───ごどり、と。自分の中で歯車を切り替えた。
欲望が尽きない? 言ってろ、んなもん垂れ流したって受け入れられないことなんて、とっくの昔に思い知っている。
結衣なら受け止めてくれる? 泣いてるじゃねぇかよ、あほ。
「……結衣」
必要なのは欲望じゃないよな。俺達に限って言うなら、信頼と……幸福だ。
痛みを寄越すヤツには心の中で牙を剥け。
やさしくするヤツには警戒しろ。
そして……信頼出来るやつには、普段はぶっきらぼうでも、いざという時には信頼と、自分が出せる精一杯の幸福を。
大きく深呼吸をして、キスをした。頭を撫でて、もう一度名前を呼ぶ。
すると、ぴくり、と瞼が動いて……ふるるっと震えながら、結衣は目を覚ました。
「ん……あ、れ……? あ…………ひっきぃ…………♪」
ほれ。これが、目を覚ました時に、信頼する人が居るやつが出来る笑顔だ。眩しいだろ。
こんな眩しいものを欲望で壊すとかアホか。天使汚すべからず。ただし恋人は愛せ。婚約者はひたすら守れ。あと、ぼっちなめんな。……一回気絶した相手にやらかしました。ママさん、ついでにぼっち大菩薩様、ごめんなさい。
「あ、あたし……寝ちゃってた?」
「いや、気絶した」
「気絶したんだ!? え、わ、うわー……そうなんだ……! そんなの初めてだ……! ……あ、またヒッキーに初めて、してもらっちゃった……えへへぇ……♪」
あーもう眩しい。もういい? 抱き締めていい? もらっちゃっていい? おい、だから落ち着け欲望。
「で、でもすごかったのは覚えてるよ? なんてのかな、あのね、こう、びびってきてね? ずくんってきて……えと、うん。き、気持ちよかった……っ……えへへ……」
ああもうなんでいちいち可愛いんだよ。欲望とか横に捨ててもらっちゃっていいですか? それもう欲望だよ。
指同士のみ軽く合わせた手を口元に持っていって、ほにゃっと笑う女性がとんでもなく可愛く、そして美しいことを、俺は本日……知りました。
あまりに可愛いから抱き締めたくなったが、手を伸ばそうとして、乱暴に動けばぶちりといくことを思い出した。
「っと、……悪い」
「あ、ううんっ、あたしの方こそごめんね。あの、えと、まさか気持ちよくて気絶するなんて、本当にあるなんて思わなかったし……」
「本当に? ……なんかそんな話でも聞いたのか?」
「うひゃあっはうわはぁっ!? ななななんでもないよなんでも!」
「あ、おいっ、あんま暴れんなっ」
「わ、あ、うんっ、はいっ」
照れ隠しで暴れまくる幼馴染さんは、どうやら気持ちよくて気絶したってことがとても恥ずかしいらしい。さっきからテンションおかしいし、必死になって誤魔化そうとしているのが手に取るように解る。
「それで……結衣? 体はどうだ?」
「あ、うん。けだるい感じはするかな。でもさっきほどじゃないよ? むしろほら、お昼寝とかちょびっとしちゃった時、なんでかやたらと頭が冴えちゃう時とかってあるじゃん? あんな感じかな」
なるほど、それは確かに経験がある。
なんつったっけか、科学的に証明されてんだっけ? 10~40代は10~15分あたりの睡眠がいいっていったか。
ところで気絶も睡眠に含まれるのん? ……まあいい。
「……どうする? 続けるか?」
「続けるっ! 途中でやめたらほんと怒るよっ!?」
「……元気な、お前。こっちはもう薬と執拗なシゴキの所為で、俺の体はボドボドダ状態だってのに」
「なにそれ? あ、でも、うん。だったら、ヒッキーもちょっと休む?」
言って、俺の下でベッドに背を預ける結衣が、恥ずかしげに、だけどにっこり笑って両手を広げる。
……え、なに? その胸で寝ていいの? ……まじ? まじなら今すぐにでも───い、いや、今はいい。
「悪ぃな。たぶんこれ、一度オチたらしばらくは起きられん」
「え……そなの?」
「薬の熱さがずっとな、腹、とは違う妙なところで渦巻いてる感じだ。たっぷり時間使ってくっついてたけど、その最初っからじりじりとこう……あれだよ、体力が奪われてる感じだ」
その原因は、まあ解らんでもない。
薬の所為でこんなご立派様が起立していることから推測できるのは、俺の中の貴重な栄養が、物凄い速さでその……なに? 精液に変換されてる、ってことになるんだと思う。
だって量おかしいもの。普通の男性の量がどんくらいかは知らんが、何回出しても量が大して減らないのは明らかにおかしい。
だから多分、このけだるさと若干の気持ち悪さの中で寝たら、体力が回復し切るまで目覚めはしないだろう。
「んと……ヒッキー、明日新聞配達は?」
「明日休刊日だろ。朝の配達はあるけど夕方はねーんだ。そーゆー日は夜の人が変わってくれってんで、俺は一日休みもらってんだ」
「そうなんだ……じゃあ本屋さんは?」
「休みだ。休む時はとことん休むが俺のモットーだからな」
モットーモットーサービスモットー。……大人になってもサービス残業とかはしたくねぇな。
「んと……ヒッキーはさ、どうしたい……のかな。あたしは続けてほしいけど、ヒッキーがどうしてもっていうなら……がんばって我慢する」
「………」
おい。なんでお前そうやって人のことヒロインにしたがるの?
普通逆でしょ? 逆だよね? 男ががっついて、だけど男が頑張って我慢するんだよね? なんなの? 俺にまた女子力高すぎっ……とか思わせたいの? 例の鼻と口を両手で覆うポーズさせたいの? 俺、さっきお前がとった似たようなポーズを美しいって思ったばっかなんですが?
「正直に言っていいか?」
「え? あ、うん。やっぱだめだよね。ヒッキー、もう疲れて───《きしり》……ヒッキー?」
身体を曲げて、俺の枕に肩から頭までを預けている結衣の顔の隣に、きしりと肘を立てる。
結衣はきょとんとした顔のあと、近すぎるくらいの俺の顔に顔を赤くして、「え? あ、ぇぅ……? ち、ちか……近いよ? どしたの……?」と、期待を込めた目をちらちらと向けながら戸惑い───
「───お前が欲しい」
「───……ぁ……《ふるるっ……!》」
ぽしょり、と耳元で囁いた言葉に、身体を震わせ、涙を滲ませた。
どこかテンションが高かった様子も一気に消えて、顔どころか身体が一気に熱を持ったように赤くなり……静かに持ち上げられた両手が、おずおずと俺の頬に触れ……引き寄せられ、キスをした。
それだけで、あっという間に心の準備が出来てしまった。
やかましく鳴っていた鼓動は、きっとやかましいままだ。
めちゃくちゃにしたい衝動だって、無理矢理押さえ込んだだけで、心の中で蠢いている。
綺麗なものを汚したい、やさしいなにかを壊したい。そんな捻じ曲がった純粋さが、捨てきれずに燻っている。
だというのに、それらを上回るほどに心を、体を支配してやまないのは───“幸せにしたい”という単純な、なにをおいても優先したくなるような、それこそずうっと昔のガキの頃からこじらせてきた、初恋男子が夢見た願いだけだった。
ガキってのはいい意味で真っ直ぐだ。アレコレだから、こういうわけでこうしたい、じゃない。楽しみたいと思ったら楽しみたいとしか言わないし、悲しかったらギャン泣きするしな。なんでもかんでも我慢する大人になんか、大層な理由がない限りなるもんじゃない。我慢がきかなすぎるアホにもなるべきじゃないが。
けどまあいろんな思いや、そのー……なに? 欲求? そーゆーのを前に出した自分で行きたいっつーのなら。コレコレこういうことだから幸せにしたい、なんてもんじゃなくてよ。……ただ普通に、幸せにしたい、でいいんじゃね?
ガキの頃、なにがどうなれば幸せなのか、なんて考えなかったろ。楽しいことは楽しいことでしかなくて、悲しいことは嫌いなことだった筈だ。
難しく考えることなんかねぇんだよな、つまり。
俺はこいつを幸せにしたい。どうすればいいか、なんてのは考えず、ガキの内はガキに出来る精一杯で。現実と身の程を知っているぼっちには、容易い選択だ。
「───」
“現実と身の程を知っているのなら、お前が彼女に手を出すことの何処が現実で身の程に合った行為だ”
ふと、そんな声が聞こえた気がした。
それはたぶん、いつか俺が抱いていた劣等感からくるもの。
……彼女は人気者だ。空気が読めて、会話も上手い。やさしくて、綺麗で、可愛くて、笑顔が似合う。
同じ教室に、こいつが気になる男子が果たしてどれほど居るのか。
“身の程を知っているというのなら、まずは離れることからするべきだ”
まあ、そうだ。大抵はそれを選ぶ。小説漫画アニメドラマゲーム、青春物語を挙げたらキリがない。当然現実にだってそんな擦れ違いは存在する。
“身の程を知って、やさしい人から離れて諦める俺、物解りってものを正しく捉えててカッコイイ!”ってか。
確かにそれでいいのかもしれない。相手の女がどう出るか、どう思ってるかによって、話も変わってくるだろう。
だがだ。お前の言う身の程ってのは誰が唱えて誰が受け止めた身の程だ。
頑張りゃ取り戻せるものだって、築き上げられるものだってあった筈だ。それを“今出来ないから諦めます”なんて、想ってくれた相手にも、なにより自分の可能性ってもんにも失礼だ。ま、自分の可能性については自己責任だからしゃーないか。なにせぼっちだ。だが、ぼっちだからこそ自分を高める時間はある筈なんじゃねーの?
では問題。今のこの状況における俺の身の程ってのはなんだ?
目が腐ってる? ぼっち? 人が苦手? むしろ嫌い? まあいろいろあるわな。世の中腐ってる、こんなに辛いのは世の中の所為だ、なんて言ってりゃなんでも世界の所為に出来て楽だし。
そこに、“でも”なんてつける気も起きない。実際ひでぇし、この世界。
腐ってて、やさしくない世界だ。それが世界だ。そこで生きていくしかないんだ。
楽しいこともそこそこ。嬉しいこともそこそこ。悲しいことと辛いことは山ほどな。これ大事。腹立つことはその数倍だ。腐ってるだろ、この世界。
なにを言いたいかっつーとだ。
世界はそれでいーよ。変わりようがない。変えようもない。変えるったってどう変える。願って変わるなら今頃ピュアな目をした八幡さんが、笑いながらパンかじった結衣と曲がり角で衝突してるだろうよ。
だから世界はしゃーない。じゃあどうするか。“変わらない自分を目指した自分”を変えていくか、“誰かに、何かに変えてもらうか”だろ。
きっかけはまあ……いろいろあるだろ。どれがきっかけになるかがまるで解らないから、それらは全部世界の所為にしとけ。それでいい。八つ当たりを理解しながら、そこそこの楽しさで笑って、辛いことを乗り越えて、いつか見つけられりゃぁそれでいいよ。
そこで変われたら、それを勝利と取るか敗北と取るかだ。
俺はいつか、変わらない自分を目指した。目指そうとした。
家族に構ってもらえなくても、とりあえずは養ってもらえるのならと、そんな世界に埋没してしまおうと思ったことがある。
そっちへ行けば、将来の夢はきっと専業主夫とかだったんだろう。働いてくれる最高のパートナーを見つけて、自分は自宅で、なんて。きっと買い物の大変さも炊事洗濯掃除の面倒さも、なんも考えずに適当な楽な道を選んだんだろうさ。
小学のガキが考えることだ、金の管理の仕方なんて、当然頭にあるわけもない。家事のスキルもそこらで止まって、いつしか小町がやり始めていたかもしれない。
なにかがひとつ違ったなら、なんてよくある話だ。俺にとって、それが結衣だったから。
世界はしゃーない。それでいい。
俺はどうだい? しゃーないか? 変われるか? 変わらないで幸せに出来そうか?
頑張れる理由をくれた相手を、ただ幸せにしたい。勇気をもらったから幸せにしたい。そういう理由の全部をひっくるめて、ただ単に幸せにしたいって、ガキみたいに夢を見れそうか?
“本当”を信じたかったよな。今でも覚えてるよ。ああ。思い出せる。
嘘だろうと信じていたかった、ちっぽけな世界だったよな。そんなちっぽけが全てだったんだ。
信じることに絶望して、なにもかもが嫌になったよな。
“正しいと信じたものを真っ直ぐに貫き通すのが正義だ”とヒーローが叫んでいた朝を、今でも思い出せるよ。夢にその場面が出て、起きたら悔しくて泣いていた、なんてこともあったよな。
だってのに、正義から学んだのは“正義で自分は救えない”って現実だけだったよな。
一丁前に悟った顔して、抗うことを諦めそうになって。
俺はなにを求めたっけ。本当の先? そこにどんな幻想を抱いて、声を上げて泣いた?
本物
……陳腐な言葉だって、今ではそう思う。
散々並べ尽くされた、見飽きた言葉だろう。俺もそう思うよ。
それを求めた過去はあった。それだと思っていたものが幻想でしかなくて、泣きもした。
それでいいんだよな。そんなもんだ。自分の願いなんてそうそう世界は聞いてくれない。
それでいい。
だから……だから。
自分のために変わるのは…………もう、やめてもいいんだって、思ったんだ。
自分が自分のために求めた本物なんて、きっとずっと昔に世界が壊してしまった。
“あの頃は戻らない”。
この世界じゃよくある言葉だ。ずっと昔からある言葉。誰もが抗えず、現実に涙をこぼして諦めるしかなかった、強い強い、ひどい言葉。
本当を求めていた世界は綺麗だった。色が色としてそこにあって、灰色ばかりの今とは違った。
馬鹿みたいに信じていれば、それが楽しくて、それだけが自分の世界だった……濁って腐る前の、綺麗な頃の世界の話だ。
「……な、結衣」
「うん……なに? ヒッキー」
「昔の呼び方で、一度呼んでみてくれ」
「え、ど、どしたの急に、ってゆーか、改めてお願いされるとちょっと恥ずかしいんだけど」
「そか。んじゃ、ゆーちゃん」
「うひぃあっ!? な、なななんでいきなりそーゆーこと言うかなっ! てか恥ずかしくないの!?」
「いーからほれ、言え、言って楽になっちまえ」
「べつに楽になるとかそーゆーんじゃないしっ! ……もう、……えと、うん……。その、は、はーくん?」
「───……」
「言わせといて無言だ!? ヒッキーひどい!」
返事はしなかった。それでいいんだろう。ただ、なんというか笑えてきたから、結衣はなんだか立腹っぽくツッコんできた。
……おう、サンタクロースだろ? 信じてたよ。世界が腐っていればいるほど、そんななにかを信じてたさ。
宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者、悪の組織やヒーローたちだって信じてた。居たって不思議じゃないだろ? ほれ、周りを見渡せば悪の組織なんて腐るほどある。なにかが居るならなにかがあるさ。そんな世界だ。
世界のことはしゃーない。それでいい。
そんな世界でも自分から変わりたいって願える状況を作れれば……その時にこそざまぁみろって笑うのだ。いいだろ? 悪っぽくて。
世界なんぞにゃ負けてやらん。世界が作った“みんな”なんて知らんし、変えられるのだとしても変えてやらん。
俺はせいぜい、自分のちっぽけなぼっち的パーソナルスペースだけを変えながら、しぶとく生きていく。
だから……おつかれさん、ガキの自分。
心の中で呟いて、ようやく、ちっぽけな世界を歩いてきたガキは、足を休めることが出来たんだろう。
代わりに、世界に色が増えた気がした。
「あ……」
「ん?」
「……えへへぇ、なんでもないよ、ヒッキー」
そんな俺の目を見て、やわらかく笑ってくれる幼馴染に、なんだかたまらなくなってキスをする。
またいつも通りになりかけていた空気が、あっという間に恋人空間。
あらまあキスってすごい。
「んちゅっ……ぷあっ……んん、なんか今日のヒッキー、素直だ……なにかおかしなのとか食べた?」
「そだなー。あえて言うならお前に薬盛られたな」
「それが原因なんだ!? ご、ごめんねヒッキー、あたしもあの時、なんかちょっとヘンだったかも……」
「知ってるとは思うが、あれ全部ママさんが用意したもんだぞ」
「……なんかママがごめん……」
「おう、気にすんな。お前はべつにそこまで悪かねぇし」
「べつにそこまで、なんだ……」
「ぐっ……! そういうところ、べつに拾わんでいーから……」
「そっか」
「おう」
……。出来るだけ普段通りに振る舞って……幼馴染から自分たちを変えるために、くすりと笑った。
笑って、また顔を近づけて、キスをして……深く深くキスをして、幸福を分け合い、体全体をじぃんと痺れさせてから離れ、もう一度見つめ合う。
「……いいか?」
「……うん。きて? ヒッキー」
来るのが痛みだと解っていても受け入れられる。
女性っていうのは本当に強いと思う。尊敬できる。結衣とママさん限定だが。あ、ギリギリで平塚先生も。
不思議と雪乃相手じゃそういった想像は浮かんでこな《むにり》ふが……? あらやだ、じとりとした目が目の前に。
「……ヒッキ~ぃ?」
「しゅうひゅうひまふ」
「うん。……余所見とか、他のこととか考えちゃ、やだよ……?」
「………おう」
寂しげに言われたらもう無理だった。
他の人のこととか、とか言わないあたり、気を使わせてしまったと悟る。ああほんと、いい女すぎて罪悪感がひどい。
引っ張られた頬が解放されると返事をして、気を取り直すと……ゆっくりと、腰を進めた。