怪人はまだ恋には堕ちてません。
探偵は、暇らしいです。
やはり人を待っているのだと仮面の男は確信した。
そして、自分が立ち去らないのは誰を待っているのか確かめる為だ。
(何故、そんなことを)
ただ、気になるだけだ、まるで若い女のような好奇心が自分の中にあった事に正直、驚いた、そして後ろめたい事をしているような気持ちがあった。
「何をしているんだい」
突然、声をかけられて仮面の男は振り返った、低い声に、どうしてと思わずにはいられなかった。
「倫敦には帰ったと思ってたが」
「色々とあってね、ああ、彼女か」
視線を自分と同じ方向に向けて探偵は不思議そうな顔をした。
「気になるのかい」
「な、なんだ、それは」
どうして、この男は自分を苛立たせるのだ、自分が何かしたのか。
「声をかけてみたらどうだい、いや、代わりに僕が」
探偵は声をかけようとした、とのとき。
「フロイライン、お嬢様」
慌てたように階段を駆けおりてきたメイドらしき女は、おずおずと尋ねた。
「わ、私、ガブローシュ様の小間使いをしております、その、伝言を言付かって参りました、あなた様で間違いはないでしょうか、ヴァルモン様で、よろしいので」
女は不思議そうな顔で天井を見上げると、ああと呟き、小間使いに視線を向けた。
「ええ、ヴァルモンは父の名前です」
「申し訳ありません、ガブローシュ様は用が、仕事が外せなくて、せっかくですが、今からお会いするのは、とても」
頭を下げるメイドに女は答えた。
「オペラ座の入り口で待ってるからって伝えてくれる」
メイドは驚いた顔をした。
「本当にお待ちになりますか、外は寒うございます」
「平気よ、色々な事を想像しながら待ってるのは楽しいわ」
予想もしなかった返事にメイドは、しばし呆然とした。
「伝言をわざわざありがとう」
女が持ってバックの中から何かを取り出そうとしたが、それを察したメイドは慌てて首を振った。
「頂けません、本当にお待ちになるんですか」
頷く相手を見てメイドは呆れながらも驚きの眼差しで見た、そして思った、この女性は本気だと、オペラが終わったばかりとはいえ時間は遅い、メイドはスカートの裾を持ち上げた、急いで戻って伝えなければならないと。
ガブローシュは産まれた時から孤児も同然だった。
自分の両親か宿屋を経営している夫婦だと察していたが、両親も家族もいない、必要ないと思っていた。
街の浮浪者達と暮らしていたので気楽だった、物乞いや盗みをして毎日、生きる事に必死になっていた。
たまにだが、貴族や男に体を売る事、売春も時にはやった、これはいい金になったのだが、街の公人娼婦達から目をつけられると厄介な事なので、よほどの事がない限りは体を売ることはしなかった、だが、それだけではない、病気を貰う可能性もあるからだ。
ある貴族に声をかけられたことで、彼の人生は一転した。
マルキド・ヴァレンティナは悪名高い貴族だった、相手をしてくれたら好きなだけ報酬をやると言われて数回、関係を持ったが、ある日、突然、自分のとの関係は終わりだと言われてガブローシュは驚いた。
「おまえのような子供との関係を持つのは良くないというんだ、おまえが私のことを多少でも好いてくれるなら続けてもいいがね」
金払いはいいが、侯爵がそんなことをいうのは誰かに警告されたからだろうか、だとしたら余計なお世話だと思いガブローシュは尋ねた。
「誰が、良くないなんて言ったんだ」
すると娘だと答えが返ってきた。
侯爵に娘がいる、そんな話は聞いたことがない、愛人の子だろうかと思ったが、娘だという。
「会ってみるかい」
ガブローシュにとって出会いは驚きだった、白い髪を異国人を見た事がなかったからだ。
英語とフランス語と手振り身振りで話して、時間があっという間に過ぎてしまい、数日後、彼は学校に行くことになった。
あれから何年だろう、一昔なんてものじゃないぞ、十年だ、あのとき自分は十四歳の小僧だった。
だが、今は違う、警察署で働いている。
侯爵が亡くなったとき、学生だった彼は退学しなければならないと思っていた。
ところが、彼の愛人達が金を出すと申し出た、卒業して仕事につけ、これは命令だと言われて正直、唖然とした。
メイドから彼女がオペラ座の前で待っていると聞かされてガブローシュは驚いた。
普通の淑女、貴族の娘なら絶対にしないだろう、あり得ない、だが、彼女ならするかもしれないと思った。
待っていると言われて、それが楽しい事だと言われたら反論なんてできない。
パリに戻ってきた、体が良くなったから、これからはパリで暮らすことになる、もし何かあったら助けてあげてと言われたのだ。
(何かあったら)
それが何なのかと聞くと女優、アイリーナは嫌な顔をした、ひどく、嫌な顔だ。
オペラは終わり、観客は皆、帰途についた。
建物の周りや通りを行き交う、まばらな人影は、だんだんと少なくなっていくのは、ほんの小降りだが、雨が降り始めたせいだろう。
オペラ座の入り口に立っている人影を窓から見たとき、仮面の男は目を離す事ができなかった。
(いつまで、待たせる気だ、いや、いつまで、そうして待っている)
苛立つのは何故か、自分でもわからなかった。
窓から姿を見つけたとき、気になってしまい支配人室を出て、こうして見ている。
そんな自分がひどく馬鹿馬鹿しいことをしているのではないかと思いつつ、目を離すことができないでいた。