書き溜めが尽きたので、これ以降の投稿ペースが落ちます。ご了承下さい。
【15】
兄弟にブリジットと共に酒場へ連れていかれた日の翌日から、俺の日々は一変した。いや、SASとしてあるべき生活体系に戻ったと言うべきか。早朝に起き出して、Tシャツ一枚に湾岸戦争でアメリカ陸軍が使用した砂漠迷彩服のトラウザスを履き、最近になって擦り切れてきたブーツに足を通してランニングへと家を出る。付近の公園で十二キロほど走りながら、同じく体力の維持に励む連隊の仲間に会えば「よう!」などと片手を上げたりする。やつらは俺が殊勝にランニングに励む姿をしばらく見ていなかったから、死人でも見た様な面をしてくれる。実に小気味いい。
ランニングから戻ると、決まってブリジットは起きて朝食の準備に取り掛かっている。汗だくの俺に優しく微笑むと、電解質飲料の注がれたグラスを手渡してくれる。それを飲み干すと、シャワーで汗を流して着古した服を身に着け、朝食が出来るまでテレビを観る。これが朝の習慣となっていた。健康的な生活を心掛ける事で精神的にも安定が訪れ、快い日常を送っていた。こういった日々を続けていれば、少しは前向きにもなれるだろうか。陰気な性質に少しだけ見切りを付けられるかもしれないと、画策した矢先の出来事であった。
健常な朝を送り始めてから一週間、俺は爽やかに――何と似合わない形容詞だろう――ランニングを終えて家に戻り、ブリジットの朗らかな笑顔を拝もうとした。だが、キッチンに彼女の姿はなく、家中は静まり返っていた。妙じゃないか。一階に人の気配は感じられず、地下への扉も開かれた形跡は見られなかった。小首をかしげつつ二階へ上がると、確かに人の気配を感じた。まだ寝ているのだろうか。彼女も人間だ、寝坊の一つもするだろう。そう結論付けて、寝室のドアをノックした。すると、やや遅れて弱々しい返答があった。――まさかな。思わず口角が引きつった。舌先を噛んで、これから知り得る状況を想定し、額に手をあてがった。小声で唸り、部屋に入るという意思表示をしてから、ドアノブを回した。
入室する回数がめっきり減った部屋のドアの先、ベッドの上に布団を頭まですっぽり被っているブリジットがいた。膨らんだ布団が激しく上下し、苦しげな吐息が絶えず部屋に生み出されている。どうやらビンゴだったらしい。
「……体温計を取ってくる。そのまま待っているんだ」
爪先をドアに向けた時にブリジットが、必要ないとかほざいていたが、ベッドから降りられない時点で重症だ。体温計と薬品箱を持って戻ると、気弱に表情を歪めたブリジットが起きるのを手伝った。体温計を腋に挟ませ、その間に必要になるであろう薬品を用意した。やがて電子音と共に検温を終えた体温計の液晶に表示された数値――三八度五分。立派な発熱だ。
ブリジットは自分の身を両腕で抱いて震えており、気だるい雰囲気を全面に出していた。悪寒と倦怠感、風邪の典型的な症状だ。ここ数日はさほど寒い日はなかった。だとすると、心身が弱ったところにウィルスの卑劣な奇襲を喰らったというのが原因だろう。何も不思議ではない。突如として生活環境が変わり、極度の緊張下に置かれる中で精神的に参ってしまうのは当然だ。都合よく考えるなら、うちでの生活に慣れて緊張の糸が緩んだ瞬間を狙われたという事もあり得る。
息を荒げるブリジットを部屋に残してリビングに向かい、テーブルの上に置いてあった携帯電話を持つ。親父の携帯電話の番号を呼び出すと、呼び出し音が二つ鳴る前に繋がった。
〈どうした?〉
何かを咀嚼していると思われる口振りであった。構わず、俺は切り出した。「今日は仕事を休むぞ」〈何を言っている。起きろ〉「ブリジットが風邪を引いた」〈よし、三日は来るな。他の連中には話を付けておく〉口を開くとろくでもないが、話の分かるお父様だ。ポットに電解質飲料を満たし、グラスと一緒に寝室へ持っていく。ブリジットは明らかにだるそうな感じでベッドの背にもたれていた。グラスに電解質飲料を注いで渡すと、弱々しく礼を述べてから口を付けた。唇が乾燥して白っぽくなっている。緩慢な動作でグラスの三分の一ほどを喉に流し込むと、ベッド脇のテーブルにグラスを置いた。喉もやられているのかもしれない。
「今日は何もせずに安静にしているんだ。早い内に治した方がいいからな」
ブリジットが「でも」と口走りそうになったので、目の前に手を押し出して遮った。
「いいかい、こいつは命令だ。本日の業務は全て中止。体調の回復に努める様に」
幾分か渋ったが、彼女は俯いて頷いた。よし、いい子だ。頭を撫でてやると、髪の質感が少し衰えているのに気が付いた。相変わらず、腕には高圧電流が走った様に痺れを覚えた。いい加減に慣れて欲しいものだが、そう簡単に治癒してくれないから、この病気は性質が悪い。それに比べれば、風邪や骨折や銃創なんざ軽いものだ。
薬を飲ませるにも、まずは食事を摂らせなければならない。何があるかとキッチンを漁ると、色艶の良いリンゴが一つあった。何もないよりはましか。〈ベンチメイド〉のサバイバルナイフで皮を剥いて適度な大きさに切り分け、皿に盛って寝室へ持っていく。ブリジットにフォークを持たせてリンゴを食べさせると、酷く申し訳なさげに謝罪を述べた。そんな言葉など要らないのに。リンゴを半分ほど平らげたところで風邪薬を飲ませ、念を入れて頭痛薬を部屋に残した。
ランニングの汗をシャワーで手早く流して、メモ帳とペンを手に取った。現時点の我が家のキッチンには大量の物資が存在するが、病人の身に優しい食材の在庫が足りない。こういう事態に適した食事のメニューを、脳内の親父に尋ねた。「病人には、卵粥だ」よし、ポリッジ(オートミール)にしよう。それから果物も必要になるだろう。電解質飲料も大量に仕入れなければならない。次々とメモ帳に書き殴り、ブリジットに買い出しに行ってくる旨を告げるついでに、タオルで包んだ氷嚢を用意した。ノックと共に寝室に入ると、薬が効いてきたのか、不規則な呼吸ではあったが、ブリジットは眠っていた。それでいい。俺は彼女の額にそっと氷嚢を乗せて家を出た。
制限速度ぎりぎりで道路をBMWで疾走し、〈テスコ〉でメモ帳に書き込んだよりも遥かに多くの兵站物資が詰め込まれた紙袋を両手に抱えて車に戻り、本日初の自分の食事をマクドナルドでテイクアウトし、車内で頬張りつつ車を運転した。
家に戻ってブリジットの様態を窺うと、まだ不規則な呼吸で眠っていた。氷嚢が大分解けていたので交換し、部屋に汗の臭い――不思議と嫌な感じはしなかった――が熱気と一緒に籠もっていたので換気した。
ブリジットがダウンしている間の家事だが、誰かがやらねばなるまい。トイレで便器を磨き、床に掃除機を掛け、バスタブを漂白し、浴室の排水溝で絡み合う縮れた金色と黒――まるでまぐわっているみたいだった――を排除していると、身体中に疲労が溜まるのが分かった。本気で家事に向かい合うなど、果たして何年振りであったか。今でこそブリジットが清潔に保ってくれる我が家だが、つい数週間前は綿埃が蜘蛛の巣に引っかかっていたくそ屋敷だったのだ。俺が如何に家の整備を怠っていたかは想像に難くない。脱衣所の洗濯物を洗濯機に突っ込むだけでも、ため息が漏れた。俺はつくづく家事に向かない人間らしい。ブリジットの高そうなシルクの下着と、自分のくそ汚い衣類を一緒に洗うのは気が引けたが、水道代を抑える為には止むを得ず、そのまま洗濯機に放り込んだ。ああ、ドラム式洗濯槽の中で、ピンクとオリーブドラブが混じり合う……。俺はいたたまれなくなり、脱衣所を去った。
正午を過ぎた頃に、ブリジットは一度目を覚ました。酷く汗をかいており、白い寝間着が皮膚に貼り付いて不快そうであった。洗面器にぬるま湯を満たし、タオル数枚と新しい寝間着、気は進まなかったが、綺麗な下着を添えて寝室に運んだ。
「身体を拭いた方がいい。着替えは置いておくから、そっちを着る様に。いいね?」
下がり眉でブリジットは応じ、俺はそそくさと寝室を退出した。だって、流石に身体を拭くのは彼女自身にやらせないと不味いじゃないか。そりゃあ、俺だって男だ。彼女の裸体は見たいさ。だが、それに触れる自分を想像すると、過去の罪が俺を責め立てる。俺にとって、女の身に触れるというのはそういう事だ。誰にしているかも知れない弁解を考えつつ、彼女の昼食の用意に階段を下りた。
それから洋梨や桃を剥いてやったり、洗濯物を干したりしている内に、陽が落ちた。気付けば似合いもしないクリーム色のエプロンを身に着けている自分に、思わず冷笑を浮かべた。どう見たって、これから夜の街に人間を解体しに行く猟奇的な肉屋だ。そいつが今や、レードルを手にタマネギとかとき卵が入ったポリッジの鍋を、湯気にまみれて掻き混ぜているのだ。つくづく似合わない事をしている。料理に硝煙の臭いが移っていないか心配しつつ、味見をした。どうやら最近の俺には珍しく、まともな味に仕上がったらしい。出来上がったポリッジを深い器に盛って、二階に上がった。
寝室のドアをノックしてから開けると、ブリジットが微睡みから覚めるところであった。
「悪いな、起こしちまったか」
眠たげな瞼を平時より重そうにもたげたブリジットは緩慢に首を振り、冬眠明けの熊よろしく上体を起こした。先ほど着替える様に渡した寝間着は既に皺だらけになっており、布団の中で彼女が寝苦しそうに身をよじる光景が脳裏に描かれた。ベッド脇のテーブルにトレイを置き、小さな折り畳みの椅子を用意して、そこに腰を下ろした。
「どうかな。食事は摂れるかい?」
「……そうですね、少し食べてみます。わざわざご用意して戴き、ありがとうございます」
ブリジットはトレイを受け取ると、湯気の立つポリッジにスプーンを差し入れた。白濁したポリッジに、彼女がそうと息を吹き掛ける。扇情的な光景だ。俺が健常な身であったら、彼女の健康状態への思慮などポリバケツに放り込んで、涎を撒き散らして押し倒していただろう。
少しと言いつつも、ブリジットは長い時間を掛けてポリッジを完食した。食後にハチミツ酒を一杯飲ませると、とろんと脱力した具合になり、幾分か容態が芳しくなった様に思われた。俺が皿を片付けて寝室に戻ると、ブリジットは薬を服用して眠ろうとしていた。朝に比べると、顔色には生気が戻り、表情にも余裕が生まれている。この分であれば、明日には快復した彼女に会えるだろう。お休みと告げて明かりを消そうとした時、遠慮がちな依頼の声が上がった。
「……少し、お話をして戴けませんか?」
これには目をしばたたいたが、他ならぬ彼女からのお願いだ。次があるやも知れないのだから、無駄にする手はない。一度畳んだ椅子を展開し、ベッドの傍に腰掛けた。
「それで、一体どうしたんだい?」
ちっとも似合わぬ微笑みと猫撫で声を以てブリジットに語り掛けると、彼女はどういった風の吹き回しか、至極回答に困る疑問を投げ掛けてきた。
「ヒルバート様はその……どうして私を買われたのですか……?」
以前にも訊かれた問いだ。当時は俺が彼女を抱く事を拒否して目の前で泣かれた際に尋ねられたが、今の彼女の表情は純然たる疑念を表していた。この質問は厄介だ。実のところ、奴隷を購入したのは半ば自棄になっていた節が濃厚であるし、その発端といえば親父のきちがいじみた命令である。だが、それをそのまま言うのは彼女を傷付けるだけであるし、俺としても良い心地のする対応ではない。頬を指で掻いてしばし思案に耽り、及第点とはいかない回答を提出した。
「まあ、何だ。一つには君が可愛かったからというのがある。いや、嘘じゃないんだ」
ブリジットの表情は、ぴくりとも動かなかった。そりゃあそうだ、三十路前の未婚のおっさんが、何やら気色の悪い発言をぶつけてきているのだから、いい気はしない。だが、俺が自分の得点を落とす発言は、これに止まらなかった。
「第二に、これは上手く言い表せないんだけど……つまり、現段階の俺には欠けたものがあって……」
ここで一度、唾液と一緒に言葉を飲み込んだ。もしかすると、言うべきではないかもしれない。口に掌をあてがって躊躇し、唇を噛んだ。しかし、言えば何らかの形で状況の変動が見られるかもしれない。微々たるものでもいい。俺は自分の生活を、改善の方向へ持っていけるやもしれない。悪魔の囁きであった可能性は否めなかったが、それを承知で語を継いだ。
「……要するに、俺には君が必要なんだ」
言った傍から、自分が赤面するのが悟られた。額から猛烈な熱が放出され、いたたまれない感情が膨張する。誰か俺を殺してくれ!じいと俺を見つめるブリジットの瞳に、いたたまれずに生殺しとなった俺が移り込んでいた。
「……左様ですか」
ブリジットはふにゃりと頬を緩め、そっと手を差し出してきた。握れという意思表示だろうか。人間、体調不良で滅入った際は、どういった相手であれど温もりというやつが欲しいというのが性か。左手でその手に触れると、僅かに汗ばんでいて表面がふやけていたが、若者のみが持ち得る瑞々しさを有していた。接触を持った事で痺れが走る俺の目を見やると、彼女は瞼を下ろした。
「……私は、この家に仕えていてもよろしいのですか?」
何処か安心した口振りであった。馬鹿たれと言いたくなったのを抑え込み、空いている手で重くなった砂色の髪を掻いてやった。
「お前さんがこの街で生活してくれるなら、出来る限りの援助は惜しまないつもりだ。学校に行きたければ手続きをするし、資格を身に着けたいなら教材を探す。嫌な事があれば愚痴を漏らしていい。ここがお前の家なんだから」
ここまで言うと、羞恥に染まり切って全身が痛痒くなっていた。ブリジットは最後に「ありがとうございます」と呟いてから、安定した寝息を発し始めた。この子は俺の言葉を忘れてくれるだろうか。左手に絡んだ手をそっと解いて布団に収め、自らの外面もない失言に再び悶えた。このままでは自殺しかねない。寝室の明かりを消して退出すると、安全装置代わりの寝酒にギネスの瓶を取りに行った。
俺という火山が羞恥心で噴火するのを免れた翌日、いつもの様にランニングから戻ると、万全に復活したブリジットが食器を洗っていた。寝ていなくていいのか尋ねると、十分休んだからと、拙い看病に礼を述べて微笑んだ。やはりこうまで微笑みの似合う少女はいるまい。銃器への性倒錯者の疑いのある俺をして、そう思わせるのに感嘆すると同時に、憎からず思っている訳でもない女に対してそんな想像を抱く自分に、えも言われぬ不信感が浮上した。――好きでもない?浮かびかけた疑問に、慌てて否定の念をぶつけた。馬鹿野郎、そんな訳があるか。ランニングで生じたものとは別の汗を催しつつ、ブリジットから渡された電解質飲料を飲み干した。
【16】
その日の仕事場は埃の充満する地下室ではなく、星さえ見えない曇天の下の現場であった。まばらな街灯の灯る通りを歩く人影は少なく、人々は深夜の戸外を恐れているかの様であった。事実、ここ――南アーマー州ではそうだったのだろう。十二歳の俺は、べとべとになって包装にくっ付いた緑色のキャンディを口に含み、指定された場所に向けて前屈みに歩みを進めていた。さも目的ありげな歩幅と速度で、右手は上着のポケットに突っ込んでいた。左のポケットにはキャンディと空の包装が幾つか。右のポケットは、そうではない。この時の為に鋭利に研いだ、刃渡り六センチのアウトドアナイフが、シース(鞘)から抜いて収められている。
目的地は、通りの角に建つ二階建ての建築だった。そこの一室に住むアルスター警察の関係者に、俺は用はないが、俺の知らない誰かが会いたいらしい。俺はその会合が円滑に進む手伝いをする。方法は単純だ。俺の知らない誰かが、その家に入るのを何者にも見られないようにする。目的の建物を視界に捉えた時、じわりと背筋に脂汗が滲んだ。建物の表に面した通りを挟んだ先、切れかけた街灯がちらつくその下に、帽子を被った二つの黒い影が揺れている。警官だ。夜風が身に染みるらしく、袖の下に両手を突っ込んで震え、互いに愚痴を言い合っている。彼らは単なる巡回の任を帯びているのではない。彼らの視線の先にある、灰色の二階建てに住む男を警護する為だ。
自分の仕事の内容を再確認した。目標の建物付近の障害の排除。手順は何度も繰り返して憶えた。要は俺の覚悟と運次第だ。口の中で半分ほどの大きさに溶けたキャンディを噛み砕き、何食わぬ風を装って警官らの傍を通り抜けようとした。すると、背の高い方の警官が俺を呼び止めた。
「こんな時間に子供が一人歩きか?家は何処だ。親御さんは?」
時刻は日付の変わる手前を指している。そんな時間帯に、着古した衣服をだらしなく着崩した少年が一人で通りをふら付いている。しかもそいつの顔にはでかい傷跡が走り、いかにも不健康そうなくまが目の下に巣食っているのだ。こんな風体の餓鬼が不機嫌そうに歩いていれば、誰だって家出した不良少年だと決め付ける。
訝しむ二人の警官に、俺はにへらと黄ばんだ歯を見せた。
「親だって?今しがたそいつらに追い出されたんだぜ?俺の事は気にしないで、どうぞお勤めに戻りなさいな」
そうしてぷいとその場を去ろうとすると、背の低い方の警官が肩を掴んできた。――予測済み。深いため息を漏らして二人に向き直り、大袈裟に肩をすくめて弱った目をしてみせた。
「なあ、頼むよ。ほとぼりが冷めるまで、友達の家に厄介になるつもりなんだからさあ」
そうは言っても警官は職務に課せられた責任上、俺を見逃そうとしない。二人は互いに顔を見合わせて唸り、警備任務にとっての闖入者たる俺への対応に頭を悩ませていた。
背の高い方の警官の身の丈は約百八十センチ、低い方は一六五センチ程度だった。背の低い方はふんぞり返って鼻息を漏らし、高い方は俺の目線にまで腰を落としている。二人が何やら俺に質問を矢継ぎ早に投げ掛けていたが、俺は曖昧に返事をするだけで、具体的な事は何も言わなかった。
そういった問答が一分ほど続いただろうか。視界の端に、新たな影を認識した。数は三つ。姿勢を低くして、忍び足でこちらに接近してくる。二人の警官は、彼らの存在に気付いていない。警官の一方が、煮え切らない返事ばかりする俺に声を荒げた。
「だから、さっきから言っているだろう。名前と家を教えてくれれば、今からそこに行って親御さんの説得を手伝ってやる。それで何の不満があるんだ?」
ジュネーヴ条約が子供への攻撃を承認していないのには、兵士の精神を防護する役割もあるのだろう。今しがた目の前で御託を並べているこいつは軍人ではないが、どうあれこの戦場で俺を相手に一瞬でも油断を見せたのが、運の尽きだった。背の低い警官が続けて何かを言おうとしたが、後頭部を棍棒で強打されたせいで言葉にならなかった。忍び寄ってきた男らの内の一人が、頭を殴られた警官の背中に馬乗りした。状況の理解に脳の処理が追い付かないもう一人の警官の首に俺は手を回し、こちらへ引き寄せつつ、頸動脈を目掛けて右手に握っていたナイフを一突きした。警官の血走った目が大きく見開かれ、四肢をばたつかせて抵抗を見せる。構わず首からナイフを引き抜くと、おびただしい量の血液が傷口から零れ、地面の芝に黒い染みを作った。不安定な体勢からナイフをもう一突きし、暴れる警官の気管を突き破る。自転車のタイヤのチューブを切り裂いた時と似た音がしたと思うと、警官はぐったりと体重を俺に預けて事切れた。ナイフを握る手に温かい血が掛かり、皮膚と衣服をどす黒く染めた。もう一人の警官は、仲間――俺はそんな風に思っていなかったが――が首をへし折って殺害していた。
こんな仕事も何度目になるだろうか。出来たばかりのの血だまりを布で拭き取り、後から来た三人と協力して、死に濁った瞳となった死体を、付近に停めてあったバンに載せ、我々は血の臭いの充満する車内の空気を肺に吸いながら、警官の死体を埋める場所まで車を走らせた。現場を去る直前、警官が見張っていた建築を見て、あそこの住人も我々が殺した警官と同じ姿になるのかと、現実味なく想像した。
この行いが善か悪に二分されるとすれば、一体どちらに仕分けられるのだろう。半ば哲学じみた詮索にブレーキを掛けた。生き延びる為だ。俺が関心もない抗争の中で、IRA暫定派――アイルランド共和軍、通称『プロヴォ』に助力しているのは、ただそれだけの理由だ。
血に染まったナイフを警官の服で拭う時、罪の意識は芽生えなかった。戦場に立っておきながら、我々の魔の手から御身を守れなかったお前らが悪いのだ。お前らよりもずっと弱い俺なんかに殺されてしまうくらいなら、死んじまっても文句はないだろう。当時の俺は、そういった言葉で精神に継ぎはぎ合わせの鎧を着せていった。それがやがて耐え切れぬ重みとなり、自らを苦しめるという未来を知らずに。
過去を瞼の裏に見るのは久方振りであった。起き抜けは気分が優れなかったが、ランニングで汗を流してシャワーを浴び、ブリジットの作ったソーセージマフィンを頬張る頃には、その不快感も薄れていた。
ブリジットがこの家に来て、どれだけの時間が経っただろうか。二十日か、それとももう少し過ぎていたか。ブリジットはすっかりこの家を自分の所有物として扱う様になり、キッチンの調度品などは彼女好みの位置に変更が加えられていた。彼女の風邪が治ってからも、俺は家事を手伝わせて貰えず、家ではろくでなしの如き生活を強いられていた。ブリジットはよく気が利く娘で、俺が喉の渇きを覚える頃合いに紅茶を淹れ、昼下がりに菓子を作り、夕食後にはその日の気分に合わせた酒を用意してくれた。一人で飲むのも何だからと、彼女にも一杯やるかと誘うと、決して断らずに首を縦に振る付き合いの良さも持っている。その内に、夜の街で背中からぐっさりやられても文句は言えまい。殺られる前に返り討ちにするが。
この日も職場で千発単位の銃弾を撃ってから帰ると、ブリジットは律儀に玄関まで迎えにやってきて、手荷物を預かった。「今日は何かありましたか?」と朗らかに尋ねる彼女に、特に何もなかったと答える日常。呼吸と同じく無意識に過ごしていたが、実はとてつもなく貴重かつ常人の手の届かない場所にある生活水準にある暮らしだ。簡潔に要点をまとめれば、自分の家に若くて可愛い無欠のお手伝いさんが、年中無休の住み込みで働いているのだ。少し前の一人暮らしと比較すれば、俺の日常は正しく百八十度の変貌を見せている。恐ろしい事に、この変貌は知らぬ間に俺の寝食に浸食し、今や元の不健全な生活に戻るのが困難なまでに毒されていた。最近は同僚に「健康が一番だ」などと爺臭い説教を垂れるまでになって、少々若いやつらに引かれている節さえある。年寄りには優しくしてくれよ。
リビングのソファに腰掛けてテレビを点けると、BBCで政治家がパパラッチに詰め寄られている場面が映った。画面の下を走る字幕を読む限り、政治家の名前はマーティン・アボット。保守党議員が一人で、毛髪の後退しかけた額を、少ないブラウンの毛で必死に覆い隠そうとしているビール腹の中年男性だ。政に関心はないが、聞くところによると近年廃止の傾向に圧力の掛かる奴隷制の維持と推進に尽力しているらしい。パパラッチのカメラに追われているのは、それにまつわる裏取引の尾を掴まれているからというらしく、二人の強面の黒服に前後を挟まれている彼の表情は、口の中に生きたゴキブリでも突っ込まれたみたいに、虫の居所の悪い様を体現したものであった。
鼻の頭をてからせたでぶ野郎の面なぞ好んで拝み続けたいものでもないし、何よりブリジットの出生の触れたくない部分の情報を多分に含んでいる画面を見せたくないという点から、チャンネルを変えた。いつかは、彼女に話さなければならない時が来るのだろうか。俺の抱える奴隷の過去と、それが生んだ災厄の種を。考え込む事で唐突に憂鬱になり、天井を仰いでため息を漏らした。ようやく慣れてきたとも思えた同棲生活だが、まだ障害は多いらしい。
夕食に濃厚なホワイトシチューを平らげ、ダイニングテーブルに頬杖を突いてブリジットの食器を後片付ける後姿を眺めている時だった。何とはなしに取っていた行動だったのだが、どうやら彼女は鈍い女ではなかったらしい。背中越しに俺の視線に気付いた彼女は、目を細めて振り向いた。
「私の背中に何か付いていますか?」
悪戯っぽく笑む同居人に、首を振りつつ目を背けた。これだから女の勘というやつは恐ろしい。彼女はくすりと声を漏らしてから、再び作業に戻る。何てこった、これではまるで俺が彼女の尻を見つめていたみたいではないか。参ったなとこめかみを掻きつつも、やはり目はお手伝いさんに向いてしまう。光沢のない黒のロングスカートに、揃いの上着。高級な輝きを湛えるシルクのエプロンの紐が、背中で弛みなく交差する。あたかも風俗店の如き装いに、性的興奮を催さないと豪語すれば嘘になる。あつらえた様にサイズの合った被服は、彼女の身体の繊細なラインを忠実になぞる。ブリジットは色白だが、今日のメイド服はマットな黒であるせいで、色彩のコントラストが顕著に映えている。また、全体的に露出度が低い事で、男の性とも表すべきであろうか、素肌を拝みたいという探求心が芽生える点も確かであった。誠に勝手な言い分ではあるが、罪作りな女だ。
ブリジットは食器の洗浄を終えると、両の手をタオルで拭ってキッチンから出てきた。その顔にはやはり微笑が湛えられており、この家に来たばかりの彼女を知る身としては、いささか不気味さを覚えた。
「今晩は何をお飲みになりますか?」
屈託のない無邪気な笑みに促され、俺はモスコー・ミュールを注文した。彼女は甲斐甲斐しく返事をすると、再びキッチンの奥へとエプロンの紐を揺らして戻った。生活を送る上で俺に取り入る必要があるとはいえ、家事に加えて晩酌までやる義理があるだろうか?そうは躊躇いつつも、彼女の厚意に甘えてしまう自分に反吐を催す。彼女はてめえの妻でもなければ、ガールフレンドでさえない。依存するにも程度をわきまえるべきだ。胸の内の遠慮と格闘を繰り広げていたその時に、ブリジットは二つのグラスと〈アブソリュート〉のウォッカの瓶を抱いてやってきた。
「今日は、私もご一緒して宜しいでしょうか?」
この問い掛けに俺はほえと間抜け面を晒し、十秒ほど無言の間が空いた。また随分と唐突な申し入れだな。ようやく状況を理解した時には、口を開いたままでかぶりを振る自分がいた。
ブリジットは俺の対面の席に着くと、十分な量の氷を入れたグラスにウォッカを注ぎ、そこに〈ウィルキンソン〉のジンジャーエールを静かに注いでステアし、レモンの輪切りを浮かべた。出来上がったモスコー・ミュールを「どうぞ」の一声と共に俺に差し向けると、何処か満足げに頬を緩ませた。知り合ってからずっとそうなのだが、このブリジット、笑顔の裏では何を画策しているのか分からない女であった。無駄だとは分かっていても、その実を探りながらモスコー・ミュールに口付けると、普段より濃いめに作られているのが舌で感じられた。分量量を間違えたのか?炊事において無欠に見える彼女でも、そんな事もあるものか。これはこれで悪くないと、もう一口を舐める。透き通るレモンの果肉とグラスの底を通して、ブリジットが銀色のシェーカーを振る姿が見える。あれも調教施設で身に着けた技術なのだろうか。だとしたら、施設の利用法を誤っているとしか思えない。家政婦の研修や、嫁入り前の女子の鍛錬を目的とする機関であれば、どれだけ健全な場所であっただろう。手の届かない分野にまで首を突っ込むなと自分を律し、余計な活動を脳味噌にさせない為に、グラスの残りを飲み干した。
肩に気だるさがのしかかってきた頃、俺は三杯のカクテルを胃に入れていた。二杯目はギムレット、三杯目はXYZだ。その何れもが、カクテルメジャー(計量器)を使って作られている筈なのに、アルコール度数が高く設定されていた。流石に疑念を抱いたが、ほろ酔いで上機嫌のブリジットの気分を損ねる原因は作りたくなかった。平時よりも幾分か饒舌になった彼女は、自分から話題――料理や健康にまつわるものが大半を占めた――を持ち掛けてくれる事が多いし、何よりも会話を続けていて面白みを感じる。使用人というよりは、よく出来た妹という感じである。その場合、容姿の面で間違いなく俺とは血が繋がっていないだろうが。献血でちょっとだけ彼女の血を自分に入れたら、少しはこのいかめしい一重瞼が良くなるかしら。酔っていると、まともな妄想をしない。
とうとう俺は五杯目を口に含んでいた。ジン・トニックの芳醇な香りがふわりと粘膜に広がり、切れの良い余韻を残して喉奥へと沁みてゆく。一種の芸術だと、アルコールを称賛した時であった。ふと、酒を煽るへべれけの姿をじいと見守るブリジットに目が行った。昼光色の照明の下、くすんだブロンドは柔らかな輝きを放ち、とろりと悦に入った青い瞳は情欲を燻らせる。本能から手綱を離さない様に警戒しながらグラスを干すと、ブリジットは緩慢に口を開いた。
「ねえ、ヒルバート様。お酒は美味しいですか?」
藪から棒におかしな事を訊く。
「うん、いい感じに酔わせてくれるよ。ありがとう」
「それはよかったです。男性を落とすなら、酔っ払っている時が一番だって、エリーが言ってたから」
これには首をかしげた。落とす?何を言っているのだろうと不審に感じたが、彼女も相当に酒が回っている。意味の通らない言葉をいちいち拾ってやる事もないだろう。そこを関心の対象から除外し、唐突に登場した女性の存在を問いただした。
「エリーって?」
「あ、エリーは施設にいた同期です。私より四つ年上で、借金がかさんで返済が出来なくなったから、自分から奴隷になったって言ってました」
いささか驚いた。何しろ、彼女が自分から奴隷――それも自分のいた施設の話題を出してくる事例は、ついぞ皆無だったのだ。彼女は至って朗らかに、話を続けた。
「他にも同期はいっぱいいましたよ。ブライス、アンジェラ、クリスティン、モリー……それから、記憶のない私に名前をくれたリタ!クリスティンとはルームメイトで、消灯時間を過ぎてからもお喋りしてました。皆いい子でしたよ」
最後の過去形を発したや否や、ブリジットの表情に陰が落ちた。
「でも……奴隷として売られる日に……私達はばらばらになって、各地の販売会場に運ばれました。薄暗いトラックの荷台で知らない子達と一緒に、積み荷みたいに詰め込まれて……」
「気が付いたらここに……か」
ブリジットはそっと頷き、そのまま俯いてしまった。参ったな。ここから泣き上戸にでも転ばれたら、俺には彼女を慰める手立ては皆無だ。が、不穏な胸騒ぎに反して彼女は微笑んでいた。下がり眉ではあったが、眠たげなまなこは、しっかりと意志を保っている。
「凄く不安でした。知らない街に連れていかれて、知らない人にお金で買われて、知らない家で暮らすだなんて、普通じゃ耐えられない。だから、心は壊れるんです」
――心が壊れる。その言葉に、表情が張り詰めるのが感じられた。だが、それが意味するところを窺い知る事は叶わなかった。その答えをブリジットは次の様に説いた。
「心だって、身体の一部です。病に侵されて腐敗した部分を取り除かなければ、病原菌は色々な場所に転移します。でも、その前に心が死んでいれば、菌はそこを培養液には出来ません。そうでしょう?」
同意を求められても困る比喩だ。要約すると、精神を病まない為の方法には、心という土地を悪者の生きられない環境――言うなれば、核や生物兵器や毒ガスで満たされた場所にする、という解釈でいいだろうか。何だかこの例えも酷いな。とりあえず曖昧に相槌を打つと、ブリジットは自論を更に展開した。
「心を自分で壊す事によって、人は病原菌からはひとまず身を守れます。でもこの手法――簡単に言うと『割り切り』でしょうか。これには追随する問題が出てきます。それも、病原菌より大きな問題が」
彼女は出し抜けに真顔になると、氷の解けたグラスをあおった。流石に飲み過ぎか?その割には、顔に赤みは見られない。ただ緊張が解れているだけなのだろう。
「大きな問題って?」ブリジットは力強く頷く。
「壊してしまった――ここも言い直しましょうか――感情が揺れない様に氷漬けにしてしまった心は、時間の経過に伴って壊死していくんです。それも、当人が気付かない内に」
「……つまり、君は奴隷として扱われ、その身を売りに出される事によって病みそうになった心を、自分で凍結したと?」
踏み込むべきか躊躇したが、意を決して彼女の少し深い領域に立ち入った。間違いなく沈んだ表情をされると信じて疑わなかったのだが、彼女は予想外にきょとんと目を丸くした。そのまま数秒が過ぎたかと思うと、今度はやにわに破顔して吹き出すのであった。何だ、俺の頭に花でも咲いたのか?試しにつむじを弄ってみたが、植物の類は生えていなかった。生えていたら何の花だっただろうか。スマトラオオコンニャクかしら?
「もう、ヒルバート様は構え過ぎですよ。確かに、ここに来てから数日は落ち込んでいました。それは認めます。でも、そうやって辛気臭くなっていた私の心労が続いたのは、ほんの少しの間だけでした。そこに心変わりを促してくれたのが……ね?」
そこで俺に振られても、返答に閉口する。だが、今の供述を聞く限り、彼女が現状に差し当たって不満を抱いているという事はないらしい。これは願ってもない状況だ。彼女がこの家で快適な生活を送る気概を持っているという事実は、この上なく望ましい。現に今だって、ふんわりとした笑みを浮かべている。アルコールで頬が緩んでいるという訳でもあるまい。ややもすると、俺の願望でしかない可能性も否めないが。
「ヒルバート様はご存知ですよね?私に昔の記憶がない事。目が覚めたら調教施設の真っ白な天井があって、冷徹な目をした調教官に囲まれる暮らしが始まったんです。すぐに仲間は出来ましたけど、毎日やりたくもない性的な技術を身に着けさせられて、露出度の高い服を着せられて、鑑賞品としてお金稼ぎの道具にされるんです。数え切れないくらい下品な目に晒されて……目の前で性器を露出してきた人もいました。そんな中にいて、希望なんて単語はたちどころに抹殺されたんです」
言葉で言い表すのが躊躇われる程に、心の痛む話だ。しかし、誰よりも辛いのは当事者である彼女の筈だ。ここで俺がおいそれと涙を零すなどと安い同情は許されない。
流石に心苦しいものがあるのか、ブリジットはウィスキーをグラスに注ぎ足すと、かなり大きな一口をあおった。急性アルコール中毒だけが懸念されたが、今晩の彼女はそれくらいでは止まらないらしい。溜めに溜めた鬱憤が、今になってダムを崩して溢れたのだ。
「そうやって三年間、好きでもない人の性器を避妊具越しに触ったり、舐めたり……。想像出来ますか?自分の意志でもなく、何が原因でそうなっているかも分からない状況に置かれているんです。仲間はいますけど、本当は心の内で孤独で、寒くて、弱音を吐く事さえ許されない。正直、溶岩の湧き出る地獄なんかよりも過酷でした」
とつとつと語るブリジットの目からは、感情の発露が零れる気配は見られない。アルコールで精神が鈍くなっているのか、それとも心の底から落ち着いているのか。女心との接触に乏しい身では知る由もない。それでも、気付いた時には口が動いていた。
「……分かるさ」
不意に放たれた一言に、ブリジットは身を強張らせた。そんな彼女に、俺は自嘲めいた微笑みを投げ掛けた。
「分かるよ。本当の味方は何処にもいない。扶養してくれる事が優しさではない。自らの傷を晒せない。そこに、自分の意思は存在しない。そして、自分を真の意味で支えてくれる理解者の存在を心待ちにしている……人権を剥奪された者の痛みなら、もう飽き飽きしていたんだ」
ブリジットは真剣な面持ちでかしこまっていた。俺もアルコールが入っていたせいか、理性に綻びが生じていたのだろう。まさか日も変わらぬ内に、自分から暗部を明かす契機を作る事になるとは。
「絶望したかった。心を閉ざしたかった。……でも出来なかった。君の言う心を壊すのにだって、相応の覚悟が必要だ。……下手を踏めば、そのままおっ死んじまうくらいの反動を抱え込む覚悟が、な」
「どうしてそれを……」
自分が踏み切れなかった一歩を指摘され、ブリジットは戦慄に目を見張った。何故分かるかって?聡明なお前さんが、こんなに簡単な問いの回答を見出せないとは、余程動揺していると見える。ジンの残りを胃に流し込み、彼女とは対極に伏し目がちになった双眸をもたげた。
「酔っているところに悪いけど、〈ベイリーズ〉を用意してくれないか。牛乳と一対二で割って欲しい」
俺の依頼に、ブリジットは真面目腐った態度で頷き、キッチンへときびきびした足取りで向かった。間もなく甘ったるいカクテルが目の前に出され、それを一口やって、腹を据えた。
「とある少年の昔話をしようか」
お気に入りのクリームリキュールを、今晩だけで何杯飲む事になるだろうか。どうやら今日は、長い夜になりそうだ。