オペラ座で見知らぬ武神に頬を叩かれたプリマドンナ。
その理由は。
絵は売れてしまった、後日、そう聞かされたとき、男は諦めるしかないと思った。
だが、そう思いながらも絵を描いた画家に会ってみたいと言葉を続けた、ところが、すげなく断られた、無理かもしれないと思い、金を出すからと言っても駄目だった。
「他の絵なら構わないんですが、あれは最初から条件付きで出されたものなんです、こちらとしても勝手に売買する事はできないんですよ」
その言い方に引っかかりを感じると男は尋ねた。
「最初から売るつもりはなかったのか」
相手は首を振った、とんでもないといわんばかりに。
「買い手が決まり、絵が売れたとは事実です、それで画家は自信を持った、十分だと思いますがね」
「確かに、言う通りだ、だが」
「ご不満は分かります」
よほど気に入られたようだと男は少し考えこむように思案顔になった。
そして呟きを漏らした、絵はありませんよ、燃やしたんですからと。
「何だと」
「私の目の前で燃やしたんです、料金は払って頂いたので文句は言えませんでしたが、二万フラン、貴方は払えますか」
たった一枚の、あのデッサン画に、それだけの金をと思うと男は何も言えなくななった。
寺院の中をゆっくりと歩きながら信者の顔を見るフロローは、その姿を見つけて、ほんの一瞬、視線をそらした。
あの容姿だ、初めて見た人間は驚いたりする、だが、見慣れてきたのか、異端の視線を向ける者は寺院の中では少なくなってきた。
彼女には数日前、メルベイユの葬儀で会って以来だった。
「何か、悩んでおられますか」
静かな寺院の中では修道女と数人の信者がいるだけだ、なかなか席を立とうとしない女にフロローは思わず声をかけた。
何か言いたげな顔だと思い、話しかけられるのをフロローは待った。
不意に女が口を開いた、教会や寺院には懺悔室がありますよねと、悩みを聞いてくれますかと聞かれて、勿論と頷いた。
「神は全ての人々に扉を開いています、いらっしゃい」
フロローは、さあと声をかけた。
決して広くはない部屋の中、ついたてを挟んで声をかけた。
緊張を覚えてしまう自分にフロローは、正直、戸惑いさえ覚えた、今まで大勢の信者相手に何度も繰り返した行為だというのにだ。
突然、椅子の倒れる音がした。
懺悔という行為に怖くなったのかもしれない、慌ててフロローも立ち上がった。
「待ちなさい」
腕を掴み、間を縮めるように引き寄せた。
「あなたは悩んでいる」
神の代理として人々の苦しみや後悔を聞くのは、当たり前のことと声をかけた、だが。
「こんなことを懺悔をしようなんて、自分は、なんて」
自身を責めているような言葉に思わずフロローは違うと叫んだ。
「父は悪人ですか」
すぐには何も言えなかった。
「牢獄で死んだら罪人ですか」
世間は皆、そう言う、だが。
「色々な事を、悪い事も沢山しました、しかたのない人だと世間はいうけど、でも、そんな事、それだけは絶対に」
「何を、です」
フロローは尋ねた、自分の声が震えているような気がした。
冷静にならなければと自分に言い聞かせながら、掴んだ手を離そうとした。
だが、何故か、それができずにいた。
何故、自分がとクリスティーナは驚いた。
叩かれた頬の痛みよりも驚きの方が強くて、相手を呆然と見上げた。
着ているもの、その容姿から上流階級の人間だと一目でわかる、だが、自分に向けられた表情は怒りだ。
オペラ座の入り口付近での騒ぎに、周りにいた人々の視線が集まるが無理ない。
だか、叩かれた本人も相手も、周りの声など気にする様子もない、そのとき何の騒ぎかと駆けつけてきたのはオペラ座の支配人だった。
「どうした、この騒ぎは、クリスティーナ」
視線を向けるとプリマドンナは視線をそらして、わずかに俯いた、説明しようにも理由がわからないのだ。
「マダム、よろしければ、あちらで事情をお伺いしたいのですが」
「いいえ、ですが、どうしても知りたいと思うなら彼女から話を聞けばよろしいのでは」
この言葉にクリスティーナ・ダーエは思わず叫んだ、わかりません、貴方は誰ですかと。
「妹を、家族を侮辱されて平気でいられるほど、できた人間ではないんです」
それではと女は背を向け、開いているドアへと向かった。
だが、途中で振り返り、貴方の方が身持ちが悪いんではなくて、プリマドンナと投げ捨てるような言葉を放って、笑いながら出ていった。