【9】
俺はコーデュラナイロンの鞄に手を突っ込み、二万ポンドがスリに逢っていないのを確認した。目の前の奴隷は相変わらず、物珍しいものを見る目を向けている。怯えがない訳ではないが、じっと落ち着いた態度を保っている。すぐ近くでちょっとやそっとの通り魔が出たくらいでは、金切り声を上げないくらいに肝が据わっていると見た。だからこそ、純粋な興味を惹かれた。女らしくない女というのは、これ以上なく都合がいい。親父の命令は果たせるし、俺も女性と暮らしている意識なく日々を過ごせる。立ちはだかる障害は、こいつの売値が十万ポンドという数字情報だけだ。本当にそれだけだ。
隣で赤毛のケルト系が買われた。連鎖する様に美青年も買われていった。口の中が粘りのある唾液で満ちていく。俺にも性欲がない訳ではない。でも、俺の目的はそこではない。異性の理解者を俺に作らせるのが親父の目的である。では、俺の目的は何だろうか。
思えば熟考とは、俺の目を現実から遠ざける為に、欲望が作り出した罠だったのだろう。頭の自由が戻った時には、黒いベストを羽織った奴隷販売業者の肩を叩いていた。「訊きたいんだけど、ローンってどれくらい組めるの?」そして計算が追い付かないままに隅のテーブルで、俺は物好きな彼女を傍らに伴い、契約――支払が終わるまでは、購入という扱いではないらしい――を担当する従業員を前に、何十枚もある書類と対面した。幾つか席が用意されていて、仕切りを隔てて赤毛の七万ポンドを購入した男と隣り合わせになった。
始めに彼女の個人情報をまとめた顔写真付きの書類に目を通し、そこで初めて彼女が一八歳である事を知った。情報らしい情報は、管理に使われる番号と生年月日と血液型くらいしか存在せず、氏名も記されていなかった。所有物に名を与えるのは主人の役目だとでも言うつもりか。
ことさらに目を惹いたのは書類下部の備考欄で、五行ある欄の全てが黒のボールペンで埋め尽くされていた。最初に記述してあったのは、健康状態良好の旨で、その直後に唖然とする内容があった。奴隷化以前の記憶なし。どういう経緯かを従業員に問い詰めると、どうやら自身が売られたショックでそれ以前の記憶が抹消されてしまったらしい。自己防衛機能の一環だ。それについては俺にも浅からぬ因果があるので、それ以上は訊かなかった。
だが、その次にはもっと凄惨な事実が記されていた。原因不明の月経停止。今度は語気荒く従業員に詰め寄ると、半ば泣きそうになりながら、自分達も詳しい事情は知らないが、健康状態に全く異常見られず、身体的・知的障害も起こしていないと、両手を上げて述べた。診察をした医師の連絡先が備考欄の最後に書いてあるのを指し、これ以上は勘弁してくれと哀願した。俺はしつこく食い下がって、何度も隠蔽している問題がないかを確認し、とうとう哀れな彼が半泣きになったところで質問責めから解放してやった。これには俺の傍らで待機していた例の彼女も少しびくついていた。そう焦るなよ、ヒルバート。人間の九割は第一印象だ。顔の傷をパスしたのに、性格を疑われたら台なしだ。まあ、優れている方ではないんだが。
色々と問題が浮き彫りになったが、それでも俺に契約破棄の案は出て来なかった。ここで辞退してしまったら、俺の精神がたった一本の命綱を放してしまう気がした。ヘリフォードの自宅の住所や勤務先を記入し、読んでも意味のない法律の確認を取られ、幾度となくペンを動かした。額が額であったし、年収も書かされた。従業員は何度も言葉につかえて、その度に俺の機嫌を窺った。別に噛み付きゃしねえよ。悪かったよ。
十枚以上は書類に目を通しただろうか、それまでのものより格式張った、分厚い紙がテーブルに置かれた。奴隷購入を承認する最終的な書類らしく、返品や返金に関しての注意事項などが太文字で記載されている。知った事か。こちとら後には退けないんだ。迷わずにペンを走らせると、従業員は数年分の仕事を片付けた様に安堵の息を漏らした。分かってるよ、やり過ぎたって。ごめんよ。
それから生命保険の加入や、購入した奴隷に付随するサービスを結んでいったが、人権を奪っておいて何を抜かすとは言わなかった。大学の講義をやっているのではないのだ。そんなのは奴隷制に反対意見を有する、少数の政治家に任せておけ。
テーブルに着いてからどれくらいの時が経っただろう。腕時計を見ると一八時を回っていた。道理で疲れる訳だ、慣れないデスクワークなんかするから。俺のうんざりした疲弊の様子を悟ったのか、平常心を取り戻しつつあった従業員が、次で最後だという旨を告げた。君にとっても悪くない話じゃないか。
「再調教サービスというものがありまして……」「何だいそれは」「当方は奴隷の調教に万全を期していますが、仮にお客様が奴隷に満足いかない……例えば、命令を聞かなかったという場合に、当方へご連絡戴ければ奴隷を再調教してお返しするというもので、これが一年保証になりますと五千ポンドで……」「要らん!」結局、俺は現金二万ポンドを頭金に、一〇八回払いのローンをこの『スレイヴ・マーケット』とかいう企業と結んだ。全く、気が狂っていたとしか言い様がなかった。
【10】
「やっちまった!」
契約を結んで、世間的には俺の所有物と化した少女を引き連れて、奴隷市を離れた俺の口から飛び出たのがそれであった。ああ、何てこった。過去に衝動買いの経験は数多とあったが、こんなに恐ろしいのは類を見ない!数時間前に利用した休憩スペースのテーブルに両肘を突いて頭を抱え、食料品売り場で再びくそ不味い缶の紅茶を買い、彼女――ちくしょう、可愛いな――にも何が飲みたいか尋ねた。自分は要らないと返されたので、くそ不味い紅茶を二缶買って、テーブルの対席に着かせた。だってドライ・ジンを飲ませる訳にはいかないだろう。間接キスになるじゃないか。
短く礼を言って缶を受け取った彼女は、か細い指で缶のプルタブを起こし、遠慮がちにその桜色の薄い唇を缶にあてがった。それだけなのに、紅茶に濡れた唇に俺の濁った目は奪われた。お前、女が原因で心的外傷を負ったんじゃなかったっけ?それとも性欲に関しては別腹なの?彼女が俺の変態的な視線に気付いていない事を祈り、わざとらしく自分の紅茶に目を落とした。
両者無言で紅茶を飲み終えたところで、そろそろ不便を感じてきたので、便宜上でも彼女の呼び名が欲しくなった。残酷だとは思ったが、彼女の前の名前を尋ねる決定を下す。心の中で自分の身が可愛いだけの、良心の皮を被った利己主義が駄々をこねたので、殴って黙らせた。
「君、元の名前は覚えてる?」
彼女は幾分か申し訳なさそうに首を振ってから、やはり聞き心地の良いが、上品を装っている風ではない、清流の如き声で返答した。
「施設では番号で呼ばれていましたので……。どうぞお好きな様にお呼び下さいませ」
施設というのは、恐らくは調教に使われていた場所なのだろう。書類の内の一枚には、約三年をその場で過ごしたとの記載があった。調教とやらの実態は知る由もないが、一般教養と家事全般を叩き込まれ、新商品のキャンペーンガールやらレースクイーンとして駆り出され、それ以外は風俗店で本番以外の実践教育を受けていたらしい。あの小さな口にちんこが突っ込まれたっていうの?ちょっと待てよ、本番なしって事は処女なの?生々し過ぎて、現時点で触れたい話題ではなかった。
話を戻せ、要らん分野に頭を働かせるな。ただでさえ今日は疲れているんだ。馬鹿は止しなさいよ。俺は現実世界での話題に集中した。
「でも、仲間内での通称なんかはあったんじゃないの?例えば、他の子との交流があったりとかは?」
彼女は最初に見せた様に目を丸くして、それから感情を露呈させない声調で答えた。
「仲間内では、ブリジットと呼ばれていました」
「ブリジット?その名前に抵抗は?」
自分でも分かってはいる。奴隷にどうしてそこまで気を遣うのかと、第三者からは疑問の声が上がるであろう事実に疑いはない。多分、そいつらには理解しかねるだろう。別に彼らの頭が悪いとのたまっている訳ではない。でも、奴隷として生きた過去がない彼らには、絶対に分かり得ない部分が俺達にはある。分からないの一言で全てを拒絶されるくらいなら、ただ何も言わずに優しくして欲しいだけなのに。
「特にございません」
「じゃあ、俺もそう呼んでも?」
きっと今の自分を鏡で見たら噴き出すだろう。こんなに微笑むのが下手くそなやつがいるか。今まで皮肉っぽい笑みしか作ってこなかった報いだ。これから顔面神経を揉みくちゃにして慣れるとしよう。
「ええ、構いません」
彼女――ブリジットは笑顔の手本を見せてくれた。首を僅かにかしげ、両頬が軽く持ち上がって、物腰が柔らかい雰囲気だ。俺は上司から露骨な嫌味を垂れられた顔を張り付けたままで語を継いだ。
「紹介が遅れたね。ヒルバート・クラプトンだ。よろしく、ブリジット」
対等な立場で接したいという願望から、テーブル越しに右手を差し出した。無骨で野太い傷だらけの指が生えたそれにたじろぎつつ、ブリジットはそっと白磁の手で握り返してくれた。うわあ、やわこい。理性をかなぐり捨てそうなくらい気持ちいい。煩悩が顔に顕現する前に、温かな手を放した。右手が泣いていた。口惜しいが、これが限界だ。俺が女性と関わっていられるのは、この距離がぎりぎりの線だ。健全な男であれば股間が爆発するが、俺は胃腸が炸裂する。その証拠に、右腕には針で刺されたが如き痛みと痺れが色濃く残っていた。
「こちらこそ、クラプトン様」
「……ちょっと堅苦しいのは苦手な性質なんだ」
「それでは、ヒルバート様とお呼びしても?」
敬称付きは修正されなかったが、まあ良しとした。悪い気はしない。きっと向こうから慣れる時が来る。いつかヒルちゃんとでも呼んでくれると嬉しい。
さて、どうしたものか。歴戦の俺様とて、何の相談もなしに高い玩具を買ったのだ。親父様のお怒りを買うと分かっていて、それに対して覚悟も出来ていない内に連絡を寄越すのは御免だ。少しばかり時間が欲しかった。処刑前に一服やる様なものだ。結果は変わらないが、猶予を持たせたかった。そうして何を思ったか、ブリジットの姿を盗み見たのだ。素晴らしい、本当にこの子を自分の所有物として扱っていいものか。底知れぬ罪悪感が芽生えた。
だが、それよりも気に掛かる点にようやく気付いた。彼女の衣服はワンピースと靴、そして市場を去る時に渡された、個人の持ち物が入ったでかい皮鞄だけだった。夏とはいえ、これでは風邪を引きかねない。まだ七月にすら達していないし、イギリスはいつだって肌寒い気候なのだ。とりあえずはブリジットの服を買いに向かおうと考え、彼女の了解を取って席を立った。手持ちの金は三千ポンドと小銭が少々、何とかなるだろう。少なくとも服の一着がスイスの軍用銃ほどする道理はない筈だ。
階層案内を見て、エスカレーターで二階へ上がり、婦人服店の集中するフロアに到達した。ここで困った点が、また一つ生じる。俺は駐英イラン大使館が襲撃された際の対応は知っていても、女性の服の知識なぞ持ち合わせていないし、奴隷の服に至っては尚更に未開拓の領域というのが実情だった。さて、どうしましょうか。黙っていても誰かが回答を持ってきてくれる訳じゃない。適当にフロアを歩いて、それらしい店舗を発見し、そこの四十半ばと見られる女性店員を呼び止めた。
「この子の服を見繕っては貰えないかな」
四千ポンドで、と小さく付け加えると、店員はにこやかに俺達を会計付近に設置されたテーブルに案内した。どうやら俺が悩まなくとも済みそうだ。大切なお味噌の休暇である。
店員は店の奥の扉へと姿を消し、すぐに五センチはあるであろう分厚いファイルを手に戻ってきた。奴隷の服というだけで、あれ程のデータを必要とするのだ。現代の貴族階級は何をしているのだろう。仕事をしろ。
「こちらの娘さんは……えーと、メイドで?」
言い回しで変わるもんだな!俺は消極的な煮え切らない返事をした。
「それでしたら、何かご希望はございますか?」
「えー、あー、ありません、特に」
唐突に訊かれても、用意されていない答えは容易に出せない。こちとら迷彩服という一張羅で暮らしてきたのだ。お陰様で、一般人の言う普段着はこの有様だよ!ヴェストにちょっとは洒落っ気を分けて貰いたいところだ。運の悪い事に、この服装への無頓着が血の繋がらないショーンに遺伝してしまっているのは、実に嘆かわしい。そうしてしばらく考え込む振りを決め込んだ。お味噌は一日分の糖を消費して灰になっていた。ようやく絞り出した回答は、酷く情けないものだった。
「お任せって出来ます?」
「はい、勿論でございます」
よかった、本当によかった。助かった。他力本願・無責任。緊急事態には役に立つものだ。
「他に何かございますか?」
「さして……。ああ、下着や寝間着の方も見繕って下さい。靴もね。とにかく一式です」
「かしこまりました。ではお時間を戴きますが、よろしいですか?」
「構いません」
「承りました。では終わりましたら、店内アナウンスを致しますのでお名前を戴けますか?」
「クラプトンです」
「はい、クラプトン様ですね。では時間まで、どうぞ店内でお過ごし下さいませ」
「どうも」
そうして店員はブリジットと共に会計奥のドアへと消えていった。彼女は俺といない時を楽と感じているだろうか。それがまっとうな反応だと思っても、少々心が痛んだ。おじさん、繊細なんだ。それくらいは許してくれ。お前さんにとって快適な環境を作れる様に、俺も努力は惜しまないから。
店内で過ごせと言われても、このモールに特別な用はないし、さして欲しい物もない。そもそも、金がない。店員のコーディネートが終わるまで、案内されたテーブルで彼女の新しい服でも妄想する事にした。が、ジェローム君ほどの人間を辞めた想像力もないおつむでは早々に限界が見え始め、十分でテーブルを後にして、書店へと雑誌を探しに向かった。
書店は四階に位置しており、そこで特に何も考えずに雑誌のブースでミリタリーマガジンを立ち読みした。こんな時に限って、ろくな特集が組まれていない。時間を潰す必要に駆られているのに、運がそれを許さない。さぞや陰険な表情を浮かばせていたのだろう、俺を見かけた五歳ほどの少年が、背を向けて母親にしがみ付いた。餓鬼はすぐに嫌なものを忘れ去れるだろうがな、おじさんの心へのダメージも考えてくれ。
やがて俺の名が店内放送に響き渡り、退屈な時間の終了を告げられた。もう少し遅れていたら、発狂して政治家先生の奴隷制に関する素敵な御本を破り捨てていたに違いない。
エスカレーターを駆け下りて二階へと戻り、件の店舗の会計へ向かった後に、先程の店員に引き連れられてドアの奥へと誘導された。この先に俺が買った少女がいる。掌に粘っこい脂汗が滲んだ。何を案ずる事があろうか。あの容姿だ、大抵の服は着こなす筈だ。それに加え、プロフェッショナルの精選された技術があるのだ。俺がでたらめにパーツをくっ付けるより、ずっといい。
ドアを開くと、廊下もなしに様々な衣服と装飾品が詰め込まれた写真屋のセットの様な立方体状の部屋に直結していた。そしてそこにはカメラの代わりに、巨大なクリーム色のカーテンが室内を仕切っていた。
「ご自分で開きなさいますか?」
ここではそれが通例なのだろう、店員は返される返事を分かり切ったものとして問い掛けてきた。だから爽やかに答えた。
「いえ、開けて下さい」
チキン、ここに極まれり。笑えよ、その方が救われる。苦笑混じりで店員が開いたカーテンがレールを走る摩擦音、それと共に開かれたヴェールの向こう、一人の少女がより洗練された魅力を纏っていた。華はないが、スカートが膝元まであるブラウンを基調とした上下に、純白で諸所にフリルをあしらった前掛けから成るエプロンドレス。砂色っぽい髪に映える飾らないホワイトブリム(メイドが装着する飾り気のないカチューシャ)、膝下近くまである黒い革の紐ブーツ。全てが彼女の魅力を引き出し、その持ち味を最大限まで際立たせていた。
「こちらでよろしいでしょうか?もしお気に召さないな点がございましたら、お取り替えしますが」
女店員が恭しく尋ねてくるが、そのしたり顔では何の返答を期待しているのか明け透け過ぎた。
「問題ないです。これで会計を」
そうとしか言えない完成度だ。文句の付け様がない。会計場所へ移動し、店員がレジスターのキーを叩いた。俺は三千ポンドを店員の手に直接渡し、釣りは取っておく様にと心付けをした。ちくしょう、何とも自信に満ちた表情をしていやがる。この仕事人め。手渡された領収書には、ネグリジェとかベビードールとかいう単語が置かれていたが、意識的に気を留めない事にした。妄想だけで白目を剥いて倒れそうだから。
「またのご利用をお待ちしております」
また来なきゃいかんのか!店舗を去る前にが女店員に小さく礼を言うのが聞こえた。
衣類の詰まったくそ重い紙袋が俺に渡されたのを、ブリジットが自分で持つと申し出たが、それを押し切って俺が持つのを決め込んだ。中身は絶対に見えない様になっているし、何より彼女の両手はでかい革鞄で塞がっている。俺しか持てるやつがいないというのが真実である。
そして今日一番の要件も終わったので、早々にモールを後にする決定を下した。疲れているんだよ、もう!
モールを出て足早に愛車へ戻り、ブリジットを助手席に案内して――慣れぬ手付きでドアまで開けて差し上げたんだぜ!――長い付き合いのハンドルにもたれ掛かったところで、でかいため息が漏れた。隣に可愛い女の子がいて、こんな馬鹿をするやつがいる?お前なんかに俺の気苦労が分かってたまるかと自責の念を跳ね除けて、ポケットから取り出したプライベート用の〈ノキア〉の携帯電話の電源を入れた。何てこった。この三日間、電源を切っていたせいで気付かなかったが、不在着信が二一件もあった。その殆どが親父で、ヴェストやショーンの名前もまばらに見られる。にわかには信じられないが、ジェロームのあんちくしょうの履歴まであった。今度、ピザの一つでも奢ってやるか。チーズだけが乗っているやつ。
親父の携帯電話に通話が繋がるまで数秒間が、酷く長く感じられた。このまま出てくれない方がいいのではないかと思い始めた矢先に、緊張の籠もった応答があった。らしくない。あんたは図々しいのが取り柄だったじゃないか。
「まあ、その……果たしましたよ」
まさか隣にいる子の聞こえる場所で「奴隷を買った」などと言える豪胆は持ち合わせておらず、茶を濁した。これだけ言えば、核心は伝わるだろう。
〈何だって?本当に買ったのか?〉
失敬な野郎だな。まるで尻尾を巻いて逃げ出すのを予想していたみたいに。否定はしないが。
「ああ、だから手短にしてくれ。これからどうすればいいんだ」
〈今は何処にいる〉
「首都」
〈子供の家出みたいな距離だな。まあいい。何時になってもいいから、うちに来い〉
さっさと帰って寝かせてくれる気はないらしい。ひでえよ、父ちゃん。あと『奴隷』は勘弁してくれ。俺はおざなりに返事を寄越して、電話を切った。
時刻は七時半を回り、既に外は陽が沈んでいた。飯と聞いて思い出したが、俺――ひょっとするとブリジットも、ずっと物を口に入れていないのだったか。車内に死にそうな胃の悲鳴が満ちた。どう反応していいのか当惑したのだろう、ブリジットが不安げに俺の腹を見つめていた。年中、腹を空かせて飯を買う金もない、そんな男の下で暮らさねばならないのか。大体はそんなところだろう。曲がりなりにも士官でよかった!
気管支炎を患っているのかと思われる始動音を響かせたBMWを走らせて、昼にも訪れたマクドナルドのドライブスルーでハンバーガーを見繕い、それを片手にハンドルを握り続けた。親父の家で食事が摂れると分かっていても、肉体が臨界点を突破している。
「悪いね、こんなので」
恐らくは結構な空腹に襲われていたとされるブリジットにハンバーガーを渡すと、ちっとも気にしていない風に受け取ってくれた。多分、凄まじくけち臭いやつだと思われている。そんなやつがマクドナルド様を「こんなの」と小馬鹿にする権利があると、本気で思っているのか?
俺が膝にパン屑をばら撒いて運転に勤しむ最中、可愛らしい仕草でハンバーガーに齧り付く風景に脇目をやっているせいで、事故を起こすのではないかと杞憂した。だって、それくらい強力なんだもの。別に女性自体にトラウマがあるんじゃない。女性が元となって心に傷を負っているのだから、純粋な性欲というものは確固とした存在を主張し続けている。だからこそ、精神に与えられる悪影響が尚更にややこしくなっている。近付いてしまえば、自己嫌悪から自身が壊れてしまうから。そして今はファストフードしか食わせてやれない事実が自己嫌悪に繋がっている。
運送トラックがまばらに走るM4自動車道に乗って、十分が過ぎていた。手を伸ばせば届くラジオも点けず、彼女との間には会話はなかった。まるでつい数分前の作戦で仲間が死んだ時みたいだ。誰も話を切り出そうとしないし、そうするのが一番だと知っている。今は違う。単に思考が行き違っているだけだ。片や不審な男に警戒を抱き、対して俺は過去の自身とどうして向き合えばいいのか困惑している。十万ポンドで責任を買ったのに、未だに思い切りが出来ていない。停滞している内は、まだ足踏みをする余裕がある。ケツに火を点けて退路を断つくらいはしないと、凍り付いた歴史は動かない。
「これから向かう場所だけど、今から三時間ほどで着くヘリフォードだ。俺の親父の家で晩飯を食って、それから俺の家に行く。質問はある?」
可能な限り語調を柔らかく、笑みを作って問い掛けた。バックミラーに『エルム街の悪夢』が上映されていた。
「その……出来れば尋ねてくれると助かる。話が下手くそなんだ」
ああ、目の当てられない惨状だ。これで三十路前だ。若さを言い訳にしていい時代はとうに過ぎ去っている。人生の年表には介入した紛争が刻まれているが、それを抜いたら白紙だ。サンドハースト時代に毎晩、下宿先へ帰る前に酒場でゲロを吐いたのを加えていいなら話は変わってくるが、そんなものは他のやつらだって同じだ。何も珍しくない。俺が他とちょっと違うのは、幼少の頃にパパにクリスマスプレゼントを貰わず、風邪を引いた時にママのオートミールを食わず、友達と家の庭にツリーハウスを作らず、学生をやっている間にセクシーな同級生と一つのベッドを使う代わりに、樹脂粘土とガムテープで物騒なびっくり箱を作っていただけなのに。
「では……一つお聞かせ願えますか?」
奴隷とか自分の意見がないのは別として、聞き分けがいい子は大好きだった。そういうやつは、きつい訓練も上手くこなす。
「一つだけだと、このドライブを終える前に君が退屈で死ぬかもな。少しでも気に掛かる点があれば、逐一訊いてくれるかな。命令じゃなくて、お願いとして」
言ってから、自分に反吐が出た。慣れない、くさい台詞をのたまうもんじゃない。ブリジットは混じりっ気のない微笑を作ってくれた。こんな状況下で本当に笑えるやつはいない。さっさと俺と寝て猫可愛がりされようとする思惑も臭わないから、まともに付き合える様になるのも一苦労だ。せめて何としてでも、彼女の俺に対する正体不明の関心を維持させなくてはならない。この車内で俺に課せられた最初の大仕事だ。走り出しでドジをやってみろ、走行中の自動車から飛び下りる羽目になるぞ。銃をバンバンやるだけが取り柄の男じゃないと、親父に目にもの見せてやれ。
「それでは……お仕事は何を?」
当然だ。これから自分が食い繋いでいけるかが、彼女にとっての最重要事項だ。特に、ケチャップまみれのハンバーガーを食わせる男に買われた場合は。
「うん、何と言うかな……。信じて貰えないだろうけど……SASなんだ。知ってるかな?そこで少尉をやってる」
「SAS?スペシャル・エア・サービスですか?」
食い付いたな!だが油断するなよ、お前のポカ一つで状況はひっくり返るんだ。
「そう、それ。俺達は単に連隊(ザ・レジメント)って呼んでる。馬鹿な男達が集まって、毎日人に向けて……銃を撃ってる」
おい馬鹿!人生のレールを外れたろくでなしと変わらないじゃないか!汗でハンドルを握る手が滑り始めた。
「いや、その……今のは語弊があった。違うんだ。ちゃんと対象は選んでる。警察の手に負えない悪いやつとか、首相を殺そうとする不届き者を追い払ったりするんだ。最近はアメリカの尻にくっ付いて、中東によく行く」
幼稚園児の作文じゃないんだ。上手くやらなくていいから、ぼろを出すな。全てが決まる第一印象だ。
「だから……ホモみたいに野郎ばかりでつるんで、全身を汗と火薬臭くして、夜にチップスとビールをやって馬鹿騒ぎする場所だよ。ドラッグは身体に悪いからやらない」
運転席側のドアロックを外した。鳥になる頃合いだ。傷は浅い内がいいし、躊躇う理由もない。後の始末は、親父が何とかしてくれるだろう。幸い、この車には『特別』な仕様が備わっているから、俺が飛び下りてもブリジットの身に危険はないだろう。前を走っている白の軽自動車をスクラップにするのは忍びないが、これも運命だ。シートベルトを外して、右目に不甲斐なさの涙が滲んだ時に、その判決が聞こえた。
笑っていた。年相応の、ちょっと控え目だけど、手を口にあてがって、確かに彼女は笑っていた。ロックが外れて逃げるシートベルトを捕まえて、再び装着した。バックミラーの俺は唖然と口を開けていて、何が起きているのかは理解しているのに、どうしてそうなったかを考えあぐねている様だった。ただ直感していたのは、俺が無罪を告げられたらしいという認め難い現実だ。
間抜け面を露呈している俺を見て、素敵な笑みは消え去った。自分への処遇が悪化したと察知し、彼女は小声で謝罪の言葉を紡いだ。馬鹿馬鹿しい。出来もしないくせに、何をお膳立てしようとしていたのだ。フェロモン放出装置のヴェストでもないのに。理解者を作らねばならない時に、自己を偽ってどうする。
「分かった分かった、下手な芝居は止めよう。その通りなんだ。動物園みたいな職場に行って、飼育係の教官にどやされて、ゲロよりも不味い餌を食べながら、雌ゴリラの娼婦を値踏みするんだ。ヤクをやらないのは本当さ。それ以上にアルコールが毒だからな。ああちくしょう、すっきりした!」
サイドミラーにこれでもかと爽快感を満喫する男が映っていた。仲間内でゲロを貪っている時に自然と浮かぶ、だらしない笑顔だ。
「信用してない?そうだろうね。でも現実は得てしてそんなに綺麗じゃないんだ。特殊部隊なんて、くその掃き溜めなんだよ。俺はそのくそが大好きなんだ」
ブリジットは呆気に取られていたが、次第に状況を把握してくれた。つまり、ちょっとくらいはなめ腐っても問題ない相手だと判断してくれたのだ。その口許に微笑が戻っていた。
「よし、次に行こう。何でも訊いてくれ、お国の機密に関わるの以外でな」
ここでようやくブリジットに笑みが戻り始めた。数時間前の取り繕った感じのものではない、それより少しだけ気を許した塩梅だ。これでも観察眼は常人よりは卓越している。
「ではその……ご家族は?」
「うちにはいない。兄弟……全部男だ。それが三人、どいつもうちから車で十分の場所に住んでる。親父が十五分の場所にいて、母親は……どうだろう、いたのかな。知らないんだ。孤児でね」
それだけで大体の事情を察して、ブリジットは母親については訊いてこなかった。その代わりに、俺は親父について述べる事にした。これから訪問する場所だし、俺以上の変人にいきなり会わせたら貧血を起こしかねない。
「どう説明すればいいのかな……とてもいい人には違いないんだけど、馬鹿野郎なんだ。事務に対して不真面目だし、腹が出てるし、日本の伝統的じゃない文化にかぶれている。兄弟と俺の上司で、皆彼を愛してる……。それで、二十以上も歳の離れた彼女がいる。ロシア人のニーナ。親父の秘書をやっていて、家ではメイド服を着せられてる。変態なんだ。もしかするとニーナも」
内容はどうでもよかった。車内を無音の空間に戻したくなかった。何よりブリジットは俺の拙い話を訊いてくれていたし、湧き出る泉よろしく質問をぶつけてくれた。信教、購読している雑誌・新聞、好きな映画、どうして車に変な装置が載せられているのか――これはアイルランドでIRAとの抗争が激しかった頃に、当時のSASが使っていた防弾装甲付きの改造車両の一台を俺が貰い受けたからで、変な装置はでかい通信機だ――他諸々。その全てに俺は滅茶苦茶に答えて、問題のなさそうな質問は、時たま彼女へ訊き返した。ただ、彼女は俺の過去には触れなかったし、俺も自身の弱点については語らなかった。それでも、暇な三時間は霧散させるには十分だった。年齢については、その二九という低さに呆然とされて、少し憂鬱になった。皮膚下へのヒアルロン酸注射を検討した方がいいかもしれない。
日付も変わりそうな時分、赤レンガで洒落っ気を演出している、二階建ての親父の家に到着した。もう少しでガス欠になるところだったので、内心穏やかではなかったが、これで防弾装甲の施された戦闘車輌を押して歩く心配もなくなった。帰り際に、親父にガソリンをちょっと分けて貰う事にしよう。
ノームのいない小さな庭を進んでインターホンを押し込み、返事を待った。少し酒が入っていると予想される親父のくぐもった声がスピーカーから流れ、俺は単調に応対した。すぐに玄関の鋼鉄製のドアが開かれ、清潔な白いシャツにビールの壜を片手にした親父が赤ら顔を見せた。その顔から、急速冷凍でも掛けられた様に朱が抜け落ちた。一悶着あるぞ。苦笑を浮かべて、腹を据えた。
俺達はブーツの泥をマットで落として家中へ迎え入れられ、暖かく『醤油』の芳香の漂うダイニングへ導かれた。その奥の広々としたキッチンでは、濃紺のエプロンドレスに身を包んだニーナが、表面上は嫌そうに鍋――げえっ、湯豆腐だ!――を火に掛けていた。が、そのベッド以外では冷酷な女王も、ふとこちらへ注意をやった瞬間に感情の欠落した顔になった。正確に述べれば、俺の三歩後ろを歩くブリジットを見てからだ。それから何もなかったと言わんばかりに、夜中に来るとはいい度胸だとか何とか俺に垂れて、再び鍋に目を落とした。傍目には冷静に見えても、あれでかなり当惑している。
慣れた手付きで親父はブリジットにニーナと自分の紹介をしながらテーブルの席に案内し、彼女はかなり緊張した具合でおっかなびっくり着席した。まさかビール腹のおっさんに、丁重なもてなしを受けるとは想像だにしていなかっただろう。そして親父は俺に含みのある笑みを放って、肩に手を乗せてきた。
「話がある。表へ出ろ」
ああ、やっぱりだ。俺は楽しみで仕方ないという感じの笑顔を返した。
玄関を抜けて庭に戻り、親父が口を開きかけたが、俺がそれを遮った。
「車がガス欠寸前なんだ。少し分けてくれ」
「それは俺の話が終わってからだ」
茶目っ気の片鱗も見せずに、親父が詰め寄ってきた。殴り掛かる気はないと見られるが、それは俺の返答でどうとも変わるだろう。
「単刀直入に訊こう、幾らだったんだ」
「誤魔化しが出来る空気じゃなさそうだな」
身振りで表さずとも、暗闇に光る灰色の双眸が物語っていた。現役を退くまでは、最強の特殊部隊の実働員として銃を握っていた男だ。それ相応の凄味が込められている。虹彩の筋の一つひとつに、殺気めいた意志が渦巻いていた。だからだろう、俺も反抗的にそれを以て応じた。
「十万だ。それから衣服に四千。加えて保険が諸々」
「十万?そりゃあ凄いな。で、あの奴隷か?」
「あんたはこれが俺にとって最後の機会だと言ったな。その通りだよ。俺はとうに歯車が錆び付いて、あとちょっと油が乾けばお終いだった。それで、俺に似た境遇の女を探させたんだ。違うか?」
親父が黙っていてくれたので、続けて自論を展開した。向こうが岩の砦を築く前に、基礎をにわか作りの破城槌でぶっ壊してやるしかない。
「あの場にいた子は全部見て回った。それで出した回答なんだ。あの子だけが他とは違った。外見はこの際は置いて、先天的な力が働いたんだ。あんたがいつも、まだ餓鬼だった俺達兄弟に言っていただろう。最後に勝るのは人生で積んだ経験からもたらされる勘だ。俺はその勘に従ったまでだ」
自分で吐いておきながら荒唐無稽な言い分であったが、元は口下手の親父に困惑の色が差した。慧眼なんぞなくとも、今日のツキは俺にある、畳み掛けるには今しかない。
「なあ、親父。頼むよ。いつおっ死ぬかも分からない特殊部隊なんかに入ってこんな事を言うのもどうかしてるとは思うけど、本心なんだ。失った分の人生を取り戻したいんだ。下らない過去に引きずられて絶望に落ちたくはないんだよ。純粋に生きる活力を見出したい。後腐れなんか、もう御免なんだ」
親父の両肩を掴み、手に力を込めた。前線から姿を消した親父だが、今でも酒場の飲んだくれとは比較にならない屈強な骨肉がある。説得に失敗すれば、これでどつかれる覚悟だ。あばらの三本は余裕で逝っちまうだろうが、それで済むなら軽いものだ。そうなったら、こっちも拳で語るだけだ。忘れられない、熱い夜にしてやる。親父が腕をだらりと脱力させた。
「お前、俺が一丁前に怒ると思ってるの?」
「違うのかよ」
不可解な行動に、眉根が寄る感覚があった。
「たまげたな。しかもとんでもない勘違いまでしていやがる。俺から見たら、お前なんかまだくそ餓鬼だ」
緊迫した表情を一瞬にして解き、親父はにへらと顔面の筋肉を崩した。刹那、足が刈り取られ、肩に下方への力を加えられて、顔面から青い芝生に伏していた。頭上では近所迷惑もはばからずに親父が哄笑している。
「言ったじゃないか、足りなければローンを組めと!お前はその通りにした!しかしまあ、とんでもないのを買ってきたな!」
憂慮していた自分が何だったのかと、冷たい濡れた土の味を噛み締めながらに嘲った。端から無為な懸念だったのだ。彼が俺に課した主要な目標は奴隷の購入であり、安価なそれを持ち帰る事は指示に含まれていなかった。
親父様は地べたに這いつくばる息子を見下ろして、何とも楽しそうに呵呵大笑していらっしゃるが、これでは少々収まりが付かない。おつむの成長が十代やそこらで止まっている、近所迷惑もはばからずに馬鹿笑いしている親父の右足を掴んで引きずり倒し、そこから取っ組み合いになり、束の間の親子の触れ合いの時を送った。女も知らずに、野郎同士で何をしているのだろう。互いに衣服に付着した土を払い落としている最中に、子供同然の開放的な面を見せる親父に語り掛けた。
「あんたがどう言おうと、金は追々返していくよ」
「お前って何処までも素直じゃないね。『後押ししてくれてありがとうございます、お父様』の一言でいいのに。趣味に費やす分がなくなっちまうだろ?」
「借りを作り過ぎると面倒だからな。それと、奴隷なんて呼び方は止してくれ」
土を叩き終えて玄関ドアに手を掛けた俺に、親父がつまらなそうに苦笑した。
「もうちょっと親として見てくれてもいいんだぜ?拾った貸しなんざ、俺が好き好んでやった事だし、最初から考えない方がいいのによ」
歳を取って締まりのなくなった涙腺が緩みかけるのを見られぬ様、さっさと家の中へ戻った。気軽に触れたい話題でもないし、シルクのハンカチーフを片手に思い出話をしんみりと語る性質でもない。するにしても、握っているのは自分の鼻水でぐちゃぐちゃになったティッシュが似つかわしい。
手に付いた土を洗い流すのに洗面所の水道を使い、親父がその後で水飛沫を俺に向けて放ってくるのを無視して――おい、楽しいか?――ダイニングへ足を踏み入れると、ニーナがテーブルを挟んでブリジットと対話していた。俺達の存在を視界に入れると、はたと口をつぐんでしまい、席を立ってそそくさと鍋をガス台からテーブルに運んだ。ええ、お邪魔しましたよ、すみませんね。
常より見せる、ぶすっとした態度のニーナの隣の席に親父が座し、その向かいにブリジットが座った。俺はブリジットの隣、そして親父の向かいに座った。ニーナと向かい合いになったら、その綺麗な御顔で嫌味たらしい微笑みを、食事中ずっと向けてきたのだろうか。何せ、女を金で買ったのだ。最近はイギリスも奴隷制への反対意見や、それに伴う運動が活発化している。同性の目からは尚更に印象が悪い。どうせ考えてもろくな事にならないので、食事に専念しようとしたが、何しろ相手は湯豆腐だ。気が紛れるどころか両肩に重りを乗せられた気分に陥った。湯豆腐、大好きです。うーん、暗示も効果がない。
目慣れぬ異国の料理へ手を付けるのに躊躇いを見せるブリジットに、ニーナは基地で野郎に対して使うのとは明らかに別種の、親近感の持てる対応を取ってくれた。俺に対しては、湯豆腐をよそってくれるのかと思えば、緻密に切り揃えられた白い立方体を、漆塗りの椀の中でわざわざ潰してから寄越してきた。挙句、それを俺に差し向けてきた際には、素晴らしく陰湿な微笑を浮かべて「空爆後のイラクみたいね」などとほざいた。崩されたのは豆腐ではない。俺の純潔な心だ。可愛そうな俺!湯豆腐を慣れぬ箸で掻き込み、舌に火傷を負いつつ終えた食事は、緊張したものであった。如何なる会話を交わしていたかは憶えていなかったが――どうせ俺が虐められていたのだろう――ブリジットが目に見えて不快を露呈させていなかったのは僥倖とさえ思える。
醤油臭くなった腹を撫で下ろしつつ、日付が変わってから既に一時が過ぎた腕時計を見やって食卓を立つと、ブリジットはニーナがテーブルを片付けるのを手伝おうとしたが、ニーナ並びに親父がそれを抑えた。あんたは客人です、そう言わんばかりに。その意思が正しく伝わったのか、ブリジットは申し訳なさげに謝礼を述べ、俺と親父の後ろに着いて家を出た。彼らの態度はまるで彼女ではなく、俺に気を遣っている様だった。
親父が〈シュアファイア〉の強過ぎるフラッシュライトで俺の手許を照らす庭、ポリタンクからガソリンを漏斗越しにBMWへ注ぎ込む俺の姿を、ブリジットは指を絡ませて心配そうに眺めていた。奴隷として買われた自分が、そうして何も手を貸さないままでいいのか。こちらの目から、ノイローゼになるのではないかと懸念を抱く程に。段々と重量を失っていくポリタンクから流れるガソリンが奏でる音色が、自分の身体から空気が抜ける音に聴こえる気がした。疲労感が背中を駆け抜けて、目蓋に溜まっていく錯覚に襲われたが、ポリタンクが空になった弾みで現実に戻れた。食事中に親父からエールを勧められたが、断っておいて正解だった。居眠り運転で死ぬ運命を辿るのはいけない。
顔面神経が弛みそうになるのを抑えて車に乗り込んだ時に、親父が「燃料代のちゅー」などと左の頬を突き出し、気色の悪い伝票を口伝してきたので「さっさとくたばれ」とお休みを言って、イグニッションを回した。エンジンは爆弾でも仕掛けられていたのか、破裂音と共に始動した。ぼろっちい機械の喘息のせいで殆ど掻き消されてしまったが、車が走り出す間際に親父が、いつでも頼れと囁き掛けていた。
酒場から追い出されてしまったはいいが、帰り道さえも思い出せぬままに娼婦からも相手にされずに彷徨う酔っ払い――うわ、うちの隊のブランドンがゲロしてる!――を轢き殺さない様、細心の注意を払って重い車のハンドルを切って十五分。ようやく到着した我が家を前にして、少しは疲労が癒えるものかと勝手に予見していたのだが、どうやらそうでもないらしい。むしろ来たる巨大な気苦労が、ここにきてその氷山の一角を垣間見せたのだろう。
漆喰が綺麗に整えられ、防犯体制も強固に配備されたオフホワイト色のマイホームは、素晴らしい休憩所の顔を見せてはくれず、あたかも悪名高きアウシュビッツ強制収容所の如く立ち塞がった。芝生の敷かれた何も置かれていない小さな庭――その実、赤外線センサーが不可視のレーザーをびゅんびゅん出してる――を抜け、分厚い金属性のドアを抜けてしまえば、ブリジットにとっては外部との接触を断たれた牢獄、俺からすれば揮発性の劇薬と一緒に暮らすガス室だ。彼女は小さな身体に内包した神経を擦り減らす日々を送るかもしれないが、それを少しでも阻止、あわよくば良好な関係を築くのが、大金まで出して買った俺のお仕事だ。その為には、先に俺がガスで中毒を発症しないという前提が必要になる。この中毒症状は凄まじく危険だ。目の前の女を、相手の了解なしに押し倒して犯し、直後に自己嫌悪で自ずから頸部をナイフで切開するという、厄介極まりないやつだ。ブリジットの裸体は妄想が叶わなくとも、中々どうして自分がキッチンで包丁を片手に、うつ伏せで血の海に沈んでいる痴態が容易に想像出来るのが辛かった。
灰色の重厚なドアの前で、鞄から家の鍵を取り出だし、油が切れてきている鍵穴に挿入して回し、ブリジットを中へと誘導して、俺はその後から帰宅した。玄関に敷いたマットで泥を落としながらに、無理矢理で作った平常心を崩すまいと顔を掌で拭った。調教施設に入れられていた頃は、もしかすると気心の知れたルームメイトなり、それに準じた存在がいたかもしれない。この家は違う。二台の監視カメラと赤外線センサーが、今までの俺にはごろつきを撃退する最強の戦術装備であったが、この物々しい構造物さえもが彼女のストレスに直結する可能性が否めない。何処の馬の骨とも分からぬ男の臭いが染み付いた部屋は、生理的な忌避感を呼び起こす。おまけに睡眠という、人間の行動でこれ以上になく無防備な姿を晒すのだ。精神疾患をその身に受けても不思議ではない。改めて整理すると、とんでもなく敏感な爆弾を抱え込んでしまった。何だか数キロの重石が両肩に乗っている気がする。このたった数キロが、どうしようもなく重たい。
玄関ドアの鍵を締めてからというもの、かなり緊張した面持ちに変わってしまったブリジットに家の中を案内したが、果たして一度で暗記し切れたかは知る由もなかった。別段、彼女が悪い訳ではない。くそ五月蝿い奴隷販売の会場から移され、着せ替え人形にされると今度は三時間の豚箱、仕上げは変人のお仲間ふたりを交えた異文化交流もどきに襲われて疲弊し切っているに違いない。何より、一人暮らしにこの家は広過ぎた。家中にアイボリーのカーペットが敷き詰められ、一階はキッチンと仕切られていないリビングダイニングが大部分を占め、決して小さくない浴室と脱衣所、少し清掃の不足が目立つトイレが敷き詰められている。これだけでも六十平方メーターを超しているのに、二階と地下を備えていると来たものだ。二階への階段下には収納スペースが大きく取られ、寝室が三つ取られている二階へ通じている。その内の一部屋は作業台が部屋の中央に鎮座した、大量の銃の保管部屋であり、銃の所持に五月蝿いこの国の警察に見付かれば楽しくない事になる。主寝室に利用している部屋は飾り気があり、これまでの遠征や作戦で撮影した記念写真が何枚も壁に掛かっている。ベッドの下には、緊急時にそれだけ持てば三日は生き延びられる装備を詰めたベルゲン(フレーム入り背嚢)と、HK53カービン(ライフルを短銃身化した銃)を横たえている。就寝前にはいつだって、仕事とは別に自前で購入したシグザウアーのP226――こいつは国の許可を得て買った――を枕元に控えさせている。ちなみに、名前はボリスだ。石壁で囲まれた地下には、イギリスの冬に欠かせないセントラル・ヒーティング・ユニット(これのせいで、イギリスはストーブ、ファンヒーターの普及率がほぼゼロである)を始めとした機材を動かすボイラーと、除湿剤を満載した鍵付きの戸棚が積まれている。その中には各種弾薬がたんまりと詰め込まれている。こんなに物騒な家に、か弱い少女を連れ込んでしまった僕の罪状はどうなるんでしょうね。死んだら地獄暮らしは免れないだろうよ。
一つしかないシングルベッドのシーツと枕を替えて、ひとまずはブリジットの寝床をこさえた。彼女はそれを良しとしなかったが、俺が下のソファという名のベッドで寝ると意地を通して説き伏せた。声を荒げない様にと、慣れない配慮したせいで全身の皮膚がべろんと剥けて床に落ちそうだった。他には、家で銃やナイフといった危険物には可能な限り触れない様に注意を呼び掛け、ベッド脇の抽斗からフルに弾薬を装填したP226を手早く回収して一階へ下りた。手にした黒い機械の正体を知って恐怖の一つでも表すかと思ったが、彼女は銃そのものが何かを壊す見境なしではないという真相を心得ているらしかった。その分の警戒までもが、俺個人へと向けられる訳だ。暇しなくていいじゃないか、ちくしょう。
気付けば時刻は一時を更に半時過ぎていた。ブリジットの目許にも弛みが出来ており、明らかに疲れが見えていた。俺はもっと凄惨に違いない。彼女にタオルとバスローブの場所を教え、就寝前にシャワーを浴びる様に勧めると、僅かに目を伏せて頷き、先程に教えた浴室へと通じる廊下に過たずに向かった。その背中が廊下とダイニングを隔てる木製ドアで見えなくなると、足許がおぼつかなくなり、ダイニングのソファに脇腹から沈み込んだ。よくやったよ、ヒルバート。人殺ししか能のないお前にしては上出来だ。軍用銃と違って、あの子は繊細過ぎる。気を遣わない訳がない。今にも合わさりそうな目蓋をこじ開けて起き上がると、何とかして今日の分の英気を養わねばならないと、キッチンへグラスと常温のスタウトビールの瓶を持ってソファへ戻り、すぐ目の前のガラステーブルにそっと置いた。ソファに転がっていたリモコンで、向かいの壁際に置かれた四十インチのプラズマテレビを点けつつ、ぬるいスタウトを注ぐ。グレア加工の施された液晶画面にBBCが映り、イラクでイギリス陸軍兵士が奔走していた。すぐにぶっ壊れるSA80(英陸軍制式ライフル。L85A2)を両手にご苦労な事だ。彼らが最前線でしゃかりきになってくれるお陰で、数で圧倒的に劣る我々、特殊部隊が仕事を遂行出来る。我々が彼らより優れている点は幾つも挙げられるが、それの運用が叶うのは彼らが固めた地盤ありきの話だ。特殊部隊が特殊でいられるのは、通常軍の働きが特殊ではないと捉えられているというだけの事なのだ。こうしてグラスを一飲みで干しながら考えるべきではないのが確実だし、誰かに聞かせる義務もない、単なる自己満足だが。
SA80の発砲音がけたたましく発せられるテレビをぼんやりと見つめつつ、疲労だけで酔っていないから余計な馬鹿ばかりに想像を働かせるのだと自分を納得させんとした。二杯目のスタウトを注いで一口やると、今度は食道の粘膜をじわりとアルコールが焼いていく感触を愉しめた。酒は快楽を味わってやらねばならない。それが本来の使い方だ。そんなねえ、嫌なことを忘れる為とか理由を付けて廃人まっしぐらとか、大人のやるこっちゃないでしょ。二杯目を早くも空けている俺が言えた台詞じゃあないけどさ。
三杯目をちびちびやって、下目蓋に緊張がなくなった時分だった。浴室の扉が開かれ、脱衣所へ移動する小さな足音が聴こえた。不味い、童貞には強過ぎる刺激だ。反射的に足を組んで股間を隠した。疲労と酔いが一時的に何処かへ雲隠れし、顔面神経に緊張が戻ってきた。自分を偽るのを止めたのではなかったのか。叱責する自分を、段階が大事だからと甘やかす自分がいた。冷静になってみると、どちらが自身に無理を強いているのか分からなかった。瓶に僅かに残っているスタウトで四杯目を注いで口付けたところで、後方のドアが開いた。片目でそちらを見やると、予想通り、毛足の立った濃紺のバスローブを身に纏ったブリジットが立っていた。着用しているのが俺のバスローブなので、床に触れるぎりぎりで生地の端が揺れている。湯浴み後にブーツは蒸れるので、買い置きの砂色のルームシューズを履いている。肌は上気して赤みを増し、濡れて常より艶を帯びた髪からは女性特有の芳香が漂っている。磨き抜かれた我が身の嗅覚が恨めしかった。鉄の手錠を掛けてテーブルの脚に拘束しようとも、片手で引き千切って欲望のままに飛び掛かりそうだ。そんな風に出来もしない空論を内心で笑い飛ばしていたのがいけなかったのか。自分から彼女を毒牙に掛けてしまうのを恐れていた余りに、もう一つの可能性を失念していた。最後のスタウトを口に含んだ時に、事故が起こった。ブリジットの細い指が、バスローブの紐に掛けられたのだ。触れたのではなく、結び目を紐解く為に。スタウトが口から吹き出し、気道に流れ込んだ。一部は鼻腔から逆流し、胸と腹と膝を汚し、あとはガラステーブルにまで飛翔して白く泡立っていた。自爆してむせ返る俺を視界に入れてしまったせいで、ブリジットはその場に硬直していた。目前で何が起こったのか、まるで分からない。自分の見ている前で、狙撃でもあったかの様に。どちらかと言えば、今回のは爆弾と呼べるものだろう。肺と気管が悲鳴を上げていたが、疲労とアルコールの回った脳味噌は自分が思ってもみない程に冷静に、原因の究明を成し遂げた。買った性奴隷を、その日の内に犯さないやつはいない。鼻から滴る黄金を手の甲で拭い、紐に手を掛けたままのブリジットに向き直った。通しておかなければならない話がある。
「あのな、まずは紐から手を放そう。それから、君がこれから俺にどうされるか考えた結果、その様な行動に転じた――それもまあ正しいと言えばそうだ。だけどね、俺にはそんなつもりは毛頭としてないんだよ。それだけは分かって欲しい。俺とその……寝ない事で君を戸外へほっぽり出すなんて薄情はしないし、そもそも俺は君をダッチワイフとして買った訳じゃない」
途中で何度か咳き込んだが、身振りを交えて空気が剣呑にならない様にと、精一杯に主旨を伝えてやった。だが、これで上手く乗り切れるのなら、そいつはヴェストになれる。服の裾が翻れば淀んだ空気がオーシャンブルーに変わり、視線が合えば女は悶死する極上の色男だ。数秒の沈黙が室内を満たし、やがて小さな嗚咽が裂け目を生んだ。
「じゃあ……どうして私を買われたんですか……」
疑問というよりは、嘆きや苦心に近いものだった。俯いて口許を手で覆い、細かに震える小さな身体が余りにも儚く、俺自身は彼女にどういった言葉を掛けてやればいいのかも知らぬ欠陥品であった。奴隷として買われ、奴隷としての職務を遂行させて貰えない職場に監禁された。状況としては、この説明が最も似つかわしい。冷酷に接しられれば怒りの矛先を俺に向ける事も叶うが、それさえも許されない環境に放り込まれたのと同意義だ。もっと楽観的なやつであれば、働かずして飯にありつけると構えられたのだろうが、精神的な重圧と責任感から労働をせずにはいられない性質――自身が雇用主にとって、いつでも捨てられる存在であるという束縛から逃れられない、厄介な恐怖に付きまとわれている。可愛そうなやつだ。こいつも、それが理解出来てしまうせいでこれから苦労する誰かさんも。
顔を崩壊させてすすり泣くブリジットに、自然と歩みが向けられた。スタウトでべちょべちょの身であったが、この際はしょうがない。とうとう両手で顔を覆ってしまったブリジットの肩に手を置いた。その身が瞬間的に強張って嗚咽が弱まったが、またすぐに悲痛な、全てを曝け出せないでいる少女としての悲鳴が、謝罪の言葉と一緒に吐き出された。ここでこの子を殴れる強さを持つ俺なら、そもそもこんな風にはなっていない。鼓膜を破る声で叫ばれたら?最早どうでもよかった。やけになっていたのかもしれない。その華奢な腰に無骨な腕を回し、弱々しい肩をそっと抱き寄せた。気の強いやつが相手であれば、張り手や引っ掻きの一発くらいは覚悟していたが、ありがたい事に彼女は抵抗の一つも見せずに、胸の中で大人しくしてくれていた。都合のいい人質を取っているみたいで、この時は仕事をしている感じだった。
「別に、何かをさせる為に君を買った訳じゃあないさ。ただ……そういう事の相手に買ったんじゃない。まあ、信じられないだろうけどね」
彼女が返事を寄越さないのをいい事に、そのまま語を継いだ。
「とりあえず、ここでの生活に慣れるのには時間が掛かるだろうし、行き詰まったら相談するといい。俺を相手にってのが嫌なら、さっきの親父の連絡先を教えるけど」
ゆっくりと身体を離して向き合い、ぽんと頭に手を置いて優しく撫で付け、すぐさま後ろを向かせて軽く押した。俺の顔はかなり困った風だったに違いない。
「さて、もう午前の二時前です。子供は寝る時間だよ、さっさと寝た寝た」
理解が追い付かないないままの、涙で赤く腫れた顔が向けられたが、やがてほんの少しだけ緊張を緩めてみせてくれた。可愛い。そうして未だ微かに震えの混じる声で、儚げに問い掛けてきた。
「明日は何時にご起床の予定で?」
「七時くらいかな」
それだけ聞くと、ブリジットは深々と頭を下げて今度こそ本当に寝室へ向かった。その背中に、自分にだけ聴こえる微妙な声量で語り掛けた。人間なんかに、強いやつなんざいない。
ブリジットが階段を上がり切るのを聞いてから、散ったスタウトの後始末を済ませ、シャワーで汗を流し、うだつの上がらない寝間着を纏ってソファに寝そべった。テーブルには弾倉を挿入したシグが置かれている。起きてからも波乱が起きるだろう。仕事もあるし、気苦労の絶えない日々が始まるのは目に見えている。それでも、何処かでそんな骨折りを期待している馬鹿たれを己が身に内包しているのも否定出来なかった。涙を流す彼女とは真反対に、にやけた口許を隠せなかった。
ただ、寝入る直前まで困ったのが、ブリジットの柔らかい肢体に触れてしまった記憶が童貞の脳の皺に刻み込まれ、眠りを欲している身体を休ませてくれなかった点だ。俺の敵はこれから、凶悪犯罪者と自らのトラウマ、そして打倒し難い性欲という魔物になるのだろう。辛苦には他ならないが、それこそが失った人生なのだろう。薄い布団を頭まで被ると、次第に意識が遠のいた。