探偵登場
クリスティーナ・ダーエの一件がなければ、こうして知り合うこともなかっただろうと仮面の男は思っていた。
あの絵を欲しいと思っていたのに、今は、どうでもいいとさえ思ってしまう。
それは絵のモデル、本人に会ったからだ、それにプリマドンナの非礼を詫びたことで話す事もできた。
日曜日、今まで仕事が忙しいと支配人室に籠もりきりので出かける事などなかったのに、仮面の男は服を着替えて鏡の前で支度を始めた。
帽子、ステッキ、ハンカチに、それから、支度をしながらも途中で何度も確かめる。
時計を見ながら、男が出かけたのは日曜の礼拝だった。
巴里には大きな寺院、小さな教会は、それこそ沢山ある、出かけたのはノートルダム寺院だ、というのも、この間の会話から、彼女が日曜の礼拝に出ている事を聞きいたからだ。
やはり日曜ともなると人が多いのか。
建物の中に入ると中に男は視線をゆっくりと動かした、だが、見つけることができない。 あの容姿、髪の色からして難しくはないだろうと思っていたのに。
仕方ないと思いながら後ろの空席を見つけて座ると司祭が姿を現した。
落胆した気分になったのは、これから始まる決し短くはないと感じたからだ。
しかも、話をするのがクロード・フロローときている。
厳格な聖職者、最近になって事務所の管理を任されたと聞く、いうなれば寺院で最高の権力者というわけだ。
正直、今からでもいい、ここから逃げ出したいと思った時、司祭が聖書を手にして咳払いをした。
「アーメン」
司祭の話が終わった時、仮面の男は、ようやく帰れると思い、ほっとした。
席を立って出て行く人々の姿を見送っていたが、その視線が突然、釘付けになったように止まった。
前方から、こちらに向かって歩いてくる女の姿を見たからだ。
(声をかけて、いや)
わずかな躊躇いを覚えながらも足が自然と動き始めた、そのとき、先生と呼ばれた。
「クリスティーナ、おまえ、どうして」
ここに居るのか、すると日曜の礼拝に来ているのが、そんなに珍しいのかと言わんばかりに彼女は笑った。
「先生こそ、最近は忙しいと部屋に籠もりきりで、さあ、帰りましょう」
思わず後ろを振り返ると女は司祭と話している、外に出たものの、男は自分を連れ出そうとする女に声をかけた。
「先に帰りなさい、私は大事な用がある」
「ああ、やはり、その髪」
寺院の中に響き渡る声に女と司祭は振り返った。
近づいてくる相手が男なのか女なのか、すぐにわからなかったのは、ドレス姿なのだが、その顔は明らかに男だったからだ。
「お久しゅう、私、ルブランですよ」
女の右手を両手で包み込むようにして口づける、それと同時に嗚咽がこぼれた。相手が泣いているのだと気づいて女は慌てて声をかけた。
「お元気になられて、さあ、参りましょう」
「ビストロです、あら、司祭様の前で不謹慎でしょうか」
「まだ昼前よ、明るいのに、酒を飲むの」
「銀の麦ですよ、そうだ、司祭様も御一緒ならいいでしょう」
金の麦が阿片洞窟の代名詞として有名なら、ここパリの銀の麦は、どうなのだろう、いや、こんな場所があること自体、フロローは知らなかった。
中に入るまで、そこがどんな場所なのか想像もつかなかった。
店の中に入ると思ったよりも静かだった。
「色々な人間がいます、芸術家、寺院の修復をした建築、彫刻家もいます、有名、無名、様々です、寺院の修復に参加した若い職人もいます」
ルブランの言葉にフロローはそれでと合点がいった。
先ほどから自分と目が合うと、頭を下げる数人の人間がいたからだ。
「ルブラン、詩の朗読でもしたらどうだ」
「カミラ」
昼間から来てたのかとルブランは驚きの顔で相手を見た、すると教会の修繕だよと相手は笑った。
「詩人はとっくに廃業だよ」
「連れがいるんだから、それにMr.Yが来ているらしいよ」
「噂だろう、外国の興行主がパリに何の用があって、それより、こちらはノートルダムの司祭様だ、失礼のないように」
「これは挨拶もせずに失礼を、なあ、皆、少々、退屈している即興で何かしてくれよ」
「では詩、いや、彼女が歌うわ」
そう言って、鞄から取り出した紙切れを隣にいる女に渡した。
「伴奏はないから読めばいいのよ、朗読だと思えばいいじゃない」
「無理よ」
「読み聞かせてあげたでしょう、そしたら喜んでくれたわ」
詩人が朗読するサロンや集会などであるので決して珍しい事ではない、だが、女性となると珍しい。
「イタリア語、なんともまあ」
「これ、ルブラン、初めて作った曲でしょう」
「ピアノがあれば」
女の朗読が終わると突然、一人の男が立ち上がった、自分がピアノを弾くから歌ってと。
「人前で歌うなんて初めて、凄く緊張したけど楽しかった」
「それはよかった、司祭様はどうでした」
「ああ、とても素敵でした」
正直、フロローは少しばかり後悔した、女の歌が終わると店内にいた人間は拍手と賞賛の言葉を皆が、いかにも芸術家らしくかけていたからだ。
それに比べて、自分の言葉ときたら、あまりにも平凡で陳腐だと思ったからだ。
「しかし、オペラ座の支配人が声をかけてくるとは、歌の才能があるのかもしれませんよ、あなた」
「いや、それはないわ」
屈託なく女が笑うと、ルブランは良かったと呟いた。
「実はバルジャンが数日前に釈放されたんです」
「その人は誰」
「アイリーナ・アドラーを恨んでいる男、パリにいないので、あなたを酷い目に遭わせるかもしれません」
「逆恨みってこと」
「分かりません、でも何かあればあなたを寺院に匿う事も考えています、これはベアトリスの考えですが」
突然、寺院の名前が出てきた事にフロローは驚いた。
「寺院に多額の寄付をしている、困っている人間を神は見捨てると仰いますか、司祭様」
「それは」
「オペラ座にも寄付をしていましたが、今となってはそれも無駄といえなくもない、ベアトリスは支配人に対して良い感情は持っていないでしょうから」
「その男は彼女に危害を加えると」
「ルブラン、物事を悪い方に考えすぎよ」
「思い出して下さい、あのシャンデリアの落下、警察の介入をアイリーナが拒んだ事、最初は反対していたベアトリスが彼女の意見に従ったこと、あなたは彼女を庇って何も見ることができなかった」
「古い劇場だったわ、シャンデリアは」
「あなたは数日前から一人で暮らしだ、ペアトリスは心配していますが、自分が言えば、あなたは行動を、バルジャンに会おうとするかもしれない、だから倫敦の探偵、シャーロック・ホームズを呼びました、ねえ、探偵さん」
「ええ、そうです」
返事と共に酢がちを泡和した男に女は顔をわずかに伏せた。
「このまま、あなたはノートルダム寺院に行ってほしい事件が解決するまで」
「ずっと、一日中、出るなと」
「いいえ、それはありません、事件の進展は逐次、報告しますから」
探偵の言葉に女は聖域にと呟き、背を向けた。
寺院まであと少しだというのに、どんな言葉をかけたらいいのかわからず。
振り返る事もできず、そんな自分の無力さにフロローは後ろめたい気分を味わっていた。