【11】
周りの自動車が制限速度を振り切って走る中、冬眠明けの熊の如くのろのろとBMWを走らせ、ようやく辿り着いた自宅のドアノブに手を掛けると、唇が自然ときつく結ばれた。この後の生活に期待していない訳ではないが、それでも一切の緊張から自由で居られるほど、俺は器が大きくない。むしろ器量はちまっこい方だという自負がある。
鍵を開けて帰宅を伝える「ただいま」の一言を発した際に、その響きが余りに不自然で苦笑した。習慣として登録されていない行動は、そう簡単に真似出来るものではない。特殊部隊の隊員がそうであるのは、それに見合った鍛錬を絶えず積んだ結果であり、それなくしては特殊部隊を名乗る事は不可能だ。たかだか帰宅の報告と照らし合わせる程のものでもないが。
程なくして、実用一辺倒と見えなくもないエプロンドレスに身を包んだブリジットが、小走りにブーツでカーペットを蹴って出迎えに顔を見せた。その所作に一瞬でも結婚生活という単語を夢想してしまった自分が恥ずかしい。彼女はさも当然という具合に俺の鞄を預かり、羽織っていた可愛げのないオリーブドラブのジャケットをワードローブへと運んでいく。その人臭くない仕草に何処にも違和感を覚えられなかったのが無性に空しく、現時点の機械的な彼女には、良い意味で生臭さを取り戻して貰いたかった。
リビングへ行けば、部屋の中央に洗濯物が吊り下げられた物干しが鎮座し、その隣では除湿器がフルパワー運転で唸っていた。ここ数日は洗濯をしていなかったので、物干しがたわむ程の衣類が吊られている。その全てが小皺ひとつなく、さながらペチャパイの如く平滑に整えられている。おお、下着がぶら下がっているぞ。俺は二十歳にも達さぬ少女にちんこの悪臭が染み付いた布切れを洗わせちまったのか。何やら複雑で申し訳ない気分である。しかも俺の下着の隣には、何食わぬ様子でブリジットのものであるに違いない白いシルクが吊られている。おい、いいのかこれ。
キッチンでは何やら黄金色のスープで満たされた鍋がくつくつと音を立て、家中に芳香を撒き散らしている。どうやら冷蔵庫に余っていた腐る寸前のジャガイモやベーコンをぶち込み、ブイヨンを加えてコンソメで煮詰めたものらしい。夕食時には食材に程良く味が染み込んでくれるだろう。つまみ食いは慎むべきと、ついレードルに伸ばしかけた右手を制した。
鍋の前で垂涎している俺に、食器を洗うブリジットがおずおずと尋ねてくる。「お風呂を沸かしましょうか?」基本的に俺はシャワーで済ませる主義であったし、何よりバスタブには赤カビが湧き始めていたので要らないと断り、訓練での汗を流しに浴室に向かった。違うぞ、別にシャワーを浴びる事に他意なんかないぞ。そんな度胸もないのだから。
シャワーを浴びている内に気付いたのは、鏡が研磨でも受けた様に光り輝き、悪臭と不快感を生していたバスタブのカビが跡形もなく抹殺されていた点であった。自分が家を空けていた時間に、一体何が起こったのだ。底知れぬブリジットの要領に、新たな汗を生じた。
シャワーを浴び終えてからも発見は多かった。部屋の隅を舞っていた綿埃は姿を消し、天井の角に張られた蜘蛛の巣が排除されている。使い時が少ないせいで玄関で土にまみれていた革靴にはオイルで磨きが掛けられ、洗面台の水垢がこそぎ落とされている。ブリジットの手腕に畏怖を覚える一方、己が自堕落な生活を噛み締めた瞬間であった。
俺が人並み以上に人間臭いろくでなしなのを再認識させられたが、それに比べてブリジットはどうだ。瞳は死んだ魚の様に底暗く曇り切って、生への執着を感じられない。感情の発露は見られるが、何れも何処か自嘲めいて暗澹としている。外部から心の傷が見えているのに、それが辛いとは言えずにいるのがありありと分かる。今日明日に死ぬと予告されても、さして取り乱しもせずに受け止めてしまう類の諦観が漂う。お立ち台の上に座り込んでいた彼女が放つ、自身への無関心の正体がそれだ。自身の境遇に不満はごまんとあるが、それを打開する術は残されていない。だからこそ考えても仕方がなく、感情を欠落させるしかない。しかし、最後に残った人間性をそう上手くは捨て切れないという具合だろう。複雑な脳味噌を持つ霊長類の頂点に立つ人間が故に持ち得てしまった苦悩だ。
親に売られたという事実から周囲に対する依存を失い、疑心暗鬼に陥って自らの殻に籠もる。心の内から外部へ絞り出した救難信号は、無念にも自身で作った殻に阻まれて消え入る。彼女から助けを呼ぶ事は出来ない。
「向こうからが駄目なら、こっちが歩み寄るしかないってか……」
キッチンでスープの様子を見るブリジットを視界の端に、ソファに深く座り込んでごちた。繊細かつ危険な任務になる。俺はとんでもない爆弾を抱え込んでしまったという訳だ。ライフルを担いで駆け回るだけが能の俺に、爆発物処理が出来るとは到底思えなかった。
ダイニングテーブルを挟んでブリジットとスープを啜っていると、不思議な充実感があった。今まで自宅では宅配の中華や即席の食料品で夕食を済ませていた為というのも原因としてあるが、何せ人の手がまともに加えられている食事が摂れる事が大きい。ビールを傍らにつまむ袋入りのチップスも悪くはないが、それだけを何年もやっていた身に、手料理の有難みは深くしみた。何よりも味がいいのが嬉しい。勝手に調味料を加えたら失礼に当たりそうな完成度であった。
食後に食器をキッチンへ運ぼうとしたところ、慌てて止められた。理由を可及的優しく問うと、どうやら彼女の仕事がなくなってしまうからだと言う。聞いた瞬間に不憫で涙を流しそうになったが、唇をきつく結んで耐え忍んだ。可愛そうなやつ。しかし、彼女の前で感情的になってはいけない。保護する側の俺が平静を保っていられずにどうする。そして無言で食器を洗い始めるブリジットを、俺は椅子を立ったまま何も手伝えずに立ち尽くしていた。ろくでなしめ。
とかく我々は肉体をフルに使う職業である為、眠れる時は眠っておくのが原則である。だが、その規則を遵守せずに夜な夜な目を覚ましている兵士というのが二通りいる。一つは寝床を抜け出して遊ぶ為に夜更かしをする者。もう一つは心的外傷を負った為に悪夢から逃げ出そうとしているやつだ。後者はそれと片を付けるまで恒久的に付き合っていかなければならない。戦場帰りの兵士には特別珍しい現象ではないが、俺の場合は毛色が異なる。俺を苦しめる悪夢は、敵として対峙した兵士ですらないのだから。
これに対抗する為に俺が講じた策が、泥酔である。実際は策でも何でもないが、他の隊員が欲望やら鬱憤を開放する目的として飲酒するのに対し、俺は陰気な理由でアルコールに救いを求めている。そんな生活がいつまでも続く訳もなく、精神が崖っぷちに追い込まれて今に至る。これからは保護するものも増えたし、量を次第に減らす方がいいだろう。
そうは分かっていても、やはり一滴も飲まないとはいかない。それだけ悪夢からの逃亡は俺の生活の大部分を占めていた。だからこそ、大量の酒類が地下室とキッチンに貯蔵されているのだ。
そんな廃人寸前の俺が、どうして従順な人殺し機械――実際には上層部に唾吐きたくてたまらないのだが――として特殊部隊の、しかも本来であれば大尉が担う小隊長の座に残っていられるのか。
小隊長云々は、最近の世界情勢が不安定な為にアフリカや中東で作戦に就いた者がAKの弾に引き裂かれて戦死するケースが多く、人員不足であるからというのがある。
しかし、精神を病み切った兵士が特殊部隊の座に居据わっている現実は、常識のある人間であればどうにも理解に苦しむだろう。これはひとえに中隊長の息子という立場がものを言っている。親父は俺を実働部隊から外すと致命的な戦力の低下に直結するとおべっかを使う。俺ひとりが抜けたくらいで崩壊するSASではなかろうに。
そうして頭では飲んではいけないと自身に言い聞かせつつ、酒瓶を取りにテーブルを立ったところで目前にそっと紅茶のカップが置かれた。「食後に紅茶は不要でしたか?」そんな風に下がり眉を伴った微笑みで訊かれて要らんと返せるほど、俺は人でなしではない。ブリジットにひん曲がった笑顔で礼を言って一口啜ると、どうやらラムが垂らされていた。SAS隊員がよく紅茶にラムを入れるというのを知っているとは思えないので単なる偶然だろうが、ともかくこれは悪くない配慮だ。まだ夏の到来しないイギリスの夜を過ごすのに、適度なアルコールは丁度いい。腹は膨れていたが、この紅茶は思わず二杯目を頼むほど美味く、何処か安堵を覚える味であった。
【12】
サプレッサー(減音器)を銃身に捻じ込んだC8カービン――〈コルトカナダ〉が改修したM16ライフルの短銃身モデル――を目線に構え、俺は埃とカビの臭いが漂うほの暗いモルタル造りの家の廊下を忍び足に進んでいた。何の目的でこの場所にいるのか。仔細には知れないが、ただ何者かを殺害する為であるとだけ把握していた。
支援の要員はおらず、単独での進行であった。抗弾プレートを挿入したベストに銃の床尾がが食い込み、先台に装着したフォアグリップを握る左腕に力が籠もる。目先には等倍率の光学照準器の照準が灯り、手許では百ルーメンを裕に超える大光量のライトが、対象を殺さんばかりに肉食獣の眼球の如く煌々と輝いている。期が訪れれば発砲可能な状態だ。
前方にライトの光芒が揺らめく廊下の先、そこに木製の古びたドアがはまっている。直感的に、その先に目標がいると察した。木製の廊下を音を立てずに移動し、ドアの脇に張り付く。ドアノブに手早くドア・ブリーチ用の爆薬を仕掛ける。爆薬の炸裂の閃光から目を背けてから数秒で、轟音と共にドアノブの周囲が千切れる様にしてに吹き飛ぶ。爆発に乗じて室内に突入し、照準器を覗き込むと、部屋の中央に鎮座する書斎机の向こうに自動小銃――AKだ――を片手にした茶髪の女が振り向く場面だった。黒いセーターを着た女は両手で銃を構えようとしたが、手遅れだった。銃のセイフティを解除し、照準をライトに照らされた女に重ね、指を四度引き絞った。くぐもった発砲音の後に射出された弾丸は、一発目は首、次が右胸、残りが鳩尾に命中した。女は銃を取り落として背中から弾かれる様にして倒れ込み、首の大穴からごぼごぼと静脈血を零して四肢の痙攣を起こした。
女に近寄って止めの一発を頭部に撃ち込もうとした時だった。その女の顔には見覚えがあった。忘れるものか、あの日、他でもなく自分の手で生命を奪い去った女だ。他でもない、俺が射殺した――。
仕事を忘れて逡巡している俺の臀部を、何者かが小突いた。反射的に銃口を向けた先には、いつからそこにいたのか、五歳ほどの男児が感情の抜け落ちた双眸で血の海に沈む母親を見つめている。その顔が機械的な動作でこちらを見上げた。腕が、銃が微震した。繰り返される逃れられない怪物に、は歯を打ち鳴らして涙した。この子供とて、忘れられるものではない。そいつの血色が途端に悪くなり、肌が土気色に変じた。人が死に瀕した時の色だ。彼は震える瞳孔で俺を見据え、無邪気にこう尋ねた。「どうして僕達を殺したの?」仕方がなかった。あの時の俺には、ああするしかなかった。あの場に来てしまったお前らに非があるのに、どうして俺ばかりを責めるんだ。俺は子供に銃口を突き付けた。「ほら、そうやってまた殺そうとするんだ」五月蝿いんだよ、黙ってろ。子供の襟首を掴み、壁に叩き付ける。お前らに俺の何が分かる。前も後ろも塞がれた俺の事も知らずに、お前らは俺の何も理解せずに一方的に俺を悪者にする!じゃああの時、どうすればよかったのか教えてくれよ……!
目蓋を開いた先には、ほの暗いリビングと狼狽した面持ちのアイボリーのメイド服姿の美少女という光景が広がっていた。恒例の如く全身は汗ばみ、鼻筋には塩の泉が溜まっている。乱れた呼吸で胸が激しく上下し、胃の奥からこみ上げる不快感がある。
悪夢は毎度、多様な姿を取って俺を襲う。夢の中で俺は彼らを幾度も殺し、その数だけ罪悪感と自己嫌悪の念を抱え込む。お陰で今朝の悪夢は飛び切り後味の酷いものになった。
不慮の事故、計算違いが故に引き起こされてしまった事件であったと暗示しようとはしていても、この脳味噌はそうおめでたく出来ていてはくれなかった。
当月に入ってから最悪の目覚めに内心で舌打ちしつつ、肩を揺さ振って起こしてくれたブリジット――昨日よりは動揺していなかった――に礼を言い、寝間着まで染みた汗を流しに浴室へと向かった。
二日連続だ。二回も連続してあの子に傷口の片鱗を晒してしまった。浴室の壁に手を突いてうな垂れた。流石に如何ほどの鈍感な人間でも、継続して異常な姿を見せられれば何かしらに気付くだろう。ブリジットが勘のそう鈍い女とは思えない。既に俺が精神に支障をきたしている事実の尻尾を掴んでいるやもしれない。彼女との暮らしが始まってまだ三日目だというのに、評価上の負債をどれだけ背負えばいいのだろうか。
浴室を出て固い髪の水分をタオルで拭いつつリビングに戻ると、さも当然という風に朝食が用意されていた。昨晩の残りのスープに、マッシュドポテトのサラダと目玉焼き、トーストという献立であった。テーブルに着くと、俺に倣ってブリジットも席に着き、食材が不足してきたとの旨を伝えてきた。以前の一人暮らしであれば、あと二、三日は持っていたのだが、如何せん二人の人間が飯を食って腸内でうんこを作り続けるには元々の在庫が足りなかったらしい。我々ふたりがうんこの生産を継続するには、原材料である食糧の確保を行わねばならないという訳だ。うんこは大事だからな。
とはいえ、まさかこの排泄物論をブリジットに説いたところで、彼女と俺の間に二度と埋められぬ溝を穿つだけなので、今日の仕事が終わってから車を出して一緒に買いに行くという予定に落ち着いた。別に事を急いているのではないが、こうして二人の時間を積み重ねる事で彼女との距離を縮めていくという、一種の謀略に近い算段があった。俺だって自分なりに懊悩しているのだ。
厄介事というやつは大抵、よろしくない折に訪れるのが相場である。玩具の積み過ぎで重たいBMWを職場まで運んで車庫に突っ込み、食堂で朝食にべとべとのロールケーキを喉に押し込んでいるショーンの脇を挨拶がてらに通り抜け、随分と前の表紙がよれた雑誌を控室で読んでいるジェロームにヴェストの所在を尋ねると、射撃場で銃身を交換したばかりのカービンをぶっ放していると言う。各々が思い思いの交通手段で職場に顔を出し、食ったり煙草をふかしたり勝手にやり、八時前にはチームに割り当てられた控室でその日の訓練について相談を始める。これぞSASの朝の常だ。もっとも、俺はここ数年その不文律にとってのアウトローであったが。
いざ八時になると、控室が隊員でごった返してくる。煙草と硝煙の臭いが染み付いた男たちが、口々に本日の訓練予定について意見を戦わせている。全員の希望がキリングハウスでの人質救出訓練に決まり、それから小柄ながらも足の速いスタンがキリングハウス使用の手配に走った。スタンが戻ってくるまで我々は好き勝手にくっちゃべり、不服そうな態度を全面に出したスタンが戻ってくると、皆が一様に彼を見つめた。
「午前中はブルー・チームの先約が入ってやがった」
その一言で我々は事情を察し、控室から射撃場に向けてさっさと歩いた。ブルー・チーム――我々はレッド・チームに属しており、この二つで対テロリスト・チームを構成している――が午前中の全てをキリングハウスでの訓練に使うので、その間の我々は射撃場で標的にひたすら風穴を空ける作業をしなければならない。それが面白くないとは言わないが、やはり実際にキリングハウスで怒鳴りつつ駆けずり回る方が、実戦に即した鍛錬を積んでいる実感があってよろしい。射撃場のぶらぶらする的を追っているのとは、緊張感が段違いなのだ。ただ、やるからには全力を以て応じる気概だけは持っていた。
手の痺れも度外視して三時間ほどMP5やP226を撃っていると、緊張した面持ちの中隊付准尉――名をティモシーという――が俺の肩を叩いた。この中隊付准尉がわざわざ俺に何かを伝達に来るという時は、大概好ましい話題を持ってこない。これこそが正しく本日の災厄の種であった。
ひっきりなしに発砲音が轟く射撃場のブースで恐る恐るイヤーマフを外すと、中隊付准尉はやかましい中でもはっきりと通る声で告げた。
「首都の銀行に強盗が押し入って立て籠もった。すぐにレッド・チームをブリーフィングルームに集めてくれ」
仕事の話が転がり込んだ事で、脳の回転率が飛躍的に上がった。すぐに射撃場の同僚を呼び集めると、周囲が一気に活気立った。仕事とはつまり実戦であり、極度の緊張下で自身の磨いた技術を発揮する場である。歴戦の猛者から未だ現場に出た経験のない若造と、各々が三々五々の面持ちでブリーフィングルームへと向かった。
味気ない廊下を歩く中で、疑問が頭をよぎった。慢心は自らの命取りとなるが、イギリス屈指の特殊部隊たる最強のSASが、たかだか銀行強盗ひとつを解決する為に召喚されるとは、どういった条件が関わってくるのだろうか。兵士に不要な深読みなどするなかれ、それはお上の仕事だ。貴重な糖分を燃やして下らない脳内会議を開くくらいなら、驕りから起こる増長を捨てろと自身に言い聞かせた。
ブリーフィングルームでは既に機動小隊――戦闘中隊は舟艇・航空・機動・山岳の各特技小隊で構成される――の面々が集まっていた。整列して配置されたパイプ椅子の最前列の一つに座ると同時に、中隊付准尉が書類群を片手に部屋のドアを開いて入ってきた。彼は部屋の前に立つと咳払いを一つしてから書類の一つに目を落とし、簡潔なブリーフィング(要旨説明)を行った。
「諸君も知っての通り、本日の一一〇七時に首都近郊の銀行で強盗騒ぎが起こった。犯行グループは男女七名で、自動小銃で武装しているとの報告が入っている。また、犯行グループは銀行員と当時の利用客、警備員の合計二二名を人質に取っている。
現在は警察が本銀行を包囲して犯行グループと交渉を試みているが、相手が極度の緊張下にいる影響で錯乱状態にあり、一触即発の状況となっている。
君らの役目は現地で待機し、必要があれば犯行グループの無力化並びに人質の救出だ。可能であれば逮捕という形で済ませて欲しいが、人質の生命を最優先に考えてくれ。ここまでで質問は?」
一同は微動だにせず、中隊付准尉の次の言葉を待った。
「結構。犯行グループは現在、使用済みの紙幣で五百万ポンドと、彼らを安全に指定場所へ送り届ける車輌を要求している。この条件が呑まれない場合は、一五〇〇時以降、三十分毎に人質を一人ずつ射殺するとの宣言があった」
てめえの都合で銀行を襲撃しておいて更に金を寄越せとは、何処までふてえ野郎共だ。その金を俺にちょっと分けてくれるくらいの気前は持っていても、長い目で見れば損はしないと思うぞ。まあ、そこまで考えられるお味噌を持ち合わせていないからこそ、銀行強盗なぞ計画したのだろうが。俺に学を与えてくれてありがとう、父ちゃん。でも俺は現場を選んじゃったよ。親不孝者でごめんな。
「指令本部一行は既にヘリで現地に向かった。我々は装備を整え次第、マイクロバスとレンジローバーで現地合流し、現状の確認と次の指示を待つ。以上だ」
そこからの動きは速かった。全員が一斉に席から立ち上がって各々の装備を取りに行き、車庫から弾薬庫に移動されたレンジローバーに銃や弾薬類を詰め込む為に、火器係や兵站係軍曹がせわしなく指示を出していた。
その作業を横目で見ると、積載されている銃は旧式のMP5ではなく、最新型のMP7であった。MP5はヨーロッパで主流の九ミリ口径の拳銃弾を射出する精度の高いドイツ製のサブマシンガンだが、昨今の犯罪集団は抗弾ベスト等を着込んでいる場合が多く、拳銃弾の貫通性能では致死させられない不運がままある。それに対してMP7は同じくドイツの〈ヘッケラー&コッホ〉製だが、PDW(パーソナル・ディフェンス・ウェポン)なる新たなカテゴリーの銃器で、ライフル弾に追従する貫通性能を備えた弾薬を使用する。有効射程こそライフルには遠く及ばないが、CQB(近接戦闘)を念頭に置いた場合はこれ程に頼もしい銃はない。サイズは同社のMP5よりもコンパクトで、しかもサプレッサーを装着した場合は初めからサプレッサーがビルドインされているMP5SDよりも減音率が高く、反動も同銃より少ない。これぞ真に強襲部隊の目的に適った銃である。欠点は専用の四・六×三十ミリ弾を使用するせいで弾薬代がかさばる点だが、兵士である我々の知ったところではない。
そんな高級品を、例にもれず財政難に苦しむ組織であるイギリス陸軍――盟友アメリカと俺の好きなスイスは別だ。あいつらは頭がおかしい――のSASが秘密兵器たるMP7を引っ張り出してくるのだから、何らかの目論見が上層部で働いているのは想像に難くない。予想通り、兵士の知る由もない部分が一枚噛んでいるのだ。
大量の物資が積み込まれたレンジローバーに率いられる形で、実働隊である我々を満載したマイクロバス二台がエンジンを掛けた。出発する前には、ブリジットに帰りが遅くなる、或いは本日中に戻れないとの連絡を入れ、夕飯には出前を取る様に告げた。彼女は「左様ですか、お気を付けて」とだけ返事を寄越し、何の詮索もしなかった。守秘義務を課せられる特殊部隊の俺の都合を理解しての事か、それとも単に関心がないだけだろうか。
バスの座席に座り、出掛けにブリジットからもらった弁当のサンドウィッチに齧り付いて、それを平らげる辺りにバスが発進した。弁当の紙袋で口許を拭い、点眼液を両目に注してから、長い移動時間を貴重な睡眠に費やすべく、そっと目蓋を下ろした。
ほの暗い、物置として使用されていた地下室が、俺に唯一与えられた寝床であり、作業場であった。部屋の一角にはレーキや錆の浮いた芝刈り機が無造作に積まれ、対面には土と埃で汚れたベッドがカビを生している。明かりは天井から吊るされた裸電球が一つ。暖房器具はヒーターが二本の電気ストーブのみで、冬場は指を口に含んでの作業が続いた。
ここに連れてこられて既に何年だったか。それさえも曖昧であったが、言い付けられた仕事をこなしていれば、食いっぱぐれる事態にはならない。仕事を持ってくるあの男は鼻持ちならない下衆だが、扶養される身分では逆らう気も失せる。今は生き延びる事だけを考えていればいい。
奥歯を噛み締めつつ仕事道具の手入れをしていると、不意に地下室の木戸が開かれた。食事の時間には早い。木製の朽ちかけた階段を踏み鳴らして、体重が百キロは下らないであろう、顔中に不潔な髭を生やした中年の男が、不機嫌そうに俺の瞳を覗き込み、忌避感を催す口臭を撒いて告げた。
「乗用車を一台、そいつを二つだ」
それだけ言うと、男はさっさと地下を去った。俺は黙って、汗と煤で汚れたパーカーを羽織って皮手袋をはめた。大量の道具が詰まった鉄の箱をベッドの脇から作業台に移し、そっと蓋を開ける。中には彩り豊かな細い紐や、ボルト、鉄釘やらが所狭しと詰め込まれているが、箱の大部分はビニールで個包装された粘土で占められていた。右手に小振りなナイフを持ち、直方体の粘土の塊を一つ取ると、分量を量ってからすうと刃を入れた。
道具はいい。自分の使い方ひとつで全く異なる顔を見せてくれる。ナイフで物が切れない場合、それは大概が使用法に基づく失態からもたらされる。正しい用法で接してやれば、これ程に心強いものは存在しない。道具は人間とは違って、絶対に裏切らない。
ニッパーで細い銅の束が収められた紐を適度な長さに切り、何本か用意してから半田ごてを加熱する。換気扇がないので、空気中を舞う埃の焼ける臭いや、鉛の溶けた後の有毒ガスが鼻腔をつく。対象が自動車という事は、恐らく目当てはエンジンか燃料タンクだろう。幸い、あの機械は余剰空間が大量にあるので、俺の子供を隠す場所には困らない。「最低限の規模で最大の成果を」それがあの男から俺が教わった、たった一つの生涯で使えるお言葉だった。
使い込んだニッパーが白い導線をぱちんと切断した音で、意識が覚醒した。
薄いまどろみの中で、マイクロバスのエンジンの駆動音が止まるのが聞こえた。脂の付着した目蓋を擦って窓の向こうを見ると、我々より先に基地を出発したブラックホーク・ヘリコプター二機が、彼方のヘリパッドで翼を休めているのが見えた。ご苦労さん、うちの親父は重かっただろう?今の内に眠っておけよ。
仕事の前に休養を摂るつもりが、かつての自身の記憶によって要らぬ疲労を溜めてしまった。とり殺される悪夢でないだけましだと自らを説得し、けだるそうな空気を纏った仲間に混じってマイクロバスを降りた。
時刻は一五時過ぎだった。我々のバスとレンジローバーは、現場から五百メーター離れた、警察が確保した公園に停車していた。立ち入り禁止のテープで敷地が包囲され、一定の間隔で蛍光イエローのジャケットを羽織ったスコットランドヤード(ロンドン警視庁)の警官が配置されている。そこかしこを警官が走り回り、様々な手配に追われていた。
滞った血流を正す為にバスの付近で足踏みをしていると、傷一つないMP5を肩から吊った、頬のこけた女性警官が我々を誘導にやってきた。いい体格をした野郎の集団が、細身な彼女の後ろに着いていった。
我々が誘導された先の待機所は、警察に接収された公園の一角に設営された四棟のポータキャビン(分解して運搬可能な家屋)で、一つが中隊長――つまるところの親父だ――や情報班が詰め掛ける、ブリーフィングルームを兼ねた司令本部となっている。他のポータキャビンでは、犯人の行動の抑止を目的とする交渉人が受話器を片手に詰めていたり、警察の人間が絶え間なく出入りしている。ポータキャビンは縦が二五メーター、横が六十メーターほどの規模で、屋根が平坦な白い姿形をしている。すぐ近くでは、大きな発電機がけたたましい駆動音を撒き散らしている。
我々の待機所として使用されるポータキャビンに個人の荷物を置き、上着に身分証明のIDカードを留めると、俺は司令本部のドアを開けた。内部では先発のヘリで到着した情報班員が、持参したラップトップと睨み合っている。これには古今東西のあらゆる建築物のデータが収められており、必要な情報を入力すれば、コンピューターが目的に応じた突入計画を自動で弾き出してくれる。たかが情報と侮るなかれ。窓枠の材質ひとつが、強襲計画の成否を左右する事だってあるのだ。素人からすれば金の掛かる装備を身に着けた男が好き勝手にどんぱちやっている様に見えても、その実は緻密で地味な計算に基づいて行動している。あらゆる状況に備えて計画を練り、作戦を成功に導くのが特殊部隊だ。
親父は情報班員の一人と、ラップトップに映る映像を眺めていた。どうやら銀行内部を映す監視カメラの映像らしく、自動小銃を手にして苛立ちを露にする角刈りの男の様子が観察された。成る程、こいつが我々を召喚した原因の一部という訳か。
親父は俺の存在に気付くと、どういう事情か浮かない顔をしてラップトップから離れた。
「話がある。外に行こう」
「今じゃなきゃ駄目なのか?」
親父は真面目な表情を崩さず、深く頷いた。直感的に不味い事が起こると察知したが、黙って彼と一緒に司令本部を退出した。
ポータキャビンを出てから二分ほど歩き、警官の目に留まらない区画まで来たところで足を止めた。親父は煙草に火を点けると、苦々しく俺に向き直った。
「まだるっこしいのは止そう。今回の騒ぎで警察が全権を我々に委譲した場合、実働部隊からお前を外す。異論は?」
いつもながらに突飛なお言葉であったが、今日はいつにもまして過激だ。銃をぶっ放すのが能の俺に死ねと仰る。
「理由を訊かせて貰えるかな、流石に『はい、そうですか』と首を縦に振るにも得心がいかないんでな」
「いいだろう。どうせその内に耳に入るだろうからな。本件を引き起こした馬鹿共だが、一般人の出身ではない」
親父は風下へ向けて煙草を数回吹かし、苦心が滲む口振りで告げた。
「銀行強盗を決行したのは、この付近の縫製工場で勤務する奴隷の集団だ」
親父の発した言葉に含まれた単語に、脳の反応が遅延を起こした。しばらくまばたきも忘れて逡巡し、実時間に換算して十秒ほどでその意味を理解した。
「つまり、連隊が出動する事態になったら、任務に支障をきたし得る俺は後方支援に回れと?」
親父は深々と頷き、酷く申し訳なさげに首をもたげた。
親父の命令はもっともである。俺は奴隷について他者とは異なる意識を有している。自己がその出身であるが為に、同情に似た感情を抱いていないとも断言は叶わない。それが実際に敵として対峙して、引き鉄を絞る指に躊躇いが生じないという確証もなかった。
知らぬ間に生じた生唾を飲み下した途端に、額から脂汗が滲み出した。まさか自分が奴隷を撃つ事に、ここまで抵抗を感じるとは予想だにしなかった。掌も同様に水分が浮き出てふやける。目に見えて冷静を欠いていた。
「幸い、今日はニーナを連れてきている。補充要因としては十分に機能してくれるだろう。お前は情報班の補佐に回るのがよかろう。まあ、どうせヴェスト辺りが着任するだろうが、ゆくゆくは中隊長として責任を負うかもしれない身だからな。戦闘以外の経験を身に着けておくのも有益だと思うが……」
ちゃらんぽらんの俺でも分かっている。こんな精神状態で実行部隊に加わるなど不可能だ。誰か一人の下らない事情で、隊全体を危険に晒す道理は存在しない。それを親父は承知して、俺を強襲チームから外す決定を下したのだろう。そう、理屈では理解していた。
「一応、不測の事態に備えて装備の点検はしておけ。負傷者の代わりに出る可能性が消えた訳ではないからな。ともかく、お前は司令本部に戻ってIA(緊急行動)計画の立案に立ち会え。いいな?」
ここで了解の意思を示せば、万事が滞りなく進んでいただろう。だが、俺の都合とは無関係な場所で懸念が生じていた。
この対テロリスト勤務に就く前の遠征――アフガニスタンで要人の警護などを担っていた――で、我々の航空小隊はかなり多くの犠牲を出していた。結果、帰国後に再編成された小隊は、ダニエルを始めとした実戦童貞の新人で溢れ返った。元からいた兵士は、ちびのスタンを含めた数人と、俺の兄弟だけであった。
そんな小隊を、たかが銀行強盗の鎮圧とはいえ、自分の監督下に置かないには並ならぬ不安があった。出過ぎた老婆心と一蹴されればそこで終わりだが、手塩に掛けて育てた愛弟子を放っておけないのが人心というやつだ。
――というのは建前だった。その実には私情しかない。目下のトラウマに振り回されている状況をの打開に躍起になっていたのだ。その方法さえも定かではなかったが、自らの汚点と真っ向から直面する事で、解決の糸口が掴めるのではないかと考えていた。例えそれが、心を引き裂き得る荒療治だとしても。
「少佐、あんたの言い分は分かる。だけど、今回はどうしても参加したいんだ。今まであいつらを育ててきたのは、教官もそうだが俺達だ。連隊はただの職場の同僚じゃあない。そいつの命を預ける関係だ。こう言っては何だが、ニーナはあんたのお茶汲みみたいな存在だ。それがいきなり俺の代わりを務めると聞かされて、良い顔をするやつはいない。
ましてや、今回が初の実戦だというやつも多い。心理的な不安を抱えている。余計な心配を増やして刺激しない方が、作戦の展開にもいい筈だ」
親父は顎に手を当てて唸り、こちらに半眼を向けた。俺の意見を訝しんでいる様で、少々肝を冷やした。今の彼は俺達の父親である以前にD中隊の長だ。この場で最重要視すべきは息子の要望ではなく、隊の運用とそれに伴うリスクの計算である。戦争の道具とはいえ、可能な限りは無傷で使うのが望ましい。
眉間に深い皺を刻んだ親父は、殆ど吸わずに燃え尽きた煙草を携帯灰皿に収めると、絞り出す様なため息を発した。二本目に火を点けはせずに、困った風に肩をすくめた。
「どうやら本気らしいな。それなら、俺から言う事は以上だ。但し、他のやつらからお前を外した方がいいとの所見があった場合は別だ。即刻にお前をチームから外す。いいな?」
親父の最終確認に了解を示すと、やれやれといった具合に彼は司令本部へと戻っていった。手の掛かる息子を持つと苦労する。俺も彼に引き続いて、司令本部へと爪先を向けた。
親父の了承も取れたので、すぐに突入の準備に取り掛かった。司令本部の壁際にはホワイトボードが置かれ、そこには対象である銀行の平面図、立面図、側面図、間取り図、航空写真、数枚の顔写真と、細々とした指示が書き殴られたメモがマグネットで貼り付けられている。顔写真の内の二枚は犯人のものであり、一枚は二十歳になるかならないかの女であった。こいつに銃口を向ける可能性があると考えると、胃が締め付けられる様に痛んだ。
残りの顔写真は現時点で判明している人質のもので、何故か一枚だけ赤のマーカーで縁取られた中年男性の写真があった。見るからにスラヴ系の顔立ちで、手入れの行き届いた口髭をたたえている。その下に書かれていた名前には、ヴィクトル・アバカロフとあった。他の写真にも名前が振られていたが、取り立てて記憶する必要はないと判断した。今は明らかになっている犯人の顔だけ憶えていればいい。
情報班が銀行の立体映像を作成していたが、我々はもっと仔細な情報が欲しかった。つまり、実際に目で見る情報を得たかったのだ。狙撃チームのリーダーを務めるショーンは、何枚もの衣服でぶくぶくに着膨れた姿で、狙撃銃の収められたケースとマットとを足元に置いて待機していた。一番外側には、イギリスの標準の迷彩であるDPMが施された上下を着ている。事件発生から警察の狙撃手が、銀行から百五十メーター離れた地点から観測を続けているが、そろそろ交代させてやってもいい頃合いだ。中隊付准尉に話を付け、ショーンとお気に入りのダニエル、二人の狙撃要員を連れて司令本部を出た。警察の用意した交渉人によって一五〇〇時の人質の殺害は避けられていたが、いつ犯人の気が変わるかは分からない。急いだ方が良さそうだ。
航空写真と側面図とを参考に狙撃チームの三人を配置すると、ダニエルと俺はデジタルカメラと双眼鏡を手に銀行の周辺を練り歩いた。警察のチェック模様のテープで囲まれた銀行は、規模的には大と中の間といったところだった。全体的に直線の多い建造物で、木製の玄関ドアは両開きだ。その左右に窓があり、二階にも同様の位置に窓がある。玄関は南に面していて、西側にも窓が二枚ある。給水タンクの設置された屋根は平坦な作りで、銀色の手摺りが縁に設けられている。明かり取りは二箇所で、窓には全て茶色のカーテンが引かれ、内部を窺うのは不可能に等しい。銀行の周囲に、取り立てて高い建造物はない。視界が開けているので、誰の目にも留まらずに車輌を走らせるのは困難だ。幸い、付近に停止車輌は見当たらないので交通事故を起こす危険性は皆無だ。風向きは安定しており、それ程に強くは感じられない。裏口が北側の壁に設けられており、ゴミ置き場に直結している。ダニエルが大量の写真を撮り終え、俺が要点をメモに書き留めた末、俺達は情報を持って帰った。
司令本部に戻ると、ホワイトボードに掲示された情報が増えていた。犯人と人質の写真が増え、メモ書きが何枚か新しいものに交換されていた。そこにダニエルの写真と俺が記したメモ書きが加えられて、余白はほぼ失われた。
ホワイトボードの前に、隊員が各々にロールケーキなど不味そうな得物を手にして集まった。全員がホワイトボードに貼られた情報にしっかりと目を通し、暗記していた。そろそろ詳細なブリーフィングを行う頃合いだと判断したのか、中隊付准尉が人の波を掻き分けてホワイトボード前に陣取った。
「ブリーフィングを始める。交渉人の働きで、最初の人質の殺害は回避出来たが、未だ予断を許されない状況が続いている。また、犯行グループは次の刻限を一七〇〇時に設定するとの声明を発している。
先程に配置した狙撃チームからの情報は、今のところ大きな進展はない。銀行内の監視カメラの映像では、犯行グループ側はかなり緊張している様子で、何をしでかすか分からない。彼らは全員が拳銃、自動小銃で武装しており、手製の手榴弾の存在も確認されている。
人質は一階ロビー、二階の各部屋、地下金庫に分散して拘束されている。両腕を粘着テープで巻かれているらしいが、足は自由に動く。現時点で大きな怪我を負っている者は見られない」
そこまで言って、中隊付准尉は例の強調された中年の写真を指差した。
「最も大事な点だが、このヴィクトル・アバカロフは駐英ロシア大使館の職員だ。恐らく私用で本銀行を訪れていたのだろうが、ともかく彼の生命を救出する事が最重要視される。彼は地下金庫の――この場所に拘束されている」
そう言いながら、彼はホワイトボードの隅にあった青いマグネットを、銀行の見取り図の一角に置いた。それがアバカロフのいる場所だ。大使館職員が駐在先で殺されたあれば、ロシア側は良い顔をしないだろう。さっさと警察の特殊部隊が銀行に突っ込まない点に、ようやく合点がいった。
「最後に、諸君が遂行する指令だが、人質の救出、人質の救出だ」
大事な事なので、作戦の目的というやつは決まって二度繰り返される。その場の全員が、酒場で普段見せる阿呆面は何処へやら、神妙な面持ちでホワイトボードを見据えていた。
「よし、ブリーフィングは以上だ。スタン、IA計画を立ててくれ」
それだけ伝えて、中隊付准尉は自分の仕事へ戻った。計画立案という責務を負ったスタンが代わってホワイトボード前に立ち――おい、踏み台を持ってきた方がいいんじゃないか?――細々とした指示を始めた。
「全員、建物の位置関係は把握したか?ヒル、お前はさっき近距離偵察に行ったな。何か注意すべき点はあったか?」
これが連隊の良いところだ。スタンは俺より年下で階級は軍曹だが、全く対等な立場で会話をする。連隊において階級は無意味だ。腰巾着みたいにかしこまる必要もないし、意見があれば積極的に目上の人間に直訴出来る体制を取っている。
「建物の付近には殆ど障害物がなく、視界がかなり開けている。正面から犯人に気取られずに接近するのは難しいだろうな」
「成る程。そうなると、玄関に直行するのは厳しいな」
スタンはボールペンをクリックしながら考え込み、またすぐに口を開いた。
「ヘリでの接近は可能か?」
「可能だ。高い建物は全くない」
ダニエルが答え、ヘリの進入ルートの提案として、航空写真を指でなぞった。それが受け入れられ、計画は着々と組み上がっていった。
結局、完成したIA計画は無難なものになった。IAが発動したら、我々はヘリと車輌の二班に分かれ、目標に接近する。ヘリの方は屋根の上に隊員をファストロープで降下させ、車輌は東側から接近する。これには約三十秒を要する。屋根の方は明かり取りと二階の窓から突入し、地上部隊は正面玄関と窓から突入する。降下部隊は二階、地上部隊は一階と地下の脅威を排除しつつ、人質の安全を確保する。負傷者が出た場合は、医療担当がその場所に駆け付け、応急処置を施す。安全が確認されれば、すぐに人質を屋外へ誘導し、一人ひとりの顔と名前を照合し終えれば、我々の仕事は終わりだ。
IA計画の確認が終わると、我々は装備を身に着けた。難燃性の下着に、NBC(化学・生物・核)対策の施された上下、難燃性の真っ黒なカバーオールを着込み、その上から更に作戦用の大量のポーチが付属したベストを身に着ける。当然、この中にはセラミックの重い抗弾プレートが挿入されている。傍目からは、こんななりの男が階段を飛び跳ねて駆け上がれるとは思わないだろう。
次にまたもホワイトボード前に集結し、会談を再開した。先程に練った計画はあくまでIAの計画だ。緊急を要する事態にのみ展開される作戦であり、これから話し合うのは通常に救出作戦が展開される場合の計画である。目標には大胆に突入するのか、それとも隠密に時間を掛けて侵入するべきかなど、それぞれ議論を戦わせる。その最中にも絶えず情報は入り、全犯人とほぼ全員の人質の個人情報が揃った。
救出作戦が速度を重視した攻撃的なものに決定されると、我々は屋外に出て演習を行った。地面にテープで実際の大きさの間取りを描き、その中を歩いて感覚を掴む。間取り図に人質の大体の位置を書き込み、どういった経路を用いれば人質に危害を加えずに犯人を無力化させられるかを考えた。
二度目の刻限を過ぎても、人質が殺される事はなかった。どうやら交渉人はやり手の様だ。順調に犯人グループの心身を疲弊させ、どうにか綻びを作り出そうとしている。これで向こうさんが勝手に降伏してくれれば文句はないのだが、ここまできて素直に両手を後ろに回してくれるやつらでもないらしい。相手が奴隷という事で、俺の胃腸はずっと悲鳴を上げていた。雑巾が絞られる感じの痛みだ。何とか鈍痛を治めようと、俺は持参したマグカップで何杯も紅茶を飲み干していた。無論、紅茶も万能ではないので苦痛は続いた。
やがて陽が沈み、星が瞬く時分になっても、現場に大きな動きはなかった。相変わらず犯人グループは人質を殺すと表明しているが、声が完全に震えている始末であった。ちくしょう、本当に俺達が来る必要性はあったのか。甚だ疑問ではあったが、これも仕事である。俺は黙って警察から届けられたくそ不味い湿気った菓子パンを喉に押し込んだ。ああ、ブリジットの作る飯を食いたい。果たせるかな、俺は完膚なきまでに彼女に餌付けされていた。
それから何度も作戦の細々とした箇所に変更を加え、新規に入った情報を加味した計画を練った。簡単な演習を繰り返し、車輌やヘリの整備状況を確かめ、目標の模型を作って計画にぼろが出てこないかしらみ潰しに粗を探した。僅かでも危険性が残る手順では、我々はおろか人質まで死傷しかねないからだ。特に今回はアバカロフ駐在員が傷付く様な事があってはならない。
やがて時刻は二三〇〇時を回り、方々から欠伸の声が聞こえる様になってきた。隣のポータキャビンでは、こんな時間でも未だに慌ただしいやり取りが聞こえる。突入計画は極限まで煮詰めた。使用する銃器も点検を済ませてある。通信機のバッテリー残量、故障も問題ない。彼らには悪いが、我々はいざという時に万全の態勢で臨む為に、先に休ませて貰う事にした。
待機所として使われているポータキャビンの床一面には、警察が用意した寝袋が無数に転がっていた。俺は部屋の隅で寂しそうにしていた一枚を選んで中に潜り込む。他の隊員も寝袋に潜り、すぐにやかましい寝息を立て始めた。最悪の子守唄から身を守ろうと、寝袋の生地で耳を覆う様にして、そっと目を閉じた。
突如として意識が覚醒した。周囲がざわめき、寝袋から慌ただしく隊員が這いずり出る。芋虫よろしく寝袋から脱出して腕時計を確認すると、丁度日付が変わった時分であった。「IAに備えて待機!」との命令がしきりにがなられ、各自が顔も洗わずに、銃を片手に所定の待機地点に駆けた。状況が急変した。とうとう犯行グループが動き出してしまった。
我々は車輌部隊と航空部隊――ヴェストとダニエル、俺は航空部隊だ――に分かれた。航空部隊にはショーン以外の兄弟をリーダーに置いた十二人が割り当てられていて、半数ずつがヘリパッドで駐機する二機のブラックホーク・ヘリコプターに乗り込み、直径五センチのロープを膝に抱えて待機する。ダニエルは俺と一緒のヘリに乗り込み、俺の隣の席に座った。
機長がヘリのエンジンを起動し、ローターの回転音が耳朶を打つ。地面から砂埃が立ち上り、機内は騒音で満たされた。
〈ブラヴォー・ワン、スタンバイ〉
〈ブラヴォー・ツー、スタンバイ〉
〈タンゴ・ワン、スタンバイ〉
〈タンゴ・ツー?〉
〈タンゴ・ツー、スタンバイ〉
各コールサインを振られたヘリとレンジローバーが、突入準備の完了を告げる。ブラヴォーはヘリ、タンゴはレンジローバーを指していて、俺はブラヴォー・ツーに乗り込んでいた。また、俺の四人編成のチームに割り振られたコールサインはデルタ・スリーであった。
「ヒルバートさん、あんた大丈夫かい?」
レスピレーターを額に乗せたダニエルが、神妙な面持ちで俺の肩を叩いた。彼の顔には興奮がありありと見て取れたが、不安に襲われている気配は窺えなかった。それに比べて俺はといえば、鼻筋を滝が流れていた。恐らく顔面蒼白で死人みたいになっているのだろう。隣の愛弟子が初陣だというのに、この体たらくは何だ。汗をグローブの甲で拭い、引きつった笑みを浮かべた。
「問題ない。それより、お前のケツの穴が増えない様に祈ってろよ」
左の耳に挿入した、通信機と接続したイヤープラグから、狙撃手越しの状況報告が伝達される。
〈アルファ(本部)、こちらシエラ・ワン。犯人が玄関から出てきた……AKを持っている。顔は見えない。人質が一人……女だ、玄関を出た〉
頭の中で最悪のシナリオが構成される。狙撃手のスコープには痺れを切らした犯人が銃を手にして映っている。そいつは人質をその場で銃殺するに違いない。女という事でアバカロフでない事は確かだが、我々の受けた指令は人質の救出だ。誰ひとりとして死んではならない。それこそ、我々の掲げるSASの名を汚しかねない。
〈アルファより全部署へ。IAに備えろ〉
機内の全員がMP7の薬室に初弾を装填した。銃に弾倉はしっかりはまっているか、銃床はきちんと展開されているか、EoTech XPS3――等倍率の光学照準器――に故障は生じていないか。最後の確認を済ませ、レスピレーターを装着する。自分の息遣いが、平生より乱れているのが感じられた。
〈犯人が何か言っている……かなり興奮している様だ〉
額を伝った汗が目に入った。ちくしょう、この程度のストレスで押し潰されそうになるとは軟弱な精神め。そうは言っても発汗は止まるところを知らなかった。
アドレナリンによるものではない心拍数の上昇を必死に抑え付けようとしている最中、イヤープラグから聞こえてきた音声は、遂に鬼気迫るものとなった。
〈犯人が人質に何か指示を出している……両手を頭に、人質を跪かせた……不味い!〉
刹那、通信が途切れ、遠方――銀行の方角――から乾いた破裂音が空気を伝わった。ヘリのローターの回転の真っ只中でも聞こえたそれに、機内の全員が緊張をみなぎらせた。
〈行け!行け!行け!〉
本部から少佐の怒号が各隊員に飛ぶ。重力が一瞬、真逆の方向に働き、二機のヘリが地面から離れる。俺は急いでケブラー(防弾繊維)を樹脂で固めたヘルメットを被った。大概の隊員はカバーオールのフードを被るだけで済ませるが、俺は走って壁などに頭をぶつけたくないので、重くてかさばるこいつを装備する。
〈あと三十秒で到達する〉
冷静な機長の機内通信が入り、各自が限界まで気を引き締めた。ヘリは銀行の北側――窓がない――から接近し、屋根の上でホバリングする。我々はファストロープを落として滑り降り、周囲の安全を確保するまでが第一段階だ。
〈あと十五秒〉
夜闇の中に、銀行に向けて疾走する、隊員を屋根に満載した黒いレンジローバーが見えた。その付近で幾つもの閃光が撒き散らされた。フラッシュ・バンの爆発だ。大音響で犯行グループの注意を散らし、恐怖を与える目的で、室内の突入前にもこうして投げまくる。
銀行の玄関前に、銃を手に仰臥している男と血相を変えて喚き散らしている女を目視した。先程の発砲音は犯人のAKではなく、シエラ・ワンの狙撃銃が火を噴いた音であった。
ヘリが屋根の上空に到達し、二本のロープが落とされた。初めにダニエルがロープを掴んでするすると降下し、次に俺のチームのデイヴ、最後に俺がぎこちなく滑り降りる。役目を終えたロープがヘリから切り落とされると、もう片方のヘリから降下したパーシーがチームに合流した。
各チームはすぐにIA計画で割り当てられた持ち場に移動した。ヴェストのチームが屋上の手摺りにロープを括り付けて窓に向け懸垂降下を始め、デイヴとジェロームのチームのオスカーは、プラスティック爆薬とポリスチレンとで作った枠状爆薬を二枚の明かり取りに貼り付けた。
〈デルタ・ワン、スタンバイ〉
〈デルタ・スリー、スタンバイ〉
〈デルタ・ツー、スタンバイ〉
これで航空部隊の準備は整った。後は本部からの合図を待ち、導爆線で爆薬と繋いだ起爆装置を握る。下方で起こる騒ぎを聞きつけたのだろう。一階の窓の一つから黒いバラクラバ(目出し帽)を被った男が首を突き出した。そいつは外の景色をそう長く楽しまない内に、こちらの狙撃手によって頭蓋を撃ち抜かれ、室内に倒れていった。
〈シエラ・ツー、ホワイト・ワン・ワン(一階の窓)のエクスレイを排除〉
どうやら今しがた犯人を狙撃したのはショーンらしい。頭部に七・六二ミリ弾で風穴の空いた死体が転がった事で、室内から人質の叫び声が爆発した。
玄関前に二台のレンジローバーが停まり、枠状爆薬を先端に着けた棒を抱えた隊員らが、玄関ドアと一階の窓の脇に張り付き、爆薬を仕掛ける。
〈アルファ・ワン、スタンバイ〉
〈アルファ・ツー、スタンバイ〉
〈アルファ・スリー、スタンバイ〉
〈行け!〉
全部署の準備が整ったや否や、少佐の突入の掛け声がイヤープラグで弾けた。各方面で爆薬が轟き、木戸やガラスが千々に砕ける。内部へフラッシュ・バンが投じられると同時に、隊員が迅速に身を滑り入れる。
明かり取りに飛び込むと、俺のチームはダニエル、デイヴ、俺、パーシーの順に、爆風で埃の舞う銀行をライトで照らしつつ、指定された経路に従って進んだ。
侵入地点から間もなく一つ目のドアに到達し、ダニエルがベネリを構える。全員の突入準備が整ったのを確認すると、彼は三発のハットン弾で鍵とヒンジを破壊してドアを蹴り開け、デイヴがフラッシュ・バンを投げ入れた。内側から女の甲高い悲鳴が沸き起こり、こちらの集中を掻き乱そうとする。その部屋に武器を持った犯人の存在は窺えず、部屋の隅で縮こまって喚く人質らが確認出来るだけであった。その全ての顔に銃の右側に装着されたライトと銃口を向け、犯人が紛れ込んでいない事を確かめると、簡単な連絡を本部に寄越し、人質にはその場で伏せている様に怒鳴り付けて部屋を出た。我々は赤十字の看護婦ではない。人質には余計な行動を起こさぬように、びびっておかせた方が都合がいいのだ。
四方八方で物音が響き、ひっきりなしに通信が入っていた。犯人の殺害報告、人質の確保などだ。負傷者は今のところ出ておらず、焦燥と葛藤で霞む視界と思考で、残りの犯人の数を把握しようとしていた。その答えが出ない内に、次のドアに到達し、デイヴが巨大なハンマーでドアを無理矢理に叩き壊した。俺の前にいたダニエルに続いてフラッシュ・バンの閃光に身を投じると、AK自動小銃を手にした二人の犯人と、数人の人質が悶え苦しんでいる光景が狭い室内に広がっていた。犯人の一方にダニエルが機械的に発砲し、赤毛が生えた頭が、熟れ過ぎた果実の如くばっくりと爆ぜる。俺ももう一方の犯人に照準を重ねる筈であったが、それを視界の隅に捉えた瞬間に耐え難い吐き気に襲われた。定めかけた照準が激しく揺れ、勢い指を引き絞った結果、弾丸は犯人の耳を掠めて後ろの壁に穴を穿った。痛みで犯人が反射的に俺に銃口を向けたが早いか、ダニエルのMP7が再び火を噴き、敵の胸に幾つもの穿孔を空けた。犯人は床にどうと倒れ、微動だにしなくなった。
「何やってるんだよ!」
ダニエルが怒号と共に俺の肩を揺さぶる。室内の安全は確保されたが、今の失態は甘んじて受け入れられるものではない。ダニエルの射撃がコンマ数秒でも遅れていれば、俺の生命が今もあったかは危ういものであった。今回使用した弾丸は、硬い標的に命中した場合に弾頭が砕け散るフランジブル弾であったから跳弾はなかったものの、狙いが更に外れて生身の人質に中っていたらどうなっていた事か。想像だけでも恐ろしい。舎弟が初めて人を殺めたというのに、俺ときたら何たるざまだ。
その後も二つの部屋への突入を続けたが、何れも人質が詰め込まれていただけであった。他の部署からの報告を合わせて、現在まで排除した犯人は五人。残りは二人だ。俺のチームが突入する部屋は残り一つで、そこからも人質の叫びが漏れていたが、加えて何やら怒鳴り散らす男の声が混じっていた。間違いなく犯人がいると悟ったチームは、俺を最後尾に部屋のドア脇に控えた。弱った駄目な上官の精神状態を危惧しての、ダニエルの配慮であった。
そのダニエルがベネリを構え、定例通りに三発のハットン弾でドアの機能を壊した。即座にパーシーがフラッシュ・バンを投入して部屋に飛び込み、ダニエルとデイヴがそれに続いてなだれ込んだ刹那であった。
前方の廊下の曲がり角から、喚き叫ぶ女――それと彼女を羽交い絞めにした栗毛の女の犯人が、ぬうと現れた。犯人の右手には、コードで繋がった物体が握られている。その女が着ている服はかなり着膨れていたが、体型によるものではなかった。羽織っているコートの前から、円柱状の茶色の包みが幾つも覗き見える。何てこった。
ダニエル達が突入した部屋から、連続した発砲が響く。ちくしょう、あの女は身体に爆弾を巻き付けている。そいつが今や震える右手を高く掲げ、爆弾のスイッチを押し込もうとしている。
本物か?ブラフである可能性を願った。二人の女はそれぞれ方向性の異なる恐怖に顔の筋を引きつらせ、極度の緊張を露にしていた。あの女はじきに起爆スイッチを押す。直感がそう告げた。
爆弾が本物かどうかを確かめる術と時間はない。そうだとして、爆発の規模はどうだろうか。考えている場合ではない。肩に着けた銃をそっと目線の高さまで持ち上げ、赤い照準を女に重ねた。胸は人質が抱えられているせいで撃てない。頭を狙って延髄か脳幹、頸椎を破壊するしかない。こんな状態の俺に、精密な射撃が叶うか。様々な憶測が飛び交う中、視界にぶれが生じた。
腕が張り詰めて銃が震え、周囲の世界がスローモーションに感じられる。胃の中から食道にかけて、内容物がこみ上げる感覚があった。全身の汗腺が異常な活動を始め、背筋が凍りつく様に冷えた。レスピレーターの内側では、自分の呼気が止まる気配もなしに不規則に吐き出される。
他の隊員に撃って貰うか?無理だ。手の空いている者は近くにいないし、到着を待つ時間の余裕もない。腋の下に嫌な湿り気があった。思考だけが目まぐるしく錯綜し、にわかに涙が滲んだ。――俺がやるしかない。
震える腕を筋力で抑え付け、もう一度照準を犯人に向けて合わせた。現状で脈拍を制御する事は叶わない。拍動の間を見極め、その隙に引き鉄を引き絞るしか手立てはない。指を引き鉄に掛け、遊びがなくなるまで絞り込む。犯人の指が、小さなスイッチに添えられた。最早、猶予はなかった。
揺れる照準を女奴隷の鼻に定める。電源駆動の照準が四方八方に散る。落ち着け。頬や顎では駄目だ。爆弾の起爆を止めるには、脳と脊髄を断ち切れる部位に確実に中てなければならない。一発で決めなければ、少なくともあの人質は死ぬ。
脳裏から這い出してきたトラウマが、視界の制御に侵入した。過去に手に掛けたあの女の姿が犯人に重なり、上書きされる。濃いブラウンのボブカット、冷めた碧眼に雀斑の浮いた青白い肌。黒のセーターにぴっちりしたジーンズを身に着けている。フラッシュバックだ。思考回路は一瞬で結論を出しているのに、神経が指への命令を受け付けない。
混沌とした一秒間だった。まだ引けない、照準がぶれている。力を抜け、呼吸を整えろ。口内がどうしようもなく乾く。皮膚がひりつき、全神経が悲鳴を上げる。視界の霞が濃くなる。薄暗がりの中で対峙する状況が、過去の光景と重なる。あの時と同じだ、殺せ。
一種の脅迫に駆られ、衝動的に重い指を引き絞った。確かな反動が肩を伝わり、上半身で吸収される。短い銃身から射出された弾丸は、女の口腔を精確に貫いていた。職業柄付いた癖で、自然な流れで次弾が発射される。着弾点を修正し、目と鼻の先で二つ目の発砲炎が上がり、女の右目を潰す。女の全身から力がふっと抜け落ち、糸の切れた操り人形の如くその場にくずおれる。手には起爆装置が握られたままだ。銃を下ろし、死体へと駆け寄る。女の拘束から逃れた人質が泣き喚くのを横に突き飛ばし、腕を踏み付けて起爆装置を放させた。
犯人は確実に絶命していた。そう分析は出来ていたのに、身体が脳からの信号を無視した。荒い呼吸は治まるどころか悪化の一途を辿り、嗚咽までが混じる様になった。異常な圧迫感が身を襲い、眼球が飛び出す錯覚さえ抱いた。そして何を思ったか、斃(たお)れた女に向けて何度も弾丸を撃ち込んだ。女の服が見る間に赤黒く染まり、敷かれたカーペットに異臭を放つ液体が染みる。四十発の弾薬が入る弾倉を空にして、次の弾倉に手を伸ばしたその時、肩に何者かの手が触れ、行動を阻まれた。ダニエルだった。
「いいんだ。もう死んでる」
その声は叱責するでもなく、憐れみを示すものでもなかった。ただ状況を俺に諭す。それだけが目的の、感情の抜け落ちた声であった。
犯人の女は変わり果てた姿になっていた。頭部には最初に撃ち込んだ二発が小さな穴を穿ち、胸と腹には三十発を超える鉄塊によって抉られた、みるもおぞましいクレーターが横たわっている。周囲には白い破片――砕けた肋骨だろうか――が散らばり、腸の内容物が発している腐臭が漂っていた。改めて見直したが、何処もあの女と似ている部分などはなかった。羽交い絞めされていた人質は、すぐ隣で失神していた。
ダニエルは胸元から黄色のサイリュウムを取り出すと、折り曲げてから犯人の死体に置いた。処理班に爆発物の位置を知らせるもので、黄色なのは煙の中でもよく目立つ色だからだ。
ダニエルは俺の腕を引いて玄関へと誘導した。玄関前の道路には人質が集められ、事前に収集した情報と照らし合わせて犯人が混じっていないかの確認作業が進められていた。警察官が目まぐるしく走り回り、報道規制や事後処理に勤しんでいる。
人質の確認作業が取れると、彼らは車輌に載せられて何処かへと運ばれていった。我々は銀行の中で待機していた。爆発物の処理と回収は既に住んでおり、粗製のダイナマイトである事が分かっていた。犯行グループの鎮圧からしばらく経っていた。不意に膝が笑い始め、手の震えが止まらなくなった。呼吸は相変わらず平常運行に戻ってくれなかった。それに気付いたダニエルが、そっと腰に手を回したところで、手帳を手にした初老の男性警官が玄関から入ってきた。
「事情聴取を行うから、犯人の遺体まで案内してくれ」
初めにダニエルが射殺した犯人を見聞した。何れも頭部と胸の急所に数発を撃ち込まれており、行動を阻止されていた。見事だ。最初の仕事でこれだけやれていれば、もう何も言うべき点はない。警官はダニエルに幾つか質問を投じた。どういった状況で撃ったのか。何故射殺する必要があったのか。そういった質疑に、ダニエルは冷静かつ的確に返答を寄越した。
それから二人ほど事情聴取が終わり、とうとう俺が殺した女の番が回ってきた。既に血が殆ど抜けて顔が蒼白になっている。悪臭が立ち込め、警官が表情を強張らせる。首筋にじわりと汗が生じる。自分の所業とはいえ、余りにむごい死に様だ。警官はしかめ面で俺に向き直った。
「ここまでやらなければならなかったのかね?」
彼の言葉はもっともだった。特殊部隊としての判断の欠如、並びに理性を喪失した蛮人と化した自身に、反吐を生す思いであった。
「犯人は人質をその腕に拘束していました。加えて、身体には爆発物を巻き付けて、いつでも起爆出来る状態でした」
可能な限り平常心を装って口を開いたが、鼻筋を幾つもの水滴が通っていった。神経が限界を振り切っている。目尻は絶えずひくついて、まともに目を開いていられない。
「爆発の規模が分からなかったので、起爆させない様に最善を尽くしたまでです」
その言葉を信用したとは思えぬ訝しみを警官は示したが、彼は鼻息を一つもらして手帳にペンを落とした。何とか切り抜けられた。軽い安息を覚えるや否や、耐え難い吐き気を催した。俺は警官に失礼と残し、その場から逃げ去る様にして銀行の外へ駆けた。
玄関から戸外へ出て、近くにあったプランターの陰にうずくまると、臨界点に達した吐瀉物を目の前の地面に散らした。黄土色をしたそいつを何度もえづきながら体外へ排出したが、胃の中が空になっても不快感が治まらなかった。気管が胃液で荒れて、焼け付いた風になっている。汚れた口許を拭いもせずに、プランターに寄り掛かる。
人知れず、涙が零れていた。何が部下の初陣を見届けるだ。矮小な自己を恨んだ。今回の作戦への参加はその実、自分が連隊にとって不必要な分子でありたくないというエゴが生んだ逃避行動ではないか。自らのトラウマに立ち向かうなど、あてつけもいいところだ。
様々な液体で顔面がぐちゃぐちゃになっていた。そこに、ダニエルが一人でやってきた。余り好ましくないタイミングで現れるやつめ。今度はやけに親しげな、それでいて遠慮のある顔だった。
「さっきは悪かったな」
何の事だと問い返そうとすると、突入時の粗暴な罵声の件だと言う。表情も繕わずに別に気にしていないと返すと、彼は優しく笑みを浮かべた。
「もうそろそろ事情聴取が終わる。先に本部へ戻ろう。幸い、この暗さだ。あんたの不細工な面は、遠くからじゃ見えないだろうよ」
そう言って、ダニエルは尻を地面に着けた俺に手を差し伸べた。
「行こう、ボス。こんなくそ壺からさっさと帰ろう」
彼はこうまでろくでなしの俺を慕ってくれた。何も言わずとも俺の心情を最初から汲み取り、今でも俺を連隊の一員だと認めてくれている舎弟へ素直に感謝の念を示しつつ、その腕を取り、本部へとゆっくり歩き出した。