【20】
ブリジットの匂いのする枕を抱いて起きた朝、先に起床していたブリジットの淹れた紅茶――アールグレイのブロークン・オレンジペコ――を啜って目覚ましとし、バスローブから着替えたところで来室した、ぱさぱさと乾燥したルームサービスを水で流し込む。このホテル、こんな朝食を提供しておいて、よく倒産しないな。流石はイギリスといったところか。食い物を端から切り捨てて、その分を施設費に回しているのだろう。ここの地下には巨大なプールを備えたスパ施設、インストラクター付きのフィットネスジム、何処まで勝たせてくれるか定かではないカジノ、世界各国の酒類を提供するバーと、一通りの行楽施設が揃っている。うちの叔父様の経営力も、あながち侮れたものではないらしい。
時刻が九時を回れば、ロビーで兄弟・親父夫婦と合流し、愛車に乗って射撃場へとすっ飛ばす。中々に爽快な朝だ。上方には澄み渡る青空が広がり、青緑に輝く海が水平線を彩る。ウィンドウを開け放てば、さざ波の快い囀りが鼓膜を愉しませる。観光で浮かれる真っ赤なスポーツカーをエンジンのパワーで颯爽と追い抜かし、すれ違いざまにピースサインを運転手に送る。隣の恋人もそれに倣い、運転手に小さく手を振る。そう、げに清々しい夏だ。
トレーニングセンターに辿り着けば、各々が昨日に置きっ放しにしていた武器を取りにいき、先に到着していた受講生と世間話をする。その内に数人の受講生がニーナやブリジットを囲んで声を掛ける様になり、ずさんにあしらわれたり、誘いを丁重にお断りされたりしていた。今なら言える。その子、俺の先約が入っているんだ。
この日、俺は車両で走行中に襲撃を受けた際の対応を指導していた。敵勢力の規模、味方の車両の被害状況、その時の任務に応じて適切な対応を判断を下す。車列を組んでいて、先頭の車両が路肩爆弾に吹き飛ばされたら。その際、後続に要人を乗せていたら。そういった様々な状況に対処すべく、我々は受講生が後日に新たな人材を育成する為の準備を仕込む。
通常の輸送任務の途中で奇襲に遭った際は、車両がまだ使える状態であれば、敵に威嚇射撃をしつつ攻撃地点から離脱する。車両の足が使えなくなっていれば、即座に車両を廃棄して応戦を開始する。敵は多数である可能性が高いが、それこそ特殊部隊のお家芸だ。少人数による統率された攻撃は、構成員の数の数倍の勢力を圧倒し得る。大部隊では適用出来ない効率性がフルに活用される為、攻撃から撤退までのプロセスが円滑に進められ、被害を最小限に、成果を大部隊の生み出すそれに匹敵させられるのだ。ただ、スクリーンとは異なり、少数精鋭の特殊部隊の主な役目は正面きってのドンパチではないのだが。
俺はここぞとばかりに重いMk46――それでも初期のモデルに比べれば軽くなってはいる――を持ち出し、装甲の施された自動車から飛び降りて地面に這い、バイポッド(二脚)を展開して標的に向けて三発から五発の連射を放つ。機関銃――正確に言えば、この銃は分隊支援火器だ――の役目は、熾烈な弾幕で敵の頭を下げさせて行動を鈍らせる点にある。一説によれば、このMk46の前身たるM249 SAWは一挺でM16ライフル十二挺分の火力を誇ると言われている。正しく少数部隊の心強い味方だ。いやあ、高かったんだこれが。
受講生も同様に、車両から降りると同時にタイヤやエンジンブロックを遮蔽物にして身を屈め、標的に精確な射撃を行う。身体の露出を最低限に抑えて反撃に移り、隙を生み出して離脱を図る。可能な限り手順を簡略化し、各自が徹底的に頭に叩き込んで習得した。各々の飲み込みが良く、非常に楽な仕事であった。
午後は天井が吹き抜けになったCQB施設を、これまたその手の任務に向かないMk14ライフルを携えて駆け回り、曲がり角や部屋の隅に配置された標的の胸部に大口径弾を中てていく。着弾の度に木製の標的から木端が派手に散り、イヤーマフなしでは鼓膜が破れそうな発砲音が壁に反響し、二二口径とは比較にならない反動が上半身を駆け抜ける。確かな威力、納得の精度、これこそ小銃だ。銃の選択から大半の受講生には呆れられていたが、こういった機会でもなければこの銃を自由に振り回す事も叶わない。その点では叔父には感謝していた。射撃はいい。ストレスの解消には絶好の手段だ。訓練の最中で俺の銃に興味を持ったチャックにMk14を貸したところ、扱い易いとの事でいたく気に入った様だ。しかしまあ、Mk14――名前はフレッド――が小さく見える。ボディビルで生きていけるんじゃないか、お前さん。
猛烈なリコイル(発砲時の反動)に手が真っ赤に腫れ上がるまで弾丸を撃ち込んでいれば日が暮れ、泥まみれの身で銃を整備する。訓練で使った銃を作業台の上で分解し、ソルベント(銃の清掃用薬品)を染み込ませた布で丁寧に拭く。部品にこびりついたカーボンや弾丸の被甲の銅が落とされ、滑らかな金属が顔を覗かせる。AKであれば整備なんぞなくとも動作するだろうが、AR-15は、特にダイレクト・ガス・インピンジメント(ガス直噴式、リュングマン方式)を組み込んでいるモデルは、こまめに手を入れてやらないとすぐに給弾不良を起こす。それは我々SASの使用するC8カービンも同様で、特に砂漠地帯では不調を訴える確率が高くなる。そんな面倒臭い機構だが、構造が単純であるが故に全体として軽く、余計な可動部位が少ない為に精度が向上するといった利点も共存する。ああ、早く精度が高いガスピストン方式のAR-15クローンが作られないかなあ。ちょっちくらい重くても抱き上げてやるのになあ。
可愛い銃の整備を終えれば、受講生らと別れて昨日と同様に車へ乗り込んでホテルに戻る。車内では髪をリボンで一つ結びにしたブリジットから、日中にニーナと話した事柄を聞き、相槌を打つ。傍から見れば取るに足りない光景だろうが、今の今まで人殺しと陰謀に手を染めてきた身からすれば、決して手の届かないと思われていた暮らしだ。戦場を知る家族以外に、こんな風に分け隔てなく接してくれる女がいるとは。やれやれ、やっとでツキが回ってきたか。全く、仕事が遅いよ神様。
ホテルの部屋に戻ると、掃除婦だかボーイ君の手で既にアルコールの瓶が用意されており、夕食の前にソファでブリジットと一杯やった。互いに疲労の溜まった身に、柔らかなアルコールがじわりと染み渡る。神経に作用したそれが、筋肉を優しく解してくれる。そしてその……この歳になってようやく知ったのだが、どうやら友人という一線を越えた男女が酒を飲み交わしていると、メチルアルコールの作用の有無にかかわらず、そういう雰囲気に発展するらしい。どちらともなく身体に触れ、そっと抱き寄せて髪を梳き、肺に懸想した相手の匂いを満たす。角がなく、それでいて重い、古樽で熟成されたモルトウィスキーの様に強い香りに、脳味噌が甘く痺れる。
「くすぐったいですよ……」
頭を撫でる手を華奢な腰に回し、羽毛の如く軽い身を膝の上に乗せて尚の事愛でる。犯罪と同様、一度吹っ切れてしまえば何という事はない。
この恋情は一時の気の迷いではないか。そう疑問視したためしがなかった訳ではない。激しく燃え盛る男女の仲が、何かの拍子にまるで冷水でも掛けられた様に鎮火するという話も、大勢の知り合いから聞いている。それが事実である事に変わりはないが、これまでの相互の欠陥を緩く受け入れた上で上手くいかないようなら、端から交際になど発展し得なかっただろう。年齢の差、実に十と一つ。他人の目には不健全に映るだろうが、既に薄紅色の煙をもうもうと上げて走り出した恋慕の機関車を止める術は、俺達には邪魔なだけだった。
「んぅ、ふ……む……ちゅ……」
ブリジットが首に手を回してきて、唇を啄む。若く瑞々しい花弁が隙間なく接触し、こそばゆい快感が粘膜を走る。息苦しさを覚えた辺りで首を引こうとしたが、如何せんブリジットが腕を首に巻き付けたまま放してくれない。そうこうしていると、彼女は俺の長い兵営で前例のない攻撃を仕掛けてきた。
「ちゅるっ、んんっ……れろぉ……」
――こいつ、舌を挿入してきやがった!乾いた唇と歯列を割って侵入した舌先は迷いなく俺の舌を捉え、ねっとりと絡み付いてくる。潤沢に唾液を含んだ肉布が口内を蹂躙し、歯肉から歯の裏まで網羅される。そしてこの娘、可愛い顔をして存外に舌が長い。いい大人がされるがままになってどれ程の時が経っただろうか。やがて銀の糸を伴ってブリジットは濡れた唇を離し、妖艶に微笑んだ。
「お味は如何でしたか……?」
僅かばかり下品な物言いに、自分が彼女に骨抜きにされている事実を実感した。慕情以外の感情を抱かず、ただ純粋に目下の女の子に愛しさを覚えた。だからこそ、機能不全となっている分身と、その所有者たる我が身を憎らしく思った。ブリジットが俺を好いてくれているのが分かっているから、現状より進んだ段階を望んでいるのが理解出来るから、不甲斐なさに身を苛まれる。これ以上なく幸福な筈であるにもかかわらず、いたたまれない心境に陥る。俺の見識が間違っていなければ、彼女はプラトニックな恋愛など求めてはいない。
彼氏の心情を汲み取ってか、ブリジットはやんわりと頭を撫でてくれる。その優しさが、かえって我が身を鞭で打つ。駄目元でまた心療内科に通ってみるか。掛かり付けのベンのやつ、元気かな。
そうして唇がふやける程に乳繰り合っている最中、不届き者が部屋のドアを叩いた。不機嫌を露にドアスコープを覗けば、丸く歪んだ視界に夕食を運んできたボーイ君が映る。やり場のない憤りを自らの内で揉み消しつつ彼を室内に迎え入れ、にこやかに送り返すと、言いようのない無気力に襲われた。幾ら何でも、タイミングが悪過ぎるじゃないか。
運ばれてきた夕食を摂る中で、良い雰囲気に水を差された筈のブリジットは至極機嫌良さげであった。折角の恋人らしい時間であったのに。そう考えてしまう辺り、俺は焦り過ぎであったのかもしれない。明日も生きているとは限らない職業に就いてしまったが故の苦悩とはいえ、これには参った。もう少し大人の余裕というやつをわきまえた方がいいだろう。その実、童貞だけど。
イギリスにしては程々の味を持つ夕食を平らげ、ボーイを呼び出して食器を片付けさせると、再び二人きりの時間が訪れた。ソファで寄り添い、何の面白みもない映画を観る。別段変わり映えのない時が、本当に貴重に感じる。同じ時間軸でアルカイダが麻薬取引で資金を肥やしたり、迫害を受けたクルド人やパレスティナ人が次のIED(路肩爆弾)の起爆をを画策している中で、俺は遊覧船に揺られるが如き一時を過ごしている。まさか、これ程に贅沢な生き方があるとは。生きていてよかった!
映画が終われば、昨夜と同様にバスルームで身体を洗って貰う。柔らかなスポンジが皮膚の不純物を落とし、垢が排除される。余りの心地良さに数分間寝入ってしまった。その際、目覚めさせられる要因となったのは、皮肉が利いていると言うべきか、お姫様の接吻であった。冗談の分かる子は、おじさん大好きだ。
シャワーを浴びて部屋に戻り、ブリジットもシャワーを終えてくると、またもソファでまったりとした一時を満喫する。ボーイによって阻害されたいちゃいちゃを再開しつつ、薄れてきたアルコールを飲み足し、ブリジットに促されて少々過激なスキンシップを取ってみる。ブリジットの小さな耳の裏を指で撫でると、悪寒にでも襲われた様に身を縮ませる。ブリジットが上半身をよじるのに気を良くして、石鹸の匂いの漂う首筋に唇を這わせば、甘ったるい吐息が漏れる。よもや自分がこういった性的な行為に及ぶとは。世も末だな。
恥も外面も捨ててねっとりとじゃれ合っていると、ブリジットが耳元で囁き掛けてくる。耳許に、生温かい風が吹く。
「ヒルバート様は、どうして特殊部隊に?」
この疑問の論点は何処だろうか。陸軍に入営してからパラシュート連隊を経て、選抜訓練と継続訓練を終えるまでを語ればいいのか。頭を捻っていると、やにわに顎を掴まれてキスを強制された。アルコールを唇に感じるや否や、何やら唾液とは異なる液体が舌で口内に流し込まれ、喉が熱く焼ける。これ、ウォッカじゃないか。
「ふぁむ……ちゅくっ、れる……んはぁ……。だって不思議じゃないですか。それまでよりもずっと苦しい状況に身を置くことになると分かっているのに、楽な部署からの異動を望むなんて」
それと高濃度のアルコールを口移ししてくる暴挙の関連性を教えて下さい。水気を吸って重くなった砂色の髪に指を差し入れながら、濃密な酒気で朦朧としてきた脳で質問への返答を思案する。ええい、止めなさい。人がない頭で考えている時に耳を食むな。気持ちいいから。
「まあその、何だ。やっぱり、普通の部隊にいると関われない作戦っていうのがあるだろう?それが世界平和に繋がるとか、貧困に苦しむ子供らを救うとか、そういう事はあり得ない。戦争で平和が実現出来るなら、聡明な学者先生なんか要らないからな。むしろ世間から秘匿された作戦は、世論の反発を買う可能性が高い。俺達が世界最高峰の訓練を受けて給料に見合わない戦地に赴くのは、名誉や勲章の為じゃない。もっと別の理由からだ」
ようやく出来た小指に、何と泥臭い話題だ。しかし彼女がそれを聞きたがっているのだから、ここは真摯に応えるべきであろう。恐らく、途中で飽きられるだろうが。
「そうだな……言うなれば、兵士であれば、元より持ち合わせた闘争本能を合法的に行使する許可の下であれば、持てる知識と技術を最大限に活用し、目的を遂行するのに敬遠なんて示さない。文民の道徳に反するとしても、国家の存亡の維持に誰かがやらねばならない仕事が――他でもない我々が望んだ厄介事が向こうから舞い込んできたのなら、我々は血生臭い泥を自ら被りに行く。秘匿作戦に赴き、アドレナリンが脳内麻薬として分泌される感覚を幾多の戦場で味わった者にしか、知り得ない快楽がある。公衆の倫理に背くとしても、それを包み隠さなければならない道理はないだろう。
辛苦を経験するだけだと分かっていても、絶やせぬ探求心と克己心が、次なる戦場に備えて自身を磨き上げる。各々が自らの内に潜む獰猛な野獣を飼い慣らす事で得た、統率された暴力は、机上でしか物事を計らないやつらの想像を超えた成果を上げる。
即ち、我々連隊の個々の目的は、終点の存在しない究極の自己満足だ。俺らが特殊部隊という危険極まりない職に就いている理由なんぞ、それで十分だよ」
流石に寝てしまっただろうかと視線を下に落とすと、意外にもブリジットは口を一直線に結び、くそ真面目に話に聞き入っていた。しかも酒のせいか頬が紅潮しており、えらく扇情的だ。ちんちんが不能なのがただただ悔やまれる。
「それにあいつらは――職場の同僚は、兵士という職業柄、戦場を知っている。俺を構成する要素の一部を理解してくれる。だから、俺は軍に身を置く事で、少しでも気の安らぐ環境を持とうとしていたんだ」
「じゃあ、その一部以外を理解してくれる人は――?」
鼻から息を漏らし、俺は俯いた。
「……そこなんだろうな、抜け落ちちまった歯車は」
長々と穴だらけの自論を垂らし終えると、乾いた喉を潤すのに〈マイヤーズ〉のトニック割りを煽り、かすかに鼻に抜けるレモンの香りに粘膜を痺れさせた。いやあ、お酒は美味しいね。
「悪い、こんな話して。つまらないよな」
途端、ブリジットは呆けた風に目を丸くし、首をかしげた。そして両手の指を組んで、酷く軽い上半身を俺に預けてきた。
「自分で言うのも何ですけど、私って奴隷として売りに出されて……普通の子と比べると波乱万丈な人生を送っていると思っているんです。だから、有り体なレールの上を歩いてきた人が書いた本とかは大して面白く感じなくて……ヒルバート様のそういう珍奇なお話、好きですよ」
百六十キロ超で胸に突き刺さる剛速球となった唐突な告白に、思わず視界がぐら付いた。と同時に、この言葉の俺に対する部分を要約してしまう。
「つまり、俺は普通じゃないんだ?」
「普通だと思っていたんですか?」
あっけらかんと言い放つ彼女に苦笑してしまったが、こうして遠慮なく軽口を利いてくれる事が、何より嬉しかった。やむにやまれぬ状況に置かれて自らを牢獄に閉じ込める以外の選択肢を失った奴隷には、無意識に同情を抱き、かつての自己の投影をしてしまう。言われるがままに従うしかない奴隷には、逃げる場所がない。だからこそ、近しい間柄にはなりたくなかった。
しかし、何とも数奇な運命よ。愛するメタボリック親父の差し金とはいえ、奴隷の――しかも美少女のそれと、同居するどころか同衾する仲にまで発展するとは。それも、そいつはこの短い期間で俺の内に巣食う癌を猛烈な勢いで駆逐している。もうイギリスに生物兵器を満載したミサイルが飛んできたくらいでは驚かないぞ。いつの間にやら俺の胸に甘えるブリジットの小さな後頭部を撫でつつ、夜は更けていった。PSCの訓練も明日で終わりだ。その後は、この子の要望に精一杯付き合ってやろうじゃないか。
翌日の午前中、射撃場で要人の身辺警護で用いる、拳銃による近距離の戦闘を指導し終え、遂に訓練の終了を迎えた時だ。チャックを始めとした受講生に労いの言葉を掛け、最後に彼らの上司が生半ならぬ変態である点を告げ口し、各自が解散する。連中は昼時から酒場へ一杯やりにいくのが大半で、兄弟と親父夫婦はようやく訪れたバカンスに揚々とホテルへと戻った。ではブリジットと俺はどうかと言えば、奇妙にもその場に残っていた。この理由の説明には、今朝まで時を遡る。
起床して脂にまみれた顔を洗っていると、タオルを差し出してくれたブリジットが尋ねてきた。「本日の訓練の後にご予定は?」薄っぺらいタオルを顔面に押し付けつつ、特に決めていないと返すと、彼女はこういった提案を示したのだ。「それでしたら、私にも射撃を教えて戴けませんか?」
そういう訳で、昨晩に彼女の要望に応えると決意した手前だ。てっきり陽の降り注ぐビーチで肌を焼いたり、青く輝く海と戯れたりといった情景を描いていた身からすれば意外の一言だが、折角の彼女からの要求を無下に一蹴するのも気が引けた俺は、叔父に午後の射撃場を貸し切る事を申請すると「いいよ!」と快活なお返事を賜り、現在に至る。話の分かるおいたんだ。
俺はポロシャツにチノパン、叔父の会社のキラーキャップに一つ結びの髪という格好のブリジットに、弾倉を外したMP5を渡した。
「よし。初めに、人間には絶対に銃口を向けるんじゃない。撃つその時まで、セイフティは外さない。弾が入っていようがいまいが、銃腔を覗き込んでもいけない。射撃中にジャミングを起こしたら、俺が直すから何もしない様に。オーケー?」
初歩中の初歩だが、これらを遵守しなかったが為に阿呆のジェイクは健康な足を失った。警戒し過ぎて困る事はない。ブリジットが厳かに頷いたのを確認したので、俺は弾薬を十発充填した弾倉を渡した。彼女は神妙にそれを受け取ると、過たずに銃に挿入した。こうして目の前にしてみれば、銃を扱う少女というのも中々に乙なものかもしれない。
ブリジットが十メーター先の標的に銃口を向ける。その後ろ姿は随分頼りなく、何処か変に緊張している様で滑稽だ。
「入社面接じゃないんだ、もっと背中を丸めた方がいい」
くそ真面目な返事でブリジットは応じ、言った通りに背中の筋肉をを弛緩させる。これで大分ましになった。飲み込みの早いこの子の事だ。後は勝手にやらせている内に、自分に合ったやり方を見付けるだろう。
「撃ちますよ?」
不安げな合図に応答すると、か細い親指がセレクターレバーをセイフティから単射にシフトさせた。その動作がおぼつかなかったので、どうにも過去の自分もそうであった経験を想起させる。もっとも、俺の場合は銃と触れ合った回数によるものではなく、それを扱う事による結果に帰依していたのだが。今思えば、子供ながらに勘と想像力の豊かな少年だったらしい。恐ろしい子!
白く端正な指が引き鉄に掛かる。握りは可能な限り深く、肩の力を抜いて。そう、射撃というやつは芸術だ。一瞬で全ての結果が出てくれる。だからこそ、その過程をしっかり築いておかなければならない。この距離であれば、風速や偏流は気にしないでいい。だが、銃身は一本の管だ。少しでも別の方向に傾けば、射線は想定外の方向へ向いてしまう。そうすれば弾丸は標的に中らない。さて、この子はどう楽しませてくれるやら。
しばしの沈黙。穏やかな風が木々を揺らす。その静寂を唐突に、大人しめ破裂が引き裂いた。MP5の排夾口から真鍮の薬莢が飛び出し、芝生に跳ねる。発砲直後のブリジットを見ると、初の衝撃にいささか驚いた様子であった。不必要に仰け反らないし、馬鹿みたいに尻餅も着いていない。最初でこれなら上々だろう。
昼時の陽光に照らされた標的を眺めると、果たせるかな着弾痕は見られなかった。所謂ジャーキング――がく引きだ。リコイルに備える余り、撃鉄を落とす直前に力が籠もって銃が下方を向く現象だ。ブリジットが放った処女弾は、地面にずぶうと飲み込まれたという訳だ。
「残念だったな。次がある」
そうして肩を叩いたブリジットは、意外にも闘志に満ち溢れた、挑戦的な意志を示した。
「次は中てます」
殊勝な心掛けだ、可愛いじゃないか。俺は期待せずに頭を撫でてやり、動向を見守った。何も外れた要因はジャーキングだけではない。まだ銃の撃ち方さえもろくに習得していないし、銃に載せている照準器も俺の眼の位置に合わせている。最初から中てるのが無茶な話だ。
そんな風に物思いに耽っていると、第二射が放たれる。今度は上手に上半身で衝撃を殺した。目で追える訳もないのだが、射線をなぞる様に標的へと視線を巡らす。するとだ、俺は顎を脱力させた。何とまあ奇跡的にも、標的の左寄りの位置に小孔が穿たれていたのだ。ブリジットに視線を戻すと、誇らしげに穴の空いた標的に銃口を向けている。何てこった、第二射から命中弾を出しやがった。
その後も何の指導もなしに射撃を続け、その指が引き鉄を引き絞る度に標的の鉄板が叫ぶ。しかも発砲の間隔はそこそこ短く、かなり実戦的な速度で撃っていた。結果、ものの数秒で残弾を撃ち尽くすと、そこには九つのクレーターが抉られた標的が立ち尽くしていた。集弾率はまずまずだが、如何せん適応が早い。俺は額を流れる雫も拭わず、ブリジットで別の実験を試みた。
弾倉に十三発の弾薬を込めた〈シグザウアー〉P226を、ブリジットの繊細な手に渡す。かつて彼女を生命の危機に立たせた――根本の原因は俺だが――因縁を持つ銃だ。是非ともこの子の手で飼い慣らして欲しいという願望があった。
拳銃のスライド(遊底)は存外に固い。大の男でも引くのには四苦八苦するのがセオリーなのだが、ブリジットはその小さな鼻から息を噴出しながらこれをこなし、初弾を薬室に押し込んだ。意外と力が強いのね、君。
拳銃射撃のスタンスは数種類あるが、俺は英軍で標準的なアソセレス・スタンスを指南するとした。ウィーバー・スタンスは見てくれが良く確かに撃ち易いが、いつでも足を前後に広げられるとは限らないし、応用が利かない。
「足は肩幅に開いて……そう。両腕で二等辺三角形を作るんだ。頭を低くして、顎を引く。左手は後ろに、右手は前に押し出す様に力を籠める。そうすると狙いが落ち着くんだ」
ブリジットの背中に密着し、手取り足取り指示を出す。ここからだと髪を結うリボンの奥に横たわるうなじがよく見える。それで、親父がこんな戯言を抜かしていたのを思い出す。「夏の風物詩――そいつは日本の縁日にある、浴衣の艶姿だ」父さん、あんたの言っていた事が、この歳になって理解出来てきたよ。
フォームが完成したところで一旦離れ――何だかお預けを喰らった気分だ――ブリジットの初めてのアソセレス・スタンスを評価する。肩に幾らか力が入っているが、及第点だろう。MP5の時と同様、彼女は合図をしてから発砲を始める。一発目――MP5よりも僅かに甲高い破裂音の後に命中。ブルズアイには程遠いが、しっかりと中てている。拳銃は長物と異なり銃身長が短い。また、照準線が短いので着弾点を定めるのが余計に難しいのだが、この子はそれを最初からやってのけた。要領の良さもあるだろうが、一種のセンスを感じる。
そこから二発、三発と撃っていく内に、ブリジットは要領を得たのか、教えてもいないダブルタップ――同じ個所に高速で連続して命中させる技術――を会得していた。今や標的の腹の位置には拳大の穴が開いて、その奥の風景が鮮やかに切り抜かれている。正に目を疑う程の上達だ。これは拳銃を用いた護身術の一つでも教えると、いつか役に立つかもしれない。
弾倉内の弾薬を撃ち尽くしてスライドストップ――スライドが後退したままロックされる事――が掛かった時には呆然としたが、やはり頭が良いらしく銃腔を覗き込む真似はしなかった。次の弾倉を差し出してやれば、彼女は落ち着いてそれを受け取って、弾倉の交換の手順に聞き入った。俺も初めて握ったブローニングがこうして変形した時は困惑したものだ。
競技射撃に出場するまでではないが、大した速度のダブルタップが出来る様になると、俺はモザンビーク・ドリルを指導した。胸に二発を高速で撃ち込み、三発目を頭に中てるというものだ。拳銃弾とは言えど胸に喰らえば即死レベルであるし、地面に倒れるだろうから頭を瞬時に狙うのは不可能かと思えるが、近年の狂信的なテロリストはちょっと身体に穴を空けられたくらいでは昇天なさらないパターンも多い。そのふざけた信仰心をへし折るには、ちょっと多めの弾丸を浴びせなければならないのだ。実際「やり過ぎかな?」で丁度いい。
ブリジットは小気味良いリズムを刻むが如く標的を叩いた。次第にPSCの訓練と同様に標的の数を増やし、左右に動く小さな円形の標的を用いたりしたが、彼女はすぐに順応した。彼女の足許には輝く空薬莢が大量に跳ね、秒を経る毎にそれは降り積もる。手許では、矢継ぎ早に発砲炎が吹き出しては黄金色の薬莢が宙を舞う。シグにスライドストップが掛かると、即座に弾倉を地面に落とし、パンツのポケットに収めていた『フレッシュ』な弾倉を再装填。その表情は標的を撃ち抜く、ただそれだけを目的として前方を見据えている。――綺麗だ。直感的な感想だった。他人をからかう物言いをしながらも、その実こうして恋人への理解を深めようと真摯になってくれている。純粋に、嬉しかった。
拳銃弾だけで三百発ほど撃ち続けた後、今度はSR-16を持たせてみた。仕事でいつもC8を使っている俺達からすれば平均的なサイズだが、ブリジットが持つとかなりかさばって見える。最初はそれの扱いに手を焼いていたが、やがて要領を得たのか命中弾を連発させる様になった。反動の殺し方はMP5で慣れたらしく、指導する必要さえない。おまけに搭載している照準器は四倍率のACOGだというのに、等倍率の時と照準速度が全く変わらない。まるで犬を調教する様に、銃を調伏する。こいつはとんでもない逸材を見付けちまったぞ。首筋にじわりと冷たい汗が浮かぶと共に、ブリジットが弾倉を空にする直前で交換する。あいつ、とうとう残弾数を身体で憶える様になりやがった。末恐ろしい娘!
CQB施設で突入の様子を動画に撮ってやったり、片手にライトを持った状態での戦闘――既に護身術でさえない――を教授している内に、日が暮れた。最後に一日中ぶっ放した銃の整備を一緒にやり、銃の大まかな組み立て方を諭した。ブリジットは手や頬を黒ずんだオイルで汚しながらも、懸命に作業に勤しむ。何故だろうか、艶めかしさの欠片さえ存在しない光景が、たまらなく魅力的に思えた。
詰め所の警備員に別れを告げて、差し入れに缶コーヒーを渡し、車に乗り込む。バカンスという風ではなかったが、充実した一日だったと思える。助手席のブリジットは絶えずにこやかで、今度は自分の銃で撃ちたいと言う。ホテルに戻ったらインターネットで銃器ブランド巡りでもしながらに決めようと提案し、彼女は深く頷いた。気に入ったストレスの解消法が見付かった様で何よりだ。
ホテルに到着して車をボーイに引き渡し、俺達の部屋に戻ると、ソファに尻を沈めると同時にここ三日分の疲れが両の肩にのし掛かる心地があった。長時間の移動、見知らぬ連中の訓練、ジェイクの不祥事、ブリジットの告白への返答……。自分でも大分無理をしたと感じる。眼球に鈍い重みを覚え、小さく息を漏らす。歳かもしれない。余り直視したくない現実が垣間見えたその時、首の後ろに心地良い圧迫が加えられた。ブリジットが、凝り固まった首筋を揉み解していた。
「今日もお疲れ様でした」
「大した事はしていないよ」
これが惚れた女には良いところばかり見せたいというエゴだろうか。こいつがニーナのやつが相手なら「そう思うならビールの一杯でも注いでこい、このおっぱいお化けが」と吐き捨ててぶん殴られる場面だ。そもそも、あの鉄の女が俺達兄弟を労うなど、米軍がUFOを撃墜したという報せよりも稀有だ。あと、米軍ならやりそう。
「肩もかなり強張ってますね?」
「そうねえ……。それなら地下のスパでマッサージでも受けようかな、男相手に」
俺の返答が不満だったのか、ブリジットはぷうと頬を膨らせた。おお、フグみたいだ。可愛い可愛い。彼女は俺の顔を両手でがっちり拘束して自分に向かせると、半ば眉を吊り上げた。
「どう思っていらっしゃるのか知りませんけど、私これでも性奴隷ですよ?ご主人様への奉仕くらい、施設で仕込まれたんですからね?」
これには度肝を抜かれた。何せ、自分では包み隠したいマイナス点とみなしていた肩書きを、彼女は真っ向から利点として切り出してきたのだ。言うなれば「私は穢れている」と宣言した様なものだ。余程の馬鹿か、でなければ相手を相応に信頼していなければ出てくる発言ではない。そして、前者である可能性はゼロだ。そりゃあ己惚れたくもなる。
「任せてもいいのか?」
恋人はその小さな胸に手を置いて豪語する。
「その為のメイドですから」
とうとうお馴染みとなったブリジットによる洗体が終わると、俺は半裸でバスタオルを敷いたソファの上にうつ伏せに横たわった。ブリジットは何やら用意をするとかで、ぱたぱたと部屋を出ていってしまった。
部屋に一人残された事で実感したが、ただ数分の間とはいえ、心の表面に物寂しさを覚える。どうやら俺という男は相当に深い部分まであの子に依存してしまっているらしい。いい歳こいたおっさんがこうも幼稚だと恥も感じるが、如何せん頭の中にはあの子の屈託なく微笑んだ顔や、心底おかしそうに吹き出す声が想起される。それが今では、何物にも代え難い拠り所になっているのだから、自分の矮小さに呆れる。結局、最強の特殊部隊の一員だとかのたまってはいるが、俺もただの卑屈な人間に過ぎないのだと実感する。いざ認めると、山頂で重荷を下ろす様に気が休まった。
年寄りらしく感慨に耽っている内に、可愛い小指が部屋に戻ってきた。その腕には小さなボトルが数本抱かれている。
「地下のスパ施設から、オイルを分けて貰いました。クラプトンの名前を出したら、喜んで貸して戴けましたよ」
そう言ってぱあと満面の笑みを俺に向ける。何がそんなに嬉しいのか知らないが、とにかく彼女が笑っているのは良い事なので、俺も笑っておく。やはり未だ慣れないらしく、力が籠もって眉が下がってしまう。今度、鏡を前に練習しよう。
ブリジットはテーブルの上に皿と蝋燭を置き、マッチで点火した。皿の上の蝋燭にぼうと揺れる火が灯ると、室内にとろりと花の匂いが満ちた。アロマキャンドルとかいうやつか。うちで言うところのコアントローとかブランデーだ。たまにはこんな風に、酒気のない香りも悪くはない。
「それでは、楽にして下さいねー」
ブリジットはソファの脇に立つと、小さなボトルからオイルを手に取り、こねくり回して温め始めた。つい数日前まで、素肌を触らせるまでに気を許した女などいなかった。それが今から肉を揉まれるというのだからお笑い草だ。しかもちょっと期待していると来やがる。この色魔め、やはり血は争えんな。
「力、抜いて下さいね」
その一言を合図に、背中にねっとりとした感触が落ちる。ぬるいオイルが背中に塗りたくられ、体重の掛かった柔らかな手が硬い背筋を滑る。きめの細かい掌が腰から肩甲骨に掛けて大きな円を描いて血行を促進し、体内の老廃物が絞り出される心地があった。
足首やふくらはぎも重点的にオイルで揉み出される。腐っても特殊部隊の脚だ。筋肉の鎧が外力を相当に阻む筈なのだが、ブリジットはちゃんとリンパ節まで不純物を誘導してくれる。むにぐにと足裏や大腿部をさすられている内に「んあー」とか間抜けな声が漏れると、ブリジットの楽しげな息が耳に入る。こうまで献身的な恋人を持てるとは、人生というやつは全く読めない。
丸太の様な四肢のリンパ節まで老廃物を揉み出すと、今度は仰向けにされて腹部を撫でられる。訊けば腸の活動を活性化させる効果があるとかで、翌日からうんちがもりもり出てくれるとの情報だ。日々のうんこは大事なので、これは嬉しい。
硬い皮膚に覆われた手の指から硬質化した足の裏まで揉み解され、全身が熱を持っていた。上半身を起こされると殴打法で肩を叩かれ、それまで緊張していた神経が弛緩した気分を味わう。これまで肩肘を張って他人との接触を絶っていた自分が馬鹿らしい。思えば下らない過去に引きずり回されていた日々を、随分と長い間送っていた。俺にとっての三十路の年というのは、大きな転機となるだろう。
仕上げに頭皮のマッサージをして貰っていると、ブリジットが弱った声を上げる。この時点で大方予想は付いていたのだが、何事かと振り返ってみる。俺の頭部を見下ろす彼女は、同情的な瞳を向けていた。
「……帰ったら、ちゃんと髪染めしましょうね」
幼少期に売り飛ばされてからIRAの傘下で働いていたせいで抜けてしまった頭髪の色素は、今になっても再生せずにいた。お蔭で二月に一回は白髪染めをするのだが、その周期が来てしまったらしい。恐らくブリジットには、俺の毛髪の根本が白んでいるのが見えたのだろう。別に弱点でも何でもないが、どうしてか少々恥ずかしい気味だ。
全身をくまなくメンテナンスされた事で、何やら解放感に満ちた心地だ。今なら銃弾よりも速く走れる錯覚さえ抱く。滑走路さえあれば、両手を広げて戦闘機よろしくぶーんと飛び立って、そのまま洋上の不審船を撃沈する勢いだ。メイドって凄いんだな。人間が飛行機になるんだもん。
未だオイルでべた付く身にバスローブを着せて貰い、ブリジットがシャワーを終えるのを待つ。体温が上がっているせいか、彼女のシャワーの音が余計にいかがわしく聞こえる。いつか――。そう誓って、股間の分身を撫でた。ちくしょう、ここの呪いは少しも解けちゃいない。
ブリジットがサイズの合わないバスローブを羽織って戻ってくる。そのまま自然な成り行きでソファの俺の隣に腰掛けると、鎮火したアロマキャンドルの代わりに甘い芳香が漂う。この匂いを独占する権利が自分にはあるのだと考えると、凄く興奮する。耐え切れずに小さな肩を抱き寄せて、細い首筋に鼻を埋めてしまえば、その天然の香水に理性が霧散しそうになる。突然の掻い付きにブリジットは幾らか戸惑った素振りを見せたが、やがて子供にする様に後頭部を撫でてくれる。この矮躯の何処にこれ程の母性が湛えられているのか。それにプライドもなく寄り縋る俺のマザコン振りも大概だが、そこはこれまで母の愛に飢えていた埋め合わせという事で理解が得られるのを祈る。どうあれこの恋情が倒錯的であるのに疑いの余地はないが、だからとして何が問題か。ここまできて尻込みするのに足る理由だとは思えない。俺はようやく、無防備で脆弱な自分を晒せる人を見付けられたのだ。
それから酒をちびちびやりつつ、持参したラップトップでブリジットと銃の選考をした。扱い易さ・彼女に適したサイズを条件に絞り、数ある銃から数件の案を導く。大事な恋人に怪我をさせる訳にもいかないので、安全性も十分に考慮されたモデルを選んだ。そうなると必然的に価格は跳ね上がるが、それはご愛嬌だろう。金で救える命なら、それに越した事はない。海外でわざわざ安い水を購入して、腹を下すのは愚かしい。
通常、こういったリゾートホテルに宿泊する男が取る行動といえば、日中から女を漁りにビーチへ飛び出し、陽が落ちるまでビールを浴びて、夜にカジノでおっぱいの大きなディーラーに散々負かされて、憂さ晴らしに風俗店ででぶを抱く……。それが俺ときたら海にも行かず、硝煙の臭い――正確には雷管のトリシネートの燃える臭い――に一日中包まれ、ギャンブルは苦手だとバカラやルーレットに目もくれず、ただ愛しい少女と寄り添ってアルコール濃度を低く作った酒を嗜むだけだ。傍から見れば面白みのないバカンスだろうが、俺はこれで結構満足している。俺がブリジットの思慕に応えられたのはこのPSC訓練に参加したからだし、彼女への理解も深められた。今回の遠征で得たものは決して少なくない。これを機に、人生にもっと積極的になってみるのも悪くはないだろう。ひょっとすると、これが病を克服する決定打になるやも分からない。気付けば俺の肩に体重を預けて眠りこけるブリジットを抱えてベッドに寝かせてやると、久しく忘れていた穏やかな心境を味わった。全く、無防備になったものだ。産毛の生える頬を指でそっと突いてやると、緩やかに口角が上がった。
翌日、天候はイギリスに似つかわしからぬ快晴に恵まれた。予定としては、本日の夕暮れ時にはホテルをチェックアウトし、叔父に別れを告げてヘリフォードへ愛車で戻る段取りとなっていた。時刻は一〇〇〇時、俺は中東みたいに灼熱の太陽がぎらつく空の下、砂浜に差したパラソルの陰に佇んでいた。
目の前には透き通る海が、眩い陽光を反射している。どいつもこいつも露出度の高い水着を身に着けて、けたたましい笑声を上げている。その風景に溶け込めずにいたのは、他でもなく俺であった。
「海行こうぜ!」部屋で味のよろしくない朝食を口に運んでいる最中、他の宿泊客への迷惑も顧みずにやかましく訪問してきたのは、金色台風こと我らがジェローム君であった。最近は大人しかったので安心、もとい危惧していたのだが、彼の暴走の周期が今日に重なってしまったらしい。これはいかん、迅速に避難しないと竜巻に巻き込まれるぞ。
俺が蒸し過ぎたジャガイモを咀嚼していて口を開けないのをいい事に、嵐は部屋に図々しく踏み込んでくるなり、俺の胸に二つの紙袋を押し付けてきた。まさかこいつが差し入れなどと気の利いた真似をする筈もなく、訝しみつつ片方の封を切れば、中にはシンプルな黒い男性用水着と、オレンジのどぎついアロハシャツが収められていた。
「海だよ、海!黄金の太陽、真珠の砂浜、エメラルドの海に浮かぶあの子はダイヤモンドだ!」
朝から鬱陶しいやつに付きまとわれたものだ。さっさと自分の部屋に戻って、大人チャンネルのテレビを前にマスターベーションでもしていて欲しい。もう片方の紙包みを開けようとすると、ジェロームは俺の手からそれをもぎ取った。
「馬鹿野郎、こっちはブリジットちゃんのだよ!今見たら、お楽しみが半減するだろうが!」
何故、俺は弟に唾を撒き散らして罵倒されなければならないのだろう。そして運の悪い事に、この愚弟に賛同者が現れてしまった。
「いいですね、海。折角来たんですし、行きましょうよヒルバート様」
両の指を合わせて参加表明を示すブリジットに、頭を抱えて閉口してしまった。正直なところ、俺はサウナや海水浴場といった、衆目に自分の肌を晒す場を避けていた。何しろこの身体には色々と歴史が刻まれ過ぎている。行楽に来ている人間に余計な重圧を掛けるだろうし、俺としても好奇の視線を受けるのは不本意だ。
だがしかし、好いた恋人が海へ行きたいと言っているのに、一人で行かせるというのも気の引ける話だ。やはりここは自己の膨大なコンプレックスを心のゴミ箱に押し込めてでも付き添うべきではないか。それに、海水浴という事はブリジットの水着姿が拝めるやもしれない。〈プレイボーイ〉なんざ目ではない至宝を目の当たりにする、絶好の機会ではないか。半ば気乗りしないものの、恋人の柔肌が見たいというふしだらな欲望に惨敗した俺は、ジェローム君の誘いにぎこちなく首肯したのであった。
そうして現在、水着にアロハ、黒のサングラスと胡散臭さ全開のおっさんと化した俺は、他の兄弟や女性陣に先んじて砂浜にキャンプを設営し、こうしてレジャーシートに体育座りをして、観光客でごった返す海を眺めていたのだ。何だか体の良い雑用係を押し付けられた気がするよ。
売店で買ってきたコークを飲みながら待っていれば、何やら後方からなよなよと軟派な野郎の声が聞こえる。――あいつかな。そう当たりを付けて首だけ振り返ってみれば、果たせるかな予想通りの人物が、なまっちょろい腹筋を付けた男に言い寄られていた。
「ねえ君、いい身体してるねえ。何処から来たの?」
止めておけよ。そいつはお前には過ぎた女だ。イギリス基準でEカップはあると見られる豊満なバストを黒くきわどいビキニで強調した女は、片手を払って男を撒こうとしている。その顔立ちはスラヴ系の色が強く、黒子ひとつない肌はヘロインの粉末よりも白く、陽光を倍増して反射している。明日にはプレイメイトとして掲載されていても不思議ではない容姿、バランスの取れた長身と、優雅なパレオから延びる長い脚。彼女こそ、我らがお義姉さんたるニーナ・クラプトンである。ちなみに今年で三一歳。魔女かお前は。
「なあ、ちょっとそこの酒場で飲もうよ。ちょっとだから」
「失せな、マスかき野郎」
取り付く島もない物言いに、優男は一瞬怯んだ様に見えた。加えてあの冷たい瞳で睨まれれば、委縮するのも頷ける。そんな時に、ホテルの方から親父がたぷたぷとビール腹を揺らして駆けてくるのが見えた。愛妻のむちむちばいんばいんなバディを前に、興奮気味に名前を呼んでいる。優男がそれに気付いたのがいけなかった。
「何だよ、でぶの先約済みか」
あーあ。俺はたまらず顔を歪めた。優男が暴言を紡いでその場を去ろうと踵を返した瞬間だった。ニーナの平らな腹部に、深い溝が浮き出た。滑らかな彼女の腹部の深層には、運動選手並みの腹筋が暗器よろしく隠されている。彼女はごく自然に優男の後頭部の髪を掴むと、勢い後方へ引いて地面に倒し、その締まりのない顔に唾を吐き掛けた。男は茫然自失として天を仰ぐのみで、脱色した頭髪が数百本抜けた痛みさえも感じていない様であった。
「お待たせ、ニーナ」
親父は仰臥する優男に目もくれずにニーナの手を取り、俺のいるキャンプへと手を振る。ニーナは親父への慕情が強過ぎるが故に、時たまこうした強烈な対応を取るケースが少なくない。当の親父も、こういう事態には慣れている。ニーナはもぎ取った毛玉を砂の地面に放り捨てると、親父と指を絡めてこちらへ歩んできた。いやあ、あいつだけは敵に回したくないね。倒れていた男は数秒後に正気を取り戻すと、周囲の視線にいたたまれなくなって、その場を足早に去った。歯をへし折られなかっただけ、彼は幸運だった。
それからショーンやヴェストもやってきて――何でお前ら、女よりも着替えが遅いんだよ――人数分のビールを買ってきて配った。その内にジェロームもやってきたのだが、こいつは真っ赤なブーメランみたいなビキニと、慈愛深い俺様でさえも他人の振りを決め込みたくなる格好をしてきやがった。やつ曰く「これで女は俺様を前に大洪水」だという。そのもっこりに女の股ぐらが濡れる以前に、俺の涙腺が決壊しそうだよ。
ジェロームの恥晒しは早々にガールハントに砂浜を駆け出していき、ヴェストも今日限りの女を釣り上げに海へ泳ぎに行ってしまった。ショーンはヘリフォードのシェスカが気に掛かっている様で、ベースキャンプから動く気配が見られない。親父夫婦はと言えば、パラソルの陰で日焼け止めを塗り合っている。その内にショーンは二杯目のビールを買いに席を立ち、親父夫婦も流石に弛み過ぎた旦那の腹を締めようと海へ行ってしまう。さて、とうとう一人陣地に残されてしまった訳だが、こういった行楽地で孤独というのは中々に心苦しいものがある。そして、俺がこの場から動けなくなっている理由は一つだ。ブリジットが着替えを終えてやってくるのをを待つ。それだけだ。
それにしても遅い。女という生物は身支度に時間が掛かるものだが、親父夫婦が海へ行ってから既に十分が過ぎている。ブリジットは化粧をする様な娘ではないし、しない方が可愛い。ヘアメイクも凝ったものはしないので、すぐに出てこられそうなものなのだが。
殆どなくなったビールを口に含んで頭を捻っていると、アロハシャツの胸ポケットの携帯が振動した。見ればブリジットからの着信で、出てみると少々狼狽した小指の声が窺えた。「どうした」と尋ねると、「ホテル前に来て戴けますか」との声が返ってきた。――まさかな。彼女が風邪を引いた時と同じ種類の疑惑がよぎる。俺はビールを飲み干すと、駆け足にホテル前へと向かった。
叔父のホテルの正面。露出の多い観光客の雑踏の中、ブリジットの姿を求めて視線を巡らせる。背筋にどろりと黒い予感が走る。鼻の頭に脂汗が浮かんだタイミングだった。ブリジットの砂色の髪を見付けた。二人の男と一緒に。彼女の表情に、怖じ気が悟られた。
――この野郎。咄嗟に湧き起こる憎悪に、腕が震えた。俺は観光客を掻き分けてブリジットの許に歩み寄ると、男の一方の肩に手を置いた。男ふたりは不機嫌そうに首をこちらへ向けると、須臾で血の気が引いた風に後ずさった。俺はアロハの前を全開にして、片方の裾を手で捲って腹の傷を見せていた。
「マフィアの女に手を出すつもりか」
最大限にどすの効いた声を腹の底から絞り出すと、男共は尻尾を巻いて敗走した。敵を選ぶだけの頭がある連中で助かった。馬鹿だったら身体で教えてやらなくてはならないところだ。不完全燃焼の怒りを霧散させてブリジットに向き直ると、未だ不安に駆られている面持ちだった。――参ったな。あの馬鹿共も厄介な事をしてくれたものだ。とりあえずはその頭をぐりぐりと撫でてやった。
「まあ、こういう事もあるさ。お前、可愛いから」
「そう……ですか……?」
何食わぬ顔で頷いてやると、幾分か安らいだ様でアロハのシャツを抓んでくる。成る程、こいつは見知らぬ土地で一人にしてはならないらしい。馬鹿共がいる間はゆっくり検分出来なかったが、ブリジットは白いパーカーを羽織り、その下にはライトグリーンの布が窺えた。人知れず、唾液が口内に満ちる。ええい、こらえろスケベ。
ふと周囲を観察すると、平時より開放的になったカップルが多数確認出来た。あれの一部になるのはかなり気恥ずかしいものがあるが、これも乗り越えるべき障害か。鼻息で踏ん切りを付けると、俺はそっとブリジットの手を取った。五十過ぎの親父に出来て、俺に叶わぬ道理はない。
「早く行かないと、陽が沈んじまうぞ?」
そう急かして手を引くと、いつもと変わらぬ微笑みが戻ってきた。全く、上玉の彼女を持つと苦労をする。だが、俺から手を繋いだことで上機嫌のブリジットを見れば、こうした厄介事も悪くはない気がした。遅過ぎる青春など存在しない。それは親父が証明してくれた事だ。
ベースキャンプに戻ると、誰もいないパラソルの陰に新しいビールのカップが置かれていた。ショーンが買ってきてくれたのだろうか。当のショーンは何処へ行ったのかと考えながらシートに腰を下ろすと、何やらブリジットが荷物を漁って、小さな瓶を取り出す。またマッサージでもしてくれるのかとも考えたが、どうやら瓶の中身はオイルではないらしい。先程、親父夫婦が使っていた日焼け止めだ。
「上着を脱いで下さいね」
「あいよ」と条件反射で返事をしてしまう辺り、俺はかなり手懐けられているのだろう。だが、今はパラソルの影だからいいものの、この傷跡だらけの身体を日の下に晒すと思うと気が滅入るが、恋人が海遊びがしたいというのだから我慢しようとアロハを脱ぎ捨てた。潮風が、傷跡の一つ一つに沁みる心地がした。
胸に自分で白い日焼け止めを伸ばし、背中側はブリジットが丹念に揉み込んでくれる。独特な弾力を持つ掌と指の腹に僅かな性的興奮を覚える。肩や首まで日焼け止めを塗り終え、後はブリジットが日焼け止めを塗るのを待つという次第になった。その筈なのだが、俺がビールを一口やるのを、彼女は何やらものを言いたげにじっと見つめていた。構わずに二口目を飲むと、彼女は意を決したのか頬を染めて口を開いた。
「あの……背中に塗って戴いてもよろしいでしょうか……?」
わあ。驚いてビールが少し鼻腔に逆流したよ。ホップの匂いが粘膜に激痛をもたらす。どうやら聞き違いではないらしく、ブリジットは俺に向けて日焼け止めの瓶を差し出している。健全な青少年であればご褒美と鼻血をだだ漏れにするが、俺にはまだ敷居が高いと思われる。つい数日前まで神経系が彼女との身体的接触を断固として拒絶していたのだ。現状では彼女からの接触という形では何ら拒否反応を示さなくなったとはいえ、俺の側からブリジットの素肌に触れるとなれば、触れた腕が爆散するのではなかろうか。掌にじわりと汗が分泌される。こいつの由来は自身が病を快復させている確信がないからか、それとも単に女子の肌に触れるというスケベ心からか。逡巡の末に、脳内の議会が導き出した回答はこうだ。「スケベだっていいじゃないか」そうだ、スケベでいいんだ!
汗でぐちゃぐちゃにふやけた手を瓶に伸ばす。まさか、自分がこんな身分に身を置く事になるとは。目の周りの汗を腕で拭う。ブリジットはパーカーの前をそっと開けると、脱いだそれを脇に畳んで置いた。いかん、こいつは想像以上の破壊力だ。普段の服装では窺い知れなかったが、ブリジットの肢体はあどけなさの残る容姿に反してその全てが艶めかしく、妖艶な色香を発していた。彼女の身体を目の当たりにして理性を失わなかったのは、一重に奇跡だとしか言いようがない。全体的にスレンダーながらも、付いていて欲しい部分にはしっかりと脂が乗り、かつ程良く引き締まっている。腹には縦に綺麗な線が走り、僅かばかりも弛みが見られない。健康的な脚部は毛の一本も生しておらず、すらりとしていながらも肉感を十二分に有している代物であった。
「あの、余り見られると……その……」
これが視姦せずにいられるか。分厚いメイド服の下に、こんな兵器を隠し持っていると誰が予想出来ただろう。だが、気に掛かる点が一つあった。ジェロームが今朝に届けに来た、ライトグリーンのビキニだ。控えめなその色とデザイン――ホルターネックだっけ?――はブリジットの印象に適合している。小さな尻を包むショーツにもフリルがあしらわれており、デザイナーの意匠がほのかに演出されている。――だが、サイズが合い過ぎている。果たしてジェロームはどうしてブリジットのスリーサイズを知ったのか……。鳥肌が、背中一面を覆う。今度、うちの監視カメラの映像を見直した方がいいやもしれない。
俺はうつ伏せのブリジットを眼下に生唾を嚥下した。トップを留めるリボンがかすかな衣擦れと共に解かれる。ブリジットの体重で胸の双丘が柔らかく零れる。どうしよう、あとちょっとで見えちゃうぞ。甘い誘惑に眩暈に襲われたが、自前の精神力で何とかやり過ごす。もしかして俺は、大変な役得を今から賞味しようとしているのではないか。そう理解した途端に、猛烈なプレッシャーが掛かった。
「行きますぜ……」
乳白色の日焼け止めを掌に垂らし、静かにブリジットの背中に近付ける。手を素早く裏返して彼女の肩甲骨に触れた際に、冷たかったのか小さな悲鳴が漏れた。健康な身であれば、今ので勃起していただろう。ブリジットの背中はきめが細かく、白斑の一つも見られない上質な絹を彷彿とさせた。しっとりと潤いを保っており、腰に近付く程に柔らかみが増す。俺の乾燥してがさついた、爬虫類の如き皮膚と同じ成分で構成されているとは到底思えない。それこそ、美少女だけが生息する異星から流れ着いたと言われても、信じるしかないくらいだ。公共の場でなくば、自我を放って舌を這わせていたかもしれない。日焼け止めでべたべただけど。
額が欲望の汁でずぶ濡れになりながら背中への塗布を終えると、ブリジットは気前が良いのか脚にまで塗らせてくれるらしい。背中より遥かに柔らかそうな美脚に、俺の双眸は釘付けにされた。気を取り直して日焼け止めを手に取り、おぼつかない手付きでその太ももにあてがった。ややもすれば喘ぎとも取れる悲鳴が再び上がり、俺の忍耐は絶頂を迎えそうだった。彼女の大腿は外見とは裏腹にむっちりと弾力のある玉の肌で、乾燥した掌に吸い付く心地があり、力を加えれば何処まででも沈んでいきそうだ。そのままくすみのない膝裏を経てふくらはぎまで白濁液を伸ばす。気持ちいい、その一言に尽きる。適度な筋肉が付いていて、ひんやりとしている。俺の内で、独占欲の炎に薪がくべられる。いつか自分もストーカーじみた変態に墜ちてしまう日が来るのではないかと考えると肝が冷えた。違う、俺はジェロームになんぞならんぞ。
平均サイズより少し大きめかと思われる足まで日焼け止めを塗り終えると、ブリジットはおずおずとトップの紐を結び直した。起き上がった彼女は日陰でも分かる程に紅潮していて、男心をくすぐる。
「凄く、紳士的でしたね……」
まさか。俺はただ欲望のままに君の身体を弄んだに過ぎない。色気に当てられた、哀れなエロスの権化だ。そんな色情魔が、紳士である訳がない。己が内で増大する色欲との葛藤を繰り広げていると、前にも日焼け止めを塗り終えたブリジットが、やにわに立ち上がった。
「ちょっと火照っちゃいましたね。そろそろ海へ行きましょうか」
そう言うなり俺の手を取ると、駆け足に海へと引っ張られる。普段は大人びた印象を振りまくこの子も、やはり十八という年齢に見合った幼さが残っているのだろうか。天高く輝く太陽よりも眩しい笑みに、傷跡への劣等感は打ち消された。今日くらいは、俺も餓鬼の気分を味わうのも悪くはない。陰鬱と決別を果たした証明に、俺はブリジットの後に続き、叫声を伴って青い海に飛び込んだ。澄んだ海中に、飛沫と水泡が弾ける。未体験の解放感が、海水に包まれた身に降り立った。
陽が半分ほど水平線に沈み、観光客の人足も少なくなった頃、我々もベースキャンプを畳みに掛かった。ヴェストは予定通りに浅黒い肌のブロンドねーちゃんをお持ち帰りしたので、俺達とは別に帰るらしい。ついでに自称女たらしのジェロームだが、誰の股を濡らす事もなく、日中ずっと砂浜を巡っていたせいで全身が真っ赤に焼けて呆然と放心していた。皆様、SASは例え女遊びが不得手な方でも分け隔てなくお待ちしております。選抜に受かるかどうかは別として。
パラソルを畳む時に脇目で見たブリジットは、鮮やかなオレンジの夕陽に照らされていた。その身体に落ちる陰影が、野郎にはない曲線美を強調する。日中よりも色気を増した彼女を、俺は直視出来なかった。
片付けを終えると、砂浜に立ち尽くして夕陽に焦がされるジェロームを抱え上げてホテルに戻り、着替えを済ませて荷物をまとめる。ありがとう、ホテル=ディヴィッド・スターリング。君のお蔭で、俺は心のカビをまた少し殺菌した。行き詰まった時は、環境を変えるのも悪くはない。そう、セックスレスに悩む夫婦が、気分作りにホテルを利用する様に。今回の遠征で、ブリジットと俺はもう一つ上の段階へと進展した。大分遠回りはしたが、こうして徐々に男女のあるべき形へ近付いている。ブリジットは自分を無闇に卑下しなくなった。マーティン少年は自らを罰する事の無意味を知った。ホテルをチェックアウトして車に乗り込むと、陽が海に沈んだ。薄暗い車内でブリジットが語り掛けてきた「帰りましょうか」の一言が心に反響する中で、俺は家路に向けてアクセルをゆったり踏み込んだ。