【19】
二十一世紀。イギリスに企業は数あれど、少々変わり種のそれを一つ知っている。二十世紀末に株式会社として設立されたその企業は、とある青年実業家によって生を受け、観光地ブライトンに中堅レベルのリゾートホテルを建設した。評判は上々で、一年を通して客足の絶えないこのホテルだが、最近になって観光とは別分野に手を広げた。
話は少し論点をずらして、この企業家の経歴をさらっていこう。比較的裕福な資産家の許に、元気な双子の男の子の弟として荒んだ現世に生まれ落ちた彼は、親の設けた軌道敷の上を何不自由なく滑走する筈であった。
ところがこの童、神様が頭の配線をしくじったのか、物心付いた頃から事ある毎に親の言う事に反発し、いやがおうにも我が道を突き進もうとし、事実そうしてきた。それは兄も同様であったが、口が達者で幾らか社会での生き方が上手いだけ、弟よりは問題のないように見えた。実際、両親のそれは誤った判断であったのだが、元よりこの兄弟はぬるま湯に首まで浸かった彼らの手に負える問題児ではなかったのだ。
弟は幼稚園時代から暴虐の限りを尽くし、並み居る人を蹴落としてでも他人の上に立とうとし、それが原因で両親に頭を下げさせた回数は計り知れない。兄は兄で上手くやっていた様に教師には見えていたが、その実、水面下で恫喝や裏取引を巧みに行使し、子供らの社会を影で牛耳っていた。弟がヒトラーの生き写しが如き独裁者だとするなら、兄はT・ルーズヴェスト二世とでも呼ぶべきか。ともかく、幼少期にこの兄弟と同じクラスに配属された児童らには、合掌の念を禁じえない。まだ子供なのに、可愛そうなやつら。
この暴君ふたりだが、親の意向で経済の道を志す滑走路が誘導灯を赤々と点滅させていたのだが、二人揃ってこれを爆撃、却下した。「親父みたいなつまらねえ大人になりたくない」と弟は学校のパンフレットを破り捨て、兄は「外の世界が見たい」と、弟ほど暴力的ではないにしろ、親の意向を完膚なきまでに踏みにじった。母親は涙に暮れ、父は激怒して弟に平手を喰らわせようとしたが、もっぱら喧嘩には強かった彼に甘っちょろいビンタは届かず、逆に路地裏流格闘術の頭突きを鼻柱に受けて骨を折った。
それでも父親は心までは折られず、それではせめて軍の士官学校に入ってくれと頭を下げた。さもなくばこの場で命を絶つと泣き落とされ、残酷兄弟もこれには観念した。兄弟はサンドハースト陸軍士官学校への片道切符を受け取った。
士官学校を卒業した兄弟がそのままエリート街道を驀進してくれるとばかり期待していた両親だが、これがとんでもない誤算であった。彼らは勝手に――年齢的には何ら不思議はないが――パラシュート連隊の選抜をパスして現場の勤務へと身を置き、そこで三年を過ごしてから休む間もなく陸軍で最も苛烈な戦場に身を投じるSASでの勤務、それも現場を志望し、二人して冬のブレコン・ビーコンズの丘陵を踏破した。これが元で兄弟はとうとう父親から勘当されたのだが、彼らにとっては逆効果で、その晩に同じくSAS選抜訓練を生き延びた八人の仲間と、厄介払い達成パーティと銘打って酒場を貸し切った。親不孝もここまで来ると笑える。
そういう訳で兄弟はフォークランド紛争でアルゼンチン軍に占拠されたぺブル島奪還や、北アイルランドでの諜報活動、ボスニアでカラジッチを始めとした戦犯者の逮捕に駆けずり回り、ダイヤモンドの奪い合いに内戦が激化するシエラレオネの民兵に、SASの統率された暴力の恐怖を味わわせた。
そうして現役を引退する頃合いになると、兄はそのままSASに居座ったのだが、弟は将校の椅子を蹴って隊を抜け、貯金と現役時代に作ったコネクションをフルに利用して商社を立ち上げた。事業は波に乗り、得た利益を元に彼はブライトンにホテルを設立する。これがまた観光客を相手にヒットし、株の購入を希望する資産家が後を絶たなくなる。だが、これで札束の上にあぐらをかく彼ではなかった。
膨大な資本を元に、弟は新たな事業に手を伸ばす。――PSCまたの名をPMC『民間軍事企業』である。ここで彼は、軍を抜けて民間企業に溶け込めないでいる日々を送る過去の戦友らに声を掛けた。転職・退職したくても出来ないでいる以前の戦友に、もう一度栄華を取り戻す機会を与えたのだ。彼らは現場に派遣されるオペレーター(戦闘要員)の訓練を担当するインストラクターや、顧客に施設警備のアドバイスを提供するコンサルタント、広報活動を行うホワイトカラーへと姿を変え、再び訪れた気の知れた仲間との共同作業に歓喜を沸かせた。
さて、遅ればせながら流星の如き勢いで成長を遂げたこの企業、その名を『クラプトン・グループ』という――。
七月の終わり、イギリスに似つかわしからぬ、からりと晴れ渡った青空が展開された朝であった。俺は波状に形成された緩衝剤の詰められた樹脂のケースに、整備を終えた〈ナイツ・アーマメント〉のSR-16カービンを収め、それをガレージのBMDのトランクへと積んだ。他にもマークスマン・ライフルのMk14や小口径のMP5、圧倒的な制圧力を誇るMk46分隊支援火器、愛用のシグP226、それから〈アキュラシー・インターナショナル〉のアーティク・ウォーフェア――陸軍ではL118A1とか呼ばれているやつだ。銃のケースはこれで最後だ。更に、作戦とは別に私用で買った〈パラクレート〉のRAVベストに、我々がベルトキットと呼ぶ、各種ポーチを装着したデューティベルトにサスペンダーを取り付けたもの。最後に、数日分の衣服を詰め込んだボストンバッグと、男のくせに荷物の多い俺は私物を詰めたスリーデイパックを投げ込んだ。すげえ、しょぼい戦争が始められるぞ。まさか石を投げればSASにぶつかるこの街で、そんな命を溶岩に突っ込む真似はやらかさないが。
BMWに寄り掛かって一息ついていると、ブリジットがこの家に来た時から使っている革張りの旅行鞄を手にやってきた。その姿はいつものシンプルなメイド服ではなく、青のシャツにアイボリーのチノパンという、至極一般的な格好であった。いつもは単に下ろしている髪も、今日は大きめに作った三つ編みをフローラルピンクのリボンで結い、肩の前に下げている。可愛い。
「私はこれで全部です。ヒルバート様は?」
「俺も大体は終わった。あとは手荷物だけだ」
ブリジットの鞄をトランクに収め、ドアを下ろす。リアウィンドウは何とか見えるが、とんでもない荷物になってしまった。
「あと十分ほどで少佐が見えます。それまで中でお休みになっては?」
彼女の提案に首肯し、ガレージを開けたままで玄関を跨いだ。
決して休日ではないこの日、朝っぱらから長距離行軍よろしく大量の物資を車に積んでいるのは、何もピクニックに出掛けるからではない。クラプトン・グループ――親父の弟、即ちは俺の叔父の経営する会社が、最近になって新たな部門にPSCを置いた。そこでは新人育成の為にベテランのインストラクター、つまりは元SASの連中が訓練を施してくれるのだが、彼らが与えてくれるのはかつて最新鋭であった技術だ。既に埃を被って現場では使われなくなっているものも存在する。そこで、現役の隊員であるリチャード・クラプトンの息子達が、現在の戦場でくそ野郎共を屠っている技術を仕込んでやる為に、三日間の訓練合宿が開催される成り行きとなったのだ。但し、我々は報酬の一部としてクラプトングループのホテルでリゾート気分を味わうので、累計では四泊五日の旅行となる。
無論、国の息の掛かった資産たるSASが無断で他の組織にその情報を与える事は禁忌とされるが、まあそこは大人の事情だ。様々な手段で汚く綺麗になった金が、既に連隊の予算に水増しされている。女王の束を受け取ってしまった以上、その分の働きはせにゃあならんだろう。今回の件で入ってきた金で装備が潤い、仲間が生命の危機を脱する可能性があるのであれば、法律なんざ膝蹴りでへし折ってやる。それに、俺個人としては今回の合宿は楽しみでもある。だって、だだっ広い屋外射撃場を貸し切りでぶっ放せるんだぜ?昨晩からアドレナリンが止まらねえよ。
リビングにて来るライフル撃ち放題に思慕を寄せている内に、表にぶーぶーの列がエンジンをけたたましく鳴らして停まった。合計四台。兄弟の車と、親父とニーナのそれだ。各々が自分の装備を積んでいる。家を出てブリジットに戸締まりをさせると、車列の先頭で助手席に座った親父がにやついていた。
「用意は出来たか?よし行くぞ」
こちらの返答を聞く前にサイドウィンドウをさっさと上げ、ニーナの駆る四駆は排煙を吹き上げて発進した。相変わらず無茶苦茶なおっさんだとごちつつ、自分の車にブリジットと乗り込み、イグニッションにキーを挿してエンジンを掛けた。
「さあて、どうなる事やら」
シートベルトを締めて発進してからガレージを閉める。最後尾のヴェストの車が、兄弟の尻を追い掛けて走り出す。ヘリフォードとはしばらくお別れだ。カーナビゲーションを起動しつつ、重いアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
兄弟の車を追ってM4自動車道を制限速度もぎりぎりに走る。何故だろう、かつては灰色一色に淀んで見えた街並みが、心地良い陽光の影響か素敵な光景に思える。ビビッドな常緑樹の葉のフィルターを抜ける木漏れ日が、ルーヴル美術館に飾られるでかい一枚絵にさえ思えてくる。俺の生きるこの世界というのは、こんなにも素晴らしい楽園だったのかしら。などと妄想の芸術空間に耽溺している最中、太ももに僅かな重量を感知した。その正体を視認するまでもなく認識した俺は、ふうと小さなため息を吐き出した。
「……言ったよな、ブリジット。俺をそう気軽に誘惑するんじゃあない。事故でも起こしたらどうするつもりだ?」
「あら、私はただ偶然に右手がヒルバート様の脚に触れてしまっただけだと思っていたのですが」
この餓鬼っぽい屁理屈を受け、更に大きな嘆息が漏れる。錆び付いた重い記憶の扉を彼女に開いて見せたあの日、俺は確かに彼女からキスと呼ばれる行為を受けた。それが何を意味するかは彼女の内では明白に定まっているらしく、それを境に彼女の俺に対する生活態度は非常にポジティブなものへと激変した。早朝に俺より早く起床して頬に口付けして起こし、俺が飲んでいる途中の紅茶のカップを掠め取って飲み干し、俺がソファに腰を沈めてテレビを観ていれば「いい子いい子」とその頭を撫でくり回し、帰宅時と就寝前にはごくごく自然な流れで唇を重ねてくる。しかも初めの内は粘膜や頭皮に焼け爛れそうな痛みを伴う電流が走っていたが、つい二日ほど前からその威力が弱まっている感覚がある。これが俺の心が快方に向かっている兆候だとすれば、それはそれで喜ばしい事態だが、如何せん複雑な心境だ。傍から見れば、そりゃあ文句の一つでも垂らせばタオルで石鹸を包んだ簡易棍棒で袋叩きに遭うだろう。だが、三十路を前にしたおじんを相手にティーンエイジャーの女の子がこんな態度を取るのは、どう捉えたところで異常だという回答が弾き出される。
まあ確かに?俺だって、ちんちんがおっきしない欠陥品とはいえど男だ。多少なりとも性的な興奮はする訳だし、ブリジットが嫌いだという道理もない。むしろ心に陰を幾らか持ってはいるが、凄くいい子だと可愛くも思っている。それは事実だ。
そして、そのブリジットの最近の行動にはいささか不可解な点が散見される。何故俺なのか。果たして肉体関係のみのセックスフレンドを求めているのか。彼女の意志による行動なのか。理解に苦しむ疑問は後を絶たない。
「いつ何処でおっ死んじまうか知れないやつなんか選ぶなよ……。その時にショックを受けるのは自分なんだぜ?もっとよく考えな」
「こういう事は熟考より直感がものを言いますから」
一理ある。綿密に策定された机上の作戦より、現場における機転が功を奏したという例は数知れずだ。尚且つ相手は勘の優れた女だ。返す言葉も見付けられずにうんうん唸っていると、頬に唇の奇襲攻撃が為された。皮膚に粘膜が触れた後にあっさりと退却した彼女は、悪戯っぽくくすりと笑った。
「油断大敵……ですよ?」
「大人をからかうんじゃありませんっ」
熱を帯び始めた顔を少しでも見られまいと、ダッシュボードから〈オークリー〉のサングラスを取り出して掛け、その後の道程を辿った。全く、どっちが餓鬼だか分からん。
そうしてブリジットの巧みな挑発に乗らない様にむすっとした態度を続けて三時間と半刻、我々の車列は目的の箇所へ辿り着いた。街の喧騒から離れた自然豊かな山道。ゴルフ場の前門を彷彿とさせる玄関口に掲げられた真新しい巨大な看板には『エグゼクティブ・プロテクション・トレーニングセンター』との文字が誇大に打ち付けられている。そこに、併設された駐車場に車を停めた親父夫婦と兄弟がやってきた。
「いやあ、本当に造ったんだなあ、あの馬鹿」
どの口が言えた言葉か。俺はその一言を飲み込み、んあーとか何とか相槌を打った。各々が荷物を背中と両手に抱えて建造物の玄関をくぐり、警備員付きの受付に顔を出すと、見慣れた顔の複製がそこにいた。
「よう、遅かったじゃないか馬鹿野郎共。シフトレバーと自分のちんぽこを間違えて事故でも起こしたか?おっと、そんなにでかくねえな!」
他にも標的がいるのに、そいつはわざわざ俺の股間に目線を合わせて哄笑する。快活にのどちんこを揺らす、手入れの度に理容店を使っていると思われる毛並みの口髭を生やすこの男こそ我らがパパ、リチャード・クラプトンが双生児の片割れ――パトリック・クラプトンである。腹は兄よりも幾ばくか引き締まり、服の上下は自社製のチノパンとポロシャツを着ている。見かけは〈ユニクロ〉のそれと大差ないが、通気性と荷物の携行、耐久性、運動性能に優れた繊維と縫製技術が詰め込まれている。後で貰う事にしよう。
下品に高笑いしていた叔父は、やがて俺の隣で旅行鞄とMk46のケース――自分が持つと言って譲らなかった――を両手に提げるブリジットに目を付けた。やだなあ、この人外見は親父に似ているけど、中身はジェローム寄りなんだもんなあ。パトリックは関心ありげに目を輝かせ、ブリジットへ向けて手を差し伸べた。
「お前さんがヒルバートのとこのメイドかい?パトリックだ、よろしくな」
少年の様に高い声を上げる彼の手を臆面なく握り返し、ブリジットは柔和に目を細める。
「ええ、ブリジットです。こちらこそ宜しくお願いします、叔父様」
誰が叔父様だよ、ええ?聞いた傍から俺に含み笑いを向けるその叔父に、嫌気を隠そうともせずに眉根を寄せた。この男、訓練中に事故を装って背中に大穴を空けてやろうか。
パトリックはそれから我々を引き連れて隣の部屋へと案内した。休憩所兼食堂と見られる清潔感に溢れる広間には、既に三十人ほどの年齢層の揃わない男が椅子で談笑したり、壁にもたれて煙草を咥えたりして集っていた。軍の連中とは一味違うやり辛さが顔に出ていやがる。PSCなんて傭兵まがいの職場に自分から身を投じたのだ、各自が特殊な事情を持っていると見て、まず間違いないだろう。我々はそこの一角で一部好奇の、そして一部敵対する視線を受けつつ、やたらでかいだけで味気のないハンバーガーを貪って腹を満たした。その間、男共の欲望にまみれた獣の眼光が、絶えずニーナの肢体を舐め回していた。止めておけよー?そいつの歳の離れた旦那が黙っちゃいないだろうし、その女はてめえらの大事な息子さんをナイフでちょん切った挙句、農場の豚に食わせるような鬼女だぞー?冗談じゃないぞ、馬鹿な真似は止せー?
食事を摂ると、逸る気を抑え切れない様子のパトリックが駆け足に我々を射撃場へと誘導する。大荷物を運ぶ我々に引き続き、ポロシャツから迷彩服と装いもばらばらな面子が三々五々の面持ちでわらわら着いてくる。今から気に入らないやつの家に殴り込みにでも行きそうな光景だ。
射撃場へと向かう最中、ふと物思いに耽る。PSC――彼らの存在は現代の戦争にとって、戦略的に不可欠な存在となっている。昨今の戦場では石油施設や政府高官の勤める要所の施設警備を民間に委託するケースも増加しており、それこそPSCの十八番の業務だ。施設の訪問者のボディチェックから、場合によっては爆弾を満載して特攻を仕掛けてくる自動車を対物ライフルで制止するなどという荒業も担う。この他にも正規軍の支援として兵站任務――要は食料や弾薬といった物資を前線に持っていく運ちゃんだ――も任される。無論、敵側からすれば彼らは軍に肩入れしている訳で、道路上で非情な待ち伏せ攻撃を受ける事もままある。襲われてそのまま武器を取り上げられ、物資を奪われるなり破壊されるなりなら、最低でも命は助かる。現実はそう甘くない。
PSCは傭兵ではない。契約に基づいて指定された業務に就く『民間人』である。ジュネーヴ条約によれば、迷彩服を着用せずに武装していない人間は『非戦闘員』とみなされる。ところがここで矛盾が生じる。民間人の格好で、M4やAKといった武装を持つPSCは、果たして非戦闘員と呼べるのか。条約に従えば、民間人に対しては虐殺行為は許されず、また戦闘員に対しても捕虜に取った場合は人道的な扱いを施す様にとの記述がある。PSCはそのどちらの枠からも外れた、非常に曖昧な存在で、それ故に凄惨な事件に巻き込まれる事象も少なくない。
二〇〇四年の四月、イラク戦争における市街戦で最も大規模となったファルージャの戦闘は、元をただせば米ブラックウォーター社の社員――『契約者』とでも呼ぼうか――四名が車列警護の任務中に、フセインの息が掛かった武装勢力の手で惨殺された事件に端を発する。この事件は実際には人災とも捉えられるものだったが、まあこれは割愛しよう。本事件の様に、PSCは常に死と隣り合わせの職場に身を置いているにもかかわらず、その認識は民間人という扱いである。軍であれば強力な航空支援で偵察や局所爆撃といった支援が得られるが、PSCは自分の会社内の設備のみで問題に対処せねばならない。特殊部隊出身のPSCは一日で千ドルから千五百ドルほど稼ぐと報告があるが、丸裸で飢えたワニのプールにぶち込まれると考えれば、その報酬は決して安くないと分かるだろう。
加えて、テロリストと他の犯罪組織の間には誘拐ビジネスが確立されている。これはアルカイダ系のテロリスト連中を例に取れば、アメリカ人を誘拐し、やつらの手に引き渡した者には、一人につき五万ドルを支払うといったものだ。これを踏まえれば、PSCは恰好の標的となる。政府高官やCIA職員といった肩書きのない彼らは、本国にとっての取引材料としては不足しているし――そもそも要求を呑んだら「テロには屈しない」の声明を反故にしてしまう――その点はテロリスト側も承知している。最初から殺すつもりで誘拐しているのだ。人質を殺害した事で、テロリスト側にデメリットは生じない。何故なら、死体は母国の遺族が保険金を受け取る為に、国へ売却出来るからだ。その際、誘拐された人質はやがて惨殺される光景をビデオに撮られ、Youtubeを初めとしたメディアに映像が流される。これを観た国民が戦争に対して反発感情を抱き、それが兵士を現地から撤退させろという下らない集団声明と化して、あろう事か自国を叩く。それこそテロリスト共の目的であるとも知らずに!
話は逸れたが、つまりPSCはその職業柄、各種保険もなく二十四時間体制で危険な地域で決して楽ではない業務に従事するヨゴレなのだ。大概の職員は軍を退役後に金に困った事情を持っているやつで、自ら希望して身を置いているやつは頭のボルトが吹っ飛んで乱心した阿呆だ。それも、我々SASとは比較にならない気狂いだ。もっとも、三十路前のおっさんを相手に色目を使う少女よりはまともかもしれない。
ここ、エグゼクティブ・プロテクション・トレーニングセンターは、言うなればパトリックが警察関係者や法執行機関の人間に戦闘訓練を仕込む目的で造った、広大な訓練施設だ。元々は手付かずであった個人所有の山林の一部を買い取ったこの施設は、拳銃やライフルの為のシューティングレンジ、SASのキリングハウスを模した建造物群、千メーターを超える狙撃訓練場とブースが分けられている。場合によってはヘリコプターからの狙撃も行えるというから、その施設運営費はおよそ我々の考えの及ぶところではないだろう。
そして我々はこの訓練施設をフルに活用し、発足して間もないPSCであるエグゼクティブ・プロテクションのインストラクターを養成するという訳だ。教師を作る為の教師。まだるっこしい話である。
我々が建物を出たすぐ右手に木造二階建てのロッジがあり、そこに各自の荷物が置かれた。内部には受講生の銃のケースやバッグが所狭しと詰め込まれており、自分の荷物を置くスペースを確保するのには苦労した。
くそ重たい荷物を運び入れたところで一息ついていると、ブリジットがニーナに呼び付けられる。何でも、昼食のバーベキューの仕込みを手伝わされるらしい。つまり何だ、あの鬼畜女は訓練に参加しないのか。あいつ、俺達なんかより怪物じみてるのに。
数少ない女性陣が立ち去ったので、我々兄弟は私服から着替え始める。その際、肩幅の広いラグビー選手みたいなスキンヘッドのアフリカ系から「良い身体してるね!」とのお言葉が掛けられる。ホモじゃないといいんだが。
ショーンはメーカー不詳のソフトシェルジャケットにジーンズという、PSCではごくありふれた格好になった。ジーンズは動き易いように幾らか大腿部に余裕を持たせた縫製になっている。ヴェストも同様で、こちらはブラックジーンズを履いている。ジェロームはチノパンにスウェットシャツという、何ともラフな服装となった。俺はと言えば、普段から着慣れている格好が良かろうと、上下とも緑のDPM迷彩が施された野戦服だ。とはいえ官給品のそれではなく、民生の市場で個人の出費で買ったものだ。アメリカならともかく、イギリスってやつは支給品にろくなものがない。その最たるものが携帯糧食だ。兵隊がひり出したうんこを便器から回収して作ったとしか思えない味がする。官給品の野戦服は、名前を書いて価値が落ちる前に放出品として売りに出して小遣いにした。皆やっている事だ、別に俺は悪くない。欠陥品を兵士に押し付ける国が悪い。そして規範たるべき士官がこんなのであるから、兵士はどんどん悪餓鬼になるのだ。ごめんよ女王!
服の上からベルトキットとずっしりとした戦闘ベストを着込み、各自がキラーキャップとか呼ばれる、ベルクロ加工が施された戦闘用の野球帽を被り、サングラスを掛けてロッジを出ると、受講生が個人の銃を携えてロッジ前に集合していた。その中にはパトリックと親父の姿もあって、二人も自分のAR-15クローンのカービンを胸の前に提げていた。その左方、青々とした芝の繁る射撃場から離れたロッジの脇では、ブリジットとニーナが手慣れた様子で七面鳥の尻に香草を突っ込んでいた。青空の下、美少女と美女がアナルフィストしてやがる。俗っぽい妄想を頭から追いやり、我々はのそのそと射撃場に向けて歩き出した。
パトリックと親父を含めて合計で三十四人いる受講生は四分割され、それぞれに割り当てられた兄弟の下で技術を教わる。俺の担当には九人の男が割り当てられた。生まれも育ちもてんでばらばらな九人の中には、先程の「良い身体してるね!」もいた。いや、お前の方が余程マッチョだよ。彼らを横一列に並ばせ、咳払いを一つやった。
「くそ暑い中でよく集まってくれたな。今回、お前さんらを扱き上げる命を授かった、ヒルバート・クラプトンだ。えーと、何か質問ある?」
気だるそうな雰囲気を纏ったインストラクターに、一同は無言で否定の意を表した。
「うーん、それじゃあ各自の名前と出身の部隊を教えてくれる?まずは君から」
そうして一番左にいた中肉中背のゲルマン系を指す。彼は名をスタンリーといい、スコットランドヤードに十二年いたとの事だった。その隣はランディで、近衛師団出身、入営期間は八年。その右隣にいた「良い身体」は随分元気よくチャックと名乗り、イギリス海兵隊出身だと叫ぶ。何故だろうか、こういうキャラクターは扱い易い。彼とは上手くやっていけそうだ。
それからジェフだのロジャーだのと各自の名を訊き出して、最後の受講生の番まで回った時だ。キャップのつばの影になった目尻が、強かにひくついた。膝の破れたジーンズ、腕にはタコがのたくったみたいな青いタトゥー、耳にはどでかい風穴、人が話しているというのに噛む様にして咥えられた煙草……。ろくでなしを体現した具合だ。
「……名前は?」
恐る恐る尋ねてみると、火の点いたままの煙草を地面に吐き出して不機嫌そうにジェイクと呟く。
「何処にいたの?」
サングラスの奥から睨み付ける様な視線を俺に投げ付け、工兵隊と呻く。参ったな、面倒臭いのを抱え込んじまったぞ。こいつを社員に起用しようとしたパトリックを糾弾したい気持ちでいっぱいだったが、それは彼らを育ててからにしよう。私情と仕事を混同するなかれ。言われた事だけやればいい。……ちくしょう、不安だなあ。
今日の俺の担当はカービンの取り扱いとCQBであった。他の兄弟は狙撃や格闘、ショットガン、防御運転、要人警護といった分野を指導する。特に狙撃はショーンにしか教えられない範囲の訓練だ。メディアやエンターテインメントの影響で人気の高いカテゴリーたる狙撃であるが、存外におつむの出来がよろしくないと習得の難しい、ヘリの操縦士の様な役回りだ。任務に即して自分で弾薬を用意しなければならないし、風向きや地球の自転を計算して照準を動かさなければならない。それに加え、長期間を要する任務ともなれば、風雨や汚泥、糞尿にまみれて何日も同じ姿勢で同じ場所を監視する忍耐が要求される。一般の兵士がそう易々となれる存在ではないのだ。……俺も脳味噌がありゃあなあ。
紹介も終わったところで、事故で負傷者が出た際の手順を説明し、イヤーマフを装着して、各々が零点規正(ゼロイン)を行った。百メーター先の標的に伏射で三発撃ち、グルーピング(集弾率)を見る。それから照準器を上下左右に調節して正しい位置に持ってくる。かなり地味な作業ではあるが、これを怠ると実戦でまともに弾着しなくなる。百メーターで三センチのずれがあるとすると、二百メーターでは単純計算で六センチの狂いが出る。おまけに距離が伸びる事で空気抵抗や弾丸の回転による横方向への偏流といった要素も増えるので、尚更に弾は中らなくなる。死にたくなければ、零点規正は真面目にやっておくべきだ。
受講生の愛銃の乾いた発砲音が周囲に響き、そこら中に空薬莢が飛び散る。遠方からも発砲音が届いてくる事から、他の兄弟の受講生も撃ち始めたらしい。受講生の零点規正が終わると、わざわざ言わなくともわきまえているだろうが、撃たない時はセイフティを掛けておくようにと全員に告げてから、自分も零点規正に芝に這った。まずは銃身が十六インチのSR-16。容量より二発少なめに装填した弾倉をはめ、チャージングハンドルを引く。弾倉の最上部にあった弾薬が滑らかに薬室に運ばれ、ボルトがロックされる。悪くない。実にいいぞSR-16。ちなみに名前はマック。お前は最高の銃だよ。給弾がたまに上手くいかなくて、発砲後に機関部が凄く汚れるけど。何処かのメーカーがHK416より優れたガスピストン式のAR-15クローンを作るまで、お前は俺にとって最高の銃だ。いつまでかは分からないけど。〈シグザウアー〉辺りがいい感じのカービン出さないかなあ。借金してでも買うのになあ。
どうにもならない嘆きを吐息に混ぜて体外へ排出する。肺から余分な空気が抜けて全身の筋肉がリラックスしたのを確認し、四倍率のACOG――〈トリジコン〉の光学照準器――を覗き込む。高級なレンズを通した鮮明な視界に、木板に貼り付けられた標的のブルが見える。心臓の拍動の合間を見極め、遊びがなくなるまで引き鉄を引き、そして引き絞る。撃針がシアから解放されて弾薬のプライマー(雷管)を叩き、発射薬の燃焼が始まる。金属薬莢の内部で爆発したエネルギーが弾丸を押し出して銃身で加速、マイルドな反動を残して銃口から飛び出し、ライフリング(条旋)で加えられた回転をその身に受けて飛翔する。発射ガスの一部がガスポートを通ってボルトキャリアを後退させ、バッファーが衝撃を相殺。エキストラクターに掻き出された空薬莢がエジェクターに蹴り出される。初速が時速八百キロを超える小口径高速弾は一秒足らずで着弾、ブルズアイのほど近くに風穴を穿った。――まあ、こんなものだろう。続けて撃った二発も一発目の近辺に着弾し、結果的に着弾点が全て繋がるワンホールショットとなった。参ったな。こんな芸当やっちまったら見せ付けているみたいだし、今後の身の振り様にプレッシャーが掛かる。事実、既に冷たい視線が幾つか尻に刺さっている。違うんだって。銃の調子が良かっただけなんだってば。せめてチャックが隣で「すげえ!」とか叫んでいるのが救いだった。お前、いいやつだな。
アフガニスタンの山岳地帯やイラクの砂漠のど真ん中でもない限り、現代の歩兵による戦闘というものは交戦距離が五百メーターを超えるケースは少ない。M4は有効射程が三百メーターだとか諸説あるが、大体はこの範囲の内側で行われる。要はその中の距離の敵を迅速に排除する能力が現代の兵士には求められており、それ以上遠くの敵には狙撃手や航空支援をぶつけてやればよいというのが、ここ最近の戦争事情である。流石にPSCは空爆要請する設備は持っていないので、そういう時はさっさと逃げてしまうか、さもなくばショーンみたいな腕利きの狙撃手に片付けさせればいい。
そういう訳で、俺の受け持つカービンのクラスでは、ごく近距離に配置した標的への敏速な対応、それらへの突撃と撤退――米軍ではファイア・アンド・マニューバとか呼ばれている――を仕込む。まずは三十メーター先の標的に三発撃ち込む訓練から始め、それから次第に距離を伸ばしたり、制限時間を設けてやる。慣れてきたら左右に動く的も導入して、徹底的に反射的な射撃というものを身体に憶えさせた。作業の内容は至極単純だ。標的を視認して叫び、走り、そして撃つ。出来ないやつがいれば銃の調子を見てやり、出来るまで監督する。幸い、俺のクラスには所謂落ちこぼれはおらず、そういった者が出てもすぐに問題をクリアした。愉快なチャックは指定した弾数より一発多く撃ち込むくらいに優秀だし、いい歳こいて反抗期を引きずっているジェイクも、特別目立った問題は起こさなかった。頼む、何事もなく三日間の訓練を乗り切らせてくれ。
そんな都合の良い祈りが届いたのか、俺は休憩時間の十六時を無事に迎えられた。初めの零点規正での失態はあったが、非常に緩い指導法が受けたのか、その後で刺々しい空気を浴びる事はなかった。元々俺自身の気性はガラパゴス諸島で日がな一日サボテンを食むリクイグアナみたいなものだ。何処ぞの海兵隊の上官みたいに元気にがなり散らしたりというのは、まったりした性には合わない。一定のラインまで出来ていれば文句はない。部下に恨まれずに生きるというのは、そういう事なのかもしれない。
ペーパータオルで首筋の汗を拭いながらロッジへ戻ると、数台ののグリルがロッジ前に設営され、折り畳みのテーブルの上に食材の山が積み上げられていた。グリルの中では着火された炭が赤々と熱され、陽炎が上がっている。腕まくりをした調理班の女性二人は、頭に迷彩のバンダナを巻いて要領良く作業を進めていた。ブリジットめ、まさかアウトドアをもこなせる女だとは……。その内に地面から掘り起こした幼虫でも食い出すんじゃないかと不安になる。かつて連隊の選抜訓練を終えた後、ジャングルでのサバイバル訓練の終盤に虫を始めとしたゲテモノ晩餐会が催されたが、俺は食後に他の隊員が寝たのを見計らって地面に穴を掘り、泣きながら胃の内容物を吐き散らした経験があった。如何なる状況とはいえ、ありゃあ食えたものではない。
ステンレスの皿を持ってブリジットに労いの言葉を掛けると、彼女は「私にはこれくらいしか出来ませんから」と謙遜する。おじさん、涙の浮かぶ思いだよ。俺がいない間に、おっかない姉ちゃんに意地悪されなかったかと訊くと、膝裏に鋭い衝撃が走る。地面に膝を突いて見てみれば、おっかない銀髪が鉄串を手に仁王立ちしている。俺はお前の旦那の次男坊だぞ、そいつを足蹴にするたあどういう了見だよ。哀れな弟にそのまま「ふん」と高い鼻を鳴らして踵を返したニーナの背中に、悪態をつきながら膝の泥を払う俺を眺めつつ、ブリジットはくすくすと笑っていた。
食事時、受講生に混じって炭から発される遠赤外線で不気味な程に旨味を増した肉を食んでいると、雑木林近くの遠方から親父と叔父が手招きしてきた。何事かと輪切りのタマネギの刺さった串を片手に歩み寄れば、御二方とも何やらにやついていらっしゃる。良からぬ予感というのは当たるもので、親愛なるお父様はこう口火を切った。
「ブリジットとは何処までいったの?」
吐き気を催す程に下品極まる面だ。息子の色恋事情にどうしてそこまで関心を持つのかしら。まあ、俺の精神が心配だからであろうが。この悪辣兄弟の訊問めいた詰問に下手な偽りを述べたところで看破されるのは目に見えていたので、素直に白状する決定を下した。
「……キスされた」
「へえ!その先は?」
食いついてきたのはパトリックだ。瞳を輝かせる彼は、性に目覚めた少年に見紛う興味を示した。
「あんたも俺の病状は知っているだろう?俺のナニは今じゃ役立たずだし、俺に彼女を抱く資格はない」
「馬鹿だなあ。それじゃ不味いから奴隷を買わせたんじゃないか」
親父の「奴隷」に眉をひそめたが、彼は構わず続けた。
「いいか?お前の下らない病気とやらは、その強過ぎる罪悪感が原因だ。そいつを潰してやらにゃ、快復どころか症状の改善だって期待出来ない。その辺りは理解してる?」
「分かっちゃいるけどさ……」
「お前すげえよな。俺だったら逢って三分でファックしてるぜ」
空気を読まない馬鹿叔父に二人して侮蔑の視線を向けると、彼は肩をすくめた。親父は咳払いをやって場を取り持ち、真面目腐った面で語を継いだ。
「奴隷としての過去へのコンプレックス、それに女への罪の意識から来る無意味な贖罪の念が、お前にとっての癌細胞だ。それを摘出してやろうっていう医者が向こうから来てくれてるんだ、何を躊躇う?急ぐ必要なんかもねえが、拒む理由もない筈だ。そうだろう?」
親父の諭しに呻く俺に、追撃の論を投げ込んだのは叔父だった。
「それとも何だ、お前さんはあの娘が好かないのかい?それなら俺が味見させて貰うが」
後半は置いておくとして、断じて違う。進んで家事をやってくれるブリジットには感謝しているし、かなりの好感を抱いているのも事実だ。だがしかし、それが色恋に発展するかと問われれば即答するのは困難である。何しろこの不肖ヒルバート、産まれてついぞ他人に慕情を抱いたためしなどないのだから。顎髭をさする親父は、閉口した様子でため息を漏らす。
「それで、お前はブリジットをどう思っているの?」
いい子だと思うよ。まさか相手がそんな回答を求めている訳でもあるまい。曖昧に躱そうとしても逃がしてはくれないだろう。だが、ここまで俺という甲斐性なしはブリジットという女性に対し、ラブかヘイトを問われて即断する用意を整えていなかったのだ。好きか嫌いかを問われれば、きっと好きな方の部類には入るだろう。だが、それを恋愛感情に変換可能かと自問すると、理性の邪魔立てか、だんまりを決め込んでしまう。結局、俺にとってブリジットという女の子はどういった存在であって欲しいのか、それが不明瞭なままであった。
「急ぐ必要はないが、立ち止まっているだけの余裕も残っちゃいないんだ。決めるなら早い方がいい。その方が、次の対策を練る時間も取れるしな」
そう残すと、二人は受講生の談笑に混じって姿を消した。――俺はブリジットに何を求めているのか。そんなものが分かっているなら、最初から病気なんざ患っていない。俺は傍にあった切り株に腰を下ろし、冷めたタマネギを齧った。
嘆息を一つ吐き、空になった皿と串を地面に置いて、思考の沼に沈み込む。男であれば――ゲイでなければ――心の何処かでブリジットに惹かれるのは至極当然で、暗黙の了解だ。一種のエチケットに近い。だが、一つしか空いていない彼女の隣に、俺が入り込むというのは余りにおこがましい。そうは思っても、性的な欲望とは微妙に異なる衝動が、最近では抑え難くなってる事も否定し切れない。しかし、これを恋と呼ぶのは早計だ。俺は恋というやつをこの目で見た事がないし、感じた事もない。その正体は正しく謎に包まれており、未知の存在に対してある種の恐怖さえ抱く。そんな得体も知れない存在に触れるなど、恐ろし過ぎて考えたくもない。触れると痛いのだろうか?熱いのだろうか?そんな風に興味を抱く事さえあれ、実際に得たいとは思わない。そうなってしまえば、俺は自分を罰しなくてはならなくなる。特定の女に深く関わってはならない。俺の罪は、まだ清算されていない。あとどれだけの未精算が残っているのか、それすら知れない。
暗く深い海に潜る俺を、引き揚げる者があった。誰かが肩を揺すっている。分厚い生地を通して伝わる柔らかな感触。肉の脂の匂いを掻き分けて香る女のそれ。見上げた先には、予想通りの人物がいた。俺の悩みの種が。
「こんな人気のない所でどうしたんですか?」
その表情には邪気がなく、手にした皿には俺の分までよそわれた食材が乗せられている。よく出来た娘だ。
果たして問うべきだろうか。束の間の逡巡をした。最終的に、俺はブリジットに一つの問いを投げ掛ける策定を下した。
「なあ、ブリジット。お前、俺の何処が気に入ったんだ?」
彼女からの初めてのキス以来の行動が俺に取り入る、気に入られる為であったという可能性を全否定するのを前提とした、非常に都合の良い質問である。ブリジットは僅かにも考え込む様子もなく、くすりと微笑む。
「全部って言ったら……どうします?」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
年甲斐もなく熱を持ち始めた頬を彼女の視線から逸らそうと顔を背ける。全く、どちらが餓鬼だか分からない。
「でもヒルバート様、今の言葉は決して偽りではありませんよ?」
そう言いつつ、ブリジットは自分の皿から俺の皿へと肉やら野菜を盛る。何やら腑には落ちないが、そういう事にしておこう。炭火で焼かれた肉の串を齧っている内に、考えるのも馬鹿らしくなっていた。今は、この娘が俺に懐いてくれた事実を甘受すればいい。
七面鳥が男共に身包みを剥がされて骨の躯となった頃、我々は訓練を再開した。ほの暗くなった野外では、夜間視力がものを言う。一般的に人間の眼は周囲が暗い時は近くの物体が遠くに見え、遠くの物体はその逆になる。それがしばしば着弾点の誤りに繋がるので、それを視覚ではなく直感として身体に憶え込ませなくてはならない。とはいえ、物資の潤沢な現代の軍では暗視装置が歩兵レベルにまで行き渡っているので、夜間視力を鍛える必要は余りないのだが……。
夜戦訓練は兄弟が合同で行った。三十人超の受講生が合図と同時に一斉に標的に向かって発砲を開始する。陽が完全に沈めば、銃に装着されたライトを点灯させての射撃を始める。大光量のライトに照らされた標的に穴が穿たれ、木片が飛び散る。受講生は日中と同様、銃を抱えて走り、伏せ、標的を撃った。闇の中でマズルフラッシュ(発砲炎)が瞬き、網膜に緑や紫の靄を焼き付ける。硝煙の臭い――正確には雷管が燃えた臭いなのだが――が空気に充満し、鼻孔を刺激する。統率された無駄のない動作は敵を圧倒し、士気を挫く。この受講生らは我々の技術の片鱗を、確かに受け継いだ筈だ。
そう油断していたのがいけなかったのか。いや、その可能性はない。事前に注意は促していたし、こんなところに来る連中だ。銃の扱いに関しては今更言う事もなかったのだが――。
二十時を回り、各自の表情に疲弊の色が浮かぶ頃。訓練を切り上げて帰路――我々は叔父の経営するホテルに泊まるのだが――に就こうとロッジで荷物を回収しようとしたその時だ。
発砲後のカーボンにまみれた銃の整備に、弾倉を外して薬室の弾を抜いていた俺の後方で、一つの破裂が起きた。誰か撃ち足りない野郎が、標的に最後の一発を撃ち込んだのだろう。その予想は、即座に覆された。耳をつんざく、この世のものと思えぬ嬌声に背筋が粟立った。受講生の間にざわめきが広がり、すわ何事かと方々でライトが音の辺りを探る。やがて数本の光芒が集った先には、懸念していたにもかかわらず、回避出来なかった情景が繰り広げられていた。
ジェイクが――あの問題児が、地面に片足を抱えて身悶えていた。緑色の芝には鮮血が散り、その領域が見る見る広がる。あの野郎、自分の足を撃ち抜きやがった。
呆気に取られて棒立ちしている者を掻き分け、すぐさまジェイクの許に屈み込む。ジェイクは叫びとも呻きとも取れる声音を発し、絶えず蠢いていた。その足首ではパンツと汚れたスエードのブーツが赤黒く染まり、常人であれば見るに堪えない惨状が展開されている。ジェイクの顔から一メーターほどの地面に、千切れて吹き飛んだと思われる肉片と骨片が転がっていた。足の指だ。どの指かは知れないが、大きさから鑑みるに親指ではないらしい。
近くで半ば狼狽えていたランディに病院へ連絡する様に命じ、俺はジェイクの大腿部をパラコードできつく縛り、タオルで患部を圧迫した。現状で最も懸念されるのは、出血による失血死だ。ともかく止血を最優先に考えなければならない。周りが騒がしい。頼むからこっちの思考を掻き乱さないでくれ。今は満足な医療道具もなければ、こうしてぐちゃぐちゃになった足首を抑え付けておく事しか出来ないんだ。
戦地での応急医療資格を持つヴェストが駆け付けた時、他方から何者かがこの惨劇の場に駆け寄る小さな足音が耳についた。額の汗を垂らしながら振り向いた先には、頭にバンダナを巻いたブリジットの走る姿があった。一体、どうやってこの状況をを知ったのだろうか。
「止せ、来るんじゃない!」
俺の叫びの甲斐なく、ブリジットは俺の隣に屈み込む。その肩には、医療道具が詰め込まれたバッグが担がれていた。
「私は何をすればいいですか」
本音を言えば、こんな血みどろの光景など見せたくない。さっさとロッジに戻ってニーナを呼んできて欲しいが、今やニートの手も借りたい状況だ。俺が何かを言う前に、ヴェストが系統だった指示を出し始める。救急車は呼んだか。弾は抜けているか。あとどれくらいで救急車は来るのか。指示が飛ぶ度、俺はランディに救急車の手配の次第を問いただしたり、ずたずたになった肉を分けて患部を窺ったりした。どうやら鉛弾は貫通した様だ。金属による感染症の併発は一先ず避けられた。既に両手は血まみれだ。脂肪と混じった肉片で、患部はおぞましいピンクに染まっていた。
ヴェストはブリジットとバッグを漁り、各種点滴とレトルト食品のパウチに似た物体を取り出した。ヴェストが手際良く点滴を血管に通す中、ブリジットがパウチの扱いに戸惑っていた。使い方を知っている俺は、その手からパウチをさっさと奪って使えばいいのに、彼女に使用法を手振りで教えた。パウチの名前は〈セロックス〉最新の粉末包帯で、高い止血能力を持っている。患部にこの白い粉末を振り掛けると、血液中の水分が吸収されて血小板濃度が上昇し、止血効果が高まるという一品である。戦場では銃創を負った際の応急処置に用いられ、高い評判を誇っている。ブリジットが粉末をグロテスクな患部に振り掛けるや否や、赤く染まった粉末が出血を阻止する。パウチの中身を全て散布したところで、ブリジットが俺の指示でバッグから密封された圧縮包帯を取り出して封を切る。調教施設では簡単な手当ても教わったのだろう、迷いのない動作で足首に包帯をきつく巻き付け、固定した。その間、俺はジェイクの脈を測り、意識を保たせる為に大声で呼び掛けるくらいしかやる事がなかった。
止血から間もなくして、遠くで救急車のサイレンの雄叫びが鳴り響く。一分後には、チャックに誘導された救急隊員がジェイクを担架に乗せて連れ去り、もげた指と一緒に救急車へと積み込んでいった。――馬鹿なやつ。安全管理さえしておけば、次の職を見付けに奔走する必要もなかったのに。
セイフティを掛けなかった。抜弾を怠った。銃口を自身に向けた。発砲時でもないのに引き鉄に指を掛けた――。慢心よりもたらされた惰性によって五体満足な生活を失う危機に陥ったジェイク。お前みたいな失態を繰り返さぬ様、精々火器の取り扱いには留意するよ。遠ざかるサイレンの残響が、大切な教訓を各自に残しただろう。これで何の感動も覚えていなければ、そいつに銃を持つ資格はない。
ジェイクが病院へと搬送された後で、彼の身を気に掛ける者は受講生の中に誰もいなかった。それは俺の兄弟とて同様で、俺かて例外ではなかった。銃傷を負って死にそうになった者は無論、実際に手足が吹っ飛んで惨たらしく散った仲間も見てきた。今更自分の過失で指が一本や二本飛んだ阿呆がいたところで、同情なんざ抱きもしない。ただ、その輪にブリジットまでもが含まれていたのは少々意外であった。事実、目の前でここ――ホテル=デイヴィッド・スターリングの八階、八二二号室でルームサービスの血の滴るステーキをもぐもぐ食んでいる。つい二時間前には陳腐なスプラッタ映画なんかよりもずっと凄まじい現実を見ていた筈なのに。そんな彼女は、珍しい外食に頬を緩ませている。
「美味しいですね」
能天気なものだ。ややもすると、調教期間中に病んでしまった精神が感覚にまで影響してしまっているのかもしれないと考えれば言い訳が立つが、そうだとすれば何とも涙を誘う話だ。可愛そうなやつ。
空の食器がボーイ君によって片付けられ、叔父の計らいで部屋に届けられたギネスとベイリーズをちびちびやる前で、ブリジットは果実がふんだんに沈んだ〈ピムズ〉を機嫌良さげに煽っていた。全く、他人の気も知らないで。
目下、俺という人間は悩んでいた。俺のちんちんがおっきしない問題にではない。このホテルで中の上に位置する八二二号室の調度品についてだ。恨むぞ、パトリック。俺の病気を知らない訳ではあるまいに。
「何でダブルベッドにするかなあ……」
アルコールの臭いが混じったため息を零す。初めて部屋に入って事態に気付いたところで、俺は膝に両手を突いた。応接間と言われても遜色ない装飾が施された室内、真紅のカーペットが敷き詰められた寝室には、新婚旅行で数々のアベックが使ったと思われる豪奢なダブルベッドが鎮座していた。ちくしょう、くそ叔父め!それを見たブリジットは、ほのかに頬を赤らめて俺の上着の裾を抓んだ。止せ、何を企んでいやがる。
ブリジットとの肉体的接触による痛みが薄れてきたとはいえ、やはり俺の心身は継ぎ接ぎで保たれている。そういう事をするには、やはり時期尚早であるというのが俺の見解であったが、どうもお利口なブリジット君はそうではないらしい。
「なあ、ブリジット。俺はロビーのソファで寝るから、お前さんは……」
「怒りますよ?」
笑顔でそう言い放つのだから、こいつは厄介だ。時刻は二二時。昼から夜にかけてぶっ続けで銃を撃っていたせいで疲労が溜まっているし、明日もその予定だ。出来れば柔らかいベッドで横になりたいが、俺の心が持ちそうにない。まさかブリジットを部屋の外で寝かせる訳にもいかないし、それこそ彼女が許さないだろう。彼女の目的はただ一つ、俺と同衾する事なのだから。
「参ったな」
ぼりぼりと後頭部を掻くと、頭皮に付着していた皮脂が爪の間にたっぷり侵入する。服を抓んで嗅いでみれば、相当に汗臭い。
「お風呂に入ってきては如何ですか?」
その台詞が他意を含んでいる気がするのは、おじさんが疲れているからだと思いたい。部屋の備え付けのバスルームに足を向けると、果たせるかなブリジットが後を着いてくる。何をしていると尋ねれば「お背中をお流しします」とほざきやがる。断ったところで逃げられないところまで来てしまったのだろうと諦め、俺は服を脱ぎ終えるまで脱衣所の外で待つ様に命じ、その扉を閉めた。
数分後、黒い大理石張りの大きなバスルームの椅子に、股間にバスタオルを巻いて座る俺の身を、衣服の袖と裾を捲ったブリジットが洗うという図が展開されていた。彼女の手にはボディソープをふんだんに含んだスポンジが握られている。眼前の磨き上げられた鏡では、傷跡だらけの身体にスポンジを優しくこすり付けるブリジットの姿がよく見える。どういう訳だか随分と楽しそうである。かく言う俺も初めは渋っていたが、四肢や肩を洗われている内に不思議な心地良さに折れ、目を細めて流れに身を任せる様になっていた。以前に親父が「日本の風俗店はやばい」と鼻の下を伸ばしていたのにも得心がいく。成る程、こいつは気持ちがいい。
「痒いところはありませんか?」
健常な変態であれば「おちんぽ!」とでも返す場面なのであろうが、如何せん女に対して臆病が過ぎる俺には不可能な業だ。いや、既にそいつは女がどうとかで片付けられる問題ではない。もしブリジットがふざけて俺の息子様に触れようものなら、その時はショック死する危険性さえある。苦し紛れに「襟首」と答えると、鏡の向こうの彼女は絹の如き手とスポンジで首全体を撫ぜた。犬や猫が喉許を愛撫されるのは、こんな感じなのだろう。ボディソープで潤滑になった皮膚を、それよりも遥かに滑らかな手が蹂躙する。母親が子供にするのと同じだが、そこに性的な情欲を僅かばかりも催さないと曰くのは虚言になる。何れにせよ、おちんちんは機能しないのだが。
背中と腕を洗い終えると、ブリジットは俺の前に回り込み、胸を洗い出す。背中を流すんじゃあなかったっけ?彼女は時折、腹に走る醜悪な刃傷や銃創をなぞっては、感慨深げに吐息を漏らした。その呼気が下腹部に掛かる度に、微妙な感覚に毛がざわめく。
「くすぐったいですか?」
「少しね」
ブリジットは俺の言葉に微笑むと、それまでと変わらぬ力加減で脚をこすり始める。やはりこういった奉仕には慣れているのか、僅かばかりも抜かりはない。脛の毛を巻き込む事なく滑るスポンジが、息を呑む間に腰のタオルまで上がる。瞬間、肝を冷やす思いであったが、ブリジットの手の軌道はすぐにタオルの奥から外れた。思慮深い娘だ。調子の良い発言をしている様で、その内ではちゃんと踏み込んでいい領域をわきまえている。だからであろうか、俺が彼女の提案を無下に断れないのは。この甘さがいつか自身を殺す事にならなければいいのだが。
器用に乳首といった粘膜系を避けつつ、ブリジットは俺の身を洗い上げた。全身を白く飾るボディーソープが適温の湯で流されると、今度は硬い頭髪に陶磁の指が差し入れられた。訓練で毛穴に詰まった皮脂が湯でふやかされ、水気を帯びた強情な毛髪が幾らか素直に垂れて目に掛かる。
「ほうら、色男」
「ホームレス三日目ってところだな」
姿見に映る自分を貶せるのは、そうならない確証があるからであろうか。どうすればもっとろくでなしに見えるかと顔面の筋肉を動かしていると、手の内で温められたシャンプーが頭に置かれ、泡立てられる。もしゃもしゃと心地良い力具合で頭皮を指の腹で掻かれ、思わず嘆息が漏れた。それに気を良くしたのか、ブリジットは鼻歌混じりに語り出した。
「ねえ、ヒルバート様。先程、どうして私が貴方を慕ったかお訊きになりましたよね。あれって、本当は凄く不純な理由があったから、あの時お茶を濁したんです」
「へえ……」
揺り籠に放り込まれたような心地の俺は、完全に脱力して相槌を打った。
「でも、自分の心に押し込めておくのはこれから先ちょっと辛いので、今言っちゃいます」
「そうかい」
夢見心地を幾らか割いて、少し真剣みを帯びたブリジットの言葉に受け答える。しかしまあ気持ちの良いものだな、他人に頭を触られるというのは。癖になりそう。
「例えばそう……私にとっての普通の人っていうのは、パズルの間違ったピースを無理矢理にはめ込む様なものなんです。ピース自体は決して歪んでいる訳ではないけど、パズルの枠がそれを受け入れない。拒むばかりで許容の素振りも見せない。そういう頑固な姿勢を持っているのが私です」
湿度の高い個室に、泡だらけの頭を掻く音だけが聞こえる。向かいの鏡では、神妙な面持ちのブリジットが映っている。何か言おうかとも考えたが、彼女がまだ何か言いたげだったので口をつぐんだ。
「形の合わないピースとパズルは互いに傷付け合い、いつしか共倒れになります。でも、それは相手が普通の人であった場合です。それなら、そもそも私はその人を心に迎え入れようなんてしません。きっと私の心情なんて理解できないでしょうしね」
はっきり言って、すぐ傍で聞いている俺にも何を言わんとしているのか分からない。首をかしげる俺を気遣ってか、ブリジットは簡潔な結果だけを示してくれた。
「つまり、歪んだパズルはそれに合わせて歪なピースしか受け入れられないんです。私と同じ様に、人生の線路から脱線した人。私が思慕を寄せるとしたら、その人しかいないでしょうね」
そうしてくすりと悪戯っぽく鼻を鳴らす。流石にその言葉をこの歳になって素直には受け止められない。それに、お前は歪んでなんかいない。そう無責任に言い放てない辺り、俺はやはり臆病風に吹かれている。
「そういう男がすぐに見付かるといいな」
「あら、随分な物言いですね」
口先を尖らせてはいるが、断固とした否定を示されなかったのには満更でもないらしい。事実、この子に籠絡されかけているのも事実だ。だがしかし、ここで俺という野郎は気付かなくともいい点を暴いてしまった。普段は大人しくしているくせに、こんな時ばかり働きやがって、くそ脳細胞めが。
「……もしかして、俺って普通じゃない?」
冷や汗を垂らす俺に、ブリジットがやんわりと微笑む。
「普通だと思っていらっしゃったんですか?」
この娘、何と酷いやつなんだ。形式上とはいえ、お前さんの主人だぞ。その関係を拒絶したのは他ならぬ自分であるが、いざこうして不遜な態度を取られれば違和感を覚える。だが、その形式上の関係を踏み倒してそういった冗談を飛ばしてくれる様になったのだ。こんな僥倖は他にない。
「流しますよ」の合図で俺は目を閉じ、頭の脂ぎった泡が排水溝に吸い込まれてゆく音を聞いていた。泡が全て流されたところでブリジットはバスルームを退出し、俺は股間を洗った。ややもすると、お前さんが復活させられる日もあるのかもな。鏡の中の死にかけた分身に、皮肉めいた笑みを向けてやった。
バスルームを出て身体を拭い、下着を履いて備え付けの茶色のバスローブを羽織る。スイートでもなければ、その質はさほどよろしくない。部屋に戻ると、ブリジットが読んでいた小説から顔を上げてこちらを見やる。あの子が先程まで自分の汚れた身を洗っていたのだと考えると、中々に気恥ずかしいものがある。胸や背中を、あの白く繊細な工芸品たる指が触れたという現実に、罪の意識をも覚えた。しかも書類上とはいえ、あれは俺の所有物らしいから尚の事気を揉む。ブリジットは小説に栞を挟んで閉じると、シャワーを浴びてくると告げて今しがた俺がいた脱衣所に足を運んだ。何だろう、おじさんもやもやしてきたぞ。
革張りのソファに尻を沈め、自宅から持参したミリタリーマガジンを上の空で膝の上に広げて十五分。シャワーの音が止み、程なくして大きめのバスローブを纏ったブリジットが脱衣所から出てきた。砂色の髪は水気を帯びて輝きを増し、何処か色香を放っている。胸許から覗く細い鎖骨は彼女の言葉とは裏腹に歪んでなどおらず、綺麗な線を描く。包み隠さず言ってしまえば、綺麗の一言に尽きる。
「明日は何時に起きられますか?」
「十時にはホテルを出る予定だよ」
声が少々上ずったのは、あながち聞き違いでもないかもしれない。そりゃあそうだ、性欲が失せた訳ではないのだから。ブリジットが隣に腰を下ろすと、その濡れ髪から普段とは異なる、ラベンダーの匂いが漂う。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか……?」
大腿部に柔らかな手が添えられる。前屈みに肉薄され、蠱惑的な上目遣いが向けられる。
「……何かな?」
胃の奥からこみ上げる戦慄におののきつつ、俺はブリジットの瞳を真っ向から見据えた。何処までも落ち込んでいきそうな蒼い虹彩、まるで人形だ。前傾姿勢になった事で、ブラを装着しているとはいえ、その胸が僅かにはだける。ほのかに上気した肌色が劣情を誘うが、同時に不能な自己に落涙する思いだ。
「ねえ、ヒルバート様は私の事をどうお思いで……?」
華奢な指が顎に這わされ、白い傷跡をなぞられる。やけに甘えた口振りは脳味噌を揺らし、本音を掻き出そうとする。
「ブリジット君、その気持ちは理解した上で申し上げたいんだが、こういうのは人生の中でとても重要な事だ。もっとじっくりと考えるべきではないかね?」
「その時間は既に設けた筈です」
何てこった、目が据わっていやがる。どうやらアルコールの勢いというやつではないらしい。
「どんなお答えでも構いません。お聞かせ願えませんか?」
かすかに潤んだ瞳が、俺の両目を捕らえる。参ったな。これが演技か定かではないが、女子のこうした顔を前に虚偽を吐ける様な生き方はしていない。まだ温かいブリジットの髪を撫で、ため息をつく。俺もそろそろやきが回ったかな。
「歪んだパズル……か」
ブリジットの耳の裏を掻いてやると、くすぐったげに目を細めた。この子となら、変われるだろうか。抱いたばかりの一抹の希望に、それだけの強さがあるか定かではない。
「俺達、上手くやっていけるかな?」
「案外何とかなると思いますよ。結構いいカップルじゃないですか?」
カップルねえ……。単語の響きにこそばゆさを感じた。だがまあ、彼女も俺もここまで来てしまったのだ。行きつく場所まで彷徨ってみるのも悪くはないかもしれない。そう決断する辺り、やはりやきが回ってきたのだろう。脳の前頭葉の回路が、色恋とやらが発する正体不明の熱線で焼き切れてしまったのだ。
「率直に言うと、俺はブリジットに惚れてるよ」
眼下の少女は黙っていた。
「最初はあの家での生活もどうなるかと思っていたけど、今ではこうやって一緒に馬鹿をやってくれるし、元の荒んだ生活に戻れる気がしない。何と言うべきか、自分が無意識に求めていた暮らしが得られたみたいなんだ」
手をそっと頭頂部に運び、穏やかに撫ぜる。甘酸っぱい芳香が立ち昇り、俺は自分が落ちるところまで達したのを確信した。
「うちに来てくれてありがとう。これからもよろしく」
それを聞くなりブリジットは微笑み、緩やかに唇を重ねてきた。これまでで一切合財を吐露し合ったのだ、今更拒む理由は見付からない。
眼前で細かに揺れる長い睫毛、桜色の形の良い口唇、上唇に掛かる弱々しい鼻息。それら全てが興奮と歓喜に直結する。柔らかな唇を擦り合わせる事で、そこに無上の慕情が生える。どれくらいそうしていただろうか、どちらともなく顔を放せば、シャワーで生じたものではない熱に両者が浮かされていた。
「ベッドへ行きましょうか」
「それって男の台詞じゃないかなあ」
くすくすと笑うブリジットに手を引かれてダブルベッドへ導かれ、その内へ身を滑り入れる。後からブリジットも布団に潜り込み、俺の硬い胸に頭を埋めた。自惚れになるやもしれないが、この子は随分前からこうしていたかったのではなかろうか。俺も罪作りなもんだ。
「言っておくけど、いやらしい事はなしだからな」
「ちょっと残念です」
本当にそう思っているのだろう。ブリジットは眉を歪めて苦笑した。とうとう主従関係を超えたこの晩、俺達は夜が更けるまで触れ合い、語り合った。これまで彼女に我慢させた分まで、ずっと苦役に身をやつした自身への労いに。