【5】
瞬時には、目の前の見慣れたおっさんが何をほざいたのか、戦場で凝り固まった脳では理解できなかった。否、精神の防御機構が働いて、認識を拒絶していたと言うべきだろう。
「金は出す。二万ポンド(約三百万円)もあれば前金には十分だろう。適当なローンを組めばいい。まあ、それでもひいひい言う羽目になるのは、余程の高級なやつだ」
「いや、待てよ」
俺の知らぬ場所――他人が興味本位に覗けば発狂は免れぬ、少佐の頭の中だけで話が進んでいる。まさかエイプリル・フールではあるまい。
「何だ、他に縁でもあるのか?知らなかったなあ、いつから隠し事が出来る様になった。そうか分かったぞ、衆道家になったな」
かぶりを全力で振り、身体の至る場所で否定を表した。野郎のカマを掘る趣味はない。
「じゃあ別にいいだろう。金はこちらで準備した。他に何の不満がある」
そうしてしれっとした態度で、少佐は仰々しく両の腕を広げてみせた。俺が二つ返事で首を縦に振らなかったのが、どうにも釈然としないらしい。当たり前だ。
「待ってくれよ。まだ決定した訳じゃないし、そもそも承諾すらしてしない」
「ニーナ!」
「人の話を聞けよ」
少佐の執務室の右手の壁には、彼の自費で小さな給湯室に改造を施された部屋へと繋がるドアがある。そこでは親父の家政婦もとい妻同然の女殺し屋が、常に紅茶の準備をしている。その給湯室から霞のない声が返ってきた。「かしこまりました」
ニーナなる声の主は親父お抱えの秘書で、それはもう見事なプラチナブロンドの髪を持つスラヴ人だ。十数年前に、猟奇殺人鬼に両親を殺害されて赤の広場を放浪していた彼女を親父が拾い、彼の許で成長したという経歴を持つ。そのせいで、親父をこの世で最も下品で救いようのないくそ野郎と貶めながらも畏敬の念を内心では示し、愛情を注いでいる。果たしてそれが倒錯的なものかは知れたところではないが、そうだとして何が問題であろうか。
始めは親父も彼女の真摯な愛に応えるのに抵抗を感じていたが、その染み一つない美貌とふくよかな二つの膨らみに三日で折れた。その時は本気で息子を辞めようかと思った。
更に特筆すべきはその身体能力だ。例外的に第二二SAS連隊の正規隊員であり、人員が足りない場合に応援として部隊に加わったり通信支援を行う派遣社員の様な立ち位置にいる。憎い事に、俺よりも遥かに強い。身体もおつむも。
身体のラインが浮き出るOD色のウーリープーリー(コマンドセーター)に身を包み、肩ほどで切り揃えた澄んだ輝きを放つ髪を揺らして、ニーナは給湯室もどきのドアを跳ね開けた。とんでもねえ女だ。コンバットブーツでドアを蹴り飛ばしやがった。
やつは甚だ虫の居所が悪そうな視線を俺に寄越し、すぐに興味を失った様に視線を外した。俺の顔の何が不服だって言うんだ。お前の旦那の次男坊だってのに。
そのニーナが迷彩のトラウザスのポケットへ無造作に白磁の手を突っ込み、何やら大業な紙の束を取り出だした。括目せずとも分かる。平時から持ち歩くには、とんでもない量の札束だ。女王が何人いるのか皆目見当が付かないくらいには分厚い。色や大きさから判断するに、観光客の大好きな五十ポンド札らしい。(五十ポンド札は、民間では殆ど流通していない)それを事もあろうに、彼女はこちらに向けて放った。緩い放物線を空に描いたそれは、俺の胸元にぼすりと絶大な衝撃を与えつつ着弾した。我が目を疑ったが、何処の家庭でも見られる輪ゴムで留められていた。
「おい、女王には敬意を払えよ」
「己が財布から飛び去る金に、恭しくおもねる義務はないんだよ」
自己陶酔とも取れる諦観を決め込んだ親父の冷笑に嫌気が差したが、今しばらく様子見を続けるべきだと判断した。きっと早足の老衰に冒されて、脳味噌の大事な箇所が蕩けてしまったのだ。可哀そうな親父!そしてそんな痴呆に付き合わなければならない、輪を掛けて可哀想な俺!
「三日間やろう。そいつで女奴隷を買え。当然、お前の家で同棲させるやつをだ。その間は職場に来る必要はない――いや、買うまで来るんじゃない。買ったら、俺の携帯電話に連絡を寄越せ。理解したか?」
ふざけなさんな、誰が二つ返事で了承するか。こちとら奴隷なんて、耳にするだけでも吐きそうになるという具合なのだ。それを自身で購入して、あまつさえ同じ屋根の下で共同生活を営めと仰るのか。口惜しいだろうが、あんたの次男坊はそうまで蔑まれて優しくいられる様な人格者ではない。机まで大股で詰め寄り、傷だらけの天板に札束を叩き付けた。
「拒む権利があると思ってやがるな」
僅かに顔をしかめ、親父は俺の手を離れた札束を眺めた。
「俺に人権を与えたのはあんただ」
「その理屈だと、奪うのも俺の自由だ」
俺と同様に、向こうさんも全く譲らない姿勢を取っていた。ニーナは部屋の壁に寄り掛かって気だるそうに腕を組んでいた。不意に親父は椅子を立ち、狭い部屋を歩き回り始めた。
「こう考えてみちゃどうだ?お前はこれからこの金で一人の少女を救うんだ。満足な生活環境と知識を与えて、奴隷としてではなく、ごく当たり前の人間の生活を提供するんだ。悪い話じゃないだろう」
「いい話でもないね。どの道、俺の住む家で百メーターと離れていない場所にそいつがいたら、デリケートな精神に悪くてしょうがない」
「そりゃ童貞じゃあ心穏やかじゃないでしょうよ」
ニーナのナイフが脇腹に刺さった気がしたが、何も聞かなかった事にした。第一、童貞云々は付随する問題で、根本たるそれではない。親父が机の角に尻を預けて口を開いた。
「お前、自分がどういう状況だか分かってないんだろう。そうだろうよ。何せ今まで普通を装っていられたのが不思議なくらいだ。デリケートな精神とやらがどれ程に弱いか知らないがな、それが既に限界を叫んでいるんだよ。こっちはそれが引き裂けるのを防いで、ボンドでくっ付けてやりたいだけなんだ」
「言うだけなら簡単だろう。現実はそうじゃない」
「現実から逃げてきたやつが言える事か」
親父が胸ぐらを掴みに掛かってきた。身長が俺より十センチほど低いので、下から突き上げられる感じになった。皺だらけのシャツが尚更にもみくちゃになったが、俺はむっとして親父の腑抜けっぽい雰囲気が消えた顔を睨みつけていた。
「これがお前にとっても、俺にとっても最後の機会なんだ。面白半分にやってるんじゃないんだよ」
シャツを握っていない方の手が札束を掴み、俺のパンツのポケットに捻じ込んだ。ここで再び女王の集団を放ったら、次はいよいよパンチが飛んできそうな剣幕だったので、何の抵抗も見せずに親父の肩を押し返した。
「いいな、三日間だ。もしもそれ以上必要なら連絡しろ。少しくらいは引き延ばしてやる」
「大きなお世話だ。勘違いするなよ、俺はあんたの指示に従って奴隷を買うんじゃない。奴隷を買った後は俺の好きにさせて貰うからな」
それを聞くと、親父は微かに頬を緩めた。それが気に食わず「くそ親父」と呟いたら、股間にパンチが飛んできた。さしたる痛みはなかったが、途方もない速さだった。
「今日はもう帰れ。あとの仕事はヴェストに任せておく。何かあったら……そうだ、ちょっとでも不安に感じる様な事があったら電話しろ。どうせ暇なんだ、いつでも出てやるよ」
仕事中にゆっくり紅茶を啜る余裕があるのは、妻が代わりに雑務を受け持っているからだよ。
「息子様は反抗期でね、十割方ないだろうよ」
にやつく親父と、さっさと出て行けと言わんばかりに冷たい視線を擦り付けてくるニーナに背を向け、俺は部屋を去った。何てこった、全部あの野郎の目論み通りに話が進んじまった。面白くない。
ちくしょう、あいつら俺が部屋を出た後でちゅっちゅしてるんだろうな。
【6】
結局、二万ポンドという大金を押し付けられ、まだ十時も回っていない時分に荷物をまとめて職場を後にしなければならなくなった。「ヒルちゃんが退職する」と何処からともなくクラッカーとパーティ用のとんがり帽子を持ち出してきたジェロームの野次を尻目に職場を去る最中、あのくそイタリア野郎を殺すと胸に誓った。綺麗なままのケツ穴でいられると思うなよ。司法解剖でケツからジャガイモとタマネギが転がり出る様に取り計らってやる。決意を固めるのと瞬間を一に、クラッカーが俺の後頭部で炸裂した。凄くうるせえ!
強制帰宅を受けた結果、何をすればいいのか分からないままで、昼にもならない兵士の街たるヘリフォードにあっても違和感を抱かない、洗練とは真逆に位置する薄汚れた喫茶店に、こんな時間から職務を放棄した不良軍人――俺だ!――が乗り込み、何をとち狂ったか砂糖まみれの形の崩れたケーキを大量に注文し、案の定腹へと収め切れずにそのまま三時間が無為に過ぎて現在に至る。いかん、吐きそうだ。流石にやりすぎたとして、今は反省しているつもりだ。反省は後に何かを生むかもしれないが、事実を曲げる事は不可能なので好きではない。事実、三四ポンドという金が羽を生やして財布から飛び立ってしまった今や、幼少の厳しい生活の記憶から、食わずに帰るという訳にもいかない。産まれる前とは言わない、せめて入店時くらいにまで時間を戻してくれ。
メニューにあった一二個のケーキの内、注文したその数たるや十個。今までの一時間で胃に詰めたのは四個。ここまでの過程を正確に言えば、最初の二十分で四つを喉奥に押し込み、それからずっと砂糖なしの紅茶だけを飲み続けている。やけ食いというやつはこんなにも辛いものだったのかと、この歳でようやく気付いた。知らない方が幸せだった。
残った六個の内、四個はチョコレートがふんだんに使われたやつだ。注文されてからの時を常温で放置された生チョコレート、そいつを口に入れると想像するだけでも吐き気が催されるのは必至だ。その上にこの量だ。真の地獄を見た。この状況を作り出したのは他ならぬ自身だから、向き合わなければならない。そんな馬鹿をやってしまうくらいに、あの命令を受けてから内心では動揺していた。
「お客様、ご気分の程は……?」
俺の席の近くを通りかかったウェイトレスが声を掛けてくる。そんなに酷い顔してたのか、俺は。右顎にでかい傷が走っている男が、ケーキを前に死にそうに呻いている状況を思い描き、悲しくなった。そんなのが俺なのか。
「お下げ致しましょうか?」
「大丈夫、食べるから」
額に脂汗を浮かばせて、何を言うのだろう。
「ご無理をなさらずに」
味気なく残して彼女は去った。どうしてあんたが俺を気遣っているか分かるぞ。あんたが今日の掃除当番だからだ。俺がゲロしたら、あんたが店を綺麗に掃除するからだ。ゲロの後始末が辛いのは、かなり前のアルバイトでよく知っていた。
とかく、今は奴隷の件を忘れていたい。親父の突拍子もない爆弾発言と、それを全く止めようとしないニーナの非道を、腸を通過したケーキと一緒にトイレという海に流したい。
それから更に二時間。俺は血涙を流す思いで所属不明のケーキ六個師団を滅ぼし、魔の喫茶店を後にした。今日はただ帰って休まないといけない。精神を筆頭に身体が壊れる。奴隷の件は明日考えればいい。特別、急ぐものでもない。そう、明日でいい。店を出てから十歩進んだところで全身を電流が駆け抜けた。どうして俺はケーキを持ち帰るという選択肢を思い付かなかったのだ。間抜け!店員も何故にそう勧めてくれなかったのか。全く以て厄日だ。
昼下がりになっても、曇天は一向に晴れ間を見せてくれなかった。イギリスはいつだってそうだ。過去に一度の例外を除いて。
【7】
午前十時に起床。だが、ベッドから降りる気がしない。「明日から本気を出す」というのは「ずっとやらない」と同意語だが、「明日考える」もその手の類の一つらしい。暴飲暴食したあの日から、考えは綿埃ほどもまとまらなかった。実際、この三日間は部屋で鼻くそをほじったり、筋肉を痛め付けたり、ビデオゲームの電源を入れて放置したり、本来は一般家庭に置いてはいけない銃を愛でたりといった、奴隷――この単語も嫌いだ――に全く関連のない行動ばかりだ。現実逃避もここまで来れば立派なもので、虚空にこれから為すべき行動という疑問を投げ掛けても、当然ながら誰も答えてはくれない。こちらとしても、答えられては困る。家全体を除霊して貰わなければならない。
親父の定めた期日は今日である。二〇一〇年のカレンダーは六月の二六日までに黒のボールペンで印が入れられている。期日は今日だが、期限となる時間の指定は一切されていない。この三日間は携帯電話の電源を切り、固定電話も電話線を抜いていた。職務用の携帯電話は常に身に着けていたが、呼び出しが掛かる事はなかった。酒場へも行かなかったし、そもそも飲酒自体をやっていない。酔える気がしなかったのだ。
このまま奴隷を購入せずに一日を過ごしていれば、じきに親父から連絡が入ってお叱りや苦言が訪れるだろう。そうなると面倒だ。望みもしない謹慎期間が増えるやもしれない。
しかし奴隷を家に招き入れる真似はしたくはない。余りに不謹慎だろう。双方の合意があってこその肉体関係だし――まあ、俺が勝手にそう考えているだけだが――それを金で買った女と一夜のみならず永劫に同じベッドで過ごすなど、言語道断ではないか。などと愚かしい持論を構えて早二九年、思えば一瞬だったが、その間常に頭の隅に巣くっていたのは童貞である自分への叱責だ。周りのやつは十代で安物の誇りを売り飛ばしたというのに、俺は何をしているのか。下らない葛藤と付き合っている内に、その誇りも埃を被って一ペンスの価値もなくなってしまった。体の良いトラウマという理由を盾にするのも問題だ。
奴隷購入に対して気が進まないのは、そもそも自身がその出身であった事が多分に影響しているだろう。奴隷というやつは貴族か企業が娯楽や雑用に買う道具の筈だ。一般人が持つべきものではないし、その存在は今や全世界で受け入れられるものでもない。現時点に奴隷貿易を産業として扱っているのはイギリスとその保護国の一部くらいのものだから、時代錯誤も甚だしい。
奴隷購入についてここで初めて思考を働かせたが、奴隷と銘打たれている製品が実際にはどういったもので、購入した結果どの様な責任や義務が生じるかなどと、ついぞ未開拓の領域だったのだ。関心がない言えば嘘になる。そう、関心はある。何故かしら惹かれる。
いいや、待て。落ち付けヒルバート。血迷ったか、何を期待しているのだ。顔が少し火照っているのが分かった。止せよ、奴隷の心情についてはお前自身がよく知っているじゃないか。常に抑圧された精神状態を強いられて、かつ醜悪な異性との性行為を強要される訳だ。しかし、購入せねば叱られる!逃げ場のない板挟み!可愛そうなやつ!おまけにニーナには排水溝に詰まった髪の毛を見る感じの目を向けられる!ゴミにも位階があって、あれは家庭ゴミのカテゴリーでは底辺にかなり近い位置にあるのだ。
親父はやつなりに心配してくれている。しかし奴隷というのは考えものだ。常識が少しばかりあるなら、息子に奴隷を買えなどと言える道理がない。不意に考え付いたが、人間をたかだか数千とか数万ポンドで買えるという事実も妙だ。人権をその様な陳腐な額で奪って許されるものか。政治屋の正義を疑う。
自らの意思が両極に分かれ、内部衝突が鎮火しないままに事態は硬直してしまった。意思が分裂している時点で、強い興味が芽生えているのは明らかだ。
よしと我が身に鞭を叩いて四肢を突っぱねると、ベッドのシーツに染みが出来た。口端から涎が垂れていた。もう興味などと生易しい表現では済まなくなって、欲望剥き出しの悶々した煩悩に昇華し始めている。早急に行動を起こさないと、何をしでかすか分かったものではない。女性でトラウマを植え付けられた筈が、男という本能を満たせずジレンマを生んでいるのだ。
ものの数分で脳内に計画をまとめて確認を行った。とにかく奴隷を買う。悩むのはそれからでも遅くはない。そう考えると、気が少し楽になった。熱いシャワーを浴びて、大自然と化した髭を剃って服を着てから遅めの朝食を作る。今日のメニューは、今度こそトースト二枚と卵二つの目玉焼き、かりかりのベーコンだ。油を引き延ばしたフライパンの上に、ラージサイズの卵をかざした。ぽろりとごつい手から逃げる卵、それを追いかける右手。厚さが一ミリとない殻が儚い音を立てて割れ、潰れた卵黄がフローリングの床を汚す。転落死させてしまった卵を手早く片付け、二つ目に望みを託す。しっかりと卵を掴み、ヒビを入れて両手で殻を引っ張る。手元で殻が左右に分かれる感触、そしてそれが急に軽くなる。割れた――!ぼてっという卵黄と白身が落ちるには余りにも程遠い、鈍い着地音がした。フライパンの上では毛も生え揃わない、成り損ないのヒヨコが油にまみれて焼かれていた。
十時四五分、俺は朝食を食べずに家を出た。手には未だ、卵を割った感触が残っていた。
ヒヨコは庭に埋めた。願わくば、化けて出て来ない事を。世界屈指のSASでも、除霊の方法は教えてくれないんだ。
【8】
陰鬱な気分と手を繋いでガレージの愛車――外見はかなり前の黒のBMW――に乗り込み、イグニッションを回すと不機嫌そうな咳を払ってエンジンが始動した。謹慎中に呼んだ修理屋の仕事の不出来さに嫌悪を催したが、今日ばかりは動いて貰わねば困る。こんな事であれば、自分でボンネットを跳ね開けるなり、仕事終わりのヴェストに頼めばよかった。あいつにも休肝日みたいに、女を一日くらい抱かない日があってもいい。朝食代わりのチョコレートバーを齧りつつ、アクセルを踏み込んだ。
秒毎に流れていく風景には何の面白味もない。イギリスは毎度変わらずの曇天だ。昼時だというのに薄暗く、肌寒ささえ感じる。目的地は首都ロンドン。インターネットで「奴隷市」と検索を掛けただけで三万件以上の候補がヒットし、尚且つ本日開催の市が見付かった。何処まで腐り切っているのだろう、この国は。
M4自動車道を走り続けて三時間もしない内に首都に到着し、〈マクドナルド〉でチーズバーガーとポテトを貪り、一時間の休憩を摂ってから再び車に乗り込んで、奴隷市の会場であるショッピングモールを目指した。どうしてそう公の目に留まる場所でやる必要があるのか理解に苦しんだが、すぐに考えない事にした。答が浮かんだところで精神の毒にしかならない。
余計な思考に脳味噌を働かせたくなかったので、カーナビゲーションを使わずに、道路地図と精度の高い〈シルバ〉のコンパスを助手席に置いていた。ナビゲーションの専念には成功したが、地図とコンパスが優秀過ぎて予定よりも早くモールに着いてしまった。腕時計の針は午後の三時前を指している。
モールは四階建ての屋上に大規模の駐車場を有し、築造されてから五年と経っていない新築だ。きっとバッキンガム宮殿よりも大きい。会場はここの一階であり、かなり大きな多目的ブースを割いて開かれる。もっと小規模で終日に開かれている奴隷市はヘリフォードでも見付かったが、そんなふざけた場所にいるのを知人には見られたくなかった。
モール前の駐車スペースに我が儘な愛車を停めてやり、がたの来ているドアを開いてから思い立った。ひょっとすると、金が足りない事態が生じるのではないか。コーデュラナイロンの鞄に放り込んだ、受け取ったままの状態の札束が急に心許なく思えてきたのだ。杞憂だとは分かっていたのだが、気付いた時にはカーナビを起動して最寄りの銀行で更に自分の金を三千ポンド(約四十万円)下ろしていた。口座から結構な数字が消し飛んじまったぞ、ちくしょう。すぐに口座へ戻したくなる感情を押し潰し、砂埃を被った車へ飛び乗ってエンジンを掛け、今度こそモールの正面入口をくぐった。
平日とはいえ、電気代くらいは賄える程度に混み合う施設内を大股で進み、店内見取図で会場を確認して足を速めた。遠くで子供が泣き叫んでいるのが聞こえる。こんな些細な事でも憂鬱になるくらいには、俺の精神はへたれていた。
これから何を行うかは定かではない。始めに奴隷市の状況を観察して見定め、それを整理してから行動を起こす。親父にしょっぴかれるのを覚悟で帰路に就くか、奴隷を購入するか、それとも親父に助言を求めるかだ。三つ目の選択肢を取るのは遠慮願いたいが、他二つもどっこいどっこいだ。今まで不甲斐ない姿を見せてきたのに、ここに来て恰好付けしい自身にやきもきした。意気地なし!
ショッピングモール一階の中心部に位置する多目的ホールに近付くにつれ、富裕層らしいスーツ姿が増えてきた。イタリア製だか知らないが、甘ったれた身体にあつらえた衣服にタイを締めて、家から職場まで運んでくれる黒塗りの自動車までの距離しか歩いた事のない様な革靴に履かれている連中だ。それに対する俺は黒のシャツに青と白のストライプが皺くちゃのくたびれたシャツを羽織る風体で、うだつの上がらないアイボリーのチノパンの下には業務で使うのとは別に購入した〈ローバー〉のコンバットブーツだ。夏場は辛いが、足首を完全に保護された際の履き心地が気に入っているのだから仕方ない。是非ともこいつで靴墨の色しか知らない革に泥の味を教えてやりたい。そうして妄想を膨らませている内に、とうとう会場に到達してしまった。ああ、逃げたい!
わざわざ真紅のカーペットが敷かれた四方二百メーターはありそうなスペースは喧騒に満ちており、弛んだ頬の中年男性共が目立った。そこらじゅうに髪を後ろに撫で付けた奴隷販売業者と虫の居所が悪そうながたいの良い警備員が立ち、良いお客様には恭しく媚びへつらい、それ以外は問答無用で排除する体制が展開されている。スペースの端の方に立札があり、そこに撮影禁止の指標と共に印刷されていた内容を把握するのには少々の時間を要した。本来、この奴隷市は当モールで開かれる予定ではなく、小さな施設を貸し切って慎ましやかに催される筈であったらしい。それが三日前に不良だか酔っ払いの放火に逢って使用中止となり、緊急措置として付近にあったモールの多目的スペースを占領する羽目になったという事情である。奴隷市側としては一般人の目に触れる場所で大っぴらにやりたい訳はないし、対する方としても持てる者の悪趣味を見せ付けられるのは遠慮願いたいものであるから、これは納得であった。事実、通常の利用客が市場のでぶを見る目は冷ややかであった。それが数分後の俺にも向けられているやもしれない。せめてスーツで来ていなくてよかったと思ったが、それもそれで逆に市場の中では目立ってしまう。家畜のうんちだらけの砂漠にエッフェル塔が建っている様なものだ。言うまでもなく、俺がエッフェル塔である。
額には少量の汗が滲んでいた。あと三歩も進めば奴隷市に足を踏み入れてしまう。視界にはショットショー(毎年にラスベガスで開かれるアウトドア、ミリタリー、警察関連の商品を扱う企業が新製品を展示するイベント)よろしく小さな白い円柱型のお立ち台に乗せられた奴隷の少年・少女――各々、立っていたり座っていたりする――が憐れみを求める双眸でスーツのくそ野郎を眺めていた。衣服はこれまた白いシャツとジーンズ、或いはワンピースが一枚と粗末な白い靴だけで、あとは何も身に着けていない。買った後は何色にでも染めてよろしいとでも言いたいのか知らないが、どうせ欲望にまみれたどどめ色に漬け込まれるに決まっている。
ようやく市に踏み込むと、上半身の皮膚がぴりぴりと痛んだ。精神的な面からもたらされる拒絶反応だろうといなし、スーツの海を掻き分けて進んだ。
すぐ傍で展示されている奴隷の首から下げられている紙の値札を見やると、一万ポンドと記されていた。とんでもない値段だ。人ひとりが型落ちした自動車みたいな金額で買い叩かれるとは。赤毛で病的なまでに肌が白く、そばかすだらけのその少女は、震えた声で俺に「買って」と囁き掛けてきた。いたたまれなくなってその場を後にした。あんたは辛いだろうが、俺も他者から一方的に依存されたら壊れちまう身なんだ。
奴隷の自滅的なアプローチに狼狽した俺は一時的に市場を去り、付近の休憩スペースに設営された円テーブルに着いて、食料品売り場で買ってきたくそ不味い缶の紅茶を啜っていた。何てこった、一分とあのくそ壺に耐え切れなかったとは。子供連れの肝っ玉のでかそうな母ちゃんが笑顔で脇を通り抜ける中、俺は肺活量の限界まで息を漏らした。安物の茶葉に混じって、ケチャップとチーズのすえた臭いがした。
景気付けにモールを出て、普段はやらない〈マールボロ〉をふかし、ニトロ役にヒップフラスコに入れて持参していたドライ・ジンをぐいと喉に流した。災難だ、アルコールが職務を放棄している。要らない苛立ちが募っただけだ。当り散らす場所を求め、意味不明な優越感に浸る為に、俺は一本しか吸っていないマールボロの箱を、路肩に違法駐輪されている自転車の前籠に放り込んで前線に復帰した。
市場へ戻ると、奴隷が購入される現場が見られた。支払前の事前説明だか知らないが、市の隅の方に設営されたテーブルで何十枚もの書類に署名をさせられている。金だけ払って、はいさようならという訳にもいかないらしい。尚更に面倒に感じられた。
〈ルミノクス〉の二百メーター防水の腕時計が十七時前を刻み、本行動の判断期間に移行する為の偵察をようやく始めてから十五分、お立ち台の奴隷――まあ、可愛いかそうでないかと訊かれれば、大半が不健康そうな不細工だった――の値札の数字を精神がひいひい喚きながらメモ帳に書き写して平均を計算していた時分だった。それまでスーツの豚でごった返していて近寄らなかった、市場の中央に目を向けた。どうやら他の奴隷とは隔離されたスペースになっている様で、それを黒々と艶やかなゴキブリが同胞の死骸に群がる様に取り囲まれていた。その様子が知れたのは、ゴキブリの集団がモーセの奇跡を模倣するかの如く割れ、奴隷を引き連れた業者と、その購入者らしきでぶ野郎が這い出てきた。でぶはどうでもいい。俺の目を惹いたのは他でもない、やつが購入した奴隷であった。それまで情報の収集に専念して、陰気に値札だけを眺めていたのには、そいつらの顔が百歩譲っても絶世の美人を騙るのはおこがましかったという理由も存在する。もしも奴隷を買う事態に事が進んだ時の事を考えてしまったら、その場でくずおれてさめざめと涙を流すのも辞さなかっただろう。吹き飛ぶ金と天秤に掛けたら、彼女らに同情する余地もないくらいに不細工の掃き溜めだったのだ。ちょっとは見られるくらいのだと、軽く三万ポンドはしたのだ。つまり、性奴隷としてまともに見られるやつは、それなりの数字を要求してくるらしい。
それが目の前の娘はどうだ。蛍光灯の昼白の光を受けて艶めくゴールドブロンドの髪を揺らし、染み一つとない卵型の美貌が俺の目に眩しく映る。そんじょそこらの整形外科では成しえない造形だった。それも恐らくは天然物で、顔面の骨を削って整えたそれではない。惜しむらくは絶望さえも通過してしまった落胆を見せる表情くらいで、それ以外は本当にけちの付けられない女だった。そいつが今や、前を歩くでぶ野郎のちんぽこに貫かれる運命を背負わされたのだ。
その奴隷を購入した男が市の隅のテーブルに着いたところで、俺の思考は完全に途切れた。いや、理性が雲隠れしたのだろう。メモ帳をポケットに押し込んで、衝動的に人の海の裂け目に身を投じた。何度か他人の足を踏んで悪態を垂れられたが、その時は何も聞こえていなかった。意識の隅に追いやられた自我が表舞台に出て来ない様に、欲望に監視をさせていたのかもしれない。事実、それは的を射ていた。
他の奴隷と変わらないお立ち台に乗せられた彼女らは、明らかにそれ以外の不細工とは異なっていた。醜いあばたを持つ者などおらず、いかれた男に感化されて顔を穴だらけにしているやつもいない。年齢は大小あるが、いずれも美少女――どうしよう、女じゃないのが一人いる――とレッテルが貼られる存在だ。無論、端っこで髭面の脂っこいでぶから品定めを受けている黒髪の美青年の価値は、俺の知るところではないが。
そんなのはどうでもいい。ホモ云々は俺の人生が長かれ短かれ一切の関与すべきではないと捉えている範囲の項目だ。目前に控える六人の女が、ニーナを除いて俺がこれからの月日で二度と逢いまみえる確率が、限りなくゼロに近いくらいに残酷な階層にあるという否定の叶わぬ現実に、目眩を覚えた。知りたくなかった、こんな世界!
そして何よりも、既に幾つか空になったお立ち台があり、受け入れ難いが、触れる事が禁忌とも取れる彼女らを忌々しくも金で買った者がいたという証明になっている。どうかしている。何がイギリスだ。諸外国から紳士の国だのと持て囃されているが、その実態はご覧の通りの残念極まる変態王国だ。己が内面に潜む恥部を、外面を取り繕って包み隠した結果として紳士が偽られる。そして平然と他国を蹂躙してきた、それがイギリスである。表面を少し捲れば残虐で獰猛な真実がそこにはある。太陽の沈まぬ国を潰した強者が、誰からも敬われる英雄である筈がない。何かしらの謀略があってこその行為である。
ぐちゃぐちゃになった脳味噌が、沸騰した状態で爆散した思考回路を繋ぎ直そうと試行錯誤していたが、絶世の美女群を前にしてはそれも容易ではなかった。おまけに俺は童貞なのだ!だが、俺の飽和した間抜け面は瞬間的に凍結される事になった。
一番近くにいた栗色の髪を持つ奴隷の、首から下がった札に黒のインクで書かれたその値段、八万ポンド。端から口にする言葉などなかったが、絶句した。千ポンド爆弾が脳蓋で炸裂したくらいの衝撃を受けて、意識と見識を激しく揺さ振られた。つまり、こいつらは奴隷の中でもトップクラスに位置する存在という訳だ。
だが、この値だって異常な事態であるのには変わりない。人ひとりの人生をたった数万ポンドで剥奪する行いの、何処に正当性が認められる。むしろ安過ぎるくらいだ。国家レベルで見れば!
目尻がひくつくのが感じられた。親父め、どうしたって俺をこんな場所へ行かせたのだ。何の面白味もなければ、教訓の一つも得られやしない。反吐がこみ上げるだけだ。その上に何だ、この八万ポンドとかいうのは。あんたが渡した額の実に四倍、馬鹿げている。手持ちの二万ポンドで買える奴隷は牛のくそから這いずり出してきた様なやつばかりで、まともに目も当てられなかった。はっきり言って、穴しか取り柄のない女だった。俺の人生を取り戻すには、余りに役者不足であった。そして俺の目に適うやつらの値段はご覧の通りだ。童貞が何をほざくと言われればその通りだが、如何せんこちらにも事情がある。奴隷を買う腹づもりなど毛頭なかった、しかし何も持って帰らねば、次の奴隷市に行かされる可能性がある。もしかすると、親父が同伴するかもしれない。余りにも恰好悪いし、一生その記憶を引きずる筈だ。
彼が奴隷を買う様に仕向けた理由がここでようやく分かった。どうして見合いや紹介ではいけなかったのか。わざわざ奴隷などと目標を絞った魂胆が。俺と似た境遇の女に巡り合わせる為だ。戦地から戻った兵士の感情を理解出来ずに破局する男女は少なくない。ベトナムや湾岸、ひいては最近のイラクやアフガニスタンの帰還兵にも、そういった話は珍しくない。軍の精神科医だって、そいつらの心的外傷の欠片も分かっちゃいないのかもしれない。
だからこそだ。わざわざ俺の柔らかい肉を抉ってまで奴隷と引き合わせる名目には十分だ。代えの利く奴隷であればリスクも小さいと、親父は考えたのかもしれない。奴隷は所有者に依存せざるを得ないから、都合がいいと考えたのかもしれない。極めて合理的だが、親の思い付く事ではない。だが、それだけ俺の身が切羽詰まっているとすれば、親という名を捨て置いて、上官として命を下す程の覚悟を抱えているとしてもおかしくはない。
だけど、俺とてもう大人だ。自分が欲しいものくらいは自分で決める。妥協などは絶対に許さない。
にわかに平静を取り戻し、特上の奴隷の検分に取り掛かる。八万ポンドの件の娘は、俺を視界に入れるなり僅かに目を背けた。カシミアのスーツに磨き込まれたローファーも身に着けていない貧乏人に買われるのは癪だと思われたと推測したが、腹の前で組んだ白い手がきつく結ばれているのを見て、怯えているのだと納得した。右顎のでかい傷跡を、整形外科に通ってでも消した方がいいかもしれない。何れにせよ、顔の傷くらいで揺れるこいつは駄目だ。こっちの心労が絶えない。
そこから少し離れた左手にいる、おっぱいのでかい薄いブロンドの娘は、俺を見るなり明らかに嫌そうに目許を歪ませて、すぐに頭の寂しい、肥えたスーツ姿へと色目を遣り始めた。お前が奴隷でなければ、張り倒していたかもしれないぞ。首の値札には九万ポンドと記されているし、この娘とは縁がないのだと考えた。
左端の奴隷には、興味本位で近付いた。値段を見たいだけだったのに、そいつは高音域の猫撫で声を俺に掛けてきた。「兄さん、どうだい」ぴっちりしたブラックジーンズと清潔な白のTシャツに身を包んだ黒髪のそいつは、俺の顔の傷跡に臆する事なく、澄んだ碧眼を爛々と輝かせていた。止めろよ、まだホモになる気はないんだよ。そしてどうしてお前は俺の目から見て、そんなに楽しそうなんだ。まるで自ら望んで奴隷になったみたいじゃないか。そうなのか?どの道、俺はお前さんと結ばれたくはないなあ。さようなら、十二万ポンドの君。今度は君と考えを一にしてくれる人に巡り合ってくれ。
すぐ近くで人――豚でもいいが――の動きがあり、先程と同様に海に裂け目が生じた。頬のこけた五十台と見られる長身の男が、さっきまでお立ち台でなよなよしく媚を売っていた奴隷を購入したのだ。十一万ポンドで。その後ろを販売業者に伴われて着いていく奴隷は、艶のあるブルネットを揺らして、まずは飯が食える環境を手に入れた事に胸を撫で下ろしていた様であった。
さて、これで残る女奴隷は五人になった。別に購入に踏み切るという訳ではないのだが、それでも少なからず焦燥を覚えるのが人の性であろう。そういう事情で、三人目の女奴隷に目を向けた。ケルト系で赤毛のそいつは七万ポンドで、日に焼けて健康そうな風体だった。そして見物人に向けて胸元をはだけさせて、やたらと性的なアピールを振り撒いていた。違う、こんなに楽しそうにしているやつは手に負えない。俺は奴隷として生きた時代を地獄の底だと認識しているから、金持ちの下で悠々自適な生活を思い描いているあの女には、俺のねちっこい陰湿な過去を理解する事は出来ない。
四人目は九万ポンドのラテン系で、短く濃いブロンドの髪を持っていた。酷く塞ぎ込んでいる様で、その冷たいグレーの瞳は曇っていた。あれはきっと、俺よりも先に壊れちまう。身体も全体的に骨張っていて、食も細そうだ。家計には優しいかもしれない。
残りは一人だ。ここでがっかりなやつしか残っていなかっとしたら、それはそれで親父に事情を話して納得させるまでだ。俺だって自分の最も柔らかい部分を曝け出すのは、可愛いやつが相手の方がいい。奴隷に同情するのは吝かではないが、そいつの容姿にまで気を配る余裕など持ち合わせちゃいないのだ。
さて、最後の奴隷だが、始めに値段を確認した。――十万ポンド。素晴らしい、如何ほどの期待を込めていいのだろう。どうせこの機を逃せば一生は拝めない高嶺の至宝なのだ。じっくりと拝謁させて貰うとしよう。親父が訊いてもいないのに教えてきた言葉を借りれば、今なら『ロハ』なんだから!
やけっぱちの姿勢で向かい合ったその奴隷は、確かに見目麗しい容姿を有していた。あどけなさが残る容貌に、小柄な身の丈。肌は白く、全ての部品が繊細な工芸品を髣髴とさせる。それは別に他の奴隷と大差ない。むしろ際立った派手な点が見られない分だけ他よりも俗っぽい風が目立ち、華やかな印象はなかった。それでもこの奴隷には幾つか不可思議――言ってしまえば、関心を惹かれる部分があった。柔らかそうな艶のある髪はくすんだブロンドとも砂色とも呼べる微妙な色合いで、緩やかなウェーブが掛かっており、それが背中の中程まで伸びている。額は小さく、グレーの強い碧眼は醒めた印象とを抱かせるが、その輝きは失せている。それを縁取る目蓋は何処か眠たげだ。顔については滅裂な容姿を持っている俺が言えた道理ではないが、整った小さな卵型のそれの造りはゲルマン系と思うと、スラヴ系が混じっている匂いがする。しかも、ゲルマン系にしては骨張った印象もない。胸も小振りで、中華の肉饅頭ほどもないと見える。(イギリスには本格的な中華を出す店が数多く存在する)
俺の目に際立って異色に映ったのは、その身振りから滲む雰囲気だろう。お立ち台に両膝を抱いてぺたりと座り込み、他の奴隷が媚びへつらうか、絶望の淵に座り込んで生気を失っているのに対し、この娘は何とも自身に無関心で、むしろ他者の観察に分析的な思考を働かせている風だ。ひょっとすると、変人の類かもしれない。変人と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、愚弟ジェローム君である。あいつがこの場にいなくてよかった。きっとこの場の五人の女を人質にとって戦争を一つやるだろう。他の女奴隷は肉の盾にされちまうんだろうな。
そして遂に熱の籠もっていない視線が俺に向けられた。始めはその衝撃――傷跡か、それとも場違いな服装だろうか――を隠し切れずに目を円くしたが、間もなくその細い首をかしげた。視線はずっとこちらへ固定されていた。姿勢の都合でこちらが見上げられる形になっているので、少々いたたまれないものがあるが、向こうがずっと放してくれないので、正面から向き合う事にした。どうしよう、北でイギリス軍に目を付けられない様に行動していた時代よりも緊張している。いや、全く違う性質のそれに襲われている。今や蛇に睨まれた蛙で、一歩もその場から動けなくなっていた。奴隷の表情に曇りはなく、ただ純粋に俺を吟味している具合で、何やら自身を納得させるだけの情報が集まっていない感じであった。つまり、俺の素敵な勘違いでなければ、あの娘は人間を肉塊に変えるのが仕事の俺に、少なからず興味を持っている。決まった、こいつは疑いなく変人だ。――だけど、変人くらいが丁度いい。
反射的に親父へ電話を掛けようとしたが、咄嗟に思い止まった。F判定の答案用紙を持って帰る男の子と同じ心境になったのだ。親父よ、あんたは重大な過失を犯した。俺に監視を付けなかった点だ。
不意に足が動いた。殆ど無意識に、本能に近い行動だった。スーツの波を押し退けて辿り着いた奴隷の前で、彼女と顔の位置を同じにして、俺は問い掛けた。「君、紅茶は淹れられる?」彼女は驚いた様子で微かに答えあぐねたが、人の良い感じの、それでいて物怖じのしない澄んだ声で応じた。「……人並みには」つまり、上手いって事だ。これで決まりだ。