天使を描いた画家がいる、その話を聞いた仮面の男は一笑した、三文芝居の見出し、いや、街中の大道芸の人形劇だって、もっとましな文句で客寄せをするだろうと。
多分、その画家は酒浸りで呆けた頭で薄暗い娼館の一室、馴染みの娼婦でも描いたのだろう、そんな絵に、どんな価値があるというのか。
売れない芸術家、画家は大勢いる、道端でキャンバスを広げて風景や建物を描いて目を止めてくれる人間を待つ、金が入れば娼婦や知り合いの人間にモデルになってくれと頼んだりもするだろう。
画家が口がうまく、顔や身なりが少しでもよければモデルになって、少しはいい思いをしようと相手は考えるかもしれない。
天使、その言葉がふさわしいと思われる人間を彼は知っている。
それも二人、自分という存在を最も憎み嫌っていた女、この世に自分を生み出した女だ。
近寄る事も伸ばした手を掴んでくれる事もなかった。
死んだら天使になるのではないかと、そんな思ったが、ただの腐った肉の塊にしかかならなかった、それどころか、時折、夢の中に現れては自分を怯えた目で見るのだから、始末におえない。
もう一人はクリスティーナ・ダーエだ。
だが、今の彼女は天使という言葉には、ほど遠い。
それが、自分の、いや彼女のせいなのかわからない。
もし、彼女が今、自分と結婚したいと言い出しても、その言葉を素直に受け入れる事はできないだろう。
恋の熱が冷めたのか、愛情というものを、いつからか勘違いしていたのか。
ラウル・シャニュイの存在が全てを変えてしまったと、少し前なら憎んでいたのに。
今では、彼の存在も、行動も、どうでもよいと思うくらいだ。
最初から全てをやり直したいと思う事があった。
どこから、自分が産まれたところから、そんなことは天と地が逆さまに入れ替わったとしてもできるわけ、叶うわけがない。
自分が最初から捨て子で、いや、天使の腹から産まれたなら多少なりとも愛情というものを感じられることができたらと、今更ながら思わずにはいられなかった。
仕事が少し暇になり、忙しくなくなると男は街に出た。
ただの散歩のつもりだった、本屋、古道具、足の向くままに一人で散策するのは久しぶりだった。
「旦那」
振り向くと浮浪者のような男が、まるで自分を値踏みするような顔つきで見ている。
「人形は好きかい」
「嫌いではないね、だが、違反だろう、捕まるぞ」
突然、相手は笑い出すと女の斡旋じゃねえよと首を振った。
「警察の取り締まりも厳しいからな、商品は天使だ」
男は噂では聞いたと呟いた。
天使をモデルにした絵画や彫刻の売買は決して違法ではない、だが、それが性や品格にそぐわないものとなると警察や寺院、教会がいい顔をしないのだ。
胡散臭い話だなと思っていると相手は、にやりと笑いながら上着のポケットをめくった。
薄汚れた服の下には仕立てのいいシャツを着ているのだ。
この時になって気づいた、この男は本物の浮浪者ではない、を装っているだけだ、そして客を選んでいるのだと。
「生きた天使ではないだろうね」
「いいや、芸術家の支援をしているだけだ」
そこで仮面の男は一枚の絵を見つけた。
いや、正直にいうと出会ってしまったといったほうがいいだろう。
一枚の女の裸体、デッサン画だ、後ろ姿なので顔は分からない。
だが、そんな事はどうでもよかった、気になるのは背中だ、まるで火傷のような大きな傷で覆われている。
(この仮面の下よりも、ひどい)
創造を駆使して描いたのだろうか、それとも。
考えているとモデルがいるんですよと自分を案内してきた男が声をかけてきた。
だだのデッサン画だ、だが、迷う事もなく購入したいというと自分を案内してきた男は難色を示した、この絵は、あと数日はここで展示したいと言われて男は悩んだ。
「実は他にも購入したいという客がいまして」
「その人間の提示金額より多く払うと言ったら」
すると男は迷う素振りも見せずに首を振った。
「信用の問題ですよ、芸術家を支援する為には色々とありますから、昔のように金さえ出せば全てが解決するとは思われないほうがいい、支配人さん」
「私を知っているのか」
「有名ですよ」
「この画家の他の作品は」
「風景がばかりで気に入るとは思えませんが、この絵が気に入ったのでしょう」
仮面の男は静かに部屋を出た。
「まあまあ、なんておもしろいご冗談を、まさか、司祭様、本気で、仰ってらっしゃいますの」
女は笑い声、葬儀が終わった後なのでフロローとしては、それを咎めるつもりはなかった、だが、それにしてもでも笑いすぎだろうと思えるくらいだ。
女は尋ねた、どこで、そんな事を聞いたんですかと。
あの日、老人が寺院を訪ねてきてから十日あまりが過ぎて、それはあまりにも突然だった、メルベイユが亡くなったのだ。
高齢という事もあったが、心臓がかなり弱っていたらしい。
驚いたフロローは葬儀に参列することを決めた、だが寺院の代表としてではなく、個人としてだ。
そして、葬儀が終わり、取り仕切りをしていた女性に声をかけた、亡くなった本人と親しいと思われたからだ。
「司祭様、人は見かけによらないといいますでしょう、メルベイユは昔、プリマドンナに恋をして、それ以来、ずっと一人です」
「プリマドンナ、ですか、もしかして女優ではないですか」
「ああ、そう、今は女優、アドラー、でしたわ」
「そうですか」。
「今でも好きなんでしょう、男の人にしては彼は浪漫がありすぎ」
女は笑いながら人形を見た事はありますかと尋ねた、皆、どこか、彼女に似ているんですよと言われて、何故かフロローは恥ずかしくなった、自分の事ではないのにだ。
「これからは、ゆっくり休んで欲しいと思うんですけど、きっと向こうでも人形を作ってるんじゃないかと思うんです、あら」
突然、女が声を上げて手招きした。
視線をあちらへ向けたのでフロローも、そちらを見た。
「嬉しいね、ああ、こちらはノートルダム寺院のフロロー司祭様、わざわざ来てくれたんだよ、あの男にも信心の心得があったのかと驚いたけどね」
女が自分に頭を下げるとフロローも軽く会釈をした。
「あんたのことはどう説明しようか、まったく、自分の名前を思い出せないっていうのも難儀なことだわね」
「名前を、思い出せないとは」
フロローは驚いたように尋ねた。
「ああ、実は」
忘れてしまったんですよと自分の事、全て、その言葉にフロローは無言になった。