※この作品はR-18です。

奴隷邂逅   作:紙谷米英

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奴隷邂逅15

 

【28】

 

 十五分間の仮眠を摂って、腕時計の発光する文字盤を見ると一時を回っていた。大きく欠けた月明かりの周囲はしんと静まった夜気が満ち、街灯にかなりでかい蛾が群がっている。首都の郊外でさびれた有料駐車場に駐車した車内から人通りを確かめたが、浮浪者の一人も見当たらない。こんな場所に自宅を構えるのは余程の人嫌いか、さもなきゃ人里離れて暮らす自分に酔う勘違い野郎だけだ。

 点眼液を一滴ずつ眼球に落とし、目頭を揉む。そろそろ仕事の時間だ。後部座席で衣服を脱ぎ、何処にでも売っている青い作業服に着替えた。何の社章も入っていない同色のキャップを目深に被れば、夜間の清掃作業員にしか見えない。違うのは、腰から下げたナイフと黒のホルスター、それより深い黒色の銃だけだ。銃口にはサプレッサーが捻じ込まれているので、ホルスターから長い筒が飛び出す格好を取っている。

 暗殺に必要な装備を詰め込んだ荷物と、狙撃銃を収めたナイロンバッグを抱えて車を降り、駐車場の監視カメラを逃れる経路で付近の山林に紛れる。事前に確認した地図によれば、この雑木林を抜ければアボット邸まで市内の監視カメラを避けつつ、人目にも付かずに接近出来る。闇の垂れ込める山林で夜目が使える様になるのを待つのも惜しく、キャップを脱いでPVS-14(NVG、暗視ゴーグル)を取り付けたヘルメットを被る。スイッチを入れると、ぶうんと羽虫の鳴く音と共に〈ハルク〉みたいな緑色の視界が開けた。単色のせいで距離感は掴み辛いが、眼としては十分に働いてくれる。少し五月蝿いのだけが欠点だが、文句も言っていられない。念を入れて拳銃を構えつつ、地図とコンパスの導きに従って山を登った。

 山林は人の手入れが行き届いているとは考えられず、そこら中に太い根や深い叢(くさむら)が蔓延っていた。眼前で止まないNVGの駆動音を割いて、蟲の鳴き声が木々に反響する。可能な限り、隠密に動かなくてはならない。アボットがそこまで頭の回る男だとは考え辛いが、もしこの山林がやつの所有地であれば、事前に兵隊を配備しておく事も不可能ではない。今のところ、蟲や鳥の動向を見る限りは、そういった様子はないが。

 五十メーター歩く度に、冷たい地面に這って聞き耳を立てた。土を踏み締める音がしないか。草木が擦れ、枝葉が折れる音がしないか。蟲の声が突然に途切れないか。神経質に気を配り、いつでも銃を撃てる様に視線を巡らす。やがて危険がないと判断すると、また息を殺して這い進む。姿勢を低く、自分がここを通った痕跡を残さない様に、硬い土だけを踏んで歩く。見通しはさほど悪くない。つまり、相手からもこちらの姿を見付けるのは難くない。もし狙撃銃や機関銃を構えて待ち構える斥候がいたら、一発でお陀仏だ。そうならない為にも、目視以外の手段をフルに用いなければならない。

 途中、何度かウサギと思われる動物が草木を掻き分ける音に肝を冷やしたが、それ以外で大きな生物との接触は見られなかった。気付かなかっただけとも想像出来るが、言い出したところできりがない。ともあれ、一時間ほどでアボット邸が肉眼で見える地点まで、俺は到達した。

 NVGを跳ね上げて邸宅を見渡すと、西日を嫌ったのか向かって左の壁には窓がなかった。南を除く三方は土の急斜面に囲われ、さらに内側を石の塀で防護されている。家屋は三つで、一番大きい二階建てはアボットの居住する母屋だろう。その隣に併設されている直方体・一階建ての似通った施設は、規模からして単なる物置とは捉え辛い。恐らく、一方は奴隷を収容するのに使われている筈だ。そうなるともう一方の施設の存在が謎だが、右半分がお高そうな車が収められているガレージとして使われているので、居住空間とは考え辛い。そうなると、警備員の詰め所か何かだろう。軍事作戦であればそれも明らかにするべきだが、如何せん俺には時間がない。

 正門には目立つ位置から見下ろす監視カメラが目を光らせ、訪問者にガンを飛ばしている。だが人力は割かれておらず、機械の目だけが空しく働いているだけだ。

 不都合なのは門の内側で、母屋の玄関前には図体のでかい二人組が暇そうに警備に配置されていた。片一方は煙草の火を夜闇にくっきり浮かばせ、相方は地面に股を開いて膝を曲げていた。勤労態度は最悪だが、存在そのものが俺にとっては最低だ。心の内で舌打ちをやり、ナイロンバッグから狙撃銃を展開、高価な機械仕掛けのスコープを覗き込む。倍率の掛かった解像度の低い黒に、ぼんやりと警備員の白い影が浮かぶ。母屋で薄い明かりが点いているのは、ここから見て玄関ポーチと二階の一室だけだ。大方、書斎か寝室だろう。二階に台所がある確率は低いし、この時間に主人の居住区を掃除する奴隷はいまい。そうなると、アボットが明かりがないと眠れないお子ちゃまなら別として、やつが起きている事実が判明した。面倒事が少なくとも二つになってしまった。

 母屋の窓は全て、カーテンで遮られて内部を窺えない。対して警備員の詰め所とみられる建造物だが、こちらは明々と白色の光がブラインドから漏れており、内側に人らしき存在の動きが見られる。また、奴隷の収容所らしき建造物は完全に消灯されている。

 本来なら偵察に十分な時間を割り当てるのが定石だが、俺の目的を考慮すると、現時刻と相談して三十分が限度だ。その間に必要な情報を掻き集めなければならない。普段の我々の訓練が、如何に実践的かを痛感する。こんな小規模な強襲でさえ、どうしたって一人ではマン・パワーが足りない。

 敷地を取り囲む石塀の高さは、対象物と比較して約三メーター。頂点に有刺鉄線やセンサーの類は設置されていない。少々高いが、持ってきたワイヤー製の梯子を使えば難なく越えられる。仮にセンサー類に引っ掛かったとしても、基地から強引に借りた機械――作動停止音波発生装置――で無力化出来る。まさかアボットの私兵も、ここまで装備の整った敵を相手取るとは夢にも思うまい。そもそも、俺が暗殺を企てている事さえ知らないのだから。

 問題となるのは対人間についてだ。玄関前で退屈している私兵ふたりはスーツこそ着ているものの、首から無造作に吊るした火器から、民間の警備企業に属しているとは信じ難い風体だ。一人はAR-15系列と見られるライフル、もう一人は判別不可能なサブマシンガンと、装備の統一が取られていない。警察関係でもなさげで、どうやら傭兵を雇っているという噂は真実らしい。実戦経験のある人間を相手にするのは厄介だが、これは同時に好都合でもあった。民間の大組織に属していないという事であれば、殺害しても事は小さくて済む。性質の悪いごろつき連中であれば、こちらも良心の呵責を受けずに済むというものだ。

 レーザー測距機で母屋までの距離を図ると、ここから七十メーター。高さは十五メーターといったところだ。現時点で確認が取れている警衛は二人だけ。偵察の制限時間を設定してから、既に十分近くが経とうとしていた。事を急くんじゃない。ゆっくりはスムーズ、スムーズは速い。一旦スコープから眼を離し、眼神経を弛緩させる。頭を使え。あの邸宅を警備するのに、何人の人員が必要だ?警備コンサルタントの正式なノウハウはないが、恐らく八人は余計だろう。表にいるのと交代要員で、多くて六人。もしかするとそれより少ないかもしれない。監視カメラが正門以外にもあると想定すれば、人力より安く済ませられる。アボットが奴隷の惨殺事件から警備を強化したという話がブラフか如何で状況は変わるが、この際構ってもいられない。

 再びスコープの電源を入れた時、母屋に動きがあった。電子ロック付きの金属製であろうドアが開き、真っ暗な内側から人影が現れた。くすんだ白一色で表される世界では何者か判別出来ず、俺はスコープから眼を外した。電球色のポーチの明かりの中で、その人影は強かに白い輝きを反射している。――アボットの奴隷だ。黒の髪が少し乱れている辺り、今晩の相手でもさせていたのだろう。彼女は警衛に会釈しつつ、奥の方の離れに向かって歩いた。裾の短い白のエプロンドレスを纏った彼女を見ても、警衛は何の声も掛けなかった。恐らく、手でも出そうものなら社会的に憂き目を見るのだろう。ホモではない証拠に、彼らの首はしっかりと奴隷のケツを追っていた。

 これで、離れの一つは奴隷の居住区画と判明した。残る手前側の離れだが、こいつの正体を調べる時間は残されていない。俺はバックパックから畳まれた梯子を取り出し、侵入経路の探索に視線を巡らせた。玄関ドアには電子ロックが掛けられている。警備員の助力で開けない事もないが、手間取る結果しか見えないのでパスだ。ドアをぶっ壊すのもありだが、強襲作戦でもないのに大きな音は立てたくない。アボットのみならず、奴隷連中にも悟られずに侵入するのが望ましい。第一、金属製のドアをぶち破るのに何分掛かるか分かったもんじゃない。だったらコメディみたいに頭から窓に突っ込んだ方が、迅速性はある。無論、それも却下だ。一般家屋であれば地下室からの侵入も容易だが、警備を雇っておいて対策を取っていない訳がない。そうなると……。

「――ビンゴ」

 スコープを向けた先に、目当ての設備が見付かった。緩やかな傾斜を描く屋根の中程、手付かずで砂埃に覆われた天窓だ。流石のアボット様も、数いる警備員をいなして屋根を這い登る物盗りが存在するとは想定しなかったらしい。御丁寧に、地上まで雨どいのパイプも伸びている。あれが俺の体重に耐えられなかった場合は、山岳小隊から教わった登攀技術を使わなければならないが、これで母屋への侵入手段は確保した。警備員さえ処理すれば、アボットは手中に入れたも同然だ。

 狙撃銃に、フルに装弾した弾倉をはめ込む。長い銃身の先に太いサプレッサーを取り付け、ボルト(遊底)を引いて初弾を送る。金属が滑らかに擦れる音を皮切りに、濃厚なアドレナリンの分泌が始まった。そろそろ、仕事の第二段階だ。

 時刻は二時三七分。夜明けまでに余裕を持って首都を発つ為には、アボットの殺害まで二時間も掛けていられない。一つの失敗も許されない、難易度の極めて高い犯罪になる。高倍率のスコープを覗いたまま数分を過ごし、呼吸を整えて拍動をなだめる。万全の態勢で臨むのであれば、母屋の警備が交代してから数十分待っておきたかったが、どうしようもない。唯一幸運なのは、大企業が相手でないので、増援が警備基地支部から寄越される事態は考慮しなくて構わない点だ。母屋の二階の一室は相変わらず薄明かりが灯り、主人が眠ってくれている様子はない。敵の人数は多くて八人。やつらを含めて、戦闘能力のない奴隷に気付かれても俺の身は破滅だ。それでも、やるしかない。

 リラックスした姿勢から、肩に銃床を引き付ける。機関銃と違って、余計な力は要らない。自分の身体さえも、銃を支える装備品として鉄塊と一体化する。スコープの物々しいクロスヘア(十字の照準線)を立っている方の警備に重ねて、その動向を監視する。風向きは微弱な向かい風、七・六二ミリ弾なら屁でもない。この距離なら、弾丸自体の回転による偏流も少しは度外視出来る。自分に合わせて調整した引き鉄を、撃発の限界まで絞った。

 肺の古い空気を吐き出し、新鮮な酸素を少しだけ補給する。脳の温まった血が抜け、冷却水が流れ込む錯覚を抱く。蟲の求愛が、酷く遠くに感じられる。あらゆる感情が欠落していく感触、自身が冷たい無機物に化す。母屋の壁に寄り掛かって座る男が、吸い殻を携帯灰皿に押し込んでいる。照準を重ねた方は、銃を壁に立て掛けて欠伸をかいた。頼むから、恨むなよ。

 真夜中のしじまを裂いて、鋼鉄の矢が射られた。サプレッサーで音質が変わったものの、音速を超えて飛翔するホローポイント弾は特徴的な衝撃波を伴って銃身を飛び出した。反動で揺れるスコープ越しに見る敵の、胸の少々右に着弾を確認。欠伸に両腕を上げたままの格好で、後ろへ倒れていった。鞭で地面を叩く様な音と相方の転倒に、煙草の男が気付いた。既に冷めた空薬莢を薬室から弾き飛ばし、首から下げた銃を持ち直して立ち上がろうとする男に照準を定める。全てが機械的に為された。胸の中心を狙って射出された第二射は敵の鎖骨辺りに命中し、胎児の様にぐにゃりと丸まった体勢で土へと倒れ込んだ。

 息をつく間もなく、スコープから眼を外して広域に気を配る。発砲音に気付いた者はいないか、敵の増援は来ないか。一番不味いのは、実は今いる林に警備が配置されていて、そいつらが音の主を捜しに来る事だ。だが、耳を澄ましても鳥のざわめきと木々の囁き以外は聞こえない。最悪の筋書きは避けられたらしい。それでも、油断は許されない。再びスコープを覗き込み、今しがた攻撃した二人に焦点を合わせる。大戦期に設計された弾丸をその身に喰らった彼らは、俺が最後に見たのと同じ姿で横たわっていた。大男らが指先ひとつ動かなくなったのを確かめて、俺はようやく胸の空気を排出した。一瞬とはいえヒトを辞めていた身から、じんわりと汗が滲む。門番は片付けた。だが、まだ障害は残っている。

 滑り止めの付いた軍手をはめ、かさばる狙撃銃を山上に放置して斜面を下りる。外壁までの数十メーターを駆け、梯子を伸縮する棒に取り付けて石塀に引っ掛ける。ボストンバッグを肩に掛け、軋む梯子に苦心しつつ塀の頂点に乗り上げる。梯子を回収して馬鹿みたいに重い荷物を抱えたまま、慎重に地上に着地すると、敷地内は何事もなかった様に静まり返っていた。数分前と変化があったのは、玄関前に転がる死体だけだ。爆弾の詰まったボストンバッグをその場に捨て置き、拳銃を抜いて死体へにじり寄る。最初に撃った男の胸には大口径弾による風穴が空き、黒色のスーツにべっとりと染みが広がっている。ブーツの踵で蹴り飛ばしても反応がないので、もう片方の死体に銃口を向けた。こちらも頸の辺りから生温かい血液を流したまま、しっかり絶命していた。手にしていたサブマシンガンは、どうやらUMPの九ミリモデルだったらしい。紛争地であれば持って帰れたかもしれないが、この銃は個人で名義登録されている可能性が高い。口惜しいが、目的の為に今は物欲を殺した。それどころじゃないんだ。

 作動停止音波発生装置を起動し、正門に近い、ガレージを兼ねた離れに向けて歩みを進める。銃を両手で構えつつ、何処から敵が現れても殺せる様に、撃鉄は既に起こされている。太い筒が銃口から延びているせいで照星が隠れて狙いが付け辛いが、これでやるしかない。少なくとも低速の拳銃弾であれば、亜音速弾でなくとも銃声は抑え込める。離れに監視カメラやセンサーの類は見当たらず、そのまま直方体の短辺に一枚しかないドアに接近する。金属製・白色の扉の脇に張り付いて耳を澄ませると、どうやら内部で動きが窺える。人数を窓から確認したいのは山々だが、如何せんブラインドが邪魔をするだろう。首筋を伝う汗が作業服に染み込む。――こいつは賭けになりそうだ。

 サプレッサーが銃口に確実に着いているか確かめ、左手で〈シュアファイア〉の大光量ライトを握る。遠方から一方的に仕掛ける狙撃なんかより、ずっと神経に悪い。ドアノブを静かに捻ると、鍵が掛かっているのが分かった。舌打ちを喉で押し止め、全身から余剰な力を抜いて息を漏らす。軍手の甲で額を拭い、そっとドアをノックした。鈍い反響が、金属から返ってくる。銃とライトとを握り直して耐え忍んでいると、硬い靴底が床を叩くのが聞こえた。それから間もなくドアノブが傾き、摩擦音と共に生じた隙間から蛍光灯の白光が夜気に割り込む。

 準備は整っていた。ドアの隙間が三十センチに達するのと同時に室内へ突撃し、入り口に立っていた人物を押し倒す。昔の様に敵の懐に飛び込む俊敏さはないが、有り余る力に物を言わせる。どうと組み敷いた相手を直視すると、自分より小さな中年の男だと気付いた。敵はパニックに陥りながらもどうにか俺を跳ね除けようと抵抗するが、口を押さえ付けて胸に三発の九ミリ弾を見舞うと、四肢を投げ出して絶命した。だが、こいつは厄介事を残して逝った。壁際に置かれていた二つのベッドで仮眠を取っていた警備らが、今の騒動で目を覚ました。一瞬で俺を不審者と判断した片方が、ベッド脇に立て掛けられた小銃に手を伸ばす。そんな物騒な武器を使わせる訳にはいかない。ライトの光芒を目安に銃口を向け、そいつの腹と胸に合計五発の弾丸を叩き込んだ。男の手から滑り落ちた銃が、ひび割れたコンクリートの床に叩き付けられて冷たい金属音が室内に反響する。

 あと一人。しかし、もう一方の男に照準を重ねようとした時、やつは汚れたベッドにはいなかった。寝床からヒョウの如く跳び出して俺に組み付き、でかい図体に任せてマウントポジションを取ってきたのだ。身の丈が百九十センチに達するかと予想される男の腕力は凄まじく、不安定な膝立ちの俺は銃を持つ右手を床に押さえ付けられた。勢い右手からP226が抜け、床を滑ってゆく。ライトで頭を殴り付けても全くひるまず、敵は空いている手で俺の頸を絞める。巨大な手が喉を潰し、脳への酸素供給が滞る。反利き手の殴打は依然として効果がなく、呼吸器を圧迫されているせいで次第に威力が弱まるのが感じられた。冗談じゃない。アボットの人でなしどころかこんな雑兵連中に阻まれるなど、まかり通ってなるものか。ライトを放って敵の髪を掴み、右目に親指を突き入れた。どんな大男でも、神経が死んでいない限り眼球は絶対的な急所だ。許容域を振り切った激痛に敵は身を仰け反らせて喘ぎ、右手を拘束する力を弱めた。男に逃げられない様に脚を絡み付かせ、右手を拘束する手を振り解く。肉弾戦に持ち込まず、銃を持ち出せばよかったものを。ベルトに装着したナイフを抜き、すぐ上の敵の腹部――肋骨の下、そこから上の横隔膜――へ突き刺す。通常、ナイフによる攻撃は出血こそ起こせど、致命的な破壊はもたらさない。だが、専門の殺人技術に精通した者が扱えば、敵の抵抗なくして死体を作る事が可能な最強の武器だ。内臓や太い血管を切り裂けば、その人物は間もなく死に至る。では、横隔膜を一突きされたものはどうなるか――。

 ナイフをこじって切創を拡げながら男の上半身を跳ね飛ばし、その結果を確認する。開き切った白目は充血して天井を向き、大きく口を開けた腹部からは赤黒い血液が止め処なく零れている。確かめる必要もなく、そいつは死んでいた。人間は横隔膜を斬られると、外傷性のショックによって大抵即死する。しかも、この筋肉が麻痺すると発声が不可能になるのだ。叫んで周囲に助けを呼ぶ事は、絶対に出来ない。よって、この手法は暗殺に古くから好都合とされてきた。まさかそれを職務以外で行使する羽目になるとは思わなかったが。

 濃厚な血でべっとりと濡れたナイフを、死体の衣服で拭う。防腐処理の施された黒いブレードに、こぼれた形跡は見られなかった。水分を払ったナイフをシース(鞘)に収め、拳銃を拾って耳をそばだてる。流石に今の揉み合いは、静かとはいかなかっただろう。最初に斃した男の脈を取りつつ、三分ほどじっと動静を見守った。殺害した五人で警備は全部か、隣の離れで眠っている奴隷が感付かないか。軽くなった弾倉を交換しつつ、瞬きもせずに息を潜めた。

 やがて、誰も奇襲を悟った兆候がないと分かると、張った肩の力をようやく抜けた。頭皮からおびただしい量の焦燥が液体の体で現れ、喉が酷く渇いていた。皮膚が土気色に変じた死体を跨いで室内を検分し、入り口近くに設営された複数のモニターとデスクトップに目を付ける。画素の乏しいモニターの一つに、両脇を山林に挟まれた、手入れの届いた道が映っている。他の一つには、奴隷の離れを監視している映像が流れていた。他のモニターには定期的に文字列が流れていたり、〈XVIDEOS〉で陰部がつるつるの男女がまぐわっている。PCの載る机の横を見れば、黄ばんだティッシュが山盛りになったゴミ箱が鎮座している。死体の一つを振り返ってみれば、脱力した股間の辺りが濡れ始めていた。可哀想に、最後の相手が金髪美人ではなく俺になるとは。

「まあ、就職先を間違えたな。御愁傷さん」

 モニターと筐体の電源プラグを元から引き抜き、警備システムを根本から無力化する。更に筐体をこじ開けてハードディスクを抜き、バックパックのポケットに突っ込んだ。ここまでやれば十分という声もあるだろうが、こっちは憤怒に狂っているのだ。自宅から持ってきたPE4プラスティック爆薬をPC周辺に仕掛け、ついでに警備の銃を一つにまとめて、それにも爆弾団子をくっ付ける。返り血の付いた〈ルミノクス〉の腕時計に目を落とすと、三時を少し過ぎた辺りだった。予備の時限発火装置と信管をPCの爆薬に埋め込み、撃発タイミングを二時間後にセットする。この建物はこれでお終いだ。

 くそ重い死体三つを引きずって警備小屋を出て、母屋の玄関前に集める。地面に横たわる、五つの死体。確かに苦戦はしたが、こいつらは単なる前座だ。この母屋に、俺の暗殺目標がいる。大切なブリジットを俺からくすねる野郎が、この独りよがりな古城でふんぞり返っている。砂上の安寧はとうに崩れ去っているのに。血液の付着した軍手をはめ直し、錆の浮かぶ雨どいのパイプに手を掛けた。

「さあて、お祈りの時間だ――」

 

 

【29】

 

 木製の掛け時計が、午前の三時を告げる。正方形の文字盤では秒針が飽く事もなく働き、こつこつと短い時を刻む。マーティン・アボット上院議員は性奴隷を収容施設へ返した後、バスローブ姿で書斎に戻って独り、スコッチのロックを飲み直していた。平生であれば、奴隷に二回ほど濁った欲望を抜かせれば安眠に落ちた筈の彼だが、この早朝は違った。産み落とされて五十年以上を経た彼の身でさえも形容し難い、定形を纏わぬ不安が彼の襟首を掴んで離さなかった。ダブル(六十ミリリットル)を軽く超えたスコッチを注ぎ足し、冷たい氷の緩衝が入る前に喉に流し込む。老いた粘膜に過ぎた熱と刺激が、咳という形で返ってくる。――馬鹿な、何を怖れている。アボットは口腔から溢れたスコッチを袖で拭い、毛の衰えてきた頭を抱えた。この掴みどころのない焦燥の正体は何だ。あらゆるコネクションを最大限に利用し、障害は完膚なく捻じ伏せてきた上院議員の自分に、恐るるものなどありはしない。書斎机に散った唾液とアルコールを拭きもせず、アボットは更にスコッチをグラスに注ぐ。――全く、何がこうまでして私を追い詰めるのだ。

 間接照明の昼光色の薄明かりでも赤面が見て取れる程に、アボットは酩酊していた。だが、アルコールで温まっている筈の肺や胃は尚も亡霊の手に掴まれた様に冷たく、背筋には夜露の様な汗までもが浮かんでいた。強迫神経症患者もかくやというレベルで手がふやけ、瞬きが止まらなくなっている。胸の至る所で痒みが暴れ、起毛のルームシューズの中が熱帯雨林と化した。この部屋以外の何処かから、何者かの気配を感じる。長年を人の世で生きたアボットには、ある種の確信があった。物事が動く時、その兆しを察してきたからこそ、持てる手練手管を活用して現ポストまで上り詰めた。そいつが目下、霞さえ見えない存在に怯えているのだ。

 何かがいる。彼に分かるのはそれだけであった。もう一杯スコッチを喉に叩き込み、机の抽斗から銀色に輝くリボルバーを震える手で取り出す。<スミス&ウェッソン>のM66。信頼性は抜群の一品だが、貴族様の手はこれを一発しか撃った事がない。同じ場所に仕舞い込んでいた弾薬――安全上の理由から御法度である――は錆び付き、果たして撃発可能かどうかも定かではない。金属同士をがちがちぶつけながら、ようやくでアボットは六発の弾薬を装填し、おぼつかない手付きでシリンダー(回転弾倉)をフレームに押し戻した。撃鉄を指で起こす音を聴くと、幾らか気の休まる思いを味わった。

 気配は頭上。否、今となっては家中を練り歩いているとアボットは直感した。自身も音を立てない様に摺り足で移動するも、素人に合図一つで出来るものではない。余計にカーペットから乾いた摩擦が喘ぎ、その音で竦み上がる。そうこうしていると、不穏な気配が家全体を包囲していくのが察せられる。――警衛は?アボットは窓へ駆け、真下の玄関へと視線を巡らせた。――いない。二人が同時に小便へ行っている筈はない。警備小屋に連絡を取ろうと、机に据え付けの受話器を取って内線を飛ばすが、空虚な呼び出し音ばかりで誰も出ない。怒気も露に受話器を本体に叩き付け、遂に〈ブラックベリー〉の携帯電話へと手を伸ばす。政界のブラックボックスを数多く保管するこの家に警察を迎えるのは癪だが、この期に及んで贅沢も言っていられない。わななく指で失敗しながら操作を終え、スピーカーを荒っぽく耳に押し当てる。――繋がらない。アボットは狼狽した。充電は足りている。電波状況も悪くない。だが、繋がらないのだ。まるで、飛ばした電波が丸ごと死霊に喰らわれているかの様に。

 アボットの濡れた手から、携帯電話が取り落とされる。いつも自分の両脇を固めていた厳つい番犬は、ここには来てくれない。脂肪に覆われた顔面を崩壊させて動転しながらも、今度は奴隷の居住施設にも内線を飛ばそうと思案する。今度こそ、今度こそ通じる筈だ……。受話器を取り上げ、番号の二つ目を押しかけた。

 それと時を同じく、書斎の証明がふっ、と落ちた。意図せぬ方向からの攻撃にアボットは腰を抜かし、受話器はおろか電話を机から放り出して尻餅を着く。精密機械を内蔵したプラスティックの盛大な落下が、手許も見えぬ暗渠に呑み込まれる。カーテンをすり抜けた僅かな光源の中で、銀色の銃身だけが生気なく輝いていた。矢継ぎ早に変わる現状と精神への圧迫に理解が及ばず、アボットは寂しい髪をぐしゃぐしゃに崩しながら、カーペットに這いつくばって電話を手探りした。麻のバスローブの前をはだけながら、無惨に転がる受話器を探り当て、コードを辿って本体のキーパッドを叩く。だが、操作を終える前にアボットは異常を察知した。いつも秘書や同僚らの声が五月蝿い受話器だが、今や何の音も発せられていなかった。これが意味している事実――この部屋に、電気が通っていない。いや、ひょっとすると家全体かもしれない。尚更にやかましく心臓が暴れ、アボットは口から腸が飛び出そうなストレスを感じていた。

 連撃に打ちのめされたアボットの脳味噌が、爪先ほどの冷静な神経で導き出した現状の原因が、ブレーカーの落下であった。当のブレーカーボックスは、一階キッチンの壁に設置されている。だが、アボットがそこへ辿り着くには、孤高の優越を提供し得なくなった書斎を出て、数ある部屋が枝分かれする廊下を経て軋む階段を下り、バスルームの脇を抜けてやらなければならない。それも、自分に敵意を向ける何者かがいる中で。

 戦術的に考えれば、アボットはこの書斎で銃を抱いてうずくまっているのが最も安全である。骨の一本を犠牲にする肝があれば、すぐさま窓から飛び降りて逃亡する事も不可能ではなかった。第一、ブレーカーを復活させたところで精神の安定をもたらす光は戻ってくるが、根本の脅威は去らないのだ。が、こんな緊急を要する事態に淡々と対処出来る人材が、腐敗の跋扈する政界にそう多く籍を置いていると誰が思うだろうか。滑る手で銃を身に引き付け、アボットは書斎を守るドアを警戒して開いた。

 及び腰に木製ドアを抜けると、月明かりさえブラインドで差し込まぬ廊下が、黒く粘ついた闇を広げて待ち構えていた。滑らかな壁を手探りに階段へと歩みを進め、前後に絶えず銃口を向ける。衆目があれば、間違いなく気が触れていると判を押されるだろう。足を踏み出す毎に、カーペットの毛足が潰される音が囁く。顎を伝う汗が異臭を放ち、遠近感を掴めない視界がいびつに傾く。何者かの気配は一層強まり、あたかも彼の周囲三六〇度から監視を受けている様なプレッシャーが掛けられていた。壁を濡らしながら階段の一段目を踏み、更に闇の奥深くまで沈んでゆく。冷たい殺気は相変わらず付きまとっているが、直接に危害を及ぼす予兆は感じ取れない。リクガメの様な歩度で階段の終点を踏み、キッチンへと繋がる廊下の方を向く。採光窓からほのかに差し込む青白い光が、カーペットの幾何学模様を不気味に闇に浮かばせる。

 ここで、アボットは失態を犯した。汗でぬめる右手から、銃を取り落としたのだ。重量一キロを超える鉄塊が、ごとりと大層な落下を為す。アボットは自ら位置を晒す真似をやらかしたのと、無防備になった不安からその場でうずくまり、頭を抱えて神の名を連呼した。矮小な姿を晒して死を否定する言葉を連ねていたが、一分経って何の接近も感じられないと、呼気荒く銃を手探りした。利きかけの夜目で不気味に薄明を反射するステンレスの銃身を見付けると、再び壁に手を突いてブレーカーボックスの在り処に向けて踵を擦った。

 厭世家・アボットは今ほど自宅の広さを呪ったためしはなかった。全身の水分を五割失ったのではないかという発汗の果てに、彼はようやくキッチンへと到達したのだ。一般家庭と比較してだだっ広い作業場を、銃を前面に出しながら歩く。素人目からでもてんでなっていないフォームで、突き当たりの壁――その上部に設置されたブレーカーボックスへの、最後の道程を踏みなぞる。目標を目の前に余裕が生じたアボットは、数メーターを歩く最中に思案を巡らせた。一体、何処の誰が何の目的に自分を脅かしているのか。確かに、職務において他者を破滅に追い込んだ前例は、両の指を以てしても計れない。であるが、それらは彼に言わせれば些事の域を逸さない。過去に踏み越えた者に、警備の付いた邸宅への突撃を敢行する度胸があるとは考え難かったのだ。何より彼の精神を平安に導いたのは、護衛のない状況下でブレーカーの許に至った事実であった。電気が落ちたのは、人為的なものではない。勝ち誇った笑みを浮かべ、彼は背伸びして配電装置に脂の乗った手を伸ばした。

 埃の被ったブレーカーに触れ、奴隷の働きに毒づきつつ、アボットはメインの配電が切れているのを確認し、スイッチを切り替えた。途端、家の方々で電子機器が作動を始め、人家が息を吹き返す。そう、何事もなかったのだ。書斎で抱いた懸念はほんの悪寒で、自我の及ばぬ体調不良からもたらされるものであったのだろう。齢は実に五一、人生の折り返し地点をとうに過ぎたアボットは銃を大事でもなさげにぶら下げ、キッチンの明かりのスイッチを入れた。ほうら、やっぱり何もなかったじゃないか――。

「――やあ」

 不意に掛けられた男声に、アボットは銃を向けて振り返った。再来の恐怖、ぎらつく銃口を声に向けるも、その腕は熊の如き力で殴り付けられ、手にした銀色は弾き飛ばされた。物音ひとつ立てずに現れた怪物は、アボットの腕を取って壁へと猛烈に押し付けられる。混乱に喘ぐアボットは身もがいて抵抗を示すも、哀れ後頭部を強か殴打され、意識の混濁に逆らえずに膝からくずおれた。掠れゆく意識の中、重力に引かれる視界に青い衣服を収めたのを最後に、マーティン・アボットは絶入した。

 

 

 卑小な政治家の深く沈んだ意識は、冷たく尖った感触で叩き起こされた。無理矢理の覚醒させられた意識で、アボットは目の前に立つ男を視界に捉える。ありふれた清掃作業員の様な上下とキャップ、気絶する直前に見た色と同じだ。彼は男の顔と名、それらに止まらず、所属組織や家族形態、あまつさえ男の所有する奴隷の出生についても知り得ていた。頬に小さからぬ傷跡を持つ、男の名はヒルバート・クラプトン。現役で英国の陸軍特殊部隊に籍を置く、生粋の兵士であった。

「おはよう、アボットさん。お偉方は氷水のモーニングコールなんざ初体験だろう?」

 ヒルバートは手にしていた樹脂バケツを脇へと放り、冷笑を浮かべる。――どうなっている。アボットは歯をうち震わせた。さっきまでスコッチを煽っていた書斎で、私はどうして椅子に縛り付けられているのだ。巨大な書斎机は部屋の隅へと寄せられ、アボットは部屋の中央に置かれた革椅子に、両腕を麻縄で鬱血するまで拘束されていた。

「私をどうするつもりかね」

 気丈に振る舞ってみせるも、アボットの黒目は震度七で飛び回っていた。

「どうするかは御自身が一番お分かりではなくって?なあ、アボットさん」

 藪から棒に、アボットの頬に軍手の打擲が飛ぶ。鈍い殴打が脂肪を揺らし、切れた唇から悲痛な呻きが零れた。

「おお、初々しい反応だ。だがまあ、豚の面を幾ら殴ったって面白くないな」

「一体どうやって入ってきた……警備は……!」

 顎から鮮血を伝わせるアボットにヒルバートは鼻息を漏らし、にべもなく書斎の一角を顎で指した。その先へと視線をなぞり、アボットは薄闇に目を凝らす。暗がりに沈んだそれの全貌が見えてくると、途端に心臓まで凍り付いた心地がこみ上げ、自分の股間へと黄色く淀んだ胃液を嘔吐した。部屋の角には五つの死体――警備員だった骸が乱雑に積み重ねられ、そのどれもが腹や筋肉を無残に引き裂かれて、無尽蔵に血液を吐き出している。

「おいおい、ひでえな。こちとら、こいつらの腹ん中で砕けた弾の摘出に、全精力をひり出してたってのに。他人の努力は表面上だけでも労って貰いたいね」

 ヒルバートは解体に用いたナイフと手斧を指先で弄び、口を尖らせる。その衣服には袖や腹の辺りに黒ずんだ染みがこびり付き、作業の非人道性を物語っていた。彼のはめるピンクのゴム手袋にも、乾いた脂肪が小さな斑点となって残っている。

 口内にせり上がり続ける消化液を大腿に吐き散らすアボットの薄い頭髪を鷲掴み、ヒルバートは鋭利に光るナイフを頬に押し付けた。

「何が望みだ……。私を殺したところで、貴様には何の利得もない……」

「おっと、無駄口を利くなよ。こっちもお前なんかと一緒の部屋にいるってだけで酸欠になりそうなんだ。さっさと済まそうぜ」

 アボットが、頬に生じた小さな切り傷に目尻を痙攣させる。

「ようし、それじゃあ手始めに金庫の暗証番号をゲロって貰いましょうかねえ」

 ヒルバートはナイフを頬から離し、切っ先で壁際に鎮座する重厚な黒塗りの金庫を指した。扉に電卓めいたテンキーが埋め込まれ、如何にも大金が詰まっていそうな姿のそれは、爆弾で鍵を壊すには夢の中の町ひとつを叩き起こす必要があった。

「こんな脅しで、私が屈するとでも思っているのか」

 腐臭を放ちながらも憮然と振る舞うアボットの右目に、鋭い拳が突き刺さった。人体と呼ぶより兵器と称した方が妥当な腕の加えた衝撃で、豪奢な椅子ごとアボットの身が束の間宙を舞う。大打撃で内出血した左手を庇いながら、ヒルバートは見当識障害に打ちのめされて呻く仰向けのアボットを酷薄に見下ろした。

「今の台詞、映画みたいだったぜ。貴重な経験が出来たな」

 氷水を入れていたのとは別の、水の満たされたポリバケツにタオルを浸し、ヒルバートは酸欠の魚の様相を示すアボットをそれで覆った。本能的に危険を察したアボットが何かを喚くが、弛んだ皮膚に麻縄の残酷な戒めが噛み付くだけであった。黙々と用意を整えると、ヒルバートはバケツを抱えて肥えた腹部を踏み付ける。

「夢の中で考え直しな」

 すると、濡れタオルに向けてバケツを傾けた。勢いは大したものではなかったが、水がアボットの布越しの口に触れたが早いか、ヒトとは思えぬ咆哮が室内に満ちる。縛り付けられた椅子が浮いて床を叩き、首を前後させてタオルを地に落とそうと躍起になっている。アボットが一瞬で正気を投げ出したこの行為、その名を水板責め(ウォーター・ボーディング)という。殴る蹴るといった直接的な暴行ではないが、負担は桁違いだ。被験者は視界を遮られた環境下、絶えず浴びせられる水を相手に溺死する未来を脳に叩き込まれ、呼吸もままならないまま失神する。意識を失えば無理くり覚醒させられ、また人間性を水底に沈められる。かつて9.11後、アルカイダ幹部の所在を吐かせる為にアメリカがテロリスト相手に多用した訊問の一種だが、後に温室育ちの世論からバッシングを受けた手法である。それを、丸腰の文民に施しているのだ。

 水流を顔面に受けるアボットの手が、爪まで真っ赤に染まる。脚まで椅子に緊縛されている為に、身をよじる事さえ叶わない。バケツの中身の四割を浴びせられると、休む間もなく椅子を起こされ、ぴったりと貼り付いたタオルを引き剥がされる。

「どんな気分だ?」

 冷徹に言い放つヒルバートに、片目を腫らしたアボットは顔の穴全てから水を垂れ流して毒づく。

「……法廷で罰してやる、ただで済むと思うなよ」

「そうかい!」

 ふくよかな胸部を足裏で蹴り飛ばされ、アボットは再び天井を仰ぎ見た。潰れた鼻がずぶ濡れのタオルと再会し、合図もなしにバケツの残りを口の穴目掛けて注ぐ。ごぼごぼとタオルの表面が泡立ち、口と鼻の形がくっきりと何度も浮き出る。バケツが空になるまで、実に六リッター以上の水を被って、アボットは髪を引き千切られながら身を起こされる。

「お望みとあらば、次は一杯丸ごとぶっ掛けてやる」

 ヒルバートは控えのポリバケツを、更に二つ用意していた。しかもその片方にはマットプレイ用のローションが混ぜられ、呼吸器を殺す粘性が持たされている。顔のタオルを剥がすと気付けに頬を一発張り、ヒルバートは片手でアボットの頬を挟み込んだ。

「どうだ、少しは口を軽くしたくなったかな?」

「分かった、言う!もう水は嫌だ!」

 訊問官が次のバケツを抱えたのを見ると、アボットは涙を流して懇願した。

「金庫の番号だな!言う、言うからもう止めてくれ!」

「理解したなら、さっさと吐け」

 ヒルバートがバケツを床に下ろすと、アボットは気管に侵入した水分をむせて排出し、しわがれた声を発した。

「番号は六桁、586146だ……」

 金庫の鍵を伝えると、アボットはぐったりとうな垂れた。

「ほう。586146、そう言ったな?」

「そうだ、その六桁で金庫は開く。もう勘弁してくれ……」

 ヒルバートは指で頭を掻くと、肩をすくめて嘆きの吐息を漏らした。それからナイフを握り直すと、アボットの首を強制的にもたげさせた。

「何をする!言われた通りに番号は言った!乱暴は止せ!」

 まだ抵抗の残る声に聞く耳持たず、ヒルバートはアボットの左の耳を切り落とした。多数の血管がずさんに断ち切られ、常人であれば目を背けたくなる深紅が、深緑色のカーペットに染み込む。薄闇の中に狂気の叫びが跳ね回り、息をつく間に地獄絵図が繰り広げられた。持ち主を失った耳を床に放り、ヒルバートはアボットの胸ぐらを掴んで唾が飛ぶ距離まで顔を近付けた。

「出任せこいてるんじゃねえぞくそ野郎!あの御大層な金庫は特注品で、見当違いな数字を入れると警察に通報が行く特別仕様だ!てめえのちゃちな脳味噌で思い付く事なんざ、こちとら把握し切ってる!もう片っぽの耳が惜しけりゃ、大人しく番号を答えろ!それとも部下みたいに臓器をもぎとられたいか!」

 どくどくと血液の漏れる耳を庇う事も出来ず、アボットは涎と鼻水を垂らしてすすり泣く。

「やれ反骨精神剥き出しだ、番号は言わねえ、水は止めてくれ。お耳とさよならすりゃあ、今度は赤んぼみたいに喚きやがる。お次は何が宜しくて?」

「言う、言うよ!頼むからこれ以上乱暴しないでくれ……!」

 すっかり文明人らしさを欠いたアボットの嘆願に、ヒルバートは露ほども同情を見せず、眼球のすぐ触れられる距離にまでナイフの切っ先を差し向けた。

「端っからお利口にしていれば、大切なお耳ともずっといられたんだ」

 彼の本気を無意識に感受したアボットは、記憶の内に秘めていた宝物庫を明け渡した。

「498513……それであの金庫は開く……」

 ヒルバートは鼻を鳴らし、不愛想に金庫の前に膝を折った。そして手に入れた番号を入力すると、安っぽい電子音の後に鉄扉の奥でかんぬきが外れた。分厚い扉の向こうには十万ポンドを凌駕する現金の束と、土地の権利書や政界の暗部が記された書物群が収められていた。ヒルバートはそういった機密文書には目もくれず、現金を五万ポンドほど取って金庫から離れた。重い扉は、開かれたままであった。彼はアボットの目の前でボストンバッグに札束を仕舞うと、今度は腰のホルスターに収めた銃を向けて語を発した。

「さて、次の質問といこうか。ブリジットとあんたの関係を知っている人間は、この世界にあと何人いる?」

「私と君だけだ、他には誰もいない……」

 大股に距離を詰め、ヒルバートはアボットの喉に冷たいサプレッサーを押し付ける。

「嘘が身の為にならないのは教えた筈だ、本当の事を言え」

「誓って本当だ!嘘じゃない!」

「お前ひとりでブリジットと俺の所在を調べられる筈がないだろう。探偵か?それともお抱えの駒か?」

 幼子が否定の意志を表す様に、アボットは首をぶんぶん振った。

「確かに部下に命じて君達の情報を調べさせた!だが、それだけだ!私とあの娘との関係は誰にも話していない、信じてくれ!」

 それを聞くなり、ヒルバートは破顔した。

「そうか!安心したよ!」

 闇に歯を輝かせて、銃をアボットの額へ突き付けた。

「何を……?」

 自分の伝え得る情報を残らず手放したアボットには、彼の行動に至った論理が読めなかった。

「あの世があるなら、数日前に殺した奴隷に詫びるんだな」

「待て……金は渡したじゃないか……!どうして……!」

 未だ状況が読めていない男にヒルバートは束の間ぽかんと呆け、それから声高に噴き出した。

「どうして?あんた、それでよく議員様になれたな!決まってるじゃないか、俺の女に手を出したからだよ!」

 艦の悪い男の額をサプレッサーで小突き、彼は語を継いだ。

「俺は隊の中じゃあ、かなり甘い方だ。訓練で失敗しても無闇に責めないし、後続の連中を可愛く思ってる。その分、敵に対しての引き鉄は特別に軽い。お前みたいな屑野郎が相手なら、ことさらにな」

「待ってくれ、金なら幾らでも出す!今日の事も不問にしよう!警察には強盗が侵入したと言っておく!だから……!」

 正しく映画じみた命乞いに、彼より余程悪役然とした男の口角が歪む。

「だから何だ?部下を殺した。不法侵入を見られた。顔を見られた。銃を見られた。血を見せた。――ここまで来て、思い止まれる訳がないじゃないか。そもそも、あんたが悪いんだぜ?ちょっとした金を渡して示談に持ち込めば、万事がすんなり済んだのによ」

「嫌だ……!欲しい物があるなら何でもやる……!命だけは……死ぬのは嫌だ……!」

 体裁も外聞もない。アボットは見苦しく暴れ、地団太を踏む事も出来ずに椅子ごと横に倒れた。芋虫の様に地も這えず、彼は自尊もかなぐり捨てて、ひとえに自らの存命を望んでいた。

「考え直してくれ!そうだ、奴隷だ!好きなのを連れていっていい、何なら新しい性奴隷の金を出してもいい!それに、私を殺してどうする?死体が見付かれば、君だって無事には済まないぞ!早まるんじゃない!」

「残念ながら、クラプトンのお家芸は『殺し』なんでね。そいつはブリジットを狙った過去の自分に言うんだな。あんたを守ってくれる下らない法の楯は、この場に存在しない。俺が怖れるのは、あの子を失う事だけだ。もっとも、そうはさせないがね。

 そろそろお喋りも過ぎる。五十年間楽しんだんだ、幕引きくらいは往生際よくしたらどうだい」

 呆れた語調を伴い、ヒルバートはアボットの顔の傍に屈み込んだ。その間も尚、銃口は額へ向けられたままであった。

「お願いだ、何でもする……。頼むから命だけは……」

 半ばうわ言の様に呟く上院議員に、最後のねんごろな言葉が掛けられる。

「惜しいなあ、こちとら神父じゃないんだ。俺があんたにやれる手向けはこれだけさ。しかしまあ、全く――」

 何度も銃を撃ってきた指が、引き鉄に掛けられる。災厄の根源に照準を重ねる彼の表情には、自嘲めいた感情が浮かんでいた。

「マーティンって名前には、ろくなのがいないな――」

 薄い照明の落ちる部屋をくぐもった音が一つ転がり、そして、何も聞こえなくなった。

 

 

【エピローグ】

 

 自宅の窓の外を木枯らしが吹き抜け、厚手のコートを纏った通行人が我が身を抱いて歩く。三十路になって初めての十月半ば、休日の午後を何処かへ出掛ける事もなく、自分の尻の形に馴染んだソファに腰を沈めて、特に面白みのない文章を目でなぞる。手にした推理小説は既に佳境の真っ只中で、残り十数ページで奥付に達してしまう。このペースだと、あと十分ほどで読み終えるだろう。

 あの日、マーティン・アボットを殺害してから、ひと月近くの時が流れた。事件は炎上する母屋と警備の詰め所に奴隷が気付いた朝方に発覚し、即座に警察と消防が現地に出動したらしいが、途方もなく回りの速い火の手に彼らは為す術なく、アボットの古城は石の基礎と壁を残して全焼した。炎が仕事を終えた後で調査が入ると、母屋の中からは男性と見られる白骨と化した遺体が六つ、殆ど炭化した状態で見付かった。その内の一つは、歯の治療痕からマーティン・アボット本人であると結論付けられ、数日前に密葬が行われたという。

 この上院議員の死はその日の内に新聞の第一面を飾り、首都をそれなりに震撼させたとの事だ。恐怖に拍車を掛けたのは、焼け残った金庫から発見された一枚のポラロイドで、それには額を銃で撃ち抜かれ、腹部を八つ裂きに背骨が覗いたアボットの変わり果てた姿が写っていたという。いやはや、何とも肝の冷える話だ。しかも、彼の頭蓋骨は顎を残して砕かれ、弾丸は見付からないとか。いやあ、誰が犯人かは知った事ではないが、プロの業に違いない。

 これ程に狂気を孕んだこの一件だが、警察が大挙して犯人捜しに駆け回るといった事態にはならず、極めて小規模な調査本部が設けられるのみに留められた。というのも、件の金庫からは元から入っていた現金や書類、きちがいポラロイドと一緒に、「私の復讐は完了した」と印刷された紙が入っていたからであった。金庫の内に大金が残されていた事からも、金目当ての犯行とは思われなかったのだろう。先に起こった奴隷の惨殺事件も相まって、本件は同一人物による犯行と断定された。狂乱に満ちた状況から、現場のPC全てからハードディスクが抜き取られていた事実も軽視された様子だ。

 そして、人々は非情であった。何せ被害者は『あの』アボット様だ。市井から同情を誘う事はなく、政界でも喜びの声が上がったというくらいだから、その嫌われ様は推して知るべしである。死後も彼の後釜を巡る論争で、上司の死を悼む者はいなかったとかであるから、ここまでくると笑えてくる。我々の住むヘリフォードでも、当日こそ街の女の噂はアボットの死で持ち切りであったが、翌日にはうちのピーターが性病を貰ったというものにすげ変わっていた。そう、この国の何処にも、アボットを愛していた人間はいなかったのだ。

 かなり強引な、著者の妄想に満ちた密室トリックの解明で締められた小説を閉じると同時に、目の前のガラステーブルに紅茶のカップと形の良いマドレーヌが置かれる。

「そろそろ小腹がお空きになるかと思いまして」

 声の方には考えるまでもなく、ブリジット――俺が自分の意思で守ったメイドさんが控えている。小説を脇へ放って礼を述べると、実に快い笑みを返してくれた。

 アボット暗殺の直後、何処の誰とも知れない金持ちが小遣いをくれたお蔭で、俺はブリジットの購入金を一挙に支払えた。当の彼女はその事実を知る由もないが、最近の俺の表情が芳しいので、何かあったという事は知り得ている様だ。彼女は俺の隣に腰掛けると、硬い肩に小さな頭を預けてくる。ふわり、と柔らかな少女の香りが立ち上る。

「夕飯は何に致しますか?」

「そうねえ……米が余っているなら、カレーが食いたい」

「はい、かしこまりました」

 恋人は屈託なく微笑むと、俺の手に自分の指を絡めてきた。これこそが、俺が失いたくなかった温もりだ。

 確かに、多少は一般からはかけ離れた部分も多いかもしれない。現状を得る為に犯した過去の罪達は、これからの人生の全てを費やしても贖えないかもしれない。それでも彼女は――ブリジットは俺を赦してくれた。そろそろ人生を謳歌すべき時だ。紅茶に映る自分の緩み切った間抜け面を見て、それをすんなりと受け入れた。俺はもう、孤独じゃない。

 

 




 この度は拙作『奴隷邂逅』を最後までお読み戴き、誠にありがとうございます。本作の著者ティッシュ大尉、或いは紙谷米英(かみやよねひで)と申します。
 初投稿から一年と三ヶ月。だらだらと続いた本作も、ようやくで完結致しました。大変読み辛い文章をここまで読んで下さった読者様には、並みならぬ苦労を強いてしまった事でしょう。先に謝罪の言葉を述べさせて戴きます。本当に申し訳ありませんでした。
 さて、この奴隷邂逅ですが、如何だったでしょうか。差し支えなければ、後学の為に感想ページにてご意見を戴けますと幸いです。
 口下手な為にボロが出るのも時間の問題ですので、短いながらこれを以て後書きとさせて戴きます。最後に今一度、本作に貴重なお時間をお割き戴きありがとうございました。当方の文章が皆様に一時でも娯楽を提供出来たのであれば、書き手冥利に尽きます。

追記:同著者完結作品に『ヘタレ縁』(R-18)もございます。宜しければそちらも覗いて戴けますと、著者が喜びます。


著者Twitter:https://twitter.com/Cpt_Tissue

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