ダンジョンに性交を求める眷属の物語 作:kuracjaponski
宿屋の女将がどんどんと部屋の扉を叩いて何かを叫んでいる。ベルはむくりと起き上がり、もうすっかり明るくなっている外を見た。
どうやら自分は宿屋の床に倒れこんだまま眠りについていたらしい。昨日、一体何をしていたのか…。確か自分は可愛い女の子と一緒に部屋に入った筈だ。そこから先の事は、ぼんやりと浮かんでくるだけだった。
(えっと…可愛い女の子にえっちな誘惑をされて…それから…)
「死んでるのか?返事をしろっ!とっくに退出時間は過ぎてるよ!」
「は、はいっ!?」
女将のキンキンした叫び声が、さっさと部屋を出ろと急かしていた。ベルは未だ明かりに慣れない半開きの目で立ち上がった。ふらふらと体が安定しない。硬い床で寝たせいだろうか、体中が痛んだ。扉を開けると、老婆が血相を変えて部屋に乗り込んできた。
「ほら、さっさと出て行きな!こっちは仕事が山積みなんだ」
全身の気だるさが抜けきらないまま階段を降り、宿屋の受付を通り過ぎようとすると、受付の老人男性が眼鏡を拭きながらベルを呼び止めた。
「ゆっくりお休みになれましたかな?ところで、レイト・チェックアウト代金をお支払いがまだです。1万ヴァリスになります」
ベルは渋々と金貨を支払った。これで手持ちのお金が無くなってしまった。それでも心配することはないのだが。
決闘で勝ち得た一億ヴァリスは、未だにギルドの金庫でぴかぴかと眠っているだろう。今まで一度だってそんな大金を持ったことはなかった。オラリオに来てから最初の勝利がこの結果だ。これからは、素晴らしい未来が待っているに違いない!
(一度に本拠に戻って、それからお金を受け取りにいこうかな。それにしても、朝帰りなんて…きっと神様、怒ってるだろうなぁ)
主神ヘスティアには、まだお金の事は黙っていた。毎日必死にバイトをしながら借金の返済を頑張る彼女に、サプライズプレゼントを上げたかったのだ。明るい午後の日差しを浴びながらメイン・ストリートを抜け、本拠として使用している古びた教会の前に立つ。地下への階段を降り始めると、自分の足音以外に聞こえてくる音があった。
本拠に誰かがいるようだ。階段を下りるにつれ、その声の主がはっきりしてきた。どうやら女神様は、今日バイトを休んだらしい。きっとこれからたっぷり叱られるに違いない。
「ベル君!?」
部屋に姿を現したベルに、ヘスティアは涙目で駆け寄り抱きついた。
「ベル君のあほーっ!一体今までどこに行っていたんだい!?ボクは心配で夜も眠れなかったんだぞー!」
「えっと…その、すみませんでした、神様…」
子供のようにベルの胸元をどんどんと叩いてから、ヘスティアはきっと敵意の篭った目つきで、そこにいたもう一人の人物―オッタルを睨んだ。
「これもお前の仕業か、このフレイヤの犬めっ!」
「…貴女には関係のない事だ。俺はただ神意を伝える使いに過ぎん。ベル・クラネル、剣を研ぎ、迷宮へ向かえ。お前が欲する物が、そこにある」
武人はそう言い残して去っていった。ヘスティアは彼の言葉を理解してはいなかったが、ベルは違った。自分の欲する物…それは、一つしかない。アイズ・ヴァレンシュタインだ。決闘に勝利し、彼女を自分の物にする権利を得た今となっては、一秒でも早く勝利の喜びを味わいたい。彼女が迷宮に居るなら、自分も行かなくては。そして宣言するのだ。アイズさん、君の体は、僕のものだと。
「神様…ごめんなさい」
ベルは抱きつく女神を押しのけ、無言のまま冒険用装備を着込んだ。そして、呆然と立ち尽くすヘスティアに言った。
「神様、迷宮に行ってきます…その、帰ってきたら…あ、いえ。なんでもありませんっ!」
そう言ってベルは駆けていった。それまでの大騒ぎとは打って変わって、かび臭い地下室には、女神のぼやきだけが鳴り響いていた。
「まったく、何がどうなってるんだい…」
●
遠征当日。【ロキ・ファミリア】の錚々たる面々は厳しい武器を持ち、絢爛な装備に身を包んで大広間に集まっていた。これから団長の挨拶が始まると言う所で、レフィーヤがその団長に呼び出される。前日の指示通り、先陣部隊に入り込んでいたレフィーヤは、並み居るLv.5以上の幹部達が集まる輪の中に招き入れられた。
皆、彼女を見る目が冷たい。フィンが口を開いた。
「レフィーヤ、君は約束を果たさなかった。貸した金貨の返済期限はもう、過ぎてしまったね」
目を見開いて驚いたレフィーヤは反論する。
「そ、そんなっ!お金はアイズさんに預けたはずですっ!?」
昨日、フィンからの伝言という形でアイズ本人がレフィーヤの金貨を受け取った。レフィーヤは必死にそう説明したが、「本当かい」と訊くフィンに、アイズは首を横に振る。
「それに…レフィーヤ、私の剣を返してくれる?」
アイズは彼女と視線を合わさず、淡々と言った。しかし、レフィーヤにはまったく何の事だか分からない。だから彼女は「剣は借りていませんん」と説明したが、誰も聞き入れる者は居なかった。ここ数日で、自分の評判は地に落ちてしまったと、レフィーヤは痛感する。
「レフィーヤ、お前は一体どうしてしまったんだ。ファミリアのお金も、アイズの剣も受け取っていないというのか?その上毎晩飲んだくれ、挙句の果てには薬にまで手を出しているではないか!」
萎れた様に頭を垂らす彼女に、リヴェリアが声を荒げてから諦めたように言った。
「…結局お前は、私の言う事などまったく聞き入れてくれないと言う訳だな?」
「まぁ待て、リヴェリア」
今すぐにでも裁きを下そうかという王族を、フィンが右手を上げて制する。
「どうも釈然としない。レフィーヤの態度を見れば、嘘をついていない事くらいは分かる。だが、何が起きているかを論理立てて説明することも、推測することも僕には出来ない。手に余る問題だ、ロキを呼ぶ」
「あんな神様呼ぶまでもねぇだろうがよぉ。こいつの悪事は一目瞭然だぜ」
けっ、と吐き捨てるベートを無視し、フィンはガレスにロキを呼んでくるように命じた。
少しの後、部屋に引きこもっていたロキがガレスに引っ張り出されて幹部たちのもとへやって来たが、団員たちの問題には我関せずといった態度で両手を頭の後ろに組み、かすれた音しか出ない口笛を必死に吹こうとしている。
「さて、ロキ。レフィーヤの豹変について、何か知っている事はないか」
フィンに問いただされたロキは細い目でレフィーヤを見つめ、悪そうに微笑んだ。
「さぁなぁ。ウチはなんもしらーん。それより今日、じゃが丸クンペペロンチーノ味の発売日やねん。誰か買うてきてくれへんかなー」
無責任な対応に呆気に取られた団員の前で手をひらひらとさせてから、主神は背を向けてどこかへ歩いて行ってしまった。
「ンー…どうしたものか。まぁいい、レフィーヤ。とにかく規則は規則だ」
「そんな…私は、何もしていないのに…」
レフィーヤは泣きそうだった。
周りに居たアイズやリヴェリアは顔をしかめているし、フィンは優しい眼差しを捨て、冷淡な裁判官のような雰囲気になってしまった。
ベートは相も変わらず心を抉る言葉を吐き続けており、ガレスは無言の沈黙の中、首を左右に振り続けている。遠くでティオナの明るい声が聞こえてくる。いつもならすぐ近くで聞こえていた彼女の能天気な発言も、ここ最近は彼女が意図的にレフィーヤを避けているせいであまり耳にしていないのではないか。レフィーヤは今すぐにでも大声で叫んでしまいたくなった。
「まったくよぉ、どうかしてるぜ。糞エルフ」
ベートの嘲笑の刃がレフィーヤの心を深く抉る。涙が頬を伝い、辛い感情が大きくなって爆発した。
「どうかしてるのは、皆さんの方ではないですか!?アイズさん、私は昨日、しっかりお金を渡しましたよね?しっかり思い出してください!」
怒りを爆発させるレフィーヤに戸惑ったアイズだったが、ゆっくりと静かに呟いた。
「私は…お金なんて貰ってないよ。レフィーヤこそ、私から借りた剣、返してくれないと…」
アイズの言葉には、明らかな非難の色が混じっていた。最愛の友人の冷たい態度に、レフィーヤの感情はさらに暴走する。
「皆さん、一体どうしちゃったんですか!私たち、
悲鳴交じりの叫びが再び大広間に響いた。談笑していた団員達は興味ありげに、何事かと様子を伺い始める。
「アイズさんまで、私のお金を受け取っていないなんて冗談を言うなんて!私はお金も剣も借りていません、誰か信じてください!」
「誰か信じて下さい!…ぷぷっ!」
ベートがレフィーヤの言動をそっくりそのまま真似てみせ、ガレスがそれに釣られてくすりと笑みをこぼした。
「やめろ、ベート。いかなる状況であろうと、団員を辱めるべきではない」
「…五月蝿ぇなぁ、ババァ。おい、糞エルフ。てめーの行いをよーく思い出してみろ。何一つ信頼できる事なんてねぇだろうが?まったくよー、遠征前の雰囲気ぶち壊しだぜ?さっさと認めろっつーの」
ティオネも彼に同調した。するとレフィーヤは一層ひどく、嗚咽交じりに泣き始めた。
「悪いけど、レフィーヤ。最近のあんた、どうも変よ。それじゃ信じろっていう方が、無理よね」
ティオネの後を継ぐように、フィンは大泣きしているレフィーヤを見据えて言う。
「レフィーヤ、これが最後の質問だ。君はお金を借りたかい?」
「うっ…借りてません…でも、お金、返さないとと思って…アイズさんに…」
「アイズ、お金を受け取ったかい?」
アイズは首を振って「剣を貸したけど返して貰ってない」と言った。それを見てレフィーヤは一層酷く泣き喚き始めた。
「…ンー、妙だな。とにかくレフィーヤ、こんな状況じゃ君を遠征に連れて行く訳にはいかない。今回は留守番をしているんだ」
「そ、そんなっ…」
レフィーヤは反論しようとしたが、涙や呻き声が際限無く流れてくるせいで、言葉を発することが出来なかった。
「それじゃあ、この件はここまでだ。遠征前の演説を始める時間だ。団員達を集めてくれ。アイズ、剣の心配はするな。ヘファイストス・ファミリアに不壊属性の武器の予備を借りて来い。馴染まないかもしれないが、当面はそれでどうにかするしかない」
「…うん、わかった」
「おーい」
するとどこからともなく主神であるロキがやってきて、フィンに耳打ちする。
(ハムザっておるやろ?…まぁ何かやらかしたら、大目に見てやってくれへん?)
「ハムザ…?ロキ、どういうことだい?」
フィンの問いには答えず、女神は冗談を言いながら別の団員をからかいに離れていった。
「やれやれ…振り回されるこちらの身にもなって欲しいよ」
それからすぐに幹部達はぞろぞろと動き始め、レフィーヤはその場に取り残された。いつまでも泣き続ける訳にはいかないと思った彼女は、もう不必要になった杖を床に置き去りにし、力なく歩き始め、演説が始まる前に館を出た。
門兵が、一体何事かとぎょっとした顔つきで彼女を見たが、あまりに悲惨な姿に何も言葉を発しなかった。
「総員、よく聞け!これより隊を組み迷宮へと向かう!目指すは未開拓領域でありーー」
フィンの澄んだ声は、青空に消えていった。レフィーヤは黄昏の館を離れ、メイン・ストリートを下って行く。こんな時、一体どうしたらいいのだろうかと彼女は自問した。ファミリアに見捨てられた自分に、行くべき場所などあるのだろうか。ふと、脳裏にハムザの顔が浮かんだ。レフィーヤはくるりと進行方向を変え、彼方にある歓楽街方面へと進みなおした。
●
【テルクシノエ・ファミリア】の本拠では、『ロキ・ファミリア乗っ取り計画』の最終確認が行われていた。
「いいか、お前がアイズに変身する。俺と門まで行って、適当な理由を付けて開けてもらう。中に入ったら女神を見つけて、剣で脅して縛り上げる。なるべく守衛達には見られたくないな、見つかったら、まぁ適当にボコボコにしておけ」
「なるほど。あ、作戦に重大な穴が見つかりましたよ。実はリリ、ロキ・ファミリアのどんな末端兵士よりも弱っちいという事に、今気づきました。それに多分、ハムザさまも」
「んん?お前はともかく、俺はーー」
ハムザを遮って、主神がベッドに横になったまま声を荒げる。急に何かを思い出したようだ。
「おーいリリ!そういえば、昨日取り戻したという金貨はどこにしまったのじゃ!」
栗色の巻き毛を指先で弄りながら、リリは唇を尖らせて小さく悪態を吐いた。
「言う訳ありませんよ、テルクシノエさま。また変な芸術品に使われでもしたら、目も当てられません」
折角元通りになった仲が再び険悪になっては困ると思い、ハムザが会話に割って入る。
「おい、神様。引っ越したらでかい部屋をやるから、そこに何でも飾っておけるぞ。だが今は引越しが先だ。それにリリ、俺はこの彫刻達の良さが、段々分かってきたぞ。女を模った物は、見方によってはそれなりにエロい」
会話が明後日の方向に向かったところで、彼らはもう一度仕切り直す。
「とにかく、やってみれば何とかなる。じゃ、そろそろ準備に取り掛かるぞ、神様」
「あぁ、頑張るのじゃ。帰ってきたら、引っ越し先を決めたいのう。歓楽街も良いが、もう少し芸術の匂いの感じる場所が良い。つまり、森じゃな」
嬉しそうに引っ越し先を妄想する主神をよそに、リリは「本当にやるしかありませんか…」と最後に呟いた。リリとしては、ハムザの作戦がどうも危険に思えて仕方がなかった。彼の言うことなら聞かないわけにはいかないが、それなら他にもやり方があるのではないか。そう言いたい気持ちを押しとどめて、リリはアイズに変身した。
「いつ見ても見事だな」
ハムザに言われたとおり、リリは見事にアイズと瓜二つの姿になっていた。
「それでは、我が軍。装備を整えよ、ロキ・ファミリア乗っ取り作戦を開始するために、準備を怠るな!」
その瞬間、テントの入り口からレフィーヤが顔を覗かせた。驚きの交じった目で、遠征に出発したはずの、ここにいるはずのないアイズを捉えた。テントの外で入るか入らないかと二の足を踏んでいたレフィーヤは、不運にも全てを聞いていたのだ。
「あなた達…本当に?」
「やべっ…どうしてお前がここに?遠征はどうなった?どこから聞いていた?」
ハムザを無視し、レフィーヤは静かに震え始めた。
「私を…騙していたの?貴女、アイズさんじゃない…リリルカ・アーデですね?」
ハムザが言った。
「おい、リリどうにかしろ。あ、違う。リリじゃなくて、アイズだったな、今は…」
やれやれ、とため息を吐いたリリは胸を張って言う。
「ハムザさま…私はこうなる予感がしていましたよ?それも、最初の最初からです」
そしてレフィーヤの怒りは爆発した。魔力が迸り、テントがびりびりと震える。
「私を騙しましたね!?あなた達のお陰で、私はっ…私はっ!!」
「落ち着け、レフィーヤ。落ち着くんだ」
振動はさらに強くなっていった。紅茶のカップがカタカタと揺れ、机に転がっていた丸鉛筆がひとりでに絨毯の上に転がり落ちた。
「黙りなさいっ!許さない、絶対に許しません…!」
そして怒りに震えるレフィーヤは詠唱を開始した。怪物共を焼き払う、本物の詠唱だった。冒険者としての、魔導士としての誇りを懸けて、全身全霊の魔力を注ぎ込み打ち出す本気の魔法だった。
『――誇り高き戦士よ、森の射手隊よ…』
ぎょっとしたハムザは叫んだ。
「おい、こいつ詠唱始めたぞ!逃げろっ!!」
ハムザとリリは駆け出した。それをレフィーヤは追いかけていく。怒りに支配されたレフィーヤだったが、詠唱を始めた途端に不思議と平静さを取り戻していた。
(そうよ…この蛮族達を、しっかり焼き払わないと…今なら絶対に出来る筈っ…!)
『――押し寄せる略奪者を前に弓を取れ。同胞の声に応え、矢を番えよ』
歓楽街の入り組んだ小道を抜け、メイン・ストリートを走る二人を追いかける。ハムザが途に転がる小石を掴んでは、レフィーヤ目掛けて投げつけていく。しかしレフィーヤは完全に軌道を見切り、全ての攻撃を機敏な動きでかわしていく。
『――帯びよ炎、森の灯火。撃ち放て、妖精の火矢。 雨の如く降りそそぎ、蛮族どもを焼き払え…』
「リリは蛮族の一味ではありません!」
そう叫びながら、リリも投石に加わった。降り注ぐ小石の雨を掻い潜り、逃げる獲物を追いかけながら、レフィーヤは心一つ乱さぬ不動の心で詠唱を完成させた。
「リリ、来るぞ、何でもいいから障害物の陰に隠れるんだ!!」
「わ、わかりましたっ!?」
(無駄よ…燃え尽きなさいっ!!)
『ヒュゼレイド・ファラーリカ!!』
レフィーヤの広域炎属性魔法がメイン・ストリートに放たれた。道を行く人々は驚いて飛び退いた。ハムザとリリも噴水の陰に隠れる事で、何とか事なきを得る。しかし爆風は人々や露店を吹き飛ばし、周囲にあったあらゆる物を燃やしてしまった。
『『おい、あれロキ・ファミリアだぜ!』』
『『どうして俺達を攻撃してるんだ!?』』
メイン・ストリート界隈の住民達は叫び声をあげ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
(くぅっ…杖が無いせいで、威力が随分足りないですね…)
レフィーヤはその中に居る二人をしっかりと目視してから、両目を閉じて魔力を装填する。その距離は50Mほど離れているが、問題はない。
(広域魔法を選んだのは失敗でした…住民に攻撃をしてはまずいですよね)
かっと目を見開き、両手を掲げて詠唱を開始した。
『――解き放つ一条の光、聖木の弓幹』
「第二派来るぞっ!急げっ!」
ハムザはリリを引っ張りながら、訳も分からず走り続けていた。正面に、バベルが見えてきた。詠唱しながらぴったりと後ろについてくる怒れる魔導士に冷や汗を流しながら、彼は必死に考えた。ギルドへ飛び込んでしまえば手出しはできないだろうか?いや、今のレフィーヤならギルドなどものともせず焼き尽くすだろう。このまま逃げ続けても埒があかない。攻撃してみるべきか。
ハムザはリリを引っ張って狭い小路に入り込み、剣を構えようとしたが、丸腰だったおとに気が付いた。その瞬間、レフィーヤの姿が視界に入ったので、ハムザは思い切って彼女に飛び掛った。
『――汝、弓の名手なり…』
さっと体を反転させ、レフィーヤはハムザのタックルを避けた。そして体勢の崩れたところへ強烈な蹴りを食らわせる。
「ぐえっ…!」
地面を数十メートル程転がりながら、ハムザは血を吐いて立ち上がった。リリが青ざめた顔つきで駆け寄って来る。
「大丈夫ですか!?」
「ぐ…強い。逃げろ、殺される」
二人は慌てて走り去っていく。怒れるエルフの少女は彼らを追いかけながら、三度目の詠唱を完成させるために言葉を紡ぐ。
『――狙撃せよ、妖精の射手。穿て、必中の矢』
「避けろおおおおっ!」
必死の叫びを、レフィーヤの詠唱が掻き消した。
「アルクス・レイ!!!」
轟音と共に魔力が解放され、複数の光の矢がハムザ目掛けて飛んでいく。一瞬のうちに矢はハムザに着弾し、石畳と共に弾け飛んだ。あまりの衝撃に驚いて、オレンジ色の屋根からばさばさと鳩の群れが飛び去って行った。道路沿いに住む人々が何事かと窓から顔を覗かせている。彼らの視線が、次第に霧散していく粉塵の中に倒れ込んでいる男に集まった。
「ハムザさま!?」
リリはまだ脈があることを確認し、緊急用の回復薬を浴びせる。すると冷酷な魔導士が背後から近づいてくる音が聞こえてきた。
「助けないでくれませんか?お願いです、貴女にまで危害を加えたくはないんです」
まるで別人のようになったレフィーヤを前に、リリはたじろいだ。いっそのこと投降してしまおうか。洗いざらい話してしまえば、命くらいは助けてもらえるかも知れない。
湧き上がった逃げの思考に、そっとリリは蓋をした。
(…いけませんね、リリはもうテルクシノエ・ファミリアの団員なんですから)
意を決して、握り締めていた煙幕玉を地面に投げつけた。途端に煙が立ち上り、辺りは再び土埃と煙幕が充満するが…。
「小細工、ですね…」
レフィーヤは冷静だった。目が見えなくなっても、耳は聞こえる。走る足音に耳を澄ませれば、彼らの行く方向など直ぐに分かるのだ。
(この方向は…ダンジョン?好都合です)
レフィーヤは煙幕の中を走り抜け、二人の蛮族を追ってダンジョンへと走っていった。
●
迷宮を彷徨いながら、ベル・クラネルは異様な静けさに首を傾げていた。軽装甲の防具を纏い、神様に貰った《ヘスティア・ナイフ》を片手に握りしめ、ベルはダンジョン5階層まで進出していた。腰には昨日奪い取った、アイズ・ヴァレンシュタインの愛剣も差している。
準備は万端だったはずだ。だが、あまりに少ないモンスター。不気味な空気に、冷や汗が全身から溢れ出ている。手汗がひどく、柄を握る手を何度も何度もズボンで拭きなおしていた。以前にも、このような状況を体験した事があった。オッタルはこの事を予見していたのだろうか?
『ベル・クラネルよ、迷宮に行け。そこにお前の求める物がある』
彼は低い声を響かせて、そう言っていた。求める物とは、麗しの剣士の事ではなかったのだろうか?何故なら、決闘に勝利することで得たアイズ・ヴァレンシュタインとの性的行為を営む権利を行使することこそ、ベルの求めることだったのだ。
だが、美麗な金色の剣士はどこにもいない。…何かが間違ってしまったのだろうか?
「いや、まだ分からない…」
ベルは静かな5階層を奥へと進んで行く。モンスターの遠吠えも、他の冒険者の剣戟も聞こえない。存在するのは、砂利の上を歩いて行く自分の足音だけだった。目の前に巨大な広間が見えてきた。そこに足を踏み入れると、ふと、空気が変わった気がした。
――何かがいる。
そして息を吸いこむような音の後、聞き覚えのある悍ましい咆哮がベルの全身にぶつかった。
『『ヴモオオオオオオオオオオオオオオッ!』』
「っっ!!?」
その牛の怪物は通常の二倍はあろうかと思われる程大きく、異常な事に、武器を…大剣を携えている。
(ミノタウロス…なんでまた5階層に!?)
いつの間にか砂利の上にへたり込んでしまっていたベルは、手足を動かそうとするも体が言う事を聞かない。ずしん、ずしんと怪物の足音が鳴り響く。逃げろ、と全神経が全力で警鐘を鳴らすも、地面を這って進むのがやっとだった。
「こ、こんな筈じゃ…」
絶望の呟きは、二度目の咆哮にかき消された。
(――こんな物、僕は求めていなかったのに)
●
レフィーヤの怒りの炎は、迷宮に入った途端さらに大きく燃え上がっていた。ここには彼女を阻む物などない。傷つけてはならない市民もいないし、壊してはいけない物もない。大量の魔力を注ぎ込んで、彼女は魔法を発射した。
「ヒュゼレイド・ファラーリカ!!」
豪炎が通路を埋め尽くしながら、数十メートル先の二人目掛けて驀進する。彼らは間一髪のところで曲がり角に飛び込んだ。
(避けられた…)
三人の追いかけっこは、5階層まで続いていた。時折襲い掛かってくる小型の怪物達をあしらいながら、並行詠唱を完成させ続けること十数回。杖を持たないレフィーヤの魔法は、彼らを葬り去るには十分な威力を持たなかったようだ。
単純に面と向き合って戦闘が出来れば、いつの間にか並行詠唱をものしていたレフィーヤにとって、彼らは取るに足らない相手だろう。思い出したかのように行われる反撃も怖くはない。ただ、ダンジョンの地理を完全に把握し逃げる二人を追い詰めるのは、思いのほか至難だった。
厄介なのは、煙幕を張った後のボウガンによる遠距離攻撃だった。流石のレフィーヤも視界を絶たれてからの遠距離攻撃には業を煮やすほかない。その度に足止めされ、距離を開けられる。ステイタスの差により、単純な速度勝負ならばレフィーヤの圧勝だ。だが、敵は三叉路等の分岐点に必ず煙幕を張ったり、道を進んだと思わせておいて実は引き返していたりと、なるほど逃走には慣れているということは、認めざるを得ない。
そしてこの時もまた、煙幕を前にレフィーヤは標的を見失った。焦りを抑え、冷静さを失わない様に目を閉じ、耳を澄ませる。Lv.3の聴覚であらゆる物音を拾うためだ。2時の方向から風切り音が聞こえる。すっと体を動かして、放たれた矢を回避する。二人分の足音が南東の広間へ向かっている事を確認し、レフィーヤは駆けだした。
「絶対に追い詰めて見せますっ…アイズさんのためにも、ファミリアのためにも、蛮族は今ここで討ち取っておかないと」
「矢弾、煙幕共に尽きましたっ!応戦するほかありませんっ!」
「くそ、足も速い、魔力は底なしだ、おまけに並行詠唱があるせいで迂闊に接近戦にも持ち込めない。あんな化物、どうやってやっつけたらいいんだ?」
「逃げ続けても埒があきませんし、ここから先はモンスターによる妨害も厄介です。それにリリはもう種切れです。危険を伴いますが…正面からぶつかってみましょう!」
そう言ってリリは正面の広間へ飛び込んだ。すると、暗闇の奥で何かが蠢いている事に気づく。あれは…大剣?冒険者だ。
丁度いい、とリリはその影に近づいた。そしてリリの顔から血の気が失せていく。
(冒険者、じゃない…!ミノタウロスっ!!?どうしてここにっ!?)
牛の怪物は今まさに少年を粉砕するために、大剣を掲げ上げていた。邪魔が入った事に苛立ちを覚えたのだろうか。怪物は標的を変更し、持ち上げた大剣をリリへと振り下ろした。
(あっ…死んだ)
走馬燈が見える。お父さん、お母さんが笑っている。思えば、供養もしてやってない。母親は強姦された挙句、奴隷として死んだようだ。父親は…どうせダンジョンで怪物に喰い殺されたには違いないが、手向けの花くらいはどこかに飾ってやるべきだっただろうか?それに優しいお爺さんとお婆さんにも、まだ顔すら合わせていないではないか。彼らはリリを許してくれた。その上、修繕費にとこっそり置いてきた金貨ですら、リリに返してしまった。残念だ。せっかくの厚意を無駄にしてしまった。リリはもう、死んで――。
「避けろ、馬鹿っ!」
ハムザがリリに突進した。怪物が悍ましい表情をさらにひどく歪めた。
振り下ろされた大剣は地面を破砕したが、肉を捻り潰した手応えがなかったからだ。
そして巨大なミノタウロスは、地面に倒れて血を流すハムザを睨みつけて低く唸る。
「牛が、図に乗るなよ」
立ち上がったハムザの右肩から、どろりとしたどす黒い血がどくどくと流れ落ちていた。それにも関わらず、彼は怪物と正面から対峙して、果敢にも戦闘態勢を取る。
「リリ、喜べ。今夜は細切れ牛のハンバーグだ」
『ヴヌゥウウンッ!』
ミノタウロスが振り下ろす大剣と激突し、周囲に弾けた衝撃派が広間を震わせた。
死を覚悟していたベルは九死に一生を得た事にすっかり安堵し、ミノタウロスの
「立って!助けを呼びにいきますよっ!」
リリは少年に声を掛けるも、彼ははっきりしない態度で歯切れ悪く言った。
「あの…あなたが倒した方がはやいんじゃあ…?」
「倒せる訳ないですっ!?ほら、さっさと立って下さい!ハムザさまが時間を稼いでいる間に、レフィーヤ様を見つけて救援を要請しましょうっ!」
ベルは訳が分からず困惑していたが、彼女に付き従って通路を走って行った。
武器も鎧もない、丸腰のハムザを残してしまった罪悪感に、ベルは一度だけ後ろを振り返った。しかし、そこには粉塵が舞い上がる他には、何も見えなかった。
●
「そこをどいてくれるかい?オッタル」
遠征に出発したロキ・ファミリアの先発隊は、ダンジョン4階層でオッタルに足止めされていた。【フレイヤ・ファミリア】の最強戦力、オラリオ屈指のLv.7を前に、流石の百戦錬磨の冒険者達も息を呑みながら武器を構えている。
「無駄な戦闘は極力避けたいんだ。どんな理由かは知らないけれど、出来れば君と今ここで争いたくはない」
フィンは逸る団員達を抑えながら、オッタルに問いかけ続けていた。対する武人は無言のまま仁王立ちを続け、5階層への階段を塞いでいた。
「…言った筈だ。通しはせん。お前たちはここでその時を待つ外ない」
「もう、さっさと片づけちゃいませんか?団長、あたしの愛の力、お見せします」
ティオネが前に出た。フィンはもう止めることは出来ないかと思い、やれやれと首を振ってから、自らも得物を構えた。
「…悪いけど、オッタル。僕らは急いでる。そこをどくつもりがないのなら、無理やりにでも――」
その瞬間、5階層からベルと共に階段を上がってきたリリが叫んだ。
「た、助けて下さいっ!ミノタウロスが、ミノタウロスが出て…っ!」
『『『!?』』』
全員がリリを見て驚愕した。歴戦のオッタルでさえ大きく口を開け、瞠目して固まった。しーん、と不自然な空気が流れる。リリは意味不明な彼らの驚愕に、ただ「?」と怪訝な表情を作るだけだった。
「えーと…」
ティオナが恐る恐る呟いた。
「あたし、目がおかしくなっちゃったかなー…。アイズが二人いるように見えるんだけど」
全員は隊の中にいるアイズを見た。金髪の剣士は、目を白黒させて棒立ちしている。
(あっ…そういえば、今のリリって、アイズ様の姿なんでしたっけ…?)
リリはレフィーヤとの逃走劇のお陰で、すっかり変身していた事を忘れてしまっていた。
「アイズ、いつの間に二人に分裂出来るようになったんだい?」
「団長さんよぉ、普通に考えれば分かるだろうが。双子だろ!」
「いや――」
濃緑色のローブに身を包んだリヴェリアが、瞑目しながらつぶやいた。
「変身魔法かも知れん」
リヴェリアの発言に、場にいる全員が驚いて王族を見る。すらすらと淀みなくリヴェリアは続けていった。
「少し前に魔法書で読んだ覚えがある。希少性は高いが昔から変身魔法は存在するらしいな。それでお前、何者だ?」
「え、えーっと…話は後です。とにかく、ミノタウロスが出たんです!助けて下さいっ!?」
【ロキ・ファミリア】の集団は、棒立ちするオッタルの脇をすり抜けて階段を駆け下りていった。彼らが去った後、そこにはベルとオッタルだけが残された。オッタルはロキ・ファミリアの足止めも忘れて棒立ちをしていたが、やがてくるりと向きを変え、ベルに問いかける。
「…一体、何がどうなっているのだ…?」
「え、えーっと…僕もまったく、わかりません…?」
「それよりも、怪物はどうした?」
オッタルとはとても目を合わせられなかったベルは俯きながら、気まずそうに応えた。
「えっと…ハムザさんが来て、助けてくれたので…。逃げてきました」
オッタルは頭を抱えた。とにかく成り行きを見届けるために、二人は階段を下りてミノタウロスのもとへと向かって行った。
「おいおい、マジかよ。あの糞ミノタウロス、何でこんなところに居やがんだ?」
「いや、それよりもあの冒険者、確かまだLv.1だった筈だけど…」
一足先に広間に着いたベートとフィンは、ミノタウロスとの戦闘を続けるハムザを見つけた。
それから少しの間をおいてから、リヴェリア、ティオナ、ティオネ、そしてアイズが到着する。遅れてベルとオッタルもその場に着いた。
ミノタウロスとの戦闘を続けながら、ハムザはギャラリーが増えていることに気づいていた。右肩に受けた傷がズキズキと痛んだ。振り下ろされた大剣を横っ飛びで回避し、彼は怪物と距離を取った。ミノタウロスもまたハムザから受けた傷で血を流しているが、戦闘不能まではまだ遠い。雄牛は低い呻き声を出してから、広間をビリビリと痺れさせる程の大音響で咆哮した。
『ヴモオオオオォオオオオオオオオオォッ!!!』
衝撃波を受けたベルは、あまりの迫力に腰が抜けてぺたりと座り込んだ。しかし周囲にいる歴戦の強者達は、顔色一つ変えずに戦況を見つめている。
「ねぇ、なんであの人Lv.1なのにリストレイトしないんだろうね?」
「変ね。闘い方もまるで雑だけど、まだ余裕って感じだわ。でも、なんで丸腰なのかしら?」
アマゾネスの姉妹の分析に、リヴェリアはただただ口を閉ざすばかりだった。認めたくはないが、明らかに器の昇華を済ませている。酒場で出会ってからまだ二週間程だと言うのに、一体どうやって…。スキルのせいなのだろうか?悩むリヴェリアのよそに、ベートが口を開いた。
「おい、ありゃどうみてもLv.2だろうが。一体誰が偽情報を広めたっつーんだよ?」
「…ハムザは、まだLv.1だよ。私、彼のステイタスを見たから、知ってる…」
アイズはそう呟いて、拳をぎゅっと握った。
「一応…他のパーティが戦闘中なのだから、救援が出るまでは干渉はご法度ではあるけど…」
フィンは奇妙な状況に首を捻って顔をしかめた。
「今のところ助けが必要なようには、どうも見えないな」
フィンの隣に立つリリも、一体自分がどうして助けを呼びに行ったのか、よく分からなかった。ちゃんと考えてみれば、魔法を使えば一発で勝てるのではないか…。
『ヴウウウウゥゥゥゥ…』
怪物と対峙しながら、ハムザは忌まわしそうに舌を鳴らしていた。武器さえあれば、こんな牛など夕食のチキンを捌くよりも簡単に片づけてしまっていただろう。しかし、不運なことに、今の自分は丸腰だ。出来る攻撃はパンチとキックだけ。何とも原始的な冒険者がいたものだ。
(そもそも、武器を持たない奴を冒険者と言えるのか…?)
鼻息を荒くして剣を振り回す怪物の攻撃をひらりひらりと避けながら、ハムザはくだらないことを考え始めていた。魔法を使ってしまえばこれが一瞬で終わるだろうことを、何となく理解していたからかも知れない。
ハムザの弛緩した空気に腹を立てたのか興を削がれたのか、ミノタウロスは紅の瞳を不気味に光らせて、くるりと背を向けた。
「…?」
広間に居た全員が目を疑った。
ミノタウロスが大剣を振り下ろしたのは、人の二倍ほどある大岩。大きな石礫が飛び散り、粉塵が舞い上がる。そして、蒼白になったレフィーヤがその煙の中から這い出してきた。
「なんだ、いたのか?レフィーヤ」
ハムザが遠くからレフィーヤに声を掛けた瞬間、リリの叫び声が広間に響いた。
「いけませんっ…!ハムザさまっ――」
その瞬間、ミノタウロスは大剣をレフィーヤに振り下ろしていた。不意を衝かれたレフィーヤは一瞬だけ硬直し、そしてその一瞬が命取りになった。
(間に合わないっ…!?)
レフィーヤ本人も含め、そこにいた全員がそう思ったに違いない。様子を見守っていた【ロキ・ファミリア】の幹部たちの初動が、僅か一瞬だけ遅れていた。岩陰から急に現れたレフィーヤに驚いたことだけでなく、数日のうちにすっかり変わってしまったエルフの少女の行動を思い出したことで、ほんの一瞬だけ彼らの判断が遅れた。
怪物が振り下ろした大剣はレフィーヤの居た地面を抉った。しかし、ミノタウロスはまたしても辛酸を舐めさせられる。ハムザが間一髪のところでレフィーヤに飛び掛かり、彼女を危機から救い出していた。
「ほれ、ほれ。的はここだぞ。しっかり狙えよ、雄牛アル・バカラ」
「ち、ちょっと、ふざけないで下さいっ…」
ハムザはレフィーヤを背後から抱え上げ、ミノタウロスがしっかりと彼女を狙えるように両手を広げさせてアピールした。
「いやっ…放してっ」
もぞもぞと動くレフィーヤをハムザは力で押さえつけている。その奇妙な様子にアイズが口を開く。
「助けた方が、いいのかな…?」
「いや…」
フィンは親指を一瞥してから言った。
「その必要は、ないだろう」
「あははっ。レフィーヤったら、本気で逃げる気ないよねー?あの冒険者のこと、好きなのかなぁ?」
ティオナの何気ない一言に、リヴェリアはぎょっとして固まった。
「まさか…そんな筈は…レフィーヤ、お前まで…」
『ヴヌゥゥゥゥゥゥン...』
ミノタウロスは唸り、角を突き出して突進の構えを取った。対するハムザはレフィーヤを後ろから抱えたまま微動だにせず佇んでいる。
「あいつら、馬鹿か!?死ぬぞ」
ハムザのおふざけに対し呆れかえっている【ロキ・ファミリア】の中で、いち早くベートが銀靴を鳴らしてミノタウロスに飛び掛かろうとした。しかしベートは踏みとどまる。ハムザがレフィーヤの後ろから片手を突き出し、『魔法』を行使する様子を見せたからだった。
顔をしかめながら、ベートは『冒険者達の暗黙の了解』を思い出していた。他パーティの戦闘には、原則的に不干渉を貫くこと…。
(あァ?…マジで何なんだぁ?)
直後、弾丸の様に体を丸めた雄牛は、前方のハムザに向けて突進した。凄まじい筋肉の爆発に、地面が砕け散る。それでもハムザは飛び退かない。両者の距離がみるみる縮まっていく。そして激突しようかという所で、ハムザは叫んだ。
『イェベン・ティ・マーテル!』
突進する雄牛とすれ違うように、ハムザはレフィーヤを抱えて真横に回避した。ミノタウロスはどす黒い魔力の粒子に包まれ、そのままバランスを崩し、力なく地面に倒れこんだ。
『………??』
どしんと大きな音を立てて突っ伏すミノタウロスを前に、【ロキ・ファミリア】も、ベルもオッタルも、皆が首を傾げた。そして、すぐにリリの歓声が沈黙を破る。
「ハムザさま!さすがです!あんな怪物でも一撃で倒せてしまうんですね!リリは感激しました!」
ハムザに駆け寄ってリリは小型ナイフを手渡した。そしてミノタウロスは身動き一つしないまま、ハムザにナイフを突き立てられ、体内の魔石を砕かれ灰と化す。
消失していくミノタウロスだった灰を眺めながら、居合わせたもの達は言葉を失っているばかりだった。
「…なに、いまの…?」
「急にミノタウロスが…眠った?」
アイズは瞠目しながらハムザを見つめていた。あれには見覚えがあった。自分を包んだ黒い粒子。そうだ、あれはーー。
「呪詛だ。強制的に精神疲弊を引き起こす」
「えーっ!?そんなの反則だよ!」
リヴェリアの説明に双子の妹が騒ぎ始めた。ベートは舌を鳴らしてそっぽを向く。フィンは柔らかな微笑みを湛えている。そして、アイズは…。ハムザに近づいて、優しい口調で言った。
「…ミノタウロスを、倒せたの?凄いね…」
「お、おう。まぁ余裕だな。肩の傷がなければ魔法すら使う必要なかったんだが。それに武器も防具もないんじゃあ、さすがにな」
依然として【ロキ・ファミリア】の集団はざわついている。双子の姉の非難がましい声が聞こえてきた。
「…めちゃくちゃね。Lv.1の冒険者がミノタウロスをあっさり倒しちゃうなんて。ちょっとおかしいんじゃない」
ティオネに皆がうんうんと頷いた。とてつもない偉業を見せ付けられた…と言うよりも、反則的な何かを目撃した。そんな空気に包まれていた。
アイズの胸のふくらみにいやらしい笑みを向けてから、ハムザはギャラリーに向かって高らかに宣言した。
「俺はもう、Lv.1ではない。昨日ランクアップしたばかりだ」
そしてリヴェリアに、格別のいやらしい笑みを向ける。
「約束は、覚えているな?」
そっぽを向いたリヴェリアはハムザの視線を避けながら苦しそうに俯いて、杖をぎゅっと握りしめた。
「…適当なことを言うな。皆、行こう。この者とは関わるだけ無駄だ」
そんな彼女を遮って、フィンが前に出る。このまま場を離れてしまっては、知るべきことも知らずに終わる。解き明かさなければならない真実が、今深淵から顔を覗かせてこちらの様子を伺っているのだから。
「まぁ待て、リヴェリア」
「それとそこのアイズ、こっちに…いや、お前は本物だろう。そっちのアイズ、つまり変身魔法が使える方のアイズ…こっちに来てくれ」
かの勇者ブレイバーに言われたので、リリは前に出てハムザと並んだ。そのすぐ隣にレフィーヤがやって来てきっとハムザを睨んだが、随分と力のないひと睨みだった。レフィーヤの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいたからだ。助けられたことを嬉しく思うべきなのか、騙されたことを憎むべきなのか…レフィーヤは測りかねているようだった。
「はっきりさせておきたい事があるんだ。偽者のアイズさん…こんな事があるなんてとても信じられないが、一体君は誰なんだい?」
リリはちらりとハムザを盗み見た。彼が頷いた気がしたので、リリは全てを白状するために変身を解く。
「…響く十二時のお告げ」
一瞬にして、リリはリリの姿に戻った。そして周囲がどよめく。
「なるほど…驚いた。確かに、変身魔法という訳か。見たところ君は、テルクシノエ・ファミリアの団員だね?」
「はい、そうです…」
リリはしょぼくれて頷いた。敗北を認めたくはなかったが、もう言い逃れできる状況ではない。万策尽きたとは、まさにこの状況を差すのだろう。自分が白状しなくても、どうせレフィーヤに全てをばらされてしまうに違いないのだから。
「そ、そうですっ!」
するとレフィーヤが叫んだ。
「この蛮族達は、変身魔法を使って私を騙し、あわよくばロキ・ファミリアを乗っ取ろうと画策していたんです!」
レフィーヤの悲壮な叫び声のあと、笑い声が響いた。
「なんだって?ははは。レフィーヤ、それは無理だろう」
フィンのそれは、苦笑いのようでもあった。
「いくら変身できたとしても、主神を討ち取るのは不可能だよ。ロキの部屋を守るために、特別な魔法がいくつも施されているからだ。それを破るには、リヴェリアのような魔導士を5人は集めてくる必要があるだろう。そうでもしないと、安心して遠征にすら行けないからさ」
「そんな情報は、僕らの遠征の日程を聞き出すよりも遥かに簡単に手に入るくらい有名な話だと思ったんだけど…ね」
「言ってやるな、フィン。きっとその男は少しだけ知能が足りないのだ。装備を忘れて迷宮に潜るくらい、おめでたい頭を持っているようだからな」
がっくりと項垂れたハムザには、リヴェリアの辛辣な言葉も頭に入って来なかった。頭の中では、完璧な計画が崩れていく音が聞こえていたからだ。
「それよりも、レフィーヤ。一体君はどうしてあんなところに隠れていたんだい?」
フィンは眉をひそめてレフィーヤに問う。その問いに、好機と見計らったハムザが口を挟む。
「なに、こいつは俺たちが牛に喰われてしまえばいいと祈りながら、隠れて戦闘を覗き見ていたのだ。何故ならこの不埒なエルフは――」
言い終わらないうちに、フィンがハムザを遮った。随分と厳しい顔つきだ。
「ハムザ、君の発言は、今のところは聞くつもりはない。口は禍いの元、さ。大人しく閉ざしている方が、君のためかと思うけどね」
余計な事を喋れば容赦はしないと暗に示すフィンの威圧感に、ハムザは気圧されて黙りこくった。小さな優男のようかと思えば、とんだ食わせ物だと心の中で愚痴をこぼしながら。
背筋をまっすぐ伸ばして見上げる団長の凛々しい姿にたじろぎながらも、レフィーヤは小さく背を丸めながらおずおずと口を開いた。
「えぇっと…先ほども言いましたけど、この人は私達のファミリアを狙っていました。その計画を知った私は、街中から彼らを追いかけました。ダンジョンに逃げ込まれ、5階層まで潜られてしまいましたが、回り込んで待ち構えていた広間でそこの冒険者がミノタウロスに襲われているのを見つけて、その、助けようとしたんです」
全員がそこの冒険者、ベル・クラネルを一瞥した。ベルはぶるっと身震いしてから、内股になり両手で股間の辺りを隠した。
「そうしたら、間髪開けずにアイズさんに変身したその人が、広間に飛び込んできたんです。ミノタウロスは標的を彼女に変え、ハムザが彼女を守りました。ハムザとミノタウロスが戦闘を始めたら、そこの二人は救援を探しにどこかへ行ってしまいました。ですので…私は岩陰に隠れて、戦闘の様子を見ていたんです」
「なるほど」
フィンが手を顎に当てながら頷いた。
「君たち三人が武器も持たずに迷宮に潜り込んだのには、そんな理由があった訳だ。何となく、全貌が見えてきた」
変身を解いたリリを興味ありげに見つめて、フィンはおかしそうな口調で質問を始める。
「どうか正直に答えてほしい。君はレフィーヤに化けて、僕から金貨を受け取ったことを覚えているね?」
「はい…」
「それで合点がいった、全て君の仕業だ」
フィンは他の団員に、愉快だろうと言いたげな笑みを送る。大勢が呆れかえっているだけの中、フィンの思考は誰よりも先を見通していた。
「アイズに変身して、レフィーヤから金貨を受け取ったのも君だ。そしてレフィーヤに変身してアイズから剣を借りたのも君だ。そしてそのどちらも返していない。恐らくレフィーヤの評判を下げ、そちら側に引き込もうとしたのだろう。だが、結果的に失敗に終わった。どのように計画が破綻したのかは知らないが…脇が、甘かったのだろう」
「変身魔法があれば簡単に本拠に出入りが出来たはずだし、僕以外にも、騙された人は多かった筈だ。そして、オッタルがわざわざ僕らを4階層で足止めしようとしていたのは、このミノタウロスと関りがある。そうだろう?」
オッタルは無言のまま、口端を下げて首を横に振った。
「…俺は何も言うまい」
「それならそれでいい。君たちの謀は、どうせ僕らには関りのないことだ」
そう言ってフィンはちらりとベルを見た。小さく縮こまった彼は、まるで追い詰められた兎のように哀れな姿だった。
「でも、それならさー」
ティオネはフィンが言った内容を正確にまとめてみせた。
「結局レフィーヤは、悪くなかったってことだよね?」
「あぁ、そういうことになるだろう」
一同は気まずそうに俯いて、各々の装備を確かめるような仕草をしながらはぐらかしていた。皆がレフィーヤに対し、不当な暴言を吐いたり冷たい態度を取ってしまっていたことを、今になって後悔しているようだった。
「だが、まだ全てが分かった訳ではない。済まないが、リリルカさん。君たちが知っていることを、全て話して貰えないだろうか?」
「わかりました」
ハムザの了解も得ず、リリは頷いた。こういう場合、相手がこちらの悪事を受け入れる準備が出来ていると分かったら、洗いざらい吐いてしまった方が得策だと思ったからだった。
迷宮の静寂の中、リリは全てを白状した。ハムザの計画で【ロキ・ファミリア】を乗っ取るため、アイズに変身してレフィーヤを手籠めにしようとしたこと。すっかり信じ込んだレフィーヤをハムザが連れまわし、強くなるためだと言って卑猥な訓練をさせていたこと。訓練の一環で、ハムザはレフィーヤの道徳観念を覆そうとしていたこと。お酒や煙草など、今まで触れるのも嫌がっていた物に触れさせることで、レフィーヤの器が昇華するに違いないと信じさせようとしたこと。
「フィン様の推論は、全て的を得ていました。リリは驚きました」
変身魔法を駆使して【ロキ・ファミリア】をかき乱し、評判を落とした頃合いを見計らってレフィーヤを引き抜こうとしたことも、リリは説明した。遠征に行く【ロキ・ファミリア】の留守を狙い、主神であるロキの命を狙おうとしていたことも。
全て洗いざらい白状した後、リリはぽつりと付け加えた。
「…それでも、きっと最後はこうなるだろうって、リリは思っていました」
言い終えた後、リリがすっきりした表情をしているのに対し、ハムザはやや不機嫌そうだった。計画がこのような結果を招くとは、想像もしていないことだったのだ。フィンはおかしそうに微笑みながら、一同に視線を送った。殆どの団員達が、すべての元凶であるハムザを憎々し気に見つめている。ファミリアをかき乱したこの男を、出来れば許したくないようだった。
「さて、リリルカさんが僕から迷宮翡翠玉を受け取ったのであれば、その分のお金は返してもらわないといけないね」
「実は…その件ですが」
申し訳なさそうに俯いて、上目遣いのリリは憐れみを誘う口調で話す。
「か弱いリリは、自分を強く見せるために一度だけハムザさまに変身しました。その時、そこにいる卑劣漢ベル・クラネルにいきなり襲われてしまい、残念なことに金貨を奪われてしまいました」
ハムザに注がれていた時と同じ目つきのまま、全員がベルを見た。いち早く状況を理解したオッタルは、まるでリヴェリアがするように頭を抱えてため息を吐いた。
「え?あの…決闘の事ですか?」
きょとん、としたベルは上ずった、かすれた声を出す。
「はい、その決闘の事です」
リリはあの時の事を思い出しながら、説明を続けていった。
「ベル・クラネル様はハムザさまに変身したリリを打ち負かし、勝者の権利だと言って合計一億ヴァリスとアイズ様の剣を持って去りました。それから先の事は、リリには分かりません」
今や全員の視線はベルにへばりついていた。恨みの籠った目つきの強者達に囲まれて、またしてもベルはぶるっと身震いしてから内股になった。
「では、ベル・クラネル。済まないがそのお金は返してもらおう。そして、アイズの剣も」
フィンに凄まれたものの、ベルは慌てふためきながら釈明を始める。
「じ、実はっ…その、今日ダンジョンに潜る際に金庫に行ったんですけど…その、お金、盗まれちゃってて…!?」
いつの間にかハムザの傍からアイズの傍までじりじりとすり寄っていたレフィーヤが、大声を上げて非難した。
「盗まれたっ?私のお金をっ!?貴方、死ぬまで働いて返してください!」
「まぁ待て、レフィーヤ。彼に一億ヴァリスの返済は無理だろう。ベル・クラネル、この件は我々にも責任はある。だが君にもそうだ。遠征から帰ったら、一千万ヴァリスの返済計画を提出して貰う。それにしても一体どうして盗まれたんだい?」
娼婦に騙されて盗まれました、などとはとても説明できなかったベルは黙り込んだ。そんな様子にリリは出来るだけばれないように、こっそりとほくそ笑んだ。
(しめしめ。これであの一億ヴァリスはリリ達のものです。可哀相なベル様には、いくらかお金を上げて大きな貸しでも作っておきますか)
「言えないならそれでもいいけど、代わりに取立ては厳しくいくよ。それにどうして決闘なんかしようと思ったんだい?」
リリがフィンの質問に答える。
「アイズ様とセックスしたかったから、だそうですよ。私の前でそう仰っていました」
全員の視線には、今度は軽蔑の色が浮かび、ベルは逃げ出したくて堪らなくなった。ひそひそと声が聞こえてくる。
「情けない。正面から口説く勇気がないんだね」
「ねぇ、あの子おしっこ漏らしてない?」
「あ、ほんとだー。きっとミノタウロスの咆哮にやられたんだね」
「おい、あいつしょんべんちびりトマト野郎じゃねぇか?アイズが助けたって言う?」
「え…?私は、覚えてないよ…」
ベルは耳をふさいで、目を閉じた。死にたい。死にたい。死にたい。ただそれだけだった。オッタルは見ぬふりをして明後日の方向を向いているだけだった。
「ねぇ、その傷治してあげるよー!」
ティオネは回復薬を片手にハムザのもとへ近づき、怪我をした右肩の治療にあたった。リヴェリアが文句を言いたげな顔でその様子を見守っていたが、結局何も言わないことに決めたらしく、ただ顔をしかめていた。
文句は星の数ほどあるとは言え、一応は団員の命を救ったのだ。ここで文句を並べるのは、筋違いだとリヴェリアは判断していたようだった。
場に居合わせた団員たちは、ゆっくりと遠征へと意識を戻していた。随分変な状況に出くわしたが、自分達は今から遠征に向かうところだ。あまり道草を食っている場合ではないのではないかと、皆が考え始めたていた。
アイズはベルに冷たい表情で近づき、半ば強引にデスペレートをもぎ取った。その様子を見た、リリは、あることを思い出す。
(あ、返すと言えば)
懐から日記帳を取り出して、レフィーヤに押し付けて言う。
「この日記は、リリがレフィーヤ様のお部屋から情報収集のため盗み出した物です。お返しします」
何か言いかけたレフィーヤを遮り、リリは「もちろん、読んでません。ご心配なく」と嘘を吐いた。
実は昨日、三人で散々日記の内容をネタに笑い転げていたのだったが、哀れなレフィーヤをリリはどうにか救ってやりたかったのだ。
その瞬間、アイズが目を丸くしてひどく驚いていた。ハムザの物だと思っていた日記帳が、なんとレフィーヤの手元に納まったからだ。アイズは思わずレフィーヤに近づいて、他の団員に聞かれないようそっと耳うちした。
「それ…レフィーヤの、だったの?」
「えっ…!?あ、はい、そうですっ」
暫くアイズとはこんなに近い距離で会話をしていなかったレフィーヤは顔を赤らめて、嬉しそうにはにかみながらもじもじとした。
「そっか…勘違い、だったんだ」
そして同時に、目の前のエルフの少女に対する不思議な気持ちに、アイズは気が付いた。
「レフィーヤ、ごめんね。ひどいこと、言ったよね、許して…」
「えっ!?そんな、大丈夫ですっ!?アイズさん、そんな顔しないでくださいっ!」
日記の持ち主がハムザではなく、レフィーヤだったのならば…あの時自分が感じていた確信は、全く別の意味を持つ。ハムザは自分を愛しているのだと勘違いをしてしまったが、実際はレフィーヤだったのだ。
自分をあんなにも気にかけて、身を焼き尽くすかのような激情に悶え苦しんでいたのは、レフィーヤだったのだ。ハムザが自分を騙していたことなど気にもならなかった。この時、アイズは正確にハムザという人間を捉えたといえるかも知れない。
(多分、ハムザはえっちがしたかっただけ、なんだよね…)
うんうんと頷いて、アイズはもう一度目の前のレフィーヤを見た。
「ごめんね…」
アイズはレフィーヤを抱きしめた。すると、レフィーヤは再び目を潤ませて、ぐすんと鼻を鳴らした。
ぽろぽろと涙を流す彼女だったが、今度の涙は今までとは全く別の物だった。リヴェリアは二人の少女が仲睦まじい様子で何かを囁き合うのを遠くから眺めながら、やがてハムザに向き合って言った。
「お前があの子を誑かしたこと、とても許すわけにはいかん。だが、成り行きとはいえあの子を救ったことも事実だ。そのことについては、礼を言わねばならんな」
「成り行きなんかではない。俺は心から、人助けをすることに生きがいを感じているといえる」
「ハムザさま、嘘は良くないですよ」
「うるさい、嘘なんかではない。現にお前も助けてやっただろう」
すると厳しい顔つきのリヴェリアに、すっと僅かな笑みが宿った。
「どんな悪党にも、善の心は存在する、という訳だな。どうやら度量が狭いのは、私の方だったようだ」
大杖を両手で抱え、リヴェリアは回復薬を浴びせられて治りかけていた傷をこつんと杖で叩いた。
「どれ、私が癒してやろう」
リヴェリアがハムザの傷を魔法で癒している間、フィンを筆頭に幹部たちはハムザについての見解を話し合っていた。彼らが出した結論は、実に簡単なものだった。当事者のレフィーヤは全員から何度も謝罪されたこと、遠征への帯同を許可されたことにより、すっかり機嫌を直していた。特にアイズからの誤解が解け、彼女との距離がより縮まったと感じられたことも大きかった。そんな訳で、全てがレフィーヤに委ねられたのだ。
「それじゃあ…ファミリアに返済する一億ヴァリスは、少し猶予を下さい。遠征が終わったら、ハムザさんとベル・クラネルさんにしっかり返済をしてもらいます。それから、ハムザさんとのことについてですが…。本当に、許して貰えるのでしょうか?」
そう言ってレフィーヤはちらりとリヴェリアを見た。どうやら治療が終わったらしく、右肩をくるくると回すハムザから離れてこちらへ静かに歩いてきた。
「黒白とは光の見え方次第なのかも知れん。陽に当たった人物を正面から眺めれば明るく見えるが、背後から見れば影に目がいく。同時に物事も…私達の真上を太陽が往くこの世界では、時期によって明るくもなり、翳りもするということだ」
「えっと…」
半分も理解できなかったレフィーヤは、困ったように頬を華奢な指で掻いた。
「つまりだ、レフィーヤ。世の中には、私の知らぬことが沢山あり、私が悪と忌み嫌う物の中にも、見方によっては善になり得る物もある。そして残念なことに…私はレフィーヤがここ数日で体験したことに関しては、余りにも無知だ。冷静に考えれば、無知なる者が判断を強制することは、余りにも愚かしいことだと思われもする」
「レフィーヤ。私はお前を許すつもりだし、むしろお前に許してもらいたいと思っている。愚かな私の発言を、どうか水に流して欲しい。そして改めて、ファミリアの一員として大切にお前の面倒を見ると誓う。感情に任せた暴言の数々、本当に済まなかった」
リヴェリアの心からの謝罪に、レフィーヤはとんでもないですと言って慌てながら落ち着きを失くした。やんごとなき王族が下々の民に謝罪など、通常、あってはならないことなのだ。
「よしてくださいっ!リヴェリア様がそう仰るなら、私はこれ以上ハムザさんを罰するつもりはありません。結果的には、私にも色々良いことがありましたので、なかったことにしておきましょう」
「さて、と。そういうことなら、一件落着、ということで良いのかな?」
フィンは場を切り上げようと、団員達を見回した。最後にオッタルに合図を送るが、武人は黙して動かなかった。どうやら、謀はうまくいかなかったらしい。フィンからしてみれば、これ以上厄介ごとを背負う可能性が減っただけでも十分に喜ばしいことだった。
「とにかく、他にも色々あるかもしれないが、これ以上立ち止まっている訳にはいかない。テルクシノエ・ファミリアの君たちには悪いが、僕らはもう行かなければ」
「なぁに、お構いなくだ。自分の面倒は自分で見れるからな。ほれ、行った行った」
ハムザに対し、フィンは愉快だと言わんばかりの微笑みを向けてから、部隊に向けて声を張った。
「総員、全力でリヴィラを目指す。後発隊に追いつかれないよう、急いで向かうぞ!」
フィンの一声で、【ロキ・ファミリア】の団員は皆迷宮の暗闇へと駆け始めた。
「行こう、レフィーヤ?」
ハムザに後ろ髪を引かれていたレフィーヤを、アイズが前へと促した。そして、手を差し出してから言った。
「レフィーヤ…本当に、ごめん。これからは、絶対に、ずっと一緒だよね…?」
差し出された手をぎゅっと握り、目に涙を浮かべて、レフィーヤは大きく頷いた。
「はいっ!」
そして二人の背中は、一瞬のうちに見えなくなった。
【ロキ・ファミリア】の団員で最後までその場に残っていたのが、アマゾネスのティオナだった。彼女はハムザの手を取ってぶんぶんと握手して言う。
「ねぇ、キミすっごいねー!あたし、ティオナっていうの。よろしくね!」
豪快なまでに明るい笑顔を振りまいく彼女に対し、リリはじっとりと見つめながらハムザの袖をぎゅっと握りしめた。
「んん?あぁ、よろしく。それより、行かなくて良いのか?もう皆行ってしまったぞ」
期待の籠った目つきを隠しもせず、熱い視線を送りながらティオナはハムザの手を強く握りしめた。
「うん、大丈夫!私、こう見えても足はやいんだよー?ねぇねぇ、遠征から帰ってきたら、会えないかなぁ…?」
予想外の反応に、ハムザは思わず目尻を下げていやらしく笑った。
「おう、もちろんだ。君みたいな可愛い子だったら、何発でもイケるに違いない」
「ほんとーっ!?うっれしー!さっきの闘いみてさぁ、かっこいいなーって思ったんだよね~。じゃあ、これ貸してあげる!強くってもさ、武器がなかったら、危ないかもしれないもんねー?」
懐から短剣を取り出して、彼女はハムザにそれを手渡してからずいっと顔を寄せてきた。ふわっといい香りして、ハムザはさらにデレデレした。
「遠征から帰ってきたらさー、出来るだけ早く、返しに来てくれるかな?」
熱い眼差しをキラキラと輝かせ、ティオナは鼻先がぶつかり合う程の距離でそう言った。
「お、おう。もちろんだ。いの一番に、返しにいくとしよう」
「ふふ。やったー。ありがと!」
そう言ってから、ティオナは笑顔でハムザの口に軽くキスをして、去っていった。
彼女の駆ける音は、すぐに聞こえなくなった。迷宮の広間に取り残されたハムザが、ぽつりと呟いた。
「…アマゾネスも、悪くないな」
「ハムザさま、鼻の下が伸びていますよ。だらしないったらありません」
二人は呆然と立ち尽くし、流れについていくことが出来ずに取り残されていたベルとオッタルに別れを告げ、そそくさと帰路に着いた。
暫くの間、まるで忘れ去られた銅像のように立ち尽くしていた二人だったが、やがて武人が重々しくベルに告げた。
「…帰るぞ、ベル・クラネル」
「あ、はい…」
二人の背中からは、物寂しくまるで覇気を感じられない。悲しげな目つきで、ベルは呟いた。
「あの…オッタルさん。僕、しばらく休みます。あのミノタウロスを倒しちゃうハムザさんと戦っても、絶対に勝ち目がないですし…。それに何ていうか、何故か借金も増えた上、決闘で倒したのは別人でしたから…なんていうか、ちょっとやる気がなくなって」
オッタルは無言だった。武人は激しい落胆を感じており、気まぐれな運命に振り回され疲れきっていた。そして、臆病であまりに覇気のない目の前の小さな冒険者にも、うんざりしていた。もし、今ここで怪物が大量に生まれ落ちてくれたら…女神への謝罪も込めて、絶対に彼を置き去りにしたことだろう。だが、結局一匹も怪物は生まれ落ちてはこなかった。
「…どうしてこう、上手くいかないんでしょうか…」
ベルはとぼとぼとオッタルの後ろを歩きながら、独り言のように言った。
「…叫びたければ、叫んでも良い」
武人の優しさに、ベルは大声で泣き始めた。ダンジョンに、少年の嗚咽だけが響く。
「ちくしょうっ!覚えてろ!呪ってやる、ぜったいに呪ってやるぞ!!」