【21】
曇天がボイコットを起こしたのか、この日のヘリフォードは青く澄んだ快晴に見舞われた。暖かな陽光の中でのランニングを終え、シャワーでさっぱりした身体をソファに沈めると、目の前のテレビにでぶの中年男性が顔を各報道機関にマイクで頬を殴られている様子が映っていた。――ああ、こいつか。つい先日も奴隷制度にまつわる裏取引とやらで追及を受けていた、マーティン・アボット議員だ。どうやらそれから決着がつかないままだったらしく、未だにメディアの関心による攻撃を受けているらしい。普段は我々にとって煩わしいだけのマスコミ連中だが、液晶の中で叩かれているのは個人的にいけ好かない政治屋だ。この時ばかりは彼らの働きに手を叩くのもやぶさかではなかった。腐れ文民め、ざまあみろ!くそ野郎の苦悶に引きつる面を観て満足したので、幼児向けの教育番組にチャンネルを変えた。
「朝食が出来ましたよ」
紅茶のマグカップを両手に持つブリジットの快い呼び掛けで、ソファから腰を上げる。ダイニングテーブルに並んだ食事から、眠っている胃袋を揺り起こす芳香が漂う。と、席に着く直前に、傍の壁に吊るされたカレンダーに目を向けた。――八月の十五日、その日付の下には赤のインクでこう書かれている。『ヒルバート様の誕生日』この歳になってはめでたくも何ともないが、恋人に仮とはいえど出生日を憶えていて貰うのは、中々に嬉しい。ハッピーバースデー、おめでとう三十路。逃れられない現実に少し悲しくなったので、さっさと朝食の席に着いた。三十歳!童貞!万歳!
たっぷりの朝食を口に運ぶ間、ブラウンの趣ある仕事着に身を包んだブリジットは終始にこやかであった。こういう時の彼女は何か企みを孕んでいるというのを、ここ数日で俺は学んでいた。何にまつわる事案かは大方の予想が付いていたが、問うたところで絶対に教えてはくれないだろう事は知れていたので、自分から今日のイベントに対して切り出しはしなかった。
食事を終え、玄関先でブリジットから鞄を受け取り、彼女の方から優しいキスを貰って――灰色掛かったブロンドの髪から凄くいい匂いがする――玄関を抜ける。とうとう彼女の口から誕生日に関する情報は出なかったが、それだけ自らの内だけで温めていたいのだろう。その分も期待して、俺は愛車のアクセルを踏み込んだ。
職場で毎度の検問を抜けて駐車場で車を降りると、同僚らが集う本部ビルではなく別の方向に歩みを向けた。ブライトンでのPSC訓練の後に通い始めた場所――クレデンヒルのSAS基地内に設けられている、医療センターだ。病院と呼ぶには少々清潔感の足りない施設に入り、受付のおばちゃんに挨拶を済ませる。彼女を見ると、ブリジットの顔が如何に素晴らしい造形をしているかが分かる。
「おはようジェニー。先生に会いたいんだけど」
「アーリー先生なら、今は空いてるわよ。診察かしら?」
「そんな感じだよ」
看護婦が内線で何やら話す。幸い、今日の医療センターは閑古鳥だ。太ったジェニーは背後の巨大な抽斗から、俺の個人情報が記録された書類を探り当てた。
「いつもの診療室でお待ちよ。彼、貴方がまたここに来るようになってから機嫌がいいの」
「そいつは複雑だな」
かねてより自分を悩ませていた患者が快方に向かっているのだから、肩の荷も下りるというものだ。担当医の彼にも随分と迷惑を掛けた。今度、お気に入りの葉巻でもプレゼントしてやろう。
茶封筒に入れられた書類を受け取って診療室へ足を運び、引き戸をノックする。すぐにまったりとした返事が聞こえたので、部屋に入った。中にはそれなりの口髭を湛えた、知名を少し過ぎた白衣のベン・アーリー医師が、デスクに肘を付いて座っていた。
「やあヒルバート、三日振りだね。何か変わりあったかな?」
言いながら手振りで椅子に座る様に促すので、それに従って腰を下ろす。
「特に変化はないです、先生。倦怠感もかなり和らぎました」
俺の言葉を受けると、彼は満足げに首肯した。ベンは俺が連隊に入った頃からいる医師だ。専門は内科だが、こうして戦地から心的外傷を持ち帰った兵士のカウンセリングも担当している。もっとも、ここで働いていて受け持つ患者は大概が精神を病んでいるか、前夜に飲み過ぎて胃薬を欲しがる酔っ払いなので、専業の方はかなり出番が限られる。そういう訳で、彼はD中隊専属の心療内科医を担っているのだ。
「処方した薬はちゃんと飲んでいるかな?」
「ええ、恋人が管理してくれるので」
「それならよかった。彼女には私からも礼を言っていたと伝えておいてくれ」
「そうします」
ベンの診療を受け始めたのは、三年ほど前からだ。当初は親父の奨めで受診していたのだが、当時の俺は誰も信用出来なくなっていたし、平和な環境に身を置いている医者に自分の過去を話したところで理解など得られないと、自らの心を固く閉ざしていた。他人に傷心を踏み荒らされるくらいなら、通院する意味などないと勝手に病院通いを止めていたのだが、つい先日から再び世話になり始めたのだ。やはり大切な人と暮らすには、互いの為にも健常な心身でいるに限る。過去への踏ん切りという着地点を見付ける目的で、俺は自分の傷口と真っ向から殴り合う決意を固めた。
「まだ飲酒を続けているらしいね」
「ええ。でも深酒はもう止めました。今は恋人と一緒に付き合うくらいで」
その恋人が結構な量の飲酒をする事は伏せておいた。
「飲酒後の頭痛は?」
「いいえ、全く」
ベンは満面の笑みを浮かべた。戦場で精神を損傷した兵士は、大概が悪夢に苦しみ、過度のアルコールの摂取に走る傾向にある。次第に廃人化する心身に歯止めは効かず、非行に走って日常生活を送れなくなった時には手遅れとなっている。俺がブリジットに出逢ったのは、その瀬戸際というタイミングだ。いやあ、危なかった。
「それじゃあ、今の生活に不安はないのかな?」
ベンの口調が真剣みを帯びた。この質問には即答しあぐねた。確かに現在の生活は充実している。家は片付いているし、座っているだけで紅茶が出てきて、仕事を終えれば温かな夕食とそれを作ってくれる甲斐甲斐しい彼女が待っている。人生の歯車を総とっかえした具合に世界が変わった。過去に囚われて止まっていた時間は目まぐるしく動き出している。それでも、歯車が完全に健康に回っているとは言い難かった。
現状、ブリジットと俺は一つ屋根の下で同棲という形で生活している。互いに恋情を抱く恋人関係という間柄で、そこにはかつての『奴隷と主人』なる垣根は壊されている。この上で何を望むか。簡単だ、男なら尚更に。
「先生……〈バイアグラ〉って処方して戴けますか?」
ベンは腕を組み、低く唸った。そもそも、この医療センターにあの青くて菱形の錠剤は在庫があるのだろうか。ベンは唇を噛み締めると、そっと言葉を紡いだ。
「余りお奨めは出来ないな。世間的には、バイアグラやレビトラを用いたED治療は有効だ。でもね、これは医者ではなくて一個人としての意見だけど、君のEDにはどうも……効果的ではない気がするんだ。心療内科医ではないから確実な事は言えないけど、あんなへんちくりんな薬の手を借りずに、正々堂々と自分のご子息で闘いたいとは思わないかな」
今度は俺が唇を噛んだ。高性能の精力剤を使用して彼女と行為に及んだとして、それは病を克服した事になるのだろうか。分からない。思わず頭を垂れて額を押さえた。
「こう言っては何だけど、焦っているんじゃないかな。君は幼少期から辛い思いを経験し過ぎた。失った時間は短くない。でも、無理に急いて見切り発車をしたら、せっかく乗ったレールから脱線してしまう。そうは思わないか?」
どうだろう。三十路になって十時間弱しか経っていない身では、正解に辿り着けなかった。相変わらず頭を捻ってうんうん呻く俺に、ベンは力を抜く様に言った。
「まあそう肩肘を張ってもしょうがない。まずは今後も彼女と暮らして、様子を見てはどうだい。彼女が君と性交渉を持ちたくて仕方ないのであれば、私もそれなりの対応をしよう。なあに、聞いたところ、その子の身持ちは固いみたいじゃないか。ゆったりと構えておきたまえ」
精力剤を処方してくれない事には納得していなかったが、それ以上は何も言わずに首肯して診療室を退出した。この歳になって、男として焦りを覚えているのは否定出来ない。何しろ、この三十路という年齢で童貞だ。とても周囲に言いふらせたものではない。それに、この頃のブリジットは胸を後頭部に当ててきたり、ベッドの中で脚を絡ませてきたりと、露骨に肉体的なスキンシップを取ってくる。急かない方が異常というものだ。性の欲望には抗えるやつはいない。
受付で診察と内服薬の代金を支払うと、ようやく訓練に向かう。本部ビルの自分に割り当てられた小部屋に赴くその途中、書類仕事をほっぽり出してぶらついているらしい親父殿が視界に入った。手にした握り飯――間違いなくニーナの手作り――をもぐもぐやりながら、施設内の部署を冷やかしに歩き回っているのだろう。今にも情報班の部署を襲撃しそうだったので、駆け足に近付いて肩を捕まえた。
「奥さんに仕事押し付けて何してんだよ」
「あいつ綺麗だろ?誰にも触らせねえぞ」
あーん、会話にならない。突如として襲来した眩暈に目頭を押さえた。北アイルランドで出逢った時は、こんな男ではなかった筈なのだが。あわや涙が零れるという間際に、目の前に「終戦おめでとう!」とメッセージの付いた小奇麗な装丁の小包が差し出された。
「何さこれ」
「パパから息子への愛だよ」
そうしてウィンクしつつ小さく舌を見せる。気持ちの悪い男だ。警戒しながら小包を受け取ると、早く開けるようにせがまれる。止せよ、そう目を輝かせるな気色悪い。暑苦しい期待の眼差しに耐えながら飛翔する鶴の包装を破くと、イギリスには珍しい上品な桐の箱が姿を現す。おっかなびっくり蓋を上げれば、綿の敷き詰められた中に、細い棒切れが収まっていた。取り上げて光にかざしてみると、飴色に彩られたマーブル模様が透ける。どうやら、べっ甲で出来ているらしい。
「……工芸品?」
「日本の職人が作った『ミミカキ』だ」
「耳……牡蠣?」
とても貝類には見えないが……。
「中途半端に日本語を憶えるからそうなるんだ、馬鹿者。いいか、こいつは『耳掻き』。自然な流れで女の子に膝枕をして貰える戦術兵器だ。本国じゃあ、こいつを使った風俗店まで開かれてるんだぞ」
何故に作戦地で使わない言語について糾弾されているのか釈然としないし、そんな知識は要らなかった。
「要するに耳掃除の道具だ。いいな、絶対に自分で使うなよ」
「意味が分からん。それなら俺が持っていても仕方ないじゃないか」
「じきに分かる」
親父は含み笑いでそれだけ言い残すと、情報班の邪魔をしに足早に駆けていった。しまった、不可解な誕生日プレゼントに頭を悩ませている隙に、厄介なネズミを逃がしてしまった。憐れな情報班に憐憫を寄せながら、受け取った小箱をパンツのポケットに収めた。
個室で真っ黒の戦闘服に着替えを終え、一時間遅れでキリングハウスに到着する。細長い建築物群は既に何枚ものドアが吹き飛ばされて、荒廃した第三世界の様相を呈していた。いいぞ、もっとやれ!
キリングハウスでのCQB訓練に合流し、同僚と窓や壁をぶち壊して休憩を挟み、午後は屋外の広大な射撃場で自前のライフルを構え、しばらく蔑ろにしていた狙撃に勤しんだ。休憩時には数人の同僚からそこそこ高級な酒を貰い――ジェロームからは、とろりとした正体不明の液体のボトルを押し付けられた――狙撃訓練では、八百メーター離れた人間大の標的のブルズアイを撃ち抜いた。狙撃の大先輩たるショーンの立ち合いもなしでだ。そういう訳で、仕事を終えたライフルを担いで本部ビルへ戻る時はステップを踏みそうなくらい上機嫌で、珍しく鼻歌まで吹かしていた始末であった。かつてこれほど幸福な誕生日があっただろうか!余りに浮かれていたので、ダニエルが俺の紅茶にしこたま塩をぶち込んでいたのにも気付かなかった。あの野郎、ナメクジだったら死んでいたぞ。
職務を終え、平服に戻って帰路に就こうとした際に同僚から飲みに誘われたが、あの子が待っているので後日誘ってくれと丁重に断りを入れた。祝ってくれる厚意は嬉しいが、やはり健気な思慕は裏切れない。気を抜けばふわりと飛んでいきそうな身体を何とかBMWに乗せると、緩やかにアクセルを踏み込む。いつの間にやら車内にぶら下げられた消臭剤が揺れ、知らぬ間に交換されていたタイヤが家路を踏む。日常生活の至る所に、あの子の影が垣間見える。それは本当に、何と言うべきか……とても素晴らしい事だ。
かつてない程の安全運転で愛車をガレージに停めると、窓から生活感が零れているのを察した。誰かが自分の帰りを待っている暖かい暮らしが、今や自分の周囲に散らばっている。現実離れした環境に、思わず頬が緩む。基地で貰った酒瓶の山が入った紙袋を抱えて鍵をドアに挿し、錠を解除する。その音が、たまらない安堵をこの身に呼び起こすのだ。鍵を抜いて肘でドアノブを押し下げ、生じた僅かな隙間に爪先を差し入れてドアを開く。よくホームドラマでシリアルの箱が飛び出ている袋を抱える父ちゃんみたいな動きで身を滑り入れると、ようやく家に入る事が出来た。瞬間、家中にほわんと漂う芳しい香りが鼻を酔わせる。その種類が普段よりも多く、一体どれだけの料理が用意されているのかまでは測れなかった。
大量のガラス瓶がぶつかる音を聞きつけたのか、両手にミトンをはめたブリジットがキッチンから駆けてくる。ああ、帰宅という行為は、この再開の為にあるのだろうか。北アイルランドで配線を繋げていた頃では生じ得なかった、柔らかな火が心に灯る。その灯火が、今はただ愛おしい。
「お疲れ様です。お風呂の用意が出来ていますが、如何致しますか?」
「シャワーは基地で済ませてきた。それより空腹だな、今日の夕食は何だろう」
ブリジットは朗らかに微笑むと、やにわに俺の手を取ってダイニングへと誘導する。やれやれ、珍しく子供っぽい一面を見せてくれる。辿り着いた先のダイニングテーブルには、中華で言うところの満漢全席に匹敵し得る量の料理が配されていた。数種類のサラダがテーブル外周を彩り、その隙間を埋める様にラザニアやソーセージが配置されている。中央には鍋敷きが置かれているが、その上には何もない。食卓で取り分け強い主張を放っているのが、籐のバスケットに盛られたガーリックバゲットだ。こんがりと焼き目が程良く付けられ、こってりとバターが染みている。彼女がここに住んでしばらく経っているから分かるが、恐らく生地から作ったのだろう。この子は自分の趣向が絡むと際限なく尽力する傾向にある。俺がまだ眠っている夜明けから起き出して、せこせこと小麦粉を練っていたのだろう。甲斐甲斐しいやつめ。その隣にはでかいステーキ肉が、グレービーソースの布団を被って横たわる皿がある。こればかりではなく、ブリジットはキッチンのガス台で湯気を上げていたビーフシチューの鍋を、空いていた鍋敷きに設置した。一体いつからうちは高級外食店になったのか。
「驚いたな。一人で作ったのか?」
この問い掛けに小さなシェフは無言で胸を張って手を置いた。同年代と比較して控えめなおっぱいが強調されて、おじさんちょっとどきっとしたよ。促されるままに食卓に着くと、手許に置かれたワイングラスに食前酒としてベルモットが注がれる。葡萄の持つ果実特有の甘い香りが立ち昇り、食欲が唾液を垂らして頭をもたげる。芳香に酩酊してると、左腕にブリジットの指が絡み付いてきた。数秒で彼女の繊細な手が離れると、そこには光沢を消された真新しい黒い腕時計が残されていた。
「ヒルバート様、お誕生日おめでとうございます」
頬に柔らかな唇が触れ、ほのかな潤いを置いて離れる。今日までにかなりの回数のそれを受けたのだが、今しがたのキスは相当に気恥ずかしかった。
「ブーツにしようかとも迷ったんですけど、サイズの都合が付く方がいいかと思いまして」
そう言ってはにかむ彼女は、祝っている側のくせにやたら嬉しそうだ。礼と一緒に小さな頭を抱き寄せて撫でると、目尻を垂らして頬を緩める。何処ぞの変態が吹き込んだ日本語知識のせいで『忠犬ブリ公』なる単語が思い浮かんだ。
ブリジットが右手の席に着いて自分のグラスにもベルモットを注ぐ。どちらからという事もなくグラスを低く掲げると、ガラスのボディを軽く打ち合わせる。ワイングラスの正しい乾杯ではないが、これくらい俗っぽい方が構えずにいられる。合図した様なタイミングで同時に薄黄緑の液体を口に含み、そっと口内で転がす。醸造酒としては高めのアルコールが粘膜に染み渡り、未成年の知り得ぬ多幸感が内側から拡がる。胃が十分に温まったのを見計った様に、俺の分のポテトサラダがよそわれた。ジャガイモの塊は大き過ぎず小さ過ぎず、口に含むと適度な歯応えが返ってくる蒸し具合だ。俺が料理を一口やる度に、ブリジットは嬉々として矢継ぎ早に次の一品を勧めてくる。ここまで興奮している彼女を目にするのも久しい。半ば玩具のバービー人形の様な心地を味わいながら、心身共に俺の腹は膨れていった。
貰った〈トレーサー〉の腕時計の長針が一回転した辺りで、胃の膨張の限界が訪れた。とはいえ、肉やパンといった皿は美味しく平らげたし、残っているのも僅かなシチューとサラダくらいのものだ。普段の数倍の食物を腸に収められたのは、他ならぬブリジットからの祝意に年甲斐なく舞い上がっていたというのが大きい。ぼっこり盛り上がった下腹部をさする最中、食器の片付けを終えたブリジットがミキシンググラスを掻き混ぜる音が耳に優しい。程なくしていつの間にやら仕入れたらしいカクテルグラスが目の前に置かれ、慣れた手付きでマティーニが注がれる。俺がオリーブの実が嫌いなのも、我流でレモンピールを絞る――この場合はカクテルに吹き付けるのではなく、グラスの周囲に漂わせるくらいの認識である――事も、この二ヶ月にも満たない期間の内にブリジットは知り得ていた。オリーブの沈んでいないマティーニ(大抵のマティーニにはオリーブの実か浸漬液が加えられる)からは純然たるレモンの爽やかな香りと〈ボンベイ・サファイア〉のジュニパーベリーを初めとした香辛料が息吹を発し、霞みの掛かった複雑な快楽を脳に伝達してくれる。使い慣れないカクテルグラスを目線まで上げ、高アルコールのカクテルをやおら口に含む。口腔の粘膜が焼かれる感触を、酒の神と恋人への敬意と共に味わう。メンソールの様に鼻腔を突き刺す痺れが通り過ぎると、じぃんわりと乾いた苦みの余韻が漂った。――美味い。その一言に尽きる。既に五杯程の酒を干した身に、とうとう甘い酔いが回ってきた。脱力して背もたれに身体を預けると、左の大腿に硬い感触が姿勢の邪魔をする。ポケットを探って誰何すれば、今朝方に親父から受け取った桐の箱であった。蓋を開けば勿論、飴色に煌めく工芸品が仰々しく収まっている。
「なあ、ブリジット。こいつを知ってるか?親父から貰ったんだが……」
白く輝くダイキリが満たされたグラスを持って席に着いたブリジットに棒切れを見せると、彼女はぱあと頬を緩めて深い関心を示してくれた。
「あら、日本の耳掻きですね。珍しいなあ」
何で知ってるんだ。イギリスという土地は――まあ、イギリスに限らないが――耳孔の清掃に綿棒を用いるが、その他の道具は使わない。そのイギリス国民たるブリジットさんの視線は、俺が指先でつまんでいる耳掻きに注がれていた。やがてダイキリを一口で干したブリジットは、とろんと熱の籠もった瞳で囁き掛けてきた。
「ねえ、その耳掻き、試させて戴いても……いいですか?」
脳がぼんやりと麻痺している身でも眼前に展開されている状況を把握出来るのは、一重に心身を連隊で痛め付けたからか、はたまた単にアルコールへ耐性が醸成されたからであろうか。今やそんな問いは何処かへ投げやってしまうのが適当だろう。ゴミ箱ぽい。
うちに来て長らく使っているソファ、そこにブリジットは腰掛けている。その手には親父のプレゼントであるべっ甲の耳掻きが握られていた。手前のガラステーブルには、水の張られた皿と綿棒のケースが置かれている。ここに来て親父の言葉の意味を悟った。
「ささ、こちらへ」
アルコールが入って少々頬を染めたブリジットは、スカートに包まれた太ももをぽんぽん叩き、蠱惑的な誘いを匂わせている。反射的に、欲望の生唾が口内で糸を引く。心的外傷や悪夢をぶちのめす最近まで気付かなかった事だが、人間は良い塩梅で酩酊すると自発的に人肌を欲する。まるでウツボカズラの蜜に誘因されるハエよろしく、ふらりと千鳥足に歩み寄る。墜落寸前のヘリコプターみたいな足取りでソファに接地するなり、俺はブリジットのおみあしへとだらしなくしな垂れかかった。シルクのエプロンが火照った頬に優しく、酒とは一線を画する重い香りが感じ取られた。
「ふふっ、いい子いい子……」
硬い頭髪をきめ細やかな指の腹が掻き分け、頭皮に慕情が降り注ぐ。枕にしている心地良さに寝入りそうになってしまう。
「それじゃあ、掃除していきますね」
初体験に心臓を高鳴らせつつ身構えていると、綿棒のかさついた感触が耳に触れた。どうやら最初は耳掻きとやらを使わないらしい。
「ん……ここもね、意外と汚れるんですよ……」
耳孔ではなく、その周辺の耳殻の壁や耳の裏に溜まっている垢がこそぎ落とされる。実に丁寧な仕事に、嘆息を禁じ得なかった。
「あ、お耳が熱くなってきた。お酒が回ってきましたか?」
うちのメイドは意地悪だ。柄にもなくぷいと口を尖らせていると「冗談ですよ」と頬にキスの詫びを入れられる。これだから憎めない。耳殻の垢が削り取られると、落ちたカスをティッシュでそっと拭い取られる。これだけでも少し清潔になった心地だ。
「それでは、お耳の中に失礼しまあす……」
何処か官能めいた囁きが、吐息に乗って耳を直撃する。桃色の大規模爆風爆弾の炸裂で背筋が粟立つのと同時に、快い酔いが彼方へと吹っ飛んでしまった。理性の城塞の跡地には、剥き出しの期待と欲望だけが残された。やがてべっ甲の固体らしからぬ柔らかい質感が、外耳道の入り口にあてがわれる。そこからそうと穴の壁に沿って先端のヘラ部分が進んでいき、丁度中程で壁の垢を剥がす作業が始まった。これが他人にやって貰うと存外にこそばゆく、手探りに自分でやるよりも明らかに効果があるのが分かる。それに加え、耳の内を擦る軽い音が不思議と安らかな心地を呼び起こす。
「痛く……ないですか?」
「うん、大丈夫」
ブリジットは満足げにくすりと笑むと、再び緻密な作業に熱を上げた。ヘラが皮膚を掻く度にぞりぞりとおっかない音が木霊するのだが、慣れるとこれが結構癖になる。特徴的な掘削音に身を任せていると、遂にヘラが最奥に到達した。
「あら、結構溜まってますよ」
何やら大変恥ずかしい。繊細な指遣いで鼓膜周辺に張り付く耳垢を剥がし、次々と汚物の塊を掻き出していく。包み隠さず言えば、幼少期にこういった経験がないせいか、新鮮味を覚えると共に何気ない母性を享受出来る事に少なからず動揺していた。自分の様な存在がこういった感情を抱いてよいものかという考えが束の間をよぎりもしたが、すぐさま改悛した。もう、無駄な悔いは捨てたのだ。これくらいの恩賞があっても、誰も俺を責めまい。
でかい耳くその塊が掻き出される毎に、耳孔に新鮮な空気が取り入れられる錯覚を抱く。ブリジットは巨大なくそを排除すると「大きいの取れた」と、さも楽しそうに喜びを露にする。何がそんなに面白いのか測りかねるが、こちらとしても止める理由はないので好きにさせていた。
主だった堆積物を除去し終えると、ぐでんと無警戒に脱力したところへ、出し抜けに生温かい吐息が吹き入れられた。これにはたまらず背筋を反らせて素っ頓狂な叫びを上げたが、ブリジットがしゃあしゃあと「びっくりしました?」と問うてくるので怒る気にもならない。くすくすと鼻を鳴らす彼女はそれから綿棒を軽く濡らすと、今しがた掘っていた耳にそれを挿入した。
「冷たくないですか?こうやって、濡らした綿棒で中を拭くと、残った汚れがよく取れるんですよ」
「へえ……」
耳掃除を他人にやって貰う趣を知った今では、自分でやる事はないだろうが。しっとりと湿り気を帯びた綿糸が、熱された耳の血管を程良く冷やしてくれる。成る程、確かにこいつは気持ちがいい。
「んー、水は残ってないかな……。はい、じゃあ反対のお耳も見せて下さいねー」
そう告げるなり、ブリジットは有無を言わさず俺の頭を逆に向かせたのだ。おいおい、本気か?別に耳掃除を止めさせる気は更々ないが、今までテレビの方を向いていた鼻先は、事もあろうに彼女のデリケートゾーンの延長線上にある被服に没した。その点に気付いているか定かではないが、ブリジットは相変わらず自分のペースで事を進めている。というより、彼女の場合は意図してやっている節が濃厚だ。最強のSASとはいえど、酸素なくしては死んでしまう。耳の中をごそごそやられているのも忘れて息を止めていたが、アルコールで血流が盛んになっている身では一分ともたない。とうとう折れて鼻腔から酸素を吸入してしまった。途端、平時に吸っている空気とは明らかに異なる、重く濃厚な雌の色香が肺に侵入。直後に肺胞の一つに至るまでがあたかも桜の如く開花する心境に至った。神経ガスに匹敵する威力で脳を侵されたのに暇も与えず、ブリジットの電撃戦は止まるところを知らない。
「おっと、大物を発見……」
高圧蒸気でも吹きそうになっている俺の頭――まるで一触即発のバルカン半島の如き爆弾と化したそれに止めを刺したとすれば、正にこの時の彼女の行動だったのだろう。余程狩りたい獲物だったのか、その姿をしかと捉えようと彼女は俺の耳に顔を近付けた。必然的に姿勢は前傾し、彼女の上半身は俺の顔面に接近する。これが何を意味するか、結論を述べよう。たった今、俺の片頬にブリジットのおっぱいが当たっています。滑らかなシルクのエプロン、実用性を重視した被服のその向こう、ワイヤーの入った硬い感触を通しても隠し切れないその若い弾力と、桁違いに強力なフェロモンの芳香が、それまで積み重ねてきた過去を時空の彼方へ抹消し、俺の意識は細胞レベルで分解されて宇宙へと旅立った。須臾の時を浮遊した思念体は、稲妻の様にまた自己の肉体へと勢い落ちて幽体離脱から復帰する。過去前例なき衝撃――それこそが、元マーティン少年を憎き戒めから解き放った。
「うん、綺麗綺麗。ヒルバート様、終わりましたよ。如何でしたか?」
激烈な夢幻より覚醒した身体に、暴力的なまでのアドレナリンの濁流が血管を駆ける。その感覚には憶えがあった。久しく会っていなかった旧知の友人と再会した心情。幼少期を共にした幼馴染み。俺は姿なき彼に駆け寄り、その身を強く抱いた。「お帰り」
「ブリジット」
「はい?」
耳掃除の満足感に浸っていたブリジットはきょとんと首を傾げると、すぐさま事態に反応した。彼女は咄嗟に口許へ手をやり、瞼を大きく拡げる。その視線は俺の下腹部で厳かにそびえる巨峰――数年振りに顕現なさった、我が愚息に一直線に注がれていた。赤熱する勢いの血流は、海綿体を力強く復活、雄々しく天を衝かせた。幾らか平静を取り戻したブリジットが、そっと俺の顔色を窺う。――もう、やるべき事は決まっている。静かに上体を起こし、愛する少女の名を呼んで肩を掴む。相当なプレッシャーに、彼女は大きく身を竦ませた。その真剣かつ不安の混在する表情には、少なからず願望が含まれている様に見えた。緊張で乾いた唇を唾液で濡らし、俺は一言一句を大事に発音した。
「ブリジット……お前を、抱きたい」
彼女は目尻に溜まり、零れ落ちた感情を隠そうともせず、力強く頷いた。
「喜んで……!」