※この作品はR-18です。

奴隷邂逅   作:紙谷米英

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本作は縦読み推奨となっております。


奴隷邂逅6

 

【13】

 

 作戦本部に着いてから、俺はトイレでもう一度胃液を吐き散らし、個室の壁に寄り掛かって数分を過ごした。仮設トイレの悪臭が鼻についたが、それよりも自分の鼻腔に逆流した液体の臭いの方がきつかった。便器の水面に浮かぶ黄色い物体を視界の隅に、自分の不甲斐なさに反吐を催し、再び人らしからぬ嗚咽を伴って便器に両手を突いた。

 我々の装備は全て警察に回収された。後で警察が犯人殺害の正当性などを調べる為だが、果たして意味があるかどうかは知らない。とにかくそれが決まりなので、我々は従順に従い、各人に一枚ずつ配られたビニール袋に自分の装備を放り込んだ。

 早く帰りたい。それだけが、目下の願いであった。酒を飲むだけの気力もない。ただソファーに寝そべり、暖かい毛布にくるまって床に就きたい。空腹は辛いが、胃に物を入れても、すぐに吐き戻すのがおちだ。とにかく、両目蓋を瞑って眠りたかった。

 時刻は午前の三時を回った辺りであった。視界に入るものが一体何なのかさえ区別がつかなくなってきていたところであった。ダニエルが肩を揺さ振り、マイクロバスに乗り込む様に告げた。どうやら、基地に戻れるらしい。半ばダニエルに肩を担がれる様にしてマイクロバスに乗り込み、席に着かせて貰うと、息をする間に眠りに落ちた。

 次に目を開くと、またしてもダニエルが俺の肩を揺さ振っている場面であった。夢さえも見ない程に疲弊していた。今度はダニエルに引きずられる様にして降車して基地に入り、各自が事後報告を行った。俺は何を話したかもよく分からない内に、連隊長――ブラッド・クリーヴズ中佐。白髪混じりの頭を綺麗に刈り込んでいるアフリカ系で、D中隊を除いて俺の来歴を把握している数少ない御人だ――から、もう帰っていい、そして今日は休みを取れとのお言葉を戴いた。俺は連隊長に謝罪と礼を述べ、荷物をまとめて基地を出た。

 おぼつかない足取りで自分の車のドアロックを解除しようとすると、ヴェストが口笛を吹いて俺を呼び止めた。

「こんな早朝から事故死したいのか?俺の車に乗っていけ」

 一度断りを入れたが、ヴェストは断固として譲らなかった。ふらふらの俺を自分の赤のアウディの助手席に放り込むと、そのままエンジンを回し、我が家へと疾走した。頼りになるお兄ちゃんだ。

 朝の空いた道路では、五分も経たぬ内にオフホワイトの我が家に到着した。ヴェストに礼を言って車のドアを開けると、彼は俺の肩を掴んできた。

「作戦に参加したやつらは、全員休みになった。気兼ねせずにしっかり休めよ」

 無理に笑顔を作って別れを告げる――気管が荒れて、涸れた声だった――と、マフラーから灰色の排気ガスを吐いてヴェストの車は去っていった。色男のあいつの車には、今まで何人の女が乗ったのだろうかと疑問を抱いたが、考えていられる状況ではないと、玄関ドアに鍵を差し入れた。

 閑散とした表から家中へ身を入れると、不思議と安心を味わった。ブリジットは眠っているのだろう。屋内はしんと静まっていた。ため息を一つ漏らしてブーツの泥をこそぎ落としていると、二階からの物音が静寂を破った。まさか、な。べっとりとした固唾を飲んで玄関で様子を窺っていると、階段をぱたぱたと下りてくる足音がする。しまった、起こしてしまったか。頭を掻いて後悔の念を噛み締めていると、ドアノブカバーに似た淡青のナイトキャップを被ったブリジットが、同じ色の寝間着に薄い上着を纏ってやってきた。

「お帰りなさいませ」

「悪いね、こんな時間に」

 ひどいしわがれ声だ。彼女は首を横に振ると、無言で俺の荷物と上着を預かって片付ける。俺はキッチンで顔と手を洗う。ふと脇を見ると、ガスコンロの上に大きな銀色の鍋が鎮座している。誘惑に駆られて蓋を開くと、どうやらビーフシチューらしい。一人しかいないってのに、わざわざ作ったのか。俺が帰ってくるのを見越していたとも考えていたが、それは望み過ぎだろう。お前は自分を何様だと思っていやがる。

 その姿を見ていたブリジットが、両手の指を胸の前で絡ませて問うてきた。

「今から温めましょうか?」

 こんな朝っぱらから、そんな恐れ多く申し訳ない注文を出せるか。空腹の俺は、そう口を開こうとした。

「じゃあ、お願いしようかな」

 何を口走っているんだ、俺は。すぐに言い直そうとしたが、その時、既にブリジットは換気扇を始動してコンロの火を点けていた。途端に漂う香辛料の匂いに、俺の理性は吹っ切れた。流石にもう胃腸は安定しているし、彼女の厚意だ。ここは素直に受け取っておこう。疲労にやつれた身体をソファに沈ませ、シチューが温まるのを待った。

 陶器がガラスのテーブルにぶつかる音で、自分がまどろんでいた事に気が付いた。目の前にはかぐわしいシチューの皿と、温められたガーリックトーストが乗った皿が置かれている。カーテンの引かれた窓から、白みかけた朝の光が漏れて、電気も点けられていない部屋を薄ぼんやりとした光で包む。

「お待たせしました」

 ブリジットの声がしじまを破り、彼女は俺の右手側のソファに腰を据えた。俺は軽く礼を言って、ステンレスのスプーンに手を伸ばした。立ち上る湯気からは、香辛料と赤ワインの芳醇な匂いが鼻腔を愉しませる。様々な栄養分が溶け出したルウにスプーンをくぐらせ、ニンジンをよそって口に運んだ。――美味い。食道も胃も腸も弱っていたが、舌と喉は正確に味を認識してくれた。ジャガイモのとろみが、ルウに溶け出している。ガーリックトーストと併せて食べると、それぞれの味が際立ち、弱った身に食欲を誘う。スプーンを握る手の動きは緩慢ながらも、止まる事はなかった。

「今日は休みになったんだ」

 左手にトーストを持ちつつ、当たり障りのない台詞を投げる。

「左様ですか」

 そうして再び家に静寂が訪れた。二人の間には、皿をスプーンが突く音のみが気不味く響く。気の利かない自分のおつむは憎たらしいが、憔悴した身にこの上鞭を打つ所業は重ねたくなかった。

 話題を求めてテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を入れる。液晶にBBCの女性キャスターが映り、株価の推移を読み進めている。テレビの音声を右から左に、ぼんやりとジャガイモを咀嚼していると、不意に画面が夜の場面に切り替わった。首都近郊、我々が人質救出に赴いた、あの銀行だ。シチューを掬う手が、はたと止まった。報道規制が敷かれていた筈なのに、黒ずくめの我々の姿が、遠方に潜んだ優秀なテレビクルーの手でカメラに収められていた為ではない。水の滴る氷の腕に首筋を掴まれた様な感覚が背筋を走り、映像から目が離せなくなった。俺は確かにあそこにいた。野次馬の中の一人としてであったら、事情は違っただろう。だが、俺はあの場に別の目的で存在していた。人質を取った犯人を殺す目的で。

 シチューの器が、ごぽりと音を立てて泡を発した。それが連続して湧き起こり、不定形の液体が一つの形を成してゆく。何者かの顔だ。あの母親か、それとも少年だろうか。そのどちらでもなかった。俺がつい数時間前に惨殺した、あの女奴隷の顔が皿の上に現れた。怯えた目の女が、ゆっくりと口を開く。

「お前が私を殺した」

 仕方がなかった。あんたが起爆装置に手を掛けた時、誰かが撃たなければならなかった。それが偶然に俺だっただけだ。第一、我々はその為に派遣されたのだ。女は再び語り掛けてきた。

「お前さえいなければ――」

 俺がいなかったらどうだったと言うのだ。どの道、お前は連隊の誰かに脳味噌をぶち抜かれていただろう。自分がやろうとした事を思い返せ。ぶち殺されて文句の言える立場でななかっただろうが。スプーンを握る手が震えた。女の顔に、薄ら笑みが浮かぶ。

「自分やその娘と同じ、奴隷を殺したんだよ、お前は」

「黙れ!」

 発作的にスプーンを逆手に握り、皿の中心に叩き付けていた。皿の中身が方々に散り、頬に返り血みたいにへばり付いた。視界が狭まり、口から荒い息遣いが漏れる。飛沫が弾けた皿の中に、女の顔はなくなっていた。

 そうして何秒が経過しただろう。心拍が安定してくると、周りが見える様になった。唖然と口を開いて、ブリジットが硬直していた。俺の衣服にまでシチューが飛んでいた。何か弁明の言葉を見付けようと、スプーンから手を離して身振りで何かを伝えようとしたが、狼狽で両手が空を掻き乱しただけだった。

 病に侵され、幻覚に惑わされた末に奇行に走った男の姿を想像し、頭が真っ白に染まった。どうして俺ばかりが、こうまで苦しまねばならないのか。膝の上で、爪が食い込むまで拳を握り締めた。とうとう見せてはいけない滴が、目尻から零れた。

「ヒルバート様……?」

 不審を表したブリジットを、説得出来るだけの弁解を考える余裕もなかった。銀行の立て籠もりが起きてからの情報が頭の中を駆け巡り、我を忘れて何が何やら分からなくなっていた。自律神経も抑制を失い、全身の汗腺から異臭を放つ液体が出ていた。

「いや、違うんだ……。これは……」

 片手で顔を覆い、涙を隠そうとしたが、液体は指の間を抜けていく。次第に鼻水まで垂らす勢いを以て、嗚咽を発していた。奴隷を殺した事、連隊への負い目、兄弟の中で自分だけが特別扱いされている事実、ブリジットに対する不甲斐なさが絡み合い、感情の制御を全て失った。ここにいるのは最早、最強の特殊部隊の一員ではない。大人になる段階を踏めずに育った、矮小な出来損ないだ。

 自制を欠いた身体が震え出した。落ちた液体がカーペットに染みを作る。塩の味がする口は、既に人語が出せる状態ではなくなっていた。

 涙と鼻水で手がべとべとになっていた。目の焦点が定まらなくなった。系統だった思考は引き裂かれ、またも胃腸がひっくり返る感覚があった。

 軽蔑されただろう。唾棄すべき存在だと見なされただろう。ブリジットとの間に醸成しようとしていた信頼は、この瞬間に跡形なく霧散した。ようやく手にしたと思った治療の機会が、息をする間に潰えた。別の絶望が併合した事で、俺の慟哭は尚更に収まらなくなった。

 年甲斐ない醜態を晒し続ける俺に、ブリジットはどういった目を向けているのだろう。確認する気にもなれず、俺はずっと腕で目を覆って伏せていた。親父から借りた金も、周囲の期待も、全てが灰塵に帰したのを悟った。

 そのままブリジットが寝室に足を向けるなりしていたら、俺は少しは冷静になれたのかもしれない。だが、彼女は驚く事に俺の身に手を伸ばし、肩に触れたのであった。俺は反射で、その手を弾いてしまった。僅かにすくんだ彼女の表情に罪悪感が芽生え、いたたまれずにその目から逃れようと背を向けた。さっさと見捨ててくれ。俺は他人様に誇れる男じゃないんだ。

 このままナイフで一思いに胸を貫きたかった。そうすれば、この苦しみから解放される。誰よりも臆病な自分なぞに出来る訳がないと即座に帰結して、ソファの上で膝を抱えた。ブリジットの視線が、尚も背中に感じられた。

 パンツの膝の部分がびしょびしょになって間もなく、それは何の兆しもなく起こった。汗をかいた背中に、物理的な衝撃が加えられた。それ自体はとても軽いものだったが、その正体を判断するのに時間が掛かった。冷えた背中に、ブリジットの体重と体温を感じる。首には彼女の両腕が回されており、胸の前で交差していた。他者への拒絶を示した俺を、ブリジットが抱いていた。

 余りに意外な彼女の行動に、疑問を持つ以前に困惑した。回されていた腕は、優しくも力強いものであった。腫らした目を後方へ向けると、ブリジットと視線が合った。全てを許容する、聖人か何かみたいに落ち着いた、静かな海原の様な瞳であった。まるで、今まで積んだ罪業を赦しているかの如き眼差しだ。

 自分の中で、何かが音を立てて融解した。自我などとうに失われていた。だがこの時、遂には自律を放棄した。俺はがばと振り返ると、彼女の身体が華奢な事などお構いなしに抱き付いた。その上で、小さな胸に顔を埋めて吼えた。エプロンが鼻水で汚れるのも慮らず、心の奥底から精神の防波堤を崩して流出した濁流への恐怖にむせび泣いた。濁流の規模は大き過ぎて、心の大半を埋め尽くしていく。ただ、それに飲み込まれない様しがみ付く拠り所を、俺は無心に求めていたのかもしれない。

 ようやく本来の精神の年齢を曝け出せた男の頭を、ブリジットはそっと撫でていた。久しく触れていなかった、慈愛の手だ。緊張からの解放か、それとも意地を張る必要がなくなったからだろうか。ただ、涙が止まらなかった。

 

 

【14】

 

 目脂の付いた瞼を開いて始めに視界に入ったのは、カーテンの隙間から零れる昼の陽光だった。思考に掛かった霞を振り払う様にして目を擦り、状況の把握をする。ソファの上で片足を放り出して横になり、気だるさの残る身体には薄い毛布が掛かっている。着衣は昨日のままで、頭髪には皮脂が付着している。ぼんやりと窓の陽光を眺めていると、リビングのドアが開かれた。

「あら、起きられましたか?」

 この家のたった一人の同居人であるブリジットは、柔らかな物腰で語り掛けると、エプロンの紐を揺らしてキッチンへと向かった。どうやら紅茶の準備をしているらしい。電気ケトルがくつくつと音を立てる頃になると、脳味噌がゆっくりとベッドから這いずり出てくる感覚があった。「おはよう」挨拶はいいから、とりあえず就寝前の記憶を呼び覚ましてくれ。

 毛布をソファの片隅へ押しやりつつ、昨夜の回想に耽ると、気恥ずかしさに眉根を寄せた。何て事をしちまったんだ。自分より十も若い女の子に抱き着いた挙句、その胸に顔を埋めて鼻水垂らしてびーびー泣き喚いたのだ。このまま毛布にくるまって、外界の全てから遮断されて余生を過ごしたい。

 本当に頭から毛布をすっぽり被って唸っていると、ガラステーブルに陶器が接する音がした。

「今日は少し砂糖を多めにしました」

 ブリジットは毛布団子にそう告げると、キッチンへと戻っていった。今朝は何事もなかった。まるでそんな風に、彼女はただ紅茶のカップを置いていった。毛布から孵化して湯気の立つ紅茶を啜ると、確かにいつもより甘かった。胃にじわりと温かみが広がり、かすかに不安が和らいだ。だが、それでも不審な点があった。

 何故、彼女は平静を保っているのか。まずはそれが分からない。自分の雇用主が腑抜けと知ったら、明日の我が身を案ずるのも無理はない。いつ崩れるかも知れない砂上の楼閣に身を預けるやつはいない。

 ところがどっこい、すぐ隣のキッチンで鼻歌交じりに卵を割っている少女を見てみろ。あたかも現状を嬉々として受け入れ、迎撃態勢は整っているとでも言わんばかりに自信に満ち満ちている。正直に言って不気味だ。モールで初会したあの日に、お立ち台にぺたりと座り込んでいた奴隷とは似ても似付かない。

 第一、どうして鼻歌の選曲が『ワルキューレの騎行』なのだ。キルゴア中佐(映画『地獄の黙示録』の登場人物)よろしく、朝っぱらからナパーム弾でも落とすつもりか?物騒な朝食だよ。消し炭すら残らないぞ。

 程なくして、両手に皿を持ったブリジットが柔らかな笑みを湛えてやってきた。彼女は皿――山積みのパンケーキだ――をガラステーブルに置き、一つしかないソファの俺の隣に腰を落ち着けた。温められたバターがパンケーキに乗せられ、ナイフとフォークが添えられる。悪くない朝食だ。うちにパンケーキミックスはなかった筈なので、きっと昨日の内に買っておいたか、または小麦粉からわざわざ作ったのだろう。

 パンケーキを見つめていると、アイボリーのメイド服を着たブリジットが怪訝そうな顔をした。

「食べられないのですか?」

 純然たる疑問を持った双眸が向けられる。緊張や警戒といった態度は見られない。昨日までの小動物を思わせた彼女は、何処へなりを潜めたのだろうか。

「いや……戴くよ」

 ナイフを手に取ってパンケーキに刃を入れ、フォークを突き刺して口へ運ぶ。バターの風味が口内に広がり、優しい甘みを持つ生地の弾力を味わう。焼き色も綺麗で、ちょっと高級な喫茶店で出しても遜色ない。ブリジットも俺が手を付けてから、自分のパンケーキにナイフを入れた。その所作から躊躇いなどは窺えず、俺の隣に座している事など気にも留めていない様子であった。そうして観察されていた事に気付いたのか、食事の手が止まっていた俺に、ブリジットはまたも疑問を投げ掛けてきた。

「どうかなさいましたか?」

「いや、別に」

 まさか「先の緊迫した雰囲気はどうした」と訊く訳にもいくまい。紅茶を啜って誤魔化し、掛け時計に目をやる。十四時三四分。どうやら八時間近く寝ていたらしい。顔面が脂にまみれているのも説明が付く。食事を終えたらシャワーを浴びるとして、ブリジットに今朝の痴態をどう釈明するかを思案した。この上なく憂鬱だ。ジェロームに抱き着かれるくらいには不愉快だ。

 パンケーキを平らげると、毎度の如くブリジットが手早く食器を片付けてしまう。こちらが手を出す暇すら与えず、運んだそばから洗い始める手際に、ため息が漏れた。何だってこんなに良い子が、うちなんかに身を置いているんだ。可愛そうに。

 

 汚れた着衣を脱ぎ捨てて浴室に足を踏み入れると、バスタブに湯が張られていた。折角の厚意を無下にするのも気が引けるので、身体の汗と泥を落としてから、ゆっくりと巨躯を湯殿に沈めた。

四一度に沸かされた湯の中で身を丸くし、鼻まで浸かって思案に耽る。どうしてこんな事になったのだろう。生きる目的を見失っていたところ、親父に奴隷を買う様に命じられ、ブリジットを家に招き入れて寝食を共にし、銀行強盗をやらかした奴隷を殺害して……。回想をしている内に、強い吐き気に襲われた。バスタブの縁に両手を突いて息を荒げ、鼻の頭から生じた汗が床に落ちる。内心で否定はすれど、過去の自分に鉛弾を喰らわせたのだ。身が引き裂かれる錯覚さえ抱く。かつて親父に拾われて剥がせた筈の奴隷の名札を、未だに引きずっていたという証明に他ならない。

 だが、その後は?憔悴して家に戻った俺に、誰よりも不安定な心理でいるであろうブリジットは、どう接してきた?こちらの事情さえ知らないのに否定の片鱗さえ見せず、真っ向から受け入れてくれた。今朝のあれは幻覚か何かとも疑ったが、どうやらその線も薄い。ともすると、彼女の行動は何に裏付けられたものか。大の男の涙に動揺し、とち狂ったというのだろうか。それだけでは説明が付かない。少なくとも俺の目には、彼女はごく律動的な態度を保っていた様に見えた。

 吐息が水泡となって水面に浮き、音を立てて弾ける。次第に思考するのに倦怠感を覚えてきた。早い話が、俺に頭脳労働は務まらないという訳だ。いよいよ面倒臭くなった議題に終止符を打ち、バスタブから身を揚げる。後でブリジットも浸かる可能性を考慮し、湯に浮かぶ縮れ毛を回収した。

 浴室を退出し、いつの間にやら用意されていた衣服を纏ってリビングに戻ると、ブリジットが電子レンジの前で国家を口ずさんでいた。部屋中にチョコレートの甘い匂いが漂い、小腹の飢えを感じた。

「何か作っているのかい?」

 ブリジットはエプロンのフリルを翻して振り向くと、口角を優しく上げた。

「ブラウニーです。紅茶をお淹れしましょうか?」

 返事を聞く前から、ブリジットは早速カップを温め始めた。相変わらず手慣れたものだ。きっと調教施設にいた頃から、主だった炊事を担っていたのだろう。舞踏にも見える所作には、尊敬の念を抱かざるを得なかった。間もなく二人分の紅茶が淹れられ、ダイニングテーブルに二脚のティーカップ――おや、貰ってから食器棚の奥に押し込んで、一回も使っていなかった〈ウェッジウッド〉だ――が置かれた。濃いミルクティーが六五度に冷めるまで、何かお喋りでもしようかと考えたが、如何せん昨日の件で疲労した脳が動いていなかった。話題探しにテレビを点けると、相変わらずBBCでガラス窓の破れた銀行が映っていた。勘弁してくれと小声でごちたが、ブリジットに事情を説明するのには好都合だと判断した。格好悪い話を持ち掛ける決意を下すと、ティーカップに触れて温度を確認しつつ、彼女に向き直った。

「ブリジット、今朝の話だけどな」

「何も言わなくていいですから」

 次の句を発する前に、口の動きが止まった。半開きのままの唇が合わさらず、目を丸くした。彼女は毅然とした口調で、こちらを真っ直ぐに見据えていた。

「今は何も仰らず、ただお休みになって下さい。ヒルバート様が落ち着いた頃に、お聞かせ願います」

 そうしてそっと微笑むと、ブラウニーの様子を見に席を立った。俺は俺であんぐりと顎を落として、目で彼女の背中を追うだけであった。きっぱりとした態度ではあったが、奇妙にも冷徹とか無関心という風ではなかった。変な女だ。小動物みたいに縮こまっているかと思いきや、今やくそったれの俺を前にして動じる素振りも見せやしない。一体全体どうなっちまってるんだ。教えてくれよ、父ちゃん。同じく変人のあんたなら分かるだろう。心の中の頼りの親父は答える。「ビールには、枝豆だ」俺は一人で悩み抜く決断をした。そんなの、フィッシュ&チップスに決まってるだろうが。

 そんな風に腐りかけの脳細胞を発電機に繋いで唸っていると、ブリジットが大皿に食パンの塊みたいなブラウニーを乗せてやってきた。おい、随分とでかいな。何人分だ?隣近所とでも分けるのか?無言で食パンブラウニーにナイフが差し入れられ、切り落とされた一片が俺の皿に取り分けられた。

「甘いものはお好きでしたよね?」

「え?ああ、うん」

 いつそんな情報を与えただろうか。そうだ、首都からヘリフォードへの片道切符を、彼女に握らせた車内でだ。焼き菓子は好きだとか何とか言った記憶がある。だが、それだけで手間を掛けてブラウニーを焼くだろうか。俺に気に入られる策の一環とも考えられるが、今はそれどころではない。彼女が俺の泣きっ面に動揺を示していない理由を見出すのが先だ。ちくしょう、いい匂いだな。

 ブリジットは自分の皿にもブラウニーを取り分け、残りのブロックにラップを掛けた。その手に、思わず視線が奪われた。指先が繊細で陶人形の様に白く、爪が深爪気味に切り揃えられている。指は如何にも華奢な造形で、ぶつけたら砕けてしまいそうな程に儚い。指の腹はしっとりとしていて柔らかそうだ。俺の視姦を察したブリジットがこちらに疑念の籠もった表情を向けたので、何食わぬ顔でブラウニーにフォークを入れた。程よい甘さの中に、ブランデーの芳醇な香りがふわりと広がる。その奥から、砕かれたアーモンドの香ばしい風味が顔を覗かせ、後腐れが残る前に去ってゆく。成る程、実に美味い。食後の紅茶と茶菓子というだけでも、この子を家に招き入れた甲斐はあったと実感する。

 いつの間にやら、テレビの画面は事件現場の銀行から、首都のヘドロの浮かぶテムズ河へと移り変わっていた。河の向こう岸には、我々を自分の手先みたいに使役する組織の一つである、内務省のMI5(情報局保安部)の本部――テムズハウスが鎮座している。忌々しい制服組ではあるが、やつらが仕事を持ってこないと我々の組織そのものが不要とされてしまうのが難点である。そんな風に大人の事情に愚痴を漏らしていた時に、物腰の柔らかな声が掛けられた。

「ヒルバート様、本日のご予定はありますか?」

 はて、この子が我が家に来てから初の休日となった訳であるが、何しろ昨日からゲロを吐き散らしてばかりで半ば混乱したままで乗り切った感がある上、帰ってからもろくな行動を取っていないものだから、その日の予定なんぞに思考を割く余裕もくそもあったものではなかった。だからと言って、昼時の今から大それた行動を取るには時間が足りない。

「いいや、何もない。今日は家で休むとするよ」

「左様ですか」

 ブリジットはぱんと両手を合わせると、目を細めて表情を綻ばせた。何がそんなに楽しいのか。俺はブラウニーをもぐもぐやりつつ思案しようとしたが、他の問題で既に脳味噌の物理メモリが満杯だったので、断念した。てんで使えないおつむめ。今度〈テスコ〉で買い換えようかしら。ビール一杯くらいの額で買えるかな?濃いミルクティーを啜りながら、阿呆らしい議題に真剣になる自分を嘲った。お前もう幾つだよ。

 互いがブラウニーを胃に収めると、ブリジットは昼食の下ごしらえに取り掛かった。既に洗濯は済んでおり、今日は外に衣類が干されている。普段はドラム式洗濯機の乾燥機で済ませているので、風にたなびく白いブラウスやエプロンというのは新鮮な光景だ。そして、通りからは見えない様になっているが、こちら側からはブリジットの下着が丸見えなのには参った。――水色とピンクか。可愛いじゃないか。

 その着用者であるブリジットは、キッチンでレタスを相手に包丁の刃を入れようとしていた。生野菜なんて、自分一人では絶対に用意しようなどと思わなかった。世界一不味い缶詰を我慢して食べれば、ビタミン不足にはならなかった。それが今や、瑞々しい生鮮食品を新しいままに食えるというのだから、涙の零れる心地である。テレビのBBCがまた首都の銀行を映したので、本当に涙腺が刺激されそうになった。

 指で瞼を抑えて感情の流出を抑えていると、唐突にどかんという衝突音に腰を浮かした。見ると、キッチンでブリジットがタマネギを敵に苦戦していた。包丁がタマネギの中程にまで食い込んでいる。そしてまた、プラスティックのまな板に包丁が激突するおぞましい音が響く。どうやら、ブリジットが野菜を力任せに叩き切っているらしい。彼女の料理の手腕は大したものだが、その様子は余りに危なっかしい。当のブリジットも、その細身の腕に体重を掛けて食材を無理くり断っていた。反射的にソファから立ち上がり、キッチンへと歩を進める。ブリジットの隣に立って、その手からそっと包丁を掠め取った。微小に動揺を示したブリジットをそっちのけで、俺は包丁の刃を光にかざす。思った通りだった。

 包丁はホームセンターで上から二番目ほどの価格で売られていそうな総ステンレス製で、かなり使い込まれた風であった。うちにあったものではない。彼女の私物なのだろう。包丁の持ち主に向き直り、そっと問い掛けた。

「この包丁はいつから使っているの?」

「ええと、二年ほど前からですが……」

 おずおずと答えたブリジットを前に、軽く頷いた。俺はシンクの下の棚を開き、直方体の塊を調理台に置いた。セラミック製の水砥石だ。それの表面を十分に濡らし、適当な角度を付けて包丁をあてがった。

「刃が潰れていたんだ。だからまともに切れなくなっていた。これくらい高級な包丁なら、買い換えずとも研ぎ直せばあと三年は使えるよ」

 三分ほど掛けて刃の片面を研ぎ、裏に返して『カエリ』を落とす。砥石というと、欧米ではホーニングオイルを使うオイルストーンが主流だが、俺は好んで日本の水砥石を使っていた。理由の一つには、オイルを別途使わないので経済的だという点が挙げられる。もう一つは、単純にオイルで周囲が汚れないからだ。カエリを万遍なく落とすと、シンクの下から更に二つの水砥石を取り出し、それでも包丁を研ぐ。粒状の異なる砥石に当てる事で、より鋭利な刃を付け直す。親父も酒の席で言っていた。「弘法の禿げ野郎だって、筆くらいは選ぶだろうよ」腕の立つ者が、良い道具を使うべきなのは言うまでもない。ブリジットの場合は、それが調理道具たる包丁だったという訳だ。俺が包丁の治療をしている間、彼女はじっとその作業を見つめていた。三つ目の砥石での研磨を終えると、水ですすいでタマネギに落とす。かつての輝きを取り戻した刃は、抵抗なく受け入れられた。自分の仕事が目に見える形で現れた事に惚れ惚れした。

 指先で包丁を回してブリジットに返し、そのままソファへと戻ろうとすると、背中から呼び止められた。

「あと一本、切れ味の悪いナイフがあるんですけど……」

 ここでふと、こんな事例があったかと思案した。つまり、彼女の方から俺に労力を要する依頼を申し出てくるという事態は、これまで皆目なかったのである。素晴らしいじゃないか!俺は二つ返事で快諾し、片付けた砥石をもう一度用意した。

「それで、どいつが死にかけだって?」

 ブリジットが抽斗から、包丁と同一シリーズと見られる果物ナイフを取り出す。刃渡りは十センチ強といったところか。一番粒状の粗い砥石を濡らしてナイフを受け取ろうとしたところ、彼女は随分と積極的な発言を寄越してきた。

「あの……刃物の研ぎ方を、教えて戴けませんか?」

 これには面食らい、目をしばたたいた。何せ忌避すべき存在たる俺に、直接教えを乞おうと言うのだ。初見で抱いた変人の疑いは、いよいよ確実なものへと変わる。直接に俺と接する時間を多く取ろうとし、動向や反応を探る。狡猾なやつめ。こいつ、奴隷販売会場での俺の品定めを、まだ続けていやがった。そっちがその気ならやり易い。何処まで着いてこられるか見物だ。

「いいよ。それじゃあまず、ナイフを寝かせて砥石にあてがうんだ。そんなに力は入れなくていい。それから、左手を刃に添える」

 言われた通りに動き、彼女は次の指示を待つ。

「適度な角度を付けて前後に擦り付ける。途中で出てくる黒い汁は流さない様に。研磨するのに必要な液だから」

 次第に砥石の表面に薄汚い研ぎ汁が生じる。それを合図にしたかの如く、ブリジットのナイフを抑える手ががく付き始めた。初心者に多い失敗だ。一定の角度を維持していないとまともな刃が付かないが、それを初めからやれと言うのは酷な話だ。

「刃の角度を固定する手は動かさない様に。折角付き始めた刃が台無しになるからね」

 ブリジットは素直に返事をして刃研ぎを続けるが、どうにも上手くいかないらしい。最初はこんなものだと思っていたが、如何せんやりすぎると刃の身がどんどん削れて寿命が落ちてしまう。優秀な道具が短命に終わるのは忍びない。次の自分の行動を考えると皮膚がひり付いたが、やらねばなるまい。俺はブリジットの右手に、そっと手を重ねた。ちくしょう、柔らかいな。

「手首に力を入れるんだ。そうすれば動かずに済む」

「はい、分かりました」

 別段緊張した風もなく、ブリジットは俺の手伝いを払い除けようともせずに刃を研ぎ続けた。俺の指示でナイフを裏返し、タイミングを見て次の砥石に移行する。慣れてきたら手を離し、すぐ隣で見守る。集中しているのか、少し汗をかいたらしく、くせっ毛混じりの彼女の髪から甘い匂いが立ち昇る。異性としての興奮を覚えると共に、女性という触れ得ざる対象に近づき過ぎた事による不快感がこみ上げた。やはり、駄目か。ブリジットが見ていない事を祈りつつ、顔を強かにしかめた。

 やがて研ぎ直しが完了したナイフを、ブリジットがトマトに入れる。音もなく吸い込まれる様にして刃が実を割き、鮮やかな断面を覗かせる。

「上出来だよ」

 ブリジットの肩をぽんと叩く――と、同時に鋭い痛みが腕に走る――と、彼女はにこりと微笑んで礼を述べた。落ち着きがあり、淡白ではないその声は、何やら他人を癒す心地があった。俺の傷跡にさして動じない点といい、只者ではない気風を纏っているのは確かだ。俺の身が正常であれば、今すぐにでも奪い去ってやりたいくらい良い女に違いない。そう、正常な身体であれば――。そう考えた刹那、今朝の記憶が蘇った。

 十も歳の離れた少女に抱き付いて嗚咽を漏らした数時間前。あの時に、俺は不快感はおろか、むしろ安堵を味わっていた。さっき彼女に触れた際に走った痛みと痺れは、微塵も顔を見せなかった。ひょっとすると――。不意に浮上した言葉を否定した。俺は女性と一線を越えられる心身ではないし、ましてあの一件での自分を赦していない。あの日の断罪は、今この時も続いている。

 ぼうとした夢想に幕を下ろすと、急に冷めた心地に陥った。馬鹿たれ、お前が人並みの色恋沙汰を願うなんざ、高望みが過ぎる。このままではいけないとは分かっていても、自分を変えられない。それが、親父が俺に下した唯一の命令だとしてもだ。臆せず、取り繕わない自分で彼女と向かい合う事が出来れば、或いは……。仮定を前提とするのは無意味だ。御託を並べるくらいなら、実行を伴う意志を見せればいい。そして、俺はそこまで強い心を持っていない。ただの意気地なしだ。女々しいやつめ。ブリジットのいるキッチンから去る最中、奥歯を噛み締めた。

 

 それからは特に何事もなく、ゆるりと過ごしていた我々であったが、夕食を終えた頃に嵐がやってきた。食後の紅茶に舌鼓を打っていると、何やら表が騒がしい。自動車のエンジン音が少なくとも二つ。それが家の前で急に止まり、しばし静寂が訪れた。ブリジットと互いに怪訝に思っていると、玄関ドアが乱暴に連打された。

「ヒルちゃーん!ジェローム君だよー!」

 ちくしょう、本当に黄金の嵐が来やがった。俺は玄関に向かおうとするブリジットをリビングに引き留め、玄関ドアに手を掛けた。

「サッカーの応援に行くにしても、もう少し近隣の迷惑を思慮したっていいんじゃねえか?」

 ドアの先では、愚弟ジェロームが頭の悪そうな笑みを張り付けて鼻くそをほじっていた。表の通りでは、二台の兄弟の車がエンジンを吹かして唸っている。俺の嫌味など聞こえなかったとばかりに、ジェロームは俺の脇を通り抜け、家中へ進撃を開始した。

「おい、待て」

 くそ野郎の襟首を掴んで進軍を制止し、家の外に放る。盛りの付いた駄犬め、少しは大人しくしていろ。騒ぎを聞き付けたブリジットが、廊下に顔を覗かせた。

「どうかなさいましたか?」

「大丈夫だ。すぐにやっつけるから、リビングにいるんだ」

 こいつらが我が家の平穏を脅かしに来る時というのは、大概が酒場に誘う際だ。俺の状況を心配して来たか、それとも単にブリジットの美少女振りを拝みに来たか。前者である事祈った。

 酒場か。俺は顎に手をあてがった。独り身であった時分は気軽にほいほい着いていくのも容易であったが、家にうら若い女子を残すというならば話は別だ。自分だけ広い家に取り残されると知れば、余り良い気はしないだろう。だがしかし、酒場などという場所は女の子が訪れて面白い場所ではない筈だ。俺は思案した。果たして彼女を連れて酒場へ行くべきか、はたまた家に残ってちびちびと酒をやるか。ジェロームのジーンズに包まれたケツをショーンの車の後部座席に押し込む中で、俺は前者を選んだ。あとはブリジットの返事次第だ。

 

「行きます」

 リビングでブリジットから返ってきた言葉は呆気ない程に味気なく、効力を持ったものだった。

「あらそう……」

 拍子抜けした余りに脱力した俺は、財布と携帯電話をポケットに捻じ込み、ルームシューズからブーツに履き替えて玄関に立った。その後に続いてブリジットもブーツを履き――おい、着替えないのか。目立つぞ――戸締まりを済まして家を出た。

 ヴェストのアウディの後部座席に二人して乗り込むと、二台の車は排気ガスを撒いて発進した。

「ブリジットだっけ?ヴェストだ、よろしく」

 バックミラー越しに、優男の兄貴がブリジットに視線を送る。大概の女はこれでぐらりと落ちるのだが、彼女は取り乱した様子もなく挨拶を交わした。異性に不信感を抱いている風でもないので、特別な敵意を持っているという訳でもないらしい。それも、無表情ではなく営業スマイルを前面に押し出して対応している。弱冠十八の小娘とは到底信じられない処世術だ。他人に気に入られる方法をわきまえている。

 兄貴の車に乗り込んでから十分、年季の入ったオーク材で造られた一階建ての酒場に辿り着くと、陽がとっぷり暮れていた。車を降りて顔馴染み用心棒の横を抜けて入り口の両開きのドアを開くと、むっとした熱気が顔に吹き付けた。切れかけの裸電球が天井から下げられた店内に足を踏み入れると、やはりと言うべきか、俺の後ろに店内の注目が行った。少なくとも、店内にはブリジットと同じ格好の人影は見られなかった。我々は空いている円卓を探して席に着くと、ジェロームが浅黒い肌に汗を浮かべた店主に注文を取りに立った。戻ってきたやつの両手には、一パイント(約五六八ミリリットル)のグラスに入ったビール五杯を持っていた。おい、ブリジットにもビールかよ。年齢の上では合法(イギリスでは成人年齢は十八とされる)だが、本人の同意を得ていない。俺の懸念など他所に、ブリジットは変態から受け取ったビールをくいと口に含んでいた。何だよ、悩んでいる自分が馬鹿みたいじゃない。

 各々がビールを一口やって臓器を温めると、ブリジットに自己紹介を行った。アルコールの助けもあってか表面上は打ち解けたらしく、彼女は絶えず目を細めていた。俺が彼女の身なら、心労でぶっ倒れているだろう。

 この酒場を選んだのは連隊の仲間が余り利用せず、他者の目を気にしないで済むからだが、ブリジットの容姿と服装が完全にその意図を打ち消していた。周囲の視線が、凄まじく心に刺さる。その中で、一人だけメイドに目線を向けていないブロンドの女がいた。カウンターで、スコッチ・ウィスキーをロックでやっている。すぐにうちの通信中隊のシェスカ・エヴァンズだと気が付いた。何てこった。顔見知りがいないからと来たのに、自ずから地雷を踏んでしまった。脂汗を浮かばせる俺の視線を悟ったのか、シェスカが俺を捉えた。そして含みのある笑みを浮かべる。ちくしょう、明日は基地で弄くり回されるぞ。だが、彼女の目線はすぐに俺から離れ、別の人物に向けられた。その先にはブリジットではなく、目下女性恐怖症を患っているうちの三男坊がいた。

 シェスカはスコッチのグラスを持ってカウンターを立つと、毅然とした足取りで我々の円卓に接近した。その表情を見れば、僅かに酩酊している事が見て取れる。やがてショーンの脇に立つと、彼の脇に手を差し入れて立たせた。

「なあに男ばかりで飲んでるの。ちょっと付き合いなさいよ」

 ショーンは目を白黒させて慌てふためき、ビールのグラスを持つ暇も与えられる前に、シェスカが元いたカウンターへと拉致されていった。成る程、随分ごついのが好みなんだな。残されたグラスのビールを飲み干しながら、そんな風に妄想した。あいつ、今日は家に帰しちゃ貰えないな。これが機で女性恐怖症が治るなら、言う事はないが。ただ、ジェロームがただ一人、陰鬱にぼやいていた。「どうして俺じゃないのよ……」日本かぶれの親父の言葉を借りて言うならこうだ。「あきらメロン」全く面白くないので、実際に言うのは止した。

 二杯目のビールとフィッシュ&チップスを俺が注文に立った時、ブリジットの頬は少し上気していた。平静を保とうとしているが、酒気に当てられて眼球が緩慢な動きになっている。俺は長兄と末の弟にはビールを、ブリジットにはグレープフルーツジュースを注文し、自分はジン・トニックを頼んだ。

 飲み物のグラスを持って戻ると、ほろ酔いになったブリジットが兄弟と談笑している光景が繰り広げられていた。悪くない。いつまでも同じ屋根の下で、同じ人間と暮らすのは息が詰まる。人間には別の環境下でのガス抜きが不可欠だ。特に、ここ数日で心身に多大なストレスの掛かったブリジットには。

 どれ程の時間、そうしてアルコールを摂取し、会話に花を咲かせていただろうか。野外では星が瞬き、街灯に蛾が体当たりしている時分になっていた。ショーンとシェスカは知らぬ間に酒場を去っており、彼の車もなくなっていた。どちらの家に泊まるのだろうか。霞が掛かった頭で、弟の情事に関心を寄せたが、眠気に敗れて断念した。ヴェストの呼び掛けで今日はお開きにという流れになり、俺は自分も足取りがおぼつかなかったが、自棄酒で円卓に突っ伏した金色の馬鹿と、ぽうと夢見心地になっているブリジットを支えて酒場を出た。外気が火照った顔に優しく、程良く酔いが醒める。ヴェストのアウディの後部座席にブリジットと阿呆を押し込み、自分は助手席に乗ると、車内が一気に酒臭くなった。特にジェロームの口から発せられるそれが臭い。全員の乗車を確認すると、さして酔った素振りの見えないヴェストがイグニッションにキーを挿し、エンジンを掛けた。アウディはゆったりと快適な乗り心地で、誰かが車内でゲロを撒き散らす事はなかった。途中でジェロームを彼の家の玄関に転がしてやり――うわ、こいつ泣いていやがる――それからヴェストの車で家まで送って貰った。

 見慣れたオフホワイトの我が家の前にアウディが停まると、後部座席で揺られていたブリジットはすっかり眠りに落ちていた。

「手伝おうか?」

 俺の身を案じてヴェストが提案を持ち掛けたが、一人で十分だと言い切った。酔いが回っていれば、少しは神経が鈍くなっているだろう。ジェロームよりも遥かに軽いブリジットに肩を貸そうとしたが、完全に寝入っていた――これから野郎の家に連れ込まれるっていうのに、無垢な顔をしていやがる――ので、抱きかかえて運ぶ必要があった。脱力した人間というのは非常に重いのだが、精々六十キロ弱しかないであろう彼女を持ち上げるくらい、現役の軍人にとっては靴紐を通すより簡単な作業だ。無論、俺にとっては苦役を強いられるが。ブリジットの腰と背中に腕を通して抱え、慎重に車外に出す。腕に鋭い痛みを覚えたが、彼女を取り落とすまいと歯を食い縛った。

「やっぱり手伝った方がいいんじゃないか?」

 俺は強かに首を振り、ヴェストの気遣いを却下した。彼は無言で、アルコールで頭の鈍くなっている俺の上着のポケットから家の鍵を取り出して先行し、玄関ドアを開いてくれた。そこで彼は別れを告げて車に戻り、俺が玄関ドアを閉めると共にアウディが走り去る音が響き渡った。

 腕に抱えたブリジットの匂いに半ば魅了を、半ば吐き気を覚えながら、階段を一段ずつ格段に上がり、肘で寝室のドアを開くと、最後に見たそれと同じ光景があった。ただ、以前にあった埃っぽさは感じられず、ほのかに少女らしい生活感が窺えた。シングルベッドは綺麗に整えられ、シーツには皺ひとつ見られない。ブリジットをその上にそっと横たえると、彼女が軽く鼻を鳴らした。並みの男であれば――。何度目になるか知れない仮定を鼻で笑い、彼女のブーツを脱がしてから静かに部屋を去った。

 寝酒のギネス――お気に入りのスタウトだ――の瓶とグラスを持ってリビングのソファに腰を下ろし、テレビの電源を入れる。時刻は二二時を過ぎた頃で、もう銀行強盗の特集は組まれていなかった。未だ自分のものとは思いたくない疼痛と痺れが残る腕で、グラスに常温のギネスを注ぐ。この一日、ブリジットの俺に対する態度の変化を議題に常に頭を働かせていたが、自己を納得させるに至る回答は得られずじまいであった。本日の疲労を籠めた吐息を盛大に漏らし、ギネスに口付ける。感覚が麻痺した頭脳が度を増して鈍感になり、眠気に拍車が掛かる。一杯を飲み終える頃には、瞼がすっかり下りていた。これから幾度となく、こうした不快感や身体の痛みと付き合い、次第に精神が擦り減って失われるのを待つのだろうか。――いや、そうならない為に彼女を家に置いているのだ。薄れゆく意識で再び決意を固め、ソファの肘掛けに頭を預けた。

 

 

 

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