冷たい朝靄が髪に外套にまとわりつき、僅かばかり歩いただけでじっとりと濡れた。
前髪が眉の上に張り付いて鬱陶しい。
冬が開けたばかりとはいえ、以前なら日が昇る頃にはもう、町の住人は皆起き出して漁や畑仕事に向かっていたものだが、ホルムの朝は近頃めっきり遅くなったようだ。
土と天気を相手にするより、人を相手にする仕事が増えたためである。
静まりかえった石畳の通りを足早に抜けて鍛冶屋の裏を覗くと、小柄な人影がこんもりと膨れて重い足音を立てていた。
炉に使う炭の入った大きな革袋を――大の男でも腰を挫きそうな代物だ――軽々と二つ肩に担いでいるのは誰あろう、雑貨屋の娘ネルである。今は鍛冶屋ガリオーの新弟子だ。
声を掛けると相変わらずの朗らかな調子で、
「やあやあ、こりゃ伯爵様、朝も早くからご機嫌よう」
おどけた物言いでそう言ったのへ、キャシアスは赤い双眸を細め、苦笑いを返した。
ネルは「ちょっと待ってて」と言い置いて軽快に裏口から中の作業場へ駆け込んでいき、表口の鍵を開けて、キャシアスを迎え入れた。
革のエプロンと作業着、髪から頬に至るまで炭の粉で真っ黒だが、若い娘にあるまじきことに、それがやたらと様になっている。
ネルが手拭いを貸してくれたので、キャシアスは有り難く顔と髪を拭い、湿って陰気に萎れたアッシュブロンドを手櫛で掻いた。
鍛冶屋の入り口近くには見本の刃物や鎧がずらりと並び、商談用の卓が設けられている。奥には炉や金床があり、編み込まれている途中の鎖帷子が何丁かあって、出入りの弟子が――全員逞しい男達だ――六人ほど立ち働いていた。キャシアスが目礼すると、半分が気安く会釈を返してきて、もう半分がぎょっとして姿勢を正した。前者は“常連の探索者”だった頃からの顔馴染みで、後者は目立つ風貌の伯爵としてしかキャシアスを知らない者達である。
「仕事中に済まない。ネルに用があって来た。邪魔をさせて貰う」
畏まった半分のためにそう断りを置いて、キャシアスはネルに勧められた椅子へかけた。
ネルは向かいに座って、自分もおざなりに顔を拭い、
「久しぶりじゃないキャシアス。ナザリへ行ってたんだって? フランちゃんから聞いたよ。いつ帰ってきたのさ。都ってどうだった?」
「つい一昨日、戻ったばかりだ。都は……忙しなかった」
「確か、年明けからずっとだったよね」
「あれこれ折衝があってな。アルソン殿と会ったが、あちらは俺の倍も立ち働いている。冬の分の麦も回して頂いたし、頭が上がらんよ」
「へえ。あのアルソンが」
「少し痩せられていた」
「大変なんだねえ。あ、お茶も出さなくてごめんね、こんな格好でさ」
「いや、こっちこそ邪魔をして済まない」
「いいよいいよ、キャシアスも忙しいものね。それで、何か用? 刀のこと?」
「ああ」
頷いて、キャシアスは革帯から佩剣を外し、ネルへ手渡した。東夷様式の片刃。ネルとガリオーの作だ。
「研ぎを頼む」
「あいあい。ちょっと拝見」
ネルは刀身を斜めに立てて繊細な手つき鞘を払い、白刃を一瞥して……笑みを消し、難しげに眉を顰めた。するすると刀を納め、
「聞かない方がいい?」
「すまん」
「いいよ。どーせ、偉い人たちの話なんか分かんないもん。でもさ、大丈夫?」
「軽い小競り合いがあっただけだ。心配ない」
「そう。大丈夫なら、いいんだけどさ。でも、何か出来ることあったらさ、わたしとか、パリスとかみんなとか。声、ちゃんと掛けてよ。剣や鎧だって、新しいの必要になったらいつでもタダで作ってあげるし」
「ああ。分かってる。……みんなのことは頼りにしてる。本当だ」
「なら良し」
ネルは微笑んで、大仰に頷いた。
「もう大張り切りでやっちゃうから。そうだね、週明けくらいには仕上げるよ」
「有り難い。多分、フランに取りに行って貰うが」
「りょーかい。そういやフランちゃん、どう?」
「元気だ。留守を任せて、色々面倒を掛けたからな。少し休ませようと思ってる」
「うんうん。そうだね」
「ネルが会いたがってたといえば喜ぶ。そうだな、今夜にでもこっちへやろうか。何か旨い物でも食べさせてやってくれないか。一人で休めといっても、どうも働きたがるから」
「……って、違うでしょ。そうじゃないでしょ」
「何がだ?」
ネルは不機嫌そうに、刀を手近の台に置くと、両手を腰に当ててキャシアスを睥睨する。
「フランちゃん、キャシアスが留守の間、すっごく心配してたんだよ。寂しがってたよ。その埋め合わせ、してあげたの」
「埋め……?」
「お話ししたりとかさ」
「留守の間の話は、詳しく聞いておいた。礼も欠かしていないつもりだ」
「そうじゃなくってさ。ってか、どうなの、フランちゃんと」
「どうとは」
ネルは息を詰め、ぐいと顔を寄せた。
吐息が鼻をくすぐる。椅子から立ち上がれば口づけしてしまいそうなほど近い。
妙な、迫力があった。
「恋人でしょ」
「……違う」
「……」
「フランは、よく仕えてくれてるが、そういうのじゃあない」
「キャシアス」
「そういうのじゃあないんだ」
ネルは暫く強い視線を外さなかったが、やがて大きく息をつき、キャシアスから離れた。
「とにかく、なるべくフランちゃんとの時間、作ってあげなよ。心配してたのはホント」
「ああ」
その場は頷いて見せたが、結局、私的な時間を作れたのはその朝だけで、後は雑務に追われて日を過ごした。当のフランとも、仕事以外の話はろくにしないままである。
私事で顔を合わせたのは、研ぎの仕上がった刀を届けて貰ったのが最初になった。
交わした会話は、
「御館様、ガリオー様から御佩刀(みはかし)を受け取って参りました」
「ああ、有り難う。すまないな」
「恐れ入ります」
という程度のものだったから、ネルの諌言は結局、ないがしろにした格好となる。
///
古の帝国においては、鉄も現在より優れていたらしい。
月光へ抜き身を透かし見ると、緩やかに反った刀身は蒼く妖しく濡れ光り、独特の鍛造からなる鋼が変化に富んだ紋様を描き出している。地肌の柾目に似たうねり。刃と峰側で硬軟を違えた故に生じる銀の階調。漣のような境界線には粒子の煌めきが散りばめられており、樋が影を落として優美な曲線を縁取っている。素っ気ない拵えの一振りであったが、その太刀姿は一つの美術品として通用するだろう。
柄や鍔の装飾で彩られた名剣は多く見聞きしているが、刃そのものの美しさで業物たる剣があることを、キャシアスはこれを見るまで知らなかった。
刃渡りは歩兵の長剣と同程度。柄はその割に長く、諸手の寸法。滑り止めには革紐を用い、レンデュームに伝わる作法通り、並んだ菱形を描くように巻締めている。
鍔は小振りの円形。防護には心許ないが、抜剣に際して手元の自由が利く。咄嗟の時、甲冑や障害物に引っかかる心配もない。
朽ちた古代の剣を潰し、当時の文献を元に鍛え直した逸品である。
刃味極めて鋭く、人の皮肉なら容易く切り裂き、刃筋さえしっかりしていれば怪物の分厚い筋肉でも泥水のようにずぶりと食い込む。甲冑や骨を断ち切っても刃毀れ一つせず、果ては蒼穹を覆い隠す大巨人の踵を切り、失血せしめたことさえある。
先の異変が収束してから、キャシアスは専らこれを佩剣としていた。
遺跡から出土した様々な名剣業物の類は、尋常ならざる怪物どもへ立ち向かうべく成り行きで活用させては貰ったが、終わってしまえばとても平常持ち歩ける品ではない。武具というのは消耗品である。撃つたびに軋み、受けるたびに割れ、いずれは損失する。いちいち価値を気にして振り回せるものではない。保管にも手入れや警備といった手間がかかるので、結局、特に価値の高い幾つかは都の大公家へ献上し、他は神殿の研究者に貸与するか、古物商に売って領内の復興費に充てた。父を死なせたあの忌々しい聖剣などは、真っ先に然るべき筋を通じて返還した。館の倉庫に残っているのはごく僅かだ。
しかしこの剣の場合、発掘品を素材に用いたとはいえ、剣自体はガリオー・ネル師弟の手になる作であったから、手元に留めているのだった。
扱いに独特の操法を要する東夷の刀が、不思議とキャシアスの性に合った。
今は槍や馬術よりも熱心に練習している程である。
刀身と目釘を改めると、キャシアスは徐に中段へ取り、呼吸を練った。
頭上、芽吹いて間もない枝が、半月に重なっている。
微かな夜風には木々の息遣いが匂う。藪に潜んだ鼠の吐息さえ嗅ぎ取れる。
森の闇と天蓋の瞬きが、キャシアスの勘を研いでいた。
振る。
夜気が研ぎ上がりの刃先に裂かれ、樋に梳かれて清澄な音を立てた。
刃音で切れ味が計れるわけではないが、空を斬った感触は好ましいように思われた。
黙然と素振りを行う。
初めはゆっくりと大きな振りを繰り返して体を解す。
手足の血肉に十分な暖が入ると、闇の中に対手を見立て、素早く複雑な型を使い出す。
斬り下ろし。防御の体捌き。薙ぎ。偽攻。袈裟斬り。誘いの踏み込みから握りを換えて添え手突き。小刻みな技の連なりはあくまでも滑らかで、緩急はあれど遅滞はない。立ち並ぶ木々の枝葉、足元に這う根や茂みに全く遮られることなく体を運んでいる。
キャシアスの剣はやがて二人、三人と相手取る人数を増し、より奔放を極めていく。
蒼白い剣閃の軌跡がひときわ繚乱に走り、ぴたりと止むと、森に深い静けさが降りた。
鳥獣、虫や精霊の類に至るまで、じいっと息を殺したものか。
周囲の気配に注意を絶やさぬまま、キャシアスは緩やかに構えを解き、剣を納めた。
柄に手を添えたまま、呼吸を練る。
抜く。鞘から抜くと同時に鞘と左腰を引き、瞬時に抜刀、見立てた対手の顔へ抜き付ける。ぴたりと切っ先を止め、諸手に構え直し、額を叩き割る。残心。納める。
再び呼吸を練り、抜く。
――キャシアスが皆の寝静まった夜更けに館を抜け出し、四半刻ほども森に分け入ったこの場所で剣を振っているのは、別に精神修練の類ではなかったし、孤高を気取っているつもりもない。
昼の間は執務と政(まつりごと)の勉学が忙しく、夜は館裏などを使うと夜警の者に気を遣わせて面倒である、と、それだけの話である。
しかし、却って気苦労をかけてしまった者もいるようだ。
鞘の内から始める技を暫く繰り返してから、キャシアスは暗がりに声をかけた。
「師匠殿。いるのなら、相手をしてくれないか」
フランの、いつもの女中姿がそこにあった。
影も気配の一つもなく、呼んだ瞬間から当然の態でそこにいる。
平時と変わらぬ装いが、そのなにげなさを際だたせていた。
稽古で昂揚したキャシアスの耳目は、寝静まる鳥の位置さえ判別できるほど冴えていたが、フランの忍び足はやはりおぼろげにしか察知できなかった。フランの方から存在を示していなければ気付けなかったかも知れない。キャシアスの邪魔をせぬ程度には静かに、曲者と勘違いをされない程度には露骨に、彼女はそこにいた。
フランは困った顔をして、
「師匠はお止しください。握りと基礎の型をお教えしたくらいじゃありませんか」
「基礎が良くなければ上達はできない。フランは良い師匠だった」
「からかわないでください」
「本気だ」
「それよりも、そろそろ気がお済みになりましたか」
「大分鈍っている。もう暫く」
「いけません」
「怒っているか?」
「当然です。こんな夜中に抜け出して」
「昼は暇がなかったからな。フランこそ、俺に構わず休めばいいものを」
「曲者が出たらどうされます」
「この通り、剣は持ってきている」
「そういう話では御座いません」
キャスアスが抗弁すると、珍しいことに、フランは露骨な苛立ちを見せた。
「御立場を弁えていらっしゃいますか」
「当然だ」
「でしたら――ええ。もう僭越ながら申し上げます。大概になさいませ。家督を継がれた以上、もう武芸にばかり熱心でいられないことくらいお分かりでしょう。御多忙は存じております。けれども、悪童の夜遊びみたいに抜け出さなくても宜しいでしょう。夜種や賊がどこに潜んでいるか知れないのですよ。貴方の身にもしものことがあったら、ホルムはどうなりますか」
「いざというとき働けないのは困る」
「あたしの話を聞いていらっしゃいましたか!」
「フラン。今は平穏を得たが、先々、世がどう傾くか分からない。グリムワルドはこの地を預かる騎士だ。政(まつりごと)だけでなく、剣も疎かには出来ない」
「存じております。しかし、不用心ですと――」
「仮に賊が出たとして、剣を執り、気を張っている最中に不覚を取るようなら、俺もそこ迄ということだろう」
「キャシアス様?」
「なら、居ない方がましだ」
掃いて清めたように、フランの面立ちがすぅと平坦になった。
怒っている。
これは怒っている。
不味いとは思ったが、キャシアスも言い出した以上、後に引けない。
「始祖帝は討ち果たしたが、俺の生まれがまた火種になるかも知れない。奴の企ての大凡は大河神殿も神託や文献で知るところだ」
「……」
「それで面倒が起きたとき、皆を守るどころか自分の面倒も見れないようなら、そもそも、居ない方がましだ」
「……だから、警護も連れずにお一人で、こんなところで剣をお振りになっていらっしゃっても、何の差し障りもないことであるから、あたしは気にせずとも良い、と」
「何かあったところで、館の衆を巻き込まない分、却っていいだろう」
「……一手」
「ん」
「一手、お相手仕れば満足なさいますか。今夜は大人しく帰って頂けますか」
「相手をしてくれるか」
「はい」
いつしか、フランは両手に剣を抜いていた。
キャシアスが同意する気配を見て取るや、闇と枝葉に紛れて抜いたのだろうが、それにしても鞘走りの音さえない。
キャシアスの刀は納めている。
「ご無礼を」と、フランが目礼した。
左手に小太刀、右手に両刃の短剣を握った二刀構え。
腰を落とした左半身で中段に切っ先を据え、右手はだらりと下げて腰裏に隠している。
木剣の用意はなく、またこれまでフランの指導で用いたこともない。得物の握りと重さに修練の時点で慣れておいた方が良いというためだ。
それに、当たればただで済まないのは木剣でも同じである。なら下手に当てるつもりで木剣を使うより、最初から当てないつもりで真剣を用いた方が却って気安い。
フランの小太刀は肉置きが薄く、細く、先反り気味で切っ先が大きい。
相対するキャシアスの刀はフランのそれと比べ身幅が広く、切っ先も太い。
不意を突いて急所を抉るか、武装した敵と真っ向切り結ぶかという剣質の違いだ。
フランの方が一手一手の速さで勝り、重さと粘りではキャシアスに分がある。
打ち合う格好になれば、フランはその時点で負けを認めるだろうが……
キャシアスは柄に手を添え、そのままで対峙した。
刀は抜かない。
既にして得物を抜いたフランを前に、構える余裕がないためだ。
フランは俊足だ。体格を補うため、瞬時に間合いを奪う瞬発力を身につけている。悠長に剣を引き抜こうとしたら、すかさず懐へ飛び込まれてしまうだろう。
受けを捨てて居合で応じるものと、腹を括った。
平時の佇まいから即座に繰り出す鞘内の型を、キャシアスはゼペックとラバン老から授けられていた。曰く、立ち合いと組み合いの間に位置する剣の技。剣を抜き合わせる前の戦い方。長さ重さが手頃で適度な反りを持ち、革帯に差し込む形で佩く東夷の刀は抜剣の工夫が効く。抜いて構えるのではなく、抜きながら斬るのだ。平服の立ち合いはよほどの実力差がない限り相打ちになりやすいものだが、この型を活かせば相手が構える前に斬ることができ、その危険はなくなる。決闘ではなく暗闘、平服での実戦剣術と言えた。裏返せば、剣を抜く前に襲われた際の護身技にも適しているということである。
現に切っ先を突きつけていながら、フランは無手のままのキャシアスに踏み込めない。
彼女はそのまま数瞬ほど機を伺っていたが、キャシアスにつけいる隙がないと諦めるや、即座に後ずさって身を隠した。
初めからいなかったかのように、先ほどまで話していたのが現の夢であったかのように、気配が消え去る。
茫漠とした闇に変じて、押し包んでくる。
フランは怒れば怒るほど静かだ。目の奥の光だけが細く鋭く尖っていく。その視線が肌身をちくちくと刺すようであったが、どこから向けられているのか、全く掴めない。
キャシアスは摺り足に、手近な樹木で左手側を庇うよう位置を取る。
左腰に帯びた剣を抜き打つ以上、即座に左を斬ることは出来ない道理である。
必ず、一拍遅れる。
故に、庇う。
庇わざるを得ない。
彼女はまずそこを狙うだろう。
盾で生じた死角を突くのはフランの常套手段だ。
例えば、まず左の小太刀を盾で防がせる。対手にすれば右から来る剣を左の盾で防ぐのだから、自然と左半身に体を捩ることになる。フランはすかさず敵の盾を利用して目を盗み、右から背後へ回り込む。間髪入れず、甲冑の継ぎ目から短剣を差し込む――
言葉にすればごく単純なことを、実戦で成就できる素早さが恐ろしい。
因みに、盾に頼らず剣で応じようとした者は大抵が瞬時に手首を裂かれる。左手の剣は普段相手取ることがないため、やりづらい。ましてフランの小太刀を、重い長剣の手業で相手取るのは至難である。
フランは、盾にした木の陰から回り込んでくる。少なくともそのつもりでいるべきだ。
左前方から懐へ飛び込んでくるのなら、抜刀を諦めて組み合いに持ち込む。
左背面を盗んでくるなら、初撃をかわして振り向きざまに斬る。
それ以外で来たら、その時はその時。
キャシアスは感覚をぼかし、周囲への注意を均等に保った。
目はあてにならず、耳もどこまで通じるものか。集中するべきはむしろ己の内面だ。
フランの目配り、足運び、太刀筋を、キャシアスは知っている。自分の知覚の外で彼女がどういった働きをこなしていたか知っている。あの災厄に挑む間、ずっとともに居たのだから。
――あたしの主君……
フランはキャシアスをそう呼び、我が身を省みることなく仕えてくれる。俊敏さを武器にするということは、戦いにあっても防備の薄い軽装で臨むということだ。多勢を相手に先陣を切って牽制するという危険な役目を、彼女は顔色一つ変えずにこなした。
手傷を負ったのは一度や二度ではない。女の身にして、フランの肌には幾つもの傷跡が刻まれている。剣の傷、棘つきの棍で打ち破られた傷……火傷が特に酷い。火を操る魔将に、左肩から胸元にかけてを焼かれた時のものだ。皮が剥がれ、筋に達する深手だった。折良く巫女が同行していたため一命は取り留め、左腕も損なわなかったが、法力で癒しきれなかった跡が無惨に残った。
キャシアスと巫女はしきりに詫びたものだが、フランは一切の衒いなく笑っていた。
「御役目を果たすために受けた傷です。何を恥じることがありましょう」
フランは揺るがない。自分の身に何があっても。
キャシアスの身の上が真実どれほどおぞましいものであったかを知っても、変わらず、ただ我が主と呼んで寄り添っていてくれる。
では、主君でなくなればどうなるのか。
――これからも、お側に仕えさせてくださいね。
いつであったろうか。酷くのんびりとした、穏やかな日和だった。呆けたような空白にたゆたっていた。フランと話をした。喉から迫り上がった言葉を、腹の奥へ飲み下した。それが今になってもまだ、腸の底で疼く。
我が双眸の奥に在るフランは、変わらず静かな顔をしている。
闇の向こうにいる今の彼女も、恐らくは。
左背面。
ざわりと背筋をくすぐる、音とも呼べない微少な大気の震え。
キャシアスは抜刀した。
左手と腰で鞘引きを効かせ、抜きざま対手の右肩を斬り下げる片手打ち。
背後は一顧だにしない。注意を向けることさえない。
正面から音もなく、地を這う様に疾走してきた矮躯を、ものの見事に迎え討った。
片手業だというのに細い肩は骨を断たれ、肋を裁断して肺を割った。しなやかな四肢がみるみる脱力し頽れる。噴き出た血が草木を汚し、黒土を生暖かいぬかるみに変えていく。
その幻影が夜風に消えると、キャシアスは無造作に刀を納めた。
血ぶりも残心もない。
死人にそんなものは不要だ。
「負けか」
「はい」
キャシアスの脚で大股三歩ほども外れた間に佇み、フランは淡々と頷いた。
フランもやはり死人である。構えもなく無造作にキャシアスへ近寄ってきて、脇の木に突き刺さった短剣を引き抜いた。
フランの衣服の胸元が裂け、ちらちらと肌が覗いている。
キャシアスの打ち込みは完全に間合いを外したはずであったが、フランが瞬間に今一段の踏み込みを見せたため、空を切るはずだった切っ先が彼女を掠めたのだ。
フランは腰を低く落とした疾走から大きく伸び上がりざま、そのばねで左手に持ち替えた短剣を投じていた。
刀が届くのと短剣を擲つのとでは、刀の方が僅かに早かったはずである。しかし、実戦の間合いであればキャシアスの刀は物打ちを外され、勢いの乗らない鍔元近くでフランの肩に受け止められていただろう。それでも利刀と腕力で圧し斬りにすることはできるが、最後に短剣を擲つ一瞬を与えてしまう。
その短剣にしたところで、打ち込みを食らいながら命中させられるかどうかは、フランの腕前であっても五分以下というところか。しかし、
「あたしの申し上げたいこと、お分かり頂けましたか」
「独りで出歩いていた俺は助けを得られず、刺客を打ち倒した後、館へ帰る前に血を流し尽くして野垂れ死ぬな」
つまり刺客の勝利に他ならず、刺客一人にそれほども勝機を与えたのでは話にならない。
「よろしゅうございます」
フランは、ほう、と溜め息をついた。
「これでお分かり頂けない場合は、力いっぱいひっぱたくつもりでした」
「すまん」
「キャシアス様のお考えも分かりますが、今度からはちゃんと、あたしかお祖父様に同道をお申し付け下さいませ。……あたしどもは休息の管理くらい子供の時分から躾けられておりますので、夜だろうとなんだろうと無用なお気遣いは結構です」
「そうする」
どちらからともなく座り込む。
湯を引っ被った様に、二人とも汗にまみれていた。
ごく短時間ではあったが、実戦を想定した立ち合いは疲労が激しい。
特にキャシアスはただでさえ汗をかいた上でのことだから、皮の下からあるだけの水を絞り出されたような気分で、喉がからからに渇いていた。
もうもうと汗の湯気が立ち、空へ登っていくようだった。
水筒を二人で回し飲みして、大きく息をつく。
「……さっきのあれは、枯れ木に仕込みでもしたか」
「はい。木の枝に、落ちていた小枝を糸で結んで、暫くしたらほどけて落ちるように」
「俺が呼ぶ前に?」
「どうせあのようなことになると思っていました」
「……そうか」
「失礼ながら、気を逸らすくらいは出来るかと目論んでおりました」
「見せかけにしたって、フランにしては騒々しすぎだ」
「恐れ入ります」
「斬れたのは服だけか? 怪我はしていないか?」
「心配ご無用です」
「怪我はしたんだな」
「薄皮一枚です、怪我とは言えません。第一、あたしから当たりに行ったんです」
「灯りをつけるぞ」
「……はい」
夜とはいえ歩き慣れた森であるから、夜警に見つからないよう灯を使ってはいなかったものの、一応、ランタンの支度はしてある。また稽古中の事故に備えて傷薬もある。
キャシアスは地面に置いたランタンを手探りで見つけると、火口を使って灯りを点した。外套を敷いて、その上にフランを座らせた。
「服を脱がせるぞ」
断りを入れると、フランは無言で頷いた。
フランに手を触れるのは久しぶりだった。
背に回ってエプロンドレスの紐を解き、首と袖を引いて脱がせていく。分厚い生地の手応えはずしりと重く、どうやら極細の鎖を仕込んだ警護用のものを着込んできたようだ。大きく切り裂いてしまったので、当然、これも修理に出さなくてはならない。かなり手間がかかる品のはずで、ガリオーとネルには少々申し訳なく感じた。肌着のチュニックを捲り上げる。これも裂けていて、小さな血痕がついていた。
ランタンの灯りにぼんやりとフランの肌が揺れる。楚々とした乳房、尖端で色づく蕾も。そして左胸の一部を覆う、突っ張ったような質感の赤黒い肌。大小の創傷痕。真新しい、キャシアスの切っ先が掠めた傷。血が滲み、垂れている。
「っ……」
フランが眼を伏せて、恥じらうように息を殺す。
ぎくりとした。
見慣れた肌だ――遺跡に挑むにあたっては傷の手当てのため、男女の別なく肌を晒し、服を剥ぎ取るのが日常だった。フランの怪我を診たことも、キャシアスの負傷を治療して貰ったことも数え切れないほどある。いや、それだけではなく――
――お忘れください――
胸の奥から迫り上がったものを飲み込む。
飲み下したものが腸でぐるりと蠢く。
押し込めていたものが目覚めたのを感じる。
――傷の手当てをせねば。
キャシアスはその一事に念を凝らして手を動かした。まず水筒の水で手を濯ぎ、清潔な布を使って傷の周りの汗を拭ってから葉に包んだ膏薬を指先で一掬い塗り広げる。「――……っん」フランが、堪えるように小さく呻く。
「痛むか?」
と、覗き込んだフランの顔が真っ赤にのぼせていたので、キャシアスはあからさまに瞠目し、鼓動の跳ね上がるのを抑えられなかった。
「……いいえ」
弱々しく答えるフランの声はどこか湿って、瞳は泣き出す寸前のように揺れている。
キャシアスは手元に取った布に視線を落とした。適度な大きさに切り整えて、傷口へ貼り付けるものだ。揺れる灯りで手元が定まらない。
傷の手当てにはお互い慣れていたはずだ。男女の羞恥を区切って考えられる程度には。そのはずだった――本当にそうだろうか。そう割り切れるものだろうか。遺跡では常に危険に囲まれ逼迫していたし、一日も早くホルムから災いを退けようと急いていたから我慢も効いたが、今は平時で、傷もこうして見ればごく軽く、わざわざフランに肌を晒させる必要もなかったのではないか――
「すまない」
「どうということはありません」
「いや、傷もそうだが……つい、前と同じつもりで肌を晒させてしまった。嫌だったか」
「……お手を煩わせて恐縮だとは思います、けれど……」
フランがますます深く俯く。
「あなたがあたしになさることで、嫌なことなど、ありません」
「……そういう物言いは、慎め」
「……申し訳ありません」
「忠を尽くしてくれるのは、嬉しく思う。けれども、そういう卑下は――」
「卑下なんて」
ようやく傷に布を貼り付け、離れようとするキャシアスの手を、フランが両手で掴み止めた。伏し目がちながらも振り上げた面は痛ましいほど真剣で、視線が吸い込まれる。
「卑下なんて、していません。あたしは誇りを持っています」
「……」
「卑下してらっしゃるのはあなたです、キャシアス様。あなたは必要な方です。この地を守られる方です。居ない方が良いなどと、嘘でも言わないでください」
「……フランに言われたことは心得た。以後改める。しかしフラン、俺がまた新たな災厄の元凶になるかも知れないのは本当だ」
「だとしても、あなたが居れば立ち向かうことができます。あなたが居なければ、きっと別の形で災厄が襲ってきて、その時には為す術がないでしょう」
「持ち上げすぎだ」
「いいえ、現に先の異変がそうだったではありませんか。幾星霜にも渡り、幾人もが災いの元凶に仕立て上げられて来たではありませんか。あなたがいたから、ようやく、打ち破られたのです」
「フラン……」
「あたしは、あなたを信じています。キャシアス様はどうですか。あなたはあたしに信を置いてはくださらないのですか」
「フランを疑ったことなど、あるものか」
「では、信じてください。あなたが信じてくださる、あたしの主を」
真摯に見上げる黒瞳の深さは、吸い込まれそうなほど。
潤み、揺れている。
しなやかで華奢な肩が震えている。
言葉を失うキャシアスに向けて、わななく唇が開き、
「――くしっっ」
顔を脇に打ち振ってくしゃみをした。
昂ぶった血肉の熱が、すっかり夜気に奪い去られてしまったようだ。頬は赤みが引いて青白くなり、全身に鳥肌が立っていた。キャシアスは慌ててフランの服を整え、敷布にしていた外套を振って幾らかでも草の露を払い、有無を言わせずフランに羽織らせた。
「あの、キャシアス様……」
「帰ろう。風邪を引く」
「キャシアス様、冷えますから、上着を――」
「二度は言わないぞ、フラン」
「……失礼いたしました」