【10】
周囲はただ、暗い闇に包まれていた。そこに加えてコールタールの様な、周りより更に黒く、ねっとりとした大きな粘菌状の物体が近付いてくる。アメーバであれば仮足と呼んだか、海洋生物の触手と見紛う腕が、俺の手にした銃へと伸びてくる。光沢を消した黒色に、年季の入った木製グリップがはめ込まれた、ブローニングのハイパワーだ。重さからして、一三発の九ミリ弾を装填可能な弾倉には十分な量の弾薬が込められていた。前に使ってから相当に時間が経っていたが、この銃もSASの訓練では当然として使用される。つまり、この銃に見覚えはないが、手には馴染んでいる。スライドを引いて初弾を送り、照準をコールタールに定めた。距離にして五メーターもないし、SASで散々拳銃の訓練を積んだ身だ。こんなところで外したら廃業だ。思わず鼻で笑ったが、それが手許を狂わせる要因にはならなかった。発射薬の炸裂が三つ、手許で轟音を上げて火を吹く。閉鎖的な空間だと勝手に想定していたのだが、どうやら存外に広かったらしく、反響した発砲音が鼓膜を痛め付ける事はなかった。発砲炎も同様で、少しも自分の周りを埋める闇を照らさずに一瞬で飲み込まれてしまった。
目が暗闇に慣れている訳でもないが、不思議と自分が放った弾丸がコールタールに作った射入孔は、明瞭に確認が取れた。三つの点が小さな逆三角形をかたどったそれらは、次第にその近辺に色を浮かばせた。――赤黒。弾丸が空けた各々の小さな孔から、同じ色の滴が筋を伴って垂れた。本能的に、嫌悪感が心臓を握り締めるのを自覚した。この流れは不味い。また、あの恐怖と後悔が身を苛む。鼻筋を脂汗が流れた瞬間には、もう遅かった。俺に向けて伸ばされていた触手が瞬く間に腕を絡め取り、手首の関節を強かに捻り上げられた。ブローニングが重い音を残して地に落ちる。封じられていない左手で銃を拾い上げようとしたが、既にどうにもならなかった。
俺が空けた穴の周辺の粘着質が盛り上がり、次第に形を成していった。色も粘りを含んだ黒ではなく、青ざめた肌色へと変じていく。穴が二つと一つに分かれて左右に寄せられる。背筋が冷たく凍り付いた。人間の顔だ。それも、対面したのは一度とはいえど知っている顔だった。右の顔は五歳くらいの男児、左はその母親だ。そいつらの死に濁った瞳から逃げ出し、目を瞑るべきだった。黒い触手が俺の首に巻き付き、肉を引き千切らんばかりの力で締め付けた。左手でそれを引き剥がそうとしたが、指が粘着質の軟体を持つ触手に沈み込んで抜けなくなった。二つの顔は嘲笑や悲哀、憤怒ではなく、血の気のない顔色で俺を恐怖の対象と見つめている。忘れもしない、絶えず細動する二組の双眸が気味悪く、肌が粟立った。慄然から逃れられず、呼吸困難で眼球が飛び出すのを悟った。脂汗が眼球に流れ込み、口から泡立った唾液が零れる。首の骨までが軋み始め、死が手の届く場所にまで迫っていた。
俺は悪くなかった。あそこに偶然にも居合わせたお前らに非があった。死んだらそこで終わりだ。人生をやり通す力を持たない弱者が死ぬべきだ。たった一つの命も守り切れないやつに、今更になって祟り殺されるいわれはない。謝ってたまるか。生き延びる為ではなく、二つの怨霊をもう一度殺す為に、がむしゃらに取り落とした銃を足で探った。何処にもない。視界が朦朧と霞んだその時、骨が砕け散るのを知覚した。
【11】
目蓋を開いた先に、血管の浮き出た自分の腕が伸ばされていた。耳障りで不規則な動悸が五月蝿く、起き抜けの思考を掻き乱した。汗で身体に張り付いた下着と寝間着が不快で、顔には異臭を放つ汗が滝を作っている。天井の方を見上げると、我が家では見慣れぬ出来過ぎた女中がいた。ランタンスリーブ(提灯袖)ではない黒色のドレスに純白のエプロン、飾らないカフスとホワイトブリム。お名前はブリジット。昨晩からうちのメイドになった女の子だ。よかった、こいつは現実だ。この上なく浮世離れした現実だ。そして、いい事ばかりでもないらしい。
ブリジットは多分に怯えを孕んだ様子で、腰の引けた体勢で俺を見下ろしていた。その細い指で、胸の前に俺のシグを抱いて。見返すと、俺の腕が伸びていたのは就寝前にシグを置いた筈のガラステーブルだった。そのまま銃がテーブルに残っていたら、今頃はどうなっていたか。想像だにおぞましい。寝起きの面というのは余程の美人や色男でない限り醜く、見る者全てを魅了する素敵な欠陥を持つ俺も例外ではない。まして、酷くうなされた後のそれだ。もう言い訳の一つ二つで切り抜けられる事態ではない。もしテーブル上にシグが置かれたままで、悪夢に囚われていた俺が手にしてしまっていたら。初弾は薬室に送られてはいなかった。だが、何が起こっていたかは定かでない。ひょっとすると、ブリジットに取り返しの付かない傷をこさえてしまう可能性さえあった。
依然としてブリジットはシグを胸に抱いて俺に警戒を寄せ、銃の持ち主に如何様な言葉を掛けようかと躊躇っていた。彼女が血相を変え、奇声を張り上げて混乱に身を任せる子でないのを、祈る神もいなかったので、とりあえずは親父に感謝した。内心で失態を嘆いて脂汗を袖で拭う俺へ、狼狽するブリジットから掛けられた最初の言葉がそれであった。
「すみません、私そんなつもりじゃ……その、うなされていて……!」
そんなつもりがどういった内容であろうと、彼女を責める権利は俺にはない。大方、俺の寝首を掻くのが失敗したとでも映っているとか何とか誤解しているのだろう。可愛そうなやつ。掌の水分を寝間着の裾で吸わせ、そっとその頭を撫でてやると、大御所のロシアマフィアに触れられたかの如く身を竦ませた。それも数秒を経ると僅かに警戒を解いて、微震も収まった。空いている方の手でシグを彼女の手から抜き取ると、再び緊張が走って涙目になった。虐める腹づもりはないのだが、如何せん手にした玩具がいけない。手早く弾倉を抜いて薬室の安全確認を取り、大分軽くなったシグをブリジットに手渡した。彼女は俺の突飛な行動にどう対処すべきか考えあぐねた結果、意図せぬ上目遣いで返答を求めた。
「悪かった。今度またこういう事態があると不味いし、しばらく預かっておいてくれる?その方が助かる」
昨晩、銃にみだりに触れるなと言っておきながら、何たる言い草だと自分でも苦笑した。のっけからやらかしてくれたよ、お前ってやつは。どうやら殺されるのではないと理解したブリジットは、大人しくシグをおっかなびっくり受け取り、スカートのポケットに収めた。俺は俺で職場に行ける恰好ではなかったので、重い足を引きずって浴室へと這っていった。その際、一度振り返った時のブリジットの表情が、恐怖から哀れみを含んだものへと移り変わっていた。
シャワーの湯が肌を焼くのが生の実感に縋る様で、矮小な自身が際立って感ぜられた。傷跡の一つひとつが自らの生き字引だと暗示を掛けてきたのに、今やそのご大層な史跡は汚名の返上さえままならない。ブリジットとの間に元より信頼などありはしなかったが、どん底からやらねばならないのは彼女と俺の双方に不利益だ。これは一種のビジネスだ。一定の信頼関係を築き、円満とは呼べずともある種の共生関係を構成する。奴隷は――メイドにしよう――雇用主に依存する運命だから、いやがおうにも俺に付き従わなければならない。俺としても、十万ポンドは死ぬほど手痛い出費であるから、どうにかして元は取りたい。そうなるとこちらも彼女にのうのうとただ飯を食らわせる訳にもいかなくなる。ちょっとくらいは雑務の手伝いを担って貰う必要が生まれてくる。それも、枕営業を抜いた分野で。そいつは無理に等しいのではないか。だって、あの細腕で他に何の仕事をやらせろと?
そしてマイナス方向に傾く期待は裏切られる。陰鬱に染まって浴室を退出し、金を掛けていないのがあけすけの垢抜けない衣服を纏ってダイニングに戻ると、異常な光景が視界を満たした。贅沢は言わない。ただ、数枚のトーストと硬いベーコンに、二つくらいの目玉焼きでもあれば朝食には事欠かないと、一人暮らしを始めてから十年以上も思い込んでいた。イギリス流の朝食は毎日たっぷり。不得手と手間を理由にその常識から目を背け続け、サンドハースト時代は食堂に入り浸り、SASに入ってからは不味くてべとべとしたロールケーキを胃に詰め込む事で昼を乗り切っていた。夜は言わずもがな、酒場浸りだ。
それで、眼前のテーブルのこれはどういった変わり様か。トーストにはガーリックバターが塗られ、中央に置かれた大皿には大量のジャーマンポテトが鎮座している。彩り豊かなサラダが綺麗に盛り付けられ、ご親切にマグカップは口を下にひっくり返されている。目玉焼きの姿はなかったが、代わりに形の整ったポーチドエッグが、取り皿の上にこじんまりと座り込んでいる。瞬時にテロリストと人質とを見分けられる俺様が、プロボクサーのパンチに脳を揺さぶられたみたいに、思考が職務を放棄していた。頭の中に住んでいる、数人の小さな俺が指令の俺を叩き起こしたところで、ようやく現状を説明するのに適した回答を得られた。うちに料理が出来るメイドさんがやってきたぞ!
キッチンでは、朝食を独力で作り上げた張本人が、陶器のポットに紅茶を用意している。昨晩は疲労が溜まっていたとはいえ、俺の寝ているすぐ傍で大した音も立てずにあれらの料理群をこしらえたのだ。畏怖をも覚える手際に、生唾を隠せなかった。こいつ、出来る。唯一の不満は、取り皿が一枚しか配られていないという、彼女の卑屈さであった。
「どうも皿が足りない様だけど?」
ブリジットは目を丸くした。無言で己が均整の取れた美貌を指差し、衝撃ですと言わんばかりに彼女は俺を見返し、歯痒い程に緩慢な動作で食卓を指した。それ以外に何があるんだい。至極当然と頷いてやると、ばつが悪いという風に俯いてしまった。予期せず虐めているみたいだが、両者の立場を対等に近付けないと、俺の主眼が達成されない。これはエゴではなく、双方にとって利得のある取引なのだ。説得力は皆無だが、とかく自分の言い訳っぽい逃げ腰を抑えてやる義務があった。ヒルちゃんの内側には、保守派と漸進派が同棲しているのを認めざるを得ない。
二枚目の皿を用意させて食卓に二人して着くと、やはりきまり悪さから煮え切らない様子であった。じきに慣れる。そう言い聞かせていた対象は、自分だったのかもしれない。どうやら食前の祈祷の習慣はないらしく、こちらとしてもやり易かった。料理は何れも美味を極めたもので――味がある!――そこそこ高級な店で出しても遜色のない腕だった。それを素直に褒めると――この時は自分が気色悪くて仕方なかった――少しばかり気恥ずかしげに目を細めてくれた。いかん、恋に落ちそう。こんなので勝手に騙されるから、男ってやつは救い様がないんだ。
数年振りにイギリス人としてのまともな朝食を終えると、無駄のない慣れた手付きでブリジットは食器の片付けに取り掛かった。俺が手伝おうとすると、恐れ多いと断られてしまった。無理強いするのもよくないかしらと、そこで退いたが、手持ち無沙汰なのも居心地が悪かったので、メモ用紙にペンで文字を書き殴った。親父と俺の携帯電話の番号、デスクトップとラップトップ両方のロックを解除するパスワード、現住所、そして「何かあったら連絡してくれ」と記した用紙に、小遣いを含めた生活費として五十ポンドを添えて彼女に渡した。彼女はかなり躊躇ってから受け取ると、俺の行動が気掛かりでどうしようもないというのが、ありありと実感させられる笑顔を向けた。来たばかりで食料品店の場所も知らないだろうから、今度の休みにでも連れて行くのがよかろう。今朝の失点の回復に。
鞄を抱えて、玄関でルームシューズから履くのに時間が掛かるブーツに足を突っ込んだところで、ブリジットがぱたぱたとカーペットを踏み鳴らして駆けてきた。その手には膨れたパトロン紙の袋が抱えられている。袋は俺にこう語り掛けてきた。「俺は弁当だ」そうか、お前は弁当か。お前の母親は誰だ?そうか、分かったぞ。不安にまみれた顔で、ブリジットは紙袋を差し出してきた。
「殆ど朝の余り物ですけど、ご迷惑でなければお昼にどうぞ」
あれだけの御膳を受けさせておいて、ご迷惑もへったくれもないだろうと密かに苦笑したが、この実に遠慮っぽいのが彼女なのだろうかと疑問を抱いた。この子の本質を知れる日がいつか来るかも知れたものではないが、今は地道に親交を積むしかない。なあに、彼女の孤独に由来する心痛に比べれば、俺の神経がちょっと目の鋭いおろし金で血だらけになるのなんざ、二二口径の拳銃弾を腹に喰らう様なもんだ。運が良ければ病院送りで間に合うし、悪ければ死んじゃうだけだ。何の問題もない。段々と錯乱してきたので、強張った笑みで礼を言って家を出た。朝から疲れているのは、歳のせいではないだろう。
毎度機嫌の悪いエンジンを吹かすBMWで走り出し、かなり弱ったサスペンションがもたらす揺れでケツを痛めた。不快感の原因はそれに止まらなかった。朝食は美味かったし、ブリジットの表情は堅苦しかったが、純粋に可愛かった。だが、例え彼女がこのヘリフォードで一番に愛らしい容姿を持っていようが、出逢って一日かどうかという相手に、意図せずとはいえど自分の傷口を晒してしまった愚行を赦せなかった。化粧でべたべたに固められた顔のメイドの脇を走り抜けた際、噛み締めた奥歯が音を立てて軋んだ。
幾つもの検問を通って自分の所属するCT(対テロリスト)チームの車庫に車を収め、食堂でたむろしている同僚に会うと幾らか気が休まった。ヴェストに至っては何も言わずに俺を抱き締めて背中を撫でてくれた程だ。大変だ、惚れそう。電話に出なかった件を謝罪し、教練軍曹と訓練についての打ち合わせを済ませると、各自に与えられた部屋で黒ずくめの戦闘服に着替えた。ヘリフォードに来て間もない者や、そもそも家を買わない連中はこのベッドと装備の詰まったベルゲンが転がっているだけの狭い部屋で寝泊まりする。この狭さから来る閉塞感が、俺を含む兄弟には耐えられなかった。各々が別個の経歴を持っているが、誰ひとりとして幼少期を暖炉のある広い家で過ごせた憶えはなかった。俺の場合は、ニッパーを片手に頑張っていた。時には鋭利な分厚いナイフを片手に、公僕の首を掻き切る罪業さえ積み重ねた。いつしかそうした異常な行動への罪の意識は薄れ、自己の保全にのみ気を配る様になっていた。だが、何も感じないではいられなかった。罪は肉やジャガイモとは違って、自然に胃の中で消化されない。本人の自覚なしに、長い期間を経て心とか頭の片隅なんかに堆積していく。そのまま死ねば、自身よりも大きく育った怪物と直面せずに済む。何かの拍子でそいつを隠している靄が晴れてしまえば、受け入れ難い現実と対面した衝撃で精神は急速に蝕まれる。それが実際に起こった。必死に目を背けていたのに、あいつらが堰を切ってしまった。何の因果だろうか、これが天罰かと恐怖で涙を流した。凍り付いたままでいてくれたらよかったのに、俺の心は温水でゆっくりとほだされる暇を与えられずに砕け散った。暑苦しい戦闘服に身を包み終わった時には、再び湿った気分になっていた。
部屋を出ようとした刹那に部屋のドアが開かれて、その奥から教練軍曹が顔を突き入れた。何かあったのかと尋ねようとすると、すぐに元の服に着替える様に命じられた。現役を退いて間もない三八歳の教練軍曹――名をアーロン・アンヴィルといい、数いる教官の中で突出して嫌われている――の浅黒い顔に、面白げな笑顔が浮かんでいた。それで事情を察し、俺は笑みを返して戦闘服を脱ぎ始めた。
基地本部から少し離れたキリングハウス前に、中隊の約半分が集められた。俺は装備を詰めたポリ袋と〈ヘッケラー&コッホ〉のMP5サブマシンガンを担いでその中へ混じった。今日の訓練に召喚されたのはその機動小隊と、兄弟も属する航空小隊だ。その殆どが黒色の物々しい戦闘服とSF12レスピレーター(ガスマスク)で肌の露出がなくなっているのに対して、四人一組の分隊長を務めている兄弟と俺は普段着のままであった。
キリングハウスは二階建ての建築で、中央を走る廊下の両脇に幾つもの小部屋が連なる内装になっている。標的としてドイツ人が描かれた木製の書き割りと、人質のそれが配置される。部屋の至る場所にカメラが設置されて隊の動きを観察出来る様になっている他、壁に特殊なゴムが貼り付けられて跳弾を防止している。室内は家具や内装が自在に変更可能で、一般的な住宅や大使館のそれ模す事で、現実に即した訓練が実現されている。アメリカ陸軍が抱えるデルタ・フォースの訓練施設『恐怖の館』のモデルにもなった、SASのシンボル的な存在だ。そんな場所で、兄弟揃って嫌な役目を押し付けられてしまった。即ち、人質役だ。
教練軍曹は普段着組の俺達の手首を麻紐で後ろ手にきつく縛り、キリングハウス内部に進入した。廊下を進んで間もない左手の部屋にヴェストが入り、床の中央に座り込む。そして教練軍曹がその頭に麻袋を被せた。その美形のお顔が隠れるまで、ヴェストは物怖じの欠片も見せずにへらへらしていた。俺には真似出来ない。生きているのが不思議なくらいに精神的に参っているくせに、この世界に対する未練があり過ぎる。別の部屋に監禁されたショーンとジェロームも同様で、どいつもでかい後悔は現世には残していないらしい。あいつらは子供も妻もいないから、納得する節がない訳でもなかったが、反して端の部屋に閉じ込められた俺は酷く塞いでいた。こんなところで死にたくない。部下を信用していない訳ではないが、ついこの間の訓練では人質の書き割りの頭部に六発も撃ち込んだやつがいた。素晴らしい腕だよ、お世辞抜きに。そして敵役の書き割りは、二枚が俺を挟む位置取りで立っていた。
連隊(SAS)は時として、書き割りを用いずに人命を賭けてまで隊員に人質を演じさせる。実戦で人質の救出に当たる場合、彼らは木の板よろしく黙って大人しく座っていてやくれない。だからこそ、連隊は可能な限り実戦に近い状況を作り出し、隊員にきつい訓練を課す。人質役も自分が捕虜になった際の心境や、すぐ傍を弾丸が掠めていく感覚を経験出来る。更には他の隊員に対しての信頼を醸成する事も可能である。
その筈なのだが、俺はこの役回りに辟易していた。丸腰の無力な存在になるのが不安でたまらない。部下の育成の為とはいえ、下手に死にそうな目に逢うのは遠慮したいものがあった。アーロン、頼むから代わってくれ。
誰が突入してくるのだろうか。まさか数部屋を制圧するのに、三十人はいる二個小隊の全員を突入させる無駄はないだろう。願わくば、手塩にかけた航空小隊の面々が投入されてくれ。機動小隊の連中に鉛弾を叩き込まれるのは勘弁して戴きたい。せめて同胞の弾で斃れたい。
首筋に冷や汗を生じたのと時を同じくして、遠方からドアが蹴り開けられるのが窺えた。隠密性ではなく、迅速で敵対勢力への威圧感を重視する突入法で、大量の破裂音が部屋の一つずつを蹂躙していった。短時間、敵を無力化するフラッシュ・バン(特殊閃光手榴弾)が炸裂して乾いた発砲音が響き渡り、麻袋を介した鼓膜を振動させる度に、心拍が不安定になった。間もなく肩が震え出し、寒気が身を包んだ。隊員の怒号が飛び交う距離が、秒刻みに縮んでいた。涙こそ滲まないものの、股間がじっとりと汗ばんで震えを隠せなくなった。唇をきつく噛み締めたが、それで自分を拘束している麻紐が解ける道理はない。殆ど平静を手放したのと同時に、俺がいる部屋のドアが跳ね開けられた。数人が室内に重厚なブーツで踏み込んでくる足音が迫ってくる。手を伸ばせば届く場所でフラッシュ・バンが轟音を立てて弾ける。聴覚を失いかける中で、けたたましい発砲音が続け様に発せられ、俺の座り込んでいるすぐ両脇で木片が砕け散るのが聞き取れた。恐怖が限界値を振り切った。叫びを上げて床に突っ伏したが、尿道と肛門が弛緩しなかったのは奇跡的だった。制圧完了との怒声と共に、誰とも知れぬ隊員が腋に腕を差し入れて強引に立たせ、引きずられる様にして部屋から移動させられた。長い廊下を半ば身を担がれる形で運ばれる最中も、俺は人語ならぬ何かを絶えず喚き散らしていた。
外まで連れ出され、麻紐と麻袋を外された時には、顎に多大な疲労感を抱えていた。戸外に吹く微風が汗にまみれた身体に厳しく、酷く冷え込んだ。暗く狭い地獄から無事に救い出されたのに、分厚い雲が陽光を遮っていた。
手首の縄の跡をさすって血流を正す兄弟の元に歩み寄り、幾つも積み重ねられたモニターに食い入る教練軍曹に、苦笑を隠せないままで今しがた為された突入の評価を仰いだ。
「最高だね。部屋を八つ回るのに、八人もいて二分掛かってる。お陰で人質は一人残らず死んじまっただろうな。殆どのやつはお利口だから、敵かどうかを識別するのに三秒も掛けてる。注意深いな。刑事になるにはいい。あとは、ヒル。お前のアドリブは最高だったよ。あの雄叫びで数人の動きが鈍くなったんだ」
「そりゃあどうも」
実に趣味の悪い笑みを満面に浮かべる教練軍曹に、精一杯の作り笑いを差し向けた。馬鹿野郎、演技じゃねえよ。俺の目尻がひくついたのを察したのか、ショーンが肩に腕を回してきた。
モニター群には、先程の突入を録画した動画が再生されている。黒ずくめの連中がネズミみたいに駆けずり回り、ドアを片っ端から蹴り開けたり、ショットガンでヒンジを破壊したりと、やりたい放題だ。薄ら笑いがこみ上げる。殆どの隊員が児戯の域を出ていなかった。自分の動きの確認に、件の突入班がレスピレーターを外してやってきた。成る程、航空小隊の、入隊して一年も経っていないやつらばかりだ。嫌味とお叱りを受ける用意をしておけと、教練軍曹に見えない場所で、指でバツ印を作った。突入班の間で、渋い表情が拡散した。その中にただ一人だけ、余裕を含んだ態度を保っている青年がいた。軒並みの隊員が部屋の制圧に手間取っていた今回の突入において、正しく例外と呼ぶに値する働きを見せたそいつは、名をダニエル・パーソンズという。生粋のコクニー(ロンドン子)で、身の丈が百八十センチあるかどうかというこの男は、昨年の選抜訓練をほぼ無問題で通り抜け、付随する継続訓練でも通常部隊で教わらない専門知識を際限なく吸収した。艶やかで硬めの巻き毛、小憎らしさのある顔立ち、何より二三という若気に溢れた年齢は特徴的で、連隊での評判も良かった。そしてヴェストやショーンにであれば疑問を抱かなかったが、何をとち狂ったのか、こいつは入隊当初から俺に懐いていた。自分がなれなかった姿を投影していたのか、俺もこいつを贔屓目で見ていなかったとは言えないし、あけすけな嘘を吐いてまで隠蔽する程の事でもない。
人質役で何やら疼痛にも似た心労とストレスを負ったが、どうやら不必要なまでに頑健な我が身は万全に動くらしい。いつの日か肉体的にやっつける予定の教練軍曹の指示で装備を身に着けた兄弟と俺は、その間に行われていた他の突入の映像に分析を働かせていた。最初の突入より時間が掛かっており、学芸会の出し物を彷彿とする出来であった。
新人の能力の不足においては、その実、お国の需要から特殊部隊員の人数を増加する為に、選抜訓練で要求される規定の力量が全体的に下げられたのが根本の諸悪であった。昨今の紛争への介入で、我々の被害が多く出ているせいである。
モニターの中で動く人影が、次第にゴキブリに見えてきた。今日も大事を取って休暇を取るべきではなかったのか。遠征や国外での訓練ではなく、本国に待機しての対テロ勤務期間中は、国土がテロの標的にされたなど、深刻な事態が起これば自宅から基地へ丸裸で駆け出さねばならない。だが、基本的には受動的な勤務であり、身体能力と戦闘技術を維持していれば、何をしようが問題はない。それでも隊員がこうして身に鞭を打っているのは、それだけこの組織に愛着を持っている為であり、自らの向上を目指して止まぬ刻己心がもたらす、ある意味での自己表現である。これが俺の様な士官になると、部下の士気を低下させぬ様に規律を遵守して良き兵士の規範となるべきなのだが、ここ数年は階級が独り歩きしており、俺自身はちょっと喧嘩のやり方が上手いろくでなしという印象が強い。このままではいかんぞ。存在さえも危うい信頼を取り戻すべく、今日からは敬意に値する上官を演じよう。これも自身の偽りだというのは自明の理であるが。
録画された映像を若手の隊員に見せ付けながら、教練軍曹が嫌味たらしい指導をがなっている。声量が異様に大きく、鼓膜が叩き破られる錯覚さえあった。ジェロームに至っては、耳栓を詰めるか如何で思念していた程である。俺はM16ライフルの動作機構を、空気中に妄想描写してやり過ごしていた。
教練軍曹の独白が終わり、何やら分隊長らで突入の手本を見せる話の流れになっていた。煩雑とした思考を吹き飛ばすには、この上なくおあつらえ向きだ。訓練の最中では、それだけに頭を働かせられる。次元の異なる現実とだけ戦えばいい。年端もいかぬ時分から戦場に身を投じてきた身からすれば、これが最も性に合っている。
突入の準備に数分間が与えられたが、四人とも大してその目的に時間を裂けなかった。折しも手にしたMP5の点検を行おうと弾倉を外すと、若手の隊員が俺達にたむろしてきたのだ。各々が好き勝手に質問をぶつけてくるのに対し、それへ適切な返答を手短に授けるのに手一杯だった。ヴェストやショーンを師と崇めているなら納得がいくが、彼らは淫蕩ジェロームや俺にまで純真な生徒の眼差しを投げ掛けた。遅刻を始めとした規則違反が褒められた行為でなかったとはいえ、人当たりの悪い上司をやってはこなかった。安い賃金に貧窮する若手に、度々ビールやチップスを奢ったりしていたのが、ここで活きてきた。いいやつを演じてはいないが、若人の愚痴や相談に付き合って、それなりに話の分かる野郎の身の振りを見せてきたらしい。だらしはないが、理由なしに何かを否定に掛かったりしない、しかも甘い汁に預かれる可能性のあるやつに、文化的生物が集うのは奇怪とは真逆の事実である。
それがわざわざヴェストではなく俺を目当てに来る者がいるという説明にはならないが、怒鳴り付けるだけのアーロンに誰も教えを請おうとしない点から、俺が無意識で築いたものの大きさを物語っている。今でこそ教練軍曹の地位にしがみ付いているアーロン。現役時代にあんたが愛していたのは、いつだって業績と上司へのシナ作りだけだったよな。
恨むべくは、この無意識が同族以外には働かない、意識的に行使するのが不可能である自身のぶきっちょな性質であった。要するに、軍隊の仲間とは上手くやっていく自信があるが、一般人との円滑なそれは望めない。お陰で卒業と同時にエリートの軌道に乗るのが当然で、実戦でお国の敵に鉛弾を撃ち込む立場には一生ならない『持てる者』の集うサンドハーストでは、他人より加えて一歩身を引いた付き合いをしていた。
そして俺が自ら招いた心苦しさを噛み締めているというのに、可愛い部下は悪気なしに、質問責めで俺を窒息させんとする。お前らは飢えた雛鳥か。忙しいから後でと言うのに、誰も聞いちゃいない。見なされたところで窮屈なだけだが、誰も俺を上官として認めてくれず、単に酒が好きな変態だと思っている。そして当の俺も、不当な認識を吝かとはしていないのがいけない。
MP5の弾倉を左足に装着したポーチに押し込み、実戦同様の重装備でキリングハウスの入り口に立つと、脳の旧皮質から闘争本能が涎を垂らして這い出てきた。胸と背中に挿入したセラミック製の抗弾プレートが重い。如何なる訓練であれ、実戦と同等、或いはそれ以上に負荷を掛ければ、然るべき折にそれが活きる。訓練が厳しければ、本番はそれだけ楽になる。言うは易しで、これをまともにやるには強い刻己心が要求される。だからと自分達が優れた人間だとは示し難いが、自己の実力に自負と矜持がなければ、こんな仕事はやっていない。
人質役は既にアーロンによって数人が選ばれており、先程と同様に麻袋を被せられて拘束されている。人質が何人かを俺達は知らず、敵の位置も変えられている。隊員の注目が俺達に向けられているのが不愉快なのか、アーロンはぶすっとした態度でモニター前に陣取った。彼の怒声が突入の合図だ。隊列は一本の縦列で、先頭にベネリM4ショットガンを脇に吊るしたジェローム、次いで俺、ショーン、ヴェストと続く。各々が、専用のクリップで二本が連結された弾倉が銃に固定されているかを確認していた。先台に〈シュアファイア〉の大光量フラッシュライトが捻じ込まれたMP5をしっかと肩付けし、呼吸を落ち着かせた。訓練であれど、並みならぬ緊張と興奮が神経を支配した。これをやる為に連隊に入ったのだ。楽しくて仕方がない。皮膚に密着したレスピレーターのせいで、自分の呼吸が尚更にやかましく聴こえた。
同時に、強力な武器を手にした事で安堵していた。やはり銃はいい。心に無償の愛で安寧をもたらしてくれる。それが高級なサブマシンガンであれば言うまでもない。レスピレーターの下で、現実の不安を忘れてほくそ笑んだ。
首筋の汗が背に伝った頃、にわかに罵声に等しいアーロンの合図が出され、ジェロームが陸上選手よろしく駆け出した。密着した距離を維持して俺も続き、同じ動きが後方でも模された。ほの暗いキリングハウスの味気ない廊下が視界を満たし、重厚なブーツが硬い地面を音もなく走る。皮膚に密着したレスピレーターで狭められた視界が、発電機の如く揺れる。ジェロームが前方右手、一つ目の木製ドアへと目標を定め、その脇の壁に張り付いた。俺を含めた他三人も、同様に待機した。ジェロームがドアノブに手を掛けたが、鍵が掛かっていた。即座にMP5から脇のショットガンに構え直し、ドアのヒンジ目掛けて発砲する。耳を聾する大音響と共に、三発の特殊弾薬(ハットン弾)が上下のヒンジと鍵を撃ち抜いた。ジェロームがMP5を持ち直して廊下へ警戒を向け、あとの三人は俺を先頭にして部屋へ突入した。穴だらけの板となったドアに肩からぶつかって部屋へ飛び込み、後続がつかえない様に部屋の隅へ向けて進みつつ、視線を巡らせた。敵の書き割りは見当たらず、床の真ん中に横倒しされた人質役の隊員がいるだけだった。安全確保の完了を叫んで部屋を飛び出し、今度はヴェストを先頭に対面のドアに突入する。鍵は掛かっておらず、ヴェストは胸のポーチに収納されたフラッシュ・バンを投げ込んだ。部屋のドア側の壁に衝突したフラッシュ・バンが、百万カンデラを超える閃光と百八十デシベルの大音響で室内を満たす。我々はレスピレーターに特殊な黒いレンズを装着している為に、これで視力を失わずに済むが、人質やテロリストは一時的な見当識障害に陥るので、それに乗じて無力化を効率的に遂行出来る。SASが対テロ部隊を創設して以来、欠かさずに使い続けている装備品である。
フラッシュ・バンの白煙の中を、ライトを点灯して確認すると、室内にはバラクラバ(目出し帽)を被って銃を手にした男が描かれた書き割りが二枚あったが、最後尾の俺が室内を除いた時には、ヴェストとショーンによって発砲が済まされ、頭部に風穴が幾つも空けられていた。
壁沿いに次の部屋には、俺を先頭に突入した。ドアと壁の隙間から投げ込んだフラッシュ・バンが炸裂する前に突入し、敵の存在を確認する。部屋の中央に、マグカップとポットが置かれたテーブルを挟んで二人。人質はいない。習慣でMP5の銃口は初めから殺害対象に向いているので、後はそこに細かな修正を加えてから引き金を引くだけでいい。ライフル弾と比較して大人しい発砲炎が銃口から生じ、すぐ後ろのショーンが銃を構える頃には、書き割りの頭部におびただしい数の穴が穿たれた。
これがその後も続き、最後の部屋には人質三人が転がされ、五枚の書き割りが乱立するという、呆れた演出が待っていた。歩き辛くて仕方なかったが、各々が無心で書き割りの頭部を撃ち抜き、全ての目標を無力化した後に、廊下を駆け戻ってキリングハウスを飛び出た。
今しがたの分隊長勢の突入映像が再生されているモニター前には、その場の全隊員が押し合いへし合いで集っていた。状況を知らない者に、ポルノビデオの上映会だと説明しても疑問は抱かれないだろう。映像を元に隊員の動きを分析し、各々の改善すべき点を指導するのが教練軍曹や俺達の仕事であるが、隊員はごろつきらしからぬ態度で指導を受ける。本人が刻己心の塊であるが故に、訓練という適した餌さえ目の前にぶら下げてやれば、非常に扱い易く可愛いやつらだ。
「一人の失態が全員の死に直結する、分かるな?銃にトラブルが起きたら、すぐに味方に大声で伝えろ。大声でだ。銃声の中でも聞こえる様にな。スタン、ちょっとやってみろ」
俺は自分の隊で一番小さいスタンに命じて、耳元で叫ばせた。「リローディング!」ちくしょう、ホルンに頭を突っ込んだみたいだ。年甲斐もなく身体を張るもんじゃない。凄惨な耳鳴りに襲われたが、左の耳を庇って続けた。
「あー、今の通りだ。ちょっと五月蝿いくらいが丁度いい。まあ、給弾不良なり何なりに遭わない様に常に銃は整備しておけ。別に俺が言えた義理でもないが、お前らに支給されてる玩具はお高いんだ。てめえの女よりも大事に扱え」
SASに入ってくるくらいのやつらにわざわざ垂れる程の御託でもないが、これは軍人であれば聖書に書き加えても遜色ない項目だ。日本の板前は商売道具たる包丁を最高の状態を常に保っている。我々の商売道具は銃だ。さるべき時にそれが予定外の動作を起こす事態があってはならない。肝心なのは、どれだけ丁寧に整備を行っても、銃は何らかの要因でトラブルに見舞われる可能性が付きまとう点だ。こればかりは使用者を始めとした人間には打破の能わぬ分野である。部品数が違い過ぎるのがいけない。銃と称しているせいで一般人は意識していないが、彼らは――何らおかしな表現をしているつもりはない――機械なのだ。油を定期的に注してやる必要があるし、汚れたら掃除しなければならない。部品が老朽化したら交換という世話を焼いてやらないといけない。――そう、だからこそ可愛い。
キリングハウスでの訓練を十五時過ぎまでぶっ続けでやり終えた我々は、汚れたオイルにまみれた銃を車庫で丹念に労うと、凄まじく『美味しい』料理の数々を無償で提供して下さる食堂で各々の食事を摂った。訓練中に床に転がった空薬莢を踏んで転倒した間抜け――実戦でやらかせば、確実に殺される――の記憶を葬り去るのに、ブリジットがこしらえたベーコンまみれのサンドウィッチは一役買ってくれた。基本的には朝食とは変わらないが、冷めて湿気ったトーストでもそれなりの味を保っている。付け合わせに茹で卵が用意されている辺りも抜かりない。脂っこい生クリームがべたべたに付いたロールケーキ(基地の備え付け)を片手にしたジェロームが、隣で大層恨めしげに睨んでいた。鬱陶しいのですぐに止めて戴きたい。二つある茹で卵の一つを誘拐しようとした愚弟の悪い左手を、叩き落とした。強かに内出血が生じた手をさすりつつ、お馬鹿な弟は口を開いた。
「なあ、どんな子なんだよ」
「何が」
「ほう、とぼける。買ったんだろう?奴隷だよ」
「その名前で呼ぶな。メイドと呼べ」
ジェロームは半ば呆然と言葉を失ったが、反論はしなかった。普段はろくな発言をしないが、空気を読むのが出来ないやつではない。単純にものぐさなだけなのだ。
「で、そのメイドさんってのはどうなんだよ。美人なの?可愛いの?」
想定はしていたが、やはりこの手の質問であったか。女と訊いたら見境がない犬め。出し渋る程の情報でもないが、こいつに教えるのは妙に癪だ。新月の夜に、うちの防犯設備を無力化して夜這いを掛けに来ないとも限らない。こいつからすれば、それも不可能ではない。
茹で卵の殻にヒビを入れながら、どう返答するか思案していると、食堂の入り口からショーンとヴェスト、ダニエルがミツバチよろしく飛んできて、俺を囲んで座った。参ったな、退路を塞がれた。兄弟の三人は元より俺がメイドを家に招き入れたのを知っているし、ダニエルは興味本位でやってきたのだろう。平静を装って卵を咀嚼していたが、ジェロームが顎髭を武器に詰め寄ってきた。「官能的なの?おっぱいはでかいの?美人?それとも不細工?」止めろ!頬にちくちくした金色が痒い!
「あのな、とりあえずは顔を退けろ。発疹が出そうだ」
最後の茹で卵を一口で平らげ、趣味悪くにやつく野郎どもの顔を眺めた。どうやら逃がしてくれる気もないらしい。腹を据えるしかなさそうだ。
「……たっぱは百六十センチもない。年齢は十八で、血液型はA型。髪色は……くすんだブロンド。色味はそう濃い方ではないな」
「おっぱい」
わざわざ性的な特徴を避けているというのに、ジェローム君はしつこかった。さしもの優しいお兄様でも、固めた拳で殴りたくなるくらいには。そして俺は優しかった。
「……そう大きくは……ないんじゃないかな」
「ジャガイモくらいか?」
「いや、見た事はないが、そこまで酷い形はしていないだろう。おい、ダニエル。お前、状況の見えない与太話なんざ聞いても面白くないだろう」
色の沈着したカップに注がれたコーヒーに口を付けた後輩は、肩をすくめて事もなげに言ってみせた。
「俺はこの件に関しちゃ、最初から存じてましてね」
ちくしょう、身内以外のやつにまで漏れてやがる。結局、俺は端からこいつらの掌で哀れに踊らされていただけだ。可愛そうな俺!そんな惨めな俺に、ジェロームは追い討ちを掛けてきた。
「じゃあ何だ、おっぱいの大きさに関しては頓着がなかったのか?それとも、おっぱいの小さい子を選んだの?」
「お前の頭の中には、おっぱいとまんこの事しかないのは知ってるよ。でもな、尋ねるにしても他にあるだろう」
「失敬な、尻とかふとももなんかも忘れるな」
お前に比べれば、大概の失敬なやつらは紳士だよ。
「で、十万ポンド費やしておいて訊くものでもないが、上手くやれそうか?」
ヴェストが俺の前に紅茶のカップを置いた。それを受け取りつつ、言い淀んだ。上手くやる?ブリジットと円滑な関係を築きつつ、自身の傷跡を漆喰で埋めるなど、俺の実力でその様な芸当が叶うのだろうか。
「はっきり言って、かなり困難を極めるな。彼女……ブリジットは繊細だし、何の苦労もなしに済むとは思わない」
それに、今朝の一件は大きなマイナスだろう。どう取り返すかの案も見当付かない。最初から絶望しか見えない。缶の口に吸い込まれる錯覚を抱いて次第に気分が塞いだところで、ヴェストが肩に手を置いてきた。
「まあ、何かあれば連絡しろよ。どうせお前の事だし、既に大分やらかしたんだろう?それくらいは分かる」
女が彼に惹かれ、堕ちる理由の片鱗を知った気がする。この男の言動からは下心が感じられないのだ。大きく温かい手に触れられる事で、麻薬に近い成分が分泌されるのかもしれない。
「近い内に酒場にでも連れてこいよ。こっちとしても、顔を見知っていた方が対処が取り易い」
俺とは方向性と度合いが異なりながら、自らも女性恐怖症を抱えているショーンは魅力的な提案を示してくれた。お前さんのトラウマが治って、早くいい女が出来る事を祈るよ。
「女に関してはヒルバートさんよりは知ってるつもりなんでね、家に帰り辛かったら、うちに来れば彼女が夕飯くらい作ってくれますよ」
歳の離れた愛弟子に、ここまで言って貰えるとは思わなんだ。下手くそに微笑んで、今度ビールを奢ろうと思った。
「いつでも電話してくれ」
鼻息荒くジェロームが渡してきたメモ用紙には、彼の名と電話番号がきざな書体で記されていた。当然、俺はやつの電話番号も住所も知っている訳だから、こんなものを貰う意味はない。だから、無言でメモの端にライターで着火した。おお、よく燃える。
「あの子に連絡を付けるなら、俺を介してやるんだな。十中八九は断ってやるよ」
「お兄ちゃん、独占はよくないよ。女の子は須らく、健全な青少年の共有財産なんだから」
こいつも自身のキャラクターを保つ事で俺の緊張をほだそうとしているらしいが、いつまで青少年を名乗るつもりなのだろうか。お兄ちゃん、お前の行く末が心配だよ。
「そこまで俺を危険視するとなると、十万ポンドという金額を加味せずともつまり、相当の上玉と見える。そうだろう?」
「わざわざ推察してくれてありがとう。ノーコメントだ」
そうしてジェロームは気味悪く口角を上げた。飢えた捕食者の目だ。こんなのに彼女を引き合わせたら、ひとたまりもないぞ。対面したが最後、ジーンズのベルトに手を掛けるに相違ない。そしてこう叫ぶ。「ばーん!おちんちんだあ!」ただでさえストレスの掛かっている彼女の精神に、止めの一撃を喰らわせる訳にはいかないのだ。今からでもブリジットの住む家を別に買った方がいいか?だが、親父に金を返すと言った以上は節約を心掛けるべきであるし、何より別居状態というのは当初の目的に反する。ここはジェロームの良心と道徳を信じるしかない。元よりその存在さえも疑わしいが。
かくして俺は執拗なジェロームの訊問をやり過ごし、雑務を終えて帰路に就かんとしていた矢先であった。各自に与えられた部屋から荷物を持って、ドアを開けた俺を待ち構えていたのは親父であった。何やら深刻めいた面持ちで、壁に背を預けている。彼は俺に手招きして耳を貸させた。
「この後で時間はあるか?」
鉛弾を千発単位でぶっ放して疲弊している身ではあったが、時間の融通は利いた。軽く頷くと、そのまま外へと連れていかれた。どうやら、基地の内部で済ませられる用事ではないのだろう。
誘導された場所は、当初の目的地であった車庫であった。そこでは既に兄弟と、何故かダニエルが退屈そうに待っていた。ヴェストが車の鍵を指で弄んでいる。空気に幾分か張り詰めたものがあり、何処かへ飲みに行くという雰囲気でもないらしい。
「何処か、座れる場所に行こう。連隊のやつらがたむろしない所で」
親父の提案に相応しい場所には、心当たりがあった。俺がよく利用している喫茶店だ。知る限り、連隊の連中を見かける事はあっても、集団で訪れるのは皆無だろう。長居したところでお咎めもない。(実際、イギリスの喫茶店は労働意欲に欠けている)満場一致で会場が決まり、それぞれがヴェストと俺の車に乗り込む。俺の車には、親父、ジェローム、ダニエルが乗った。
二台が走り出し、俺の車が先導して十分も経たない内に、件の喫茶店に到達した。客は我々の他にはおらず、入店して奥まった席を選び、やる気のない店員に席料代わりの注文を行った。大概が紅茶かコーヒーのみを注文するのに対し、それに加えてチーズケーキとくそでかいパフェを頼んだ者がいた。前者は俺、後者は親父だ。人間が脳味噌を万全の状態に保つには、糖分は不可欠だ。単に甘いものが食べたい訳ではない。
ソーサーに零れた紅茶を始めとした注文品が出揃うと、親父が口火を切った。
「わざわざこんな場所まで、男だけでお茶でもしに来たと思っているやつはいないだろう。こいつは他でもない、我らがヒルバート君の直面している問題に、柔軟に対応する体勢を整える為の会合だ」
この場に来て、当事者たる俺がその事実を初めて知ったのだが、親父は唖然とする次男など視界に入らないという風に続けた。
「俺は昨晩に実際に会ったが、かなりの上物だ。はっきり言って、ヒルちゃんには勿体ない娘だよ」
途端に、ジェロームの瞳に獰猛な輝きが宿った。
「誰かさんを煽る発言は止してくれ。うちに乗り込んで来たら洒落にならない」
「残念だな、煽るつもりで言ったのに」
帰ってもいいのではないか。そうも考えたが、せめてこのケーキを平らげるまでは動静を見ようと踏んだ。現実、この決定は間違っていなかった。形の悪いパフェの山の一角を削った親父は、スプーンを俺に向けた。
「まずは……ヒル、ブリジットの情報が欲しい。購入時に色々と書類が渡されただろう?その中で個人の健康状態なんかが記載されたやつがあった筈だ。今も持ってるか?」
俺は鞄から昨日の書類群を綴じた分厚いファイルを取り出し、先頭のページを開いた。各々が首を伸ばして書類を覗き込む。ジェロームの頭だけが一つ抜けて飛び出していた。ブリジットの顔写真が添付されているせいだ。
彼らはすぐに紙面の箇条書きに着目し、怪訝かつ不審を多分に含んだ視線を俺に向けた。月経の停止、記憶の喪失に関する事情を説明しても、やはり完全な納得を示す者はいなかった。
全員が個人情報に目を通すと、パフェを腹に収めた親父が悠然と語り出した。
「とりあえず、奴隷制に関して確認を取ろうか。少し長くなるぞ。飲み物の追加は?」
その場の全員がかぶりを横に振ったので、親父は紅茶で唇と喉を潤し、再び口を開いた。
「この写真を一瞥すれば、ヒルバートが並外れた面食いだってのが分かる。それはさて置いて奴隷制だが、現代のこいつは非常に複雑かつ微妙な存在となっている」
親父の毛むくじゃらの腕が、懐から取り出したメモ帳とボールペンで図を描く。殆ど読み取れない程に崩れた字と雑な線と図形が、紙上に乱れ飛ぶ。
「奴隷制と簡単に言っても、以前に比べるとこいつは素性が変わっている。西部開拓時代は単純に金を出して黒人を買うってのがセオリーだった。無論、今だにこんな戯言めいた行為を続けている訳じゃあないが、輪を掛けてふざけた横暴が、このイギリスでは続いている」
親父がペン先で叩くメモ帳に描かれている図表は、どうやら奴隷制の変遷らしいが、こちらからはその意図を汲み取るのは不可能に等しかった。親父は一旦、紅茶に口を付けてから重々しく語を継いだ。
「ヴィクトリア朝が始まって、我らがイギリスは新しい時代を歩む。産業革命なんかに伴ってお家の雑務をこなす使用人が最盛期を迎えた。現在の奴隷は、この住み込みの使用人に近い存在だ。通常の使用人と異なるのは、雇用主に給与の義務がない点だな」
話題が深い場所に潜るに伴い、心臓が締め付けられる思いに苛まれた。自分の過去を抉り出しているのだ。面白い筈はない。
俺と似た経歴を経たヴェストに目をやると、俺ほどではないにしても、少々の動揺を味わっている様子であった。
「では現在の奴隷制のシステムについてだが、こいつは奴隷販売業者がほぼ全ての利益を得る構成になっている。奴隷が雇用主の手に渡るまでを辿っていくぞ。
まずは親から売られたり、衣食を求めて自ら希望して奴隷候補となる手続きが結ばれる。前者の場合は、手続きが完了した時点で売主、つまりは親などに金が払われる。この金額は業者の査定で決定されるが、美形である程に高額になる。ここまではいいか?」
この時点でシステム云々以前に、この奴隷制とかいう制度を組み上げたろくでなしを構成した者を吊るし上げにしたかったが、周囲と同様に頷いた。
「よし。高級な……容姿の優れた奴隷は、優れた奴隷となるべく大なり小なりの調教期間が設けられる。家事雑務の能力や、一般常識、主人の性欲を満たす技術なんかを叩き込まれるという訳だ。この書類を見る限り、ブリジットは……三年の調教期間を経ている。俺が知る限りはかなり長い方だ」
三年という期間を耳にしたところで、引っ掛かるものがあった。親父は俺の抱いた疑問に気付いたらしく、その話題に触れた。
「ヒルバートはこの子を十万ポンドで買った。ここでちょっと頭の回りの悪いやつでも気付く筈だ。たかが数万ポンドでは、奴隷販売側の利益が少ないという事実だ。三年間も衣食住を賄ってやり、目的に適した教育を施しておいて、利益は黒字になっても僅かな数値。さあて、ここでからくりが出てくる」
親父は場の全員に目配せし、喫茶店の店員の方を一瞥した。店員はこちらに目もくれずに三人で談笑をしている。接客業者としては最低だが、我々にとっては好都合だ。
「この調教期間中でさえも、奴隷販売業者は利益を得る手段を確立している。しかも、自分らの経費を削減しつつ黒字を出す方法だ。
風俗で働かせるんだよ。レースクイーンみたいな綺麗どころもあるが、大半は性的なサービス込みのマッサージ店で、売却後に使う事になるテクニックを身に着けさせつつ、店舗からは指名料の一部を絞り取るって寸法だ。これなら販売側は教える事が一つ減るし、ついでに金も手に入る。この金だが、更に一部分は奴隷を提供した親なんかに入る。言わば期限付きの派遣社員みたいな扱いになっている。これが現代の奴隷制だ」
そこまで一気に語ると、親父はカップに残った紅茶を飲み干し、全員に質問の有無を問うた。丁度、疑問が浮かんでいたところだった。
「元の親と連絡は取れないのか?」
「不可能だ。個人情報の保護という名目で、業者は奴隷の出処に関しては絶対の秘密厳守を貫いている。そもそも、知ってどうするつもりだ?」
その問いに、俺は答えられなかった。奴隷に自身を重ねている為に自然と口をついて出た発言だったのだ。親父に拾われて間もない頃、俺は我が身を捨てた親を憎悪の対象と見なしていた。それ故に一時期は血眼になって出生を知ろうとしたが、DNA鑑定を以てしても俺の起源は辿れなかった。
それから数年もすると、俺の中でくすぶっていた残虐な復讐の種火は収拾を見せた。時間が全てを解決するとはよく言ったものだ。
この場における俺の疑問は一つに止まらなかった。
「もう一つ。あの子が奴隷ではなく、一人の人間として社会から扱われる為の手助けとして、俺が為し得る行動はあるのか。それを訊いておきたい」
親父は目を伏せた。それで芳しくない返答がやってくるのが予想出来た。
「こう言うのも心苦しいが、我々の手で奴隷の社会的地位の向上を図るのは至極難しい。最近は奴隷制廃止を掲げて活動する政治家も少なからず存在はしているが、公約という道具としての一時的な武器として扱っているやつらが多いと予想されるのが一般的だ。
奴隷を不当な扱いから保護する非営利団体も存在はするが、本人の証言のみで雇用主による虐待等を立証するのは困難で、認められたとしても十分な対策を施すだけの力は未だ備わっていない。
また、奴隷という単語だけで差別的意識を生す輩は現在でも珍しくないし、奴隷の利用を禁止する施設も同様だ」
表情の曇った俺を見かねてか、親父は意識的に目許を緩ませて口角を釣り上げた。
「だが、何も悪い話ばかりじゃあない。最近は奴隷に対する風当たりが弱まっているのも確かだ。
お前が彼女を昨晩みたいにメイド服でめかして連れますのも、穴だらけのシャツとローライズジーンズでビッチを気取らせるのも自由。服装に関しての規制はほぼないに等しい。変な噂を立てられたいなら後者を推奨しよう。
それに社会的な部分でも、奴隷を養子や使用人といった対象として家に迎え入れる資産家だっているくらいだ。一例だが、大量の資格を有する奴隷出身の起業家がタブロイド紙の一面を飾ったためしさえ存在する。昔に比べれば、仕える主人さえ良識を備える人物なら、そう生き辛い世でもないって事だ。お前はどっちだろうな?」
にいと白い歯を覗かせる親父に、無言で苦笑を返した。無論、俺としても彼女にとって悪い様に事を進める腹づもりはない。要は当たり障りのない会話を繰り広げられる関係を醸成・維持するという目標を持ちつつ、己が心的外傷を撫でさすって治癒を促せばいいのだ。これまで一度も成功しなかった行いではあるのを理解している上で。
喫茶店を後にした我々は、各々の家や酒場へと車や自分の足で向かった。BMWのハンドルを握る最中、左腕にはめた腕時計が十七時を過ぎた辺りを指している。俺は事故を起こさぬ程度に、脳を思考に割いた。
先程までの親父の説明、これからのブリジットとの距離の取り方、何れも数日前には想像だにしていなかった不安要素だ。果たして状況がどういった方向に転ぶかさえ俺には知れないが、その不確定な現状を不快とは言い切れない自分がいた。有り体に言えば、期待していたのだ。これから生きる上で訪れる変化というやつを。バックミラーに、眉根を寄せながらもかすかに頬を緩ませる変態がいた。