが、経営上の事だといわれると口を出す事はできないし、理由を聞く事もできない。
この公演が失敗すればオペラ座にとって不利なことになる、ジリイの言葉に彼女は驚いた、そんな矢先のことだ。
シャニュイ家がオペラ座の支援者となったこと、月々の出資金として出す金額もかなりの高額らしいと聞いてクリスティーナは驚いた。
何があったのか、だが、話を聞きたくてもラウルは尋ねてくる気配はない。
新公演の日々は、目前に迫っていた。
五番の座敷席に子爵が来る、公演の数日前になって噂が広まった、これにオペラ座の人間達は驚いたが無理もない、ただの噂だろうと信じない輩もいたぐらいなのだ。
ラウルは自分に逢いに来てくれるだろう、そうすれば詳しく話を聞くことができる。
稽古で苛立った自分の心も少しは安心できる、だが、楽屋で、こんな話をするのはどうだろう、もしかしたら食事に誘われるかもしれない。
今日の舞台は成功させなければと緊張しながらクリスティーナは舞台に立った。
舞台は成功だ、鳴り止まない拍手の音に幕が下りた瞬間、彼女は思った。
勿論、完璧というわけではない、多少、危ぶむようなところはあった。
だが、大きな失敗はなかった筈だ、自分だけでなく、コーラス、演出も全てがやりきったのではと言う感覚がある。
楽屋に戻り、急いで着替えをすませると花束を抱えたジリイが現れた。
思わずラウルは桟敷席には来ていないのと尋ねた。
「フィリップ子爵が来ていますわ」
「子爵、お兄様が」
何故と混乱した、もしかして、子爵は女性と一緒なのだろうか。
だが、以前、兄は恋人と一緒にいても、どんな場所でも平気で自分を同席させるのだと不満を漏らしていたことを思い出した。
それに、今夜は公演も子爵が後援者だと周りに知らしめる為の特別な夜だ。
ラウルが来ないという理由がない、そう考えるとじっとしていることができずクリスティーナは楽屋を出ると五番の桟敷席に向かった。
もしかしたらと思ったが、桟敷席から出てきた相手の姿を見るとクリスティーナは声をかけることができなかった。
ラウルの姿はない、兄のフィリップと女性の二人連れだ、やはり来ていないのだと思うとがっくりとした気分になった、そのとき。
兄さんと叫ぶような声で駆け寄る青年の声にクリスティーナは振り返った。
声をかけるつもりだった、だが、それできなかったのはラウルの彼の表情だ。
「なんだ、ラウル、何しに来た」
いつもならにっこりと笑って迎えてくれるフィリップの姿はなかった。
「今日は大事な日だ」
「ええ、それなのに何故、来てはいけないんですか」
「まだ分かっていないのか」
「だから結婚は延期したと」
フィリップは首を振った、関係ないと言いたげに。
重苦しい空気が立ちこめたが、長くは続かなかった。
「子爵、私、先においとましても」
口を開いたのは白い髪の女性だった。
「お宅まで送らせて下さい」
フィリップは慌てて言葉を取り繕うように女に声をかけた、そして、ここを去れと言いたげに弟を見た。
兄の態度と視線に弟は信じられないという顔になった、だが、すぐにそれは別の表情に変わった、不安の表情に。
同じ女だと、以前見たときとは別人のようだ、いや、違う、同じだ。
ただ、着ているものが違って、少し化粧をしているだけだ、それなのに。
オペラグラスで覗いていた自分の行為に、自身で言い訳をしながら仮面の男は待った、舞台が終わるのをだ。
その間、色々な事を考えていた、どうすれば、あの女と話をすることができるだろうかと、そもそもきっかけというものがない。
今まで話を、言葉を交わした事がないのだ。
思い出したのはアドラーの所有していた屋敷のことだ、売りに出したとジリイは言っていた、もしそうなら、自分が興味あるふりをすればいいのではないか。
そう思って舞台が終わると足早に桟敷席に向かった。
突然、現れたラウルに仮面の男は驚いた、離れた場所から見ていたので会話の全てが分かったわけではない、だが、二人の表情と様子から、ただの兄弟喧嘩ではないというのは感じられた。
長くはないやりとりの後、女は階段を降りていく、フィリップが声をかけるが首を振り断っている様子に仮面の男は後を追いかけた。
だが、女は出口ではなく別の通路を通って行く、下へ、下へと。
階段の奥には女神像がある、踊り場のように広さもあり、そこは待ち合わせの場所として使われるのだ。
(いた)
姿を見られたところで構わないのだが、何故か男は隠れるようにして見ていた。
女は彫刻像を見上げて、そして周りを見た。
やはり、誰かを待っているのだろうか。
だが、、そんな事を考える自分が別の場所から、クリスティーナから見られているなど、仮面の男は気づきもしなかった。