fantôme de l'Opéra 出会い 作:木桜 春雨
どうする、ナーデイル・カーンは彼女に会いたいという。
正直なところ、今になって後悔していた、自分が一人ではなく女性と暮らしていることを話さなければよかったと。
だが、秘密というものはいつかはばれてしまうものだ、それにずっと隠し通す事は無理だと今までの経験からわかっていた。
自分が幽霊として、このオペラ座に住むようになって、クリステイーナと出会って、隠し通そうと思ったものはものは徐々に薄紙を剥がすように露わになってしまったからだ。
クリスティーナ、彼女が幼なじみのラウルとの結婚を今になって躊躇っているのは驚きだった。
シャニュイ家の財政が逼迫していること、兄のフィリップが貴族間のもめ事、横領に関与していたことが世間の知ることとなって、今や世間は二人の兄弟に向ける視線は冷たいものになっている。
そしてクリスティーナは躊躇っている、無理もない。
もしかしたら自分の元に戻って来るかもしれない、そんな事を考えたがラウルに対する冷たい態度を知った今、素直に喜ぶことも受け入れることもできないと思っていた。
所詮、女という生き物はと思う、ペルシャにいた頃の皇后の残酷さを思い出すと身勝手で残酷な生き物だ。
だが、それでも。
今、自分のしていること似意味があるのだろうかと思い仮面の男は部屋を出るとオペラ座の地下に向かった。
自分の住んでいる場所から少し離れた洞窟の一部、物置代わりに使っていた部屋の前まで来ると男はドアをノックしてしばし待った。
足音がして部屋のドアが開くと同時に、お帰りなさいと迎え入れる声に安堵した。
「気分はどうだい」
「とてもいいわ、それよりどうしたの、今日は来ないと思っていたわ」
「話があってね、実は私の友人が君に会いたいといいうんだ」
遠回しに言ったところで結局は同じ事だと思い、自分が君の世話をしていることに対して不思議に思って君から、本人の口から話を聞きたいと思っている、この言葉に女は確かにと頷きながら会っても構わないわと仮面の男をみた。
「あたしを不審者だと思っているんでしょう」
「そういうわけではない、だだ、君は外国人だから気になるんだろう、それに、彼の場合、職業病のようなものだ」
「職業病って」
「彼はペルシャで警察つとめをしていたんだ」
その言葉に女の表情がわずかに強ばった。
「もし、怪しい人間だと思ったら牢屋に、バスティーシュとかに入れられるの」
その言葉に仮面の男は首を振った、とんでもないといいたげに。
「何故、君を」
「最初に言ったでしょう、自分の事を覚えていないって、それに外国人だから怪しいと思われたら言い訳や弁解しても無理だと」
そんな人間ではないと男は首を振った。
女はわずかに俯くと人を疑ってばかりというのも駄目ねと自嘲気味に笑いながら床に腰を下ろした。
「あなたは、私のことを怪しいとか、魔女じゃないかって思わないの」
男は何故と驚いて尋ねた。
「パリに外国人は多くはないんでしょう、怪しいと思ったら魔女裁判で絞首刑とか聞いた事があるし」
「昔はあったかもしれないが、勿論、今だって全然とは言いきれないかもしれないが、そんなことを何故」
男は、ゆっくりと女の隣に腰を下ろした。
「記憶がないというのは嘘じゃないけど少しは覚えているの、パリのオペラ座は有名な場所で、寺院や教会は沢山あって、芸術家達は道端で絵を描いて、芸術の街と言われてるのに町中でジプシーが踊ったりするのはいけないとか」
男は黙って聞いていた、だが知りたいのはそんな事ではなかった。
自分が知りたいのは女自身のことだ。
「名前は、君自身の名前は思い出せないのか、どこに住んでいたかとか、家族や友人、知り合いとか」
女は肩をすくめた。
「でも、思い出せそうな気がするの、凄く変な言い方かもしれないけど、おかしいと思う」
「いいや、それに助けるよ」
その言葉に女は少し考え込むような表情になり、次の瞬間笑った。
「駄目、もし面倒に巻き込まれて困ったとしても助けないで」
男は答えず、片手をゆっくりと女の背中に回し、それはできないと、私にはできないと答えた。
「ムッシュウ」
男は首を振り、エリックだと答えた。
クリスティーナは以前、自分の事を音楽の天使と呼び、今は先生と呼ぶようになった、だが、この女は弟子ではない。
プリマドンナとして舞台に立ちたいと望んでいるわけではない。
女の肩に触れた手から指の先から、この半月あまり、押さえていたものが、溢れ出しそうだった、自分の名前さえ忘れてしまった記憶のない女の存在に気持ちだけでなく。
肩が、指先が、緊張の為なのか震えてしまう、だが、どうしても止められなかった。
今まで、何度か、その衝動を押さえてきたが、ずっとこのままと言うわけにはいかない。
ナーデイル・カーンに会わせるまでに決定的な答えを出しておく必要がある、その為には今のままでは曖昧なままでは駄目だと思っていた。
「私は紳士的に振る舞っているつもりだ、君に対して」
女は頷いた。
「寝る場所や食事も提供してくれて本当にありがたいと思っているわ、無一文同然の人間に感謝しているの」
そういう言い方は心外だと男は言葉に詰まった。
自分の行為は善意からのものだと言われているような気分になったからだ、そんな人間ではないのに。
「少し迷っているんだ、君と私がどういう関係かと聞かれたら、なんと言って説明すればいいか」
「同居人は無理よね、下働きと言っても外国人の労働者やメイドなんて
不審に思われるでしょうし、その人はいつ、ここへ来るの」
「一週間ほどしたらまた来ると言っていたが」
女の表情に感じたのは不安だった。
ここを出て行くのではないだろうか、だが聞くことができない。
「あなたに、お礼をしないと」
女の顔が自分に向けられ、手が、指が仮面に触れた。
望んでいたことだというのに、男は慌てて肩に回した手を離すと、やめてくれと拒絶した。
「どうして、ムッシュウ」
「欲しいものは、そんなものではない、代償とかではなく」
情けないと思いながらも縋ってしまう、なんてあきらめが悪いのだろうと思わずにはいられなかった。
「オペラ座の怪人、あなたでしょう」
「ああ、知っていたのか」
「仮面をつけた幽霊、その素顔は化け物みたいだって噂を聞いた事があるから」
男は何も言わず仮面をゆっくりと自らの手ではずした、女が逃げるなら、この場で首を締めて殺してしまえばいい、だが、その前に支払ってもらう、代償を。
そして、待っているのは。
女の手が自分の頬を、盛り上がった頬の肉、歪んだ唇、いびつな目元を撫でながら、両手を自分の体に回してきた。
空気が、部屋の中が暑い、いや、自分の体が熱いのだ。
乳房を、腰を、柔らかな肌と肉を感じながら、素顔と自分の体を押しつけて、言葉を発する事もできずにいた。
ただ、欲望と本能のままにだ。
行為が終わると床に寝ころんだまま、身動き一つせず女が疲れて乾いた声で尋ねたが、何を言ったのか。
「ここに居てくれ、君の望み、欲しいものをいってくれ、できることは叶える、わたしにできることは、お願いだ」
かすれた女の声になんだってと男は尋ねた、聞き取れなかったのだ。
何をとだすねると今度は聞こえた、その言葉に頷き、女の体を抱き上げた男は部屋の隅のベッドまで運ぶと女の体を横たえた。
「凄く疲れるものなのね」
その言葉に男と寝たことがないのだろうか、いや、あったしても、どうだというのだろう。
何も言わずに男は顔を近づけ、初めて女の唇に触れた。
行為の間というもの、獣のように体に触れておきながら、キスをしていない事に気づいたからだ。
「愛している」
女は拒絶しなかった。