※この作品はR-18です。

奴隷邂逅   作:紙谷米英

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本作は縦読み推奨となっております。


奴隷邂逅8

 

【17】

 

 その少年が目覚めたのは、自分の寝そべるマットレスに染み付いたカビの臭いのせいであった。周囲は真っ黒な闇に包まれており、小さな手の届く範囲すらも目視が叶わない。視界の端では、弱々しい白光が上方から筋を投げ込んでいる。階段だろうか。少年――どういった訳だか、彼には自分の出身はおろか、名前すらも憶えがなかった――は、縋る為のよるべを求めるかの様に、その光に歩み寄り、きしむ木の階段を小さな足で踏んだ。

 階段を上がった先には、ぼろぼろのテーブルが中央に置かれたリビングがあった。その奥は油汚れが壁にこびりついたキッチンで、洗い物の山が放置されていた。一つしかない割れ目の走る窓から、厚い雲のフィルターが掛かった昼の陽光が投じられている。決して広くはないその部屋の片隅で、ロッキングチェアが悲鳴を上げて揺れている。少年がそこに息をひそめてどっしりと座り込む男の存在に気付くのには、かなりの時間を要した。射抜く様な男の視線に捉えられた時、少年はその場で硬直し、両脚から力が抜けそうになった。中年の男は至極かったるそうに席を立ち、罠にかかった兎も同然となった少年の許に、じりじりと追い詰める様にして迫った。ドラム缶の如き胴体から延びる野太い脚が薄い床板を踏み締める度に、不気味な呻きが反響した。

 男が目と鼻の先に迫ると、少年は幼いながらも、直感的に男が信用に足る人物でないと悟った。顔には黒く脂ぎった髭が不潔に生い茂り、頭は頂と額が禿げ上がっている。皮膚のそこら中に吹き出物と茶色の染みが生息しており、落ち窪んだ黒い瞳には、欠片も情が宿っていない。背丈は高い方ではないが、腹に蓄えられた脂肪がパンツのベルトから大きくせり出している。その危険人物が、やにわに少年の顎――作られてから時間の経っていない、赤黒く生々しい傷が歪に走っていた――を粗暴に掴み、ぐいと上に向かせた。まだ癒えていない、いつ出来たかも知れない切創の痛みに、少年は顔をしかめた。だが、男の皮脂の付着する毛の生えた指に、小さな身体は抵抗の意思を示せなかった。

 男はしばらく少年の顔を舐め回す様にして検分すると、圧倒的な弱者である彼にこう言い放った。

「お前は俺に買われたんだ」

 仏頂面を崩す気配を全く覗かせず、男はその口からタマネギの腐った臭いを発しながら、少年が自分の所有物である事を宣言した。この日より、彼の運命の歯車は狂い始める。

 

 

一九八〇年代前半 アイルランド北部六県 南アーマー州

 IRAの、国家独立という名の陰惨な反政府運動が渦巻く土地で、かくして奴隷として売られた記憶喪失の少年は、このロビーと名乗る中年男性の小間使いとなった。後に便宜を図られ、IRAの指導者に倣ってマーティンと名付けられる少年だが、幼くして生き延びる為の術を心得ていたらしく、雇用主に刃向かったのはただの一度きりであった。

 ロビーはマーティン少年に家事の全てを強制した。さして広い家ではなかったが、当時のマーティンの矮躯と貧弱な筋力で、至る場所から腐臭の漂うスラム街同然の空間に統治をもたらすのは、なまなかな行為ではなかった。

 日々酷使される事でマーティンは徐々に痩せ衰え、すぐに紛争に苦しむ現地民と変わらぬ風体に変貌した。日に三度は残虐な雇用主に殴られ、常に目の下に青あざをこさえていたマーティンは学校にも行かせて貰えず、日がな一日をロビーの監視下で働き、それ以外は地下室の不衛生なマットレスの上で眠って過ごした。ろくに外出は許されず、皮膚は次第に紫掛かった斑紋が浮かぶ様になり、三白眼気味の瞳からは年相応の輝きは失われていた。過労で心身共に憔悴し、黒々と艶やかな頭髪からは色素がどっと抜け落ちた。

 マーティンが炊事をする――今でこそベーコンもまともに焼けなくなってしまった彼だが、過去にはその任を一身に背負っていたのだ――そのすぐ傍で、ロビーは常に飲んだくれていた。昼時に酒瓶の散らかった寝床から這い出すと、マーティンが片付けたリビングでひねもすビールをあおる。そうして椅子で寝入ったと思うと、明け方に悪霊の如き咆哮でテーブルに吐瀉物を撒き散らし、何食わぬ顔で寝床に帰ってゆく。吐瀉物の処理をするのは当然の如くマーティンであり、怠ればロビーの靴の底を舐める羽目になるので、彼は素手で茶ばんだゲル状の汚物を片付ける。涙は既に枯れ果て、同様に感情も渇き切っていた。

 放埓かつ堕落した生活を続けていたロビーであったが、何処かに金脈でも持っているのか、生活費に枯渇する事はなかった。ただ、時たま郵便受けに宛名はおろか送り主さえも記されていない封筒が投函される事があり、それを知るとロビーは人が変わった様に寝室に籠もり、何やら作業を始めるのであった。その数日後に何者か――それは時として腰の曲がった老人であったり、薄幸そうな女性であったりした――がロビーの家を訪れ、彼のこしらえた青果の段ボール箱と引き換えに、皺だらけの札束を受け渡してそそくさと帰る姿を、マーティンは幾度となく覗き見ていた。想像するに、あの箱には希望とか呼ばれる何かが詰まっているのではなかろうか。中身を知らなかった少年は、寝床に潜る度にパンドラの箱へと想いを馳せた。知った後で、冷酷な現実に打ちのめされるとも知らずに

 

 苦役と暴力に耐えて二年が過ぎた時、マーティンの凄惨な生活に転機――更なる災厄と呼ぶべきであろうか――が訪れた。この一件により、彼は地獄のるつぼを垣間見るのである。

 家事も板に付いてロビーからの暴力も少なくなった頃、快適ならぬ地下で束の間の休息を摂るマーティンに、上階の雇用主から呼び声が掛かった。本音を言うと億劫で仕方なかったが、また不快感を催す腕に殴り付けられるのも癪だと考え、腐食した階段に足を掛けた。

 階段の先、それまでと変わらないほの暗いリビングで、普段よりも険悪に表情を固めて両手を組むロビーがいた。彼が着く汚れたテーブルの中央には、かなり使い込まれたとみられる、見慣れない本が置かれている。通称『グリーンブック』と呼ばれるこの書籍こそ、北アイルランドに駐留する英軍兵士への攻撃法や爆弾テロの手順を指南する、IRA暫定派の訓練教本であった。これを受け取らされたその時より、マーティン少年は他でもない、IRA暫定派の兵士として、謀略の汚泥にまみれた活動を強要される道を歩むのであった。

 また、マーティンはロビーのろくでなしの影に隠れた、もう一つの姿を拝む事になる。とある日、彼は家事を終えた深夜にロビーの寝室に呼ばれ、そこで鋼鉄の作業台に載せられた数々の工具と対面する。ペンチ、ニッパー、皮手袋、膨大な長さの配線、焼け付いた半田ごて、鋭利なナイフ、そしてオフホワイト色の粘土の塊――。これらは全て、IRA暫定派たる『プロヴォ』が、そのテロ活動を実行するのに不可欠な道具である。粘土の名称はPE4――イギリス軍で制式採用されている、高性能プラスティック爆薬だ。可塑性が高く、科学的に非常に安定していて、雷管を挿さなければ決して爆発しない。だが、爆発の際にはTNT換算で一・三倍以上の破壊力を発揮し、正確な計算と設置場所を適用すれば巨大な鉄橋を崩落させる事も可能だ。日常生活において一般人が目にする事もない軍用爆薬を、ロビーが何故に保有しているのか。当時の北アイルランドを知る者であれば、答えは歴然としている。ロビーはIRA過激派の実行班であり、その爆弾製造を担っていた。

 年端もいかないマーティンであったが、この光景を目の当たりにした彼は瞬時に事態を把握した。殆ど自由を許されなかった彼だが、自身の幽閉されている地域がどういった場所であり、如何に頻繁に殺人が横行する緊張に満ちた場である点を察知していた。そんな場所で、自分は殺人の一端を担ぐ事になる。逃れ得ぬ運命を呪う気力さえ、彼からは奪われていた。生きる為。それだけが、マーティンの行動理念に焼き付いていた。

 それからというもの、マーティンは一日の家事を終えると、彼の埃臭い地下室に移動された作業台と向き合い、ロビーの指導の下で爆弾作りを仕込まれた。標的に適したプラスティック爆薬の量の計算、解除不可能な構造の配線、時限装置の自作……。当時の爆弾製作でトップレベルの技術を叩き込まれたマーティンは、文字通り災厄の火種の一つとなった。

 奴隷として買われたマーティンへの扱いは凄惨を極めるたものであったが、爆弾作りの仕事を憶えるにつれて、そこに改善の兆しが見えてきた。ロビーの毛むくじゃらの腕に嬲られる羽目はなくなり、量が少なかった食事も自由に摂れる様になった。何より、指示された内容を学習すると本を与えられたのだ。マーティンはあらゆる種類の本――とはいえ、思想書だけは許されなかった――を読み漁り、学校で学ぶ以上の知識を吸収していった。所持する情報が増幅する愉しみを味わった彼は、寝る間を惜しんでページをめくり、鉛筆をノートに走らせた。そうした日々が一年ほど続き、この暮らしも捨てたものではないのではないか、そんな風にマーティンが楽観的に構える様になった頃であった。

 とある日の昼下がり、ロビー宅の郵便受けに爆弾の注文書が投函された。内容は、路肩の排水溝に設置可能な遠隔操作で起爆する型の爆弾を一つ、三日後の正午までに製作する様にとの指令であった。ロビーはウィスキーの瓶をあおりながらこの書簡に目を通し、腐臭のするおくびを吐いてから、注文書をマーティンへ放った。「この仕事はお前がやれ」それまで訓練のみを受けていたマーティンにとって、IRAのテロに携わる最初の試練である。

 その日の晩、マーティンは汗の染みた作業着と前掛けを身に着け、使い古された皮手袋をはめて作業台に向き合った。プラスティック爆薬のブロックから必要な量をナイフで切り分け、配線と繋ぎ合わせて電気信管を挿し込む。額に汗が滲む。装置の製作失敗を恐れるから、或いは戦争に身を投じる緊張からか。マーティンは手の甲で汗を拭い、作業を続けた。今回の起爆装置には、遠隔式のガレージオープナーを使用する策定を下した。IRAでは頻繁に用いられる手段だ。電波の有効範囲内であれば、ボタン一つで起爆可能な点が評価されている。

 完成した爆弾を青果の木箱に収め、余剰な空間に曲がった鉄釘や芋虫みたいに太いボルトを詰める。万一に備えて対解除の工作を施し、第二の時限式の起爆装置を取り付ける。三時間に及ぶ作業に息をつくと、マーティンはロビーへと終了の報告に地下室を出た。リビングで酒を浴びるロビーの手を引いて地下室へ飛び戻ると、興奮した様子で自分の最高傑作を見せ付ける。ロビーはいつもの仏頂面を張り付けたままで爆弾の配線を目で辿り、鼻息を一つ漏らしてから、その黒ずんだ手をマーティンへ向けてがばと振り上げた。反射的に両目を強かに瞑った彼は、何を間違ったのかを思案した。配線か?それとも解除防止の措置か?何れにせよ、俺はやらかしたのだ。自責が最高潮に達したところで、振りかぶられた腕が彼の頭に下ろされた。非常に乱暴なまさぐり方ではあったが、それは確かに慰撫と呼ばれるあった。数秒のそれが為されて呆気に取られるマーティンをその場に残し、ロビーは完成品の爆弾を抱えてさっさと上階へと戻っていった。この時、マーティンは久しく味わっていなかった充足を確かに味わっていた。父親のみが持ち得る、温もりを。

 マーティンの製造した爆弾は、期日通りに老いた男が受け取りに赴き、家から持ち去っていった。それがいつ何処で使われる事になるのか、ひょっとすると使われずに秘密の武器隠匿場所に保管されるかもしれないが、どういった働きをするのかという点に関心を抱いていた。彼がその答えを知るのは、それから一週間後であった。

 アイルランドでは平常運航の曇天が空を覆うその日、マーティンは色が正常に映されなくなったブラウン管のテレビで、衝撃的な光景を目にした。南アーマー州のプロテスタントが多く住む地区で、白昼にIRAの仕掛けた路肩爆弾が五人の死者と十三人の負傷者を出したという報せの中で、事件の現場とアルスター警察によって回収された爆弾の残骸が映し出されたのだ。

 事件現場は黒く焼け焦げた道路が爆心地を中心に抉れ、その付近に車体がねじくれて原型の失われた自家用車が横たわっている。爆弾は排水溝に設置されていたものとされており、画面に映し出された、役目を終えたその装置の写真を見るや、マーティンは戦慄した。青果の木箱の切れ端――俺が作った爆弾だ。ロビーに褒められた喜びの一心で失念していたが、彼は紛れもない人殺しの道具を生み出したのだ。それが現実に人間を一瞬で吹き飛ばし、多数の怪我人を作った事実におののいた。マーティンはキッチンで嘔吐し、身体の震えを治めようと毛布にくるまったが、無意味だった。一度でも自分の働きに誇りを持ってしまった自己を呪い、枯れた筈の涙を流した。自分はもう、引き返せない場所まで来てしまった。それが自らが望んだものではないとはいえど、結果は無実の人々を傷付けるものだ。良心の呵責に息がつまり、彼はそれからしばらく、震えで眠れない夜を過ごす。醒め得ぬ悪夢への下り坂は、まだ始まったばかりであった。

 

 数年が経過し、歳が二桁に到達する頃合いになると、マーティンは白髪を染めて現場の偵察任務を担うまでになった。この時代、北アイルランドでは子供の奴隷を工作員や連絡係として利用するプロヴォの構成員が増えていた。身寄りのない奴隷は調教が容易で、おまけに軍は子供への攻撃が許されない為に、使い勝手が非常に優れていた。政府はこれに対して幾つか政策を実施してはいたが、子供に鼻をほじるなと叱咤するのと同様、抑止力としては機能しなかった。この地では、奴隷の子供を腐敗した大人のエゴにまみれたテロリズムに使用する蛮行が跋扈していたのだ。

 マーティン少年の瞳からは生気が完全に抜け落ち、絶望に身をやつして頬がこけ落ちていた。それでも、年齢以上の利口さと頑健な肉体を持ち合わせ、この地獄で生き抜く力だけは有していた。

 薄い霧の下りるボグサイド地区の夕暮れ時、マーティンは上着のポケットに両手を突っ込み、メッセンジャーバッグを肩から吊り下げていた。一九七二年の『血の日曜日事件』の記念碑が遠方に見える。マーティンの視線の先には、市街地をゆっくりと警らする陸軍のハンバー・ピッグ装甲車があった。哀れなやつらめ。コンクリートの外壁に寄り掛かり、マーティンは装甲車から少し離れた位置に停車されたトヨタに目をやった。白い車体は傷だらけで諸所の塗装が剥げ、ウィンドウにはスモークが貼られている。装甲車はじりじりとトヨタに近付く。マーティンはそこから百メーターも離れていない地点で待機していた。人目を引く顔の傷跡はファンデーションで隠し、顔を見られない様に野球帽を目深に被っている。履いているジーンズは膝が破け、如何にも不潔そうな雰囲気が漂っている。周囲の人間に溶け込んでいる。誰がどう見ても、学校帰りに寄り道をしている子供であった。

 あとどれくらいだ?マーティンは目を細め、装甲車とトヨタの距離を見定めた。約十五メーター。鼻息を一つ漏らし、ODのメッセンジャーバッグに片手を突っ込む。指先がまさぐる先に、硬い感触があった。装甲車は尚も進み続ける。あの中には何人の陸軍兵士がいる?八人か、それとももう少し多いか。何れにせよ関係ない。BBCのニュース番組の字幕表記が、ちょっと変わるだけの事だ。深いため息を吐き、彼は装甲車へ向き直った。トヨタとの距離、十メーター。十分に有効範囲内であるが、まだその時ではない。七年を掛けて培った辛抱強さは、こうした場面で役に立つ。八メーター。歯を食い縛り、逸る身を律する。今すぐにこの場から逃げ出したい焦燥を押し殺し、じっと待つ。もしも上手くいかなかったら?その時は事前に決めておいた段取りがある。我々の内の誰かが捕らえられるというヘマは犯さないない。ポーカーフェイスの下で、彼は必死に自身との葛藤を繰り広げていた。

 五メーター。近い。だが、今やってしまっては仕損じる可能性がある。四メーター。悪くない。だが、まだ早い。三メーター。微妙な頃合いだ。他人の指示があれば、迷わずにやっている。二メーター。引き返すなら最後の機会だ。だが、マーティンは確固たる決意を揺るがさず、その場で不動を保った。一メーター。その時、マーティンが動いた。

 彼がメッセンジャーバッグの中で指を押し込んだ刹那、地面が震える程の衝撃と轟音が周囲に走った。先程までそこに停まっていたトヨタが大量のPE4プラスティック爆薬によって装甲車を巻き添えにして弾け飛び、空まで届かんとする炎の渦を巻き起こした。一瞬の出来事であった。メッセンジャーバッグの中から操作したガレージオープナーより発信された電波がトヨタの車内に届き、エンジン部分に仕掛けられた電気信管を通じて爆薬が起爆。満タンに入れられたガソリンとそれが詰められたポリタンクもろとも炎上したのだ。

 付近の人々は呆気に取られた者が少数見られたが、大半はパニックを起こしてうずくまったり、狂気に駆られて騒ぎ出す阿鼻叫喚の図が展開されている。マーティンはバッグから小型の双眼鏡を取り出し、装甲車の方に向いて覗いた。装甲車はトヨタと一緒に燃える塊と化し、左側のドアが爆風で彼方へともぎ取られていた。車内でもがく影が窺えない事から、乗っていた兵士らは即死したものと見られる。轟々と燃え盛る二つの鉄塊は、炎上する際にマーティンの立っていた地点にまで爆風の圧力をもたらし、野球帽を飛ばした。それをあの装甲車は間近で喰らったのだ。中の人間が生きていられる訳がない。

 爆発から間もなく、遠方からパトカーがサイレンを鳴らしてやってくるのが、マーティンの耳に聞こえた。彼は帽子を拾って現場から踵を返して去ろうとし、そしてはたと足を止めた。彼の眼前を、パトカーよりも早く、またサスペンションに異常に負荷の掛かった黒のベンツが疾走した。スモークが貼られたその車は、傍目からは一般市民のものと思われがちだが、それが事件現場の手前で急ブレーキを踏んで停車したのを見て、マーティンは確信した。――SASだと。

 北アイルランドでデタッチメント、通称『デト』なる諜報活動を展開するSASは、防弾装甲と大掛かりな通信装置を車に積み、換装したハイパワーのエンジンを搭載した特別仕様の車を使うと、ロビーが言っていた。ベンツから二人の男が飛び降りてくるのを固唾を飲んで見守り、マーティンは次の自身の行動を思索した。

 大爆発を起こした現場に、当事者が長く留まるのは好ましくない。だが、SASは――特殊部隊はその性質上、非常に重大かつ貴重な情報を有している可能性が高い。それはIRA側にとっても同様である。敵がどの様な計画を立て、如何にIRAを拿捕せんとしているかを知る事で、その裏をかいてやる事も可能になる。情報こそが、軍事作戦の要である。今この場で彼らを捕らえられなくとも、その容貌を押さえておけば幾らでもやり様はある。マーティンは前屈みになり、パニックで逃げ惑う人波を掻い潜り、事件現場へ野次馬に紛れて接近した。

 SASと見られる男らは、片方が百九十センチ近い身の丈を持つ大男で、ブロンドの髪を生やしている。対するもう一人は百七十センチほどの背丈に、恰幅の良い鈍重そうな身体をしている。ブラウンの頭髪を生やしたその男は装甲車の遺骸に駆け寄り、生存者を探している素振りを見せた。馬鹿野郎、全部消し炭だよ。内心で自身の仕事振りにほくそ笑み、マーティンはバッグの中のカメラに手を掛けた。この頃になると、彼の心から人殺しの罪悪感は抹消されていた。

 炎の熱が感じられる程の距離まで近付き、カメラのファインダー越しに男らの背中を眺める。くそ野郎どもめ、今に見ていろよ。さっさとこっちを向きやがれ。黒い革のジャンパーを羽織る二つの背中に、マーティンは毒づいた。やがて生存者がいない事を悟った背の低い方の男ががっくりとうなだれ、マーティンの方を向いた。カメラのシャッターに指が掛けられると同時に、その男がレンズと目を合わせた。

 マーティンはしばし硬直し、シャッターを切れないままでいた。見られたか?いや、野次馬がカメラを手に現場を撮影するなど、何の不思議もない光景だ。彼は自身に言い聞かせ、カメラを構え直した。三十路と思われる男は、じっと、マーティンを見据えていた。――まさか。男の表情には核心を捉えたものが含まれていた。射抜く様な視線に心を掴まれたマーティンは、久しく味わっていなかった身の縮む思いを覚えた。恐怖だろうか。その正体は現在を以てしても知れないが、気付いた時には彼は炎が空を舐める現場に背を向けて駆け出していた。後ろから男の呼び止める声が聞こえた気がしたが、従うつもりはなかった。捕まったら、何をされるか分かったものではない。息を荒げてマーティンは走り続け、一度も振り返らずにバスへ飛び乗った。

 停車駅を四つ経たところでバスを降り、黒のベンツが尾けてきていない事を確認すると、額を流れる脂汗を拭って肺の空気を全て吐いた。危なかった。下手な浅慮で馬鹿をやるものではない。危ない橋を渡りかけた彼は、そこから一時間掛けてロビーの家へと戻った。

 空っぽの郵便受けを確認してから玄関のドアを抜けると、やはりロビーは飲んだくれていた。彼はただ一言「成功したな?」と問い掛け、マーティンは首肯を返す。――成功なものか。帽子を被っていたとはいえ、顔を見られた。だが、点数の悪い答案を隠す子供と同じく、マーティンはその失態を父親代わりに言い出せなかった。彼の脳裏にはただ、ファインダー越しに正対したSAS隊員の、驚愕とやるせなさに彩られた顔が焼き付いていた。

 

 それからも、マーティンは闇討ちや車両爆弾を始めとした殺人技術を習得し、プロヴォの優秀な兵士として完成しつつあった。ある時は工作班のサポートとして、陽動に小爆発を起こす。またある時は、警察や軍の上層部の誘拐に障害となる護衛を狙撃するなど、プロヴォの作戦に欠かせない程の資産となっていたのだ。数多の訓練によって身体には無数の傷跡が作られ、全身の筋肉は歳に不相応に鍛え上げられていた。小回り利く身体を活かして敵の懐に潜り込み、拳銃弾の雨を喰らわせるという技術をも習得していた彼は、純然たる戦争の歯車として機能していた。

 学校に通う同年代の子供より多くの学識を備えたマーティンは、その狡猾な頭脳から組織に反旗を翻しかねないとの懸念が仲間内で上がる事も少なくなかったが、上層部の指示にはしっかりと従っていた為に『懲罰班』から膝を撃ち抜かれる事もなかった。品行も大人しく、警察の厄介になる事も全くなかったから、彼自身の情報がIRAの外部に漏れる事もなかった。だからこそ使い易い手駒だったのだ。

 そうして表面上は穏やかな生活を続けるマーティンが十四歳になってしばらく経った冬、彼が湯を沸かしている最中に、書簡という形で仕事が舞い込んできた。

 この頃には体調を崩し、床に臥せている時間が多くなったロビー――アルコールの摂り過ぎで、肝臓を壊していた――にこの書簡を見せると、お前が読んでおけと、不機嫌そうに腕を振って寝室からマーティンを追い出した。彼はリビングで書簡を開封し、その指示に目を通した。――どうやら、先日に仲間を拘束したアルスター警察のニック・バートンの家を全焼させるというものらしい。その際、バートンの生死は考慮しないとの指令だ。何故家を燃やさなければならないかは記されていなかったが、大方こちらの不利に繋がる書類でもあるのだろうと見当を付け、マーティンは仕事に取り掛かった。

 爆弾を製作するにあたって、今回用意した爆薬はPE4ではなく、ガソリンと固形石鹸であった。粉末状にした石鹸をペットボトルに入れ、そこにガソリンを流し込んで蓋をする。これを複数作るだけだ。後は遠隔操作可能な発火装置を取り付け、時が来たら作動させるだけでいい。起爆した途端にペットボトル中のガソリンが燃焼して弾け、方々に飛び散る。溶けた石鹸が混じったそれは壁や天井に貼り付いて、周囲の全てを燃やし尽くす。非常に単純ながら、絶大な効果を発揮する爆弾だ。マーティンはこれを八本製作し、ナイロンのボストンバッグに詰めた。外は陽が落ち始め、薄暗い様相を示していた。彼は仕事を早い内に終わらせる目的で、完成したばかりの爆弾のバッグを抱え、緊急時に備えて拳銃――ブローニングのハイパワー――をベルトに差して家を出た。

 目的の住宅は木造の二階建てで、黒い屋根に砂埃が積もっていた。十分ほど周囲を観察したところ車は出払っており、内部にも人気は感じられなかった。両隣の家にも人気がなく、どうやら未だ仕事から帰っていないらしい。人通りも少なく、陽も既に沈み、群青色の空色が彼方に見える。マーティンは何食わぬ風を装って家に歩み寄り、縁石を跨いでドアの前に立ち、デニムの上着のポケットからピッキングの道具を取り出した。それらをそっと鍵穴に挿し込み、誰にも見られていないのを確認してからこじり始める。鼻の頭に浮かんだ汗が冬の外気で冷える中、三分ほど鍵穴を弄り回すと、手元で錠が開くのを感じた。内心で胸を撫で下ろし、そのまま家の内側へ足を滑り込ませる。何という事もない、一般市民の調度品が並ぶ家だ。特徴らしいものが見当たらない。室内に漂う埃臭さも、ロビーの家と変わりない。

 マーティンは家屋の軸となっている柱に、手製の焼夷材を満たした爆弾を粘着テープで張り付けていった。キッチンのガス管も含めて一階に四つを設置すると、階段を上がって二階へと乗り込んだ。寝室に爆弾を仕掛けると、ベッドサイドテーブルにフォトフレームが置いてあるのに目が留まる。中肉中背の三十台と見える男性と、大して美人でもない女が、産まれて間もない子供を抱いている構図だ。背景にはこの家が写り込んでおり、双方が口角を上げている。馬鹿馬鹿しい。マーティンは鼻を鳴らし、そこにも爆弾を置いた。

 更に書斎に一つの爆弾を仕掛け、爆弾が残り一つという時であった。不意に、下階から物音がした。マーティンは反射的に書斎のドア脇に張り付き、耳を澄ませた。アドレナリンが体内で爆発的に増加し、額から流れた汗でファンデーションが崩れる。右手が自然とベルトのブローニングに伸び、そっと抜く。侵入したのを見られたか?それならもっと早い段階で踏み込んでくる筈だ。固いスライドを引き、初弾を薬室に送り込む。金属の擦れ合う音に、首筋に鳥肌が立つ。この銃で人間を殺害した回数は幾らかあったが、それは事前に誰をどういった状況で殺害するか取り決めておいた上での話だ。目下の様に予定外の敵襲を想定したものではない。

 どうする?マーティンは銃のグリップを握り締め、そっとドアの隙間から廊下を覗き見た。恐らく、ニック・バートンが仕事から帰宅したのだ。この事が自分にとって幸と不幸のどちらに転ぶかは後で決めるとして、マーティンは上昇した心拍数を落ち着けようと服の胸元を握り締めた。何も難しくない。やつがこのドアの前を通る瞬間に、部屋の中から飛び出して奇襲を仕掛ける。それで終わりだ。虚を衝かれてまともに反撃の出来る人間はいない。ねっとりとした唾液が光る舌で唇を舐め回し、マーティンは左手をドアノブに掛けた。

 重々しい足取りが、階段を一段ずつ踏み叩く。その間隔が、心臓の拍動と同調する。この家の階段の段数は十五。さして苦になる数ではない。それなのに、やけに遅々としている。マーティンは逸る気を抑え込み、瞼を落ちる汗を拭った。気付かれたか?ややもすると、一階に仕掛けた爆弾を見られたのかもしれない。ともすれば、まだ家の中にいるかもしれない俺を捜しているのか。緊張は急速に高まり、掌にも汗が滴った。

 ようやく対象が階段を上がり切ると、やはりじりじりとそれは書斎に近付いてくる。どういう訳だ。やつはこちらの気配を汲み取り、過たずにに書斎に向かってくる。マーティンは予定外の事態に当惑し、目元を引くつかせた。眼球に塩の水が流れ込み、沁みた。どうやらバートンは優秀な警察官らしい。女の勘よろしく、素晴らしい策敵能力を有している。内心舌打ちをやりつつ、ドアノブを僅かに捻った。

 爆破の時と何も変わらない。肝心なのは、そのタイミングだ。ドアを跳ね開け、バートンの胸に全身でぶつかり、倒れ込んだところに鉛弾を見舞う。それで障害は退けられる。これまでやってきた殺しと、何も違わない。冷酷な意思を固めたその時、書斎のドアの前で、足音が止まった。

 虚を衝かれたのは、マーティンの方であった。彼はやにわにドアを跳ね開けると、前もろくに見ずに肩から敵に激突した。全身を投げ出しての特攻で敵と一緒に床を転がり、即座に距離を取って体制を立て直し、右手のブローニングを構える。左肩に提げていたバッグの中の最後の爆弾が、激しく跳ね回る。猛烈に揺れる照準が安定し、引き鉄に掛けた指を引き絞ろうとしたその瞬間、マーティンは度肝を抜かれた。

 ――誰だ、こいつは。

 思考が真っ白に色が抜け落ちた。すぐ目の前の床に、今しがた奇襲を掛けた対象が仰臥している。濃いブラウンのボブカット、冷めた碧眼に雀斑の浮いた青白い肌。黒のセーターにぴっちりしたジーンズを身に着けている。――女。バートンではない。呆然と忘我するマーティンを、一つの声が現実に引き戻す。――ママ。五歳ほどの児童が、階段の方から女に駆け寄ってくる。

「来ては駄目!」

 寝室の写真で見た母親が、血相を変えて叫んだ。しかし幼い子供は一心不乱に母親の許に駆け寄って座り込み、その顔に触れた。突き飛ばされた時に壁ににぶつかったのか、目の下が赤く腫れていた。子供は首をマーティンへ向けると、その澄んだ蒼い眼を曇らせた。そこに本能からもたらされる恐怖の色を、マーティンは確かに悟った。自分の手には重々しい殺人の道具が握られ、その銃口は彼らに向けられている。母親は上体を起こし、息子の腕を掴んで逃亡を図ったが、下半身が脱力して立ち上がれないでいた。母親は息子より顕著に感情を露呈し、目尻に涙を溜めていた。口を歪めて助けを乞い、歯を打ち鳴らした。

 マーティンの中で、凍り付いた感情が揺さ振られた。どうして、こんな事になってしまったのか。定めた照準が震え、動揺が表に出た。何故、ニック・バートンではなかったのか。瞬き一つせず、マーティンは硬直していた。やつであれば、既に九ミリの弾丸を頭部と胸部に叩き込み、絶命させられていたのに。どうしてお前たちはこんな場面に居合わせてしまったのだ。どうして――。

 マーティンはこれまで、言われた事には全て従ってきた。人を殺せと命じられれば殺し、盗めと指示されればその通りにこなした。だが、その枠を越えた行いはしなかった。目的を達成する為に必要な以外の殺人はせず、また窃盗や破壊工作でも自己主張の激しいスタンドプレーは演じなかった。それは自己を余計な危険から守る為でもあるが、それ以上に余計な良心の呵責を抱え込みたくなかったのだ。事前に用意しておいた容量以上のダメージを負えば、心身に負荷が掛かる。それを見越しての自己防衛措置であった。

 それが今、音を立てて崩壊を迎えた。こんな事があってなるものか。マーティンは己が運命を呪った。握り締めた銃が悲鳴を上げる。俺が殺す覚悟を決めていたのは、IRAの敵対組織であるアルスター警察に所属するニック・バートンただ一人だ。それ以外の人間は殺さない。そう決めていた。

 目の前の女と子供は、地べたに座り込んですくんでいる。だが、いつまでその状態が続くだろうか。既に家宅侵入の事実を知られ、顔と銃を見られている。このまま二人を残してこの家を去れば、じきに事が夫や警察に知れ渡るだろう。そうなれば俺はお終いだ。俺だけではない。社会的に見て俺の養育者であるロビーも警察に捕らわれるだろう。それだけは、個人的に何としてでも避けたかった。それがマーティンの思考を占拠していた。

 ――だが。マーティンはその結末を回避する為の選択肢を踏むのを躊躇った。やらなければならない。マーティンは無力な二人に向き直った。女の顔は化粧が涙と汗で流れ、黒い涙を零している。子供の方も状況を理解していない風を漂わせているが、その瞳からは恐怖の臭いを発していた。子供というのは、大人も計り知れない勘を有しているものだ。

 マーティンの指は、引き鉄に掛けられたまま動かなかった。女はいつ喚き出してもおかしくない状態であった。二発だ。たった二発の鉛玉で、全てが元通りの軌道を辿れる。いつもの様に家事をやって、いつもの様にロビーの世話をして、仕事が来たらいつもの様に爆弾を作る。そんな日常が憎くも、たまらなく手放し難かった。あれ程に疎ましかったロビーの存在から離されるのが、彼との繋がりを失うのが怖かった。

 憐憫を誘う視線が、マーティンの一身に降り注ぐ。こいつらを殺すのに必要な覚悟は、自分にあるのか。彼は十四年という短い人生の上でさえも、幾度となく続け、そして長らく顔を合わせていなかった葛藤と再会した。そいつなら、第二の選択肢を――今までの生活を維持しながらも、弱者たる不運な彼らの命を奪わずに済む方法を編み出してくれるのではないか。そう淡い期待を抱いて。

 でも――表面上だけ大人に取り繕っただけの餓鬼に過ぎなかった奴隷には、全てを救える光明を見出せなかった。なまじ賢かったが故に、自分を騙すのにも限界があった。仕方がなかった。その一言で終わらせられればよかった。それだけの肝が、厚かましさが、悪が、彼には備わっていなかった。その双眸に融け出した感情を溢れさせ、レールを外れて地に堕ちた哀れな人の子は、心を壊した。

 

 延々たる逡巡の末に、乾いた銃声が二つ、湿気臭い空気を満たした。

 

 

【18】

 

 俺はベイリーズのロックが入ったグラスを干し、そっとダイニングテーブルに置いた。もう何杯、こうしてブリジットが注いでくれたリキュールを胃に流しただろうか。既に瞼は垂れ、ずっしりとした重みが皮膚を支配している。

「……とまあ、そんな面白くねえ餓鬼がかつての北アイルランドにいたというだけの話さ」

 ブリジットは口を真一文字に結び、眉宇を強張らせて話に聞き入っていた。外ではもう空が白み始め、朝日を待たぬ内から鳥がさえずりを響かせている。

「それから……?」

 よくもまあ体力と気力がもつものだ。俺が逆の立場であれば、ロビーが出てきた辺りでいびきをかいている。正直、この先を話すべきかは判断を下しかねていた。俺としても決して触れられたい話題ではないし、何より彼の後日談には小恥ずかしい部分がある。

「断っておくが、盛り上がるところなんかないからな?」

 ブリジットはこくと頷き、ベイリーズを俺のグラスに注ぎ直した。数十秒して冷え始めたそれに口付けて唇を潤すと、再び過去の回想のフィルムを映写機にセットした。

 

 

 マーティンは爆発に巻き込むという以外の形で、初めて戦場の外にいる人間を殺した。後頭部の射出腔から壁に散った脳漿が、まるで彼を苛む呪詛の如き様相を示していた。彼はその場で跪いて嘔吐し、爆弾の入ったボストンバッグを放り捨てて家を飛び出た。取り乱した少年の姿を見た近所の人々は、皆一様に彼を避けた。面倒事には首を突っ込まない。それがこの辺りの暗黙の了解であり、戒律であった。

 何も考えられなかった。ただ、自己の内で計り知れない程に増大してしまった怪物から逃げたい一心で、両脚を前後させていた。肺が悲鳴を上げても厭わない。任務などどうでもいい。その時は単に逃げる事だけに囚われていた。何度もけつまずいて顔や肘を擦り剥き、幾度となく巡回中の警官に呼び止められた。行き場を失くした鉄砲玉と化したマーティンは、止まる場所を失っていた。涙と汗と血で固まったファンデーションはグロテスクに固まり、見る者に忌避感を催させただろう。

 行く当てのないままに走っていたマーティンであったが、実際のところ、現在のIRAという暗部から明るい普通の暮らしを求め、脳裏に巣食っていたあの光景に恐怖を抱きつつも、それに縋りたく思っていたのかもしれない。裏付けに、彼は気付けばボグサイド地区に到達していた。長距離をノンストップで走ったせいでふくらはぎと足首が気味悪く腫れ上がっていた。脳が酸欠に陥り、本当に何も考えられなくなっていた。

 そのまま路地裏に迷い込んだマーティンは、地元の不良グループに因縁を付けられて絡まれる。彼は多勢を相手に善戦するも、逃げ出す隙を見出す暇もなく、三人を地面に伸すのみで泥を舐める結果となった。グループの首領に髪を掴まれて頭を上げさせられた際に、それまで上着のポケットに隠していたブローニングをそいつの額に突き付けた事で、無法者共は蜘蛛の子を散らす様にして退散した。これでもうお終いだ。あいつらが情報源となり、俺は間もなく警察に連行される。そうなればロビーの家に警察が押し入り、病床に伏す彼は両腕を背中に回す羽目になる。IRAの優秀な爆弾作りが捕まるという事実ではなく、養育役であった父親が奪われる陰湿な背景に、マーティンは悲壮感を味わっていた。

 路地裏で突っ伏す身に、彼方からパトカーのサイレンが聴こえた。俺を拘置所にぶち込みに来たのか。一歩も動けなくなった身に鞭を打って立ち上がろうとしたところ、すぐにまた地面に顎を打ち付ける醜態となった。情けない。自分の父親がどうにかなっちまうという事態に、この身体はちっとも動けやしない。知らぬ間に嗚咽を発してすすり泣く自身に、唾棄したかった。

 夜の帳がアイルランドを覆ってから、どれくらいそうしていただろうか。マーティンは泣き疲れたのか、それとも精神の防護の一環か、全ての警戒を解いて寝入っていた。そんな彼の身を揺らした者がいるとすれば、雲の上から愛を運んでくれる天使様か、でなければ無抵抗の標的から財布を漁る浮浪者だ。確実に後者だと即断したマーティンは、文字通り最後の力を振り絞ってブローニングを抜いた。彼が抜いた銃はぐらりと揺れながら犯罪者を捉え、その額にぐいと押し付けられた。これでびびってくれなければ、盗むなりカマを掘るなり好きにしろ。そういう思いであった。

 予想に反し、相手は第三の手を行使した。突き付けられた銃を荒々しく弾き、彼の手からもぎ取ったのだ。手慣れた動作に失いかけた警戒を取り戻し、マーティンは首を勢いよくもたげた。視界に、三年前にボグサイドで装甲車を爆撃した際に見かけた、SAS隊員と思しき男が映った。その後方にはブロンドの長身もいて、何処から奇襲を掛けられても対応可能な様に目を光らせていた。

「お前、名前は?」

 拳銃をもぎ取った男が誰何する。マーティンは男を睨み付けて無言を貫いた。その表情に何か思うものがあったのか、男はそれから何も訊き出そうとはせずに、こう提言したのだ。

「訳ありみたいだな。ちょっと付き合えよ、紅茶くらいは出すぜ」

 男の言葉に、長身が面食らった様子で反論をがなった。だが、憔悴しきったマーティンの薄れゆく意識の下では、何の話をしているのかさえ判断が付かなかった。

 彼が目覚めた場所は、黄ばんだ白い壁に囲まれた個室であった。中央には安物のテーブルが鎮座し、それを挟んで向かい合う形でパイプ椅子が置かれている。その一方、ドアから遠い方の椅子にマーティンは座していた。状況の理解が追い付く前に、個室のドアが開かれた。足を踏み入れてきたのは、三年前の爆破現場にもいた、あの恰幅の良い男だ。

「随分早起きだな。もう休めたのか?」

 マーティンは倦怠感の残る身体を動かし、腕時計に目を落とした。午前の三時。先程まで携わっていた作戦の失敗を思い出し、マーティンは戦慄した。形容し難い不安に襲われ、背筋に冷たい水滴が湧き出る。尋常ならぬ様子に気付いた男は、急いで水の入ったグラスを持ってきて、マーティンに飲ませた。彼の持つグラスから水を顎に垂らしつつ、パニックに飲まれかけたマーティンは何とか水分を摂取した。マーティンの呼吸が幾らか落ち着くと、男は柔らかい語調で以て接してきた。

「リチャードだ。お前は?」

 マーティンは口をつぐんだ。ロビーの情報だけは吐く訳にはいかない。明確な敵意を籠めて、彼はリチャードと名乗る男を睨み付けた。男は下がり眉で肩をすくめた。

「……まあいいさ。眠ってる間に、お前の荷物を漁ったよ。それについてちょっと訊きたいんだが……」

 リチャードは野太い指で上着の懐をまさぐり、取り出したものをテーブルに置いた。――ガレージオープナー。あの家で、マーティンが仕上げに使う筈であった起爆装置だ。それを見るなり、彼は再度作戦の失敗、そして自らが戦場に立たない民間人を殺害した現実を突き付けられ、膝で拳を作った。

「俺はこいつを販売しているメーカーを知らないし、何処の工場で製造されたかは知らん。だが、こいつの仕様途が決してシャッターを開けるだけだとは思っていない。なあ、何に使う気だったんだ?」

 マーティンは断固として口を閉ざしていた。それはロビーを想っての黙秘でもあったが、同時に複数の混じり合った自責の念で打ちのめされていたからである。

「……だんまりか」

 リチャードは手入れのされていない顎髭を音を立てて擦ると、不意に尋ねた。

「紅茶でも飲んで話そう。なに、金は取らねえよ」

 にいと子供っぽい笑顔を満面に浮かべ、彼はドアの外に向けて紅茶を用意する様に叫んだ。ドアを出てすぐに、長身のブロンドが護衛に立っているのが見えた。どうやら一緒にいる場面を多く見る辺り、リチャードとはバディを組んでいるらしい。動揺している割には不思議な程に冷静な思考を働かせる脳に苛立ちを覚えつつ、マーティンは先程までいた家の様子を思案した。今頃は女と子供の死体が発見され、警察が押し掛けているだろう。現場から見付かった弾頭と薬莢から、それを発射した銃が特定される。その銃は目の前のSAS隊員が押収していたものだとじきに判明し、二人を殺害したのは自分だという事実が判明する――。自己の破滅を憂い、マーティンは肩を落とした。

 尋常ならぬ落胆と絶望を見せるマーティンに、リチャードは無垢に問い掛けた。

「そのぼこぼこの顔はどうした?親の虐待……じゃあなさそうだな。第一、何で化粧なんかしてるんだ?あ、その傷跡が目立たない様にか。ていうか何だよそれ、格好いいな」

 人の気も知らないでいい気なもんだ。目の前の男に、目に見えて不快に顔を歪め、マーティンは呻いた。丁度その時、湯気を立てた紅茶のカップとべちゃっと潰れたロールケーキの乗った皿が二組、ドアの向こうから突き入れられた腕によって部屋に持ち込まれた。リチャードは「あいよ」とそれらを受け取り、テーブルに置いた。運ばれた紅茶は底に茶葉の小片が沈んでおり、色が濃くて如何にも渋そうだ。俺が淹れた方がまし。マーティンの崩壊した心に、幾らか余裕が生まれた。その紅茶を口に含むなり、リチャードが悪態を漏らした。

「ひでえな。紅茶は九十度だって常識だろ。アフリカの原住民の方が、まだ味を心得てるぜ、なあ?」

 突飛な同意を求められても、マーティンは唇を固く閉ざしていた。リチャードはつまらないとばかりに眉をひそめ、不格好なロールケーキに手を伸ばした。これにも文句を垂れつつ、手を汚しながらも結局は完食した。

「……でだ。そろそろ名前くらい教えてくれない?やり辛くてしょうがねえよ」

 口からロールケーキのカスが飛び、テーブルを汚した。どの道、戸籍には載っていないのだ。くれてやっても問題はないだろう。マーティンはうな垂れて、自分の名を呟いた。するとリチャードは破顔し、身を乗り出して握手を求めてきたのだ。マーティンは明確に拒絶の意を示したが、いつまで経っても身を引いてくれない彼に折れ、その野太い指を掴んだ。それで満足したのか、リチャードは元の体勢に戻った。

「随分と立派な掌だな。職人の見習いでもしてるのか?」

 当然である。長らくニッパーとナイフを握っていた皮膚は白く硬質化し、ひび割れていた。それを一瞬で捉える辺り、ちゃらんぽらんに見えてもやはり観察眼は養っているという事か。マーティンはこのいけ好かない男がSASである事実を改めて認識したが、今更になって確証を抱いても意味がなかった。自分にはもう、情報を欲してくれる者の許に帰る事は許されないのだから。

「……当ててやろうか?」

 不意にリチャードは両目を見開き、頬を吊り上げた。何を考えているか、皆目分からぬ男だ。マーティンは鼻を鳴らして薄ら笑みを浮かべた。お前に何が分かる。高々数時間しか過ごしていない俺の、果たして何を探ったというのか。そうしてタカをくくった彼は、二度目の虚を衝かれるのであった。

「お前、奴隷だろう?」

 それまでの茶化した空気は消え失せ、真顔に変じたリチャードはマーティンに詰め寄った。

 ――何故だ。マーティンの一度は乾いた額に、またも水気が訪れた。どうしてそれを知り得た。冷静に考えれば、北アイルランドに子供の奴隷を使役するIRAが蔓延っているという情報を元に容易に推測出来そうなものだが、当時のマーティンにそこまで系統だった思考を行う精神と体力は残っておらず、図らずも狼狽を露にしてしまった。

「その反応だとビンゴみたいだな。どうだ?逢って間もない人間に出自を言い当てられる気分は。かなり屈辱的だろうよ、それが狙いだったんだからな」

 マーティンの胸ぐらを唐突に掴み、息の掛かる距離まで顔を寄せる。

「さっさと吐けよ、てめえのボスの居場所を」

 マーティンは本能的にその手から逃れようと身をよじりもがいた。しかし鍛え抜かれた腕の拘束から逃れる事は能わなかった。

「憶えているぞ、三年前にもこの街で見た顔だ。あの車両爆弾で十人の陸軍兵士が死んだ。それから三年だ。この地で何百人もの血が流れた!てめえらプロヴォの下らない独立運動と銘打たれたテロのせいで、罪のない人間がいっぱい死んだ!ああ!」

 歯を剥き出しに怒りを露呈するSASに、マーティンは総毛立った。熾烈な剣幕に気圧され、反射的に仰け反る。リチャードの勢いは少しも削がれる様子なく、マーティンをまくし立てた。

「あの装甲車が爆破されたのは、俺たちが増援でここに来た初日だった!あの時に俺はイギリスからお前らくそ野郎を排除しなければならないと確信した!人間を害虫みたいに殺すばかりか、餓鬼の未来を奪って自分らの流儀で洗脳して人殺しの片棒を担がせやがる!そんなやつらを許してなるものか!」

 怒声を聞き付け、ブロンドの長身が室内に踏み込んできた。彼は猛烈な腕力でマーティンからリチャードを引き離し、羽交い絞めにした。

「少しは落ち着け!相手は子供だ!」

「だからどうした!こいつらのせいで、今月に入ってから仲間が三人やられた!お前も見ただろう、農場の倉庫で両目を潰され、指と耳と舌を切られて頭に銃弾を撃ち込まれて地面に転がったあいつらを!そんなくそ野郎を誰が許す!」

 リチャードは長身の男を振り解くと、再びマーティンに掴み掛かった。

「子供だから甘く見てやるなんて思うなよ。情報を吐くまで罵ってやる。生まれてきた事を後悔するまで嘲ってやる。二度と笑えなくなるまで心を踏みにじってやるからな……!」

 途端、マーティンの堪忍袋の緒が弾けた。

「ならやってみろよ。もう既に砕けちまったその心とやらを、踏みにじってみせろよ!」

 リチャードが右手を振り被る。マーティンは衝撃に備え、両目を強かに瞑って首を引っ込めた。狭い室内に、乾いた音が反響する。振り抜かれた手は、平手だった。

 マーティンは目をしばたたき、早くも赤く熱を持ち始めた頬に手を添えた。確かに殴られはした。だがそこには暴力ではなく、今思えば何やら別の意図が含まれていたのだろう。リチャードは振り抜いた手をそのままに、肩で息をしていた。

 やつの怒りの原因は理解出来る。しかしマーティンの理解の及ばない点があった。どういう訳で、目の前のこいつは涙を流しているのだろうか。呆けた面を晒したマーティンに背を向け、リチャードは長身の男に向いた。

「スティーヴ、悪いが事が終わるまで二人きりにしてくれ。何があろうと、入って来ないでくれ」

 その言葉に幾らか尻込みを見せたものの、彼は頷いて部屋を去った。その後、リチャードは席に戻り、カップに残っていた紅茶を啜った。マーティンの思考は、未だに白紙のままであった。

「……お前らがプロヴォの許で養われて犯罪に手を染めちまっているのには、少なからず大人である俺たちにも責任がある。他国がとうの昔に排斥した奴隷制度を今日まで引きずっているのは、この国の社会の体制を変えられなかったからだし、お前らがIRAの所有物になってしまうのには、さっさとやつらを根絶やしに出来ない俺たち軍人にある」

 荒げた息を整えつつ、リチャードは紅茶を啜る。いきなり怒鳴り散らしたかと思えば、今度は自嘲か。マーティンの思考回路は混線していた。

「なあ、お前が雇用主の居所を言わないのはどうしてなんだ?」

 振り出しに戻った訊問に、マーティンは顔を背けた。

「……保護者だからか」

「黙れ!」

 今度はマーティンが怒髪天を衝いた。彼の紅茶のカップが倒れ、コンクリートの床に染みを作る。

「何も知らないお前に口出しされるいわれはない!俺はあの家で育ち、あの家で全てを学んだ!それの何が悪い!」

「その豆粒みたいな世界で、全てを知った風な口を利く時点で子供なんだ。お前はそこから抜け出さなきゃならない。あるべき場所へ、思想も束縛もない自由を手にしなきゃならない」

「何を言っているかさっぱりだね!俺は情報なんか吐かない。お前らが殺らないなら……」

 マーティンは陶器のカップを床に叩き付けた。儚く砕けたカップの破片を握り締め、喉元へ目掛けて一突きしようとしたところを、リチャードの腕がそれを阻止した。凄まじい力で、抗う隙もなく手首を捻じり上げられ、マーティンは破片を手放した。

「それで死んで逃げられるほど、世間は甘くないんだ……!」

「じゃあどうすればいいって言うんだよ……!親の信頼は裏切った。帰る場所もなくなった。組織からは見放されるばかりか、自分達の情報を握っている不都合な存在として命を狙われかねない……。そんな俺に、これ以上の方法があるっていうのか……?」

 マーティンは膝から崩れ、紅茶で濡れた床に額を着けてすすり泣いた。その姿は、信じていたものに見捨てられた子供そのものだったに違いない。どうしてこうなってしまったのか。彼はこの世の全てに恨み節を奏上した。

 見る者に情けを生させるこの光景を目にして、リチャードが彼に掛けた言葉は余りに残酷で、誠に耐え難いものであった。

「……お前は生き続けなきゃいけない。この忌まわしい土地を出て、別の場所でやり直すんだ。しっかり更生して、他の道を歩む。それが、お前に出来る最大の贖罪だ」

 紅茶と鼻水で崩壊した面を上げ、マーティンは歪んだ視界でリチャードの微笑みを目の当たりにした。ロビーは、父親代わりは、決して見せてくれなかったそれだ。虐待を受けている子供というものは、生きる世界が小さい、親が与える世界が全てであるが故に、CSC(児童相談所)や学校の教師から虐待の有無を問いただされても、親を庇う傾向にある。今のマーティンが、正にそうであった。自分に期待を寄せてくれるロビーを裏切ってはいけない。ロビーなくして自分は存在しえない。そういった強迫観念が、心の奥底に根付いていたのだろう。その拘束に、綻びが生じた。

「それじゃあ、俺はこれから誰に育てて貰えばいい……?」

 自分でも意図せぬ救いを求める声に、俺は自身の無力加減を知った。泣き腫らした顔が無様だったのか、リチャードは吹き出してから、こう囁いた。

「そんなの、俺が親父になってやるしかないじゃないか」

 頭の悪い、出来の悪い子供を見る目と微笑みが、そこにあった。奴隷は、初めて雇用主に反逆した。

 

 この日、マーティン・マッギネスより名を授かった少年は死んだ。名無しとなった彼はとつとつと自身の所有する情報の一切合財を吐き散らし、それまで一身に背負っていた重荷をリチャードの属するSASに託した。SASはこれを許に膨大な資料を作成し、警察と協力してプロヴォの構成員の逮捕に駆け回った。

 また、ロビーには、実際にはマーティンが殺害した二人の母子――ニック・バートンの妻と子であった――の殺害容疑が掛けられ、夜明け前にSASがヘッケラー&コッホのG3ライフルとMP5サブマシンガンを手に彼の家に踏み込んだ。だが、病床に伏していたロビーは拘束される前にベッドに仕込んだ少量のPE4爆薬で自爆、その命を絶った。この報せをSASの基地のBBCのニュースで聞いた少年は、悲しみや後悔ではなく、久しく奪われていた自由との再会に、奇妙な解放感を享受したのであった。

 事実の改竄は容易であった。戸籍のなかった元奴隷の少年は、孤児という扱いでリチャード・クラプトンの養子になり、ヒルバートの名を冠した。イギリス本国のヘリフォードの家で、リチャードが北アイルランド赴任を終えるまでの二箇月を一人で編入先の学校に通って過ごし、リチャードが帰ってくると家族がもう一人増えていた。名をヴェストというその少年は、ヒルバートと同様にIRAの構成員の小間使いとして働いていた経緯を持っていた。彼は青あざの残る整った顔で、ヒルバートに笑い掛けた。こいつはえらい女泣かせになるぞ。その直感が的中したのを知るのは、そう遠い話ではなかった。

 現場勤務のくせに士官という肩書を持つリチャードは、事ある毎に浮浪児や戦争孤児を拾って歩き、いつの間にやら四男一女のクラプトン託児所を作っていた。その中で平和を享受し、自然な家庭生活を謳歌したヒルバートは、他人の顔色を窺わなくてもいい生活の中で次第に失った時間を取り戻し、今日まで生き延びられたのであった。

 砕け散った心の補修をしないままに。

 

 

「……それで、その後は?」

 こいつはいつになったら逃がしてくれるのだろう。自分から語り出した話題とはいえ、そろそろ体力的に限界だ。アルコールが胃の中でたぷたぷ言っている。瞼を下ろせばすぐに寝入る自信がある。油断すれば、口の端から唾液が垂れそうだ。

「やつは今でも生きているよ。ヘリフォードの一角に家を持って、馬鹿な仲間に囲まれて楽しくやっている。最近は可愛い家族が増えたらしいな」

 ブリジットははにかんだ笑みを見せた。俺の酔いが限界に迫っているのを察したのか、流麗な手際で温かい紅茶を淹れてくれた。ロックの連続で冷えた腹に、九十度の湯が優しかった。

「……でも、少年の心には出血毒を垂らす牙が刺さったままだった。誰が彼を赦したところで、彼自身が自分を赦していなかった。断罪は済んでいなかったんだ。無罪の女子供を殺した身に、それに触れる許しはない。生き方だけは上手いくせに、生きる事に不器用だったやつは精神に大病を抱え、その悪性腫瘍を放置してしまった」

 俺は紅茶をもう一口啜り、その芳醇な香りを愉しんだ。あのカビの臭いの充満する家にいた頃は、こんなに安らいだ気分で喫茶を堪能する時が来るなどとは思わなかった。今思えば、あんな下種を匿っていた己が身に嫌気を生す。

 鼻に抜けるアッサムの芳香を味わう中も、ブリジットは真面目腐った面持ちで俺を見つめていた。止せよ、おじさんだって照れるぞ。

「増大した腫瘍は着実に少年を蝕み、次第に彼は現実生活において問題を生ずる様になった。初め、それは微々たるものであった。注意力が散漫になったり、健忘という形だ。それが段々と慢性的になり、傍から見ても重症だと規定されるまでに悪化した」

 一息つき、目頭を押さえる。いかん、本気で眠くなってきた。自分のトラウマなんぞどうでもいいから、早く寝かせて欲しい。が、ブリジットの真摯な眼差しを前にして「ぐがあ」と意識を喪失出来る程、俺も人でなしにはなれないらしい。

「月日が流れて、少年は外面は大人になった。陸軍に入営すると、士官学校を出たくせに、現場での泥にまみれた勤務を希望した。やつはそこで幼少期に培ったいわく付き知識を発展させ、破壊工作のスペシャリストとなった。

 だが、彼は一般部隊に自身が止まる事を良しとしなかった。自分を魔窟から救った父親の姿に人知れず憧憬を抱き、それと同じ聖剣の徽章を受ける決意を胸に秘めていた。SASの選抜訓練に参加した青年は、同年代の候補者が次々と落第していく中で、不屈の根性を発揮した。――あんなの、まともに外に出られない餓鬼の頃に比べりゃ、遠足みたいなもんだったからな。

 晴れてSASの一員となった青年は、隊での初の作戦で戦果を上げ、連隊でも噂の新人として名を響かせる。……そいつの背負った悪名と一緒にな」

 ブリジットは目を伏せた。頭の良い彼女は、俺の持つ過去とSASの因縁に気付いたのだろう。

「人の口に蓋は出来ない。旧来の敵であるIRAの傘下で爆弾作りを担っていた青年の過去は、何処からか連隊中に知れ渡り、彼は白い目で見られた。酒場の帰りに集団で喧嘩を売られる事もあった。……まあ、何というか大概は適当に返り討ちにしたんだが。ある時に銃を持ち出してきた同期がいてな、流石にその時は肝を冷やしたね。そいつはぶっ飛ばした後に除隊となって、今はどうなっているか知らない。

 まあ、そんな風に決して良い職場環境ではなかったんだが、中々面白いもので、命が懸かっている現場っていうのは図らずも特別な結託が生まれるらしい。青年と多くの作戦を共にする事で、いつしか彼の過去の境遇に理解を示す兵士が現れ出した。彼が二十台半ばに差し掛かる頃には、それが彼の属する中隊全域に広がっていた。後で知った事だが、どうやら兄弟も色々と根回ししてくれていたらしい」

 少し緩み始めた涙腺を指で押さえ、紅茶のお代わりを希望する。ブリジットがキッチンにカップを持って行った隙に涙を拭い、ため息を漏らした。外で運送トラックが排煙を吹いて走ってゆくのが窓から見える。朝っぱらからご苦労さん。俺も、もうちょっと頑張る事にするよ。

 新しい紅茶が目の前に置かれ、どうぞと柔らかい声が囁かれる。寝不足で彼女の傷一つない若い肌が荒れないか心配だ。

 紅茶の甘い愛撫を内蔵に受け、俺は再び過去の雑然とした記憶を手繰り寄せた。

「ようやく障害なき人並みの暮らしが訪れたと思った矢先、青年の精神にばら撒かれた毒草の種が萌芽する。初めは、手の震えだった。青年は朝食の卵の殻を割るのが難しくなり、連隊の係り付けの医者に当たり、数人を巡る内に精神科医に辿り着いた。そこで、過去にあった出来事を資料にして提出させられた」

 真っ暗な自宅で、眩しいくらいのPCのモニターを前にして、震える指でキーボードを叩いていた夜を思い出した。その最中で、何度も胃液をシンクに吐き散らし、鼻孔を胆汁で荒らした。あの時、俺は既にやり直しが利かないまでに狂っていた。だれもそれに気付けなかったし、俺もその兆候を出さなかった。周囲へ対する遠慮か、もしくはそのSOSのサインを出す感情が死んでいたのか。今となっては知る術はない。

「精神科医に出来上がった資料を提出して、青年は薬物療法で経過を見守る判断を下された。その頃、青年は常に四肢の末端に平常ならぬ発熱をするようになり、発汗が不安定になっていた。自律神経失調症だよ。医師からは作戦に従事するのは控えるのはどうかという打診もあったが、それこそ自身の欲求に反する行動だとして、彼は通常の業務に尚の事熱を上げた。直視したくない問題から、目を背けたんだな。それでしばらくは乗り切れた。しばらくは、な」

 自嘲。自分の恥部と真っ向から迎えない性質が祟り、俺は眉根を寄せて口角を吊り上げた。思えばこんな経験は初めてだ。家族や連隊の仲間でもなく、患者の治療を義務付けられた医者でもない赤の他人に、こんなに脆い核を晒すのは。

「はっきり言って、即刻入院すべき状態だったんだろうな。青年は通院して医者の放ってくるスローボールな質問に答えていたが、核心に迫る部分とか……要は自分の過去の何も知らない、連隊の仲間ですらない医者には、何を話しても無駄だと決め付けていたんだ。父親と兄弟が言うには、本当の意味での理解者というやつを、家族以外に見付けなきゃいけないらしかった。

 本当は分かっていたんだ。自分が何を克服しなければいけないかだなんて。青年は……俺は戦場の枠外にいた母子を殺した罪から、女性と子供、そしてやむにやまれぬ状況に置かれ、行動の余地の失われた奴隷にトラウマを抱え込んでいた」

「だからあの日……」

 はっとした様子でブリジットは口を挟み、そして慌てて口を抑えた。お見事。ご名答だよ。

「表じゃ警察がやった事になっちゃいるが、あの銀行強盗を鎮圧したのは俺達だ。あの日の真夜中、俺は『罪なき人』をまたも殺したんだ。

 誰だって好きで蜂起なんか起こさない。やむを得ぬ状況があるから、それを必死に打破しようとして、それでもそうするしか方法がなくて、犯罪に走る。その全責任は、犯罪者にのみ掛かるものではない筈だ。それは大方の感覚では傲慢と見なされるだろうが、そう言って割り切れないから俺達は人間なんだ」

 やさぐれた俺の目を覗き込むブリジットは、無表情を保っていた。この話を聞いた者は大概、同情めいた視線を送ってくるのが常であった。

「結果、ヒルバートには慢性的な躁鬱症状、強迫神経症、そして餓鬼の頃は地下室で皮膚が剥けるまで盛っていたマスかきも出来ない勃起不全なる記載が為された診断書が下された。

 悲劇の主人公を演じるつもりはない。でも、現実はこの通りだ。この身に深く根付いた呪いが、これからも俺を縛り続ける」

 ふうと肺の空気を吐き出し、紅茶を飲み干す。カップの底がテーブルを叩く音が、静寂を極めた家中にやたら大きく聞こえる。

「……以上、馬鹿な餓鬼のくそ面白くないお話さ」

 疲れただろうから、もうお休み。そう語を継ごうとした矢先であった。

「じゃあその呪い、私が解いてあげましょうか?」

 は?ぽかんと惚けた。呪いなんていうのはただの例えで、トラウマの抽象でしかない。おとぎ話じゃあるまいし、玩具の杖をくるくるやるだけで事が済むなら、こんなに懊悩はしていない。

 ブリジットが席を立つ。俺はあんぐりと口を開けたまま、首で彼女の動きを追う。ゆっくり、そして一歩ずつ、ブリジットは俺の席に近付く。両手を後ろに組み、黒いメイド服がにじり寄ってくる。何故だろうか。俺は感情が抜け落ちた様に、何も考えられなかった。

 そうして彼女が俺の目の前に立ったその時。人生の歯車が――動き出した。

 数々の訓練を乗り越えてきた俺は、格闘術に関してそれなりの力量を持っているという自負があった。少しばかり酔ったくらいでは、相手のパンチに中るのも難しい。躱せなければ受け流す事が出来るし、いざとなればガードもある。だが、俺は動かなかった。いや、動けなかったのだ。

 目の前の少女の見知らぬ一面。柔らかな微笑みに見え隠れする妖艶な匂い。自分の顎にさらりとした手が触れ、そっと傷跡をなぞられた時、何かが変わる。そんな気がした。実際、俺は変われたのかもしれない。

 人間というやつは、理解の範疇を超越した出来事に直面した際、思考の大部分が吹き飛ぶ傾向にある。事実、現状に気付くのにたっぷり十秒が掛かった。すぐ眼前で揺れる長い睫毛。甘く、清潔感の漂う少女特有の少し重い香り。それから、固く強張った口唇に重ねられた……薄く形の良い、張りの良い桜色の花びら……。粘膜が潤いを覚えた束の間、彼女は唇を重ねた時と同じくそっと顔を離し、スカートの裾を翻した。

「ではヒルバート様、良い夢を」

 何事もなかった。ただそんな風にブリジットは食器を片付けてリビングを後にし、寝室へと上がっていった。

 何が、どうなっていやがる。唇にほのかに残る彼女の体温を指先で再確認し、それを真っ向から受け入れられず、俺はがたんと喪神した。薄れゆく意識が身を離れる瞬間、心を呪縛する鎖が一つ、千切れる音を聞いた。

 

 

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