父の愛人がオペラ座を首になり、アイリーンは国外へ。
ヒロインはパリに在住という状況です。
「あなたの献身と奉仕によって寺院は危機を乗り越えました、感謝します」
「もったいないお言葉です、主よ、私はきる限りの、いえ、当然の事をしたにすぎません」
差し出された皺だらけに口づけたフロローは、ほっとした。
数年前からだ、経営を立て直すために努力をしてきた。
寺院の中で祈っているだけでは聖職者といえど生きてはいけない、寄付を募っても街の人間から集めるのはたやすい事ではない、だから金持ちや貴族にも声をかけるが、金を持っている人間ほど出し惜しみをする。
死んで天国に行くことが絶対だ、約束されているならいくらでも出すというが、そんな事を約束できるほどフロローは強い人間ではなかった。
しかし、ここにきてようやく実を結んだ。
自分はノートルダムの鐘、地位を確立したとフロローは実感した。
「アイリーナ・アドラーが、パリを離れた、だと」
「はい、屋敷を売り払ったそうです、実は半年ほど外国の公演が決まっているそうですが、その後も色々と予定があるようでパリにはしばらく戻って来れないと」
若い司祭は必至に、それこそ弁解するように、そんな大事な話は直接、貴方に話すようにと申したのですと繰り返した。
「貴方は、すぐに戻ってくるから直接話をするべきだと申したのです、ですが、急いでいる時間がないと仰られて」
責めたところでしかたがない、いや、もしかしてわざと自分に合わない為なのかもしれない。
「しかし、屋敷を売り払ったとは」
「そのことですが、すでに新しい持ち主は決まっているようです、ベアトリス・フランヴァルティーナという人物らしいです」
「聞いた事のない名前だ、外国人かな」
「実は、買い手の事は今はオペラ座には知らせないでほしいと言われたんです」
不可解な顔をする青年僧にフロローは、そうかと頷いた。
だが、実際のところ彼自身も何故、アドラーがそんなことを言ったのか、正直、分からなかった、パリを離れるつもりなのかもしれない。
だが、買い手がついているということは知人、知り合いだろうか、それよりもオペラ座に知らせないでほしいというのは妙だ、あそこにも援助をしていた筈だ、支援、後援をしているなら尚更だ。
もしかして切ろうとしているのか、オペラ座は何か彼女の機嫌を損ねるような怒らせるような事をしたのだろうか。
あの女性は誰だろう、真っ白な髪をした、顔も着ているものもフランス風ではない、いや、一目でわかる外国人だと。
自分の師である仮面の男が、あの女性を見ていた時の様子を思い出す。
気にしているようだった、どうして、何故、理由が分からない。
数日が過ぎて座敷席にはフィリッブが訪れたが、違う女性と一緒だった。
一度きりだったのかもしれないと思ったが、しばらくして偶然、舞台から見つけたのだ、それも一般の席でだ。
「侯爵の娘、でも結婚していなかった筈よ」
「うーん、最近になって、あたしも知ったのよ」
楽屋に入ってきたメグは色々な噂があってねと話し始めた。
「あたし、以前、街で見たの、農作業の男みたいな格好して歩いてたわ、一緒にいたのは若い男でちゃんとした身なりだったし、不思議よね」
「そうなの、何をしているのかしら」
「亡くなった侯爵って凄く変わった人だって知っているでしょ、亡くなった時は一文無しとか、だから、あの女性も、それに外国人って」
女が来たのは、あの夜、一度だけだった、あの日以来、白い髪の女は姿を見せない、フィリップと現れたということはシャニュイ家と繋がっている、アドラーは後ろ盾のようなものだと思っていたが、それは間違いだったのか。
ところが数日後、偶然、白い髪の女を見つけたのだ、何故か、一般席でだ若い男と一緒で楽しそうな顔で笑っていた。
それが若者のせいなのか、ただ純粋に舞台を楽しんでいるのかわからない、だが、ひどく、嫌な気分だった。
「降板って、舞台に出る事は来まっていたんでしょう」
「それが理由も分からずじまいで」
「体調を崩したとか、あり得ない、元気だったわ、ガブロシュ、何か知ってる」
「わからない、自分から降りたと言ってたけど」
信じられないと白い髪の女は首を振った、オペラ座の公演に出る事が決まってから、是非、観に来て欲しいと切符まで送ってくれたのだ。
それも二枚、ガブローシュの分までもだ。
何か他の理由があるのかもしれない、もしかしたら他の共演者と問題を起こしたのだろうか、怒ると宥めるのに一苦労だと父の侯爵は言っていた。
「もしかして演出家とか、他の人達にばれたのかも、どう思う」
ガブローシュは考えた、パリの芸術家の全てが寛大な人間であるとは言いがたい、そのために彼女は隠してきた、その秘密がばれたら。
「オペラ座は他の劇場と違って少し保守的なところがあるから、ありえるけど、でも彼女は今まで隠してきた、侯爵の愛人だとばれても問題はないけど」
「それが問題なの、愛人は歌手にはなれないの、オペラ座で偉いっていえば、やはり支配人という事になるのかしら」
だろうねと頷くガブローシュに彼女は決心した、会いに行くわと。
「愛人ということは関係ないと思う、他に理由、オペラ座の事情があるのかも」
「この間の舞台、貴方も凄かったって言ったじゃない、観客も皆、拍手して」
女は目を閉じた、数日前オペラ座の舞台を思い出したのかもしれない。
理由を知りたいと女は出かける支度を始めた。
「面会だと、今は忙しいんだ分からないのか、ジリイ」
机の上の書評の書かれた新聞を観ながら仮面の男は半分覗く素顔に皺を刻ませた不快な顔で答えた。
「わかります、でも相手は是非ともお会いしたいと、断るのは正直、まずいのではないかと思うのですが、どうしましょう
歯切れの悪い言い方だ、いつもは相手を怒らせても平気な顔をしているくせに、その態度は、なんだと仮面の男は苛立ちを押さえる為に新聞を手に取り、昨日の舞台に対する記事に目を通した、批評家、評論家達の欄に。
「面会を求めているのは、娘だと申しております、亡くなったマルキド・ヴァレンティナ侯爵の」
新聞の批評を読んでいた男は顔を上げた、
「娘、だと、通せ、すぐに、ここにだ」
この反応にジリイは少なからず驚いた、予想とは違う反応が帰ってきた事に驚いたのかもしれないが、何も言わず彼女は部屋を出た。
ノックの音と同時に入ってきた相手を見て仮面の男は慌てて窓の外を見た、雨が降っている事にさえ気づかず自分は新聞の書評に夢中になっていたか。
「どうぞ、おかけ下さい、その前に濡れた髪を」
だが、相手は首を振ると聞きたい事がありますと自分に近寄ってきた。
「先日まで舞台に出ていた女優の事です、何故、首になったのか、理由を教えてほしいんです」
「女優、ですか」
突然の話に男は戸惑った、何故と思いながら名前を尋ねた。
「ベアトリス・フランです」
仮面の男は名前を頭の中で繰り返したが、そんな名前に心当たりはない。
「間違いで、いや、人違いをしているのではないですか」
すると女は首を振った、そのときドアの向こうから音が、そしてノックも無しにドアが開いた。
ドアが開き、飛び込んで来るような勢いで部屋に入ってきた相手を見て仮面の男は思い出した。
ところが自分が口を開く前に切り出すように相手は口を開いた。
「オペラ座では、もう歌わない」
それは明らかに男の声だ。
「何故、来たの、ガブローシュから聞いて慌てたわ、余計な事はしてほしくない、自分からやめたのよ」
部屋の中はしんとなの、白い髪の女は頭を下げると静かに部屋を出て行った。
部屋の中は二人きりになった。
「支配人、あの人は何しに、ここへ」
「君がオペラ座を辞めさせられた理由を知りたいと来たんだ」
歳はクリスティーナと同じくらいか、仮面の男は探るように相手を見た。
金色の長い髪、女性にしては背も高い、よく見ると体つきもだ、化粧のせいかもしれないが、男性の特徴は完全に消せる者ではない。
「ジリイから話を聞いていたが、カストラートなのか」
「色々と理由があるんです、こちらにも、でもオペラ座には似合わないでしょう、何せ、作り物ですものね、去勢された男なんて」
「人事の事はジリイに任せていた、辞めるのが本位でないなら続けてもいい」
「俺が舞台に立って歌ってもいいと」
パリのオペラ座がカストラートの存在を許すなんて前代未聞だと驚いた顔で相手は支配人さんと呼びかけた。
「群舞で歌う事に不満はない、ここで歌うのは自分の力を試したかったという意味もあってね、でも」
「他に理由が」
「あの女と同じ舞台には立ちたくないわ」
声のトーンが、突然、女の声に変わり、プリマドンナと相手は叫んだ。
「可愛らしい顔をして人の事を犬みたいにかぎまわって、挙げ句に失礼千万な言いがかりをつける嫌らしい女だわ」
「君のことを調べていたと」
「あたしのこと、どうでもいいわ、私は神は信じないけど最低の礼儀ってあるじゃない、でも、あの女には持ち合わせてないんじゃない、死者への冒涜ってやつかしら」
「亡くなった侯爵のことか」
言いかけようとして相手は口を閉じた。
「どちらにしろ、あの女も、恋人だという貴方の顔も見たくないわよ、せいせいしたわ、告げ口は嫌だからアドラーには内緒にしておくけど」
仮面の男は近寄ると相手の腕を掴んだ、少しずつだかわかってきた。
クリスティーナは、このコーラスガール、いや、歌手のプライドを傷つけるような事を言ったのだ、それは多分、侯爵のことだろう。
だが、侯爵の噂は誰もが知っていることだ、投獄されてからも以前も悪名で知られていたのだ。
「彼女の無礼な言動は私が謝る」
「あたしに謝っても意味がないわ」
「では、誰に」
「もう来ない、あたしの舞台を観に来たのよ」
仮面の男はしばし言葉を失った。